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侍女と悪役令嬢の邂逅 〜始動〜

今回、残酷な描写を含みます。

苦手な方はご注意ください。

お嬢様と初めてお会いしたのは今から十年も前。

月明かりの眩しい、手先が凍りそうなほど寒い夜のことだった。

場所は森の中にそびえ立つ大きな屋敷。

そのとある貴族の屋敷にて、「私たち」は「依頼」を受けて、その周囲を取り囲んでいた。

「私たち」の人数は三十人ほど。

それぞれの班に分かれて、木々の間に身を潜めている。

屋敷ではまだそのことに気がついたものはおらず、華やかな音楽が流れ出していた。

今頃は「目標(ターゲット)」たちも、優雅なパーティーを楽しんでいるのだろう。

時々、その合間に歓声も聞こえた。


全く。今日がお前たちの命日になることも知らずに、呑気なものだ。


私は岩の上に腰掛けながらため息をつく。手にはタガーナイフ。

服はいわゆる、今のようなヒラヒラした格好でなく、少年のそれだった。

髪も短く、その上にフードを目深にかぶっているため、今の格好とは似つかない。

が、動きやすく、隠密性に特化したその格好が私の当時の仕事着だった。


ため息をつくと同時に、口からは白い靄が立ち昇った。

手先は冷たく、本当に凍えるような寒さだ。

私はじっくりと合図を出す時を見計らいながらも、早くこの仕事を終えて、暖かい部屋で休みたいという衝動に駆られる。

それは、私の部下も同じようで、すぐ近くにいた同じくフードを目深にかぶった青年が文句を言いだした。


「リーダー、まだっすか? 俺、もうそろそろ限界なんすけど」

「まだだ。僕も気持ちは分からなくはねぇが、作戦にはタイミングが重要なんだよ。相手にはそれなりの手の奴もいるらしい。もうちょい待て」


そう、今回の任務では「目標(ターゲット)」を守る優秀な護衛が何人かいるらしいと聞いている。

なので、微妙な時間に攻め込むと、そいつらに守られながら森の中に逃げられてしまう可能性もあるのだ。

もちろん、時間をかければそいつらも仕留めることもできそうだが、その分厄介になる。

そんな手間をかけない為にも、今回はもう少し待つ必要があった。

だが、バカなこいつはそんなことにも気がつけないようで、それでも文句を止めない。

唇を尖らせて、再びブーブー言いだした。


「そんなん、運っすよ。運。その時にだって百パーセント成功するわけじゃないっしょ。ただ確率が高いってぇだけで。だったら、今攻め込んじゃいましょうや。そう大して変わるもんでもなしに」

「バカか。命令だぞ」

「命令、ねぇ」


ガキが何言ってんだか。


彼の口から零れた小さな声を私は聞き逃さなかった。

だが、イラっとするのも労力の無駄なので、聞こえなかったふりをする。

代わりに、勝手な行動をとらせない為に、脅しをかけておくことにした。


「後で上から『罰』を与えられることになるのはお前だ。僕は知らねぇよ?」

「……へいへい。わかってるっすよ。銀狼さん」


青年は「上」のことを持ち出すと、最終的には渋々ながらも命令に従った。

うちが規律に厳しいことくらいはバカなあいつでも知っているからだろう。

本当に、これだから荒くれ者の下っ端は困る。


私はあきれ返りながらも、それでも半分は自分のせいであることはわかっていた。

なんせ、私は当時七歳。

口だけは一丁前だったが、体はどう見てもガキにしか見えなかった。

その為、私は舐められやすい。

幾ら実力主義な組織とはいえ、私の年齢でこの地位につくのはまずありえないことだった。

部下たちが従いたがらないのも、年下……しかも、ガキとあらば頷ける話だ。

私だって、正直似合わないと思っていた。


だから、当時の私は舐められない為にもそれ相応の努力はしていた。

例えば一人称。

子供というだけでも舐められやすいのに、「私」などといえばどれほど舐められるかわかったもんじゃない。

規律の乱れは、結果として生死にも関わってくる。

当時、それほど生きることを強く望んでいたわけでもないが、それが人として当然のことなくらいは理解していたつもりだった。


「さて、頃合いか」


私はしばらくナイフを弄んでいたが、月が高く上がったことを確認して、そう判断する。

部下たちが私の言葉に「やっとか」という反応を見せ、にわかに興奮し出した。

流石は裏世界の住人。血気盛んな者たちが多い。


私は風魔法を周辺に散らすと、声が届くようにした。

それから、合図を出す。


「一斑八名、二班八名は大広間を襲撃。三班四名は他にいないか出口周辺を警戒。見つけ次第、殺せ。わかったな」

「了解」

「よし、かかれ」


合図とともに、合計二十名が一気に屋敷へ向けて駆け出した。

足音を立てず、気配を消しながら急接近してゆく。


因みに私の班は三班。

普通、リーダーならばメインである大広間襲撃に加わるはずだが、そこは遠慮しておいた。

私はただでさえ信用ならない者として扱われているのに、そこで彼らの手柄を横取りしよう者なら不満が爆発しかねない。

なので、ここは譲るべきだと判断したのだ。

別に、人を殺すことに快楽を覚えているわけでもないので、それくらいで彼らが仕事を十全にこなしてくれるのなら、手柄など安いものだ。


ということで、私は一人住居スペースの方へと向かった。

他の方面は比較的素直な奴を配備しているので、問題ないはずだ。

煌びやかで騒がしい大広間とは対照的に、こちら側はとても暗いイメージだった。

気配を探ってみれば、メイドとこの屋敷の伯爵の数人の家族がいるのみである。

どうやら、表舞台からは姿を消した老貴族や、まだ幼い子供達がこの屋敷にいるらしい。

まだ大広間から変わった雰囲気は感じ取れないし、先ずは後の憂いとなる可能性のある彼らを摘み取るべきか。


私はそう判断すると、班の他の者に見張りを任せておいた。

入り口は表と裏の二つ。

今回選抜したのは個々の能力がそれなりにある者たちでもあるので、いざという時も勝手に対処してくれるに違いない。

少なくとも、私がフォローに駆けつけるくらいまでは持ちこたえてくれるはずだ。

まぁ、まず作戦が失敗することはないと思う。


「さて、と」


距離的に近い事もあり、最初はご老人達を仕留めようと動き出す。

彼らがいるのは三階建ての屋敷の一階。

今後、足腰が悪くなる事を配慮したのか、すぐそこの場所に彼らの気配を捉えた。

当主の両親は話でもしているのか、同じ部屋にいる。

これなら、仕留めるのは楽そうだ。


「あなたは?」

「答える義理は無ぇよ」

「うくっ!?」


私が堂々と廊下を歩いていると、曲がり角でこの館に仕える使用人に遭遇した。

今はパーティの方に人員を回している為、人数は少ないが、この屋敷にも人はいる。

私はギョッとしたように目を見開いた彼を問答無用で切り捨てた。

そして、何をするでもなく淡々と進む。

多少の騒ぎになってもこの館にいるのは優先度の低い者だし、気配を消すまでも無い。

かといって、騒がれても迷惑な事は変わり無いので、絶対に殺さなくては通れ無い者達のみを殺す。


「貴様ッ、何者」

「うるせぇ。騒ぐな」

「グホッ、グアッ」


遂に彼らの部屋の前にたどり着くと、そこを守っていた騎士をサクッとヤる。

ここに来るまでに殺したのは三人。

私に服は既に返り血に染まっていた。

私はぼんやりとそれを眺めながら、ぬらぬらと光るタガーの血をピッと払う。

最早、今まで何人も殺してきたし、今更罪悪感とか、情とかそういった類の感情はない。

あるのは淡々とした、やらなければというボンヤリとした意思。


この世界ではこうでもしなくては、例え七歳でもやってはいけ無いのだ。

この汚い社会は甘くはないという事は分かっていたから、私は生きるために人を殺す。

ただ、それだけ。

ある程度の地位についてしまった事については非常に不本意だが、それも仕方がない。

私にはやらなくてはいけないことがあるのだ。

その為にも、なってしまった以上は、上に潰されないよう、下には裏切りで殺されないように気をつける。

そうして、ただひたすら生に縋るのだ。


それが、(ぼく)という存在だから。


私はタガーをもう一度ギュッと握りしめると、意思を固めて扉を押し開けた。

中からは廊下の薄暗さとは違い、煌々とした明かりが溢れる。

私はその隙間から、夫人の首を見つけると、一気に飛び出した。

顔は敢えて確認しない。もう二度と見る事はないはずだから。


ブンッ、と勢いよく腕を振ると、ブシュリという生々しい手応えがした。

視界が真っ赤に染まり、ゴトンと首の落ちる音が響く。


「ヒッ!」

「そこか」

「何者っ……くあっ!」


突然、妻の首が落ちた事に元当主も驚いたのだろう。短い悲鳴が迸る。

私はその声で相手の場所を特定すると、再び同じ要領で急接近した。

彼は私の素性を確かめようと声を上げたが、私が答える前に首が宙を舞う。

二つ目の血の噴水が辺りを赤に染め上げた。


目標撃破(ターゲットコンプリート)


私は二人を完全に殺せた事を確認して、その場から即座に離脱した。

この光景は幾ら自分の作り出したものとはいえ、やっぱり見ていて気持ちの良いものではない。

両手のタガーを鞘に収め、部屋の外へと飛び出すと、頭の中を次の目標(ターゲット)の事に切り替えた。

人を冷静に殺す、というのはやっぱり簡単な事ではない。

今のはかなり派手に殺してしまったし、動揺がそれなりにあった。

口元を押さえながら、足早に廊下を歩く。

鼻をつく血の匂いは中々に離れてはくれなかった。


「これだから」


こんな地位は不相応だ。

そんな言い訳がましいことを呟きながら、外では既に騒がしくなりつつあるのを感じ取っていた。

今頃、部下たちが襲撃を始めたのだろう。

ものの壊れる音や、劈く悲鳴が夜の闇を切り裂き、私の敏感に研ぎ澄まされた耳に入る。

これから始まる惨劇も私の命令によって起こることだ。

私が命令を下したから、たくさんの人が死ぬ。


ああ、私は一体何のために、こんなことをしているのか。


私は耳を塞ぎたくなった。

忘れたいと願うほど、私の身体や記憶がそれを許してはくれない。

これは大きな罪を抱え込んだ私への運命なのかもしれなかった。


「知っている。人の殺し方と同じくらい、僕が狂っているなんてことは知っているさ」


さぁ、目標(ターゲット)はすぐそこだ。

本来なら、そこで思考は切り替えなくてはならないのに、今日に限って私の心は動かなかった。

そのことを私も理解していたから、「くそッ」なんて自分を罵りながら、すぐそばの壁を殴りつける。


本当に、イライラする。

私にこんな風に思う権利など、微塵もないというのに。


「もう」


良い加減に、どうにでもなれ。


私はそんな思いとともに、最後の目標(ターゲット)のいるハズの部屋のドアを開けた。

その先には、きっと小さな子供が居て、怯えた顔をしているに違いない。


良いだろう。なら、私がその恐怖を終わらせてやる。


そんな思いで、タガーを抜き出したその時だった。


「……ッ!」


虚ろな瞳と目が合った。

私は無意識のうちにそれにただならぬ何かを感じ取って、思わず足を止める。


部屋の暗がりの中。その中でも一際月明かりが降り注ぐ、窓際で。


虚ろなオレンジ色の瞳をした少女がこちらを見ていた。

目に焼け付くのは強いクセを持つウェーブした真っ赤な長い髪。

それから、どこまでも無表情で冷たい、絵に描かれた美女のように作り物めいた、整った顔立ち。


私の心は刹那、その美しさに奪われた。

何も考えられなくなり、ただひたすら思考が少女の紅一色に染まっていく。


ああ、なんてその目は、ひたすら哀しく。美しいのか。


気がつけば、少女の魅力にとりつかれ、一歩踏み出していた。


「君、は」

「来ないでっ」


しかし、踏み出した一歩は、次の瞬間引っ込めざるを得なかった。

同じ七歳くらいに見える少女の口から出た声はあまりに鋭く低い、威嚇の声だったのだ。


私はその向けられた僅かな敵意にハッと我にかえる。

そして、改めて少女の姿を見て、アッと声を上げそうになった。

何故なら、少女の手にはナイフが握られていたからだ。

それも、こちらに向けられているのではない。

少女は自分の首に向けてナイフを突きつけていた。


少女は私をちらりと一瞥すると、目を閉じた。

それから、静かな声で再び言った。


「近づかないで。もう決めたの。私はここにいちゃいけなかった」


彼女はクイッと少しだけ、刃を自分の喉元に押し込んだ。

白い皮膚は浅く切り裂かれ、深紅の雫が一筋の流れを作る。

そこで少女は一度、片方の手を離すと、膝に乗せられた茶色い何かを撫でた。


茶色い何かは撫でられると、ガタガタと大きく震えだす。

よく見れば、その茶色い何かは人だった。

茶色い長い髪の、メイドの服をきた少女。

年の頃は十七くらいか。

酷く顔色が悪く、荒い呼吸を繰り返していた。


毒、だろうか。


私は経験からメイドの体を蝕んでいるであろうものを即座に推測した。

また、彼女が助からないであろうことも。

その証拠に、メイドの伸ばされた手には紫色に変色した傷跡が見受けられた。


その荒い呼吸の合間から、途切れ途切れに声が聞こえる。

メイドは、今死なんとしている少女……否、幼女とも言うべき赤髪の彼女に必死に何かを伝えようとしているようだった。


「奥様……お止め……ください」


奥様。

一体誰のことだろう。


私はすぐには分からなかった。

しかし、すぐその言葉に答える、という形で示されることとなった。

赤髪の少女が、口を開いたのだ。


「ダメよ。私は罪を償わなくては。私がいなければ、あなたが死ぬことはなかった」

「それでも……です。奥様、命を無駄にっ、しないで……ください」


ありえない。


私は即座にそう思ったが、彼女たちの押し問答は続く。

どうやら、この赤髪の幼姫は奥様……つまりは、結婚しているらしい。恐らくは、この屋敷の当主と。

だが、それを簡単に信じられようはずがない。

この子はまだ七歳。この屋敷の当主、ヴェンデブル伯爵は四十が近いのだ。

それに、この少女ではないれっきとした夫人もいる。

だが、この状況で彼女たちが冗談を言っているようにも見えない。


わからない。

わからないが、少女は奥様なのだ。


「お願いよ、このままさせてちょうだい」

「いけませんっ……! 私の、しがない……メイドの、最後の望みです。どうか、どうか……」


そこで、メイドがこちらを見た。

目が合った瞬間、彼女は強く視線に訴えてくる。

それが何を言わんとしているのかは明らか。

赤髪の少女を助けて、と。彼女は言っているのだ。

私がここの者でなければ、ましてや外の騒ぎに気付いていないはずはないだろうに。

彼女は一縷の望みをかけて、私を見据えていた。


私はそのあまりにも強い視線に目をそらせなくなる。

ため息を一つついたのち、短く問いかけた。


「何を?」

「ナイフを」

「なんのつも……」

「いいだろう」


私は強く地面を蹴った。

少女の言葉を遮るように飛び出すと、その赤に触れんばかりに肉薄する。

瞬間、少女のオレンジ色の瞳と視線が交錯した。


キインと響く金属音。


私のタガーと少女の持っていたナイフがぶつかり合った。

私はそのことに、目を軽く見張る。

まさか、貴族の少女が多少の手加減をしていたとはいえ、私の攻撃を受け止められるとは思わなかったのだ。


少女は私の一撃を受け止めて、バランスを崩した。

威力は私の方が当然強く、少女は完全に受け止めることが出来なかったようだ。

その隙を見計らって、回し蹴り。

少女の手からナイフを弾き飛ばした。


カラン、という音と共に離れた場所にナイフが落ちた。

少女は蹴られた手を押さえながら、キッと鋭い目でこちらを睨んでいた。

元々目元がキツイ印象を与えていたこともあり、その迫力はとてもか弱い少女のものとは思えないほどだ。


「何故、見ず知らずのあなたが邪魔をするの」

「さて、なんでだろうな」


正直、私自身もメイドの意思に応えた理由は分かっていなかった。

ただ、なんとなくこの赤髪の少女を、助けてみたくなった。

言うなれば、気まぐれだ。

もしかしたら、同い年程度でしかないのに、私と同等か、それ以上「異常」さを持つ彼女にシンパシーを感じたのかもしれない。

明確には覚えていないが、なんとなく彼女に心を奪われていたのは否めない。


私はこれでいいのか、と確かめるように足元に転がるメイドに目を向けた。

メイドは苦しげに息をしながらも、強く頷く。

それから、少し申し訳なさそうに目を細めて、少女に言った。


「関係なくは……ありません。奥様」

「どういうこと?」

「私が、呼んだ、のです。奥様に……お逃げ、いただくため、に」


話をでっち上げるつもりか。

この少女の命を救うために。


私は咄嗟にそれを察した。

メイドも私がここに来た襲撃者だと知りながら、間接的にそれを私に頼んでいる。

少女が首を振って抗議している間に、私は逡巡した。


私の当時の気持ちは、半々だった。

半分は気まぐれで一度助けてしまったのだし、ここまできたらやってやろうという普段なら考えも及ばないような、突拍子もない気持ち。

もう半分はそこまでしてやる義理はない。本当の目的は少女を殺す事だ、という冷静な気持ちだ。


いや、半々というのは違うかもしれない。

ちょうど、この地位にも人を殺す事にも嫌気がさしていた頃の事だ。

正直、前者に少し比重が傾いていた。


例え、このまま少女を見逃したとしても、結果はなんら変わらない。

少女は奥様と呼ばれている事だし、元々はこの家には関係の無い者だったに違いない。

だから、元の場所に戻るだけ。上の指示である、ウェンデブル伯爵のパーティーをぶち壊し、それに関わったものを全て殺せという命は達せられる。

私がここから出す手引きさえしてやれば、簡単だ。


なら、この非日常に巡り会えた運命に身をまかせるのも良いかもしれない。

私は最後には確かにそう思っていた。

臆病で従順だった私が初めて犯したささやかな反抗。

この時の私は、赤髪の不思議な少女に好奇心を植え付けられていたのだ。


「奥様」


ヒュウと、メイドの喉奥から喘鳴音が聞こえた。

もうそろそろ、限界が近そうだ、と思い至って、私は思考する事をやめた。

同時に、責め立てるように言葉を紡いでいた少女も沈黙する。


もうじき命尽きるものとしてはやけに通る、メイドの重い声が薄暗い部屋に反響した。


「いえ、私の主エレナ・ウェンデブル伯爵夫人。どうか、聞いてください」


とても、静かな声だった。

絶え絶えだった息が今この瞬間、不思議と落ち着いている。

少女はメイドの声に込められた強い意思に気圧されたように俯いていた。


「私はどうか、あなたに幸せになっていただきたいのです。ここで過ごした凄惨な日々を忘れて過ごせるくらい、穏やかで満たされた時を。そうですね。私の主、エレナ・ウェンデブル伯爵夫人としてではなく、一人の少女、エレナリア・ルルーシュ侯爵令嬢として」

「そんなの。無理よ。私は、許されないもの」

「いいえ、許されますとも。皆、あなたに幸せになっていただきたくて、死んでいったのですから」


むしろ、死ぬなんて事した方が、怒りますよ、とメイドは穏やかに笑う。

それは儚く、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかったが、人を安心させるような力があった。


「侯爵家から付いてきた侍女三人、この屋敷で仕えた私たちメイド三人。皆、あなたの事を本気で慕っていたからこそ、最後まであなたを裏切らなかったのです。あなたに会わせろと言う、伯爵に私達は断固として会わせなかった。七歳の少女が生贄のように、夫人となるなんて、幾ら何でも間違っています。あなたにはちゃんと、相応しい人がいる。それを通したいが為に、あなたにはここに閉じ込めるという窮屈な思いをさせてしまいましたが」

「窮屈なんて、そんなこと。あなたたちがいてくれたから、私は」

「やはり、あなたはお優しい」


少女は表情に乏しかったが、それでも目には涙を浮かべ、縋るようにメイドの腕を掴んでいた。

まるで、一人にしないでと頼み込むように。

その背中は小さく、初めに見た瞳に宿る「異常さ」はない。あくまで、年相応だった。


メイドは手を伸ばし、少女の真紅の髪を撫でた。


「だから、今は逃げてください。生きて生きて、必ずや幸せをその手にしてください。それが、私達の望みです。私達の幸せです」

「リリィ」


涙を流す少女。彼女はメイドの名前と思われる名を呼んだ。

メイドは応えるように、少女の頬に触れる。

だが、死は近い。徐々にメイドの目の焦点が合わなくなっていた。

メイドは、最後の役目と言わんばかりに、こちらへ首を向けた。

口が「巻き込んでしまって、ごめんなさい」と動く。

私は深く頷き、応えた。


「エレナ様……いえ。エレナリア・ルルーシュ侯爵令嬢をどうか、頼みます。この方をどうか、どうかお守りください。そして、彼女を家族の元へ」

「ああ、約束してやる」

「ありがとう、ございます」


メイドは最期に安心しきったのか、表情を緩めた。

その瞬間、少女の頬に伸ばしていた手がパタリ、と冷たい床の上に落ちる。

そして、それきり動かなくなった。


「リリィ?」


少女がメイドの名を呼ぶ。

答える声も、反応もいつまで経っても訪れない。

笑顔のまま、目を瞑って、メイドは眠るようにして、死んでいた。


「リリィ」


もう一度。

けれど、結果は変わらない。正直、見ていられない光景だった。

あまりにも痛々しくて、この光景を生み出した一端を背負う私の胸にも深く突き刺さる。


「リリィ?」


少女の声は震えていた。

涙が頬を伝い、止め処なく溢れる。


おそらく、少女は理解しているのだ。リリィという名のメイドか死んだことを。


彼女は分かっているから、涙することが出来た。

それを確かめるようにして、泣いて、名を呼んでいた。


「そっか、死んだのね。また」


その証拠に、少女は最後にそう呟いた。

メイドの心臓の上に手を置き、もう動いてはいないことを少女は心に刻み込んでいる。


なんて、この少女は強いのか。


私はそれをただ見ていることしか出来なかった。

少女の死を受け止める儀式に手を出すことなんて、絶対に出来やしないのだ。

だって、私の手はたくさんの血で汚れていたから。

少女の神聖なる死を受け止めるこの時、同じ空間で息をしていることすら、本当は罪深い。


どうにもならないことではあるけれど、私は無意識のうちに息を止めていた。

少女が振り返るその時まで、ずっと息を殺していた。


少女は赤い髪をサッと揺らし、振り返る。

涙は既にない。あるのは、ひたすら無を追求した美の造形。

作り物のように整った、無表情な顔だった。

しかし、目には私には見抜くことが出来ないほど、複雑な色と強い光が宿っていた。


「行きましょう」


そして、言った。凛と透き通る、聞くものを魅了するかの声で。

颯爽と一歩踏み出し、私を真正面から見つめる。


「私、もう決めたから」

「そうか」


たった一言を返す。

私にはそれ以外、言葉は見つからなかった。


この日が、私がお嬢様に初めてお会いした日。

きっと、それが私などと、お嬢様は気づいてはいないだろうけど、それが始まりなのだ。


この日、何処までも穢れた七歳の私と、何処までも純粋な七歳の少女が邂逅した。

「異常」と「異常」がぶつかり合い、化学反応を起こした。


ここから、私たちの物語は始まったのだ。

確かに、歯車は動き始めたのだ。


それから、私がお嬢様を侯爵家に送り届けて、主従関係になるのは、その一年後の話。


過去編、続きます。

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