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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
神々は逆手を打つ
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第5章 <3>

 ほとんど新月と変わらない暗闇の中で、美輝は一人、タケミナカタを思っていた。あたし、ちょっと人魚姫みたいだな…。そう、囚われの身となった美輝は実はイナサ浜に近い沖に浮かぶ岩の上にいた。目覚めるとそこはオオクニヌシの館ではなく、隣に寝ているはずのりらもいなかった。一体自分がどこにいるのかわからず混乱に陥ったが、すぐに状況を把握することになった。

 フツヌシが岩に降り立ち、「お前は俺の部下カラグタマが攫ってきた人質だ」と説明してくれたからだ。美輝は必死に頭を働かせたあげく、色仕掛けで懐柔することを試みたが、フツヌシのタカミムスヒへの忠誠心は揺るがなかった。

「確かにお前は国つ神の中では美しい女だと思う。だが、俺は一時の楽しみに賭けるほど無責任じゃないんでね」

 美輝は心の中で舌を出した。いいもん、タケミナカタがきっとあたしを助けに来てくれる。

 東の空を見上げた美輝が目にしたのは、タケミナカタではなくその敵タケミカヅチであった。タケミカヅチはふっと宙で姿を掻き消し、突然フツヌシと美輝の前に現れた。

「おお、タケミカヅチ、意外と遅かったな」

「ちょっとばかし、手こずった」

「タケミナカタは…!?」

「残念だが、俺が止めを刺した」

 この世界での夫の戦死の知らせに、美輝の瞳からは大粒の涙が幾筋も流れた。もう終わりだ。あんなに強かったタケミナカタがいなくなるなんて、どうやってイズモを守ればいいの。あたしを置き去りにして、助けに来てくれる人もいなくて、本当にタケミナカタはずるいよ。

「コシとイズモの軍隊は全て始末した。こちらの兵力もほとんど消えたが、まぁ、コシもシナノも制圧できたから良しとするか。コシの女王にはいずれ高天原の役に立ってもらわなきゃいけないからな、生かしてあるよ」

「ご苦労だったなぁ。タケミカヅチは少し休め」

 フツヌシは相棒を労わると、共にイナサ浜の岩から去った。美輝をそのまま放置して、また西の空に戻ったようだ。

 タケミカヅチがコシ征服から帰還した翌日、イズモ軍にとって二度目の交戦が開始された。イナサ浜にタケミカヅチが健全な姿を見せた時、イズモ軍はその将タケミナカタが敗れたという現実に直面しなければならなかった。そして、タケミナカタが戦死したということはイズモの強力な支援国であったコシも敵の手に落ちたということだ。息子の戦死の知らせに、オオクニヌシは薄っすらと涙を浮かべた。今はもう、自分が若かった頃のように助言をくれる母親も死者を蘇らせてくれる女神たちもいない。タケミナカタは永久に黄泉の国の住人となってしまったのだ。

 士気を上げるため、コトシロヌシがイナサ浜のイズモ軍に向かって述べた。

「諸君の将は一足先に黄泉の国へ旅立ったが、守るべき国と民がなくなったわけではない。引き続きイズモ軍はタカハネイカリヌシの指揮に従い行動せよ」

 だんだん兵力が少なくなっていたイズモ軍であったが、コトシロヌシの言葉に全軍が呼応した。とうとう、コトシロヌシも参謀役の陽一も武具で身を固め、戦場に立つことになった。多少の練習はしたとはいえ、潤と違って本物の武器を手にするのは陽一にとって初めてのことだ。人並より運動神経が良いことは確かだが、それはグランドやコートの中での話であって、死と隣り合わせの空間を目前にして陽一の呼吸は早く弓を握りしめる手はじっとりと汗ばんでいた。

 未だに美輝は囚われの身である。りらは櫓の上でひたすら彼女の無事を祈り、戦場に初めて赴く陽一の姿を追った。時折、光が武具に反射して輝いた。ヒカリサキヒコ、無理しなくていいから。私はあなたと一緒に未来へ帰りたい――。

 高天原軍は再び多数の軍勢をもって水軍をイナサ浜に送り、イズモ軍が地上から火力攻撃を行う中、猛突破してきた。実はタケミカヅチがコシから凱旋する際、コシの国の翡翠の玉をごっそりと持ち帰って自軍の兵士たちに身につけさせたのだった。翡翠の力は盾の役目を発揮し高天原の兵士たちを火力から守った。

「何としても浜から先には行かせるな!」

 イナサ浜の攻防戦は何時間にも及んだ。タケミカヅチとフツヌシは上空から高みの見物を決め込み、兵士たちの肉弾戦を面白そうに眺めているだけだった。

「あいつら、本気なのかどうかわからない」

 戦闘の動向を確認していた陽一は、宙に浮きながら談笑しているかのようにすら見えるタケミカヅチとフツヌシの態度を目の当たりにして呟いた。事実、両軍の戦いぶりは互角で、戦死者や負傷者の数も同じくらいだった。潤は全身を防具で覆い、果敢に敵陣に乗り込み鉄剣を振るっていた。 コトシロヌシもまた馬を操り、高天原軍を血祭りに上げていった。俺は情けない男だな、と思いつつ陽一は一人一人に狙いを定めて矢を放つのが精いっぱいであった。

「あんたそれでも男なのかい?」

「うわっ、サグメ! いつの間に…」

 声をかけられ驚きながら見ると、サグメが屈みこみながら陽一の隣に出現していた。サグメは国境地帯の偵察に出かけていたはずだ。

「あたしが仕入れた情報によるとね、キビはイズモに援軍を寄越さないよ」

「何だって…」

「イズモとキビの国境地帯に兵たちは動員されてなかったんだ。それに、あの辺りにも高天原のやつらがうろうろしてた」

「それってつまり、キビはイズモとの同盟の約束を破って中立の立場をとるってことだよな」

「そうなるねぇ」

 高天原に攻められ中つ国が滅ぼされたら困るのはキビも同じはずだが、キビは他の国々と協同して戦うつもりがないということだ。考えられる背景は、高天原に屈したか進んで協力することにしたかのどちらかだろう。この際どちらでも変わりない。イズモは援軍を得られず背後の防衛も覚束なくなったということなのだ。

 サグメが「じゃあ、あたしは先に帰るよ」と長い髪を掻き上げた時、夕日の最後の光が水平線に消えた。それを合図に、突然、高天原軍が撤退を始めた。あまりの引き際の良さにかえって拍子抜けしてしまうほどだったが、またしてもイズモ側が勝利したわけではない。

 陽一はとりあえず戦いが終わったことに安堵した。しかし日が落ちて辺りが一段と薄暗くなった途端、左肩に激痛が走った。「ヒカリサキヒコ、しっかりしておくれ!」と、どこかでサグメの叫び声が聞こえた気がした。

 オオクニヌシの館では戦闘が開始されると中庭を開放して、負傷兵の受け入れと治療の態勢を整えた。清潔な水と布と、多様な薬がアメノホヒの手配によって集められている。スセリビメは殊のほか、負傷兵の手当てがうまくいくか気にしており、りらに助言を求めた。医療従事者ではないりらは薬の知識があるわけではなかったので差し当たり、トリアージの概念を教えることにした。スセリビメの他にも二十人ほどの薬師や雑用係も、りらの説明を聞きに集まった。

「私たちの世界ではね、大きな災害があった時なんかは助かる見込みのある人を優先して治療を行う方法がとられてるんです。だから、位の高い人から順に薬師に見せるのはだめ。怪我の軽い兵士は後回し。それか自分で手当てをしてもらいます」

 それから、トリアージのために用意してもらった黒、赤、黄、緑の紐を見せて、優先順位別に腕に括り付けるようにと指示をした。この紐の色に基づいて、治療を優先させるべき負傷兵が選ばれるのである。こうして説明を聞いた何名かが負傷兵のトリアージを行うために戦場へ送られた。

 イナサ浜の戦いの開始からしばらくすると、負傷兵が運ばれてくるようになった。中庭に搬送されてくるのは赤か黄色の紐が括り付けられた兵士たちであり、緑の紐の兵士は自力であるいは助け合いながらやってきた。 黒の紐を結びつけられた者は助かる見込みがなく、搬送すらされない運命にあった。いくらイズモの医療がこの世界では最先端とは言え、未来のような道具も外科技術もないので救命には限界があり、中庭に運ばれたから必ずしも助かるものではなかった。

 すっかり日が沈むと浜から法螺貝の音色が伝わってきた。ようやく今日の戦闘が終わったらしい、もう負傷兵が搬送されてくることはないとりらが一息ついたところで、館の入口がにわかに騒がしくなった。馬を下りずに中庭に乗り込んできたのはコトシロヌシだった。

「どうしたの!?」

「助けてくれ!」

 りらが駆け寄ると、コトシロヌシの後ろにはぐったりと寄りかかる男が乗っていた。

「ヒカリサキヒコ…!?」

 りらは短く叫んだ。その腕に巻きつけられた紐の色は赤だった。部下たちが急いで陽一を馬から下し、館の中へ担ぎ込んだ。筵が敷かれた床の上へ寝かせて様子を観察すると、呼吸が速く武具と衣を脱がせた左肩からは大量の出血が認められた。

 りらは清潔な布を受け取ると、肩の血を注意深く拭き取った。するとその流れ出た血の下には火傷で爛れた皮膚が見えてきた。

「突然、高天原軍が引き上げだして戦闘が終わったと思ったら、ヒカリサキヒコに流れ矢が飛んできた。小さい火矢だったんだ」

 潤が陽一が負傷に至った経緯を説明すると、「すまない…」とコトシロヌシがりらの隣で声を振り絞るようにして告げた。

「あなたのせいじゃないよ」

 冷たい水を絞った布で陽一の顔を拭きながら、りらは答えた。こうなる可能性は十分に予期できたはずなのに、りらは今まで陽一が戦いで怪我をし瀕死の状態になるなど考えたこともなかったのだ。

コトシロヌシの参謀役が倒れたということはオオクニヌシの耳にも入り、負傷具合を聞き出すとオオクニヌシは自ら薬を携えて陽一が眠る部屋へやってきた。

「どれ見せてごらん、火傷ということだが――」

 皆が見守る中、オオクニヌシは陽一の肩を観察し、薬師に指示して火傷に最も相応しい塗り薬を受け取った。ペースト状のその薬を素早く肩の火傷に塗っていくと、陽一は激しく呻いた。その声を聞き、りらは思わず身を乗り出して陽一の顔を覗き込んだ。

「助かりますよね?」

 オオクニヌシはりらの問いかけに頷いた。

「この薬は私が若い頃、大火傷をして一度黄泉の国に行きかけた時にキサガイヒメとウムギヒメという女神たちが作って塗ってくれたものだ。これで私は生き返ったんだよ。だから、ヒカリサキヒコの受けた火傷など小さなものだ。すぐに良くなろう」

 思い出した。そういえば、オオクニヌシは青年時代に兄たちが狙っていたヤガミヒメを妻としたために兄たちから様々な嫌がらせをされて、大火傷を負わされたこともあったのだ。神話では貝の女神たちによって命を救われていたが、どうやら実際にもそうだったらしい。

 オオクニヌシは薬を塗り終わると、後の処置を薬師とりらに任せることにして奥の部屋に去っていった。りらは自分の鼓動も速くなっていることに気づいた。もし傷が悪化して陽一が死んでしまったら――。

「ねぇ、長柄くん、聞こえる? 黄泉の国なんか行かないで戻ってきて」

 りらは陽一の手を握った。冷たい。それに土や血で汚れている。自分たちが尋常でない状況に置かれていることを改めて思い知ると涙が溢れてきた。陽一はまだ朦朧とした意識を泳いでいた。熱いような寒いような体であったが、なぜだか指先がほんのり暖かく感じられた。とても心地よい光と海に包まれているような気がして、こんなにも心地よいのならずっとこのままでいいとさえ思った。

 最初に目にしたものは、恋い焦がれる女性の閉じられたまぶたと濡れた黒い睫だった。陽一は心地よい光と海の世界から戻ると、自分の指先が温かい理由を知ることになった。夜通し看病していたりらは、とうとう陽一の手を握ったまま隣で寝入っていたのだ。

「っ…!」

 身を起こそうとして左肩に痛みが走り、観念してそのまま横たわることにする。意識も呼吸も正常に戻ったが痛みは完全には収まっていない。それでもこんなに早く回復できたのは適切な治療が施されたおかげであった。

 陽一は横たわったまま、握られた手を右手で握り返し、痛みを堪えて左手をがんばって伸ばすと寝息を立てているりらの髪を何度も撫でた。

「ありがとう」

 小さくつぶやいたつもりだったが、りらを眠りから覚ましてしまったようだ。寝ぼけていた顔が大輪の花を咲かせた。

「良かったぁ」

 りらは飛び起きて陽一に微笑んだ。あぁ、俺はこの表情が大好きだ。大衆の目の前で堂々と立っている着飾って神々しいりらにも心惹かれるが、地味で目立たないけれども自分にだけ見せてくれる笑顔のりらの方がずっといい。

「心配かけたね。俺は桧枝さんを元の世界に連れて帰らなきゃいけないのに」

「うん… あのね、その傷はオオクニヌシが診てくれたんだよ。だから大丈夫。もう少し眠ってて」

 りらは陽一の額の汗を布で拭うと、背中に腕を差し入れて陽一の上半身を少し起こし、水を飲ませた。りらはアーバンパークの介護士の気持ちに戻り懸命に友人の世話をしていたのだが、陽一にとっては怪我のことを忘れるくらい至福の時であった。陽一がもう一度、りらの髪に触れようと手を伸ばした時、部屋に入ってくる者たちがいた。コトシロヌシと潤だ。

「具合はどうだ?」

「少し痛みはあるみたいだけど、水も飲んだし元気になってると思う」

「とりあえず良かったな、ヒカリサキヒコ」

 二人がりらの後ろに座ると、陽一は「大事な時に申し訳ない」と謝った。潤は「戦場で負った傷は武人の勲章だぜ。誇りに思うくらいに考えとけ」と軽口を言って陽一を安心させようとした。

「ところで、フサミミヒメに渡したいものがある」

「何?」

 コトシロヌシの手のひらにはオオクニヌシから受け継いだ黄金のオロチの耳飾りの片方があった。コトシロヌシは妃の髪をそっと掻き上げて、「君の耳には飾り用の穴が開いてるのを私は知ってるんだ」と言った。その仕草と言葉は陽一の嫉妬心を再燃させるには十分だった。未来に戻らなければ、りらと陽一の間にある壁はますます高く乗り越えられないものになってしまうだろう。

「これってオオクニヌシからもらったものでしょう? 私が受け取るなんてできないよ」

「いや、君たちに無事に未来に戻ってほしいというのは父の願いでもある。この耳飾りは結界の役目をしてくれるはずだ。さぁ――」

 りらはどうしたものかと友人たちの顔を伺った。潤も陽一も受け取れというように頷いたので、りらは耳飾りを手に取りそろそろと右耳に装着した。一瞬、首からかけていた勾玉の辺りが温かくなったような気がした。

「そうだ、ヒカリサキヒコ。君が寝てる間にイオリが館に戻ったぞ」

「イカリヌシとサグメが連れ戻したの!」

 それは嬉しい知らせだ。陽一は潤を見た。いつもの厳しい顔つきがほんの少しだけ和らいでいるように思われる。

「じゃあ、お前はしばらく休んでろ。戦いのことは俺たちに任せておけ」

 陽一は部屋に一人残され、い草の香りをかぎながらまた深い眠りに落ちていった。


 昨夜、陽一の手当てが終わり看病をりらが引き受けると、潤はアメノサグメを伴って休む間もなく美輝を救出しに出かけた。信頼できる部下たちも十五人引き連れることにした。サグメ自身は変身したり浮き上がったりする天つ神の力があったが、それを別の人物に授けることはできず、潤や部下たちはただの人間としての能力に甘んじなければならなかった。

 闇に紛れて用心深く進みイナサ浜までたどり着くと、波打ち際に残された高天原の兵士たちが群がっていた。コトシロヌシの指示で既にイナサ浜にはこちら側の勢力は引き上げている。高天原軍はイナサ浜を攻撃してくるがなぜか本気ではないようなので、ここで自軍を消耗するのは得策ではないと潤が進言したためだ。

「何だいあいつら、怠けてるじゃないか」

 サグメが文句を言ったが、確かに高天原の兵士たちはほとんどが眠り込んでいてだらけているように見える。潤たちに草むらの陰に隠れて待つようにと言うと、サグメは高天原軍の眼前に飛んで行った。サグメが兵士たちの気を引きつけ、どこに美輝が囚われているのか探るつもりだった。

「ちょっと起きなよ、夜更けにわざわざサグメ様が来てあげたんだからね」

 ほとんど寝ぼけ眼の高天原軍はサグメの大声に飛び起きた。

「何しに来た、アメノサグメ」

「裏切り者が!」

 罵声を浴びせられてもサグメは全く動じない。

「あいにく、あたしは最初からタカミムスヒに忠誠を誓ってなんかいないよ。誰にも仕えてない。だからあたしは誰かを裏切るってことはないんだ。さて、本題だけど、コトシロヌシの妃をどこに隠した?」

「何だと? たった今、お前は誰にも仕えていないと言ったではないか。それなのにオオクニヌシの味方とはな!」

「あたしはねぇ、ただ気の合う友を助けたいだけさ。誰の命令でもない。あたしがそうしたいからするってだけのこと」

 サグメは言い終わらないうちに身を捩った。下から一本の矢が飛んできたからだ。サグメはさきほどからずっと高天原軍の兵士たちの心を読み取っていた。さぁ、ナガスソノイオリをどこに隠してるか、あたしに教えな――。

 しかし、イオリの居場所を知っている者はいなかった。もしかしたら知らされていないのかもしれない。そして、おかしなことに誰一人として戦のことなど考えておらず、美味しい食べ物のこと、妻のこと、女のこと、褒美のことなどがサグメの心に侵入してきた。その反対に、なるべく戦いたくない、もうめんどくさいという低下した士気も感じ取れた。

 そこでサグメはふうっと息を長く吐き、兵士たちに幻影を見せた。まずは彼らの望むものを。兵士たちは幻影とも知らず、突然目の前に現れた自分の願望に驚きつつもすぐに幸福な気持ちで満たされたようだ。

「ふん、馬鹿な奴ら…」

 兵士たちは楽しい時間を過ごしているようだが、サグメはここで彼らの望まないものの幻影を出した。それは戦闘である。急襲を受けた高天原軍は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。もちろん急襲をかけた軍など存在せず、サグメが作り出したものだ。高天原軍は敵を攻撃しているつもりでも、実際には味方同士で戦っており、次々に負傷者や戦死者が発生した。

「みんな、共倒れしてしまうがいいさ」

 サグメが笑いながらつぶやいた時、浜に打ち付けるさざ波から一人の天つ神が現れ、味方同士で斬り合って混乱している自軍を後目にサグメに対峙した。

「派手にやってくれるじゃねぇか、サグメ」

「フツヌシ、お久しぶり。あんたに用はないんだけど、あたしの友はどこだい?」

「笑っちまうなぁ、お前に友がいたとは!」

 フツヌシはできるだけサグメの顔を見ないようにしている。それはサグメに心を読み取られないようにするためであり、かつての恋人の漆黒の瞳と官能的な唇を目に入れないためであった。

「それに、いつからオオクニヌシの部下になったんだ? 戻ってこいよ」

 最後の言葉は、高天原にとでも自分のところにとでも、どちらにも受け取れたが、サグメは一瞬にして却下した。

「あたしの居場所はあたしがいるところ。タカミムスヒもあんたも、誰かを支配せずにはいられないんだ。あたしには窮屈すぎるよ」

 サグメは悲しそうに微笑むとフツヌシの望みを知ろうと心を探った。ところが、サグメはその心に映し出されたものがわかると動揺せざるを得なかった。嘘だと思い、兵士たちに仕掛けたようにフツヌシに対して息を吹き出した。フツヌシは無表情だ。幻影が見えていない。いや、幻影など見なくてもフツヌシはその目でしっかりと望むもの――アメノサグメを捉えていたのだ。

「いずれイズモは滅びるぞ。もう一度、俺とやり直して高天原に帰ろう。俺が口添えすればタカミムスヒ様はお前を許してくれるだろう」

「…騙されるもんか!」

 悲しさと憤りが入り混じった感情をどうにもできず、サグメはもう一度息を吹きかけた。それはフツヌシの望まぬものを見せる幻影であった。

 サグメは砂浜に倒れている兵士から弓をもぎ取ると、幻影を見てうめき声を上げて苦しんでいるフツヌシに向かって弓を放ち、同時に、隠れている潤たちに叫んだ。

「イカリヌシ、今のうちに! イオリはあの岩にいるよ!」

 その声を聞いた潤は今とばかりに馬の腹を蹴り、浜から少し離れた海の中から顔を出す岩に走っていった。

 サグメの手から離れた矢はフツヌシの右手を射ぬいた。しっかりと胸を狙って射たはずなのに、心に迷いがあったのだろうか。フツヌシは幻影の中でサグメと戦っていた。サグメは怒りの形相で鋭い刀を握りしめ、フツヌシの懐に飛び込み何度も胸を刺した。そして、サグメはその刀で自分の胸をも突き、ぐったりとその場に倒れこんだ。全て自分が見せている幻影なのだが、フツヌシが苦しみ嘆く様はサグメの心に波紋を広げずにはいられなかった。だからこそ、弓を取りフツヌシを本当に攻撃したのだ。あの男は「敵」なのだと自分に言い聞かせるために。

 イナサ浜には現在では弁天岩と呼ばれ、海神が祀られている岩がある。海と浜の境目に位置しているが遥か昔は沖に存在したという。

 潤は馬に乗ったまま海に突っ込み、岩の付近まで来ると海中に飛び込んだ。幸い岩は断崖絶壁というわけではなく、大きな階段状の形をしていた。注意深く上っていくと、頂上は平らになっており、そこには白いものが蹲っていた。

「イオリ! 大丈夫か!?」

 潤は叫びながら近づこうとするが見えない壁に阻まれて先へ進めない。

「おい、聞こえるか!」

「イカリヌシ… どうして… あのね、フツヌシが私の周りを何かで囲んだの。だから出られない」

 ここまで来たのに美輝を助けられないのか。潤は美輝を取り囲む結界のようなものに沿って、見えない壁を叩きながら歩いた。ダメだ。力で突破できそうもない。この薄い壁のすぐそこに美輝はいるのに。

 すると美輝が「勾玉、持ってる?」と壁の向こうから訊いてきた。わけがわからず、潤は首から下げている瑠璃色の勾玉を美輝に見せると、美輝も同じように勾玉を掲げた。

「光ってる…」

 二つの勾玉は呼応し合っているかのように淡く光り、それから一瞬だけ強烈な光となって岩全体を包んだ。美輝が潤に倒れかかり、潤はしっかりと抱きとめた。見えない壁が消えていた。

「動けるか? 俺につかまれ。逃げるぞ」

「怖かったよ。来てくれないかと思ってた」

「んなわけねぇだろ。サグメもお前のこと心配して、敵を足止めしてくれてる」

 ゆっくりと肩を抱えるようにして美輝を岩の下まで連れて行くと、潤は馬を呼び寄せて美輝を乗せた。馬を先に行かせ、自分は泳いで岸まで戻り、再び馬に乗るとサグメの幻影を逃れた敵兵を払いのけながらイナサ浜を後にした。この時、襲い掛かる敵兵の振るった剣が潤の左腕を掠ったが、美輝がその負傷に気づくことはなかった。

 オオクニヌシの館は皆すっかり寝静まっている。大勢の負傷兵が寝ている中、美輝の帰還を知らせて館の者たちを起こすのは逆に迷惑だと考え、潤は裏庭の離れの小屋に美輝を運んだ。

「ねぇ、タケミナカタ、死んじゃったって…」

「あぁ、聞いたよ。残念だ。神話だと助命されるんだけどな」

 潤はわざとそっけなく答えた。

「タケミナカタがそんなお願いするわけないじゃない。自分だけ助けてもらうなんて」

「お前も武人の心がわかってるんじゃないか。タケミナカタはほんとに立派な男だったと思う。……お前にはもったいなさすぎたよ」

「慰めてるつもり?」

 タケミナカタを思い出して涙ぐんだ美輝は潤の左腕が赤く染まっていることに気がついた。

「ちょっと、大丈夫!? 腕、怪我してるじゃない」

「何ともない。心配するな」

「心配するに決まってる! ねぇ、死なないでよ。あたし――」

 美輝が潤の首筋に抱き着くと同時に、その唇は潤に奪われた。美輝は驚くことも抵抗することもなく潤にしがみつきながら口づけを受け入れていた。潤にとってこれは背徳的な甘美であったが、心の奥底ではもっと早くこうなりたかったという思いが情熱となって湧き出てくる。

 しかし、甘美な時間に身をゆだねている場合ではない。美輝は潤の腕をとり、怪我の具合を確かめた。

「心配するなって言ってるだろ。かすり傷程度なんだから死んだりしないよ」

「でも… きれいにしといた方がいいと思う。ごめんね、こういうのあたしどうしたらいいかわからなくて。りらちゃんならわかると思うけど」

「桧枝さんは今、長柄の看病で忙しいからな。明日、薬師に薬草をもらえばいいよ。とりあえず器に新しい水を入れて、きれいな布が何枚かあればどうにかなる」

「あたし持ってくるね。それに、二人とも乾いた服に着替えないと。潤はここで待ってて」

 早速立ち上がり、美輝は小屋を出ていった。海水に濡れて衣から肌が透き通って見え、特に太ももから足首にかけて引き締まった美輝の足の美しさが際立っていた。その後ろ姿を見ながら、貴子と行った八重垣神社の占いが潤の脳裏にふと蘇った――“新しき道に真実あり”と。


 すっかり左肩の痛みは引いた。りらは負傷兵たちの様子を見回りながら、小まめに陽一の肩を拭き、新しく薬を塗ってくれていた。防具をつけていたおかげで矢の刺さり具合は浅かったので火傷が治れば何ら問題はなさそうだ。

 陽一は今まで寝ていた場所を片づけるとコトシロヌシの参謀役としての務めを再開することにした。

「もう休んでなくていいのか?」

「あぁ、ちょっと不自由なのは左肩だけだからね。あれから何か変わったことは?」

「いや特にない。フサミミヒメと話したんだが、君たちにはあの櫓に上っていてほしい」

 仕事に戻ろうとした陽一であったが、コトシロヌシからこんなことを提案されてしまった。

「フサミミヒメに耳飾りをあげただろう。あの耳飾りが持つ結界の力は強い。だからフサミミヒメを櫓に上げて彼女を守ろうと思う。君はその護衛だ。そして、あの櫓でイズモの勝利を祈るよう、フサミミヒメに頼んである」

「わかった」

 既にりらは櫓にこもる準備をしていた。祭祀の道具や食糧品を運ばせて、自分は水を浴びて身を清めていた。

 館の正殿にはいつものメンバーが集まっていた。現在の状況をオオクニヌシに報告していく。まず、潤がイズモ軍の兵力を説明した。

「我が軍の兵力は五千余り、そのうち騎馬兵は七百騎であとは歩兵です。ツクシに援軍を頼みましたが、高天原軍が水路を塞いでいます。キビは寝返ったのか怖気づいたのか、共に戦う気がないようです。このような状況なので、キヅキ郷を防衛するので手いっぱいでしょう」

「高天原軍の様子は?」

「それが、ずっと上空を偵察しているばかりで戦闘を再開させる気配はありません。敵の兵力は二万はいるでしょうが、いくらでも補充がきくと思われます」

 次にコトシロヌシが話を始めた。

「父上、我々は最後まで戦います。天つ神に屈する気は毛頭ありません。しかし、未来から来た者たちまでこれ以上、我々の戦いに巻き込む必要はありません。フサミミヒメにはあの櫓で祭祀を行ってもらいます。ヒカリサキヒコを見張り役につけます。それから、イカリヌシとイオリも――」

「いや、俺はまだ戦うよ」

 コトシロヌシの言葉を遮って、潤が申し出た。

「しかし、それでは身の危険が」

「そんなのは覚悟の上だよ。少なくとも、クリエに指揮権を移譲してからでないと、俺は櫓に上れない」

 少し前から、潤は副司令官となったクリエに指揮権を完全に移譲すべきではないかと考えていた。クリエと相談すると重責に戸惑っていたが、よそ者の潤よりもよほどイズモ軍を指揮するのに相応しい人材と言えた。

 コトシロヌシがそれを是とすると、美輝もまた潤が地上にいる間は自分も残ると言い出した。これは明らかな変化だった。

「奇妙なことがあるものだ。イオリがイカリヌシに同調するなど初めてだな」

 オオクニヌシは微笑んだが、この時はまだ、陽一もりらも潤と美輝が和解した以上の関係になっていたことには気づいていなかった。

 こうして、外が薄暗くなるとりらと陽一は櫓に上った。りらが梯子に足をかける前に、コトシロヌシはそっとりらを抱き寄せて言った。

「すまない。私は君に何もしてやれなかった。どうやって君たちを未来に帰したらいいか…… イズモの運命は私たちが決めなければならない。だから君はそのきれいな瞳でよく見ていてくれ。未来に帰った時、私たちのことを忘れないように」

「うん。私、ここに来たことを“ご縁”だと思ってる。オオクニヌシの見えない力なんだよ、きっと」

「そうだな」

 コトシロヌシは、イズモが勝利したら…と付け加えた。もうほとんどその望みはないように思われたが、それでも言っておきたかったのだ。

「国中の賢者と巫女を集めて、未来がどうなっているのか見ることにする。君が未来で幸せに暮らしているところを見たい」

 りらは頷いてコトシロヌシを短く抱きしめた。コトシロヌシがりらを促した。陽一は先に櫓の上まで行き、りらの到着を待っている。りらは後ろを振り返らずに梯子に手をかけた。

 櫓は意外と広々としていて、既に運び込まれた生活道具や祭祀用の神具が整頓されていた。ここからはイズモが一望できる。今日は高天原軍の飛行隊は偵察に出てきていないようで辺りはしんと静かだった。

「イズモはやっぱり国譲りをする運命なのかな」

 小さな祭壇を整えながらりらがぽつりと言った。翡翠の勾玉や玉が櫓の屋根からぶら下がり、吹き抜けていく風に身を任せている。

「神話でも俺たちが見てるこの世界でも、高天原は圧倒的な強さだ」

 陽一は暗にりらのつぶやきを肯定した。天つ神の持つ恐るべき力は普通の人間とほぼ同等になってしまった国つ神の力では太刀打ちできないのはもはや明らかだった。

「私ね、何でイズモがこんなに豊かな国になったのか考えてたんだ」

 イナサ浜の方を向いて外を眺めている陽一の隣に来て、りらは話し出した。

「オオクニヌシは自分の国がとっても大好きだからだと思う。イズモの人たちや自然や、ここでとれる山のもの海のもの、全部好き。イズモを作ろうとしてイズモができたんじゃなくて、ここにあるものの幸せを考えて行動した結果がイズモなんだと思う」

「そうだね、オオクニヌシは力がほしくて王になったわけじゃない」

「それにね、オオクニヌシは私に薬草のことや病気が良くなるおまじないを教えてくれて、それって人々を癒す力でしょう? そういう力を発揮できる人こそが王になる資格を持ってるんじゃないなぁ」

 よく観察してたんだな。りららしい視点に陽一は微笑んだ。

 反対に、高天原は統治することが先行しているように思われた。タカミムスヒを頂点とする統治の枠組みを逸脱した者を呪いで死に至らしめることさえ厭わない世界だ。陽一はアメノワカヒコの無残な死を思い出した。寝返ったアメノホヒの行く末も案じられた。

「俺、思うんだけど、誰が王になるかなんてほんとは誰でもいいんだよ」

「え?」

「桧枝さんの言った通り、人々の豊かさと幸せを考えて行動できる者が自然と王になるっていうか…… まぁ、力がないとその幸せも守れないけどね」

「高天原の力は…… あんなの反則じゃない」

 りらは不満そうに言った。潤なら「反則でも強い者が勝ちなんだよ、どの世界でもさ」と言うに違いない。そして美輝は「あり得ない!」と怒り狂うのだろう。しかし、美輝はともかく潤の顔つきが少し柔和になった気がする。美輝が窮地に陥って、潤は大人になったということか。まぁ、仲間うちの雰囲気が良くなるのなら何でもいい。

 月が高く昇り、さやさやとその光が降り注いでいる。二人は保存食をつまみ始めた。イズモの食事は豊かではあったが量が少なく、始めのうちはすぐに空腹になっていたが今では少ない量でも満足できる体に変わっていた。イズモは肥満だとかメタボなどとは無縁の健康的な世界だった。

「私、ちょっと痩せたよ」

 りらは嬉しそうに自己申告したが、陽一にはもともとりらが痩せなければいけないような体形に見えなかったし、介護士は力仕事なのだからもっと食べてもいいのではないかと普段から思っていた。

「桧枝さんはそのままでも十分いいと思うよ」

「ほんと?」

「未来に戻ったらちゃんとたくさん食べなよ。……女性はちょっとふっくらしてた方がかわいい」

「そうだよね。兄にもよく言われる。けど、イズモにいると結構動き回るし、あんまり太らないよね」

 りらの言うとおり、もともと体を動かすのが好きな潤や美輝とは違ってデスクワーク中心だった陽一もコトシロヌシの政務のためにあちこち出かけたり、馬に乗って遊びに行ったり意外と活動的になっていた。りらはたいていスセリビメと共に施薬処で働いたり、村の集落を巡回したり朝から晩まで熱心に活動をしていた。

 初めのうちは見慣れないりらの姿に人々は警戒していたが、コトシロヌシの妃でありスセリビメの信頼を得ていることから受け入れられていき、特に子供たちには人気者だった。

「桧枝さん、ほら、よく子供たちに話を聞かせてたよね。あれってどこで仕入れたの?」

 子供たちはりらのお話が大好きだった。神話や昔話、日本のも外国のも、たくさんのストーリーがりらの口から生き生きと語られると、子供たちはしーんと静まりかえって身を乗り出して聞いているのだった。たまたまコトシロヌシの政務が終わってある集落に立ち寄ると、広場の真ん中にりらが座り、子供たちが周りを囲んで新しいお話に聞き入っているところだった。

「――鬼が島から宝物を持って帰った桃太郎は、お爺さんとお婆さんと幸せに暮らしました」

 そこで一呼吸入れると子供たちは安堵のため息をついた。しかし、りらはまた口を開き話を始めた。

「さてさて、退治された鬼たちはどうしたと思う?」

 思いがけない問いかけに、コトシロヌシと共に話を聞いていた陽一は驚いた。桃太郎にそんな続きなんてあったっけ? すると子供たちがわいわい答え始めた。まるで保育園か幼稚園のようだ。

「鬼は桃太郎をやっつけに行ったんだよ」

「おじいさんとおばさんを食べちゃった!」

「神さまにおねがいして、けがをした鬼をなおしてもらったの」

「鬼はわるいんだから、神さまはたすけてくれないよ! ねぇ、フサミミヒメさま」

 一通りの騒ぎが収まると、りらはにっこり微笑んでこう言った。

「残った鬼たちはね、仲間を集めて鬼が島から出ていったの。そして桃太郎に見つからないように新しく住む場所を探して旅をしました。何日も歩くと、とても美しい入り江を見つけて、その近くにひっそりと住むことにしたのです。鬼たちはもう入り江のそばから離れず、いつか王さまになってくれる鬼が来ないかなと思いながら今もずっと楽しく暮らしているのです!」

 今度こそお話が終わると、子供たちは「えーっ」と驚きの声を上げた。陽一も心の中で「マジかよ」とつぶやくくらい突飛な後日談である。それでも子供たちは鬼たちのその後が気に入ったようで、さっきまで鬼は悪いと断じていた子も「良かったね」などと隣の子と言い合っている。

「フサミミヒメさま、鬼はどこに住んでるの? イズモにはいる?」

「さぁ、それはどうかしら。だって誰も見たことないんだもの。でも、鬼を見つけても追い出そうとしちゃだめよ」

「鬼の王さまが来るといいね」

「じゃあ、コトシロヌシさまはどう?」

 突然の子供の提案に、コトシロヌシは笑って返事をした。「私はイズモの王にならなければならないからね。二つも王の仕事をするのは勘弁してほしいな」と。それでこのお話の時間はお開きになり、大人の三人は名残惜しそうに集落を後にしたのだった。

 櫓の屋根の隙間から心地よい風が吹き抜ける。りらは集落を巡回していた楽しかった日々を思い出した。

「そう、あれはね、全部私が考えた話。おかしいでしょう? だけど、昔話を聞くと私の頭の中には勝手にその後の話が浮かんでくるんだ。どこかで読んだのかなって思うんだけど、誰もそんな話は知らないっていうからやっぱり私の想像ってことになるね」

 陽一は少し恥ずかしそうにしているりらを愛おしく見つめた。そういえば、大学時代のゼミでもりらは教授からレポートの内容の根拠を聞かれて、「根拠はないけど私の心の中に浮かんできたんです」と臆面もなく答えていたことがあった。あの時、陽一は「何だこの子は。やる気あるのか」と呆れたのだった。

 ここがもし神話の世界でなければ、あの玉造温泉の灯篭の明かりに包まれた夜道であれば、陽一は迷わずりらを抱きしめていただろう。そうしなかったせいで、陽一にとっての太陽は思ったよりも遠くに行ってしまった。

「コトシロヌシは何か言ってた?」

 陽一はここに上がる前の二人の会話について訊いてみた。

「イズモが勝って、私たちが無事に未来に帰ったら、神さまの力で未来を覗いてみるって。私たちがどんな暮らしをしてるか、見たいみたい」

「それは面白いな。俺たちも過去を覗けたらいいのにね」

 特に深い意味はなく口にした言葉が、りらの顔を曇らせた。慌てて陽一はどうかしたのか尋ねた。すると、りらは少しばかり衝撃的な事実を告げたのだ。

「もし何もかも元に戻ったら、コトシロヌシは正式にイズモの王になるよね。そしたら奥さんを呼び寄せるのかなぁって考えたら、ちょっと悲しいなと思ったの……」

「え、奥さんって? コトシロヌシは独身じゃないの!?」

 当初、りらもコトシロヌシは妻帯者ではないと思い込んでいたが、集落を巡回中に偶然、正妻の存在を知ってしまい、コトシロヌシに問うと隠すことなくタマクシヒメという妃がいると告げられた。どうやら彼女は出産を控えて故郷のヒムカで暮らしているらしい。

「もしかして、タケミナカタにも正妻がいるの?」

「うん。確か、ヤサカトメって名前で、スハにいたみたいよ」

 過去形なのは既に彼女が他界しているからだ。タケミナカタが母のいるコシを訪れた際、遊びに来ていたヤサカトメに一目惚れしたタケミナカタが正妃にしたということだったが、ヤサカトメは生まれ故郷を離れることを嫌がり、ついにイズモの地を踏むことなく出産後間もなくスハで亡くなった。

「この話、徳永さんは知ってるの?」

「たぶん知らないと思う……」

 タケミナカタはともかく、誠実なコトシロヌシが自分の正妃が出産のために里帰りしているにもかかわらず、フサミミヒメという新しい妻を――たとえ一時的だとしても――迎えたということに、陽一は驚きを隠せなかった。恋の女神はサグメのように気紛れで、時にひどいダメージを食らわせてくるものだ。

「じゃあ、未来に戻ってもしばらく恋はしない?」

 大胆にも、陽一はそんな質問をぶつけてしまった。機嫌を損ねてしまうかもしれないと後悔したが、りらは気にする風もなくあっけらかんと言う。

「それはわからないよ。だって、この世界のことはもしかしたら夢かもしれない。本当の私の世界とは違うものね」

「夢か。そうかもしれないね。鳥居の階段から落ちた時に打ち所が悪くてこんな夢を見てるのかな。隣にいる桧枝さんがただの俺の夢だとしたらすごく悲しいけど」

「うーん、それは私も同じかな。長柄くんが本物じゃなかったら、随分と私は長柄くんのこと――」

 思いがけない嬉しい言葉の心地よさに浸りかけたその時、りらは最後まで話すことなく素早く立ち上がって櫓の縁に駆け寄った。大きな不快な音と共にオレンジ色の光が月のほのかな明かりをあざ笑うかのように漆黒の天に広がった。

「今の何!?」

 陽一も身を乗り出してその音と光の正体を確認したが、結論は最悪のものだった。遠雷が次第に近づいてくる。タケミカヅチが高天原軍を集結させ、夜襲をかけてきたのだ。しかも、その攻撃は今までにないパターンで対象はイズモ軍やオオクニヌシの館ではなく、それらから離れた土地、つまり山や田畑、入り海の沿岸などである。

 その意味するところを理解して、りらは短く悲鳴を上げた。

「イズモの人たちが避難してるところが攻撃されてる……!」

 そう、高天原軍がこれまでイズモ軍を本気で攻撃せず、王の住まう中央の館を包囲することがなかったわけがここにあった。タケミカヅチはオオクニヌシが簡単に降伏することはないとわかっていたし、軍同士をぶつけて自軍の兵力を削ぐのは無駄だと思っていた。そして、オオクニヌシや息子たちは何よりも国とそこで暮らす民のことを第一に考えるであろうこともわかっている。

 だからこそ、高天原軍はイズモの民を本気で殲滅しにかかったのだ。何日もかけて上空から偵察していたのはそのためだ。手当たり次第、イズモの豊かな大地を破壊するよりも民が隠れている場所を特定した上で、集中砲火を浴びせるという作戦だった。山間部には数多くの洞穴が人工的に作られており、高天原軍がやって来る前にイズモの民はそこに隠れ住んでいた。山のふもとから地下道を掘って山の下に隠れている者も大勢いた。

 高天原軍がどうやって攻撃をしているのかはよくわからない。しかし、雨霰と大きな火の玉が降り注ぎ、稲妻がのたうちまわるオロチのごとく森の中を駆け巡った。

「長柄くん! どうにかできないの!? あそこにみんながいるのに……」

 りらの瞳は既に涙でいっぱいになり、ぎゅっと勾玉を握りしめている。そして、櫓から下りようと梯子に向かおうとしたが、陽一がそれを強く禁じた。

「ダメだ、桧枝さん。コトシロヌシは俺たちにここから下りるなって言っただろ。二人が下りたところでどうにもならないんだ」

 りらの悲痛な気持ちはよくわかる。集落の子供たちや施薬処に収容されていた病人たち、それに顔見知りになり世話を焼いてくれた人々が炎に包まれているのだ。

 信じがたい光景になす術がなかったのは、地上も同じだった。予期せぬ場所への急な襲来に即応できるだけの力がイズモ軍にはなかった。まるで米軍B-29の空襲を竹槍で応戦しようとする日本のように、たとえイズモ軍に余力があり無傷だったとしても、空からの攻撃にはどうすることもできなかった。

 イズモ中で危機を知らせる狼煙が上がっている。各軍団長の指揮で、近くの攻撃地点へ部隊が派遣されているだろう。潤とクリエは慌ただしくキヅキ軍団を中心に軍を編成した。戦いが始まる前、潤はタケミナカタに一般民も武装させるべきだと提案したことがあったが、武器の数も足りないし訓練する時間的余裕もなかったので実現しなかったことが悔やまれた。かといって、今の状況下で武装民に何ができるかというと何もできないだろう。そもそも防空の概念がなく、そんな必要もなかったのだから。

 陣に詰めていたコトシロヌシの元へ妹のシタテルがやってきた。涙が頬を伝っている。シタテルは跪きさらに地にひれ伏しながら兄に訴えた。

「兄さん、お願い。私たちの民がたくさん死んでるのよ、降伏して。彼らこそがイズモの宝なのよ!」

「シタテル…… お前の気持ちはよくわかる。私だってそう思ってる。だが、ここで降伏するわけにはいかない。イカリヌシとクリエが軍を早急に送り込んで――」

「いつまでたっても戦いは終わらないわ! 父さんの国と母さんの国が争うのはもう嫌。降伏が無理なら条件を出して交渉するのでもいい。民を守ってこそのイズモよ、兄さん」

 なおも言い募るシタテルをどう説得しようかコトシロヌシが考えあぐねていると、陣の外に誰かが馬で到着したようだ。

「父上!」

 オオクニヌシが初めて館を離れて陣へやってきたのだった。シタテルが慌てて兄の前から下がり、父にその場を譲った。オオクニヌシは娘の姿を見ると目を細めて微笑んだ。

「シタテル、お前は兄に降伏するように勧めたのであろう」

 さすが父親だけあって、なぜここに娘がいるのかオオクニヌシはすぐに察しがついたようだった。

「コトシロヌシよ、シタテルの申す通り民の命は何物にも代えがたい。私が皆と共に作ってきたイズモだが、もう私がいなくとも十分豊かに成長していけるだろう。お前という立派な指導者もいることだしな」

「まさか、父上……」

 突然何を言い出すのだと、コトシロヌシは立ち上がりオオクニヌシに歩み寄った。最悪の状況が思い浮かんだ。シタテルもまたそろそろと立ち上がったが、その顔は一層青白くじっと父を見つめている。そしてオオクニヌシは穏やかな表情で子供たちに告げた。

「私の身と引き換えに民への攻撃を止めるよう、これから私はフツヌシに伝えに行く」

「そんな……!」

「だめよ、父さん!」

「良いのだ。間もなくフツヌシがイナサ浜に現れるだろう。コトシロヌシ、後は頼んだぞ。お前は私の誇りだ。タケミナカタの分までイズモを背負うことになろうが…… シタテル、何よりも美しい私の娘よ。これからも兄を助け、そして幸せになるんだよ」

 シタテルは号泣しながらオオクニヌシに抱きついた。なぜ私の大切な人たちが私から去っていかなければならないの?

 オオクニヌシは子供たちを二人とも一緒に抱きしめると、何事もなかったかのように陣を出ていった。シタテルとコトシロヌシは後を追ったが、父は軽やかに馬に跨りイナサ浜に向かって駆け出していた。

 その場で崩れるように蹲ってしまった妹を臣下の者の手を借りながら馬に乗せ、コトシロヌシは館へ急いだ。正門の衛兵たちに厳重警戒を命じ、門を抜けるとまっしぐらに正殿に駆け込んだ。そこには、スセリビメ、サグメ、美輝、そして潤が揃っていた。コトシロヌシを見るや潤は苦渋に満ちた声で状況を報告した。

「全く歯が立たなかった。山の裾野へ行ったのはいいけど、空からの火矢に攻められて先へ進めない。一度引き返してきたんだ」

「そうか、やはりこちらの力では――」

「それに、今、スセリビメからオオクニヌシのことを聞いたよ」

 妃のスセリビメの目には少しの涙もなく、ただ夫の決断を受け止め、諦めたような感じである。スセリビメはオオクニヌシの正妃らしく、未来からやってきた潤と美輝に言う。

「あなたたちは十分、イズモに尽くしてくれたわ。突然、こんな世界に飛んできてしまって辛かったでしょうに。でももう一緒に辛い思いをしてくれる必要はないのよ。イズモは私たちの国なのだから、あなたたちは未来の自分たちの国を助けて守ればいいの」

 そしてスセリビメは美輝を手招きすると、自分の首にかけていた若草色のスカーフを美輝にかけてやった。

「これは?」

比礼ひれと言ってね、悪しきものを遠ざける力を持っているわ。さぁ、あの二人が待ってる櫓に上りなさい。いいから早く。……早く!」

 潤と美輝の背を押すようにして、スセリビメは退出するよう促した。後ろ髪を引かれる思いで、半ば追い出されるように館を去ることになった二人は手を取り合いながら櫓へ全力で走った。山の裾野は煌々と紅蓮の炎が踊っていた。

 山々に走る閃光で、篝火など必要ないくらいイナサ浜は明るく照らされ、波間が銀色に光っている。オオクニヌシは一人、イナサ浜の静かな水面を見つめた。しばらくすると視界が遮られるように暗くなり、男の声がした。

「覚悟ができたのか、オオクニヌシ」

「私の命と引き換えに、民を攻撃するのを止めてほしいのだ」

 暗闇の中から、ふっと鼻で笑う声が聞こえた。フツヌシは「さすが、イズモの王はものわかりがいい」とつぶやき、高い音の笛を吹いた。ピューっという音は鋭い矢のように空気を切り裂き、山々にこだました。何度か笛を吹いた後、イズモを不気味に明るくし、大地を揺るがしていた攻撃がぱたりと止んだ。

「これで満足か」

 フツヌシが言うや否や、辺りが騒がしくなる。月明かりが目に入るようになると、オオクニヌシは自分の周囲が高天原軍の小隊に囲まれていることを知った。微かな雷鳴が聞こえたと思ったすぐ後に、フツヌシの隣にタケミカヅチが勝ち誇った顔で降り立った。何本もの稲妻がオオクニヌシを取り囲み、牢獄のように動きを封じている。

「言い残すことは?」

 タケミカヅチが冷たく問うと、オオクニヌシはそこにどっしりと胡坐をかき、真っ直ぐ敵二人を見返しながら応えた。

「これから私は幽界を司る。しかし、常に心はイズモの民とともにあり、未来に至るまで、私を必要とする者があれば全て助けよう」

「それだけか?」

 オオクニヌシが無言で頷く。するとタケミカヅチは右手を剣に変え、オオクニヌシの背後に回り込んだ。

「息子と同じ方法で黄泉の国へ行かせてやる」

 吐き捨てるように言うと、タケミカヅチは右手をオオクニヌシの背に思い切り突きつけた。オオクニヌシは呻き声を立てることなく静かに浜に横たわった。イズモの王の掌は指先が真下に来るようにしてぴったりと合わせられていた。

「さすが、イズモの王。最後まで国を譲るとは言わなかったな」

「見ろ、フツヌシ、こいつの手を。逆手か」

「俺たちを呪ったな」

「怖がるな。タカミムスヒ様の力には適わない。それに、コシの女王と翡翠があれば呪いなんぞ跳ね返すに決まってる」

「そうだな、早いところ片付けちまおうぜ」

 合図をすると部下の兵士たちがオオクニヌシを勾玉が規則的に結び付けられた縄で縛りつけ、担ぎ上げた。兵士たちはそのまま宙に浮かび、イナサ浜の沖へ向かう。そしてタケミカヅチとフツヌシが見守る中、死せる王を黒光りする海へ放り投げた。ふわりふわりと亡骸は波に揺られ、沖の方へと旅立っていった。


 無辜の民への攻撃がぱたりと止み、館にいたコトシロヌシらは安堵したが、それは長くは続かなかった。一部の軍団を民の救出に向かわせていたが、高天原軍は容赦なくイズモ軍を攻撃し始めた。地上に多数の兵が送り込まれ、もう館のすぐ近くまで迫っている。オオクニヌシを失ったイズモは空前の灯となり、高天原軍はより一層勢いづいた。

 走り続けてきた潤は振り返りながら尋ねた。

「大丈夫か、美輝」

「あたし、体力は自信あるけどヤバいかも、死にそうかも! 潤がお姫様抱っこしてくれればいいのにっ」

 こんなに大きな声で無駄口を叩けるなら心配ないな。潤はそう判断して、「じゃあ、あとちょっとがんばれ」とそっけなく声をかけた。こういう場合、潤は甘くはない。

 ようやく櫓の下に着くと、上から陽一が顔を覗かせた。口が「早く上がってこい」と言っている。潤は美輝を先に行かせ、辺りを警戒しながら後に続いた。背後を振り返り眼下を見渡すとオオクニヌシの館の間近に高天原軍が徐々に迫りつつあった。残りのイズモ軍と肉弾戦になっているようだ。

「やっと来たか」

「二人とも大丈夫!?」

「あぁ、何とか」

 陽一が手を貸しながら美輝と潤を引き上げると、女性二人は再会を抱き合って喜んだ。とは言え、はしゃげるような雰囲気ではない。潤は今までに地上で起こったこと、すなわちオオクニヌシの死を告げた。

「まだ、国を譲ったわけじゃないのね……」

 止まぬ激しい攻防戦が、りらのため息交じりの言葉を肯定していた。四人は固唾を飲んで地上の戦闘をじっと見つめた。

イズモ軍の前線で指揮を執っているのはクリエだった。ただのキヅキ軍団の小毅に過ぎなかった若者は自分がイズモ軍の司令官として全軍を率いることになるなど思いもしなかった。だが、タケミナカタが戦死し、イカリヌシが本当は余所者だと打ち明けられ、巡り巡って軍のトップという立場に押し上げられてしまった。

「あ、見て」

 美輝が指さす方に目をやると、クリエの隣に館から出てきた馬が寄ってくるのが見えた。馬上には剣を片手に握りしめたコトシロヌシがいた。コトシロヌシは何かクリエに一言二言言うと共に敵陣に突っ込んでいった。イズモ軍も果敢な王と司令官に続いて高天原軍に斬り込んだ。

 りらはコトシロヌシが敵陣深くに入り、四方八方から敵の刃に晒されているのを目の当たりにすると、まともに見ていられないと思ったのか、ふいと祭壇の前に座ってしまった。

 ついに、あの雷鳴が轟いた。

 宙を駆け抜けてきたタケミカヅチは自陣の中へ降り立つと、コトシロヌシに向かって全速力で飛び掛かっていった。コトシロヌシは上方から襲い掛かる敵将に剣を突きつけたが、タケミカヅチはその刃を両手でがっしり掴み投げ捨ててしまった。タケミカヅチの手は切れて怪我をするどころか、一瞬で形を変え、二本の剣がコトシロヌシの首筋に当てられていた。クリエはコトシロヌシを助けようと矢を射かけたところを、フツヌシに組み伏せられてしまった。

「さて、王を捕えたぞ。イズモは終わりだ」

 高天原の兵士たちがコトシロヌシとクリエを縛り、剣を突きつけながら追い立てていった。フツヌシが笛を吹くと、高天原軍は一斉にオオクニヌシの館へなだれ込み、美しい装飾品を破壊し、血で床と壁を汚しながら正殿に向かった。

 正殿が多数の敵に囲まれ逃げることが不可能になると、タケミカヅチとフツヌシが余裕の笑みを浮かべながら現れた。

「残念だが国を譲っていただけなかった代償がこれだ」

 シタテルはその美貌のためにタケミカヅチの戦利品として捕えられた。丁重に扱われながらすぐさま高天原軍に回収された。アメノサグメもまた捕えられた。裏切り者として裁きを受けるかどうかはタカミムスヒの機嫌次第だろう。そして、スセリビメは捕えられる前に口に含んでいた毒薬を噛み砕いて絶命した。

 イナサ浜では小さな木船が水際に浮いている。縛られたコトシロヌシが木船に乗せられ、タケミカヅチとフツヌシがオオクニヌシの館の掃討を終えて戻ると、木船が兵士たちに引っ張られ浜を離れた。

「見ろ、コトシロヌシ。お前の王国の最後だ」

 コトシロヌシの目にはどす黒い煙と緋色の炎が渦を巻いているのが映った。生まれてからずっと暮らしてきた父の館が燃えている。にわかには信じがたい豊かな自国の滅亡に、胸が張り裂けんばかりの絶望を今になって感じた。高天原軍の圧倒的な兵力と天つ神の不思議な力に、全くと言っていいほどイズモは歯が立たなかったとはいえ、失ったものは余りにも大きい。

 木船は沖に連行され、雲に浸食されていく微かな月光の下でコトシロヌシの処刑が行われようとしている。上空では捕えられたシタテルとサグメが見せしめのためにその様子を見させられていた。

 コトシロヌシは己の目の前で宙に浮かんでいる敵将を見据えて言い放った。「もしオオクニヌシの子孫に災いなす者があれば、その者は苦しみながら死ぬだろう」と。そして、言い終わるや逆手を打って木船を勢いよく蹴り、海水に飛び込んだ。

 ここに、イズモは滅亡した。


 ぽつぽつと雨が降り出した。櫓には開閉できる庇が取り付けてあったが、イズモ中の様子を見るために庇が下されることはなかった。

「館が燃えてる……」

 潤の声に触発されて、女性二人が泣き出した。座り込み、互いに手を握り合いながら無言で泣き続けた。突然、わけもわからずこの世界に放り込まれて、早く元の世界に戻りたくてしかたなかった。今でもそうだが、それでもイズモでの生活は楽しいこともたくさんあった。毎日のように温泉に入れたし、治安の心配もなく出歩くこともできた。量は少なかったものの食事に事欠くことはなく、ちょっとした仕事もして役に立つことができた。衣類や装飾品などは普段身に着けていたものよりもずっと質が良く高価でさえあった。

 ところがこの国の末路は、平和的な国譲りを語る神話とは違った。強大な軍事力を持つ非情なタカミムスヒの一存により、多くの血が流れていたのだ。

 イナサ浜の様子が何か変だ。じっと伺っていると、タケミカヅチとフツヌシがやってきて木船と共に沖に出ていった。

「あれ、コトシロヌシだよな」

 視力の良い潤はコトシロヌシが縛られていることに気づいた。あぁ、ここで処刑されるんだ――。小さな水飛沫が上がるのが見えた。コトシロヌシが入水して自害したのだった。

 高天原軍は撤退を始めた。既に中つ国はコシからヒムカまで高天原軍によって制圧されており、もはや抵抗する大きな勢力は消えていた。

 雨が大降りになってきた。強い風と共に雨が横からもなだれ込んでくる。庇を閉めようとした時、ひときわ大きな雷鳴と稲光が炸裂した。高天原軍と一緒に一度は引き上げていったが、タケミカヅチが戻ってきたのだ。何か小さなものを手に握り、外に向かってかざしている。

 どしゃぶりの雨に晒されて、全身が滴るくらいに濡れている。潤と陽一は武器を手にしたが、つるつると滑って心もとない。

「あいつ、こっちを見てる!」

「嘘だろ。結界があるから見えないはず……」

 無数に取り付けられた勾玉と、りらがコトシロヌシから譲り受けた黄金の耳飾りの力で、この櫓は敵から隠されていた。しかし、タケミカヅチはオオクニヌシの館の祭壇から奪い取った鏡で櫓の存在を見破ってしまったのだ。タケミカヅチが四人に話しかける。

「お前たちの姿が見えないと思って探してたのだ。その二人の妃は俺とフツヌシの戦利品としてもらっていく。大人しく渡してもらおうか」

「そうはさせるかっ」

 陽一と潤は女性たちを後ろにして立ちはだかった。しかし、この状況でどうしろと言うのだ。

 タケミカヅチは稲妻の矢を放った。どしんと櫓が揺れた。二本目の矢は櫓の柱ではなく、潤と陽一の立っている隙間を抜け、美輝を直撃した。

「おい、大丈夫か!?」

 美輝はその場に蹲っていたが、どうやら無傷らしい。スセリビメが最後にくれたあの比礼をとっさに振ったところ、美輝の目の前で稲妻の矢が消え去り難を逃れたのだった。潤は美輝からその比礼を受け取ると、タケミカヅチの攻撃を次々にかわしていった。しかし、さすがにきりがないと思ったタケミカヅチは櫓の柱を攻撃し始めた。一所から火の手が上がった。炎が風に巻き上げられ、その瞬間、潤の手から比礼がもぎとられるように風に持っていかれてしまう。

「櫓を下りよう」

 炎の広がりに逃げ場がなくなりつつあると認識した陽一が言った。そして、そこらじゅうにぶらさがっている玉や勾玉などを手当たり次第にもぎ取り、仲間に手渡す。

「きゃっ」

 短い悲鳴と共に、床に何か散らばる音が聞こえた。

「桧枝さん!」

「私は無事! でも、耳飾りが……」

 りらの視線の先には砕け散った耳飾りがあった。タケミカヅチの矢がりらの右耳をかすったのだ。比礼に続いて耳飾りが失われ、身を守るものがなくなってしまった。りらは陽一が手渡した装身具を急いで首からかけた。気休めかもしれないが、ないよりはましだ。

「俺も気が長い方じゃないんでね。力づくでも妃をいただいていくことにするよ」

 タケミカヅチはとうとう櫓に乗り込んできた。

取り押さえようとする潤と陽一を軽々と蹴散らすと、づかづかとりらに近づく。りらは体が熱に包まれるような感じがした。胸の勾玉が光っている。

 再び潤がタケミカヅチを攻撃しようと剣を振るったが、タケミカヅチは防具をはめた太い腕で受け止めてしまう。タケミカヅチがその手を剣に変え、潤の胸をめがけて突き刺した。

「いや――」

 美輝の悲鳴が響く。時間が止まったような気がした。

 タケミカヅチは確かに手ごたえを感じ、敵将の一人イカリヌシを仕留められたことに満足しかけた。ところが、手の剣が貫いていたのは、タケミカヅチが最も欲していた女、オオヒルメの胸だった。

「オオヒルメ様っ! なぜここに――」

 朦朧とした意識の中で、オオヒルメはかすかな声を振り絞ってタケミカヅチに言い放った。

「あなたの…… タカミムスヒの好きにはさせない……」

 オオヒルメは大きな薄水色の勾玉を首から下げ、それを握りしめていた。勾玉はほんの少し淡く光っているように見える。雨が涙のように額から頬に伝い、胸元から溢れ出る鮮血を洗うように流している。生気が失われつつあるオオヒルメの勾玉は反対に光の強さを増していった。それに呼応するかのように、りらたち四人の勾玉も輝き始めた。

 オオクニヌシがイナサ浜でひとり処刑されたということは、天の安河原にも伝えられ、それを聞いたオオヒルメは高天原を完全に見限り、黄金の魚に変身してイズモにやってきたのだった。しかし、オオクニヌシの息子も入水し、オオヒルメはイズモの滅亡を直接その目で見ることとなった。タケミカヅチが高天原に凱旋すれば、自分は憎き男の妻にならなければならないという運命が待っていた。

 それならば最後にタケミカヅチの野望を打ち砕き、一矢報いてやろうと思い、自らタケミカヅチの剣に飛び込んだのであった。タケミカヅチは高天原の高貴な女神であり、自分の想い人であるオオヒルメをまさに己の手で死に追いやってしまったことに愕然としている。イズモの二人の妃や敵将の存在などもう視野に入っていない。

 オオヒルメは自分をじっと見つめる四人の方を向き弱々しく微笑んだ。そこだけ太陽が照りつけているような強い光が櫓を包み込んでいる。

「……逃げ、なさい」

 その言葉にはっと我に返ったタケミカヅチが後ろを振り返ると、櫓には息を引き取ったオオヒルメの他には誰もいなかった。


 激しい戦闘が繰り広げられていたとは想像がつかないほど、イナサ浜は穏やかだった。透き通った青が沖に行くほど深くなり、時折、反射された銀色の光が眩しく目に飛び込んでくる。アメノホヒは櫓を見上げた。火災で一部が崩れ落ちているが、修繕すればまだまだ使える。

 高天原軍が中つ国から引き上げた後、タケミカヅチはオオヒルメの亡骸を海に流すと天の安河原に戻って、タカミムスヒに中つ国平定の報告をした。タケミカヅチは最高神から労いの言葉とたくさんの褒賞を貰い受けた。フツヌシもまた中つ国平定の勇者となった。

「これで中つ国へ安心して行くことができるぞ、オシホミミよ」

 タカミムスヒは「荒ぶる神々がいる」と言って戻ってきてしまったオシホミミを再び中つ国の支配者とすべく、呼び寄せた。

 ところが、オシホミミは中つ国へ行くことを頑なに拒んだ。弟のアメノホヒのように高天原を裏切り、オオクニヌシと共に戦うべきであったと後悔する毎日である。アメノホヒは罪を問わないから高天原に戻るようにと命じられたが断り、未だに中つ国に滞在している。それだけでなく、イズモに建っている高い櫓を天に届くほどさらに高くして祭祀用の建物に改修すると言っているらしい。

「なぜ、拒否するのだ」

 タカミムスヒは怪訝そうにオシホミミに尋ねた。

「私には相応しくないと思うからです。タクハタチヂも私も、今後一切、中つ国統治の話は聞きたくありません」

「何と身勝手な子供たちか! ならば、そなたの息子を新しい中つ国の王とする」

「ニニギですか…… いいでしょう。あれも成長した。旅をさせるものだと思って手放しましょう」

 オシホミミは吐き捨てるように言うと、踵を返してタカミムスヒから去っていった。タカミムスヒはともかくも新しい王が見つかり安堵して、息子を呼んだ。

「オモイカネ! オモイカネはいるか? ニニギの伴をする神々を集めるのだ!」


【第6章へ】

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