人形の悪役令嬢たる所以
新連載の悪役令嬢モノ(?)です。
よろしくお願いします!
『僕はあなたに光を見ました。
太陽のように眩しいあなたの笑顔に。
花のように可憐なその姿に。
そして、海よりも深い慈愛の心に。
あなたは優しすぎるほど、本当に優しかったから。
周りを守りたいがゆえにたくさん傷ついてきたのでしょう。
自分の悲しみを押し隠し、今日まで笑って生きてこられたのでしょう。
それまであなたの心にどれだけの思いが募ってきたのかなど、僕には想像出来ませぬ。
それを背負うことも、また然り。
到底、僕には無理なことなのでしょう。
その感情はあなただけのものなのだから。
でも、僕はあなたを支えることが出来ます。
本当の意味で支えることは出来なくとも、あなたの身を守ることくらいは出来ます。
あなたの剣となり、盾となり、わが身はあなたに捧げたい。
これはもしかしたら、僕の我儘なのかもしれません。
あなたは優しいから、僕を思ってそんなことをするなとおっしゃってくださるのかもしれない。
でも、これこそが我が願いなのです。
あなたの傍に置いて頂きたいと、僕は切に望み続けているのです。
ですから、どうか。
どうかこの手をお取り下さい。
あなたのことは永久にお守り致します。
たとえ、あなたの心が僕の手元に無かったとしても』
静けさだけが支配する、朝の陽ざしの中。
一人の少女がロッキングチェアをユラユラと揺らしながら、窓辺で読書に耽っていた。
傍に立つ私の気配など忘れてしまわれたかの様に、本を食い入るように見つめるその姿は、まるで絵のようだった。
真っ白な雪のような肌に、すっと通った鼻筋。
書物の文字を追うオレンジ色の瞳はキュッとつり上がっていて、気の強さが伺える。
髪は血のように真っ赤な深紅であり、癖が強いのか、くるくると波打っていた。
彼女はさっきからずっと見つめている私の視線には気が付かないまま、ただひたすらに読書に打ち込んでいた。
普段ならば、本などあまり読まない人なのだが、よっぽど話が気に入ったのか、珍しく熱中している。
私は声をかけるのも憚れて、そっと彼女の読んでいる本のタイトルを覗き込んだ。
そのタイトルは『花色の姫君と永久の騎士』。
この国では良く子供たちに読まれている、有名な話だった。
確か、花が好きな心優しき姫君と、彼女に忠誠を誓う騎士の恋愛物語だったはずだ。
私は読んだことがないので、あまり詳しい内容は知らないが、確かそんな感じのお話だった気がする。
私はなんとも彼女には似合わない話だ、と思いながらも、彼女が本を読み終わるのを待った。
子供でも読める本なのだから、頭の良い彼女ならばすぐに読み終わるだろう。
そう考えて、私はしばらくこの部屋の掃除をしていた。
柔らかく脚の長いカーペットは、埃がたちやすいし、猫足のテーブルもピカピカに磨いておくべきだ。
それから、花瓶の花を変えて、彼女の制服も用意しなくては。
私は次々にやるべき仕事をこなしながら、彼女の身の回りを綺麗に片づけた。
いつもやっている仕事だから、自分で言うのもなんだが、中々の手際だ。
彼女が本を読み終える頃には、全ての仕事を終えていた。
朝礼の時間までもう少しあるので、概ね予定通りである。
私が満足げに部屋を見渡して、頷いていると、彼女が読み終えた本をポイッと放り出した。
私はそれをサッと受け止めて、何事も無かったかのようにその本を本棚に納める。
そこで、彼女はようやく私の存在に気が付いたようだった。
「なに、リオ。いたの?」
その声はいかにも気だるげだった。
私の事を呆れたように見ながら、彼女は私が整えたばかりのベッドに倒れこむ。
彼女の自由奔放なところはいつものことであるので、私は特に気にせずに、彼女の言葉に答えた。
「ええ、いましたよ。お嬢様が本を読んでいらっしゃる間、ずっと」
「なら、声をかければよかったのに」
「どうやら、お嬢様は熱中されていたようですからね。声をかけるのも憚られたのです。珍しいですね、お嬢様が本を読まれるなんて。それも、ベタな恋愛もの」
「でしょうね。けど、少し気になったのよ。永久の騎士、聞き覚えがあったから」
「ああ、なるほど」
そういえば、思い出した。
『花色の姫君と永久の騎士』は、本当にあった話だという事を。
もちろん、実際の話よりは色々と脚色されているが、昔の王家でそんなことがあったらしい。
だから、本を直接読んだことのない私でさえ、話のあらすじを知っていたのだ。
この話によって、作られた伝統は今も残っているし、それはお嬢様に関わりが深い。
まだ先、まだ先と思い続けていたせいか、すっかり頭から抜け落ちていた。
「永久の騎士の儀、ですか」
それはこの国の伯爵以上の家の令嬢が十八歳になった時におこなう儀式である。
その儀式では、お話の中の姫君と騎士のように、令嬢たちが自分に仕える騎士を選ぶのだ。
これは騎士にとっても、令嬢にとっても非常に名誉のあることだ。
何を隠そう、目の前の我が主たるお嬢様も侯爵令嬢なので、その儀式を行わなければならなかった。
しかし、残念な事に貴族の令嬢に求められるおしとやかさや、笑顔はウチのお嬢様に限って欠片もない。
もちろん、最低限の礼儀こそはわきまえてられているが、その現状は惨憺たるものである。
到底、彼女についてくれる騎士など居るはずもない。
無論、この儀式は強制ではないし、自由もあるのだが、伝統なだけにしないとなれば周囲からは白い目で見られることになる。
それはつまり、貴族社会での死を意味していた。
「で、そのご予定は」
「もちろんないわよ。私より雑魚な騎士をつけるつもりは無いし。せめて、リオが騎士だったのなら、良かったのだけれど。あなたは侍女だものね。困ったものだわ」
口では困ったと言うものの、その素振りは微塵もない。
退屈そうに欠伸する様子は、完全に諦めていることが伺える。
全く、頭が痛い。
私はトントンとこめかみを押さえながらも、とにかくそのことは後回しにすることにした。
幸い、今すぐに見つけなくてはならないというものでもない。
お嬢様は諦めてしまわれているが、まだチャンスはあるはずなのだ。
一か月前から訪れているここでは、幾らマイペースでコミュニケーション能力の低いお嬢様にもまだ可能性が与えられている。
ここは、貴族の子弟が多く集う「学園」なのだ。
珍しい二年からの編入生として、お嬢様が注目を集めている今ならば、誰かしら騎士階級の者を捕まえられるかもしれない。
私がどうにか説得したり、お願いして、最悪色仕掛けでもなんでもすれば、捕まえられる可能性はゼロでは無い、はずだ。
私は気持ちを切り替えると、そろそろ近づきつつある登校に向けてお嬢様の身なりを整えた。
幾ら学園とはいえ、貴族が大勢集まる場所なのだ。制服はきっちりと着こなせなくてはならない。
厳密なルールは無いが、これは暗黙の了解で、新入生が多い今の時期は特にピリピリとしている。
お嬢様もそれが分かっていらっしゃるから、普段はあまり素直ではないのにも関わらず、この時ばかりは大人しくされるがままになられていた。
髪をすき、リボンを結び、シャツのしわを伸ばす。
するとそれだけで、お嬢様は随分と引きしまった顔になられた。
それは長い間傍に仕えている、私でも驚くほどの変化だ。
これで愛想が良かったら、本当に完璧なのにとは思わずにはいられない。
私は再び口からこぼれそうになったため息をなんとかノドの奥に押し込んで、部屋を出たお嬢様の一歩後に続いた。
何を言っても無駄なのはもうとっくに分かりきったことだ。
お嬢様の育ってきた環境を思えば仕方のないことではあるのだが、もう少し報われても罰は当たらないはずである。
「ところで、さっき読んでいた本の事だけど」
今までいた寮の部屋を出て、廊下を歩いているとお嬢様が声をかけてきた。
普通、この国の貴族と言うものは公の場では必要以上に身分が下の者に話しかけたりはしないものだが、お嬢様は平気でこういうことをする。
私は周りの目を気にしながらも、無視するわけにもいかずに、返事を返した。
「なんでしょう?」
「あれの、最後の誓いの言葉。本当に、気に入らなかったのよ」
「ああ、永久にあなたをお守りしますってやつですね」
最後の場面で騎士が姫君に誓いを立てる時の言葉は、現在の儀式の時も少しアレンジしたりして言われたりするのでかなり有名だ。
私も耳にしたことくらいはある。
普通に騎士が求愛する、ロマンチックな場面だったと思うのだが、お嬢様はどうも気に入らなかったらしい。
お嬢様はああいう綺麗事が嫌いな偏屈な方でいらっしゃるから、わからなくもないが、そこまで嫌悪する理由も見当たらない。
お嬢様は心底イラついたように、眉をしかめていた。
元々キツイ目つきなだけあって、かなり迫力がある。
「くっだらない。実にくだらない」
「綺麗事だから、ですか?」
「それもあるけど、もっと根本的な事よ。本当に優しい人はあんなことは」
お嬢様はそこで言葉を止めた。
そして、そのままスッと表情を消す。
私もつられて顔を上げると、いつのまにか寮を出ていたらしい。
頭上からは暖かな日差しが降り注いでいた。
寮を出ると、芝生の上に一筋の白い道が続いており、その先には幾つもの棟が並び立つ校舎がある。
入口には大きな門が構えられていた。
だが、お嬢様の表情を消したのはそのそんな光景があるからではない。
寮の前で待ち構えていた者たちこそ、その要因だった。
「エレナリア様、おはようございます」
並んでいた五人の少女たちのうちの一人が、一歩前に出てお辞儀をした。
絹のように滑らかな金の髪に、エメラルド色の瞳。
彼女はお嬢様のご友人のうちの一人、クレア・ノルヴィス様であられた。
それに倣って、後ろの四人もお嬢様に向けて綺麗なお辞儀を披露する。
お嬢様はそれを受けて、同じように。
しかし、笑みは一つも見せずに冷たい表情のままお辞儀を返された。
「おはようございます、クレア様。今日は良い天気ですわね」
「ええ、本当。春の優しい風が気持ち良い日ですわ」
とはいえ、ご友人たちもお嬢様の態度には慣れていらっしゃるようで、笑みを絶やさぬままに相槌を打たれていた。
クレア様はお嬢様の隣に並ばれると、共に白い道を歩き出す。
何処か不自然だけれども、穏やかな空気。
一見ちぐはぐなようだが、これがいつもの光景だった。
私は静かにその後ろに続きながら、お嬢様たちの会話に耳を傾けた。
まず、第一声を上げたのは、赤茶色の髪の毛にこげ茶色の瞳をされた、ガルロイ侯爵令嬢だった。
「エレナリア様、聞きました? あの、ユーグ家のご令嬢の話」
「子爵令嬢の、アナ様のお話ですか? 知りませんけれども」
「あら、では是非お聞きになって下さい。彼女、本当に酷いんですのよ。ねぇ、クレア様?」
「ええ、全く。どうやら彼女、エレナリア様の存在を知りながら、殿下に色目を使ったのだとか。本当にあり得ない話ですわ」
「そうなのですか。わたくしはともかく、殿下はさぞご迷惑されているのでしょうね。王子と言う大変な立場がおありになるのに」
「まぁ、エレナリア様は優しいのですね」
少女たちはキャッキャとはしゃぐ。
お嬢様は相変わらず無表情のままだったが、目元だけは優しく緩めて話を聞かれていた。
内容はかなり殺伐としているが、お嬢様としてはそんなことも気にならないのだろう。
なんだかんだで、根にそういう意地悪なところも持っているお嬢様の事だ。
取るに足らないと軽く聞き流し、他の少女といることを楽しんでおられる。
少し前なら、信じられないことだ。
「で、どうしますか」
なんとも、ほほえましいことだ。
そう思っていたのに、クレア様から出たこの一言は、その場の空気がガラリと変えた。
ご令嬢の方々の目は爛々と光り、お嬢様の優しげだった目もスッと厳しそうに細められる。
ああ、また始まった。
私は変貌した少女たちの姿に、内心震えあがっていた。
これだから、女は怖い。
私は身につけた給仕服の裾を握って、目線を青い空に移した。
こうなった彼女たちは止められないことを知っているからだ。
せめて、現実逃避くらいはさせてくれたって良いでしょう。
まぁ、本物の現実は傍で仕える者としてはお嬢様の動向を知らなくてはならないので、聞かずにはいられないのだが。
ご令嬢たちも私が情報を漏らさない事や、お嬢様の傍から離れないことを知っているので、聞くことを咎めたりはしない。
というか、彼女たちが大声で話したとして、それを咎められる人はいなかった。
何といっても、この場に居るのは全員侯爵令嬢だ。
もし、彼女たちの機嫌を損ねて敵対でもされたら、本人だけでなくその家が困ることになる。
誰もそんなこと、進んでしようとはしないだろう。
と言う意味では、アナ・ユーグ様は厄介な人たちに目をつけられたことになる。
可哀そうに、ご愁傷さまなことだ。
「私は強く注意するべきだと思いますわ。そんなこと、許されませんもの」
そう発言したのはお嬢様を囲うご令嬢たちの中心たる、クレア様だった。
クレア様は懐から淡い青の扇子で口元を隠しながら、優雅に笑う。
しかし、それに反論する者がいた。
「そんなの、優しすぎるのではありませんか? だって、相手は王家ですもの。少しくらい、痛い目を見てもらわなくては。 ……そうですね、大勢の目の前で恥をかかせるとか」
もっと意地の悪い発言をしたのは、噂を持ちかけてきたユリー・ガルロイ侯爵令嬢。
ユリー様はねぇ、と同意を求めるように、視線をお嬢様に投げかける。
それに負けじと、クレア様はますます笑みを深めた。
選択権は全て、お嬢様に預けられたようだ。
ほか三名も様子を伺うように、お嬢様の挙動を見つめている。
それぞれ我の強いご令嬢方の主導権は、今、お嬢様が握っているのだ。
「そうですね。わたくしにはその他に良い考えがあります」
「と、いいますと?」
「実力主義、というのはいかがでしょう?」
「……なるほど。あれですね?」
「そういうことです。わたくしに、どうかお任せ願えますか」
「もちろんですとも。エレナリア様がそう、望まれるなら」
全会一致。
どうやら、今回も「あれ」に決まったようだ。
全く、お嬢様らしいと言えばお嬢様らしいが、ある意味一番残酷で、一番優しいやり方だ。
私はそのやり方が簡単だと思っている。
とっても分かりやすい方法だし、牽制も有効。
侯爵令嬢方もお嬢様の手腕を知っている。
文句は一つも出なかった。
そうこうしていると、やがて校舎にたどり着いた。
二年生……つまり十七歳のお嬢様の校舎は青い屋根に白亜の壁。
清楚な外観の大きなお屋敷だった。
両開きの木製の扉は開け放たれており、多くの同級生がそこをくぐり抜けている。
お嬢様一同も校舎の中に入ると、初めの朝礼を行う講堂へと向かった。
大きく広い講堂には既に、大半の生徒が集まっていた。
お嬢様もその一角を陣取り、しばらくお喋りに興じる。
その周辺には誰も近づかない。
時折、挨拶をしに来る生徒もいたが、その子らも最低限の挨拶だけして、すぐに逃げるようにして離れていく。
幾ら彼女たちが良い家の出身であるにしても、こういう状況には普通、なかなかならない。
現に、一つ上の学年のルクス第一王子殿下の周囲には多くの人が集まっている。
他国からの留学生である、シュエル皇子にも。
近衛騎士団長の息子で、本人にも才能があるとされているシャイン様にも人はたくさん集まっている。
なのに、お嬢様たちのグループがこういう扱いを受けているのは異常だ。
その理由は、簡単である。
「あっ、あのぉ」
雑談に興じるお嬢様がたに声をかけてきたのはクラスメートの一人である少女だった。
確か、男爵家の出身のご令嬢だったか。
印象の薄い薄茶色の瞳と髪、気弱そうに下げられた目元はお嬢様とは対照的だ。
私は何処かで、彼女を見たことがあるような気がした。
そして、それは当たっていたようで、今まで楽しそうだったその場の空気が一気に、険悪になった。
ユリー様はいかにも不機嫌そうになり、クレア様は扇子で笑みの失せた口元を隠す。
他のご令嬢も威圧的な態度に変わり、お嬢様は無表情の上に冷たさを更に上乗せた。
思いだした。
彼女はこの間、お嬢様の落としたハンカチを踏みつけてしまった……。
「サリア様、何かご用でも?」
「あっ、はい。その。この間の事、謝罪させていただきたくて。エレナリア様。あの時、本当にすみませんでした」
サリア様は、そう言って怯えた様子でペコリと頭を下げた。
その眼には薄く涙が浮かんでいる。
だが、侯爵令嬢達の冷たい視線は全く緩まなかった。
むしろ、さらに冷え込み、鋭いものになる。
ユリー様は不機嫌さを隠そうともせず、呆れたように言った。
「それだけかしら?」
「えっ?」
「エレナリア様の大切なハンカチを踏みつけておいて、その後謝らずに逃げたくせに。謝罪はそれだけかしらと聞いているのよ」
「そっ、それは」
サリア様が、ユリー様の厳しい言葉に目に見えて怯える。
体ががくがくと震え、今にも泣き出しそうだ。
彼女は、必死になってもう一度、頭を深々と下げた。
「申し訳、ありません。弁償でも、なんでも致しますから。どうか、私の家族だけは」
「へぇ、家族、ねぇ」
今度はクレア様が興味深げに呟く。
サリア様の肩の震えが大きくなった。
彼女は本当に家族を大切にしているのだろう。
だというのに、ご令嬢方は良い物を見つけたと言わんばかりに目を光らせた。
お嬢様は相変わらず、だんまりを決め込んでいたが、クレア様に背を押されて、サリア様の前に出られた。
クレア様はそっとお嬢様の耳元に何事かを囁いてから、離れる。
これで、サリア様とお嬢様が一対一で向かい合う形となった。
サリア様は恐る恐る、お嬢様のつり上がった目を覗いた。
お嬢様はそれをまっすぐに見返す。
オレンジ色の瞳からは何一つ、感情は読み取れなかった。
「サリア様」
「はっ、はいっ!」
いつの間にか講堂は静まり返っていた。
お嬢様の凛とした声が、広い講堂に反響する。
もうそろそろ朝礼は始まる時間のはずなのに、誰もその場から動けずに、二人のやり取りに釘づけになっていた。
「サリア様、わたくし……あのハンカチ。とても気に入っていたのですわ。幼いころ、おばあさまに頂いたもので、わたくしの宝物でしたの」
「それはっ! ……本当に申し訳ありませんでした」
「だから、あのハンカチの汚れが取れなくなってしまって。わたくし、とても悲しい思いをしましたの。正直、謝られて許せるような事ではありませんわ」
「……どうすれば宜しいのでしょう?」
徐々にサリア様の瞳から希望の光が失われていく。
普段はあまり感情表現しない、お嬢様がわざとらしく泣き真似をしていた。
白々しい事このうえないし、言ってることは半分以上嘘が混じっていて、完全に言いがかりなのだが、お嬢様の身分とサリア様の身分では違いすぎる。
どちらの意見が力を持つかなど、明らかだろう。
幾ら嘘っぽくても、サリア様には抗う術など鼻から無い。
「あなた、家族が大事なのですってね」
「それだけは、どうか」
「あら? それを言える立場でして?」
「っ!」
この社会では権力こそ、絶対。
理不尽な事ではあるが、サリア様はこれに言葉を詰まらせることしか出来ない。
お嬢様は目には感情を浮かべないまま、口元だけを嫌味に歪めた。
辛辣な言葉は現実を体現するように、静寂の中に紡がれてゆく。
「わたくしは大切なモノを汚された。ならば、あなたの大切なモノも傷つけられて当然でしょう? 目には目を、歯には歯を。これは古来より続く、ヒトの法ですわ」
それにしたって、家族とハンカチじゃその重みが違いすぎる。
とはこの場全員が思ったことだろう。
それが言葉に出されることは無かったが、サリア様に対する同情と、お嬢様の理不尽さに対する嫌悪が観客の表情には現れていた。
お嬢様はそれに表情を硬くしてから、一度また黙り込む。
しかし、ユリー様に背を押されて、すぐに強気な笑みを浮かべた。
良いことを思いついた。
そう言わんばかりの笑顔だ。
周囲はそれを不安げに見守っていた。
サリア様はますます顔を俯かせる。
お嬢様は残酷な宣告を彼女の前に突きつけた。
「あなたのお姉さま、もうすぐ結婚されるそうね」
「……まさか」
「それはそれは素晴らしい結婚らしいじゃない? 恋愛の末に、伯爵家のご子息様と結ばれ、家は安泰。まぁ、なんてロマンティックな話でしょう! とーっても、気に入りませんわ」
「どうか、お待ちください。それだけは」
「やめるわけがないでしょ。こんなに面白いこと。そうねぇ、わたくしの親戚にとっても面白い方がいらっしゃるのよ。その方と結婚するのはどうかしら。家とつながりが出来るなんて、良いことでしょう?」
確かに伯爵家と結ばれるより、侯爵家と結ばれた場合に得られる権力は大きい。
でも、せっかく互いに思いあっている二人を引き離すのはあまりにも酷い話だ。
もちろん、政略結婚が主流の貴族社会だから結ばれないことの方が多い。
しかし、夢を見ずにはいられないし、結婚直前にまで漕ぎつけているのだから、その仲を引き裂くのはあんまりだ。
現にサリア様の顔は随分と青ざめている。
お嬢様はそれを面白がるように観察しながら、更に追い打ちをかけるようなことを言った。
「伯爵家はユリー様が説得してくださるそうだから、安心して親戚の方とご結婚されるといいわ。せいぜいお幸せにね。それと、ご実家でされている、織物の生産ですけど、その権限をクレア様に預けては頂けないかしら。もちろん、正規の取引はさせていただくわ。まぁ、どちみちご両親はしばらく苦労されることになるでしょうけど」
それはもう、召使いのように働いて頂くのよ、とはクレア様の発言だ。
そこには実に嗜虐的な表情があった。
お嬢様はそれにそうね、と頷きながら、今にも崩れ落ちそうなサリア様の肩に手を置いた。
口元には憐みと、好奇心を。
目には相変わらずの無表情を貫きながら。
お嬢様はどこか、作り物めいた顔で笑った。
人からはそう、悪役令嬢と呼ばれる顔で。
「全ては運命だったのよ。悪く思わないでちょうだいね」
オホホ、と侯爵令嬢達は高笑いした。
お嬢様も真っ赤な唇を歪める。不気味且つ、冷酷。
その場にいた生徒の戦慄を買った笑顔に、私は少し興奮を覚えて震えていた。
五大侯爵家の令嬢達は悪役令嬢である。
それが、彼女たちに人が寄り集まらない理由であり、学園での常識だった。
触らぬものに祟りなし。
その考えは皆の共通意見だ。
特に「人形の悪役令嬢には気をつけろ」と。
教室の片隅ではいつも、それがまことしやかにささやかれていることを、侍女の私は知っていた。