侍女と悪役令嬢の邂逅 〜躍動〜
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、リオ。初日は晴れてなによりだわ」
清々しい、爽やかに晴れた七年前の朝。
この日はお嬢様の「お願い」を聞くため、つまりは戦い方を教えるとの約束を初めて果たす日だった。
半ば強制的に結ばされてしまったこの約束だが、一晩過ごした今ならそれも悪く無いと思える。
昨日のように暗殺者が送られてきて、もし私がお嬢様の元にいられないことがあったときは、お嬢様も自分の身を守る術を持っていただいている方が私も安心できるというものだ。
もちろん、私がお嬢様が敵に気付く前に始末しておくことは大前提ではあるが、それでも安心材料は多い方が良いことに変わりはない。
まぁ、そういった諸々の事情もあるが、その中でもこの少女と話せるというのは、私にとって楽しみであった。
お嬢様を一目見たあの夜から、私はずっとこの人に心惹かれていたのだ。
でなくては、危ない橋を渡ってまでこんな場所にはいない。
罪悪感やメイドとの約束もあるが、嫌いな人にまで進んで、ここまですることは出来ない。
私はあの夜、確かに彼女の魅入られたのだ。
「リオ?」
「あっ、と。すみません」
私はこれからのことを考えて、ぼうっとしてしまったが、お嬢様に呼びかけられて我に返った。
お嬢様の普段は揺るがない瞳に少しの期待を含ませて、こちらをジッと見つめていらっしゃる。
私は惚けていたことに一言謝ってから、昨晩練りに練ったメニューを説明した。
私自身がやる時には特に何かを決めていたわけではなく、適当に気分でやっていたものだが、それを流石にお嬢様にやらせるわけにはいかない。
私のしていることは常人からしてみれば大分ハードなことだと分かっているし、お嬢様にはやるからには着実にうまくなっていただきたい。
ということで、私なりに一生懸命に考えてきたのだった。
「とりあえずは、お嬢様の実力を拝見させていただこうかと」
そして考えたのが、まずはどこまでやって良いものか判断するために、テストすることだった。
お嬢様の潜在能力は十分だとは思っているが、まずは今の実力のほど把握しないことにはこれからの目標が決めづらい。
よって、この話を持ちかけたのだった。
私が理由を踏まえながら提案すると、お嬢様は意外にもアッサリと頷いた。
普通の令嬢なら……と思わず考えてしまうが、お嬢様が普通の令嬢とは一味も二味も違うことは既に感じ取っていたことだった。
なんだ今更か、と思い直すと、私はお嬢様と距離をとった。
それを見たお嬢様も訓練用の剣を正眼に構える。
思っていたよりも綺麗な姿勢だ。
少々固めなのは否めないが、想像していたよりもずっといい。
私はお嬢様に先手を譲った。
私から打ち込んでは試す意味があまりない。
私が攻撃するのはお嬢様の実力を見極めた後。
でなくては、手加減できない。
そこらへんの事情もお嬢様も理解しているのか、遠慮なく先手を取るべくこちらへ駆け出してきた。
まずは直線的な単調な動き。
でも早さもそこそこあるし、踏み込みも力強く、そこには才能の片鱗を伺えた。
これはなかなか見込みがある。
私が驚いていると、お嬢様は真正面から打ち込んできた。
避けることも出来るが、あえて受け止めてみる。
七歳の少女にしてはかなり重い攻撃だ。
平気で大人の男とやりやっていた私からしたら、大したものではないが、同世代にはありえないほどの実力。
お嬢様は経験さえ積めば、かなりの化け物になれる。そう確信させるほどだ。
「お嬢様、素晴らしいですね。想像以上の才能です」
「簡単に受け止めておいて何を。結構、自信あったのに」
「私はちょっと壊れてますからね。気にしないでください。でも、これなら、少しやれば簡単に少し上の年齢の方々にも勝てると思いますよっ!」
私は目にした自分以上の才能に少々興奮しながら、お嬢様の剣を振り払った。
お嬢様はそれで、僅かにバランスを崩すものの、素早くバランスを取り直して、私に再度攻撃を仕掛けようとする。
そこには、いつもの無気力さや適当さはない。
真剣に剣術に取り組もうとする姿勢が見えた。
なのに、いや、だからこそというべきか。
お嬢様はもう一度振り上げた剣を、不意にピタリと止めてしまった。
その視線は一点を見つめて、動かない。
何かに気がついたように、ただ目を軽く見開いていらっしゃった。
「お嬢様?」
「……これ」
私が首をかしげると、お嬢様は剣を下ろし、その場に放り投げた。
代わりに、私の手首をパシリと掴むと、私の目の前へと突き出してくる。
私はとっさのことに状況が理解できなかったが、次のお嬢様の言葉でようやく気がついた。
「この、左手の傷。昨日は無かったわよね。どこで?」
「えっ? それは……ちょっと、転んじゃいまして」
我ながら苦しい言い訳だ、と思いながらも嘘をつき続けるために、笑顔を浮かべた。
よもや、お嬢様を狙う暗殺者と戦った時についた傷ですなどと言えるはずもない。
いつもはすぐに治ってしまうせいで怪我の処置などしたことが無かったが、今回は毒のせいで怪我の治りが遅れていたのだった。
包帯を巻いておけばよかったなと今更ながら後悔するが、もう遅い。
お嬢様は私の言葉に、目をほんの少し細めた。
表情の変化は少なかったが、なんとなく睨もうとしている、というのは今までの言葉で推測出来た。
お嬢様は語気を強めて私を更に問いただす。
「へぇ。そんな訳はないと思うのだけど。転んで、こんな切り傷ができる訳がないじゃない」
「それは……下に鋭いものが落ちていたものですから。でも、大丈夫ですよ」
尚も私はヘラヘラと誤魔化し笑いを浮かべ続ける。
苦しいが、ここで意見を翻そうものなら、逆に怪しまれてしまうだけだ。
どんなに苦しくてもしらばっくれるのが多分、最良のはず。
だが、かえってお嬢様は私の言葉に隙を見つけたと言わんばかりに、目を光らせて更に言い募った。
「この紫色に変色している部分だけど、見覚えがある。そう、あのウェンデブルで。リリィの手の甲についていた傷に似ている。でも、ヘラヘラできているあたり、リリィと同じ遅効性なのか、それとも弱いのか。でも、間違いなく毒ね。あれから調べたもの。毒を含んだものがそうそう落ちているとも思えないわ。言い逃れは出来ないわよ」
「ううっ」
全く。どんな欲深く気持ち悪い目にも、どんな狂って淀んだ目にも、嘘をつき続けることは簡単なのに。
どうして、この少女のオレンジ色の瞳の前には弱くなってしまうのか。
私はそこで言葉に詰まってしまった。
これで誤魔化しは効かなくなった。
お嬢様はハァと息を吐き出す。
呆れているのだ、というのは容易に想像できる。
短い時間ではあるが、だんだんとこの少女の考えることがわかってきたような気がするのだ。
同じ「異常」を抱えているからだろうか。
彼女は十歳とは思えない振る舞いで、私の手を引いた。
「こっちへ来て。取り敢えず治療しましょう。話はそれからよ」
「でも……」
「なに、何か文句でも?」
「いえ。ただ、お嬢様はいつも平民に優しいから、ご家族に非難されていらっしゃるのでしょう? もちろん伯爵家でのこともあるでしょうけど。なのに、こんなことをしていたら、また」
失礼な言葉だ、とは自分でもわかっている。
仮にもこの家の主を、その娘の前でそんなことを言うのは本来、許されないことだ。
でも、お嬢様なら大丈夫。その確信をこの短い時間で抱いていた。
これは、この方はそんなことに頓着する方ではない、という前提の質問でもあるのだ。
お嬢様は私の手の甲をジッと見つめてから、それを質問で返した。
「その前に、あなた……平然としているということは、この毒は命には関わらないのね?」
「はい。本当に大したものじゃありませんから。……あまり強いものでは無かった上に、掠っただけですから、特に影響はないです」
正確には効かないだけだが、それをここで言う必要はない。
お嬢様にも安心していただきたいし、毒に蝕まれてはいないという事実だけを伝えた。
それを聞くと、お嬢様は少し歩調を緩めた。
それから、主従関係にはあるまじき距離……つまり、私の横へと並んだ。
私は咄嗟に下がろうとしたが、お嬢様に腕を掴まれていては、それも叶わない。
私はお嬢様がこの距離を望んでいるのだと、なんとなく察して、お嬢様の隣に並び続けた。
事実、それについてお嬢様が触れることはない。
代わりに、淡々とした口調で、お嬢様は私の質問に答えた。
「じゃあ、答えてあげる。大したことではないけど」
「はい」
「あれを正しいとは思わないから、ね」
「なにを、ですか?」
私は薄々勘付いてはいたものの、確認の意味も含めて聞き返した。
お嬢様は相変わらず無表情のまま、断言する。
「もちろん、お父様やお母様、お兄様の領民に対する態度がよ」
もしかしたら、彼らに聞かれてしまうかもしれない。
屋敷の中に入ったというのに、そんな危惧はこの少女には微塵もないようだった。
むしろ聴きたいなら聞けばいいじゃないと言わんばかりに、堂々と告げる。
「あれは一つの貴族としての正しい態度なのかもしれない。もしかしたら、世間一般にしてみれば当然なことなのかもしれない。けれど、私はあれが良いことだとは思わない。私たちは同じ人間だもの。価値に上下があるはずがないわ。そう思っただけよ」
「つまり、自分の意思を貫きたい為に、あの理不尽にも耐えると?」
「まさか。そんな大層なものじゃないわ。言うならば、意地、かしら」
やがて、お嬢様の部屋の前につく。
私はお嬢様に促されて、部屋の中へと入った。
ここまでくれば、昨日のような緊張はない。
私たちは椅子に座り、自然と向かい合う形で話していた。
その間の小さな机の上には救急箱。
治療は自分でやると言い張ったのだが、最終的にはお嬢様に「お願い」されて、お嬢様から治療を受けることになった。
お嬢様は昨日の交渉からもわかるように、結構頑固な方だ。
それは彼女自身、自覚があるのか、「意地」との自分の言葉に軽く肩を竦めた。
「私はね。あの人たちには負けたくないの」
お嬢様はそう言った。その雰囲気がサッと変わる。
それはあの夜、三年前のウェンデブル家で見た姿と重なった。
茶髪の少女を撫で、こちらを振り返った、あの時の少女の姿に。
私は思わず息を呑んだ。
あの時。この人は間違いなく、あの時に一歩踏み出した少女なのだ。
「暴力とか権力とかより、もっと美しいものが、強いものがあることを私は知っている。だから、屈したくはない。私を守ろうとして死んでいった者たちのためにも。あの人たちと同じ、奪う側には回りたくはない、と私は思うの」
「そう……ですか」
お嬢様は私があのウェンデブルで起こったことを詳しくは知らないと思っている。
でなくては、こんなに淡々と話したり、わかる人にしかわからない核心めいたことを話したりはしないだろう。
だが、私はあの事件の真相を知っている。
その側にしっかりと居合わせたのだ。
メイドの思いも、お嬢様のその意思の強さも、私は知っている。
だから、その言葉は重たく、私にのし掛かった。
この方は、やっぱり強い。そして、美しい。
そう思うと同時に、私は無性に泣きたくなった。
こんなの、間違っている。十歳の少女が背負うべき重さではない。
あんなに辛い環境にいたのにもかかわらず、私のように穢れたりはせず、気高くあり続ける。
それは凄く難しく、常人には出来ないことだ。
大抵の人は闇に落ちてしまう。泣き叫び、運命を呪うに違いないのだ。
きっとお嬢様だって、大丈夫ではないのだろう。
お嬢様は少し触れようものなら、すぐに壊れてしまいそうなほどギリギリなところにいる。
だから、お嬢様の存在は今にも消えてしまいそうなほど、儚いのだ。
「お嬢様」
「なに?」
お嬢様は私の手に消毒を施すと、包帯を巻きつけた。
わずかに触れる手は冷たい無表情な顔とは正反対に温かみを帯びている。
これが、この人の真髄。私の魅入られた所以なのだ。
たまらず声をかけてみれば、お嬢様は手を止めて、私を見上げた。
そこにはいつもと変わらぬ表情があるだけだったが、私にはそれがいつもと少し違って見えた。
この無表情はきっと、お嬢様が笑顔を忘れてしまった故のものではないのだ。
きっと、あまりにも多くの感情を抱えてしまったが為の、全てが入り混じった結果なのだ。
だから、私はお嬢様の止まった手を握り返した。
「私、しばらくあなたの側にいてもいいですか」
お嬢様を、今にもどこかへ行ってしまいそうな少女を、この場に繋ぎとめて置きたくなった。
例え、邪魔だと思われても、拒否されようと構わない。
本当のことを全て知って、私を憎もうが、それでも良い。
私はこの人を守りたい。約束なんて、罪なんて、そんなものなかったとしても。
それでも、私という一人の人間として、彼女に仕えたい。
その瞬間、そう強く思い、望んだ。
お嬢様は僅かに目を瞬かせたが、その後には私の手を握り返してくれた。
それから、コクリと頷いた。
「ええ。構わないわ。何と言っても、もうあなたは私の侍女だもの。私のものだわ」
お嬢様はそして、少し。微笑んだような気がした。
「それからなんですよ。私が、なにも考えないまま、貴女に仕えたいと、守りたいと思ったのは」
「そうだったの。そういえば、そんなこともあったわね」
私たちは今。稽古場の端に置かれたベンチで、隣り合って座っていた。
七年前、向かい合っていたように、同じ距離で今は隣にいる。
肩にかかる軽い重さは、今でも変わらず尊いまま。
いや、この数年で増したと言っても過言ではない。
誰もいない、静かな初夏の昼は私たち二人だけの空間だった。
私はウェンデブルの夜のことは話していない。
毒に侵されたのが暗殺者のせいだとも。
秘密は多かったが、静かに語り合うのは、これはこれで居心地が良かった。
こうしていると、大切なことが話せていない罪悪感も次第に薄らいでいくような気がする。
このままではいけないと分かってはいるけれど、今はもう少し、このままでいさせて欲しかった。
刹那の温かさをこの手の中に収めておきたかった。
「リオ。私ね、この学園に来れて良かった」
お嬢様はふとそんなことを言った。
お嬢様は目を閉じながら、私に肩を預けてくる。
その表情には幸せを感じているというのが、滲み出ていた。
もちろん、私にしか気がつけない変化だが、それでも確かなものだ。
お嬢様は嬉しそうな声音でそれを語った。
「初めはいろんなことから逃げたかった故の選択肢だったけれど、いろんなことを学ぶことが出来たわ。リオ、貴女がいる当たり前の幸せもね」
「光栄です、お嬢様。私も、この学園に来て、色々我が身を振り返ることが出来ました。お嬢様が変わられたのも、ここへ来たお陰ですね」
「私は、変わった?」
「ええ。あの時より、ずっとここにいる、生きているっている感じがします。お嬢様自身は気づいておられなかったかもしれませんが、あの時の貴女は今にも消えてしまいそうだった。私はそれがどうしようもなく、怖かったんです」
だから、お嬢様にすがろうとして、あんなことを言ってしまったのです。
なんてところまでは口に出さなかったが、それが七年前に感じた思いだった。
決して今でも忘れられそうもない、ずっと心の底で感じていながらも、抑えていた思い。
私はそれをお嬢様に今、伝えていた。
お嬢様が変わられた今なら、もう大丈夫だと思えたから。
過去の影はまだ付き纏うことを止めないだろうけど、お嬢様はまだもう少しここにいてくれる。
初めての喧嘩を終えた今ならその確信を得られたのだ。
「でも、それなら今は逆なのかもしれないわね」
「えっ?」
だが、お嬢様はそんなことを呟いた。
私はその意図がつかめずに、声を上げて聞き返す。
お嬢様はいつの間にか、こちらを見据えていた。
「リオ、今はいつか消えてしまいそうなんだもの。領地にいた頃はそんなもの、全然感じ取れなかったのに。貴女だけは側にいてくれるって、漠然と信じ込んでいたのに、今はそれが出来ない。最近、時々怖くなるのよ。貴女はなにも言わずに私の元を去ってしまう。何者かわからないもの殺されてしまう。そんな白昼夢を見るの」
お嬢様の身体が震えた。
不安。
それが言葉から、触れ合う肩から痛いほどに伝わってくる。
「ねぇ、どうして? 貴女はどこに行こうとしているの? 私の側にいてくれるって、言ったわよね。私が望む限り、ずっとって。それでも、安心できないのは何故?」
「……それは」
私が嘘をついているから。私はつい最近、一つの決心をしたから。
私は胸中で答えてみせるものの、口を開いて、それを言葉に変えることはどうしてもできなかった。
まだ、その時ではない。それをちゃんと知っているし、やらなければいけないことが残されているから、真実も決意も、なにも告げられないのだ。
不安に思うお嬢様には酷な事ではあるけれど、今は時間が必要だ。
「お嬢様、それはちゃんといずれ」
「嫌よ。何も言わないのは。貴女には私に永久の騎士できようと、結婚しようと、側に居て欲しいの。我儘だとは思うけど、それが私の望みだから」
「お嬢様」
こんな事を言われて、否といえるだろうか。頷けぬなんてこと、あろうはずもない。
いつも強いと思い続けていた彼女が、私の存在一つでこんなに心を揺らがせるのだ。
ただの侍女でしかない私に懇願までするのだ。
無理だ。断る事が出来るはずがない。目の前の少女を傷つける事など出来ない。
「います。いますよ。ここに」
例え、それが気休めにしかならなくても、私はそう答える。
非情に伸ばされた手を振り払うなんて無理だ。
私の人生でこれほど求められたのは、お嬢様だけなのだ。
だから、やっぱりお嬢様には幸せに生きて欲しい。
「私はお嬢様を守るために存在しているのですから」
「リオ……」
私の方が少し背が高いために、お嬢様はこちらを見上げる形になる。
瞳から伺える不安は完全にはぬぐいきれていなかったが、それでも少しは安心してくれたのだとわかる。
お嬢様はスッとこれまでの表情をゼロに返すと、目尻を僅かに下げた。
「まるで永久の騎士のような言葉ね。本当に、貴女を永久の騎士にできたらいいのに」
「なりましょうか? 非公認ですが」
「それもいいわね。騎士さん」
冗談めかして返してみれば、お嬢様からも冗談がかえってきた。
そうして、いつも通りの関係に戻れる。
こんなに重い話をしたのはいつぶりだろう。
私たちはずっと主従関係にありながらも、本当はこんなに気軽な関係だったのだ。
その空気といえば、なんと楽で落ち着くことか。
ここ一ヶ月半ほどの溜め込んでいた感情も吹き飛んでいく気分だった。
「さて、ですが」
私はそこで、話題を変えてみることにした。
このまま同じ話をするのは私にとっても、お嬢様にとっても辛い。
冗談も出たところだし、お嬢様もきっとそれを望んでいるのだ。
私はなんとなくと言った様子で、話を切り替えた。
「お嬢様。そういえば、テストはどうなされたのです?」
「ああ。あれね。適当に済ましたわよ。魔法で器用なことをするのは苦手だし」
「適当……それでいいんですか?」
「まぁ、どうにかなるわよ。パティ先生はお堅い話をしていたけれど、私はあんまりそっちには足を突っ込みたくないわ。というか、お父様達が関わることを許してくれないでしょうね」
「確かに」
言われてみれば、お嬢様をご主人様が政治関係に関わらせるわけがないと思い至る。
あの人はお嬢様を道具としか思っていない人である。
余計なことをするなと言わんばかりに、お嬢様を政治から遠ざけようとするに違いない。
現在もお嬢様が家の権力をちょっと使おうとするだけで、煩い手紙を送りつけてくる。
私的にはお嬢様を関わらせたら、ルルーシュ家はもっと大きくなるような気もするのだが。
でも、確かに関わらせない方がお嬢様は安全だ。
ただでさえクレア様とのこともあるのに、汚職にまみれた汚い世界などお嬢様が触れなくていい世界だ。
お嬢様も賢いので、諸々の事情には気づいているに違いないが、知らないふりをするのがやっぱり最善だと思われる。
「それより、今度の休日のことだけど」
「はい。クレア様達とのお茶会ですか?」
「いつもはそうしているけれど、違うわ」
「何か、他のご予定でも?」
「ええ。ある人に借りを作ってしまったから、そのお返し」
ある人。
いつも打算的に物事を考えるお嬢様にそんなものを背負わせる人とは誰だろう。
私は思わず首をかしげた。
お嬢様が私以外の手を借りるということも珍しいが、相手は一体。
お嬢様は言いにくそうに、そこで数瞬のタメを作った。
「それがね、殿下よ」
「ルクス王子ですか? それは……ああ」
殿下なら納得だ。立場的に上だし、私とアックス様が覗いていたあの会話がそうなのだとしたら、ますます合点がいく。
まさか、殿下からその代償を要求したわけではないだろうが、お嬢様も義理堅いお方であるから、そういうことなのだろう。
「付き合ってくれるわね?」
「もちろん構いませんが。何をなさるおつもりで?」
「街へ出かけるそうよ。デートみたいなものだ、とあのお方はおっしゃっていたけど、義務的に過ごすつもり」
「なるほど」
相変わらず、殿下は哀れなお方だ。
こうもハッキリ義務的と言われると、本人としてはかなり辛いだろうに、折れないあたりはやはり本気なのだろう。
少し前まで、同じ状況だっただけに、同情は以前よりも強い。
殿下の精神力は相当なものだと感心させられるくらいだ。
私なら、あんな態度を取られ続けたら、そのうち倒れてしまうかもしれない。
「さて。ということで護衛も兼ねて、お付き合いよろしくね。騎士さん?」
「喜んで、姫君」
私は差し出されたお嬢様の手を取る。そして、私たちの今の居場所、寮へと向かった。
こうして、長く続いた喧嘩は収束し、私たちは新しい一歩を歩き出した。
もちろん、影が全て払拭されたわけではないけれど、ひと段落ついた形だ。
とりあえずは、元どおりの……いや、さらに深まった関係でこれからの厳しい夏を迎える。
そっと空を仰ぎ見てみれば、眩しい太陽が私たちを見下ろし、周囲を輝かせていた。
お嬢様の真紅の髪もこの日の記憶と共に、私の目に鮮やかに焼きついていた。




