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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
神々は逆手を打つ
8/31

第5章 <2>

 タカミムスヒはタケミカヅチを高天原軍の将とすることに決定し、遣いをやった。アメノオハバリは息子が最高神のお眼鏡に適ったことをたいそう喜び、息子を送り出すとともにありったけの刀を献上した。

「親父、俺はタカミムスヒ様のために中つ国を制圧してくるぞ。首を長くして待っててくれや」

 タケミカヅチは勇んで天の安河原に向かった。既にオモイカネによって軍が編成されており、将に抜擢された雷神の到着を待っていた。天の安河原に稲光が走った。神々の間からどよめきが沸く。

 タカミムスヒの周りにはその子らが並んでいたが、オシホミミと妻のタクハタチヂはついぞ姿を現さなかった。武力によってスサノオの子孫が攻められることになる決定的な場面に居合わせるのは苦痛でしかない。オオヒルメにとっても、タカミムスヒの意向は悲しみの原因であった。オオクニヌシと共に歩いた素朴で穏やかな日々が忘れられない。明るい光に包まれた中つ国の浜辺を夢見心地で漂っていた時、何の不安も恐怖もなく小さな幸福を片手に呼吸をすることができたのだ。しかし今まさに、目の前を闊歩している粗野な天つ神によってオオヒルメの淡い夢が砕けようとしている。

「よく来てくれた、アメノオハバリの息子よ」

 オモイカネはタケミカヅチを迎え入れた。

「最高神の御為ならば、どこへでも参りましょう」

「ここにお前に率いてもらう軍勢は用意した。中つ国は荒々しい国つ神どもで溢れているようだから遠慮はいらない。やってくれるな?」

「お任せあれ。ただし、俺の好きなものを戦利品として手に入れることを許してもらおう」

「武具や馬あるいは国つ神や人間ということか?」

「まぁ、そんなところだ」

「いいだろう」

 オモイカネがタケミカヅチの申し出を許可すると、すかさずタケミカヅチは更に要求を加えた。それは、中つ国を制圧した暁にはオオヒルメを妻に迎えたいという、まことに厚顔無恥な求めであった。

「なんとお前は恥知らずな神か!」

 肩を震わせ怒りに満ちた声でオモイカネは怒鳴り、オオヒルメは顔面蒼白となって倒れてしまいそうな様子である。ところが、最高神は憤りもせずに言った。

「よろしい。高天原の勝利と引き換えにオオヒルメを妃とし、いずれ中つ国の王となるオシホミミに従うがよい。ただし、もし勝利に導くことができなければ、お前もお前の父も黄泉の国で虫けらの餌にしてしまうぞ」

「ありがたいお言葉だ。オオヒルメ様はきっと俺の妻になりましょうぞ」

 タケミカヅチはずいと進み出て、オオヒルメの前に跪くとその白く小さな手を取った。オオヒルメは絶望的な気持ちになって身を震わせている。そして、やっとの思いで「お行きなさい」と声を絞り出した。オオヒルメは早くこの猛々しい雷神を遠ざけようと思って言ったのだが、タケミカヅチは愛しい女神から中つ国平定のゴーサインをもらったのだと受け取ってしまった。

 オモイカネは最後にタケミカヅチに移動手段を与えた。アメノトリフネである。

「さぁ、高天原軍の諸兵よ、俺についてこい。国つ神に目に物見せてやろうじゃないか」

 その言葉に全軍が呼応し、地鳴りのような雄叫びが沸きあがった。タカミムスヒでさえもはやタケミカヅチの勢いを止めることはできなかった。


 アメノワカヒコが死んだ朝、すぐにりらとシタテルはオオクニヌシの館に戻された。陽一は雑用係たちに命じてアメノワカヒコを安置する喪屋を作らせた。正式に葬る前にしばらく仮の安置所に遺体を寝かせておき、弔いの儀式を行うのが通例だった。

 シタテルはすっかり心がなくなってしまったように見えた。臥せっている日が何日も続き、りらが運ぶ食事も喉を通らないようだ。時々、中庭に面した縁側に座ってぼんやりと空を見上げていることもある。りらはショックを受けたとはいえ、シタテルほどの打撃はなく、今では館での仕事をこなしていた。ただ、夜になると一人で中庭に出て考え事をしているかのように佇んでいることも何度かあった。陽一はりらが中庭にいるところを目撃するたびに、ここの世界にいることを忘れてりらを抱きしめたいと思わずにいられなかったが、一歩足を踏み出した瞬間に反対側からコトシロヌシが現れて、りらを慰めて連れ戻してしまうのだった。

 潤とタケミナカタはイズモ中の鍛冶職人らに大量の鉄剣を作らせ、高志や筑紫から武器を取り寄せた。

「キヅキ軍団は中央の館の防御、カンド軍団はイナサ浜とそこから続く水路の防御を担当する。他の軍団はそれぞれの地の守りだ。特にイズモ辺境には手厚く兵を配備させてある」

 タケミナカタが潤に説明すると、潤は同盟政策について言及した。

「これは中つ国全体の危機だろう。俺はイズモ以外の国も協力的かと思ってたけど、どうやらそうではないらしい」

「キビのことか?」

「同盟を組むよう申し出てるのに、未だに何も言ってこないんだよ」

 キビはイズモに次ぐ勢力であり、製鉄と製塩に関する高度な技術を擁するとともに瀬戸内海の交通を制していた。イズモにとっては背後のキビがどう動くかで中つ国を守ることができるかどうかが決まると言っても過言ではなかった。

 ようやく潤たちの懸念が払しょくされることとなった。キビから使者がやってきて、鉄製品の供給と軍の派遣に同意したことが伝えられた。これで背後を気にせずに高天原と対峙することができる。

 連日、イナサ浜は張りつめた空気に覆われていた。潤の指揮下にあるカンド軍団の兵士たちが浜に沿って配置され、いつ来るとも知れない高天原の使者に対する攻防の準備を万全にしていた。珍しく視界の良い日だったが、西の空が急に陰り出した。その影は稲光を伴って水平線を覆い、こちらへ向かってきた。

「とうとう来たか」

「あぁ、どうやら本気のようだな」

 稲光と雷鳴があっという間に近づき、不思議な船に乗った大柄な男の姿が視認できるようになった。影のように見えたのは、軍勢である。アメノトリフネは海面から少し浮いた状態で停止した。タケミカヅチは佩いていた剣を抜き放ち、切っ先を上に向けるとそのままゆらゆらと揺れる波の間に剣の柄を刺し、驚くべきことにその鋭い刃の上にひょいとあぐらをかいて座った。国つ神には到底真似できない芸当である。

「俺はタケミカヅチ。タカミムスヒとオオヒルメの仰せにより高天原から遣わされた者である。ここにオオクニヌシはいるか?」

 陣屋に控えていたコトシロヌシが陽一を連れて、タケミカヅチの前へ出た。

「私はオオクニヌシの子、コトシロヌシだ。父の代わりに話を聞こう」

「タカミムスヒは中つ国はその御子が統べる国であると宣言なさった」

「何を勝手な…!」

「で、俺の任務はタカミムスヒの言葉を実行し、オオヒルメのためにこの国を手に入れることだが、まず一日お前たちに考える時間をやろう。大人しくタカミムスヒとオオヒルメに従ってお前の国を譲るか、それとも剣を交えるか」

 一方的にタケミカヅチは言い放つと、またアメノトリフネに乗って沖に引き上げてしまった。コトシロヌシと陽一はタケミカヅチが明日までこちらにはやってこないことを察知すると、即座にオオクニヌシの館に向かい、潤はカンド軍団に引き続き防衛態勢を崩さないよう指示すると、タケミナカタと共に早馬で館に戻った。

「父上!」

 いつもの大広間に駆け込む。オオクニヌシは静かに構えていた。

「高天原の使者がやってきました。それも大軍を率いて…」

「国を明け渡すかどうか、一晩考えるようにと言って引き上げていきました」

「一晩考えるも何も、イズモは我々の国だ。そして中つ国は天つ神の住まう場所ではない」

 オオクニヌシはきっぱりとはねつけた。それでも一晩の猶予がある。最終的な対応策を練ることに費やすべきだろう。しかし、タケミカヅチの言葉には一つ気になるところがあった。それはタカミムスヒとオオヒルメの命により遣わされたということ、オオヒルメのために戦うということだった。

「オオヒルメが中つ国平定を指示してるということなのか…?」

「そんなはずはないでしょう。フサミミヒメとヒカリサキヒコの前にオオヒルメが現れて、我々に忠告したではありませんか」

「そのオオヒルメが偽物ってことは?」

 息子たちが言い合っているのを、オオクニヌシが制した。オオヒルメはかつて妻だったのだ。息子たちよりもオオクニヌシはオオヒルメの為人をよく知っている。それに、根の国で暮らしているスサノオに会ったことがあるオオクニヌシは、スサノオが「妹は元気だろうか。もはや父イザナギも母イザナミもおらず。私も中つ国に追放されてしまった。高天原でオオヒルメの立場は弱いだろう」と気遣っていたことを思い出した。心優しいオオヒルメが兄スサノオとかつての夫が暮らす中つ国を、タカミムスヒと共に侵攻するはずがないことは確かだ。

「オオヒルメがこちらを敵視する意図はないっていうことはわかったけど、そもそもスサノオは何で追放されたの?」

 美輝が尋ねると、アメノワカヒコの死後、オオクニヌシの館に住み着くようになったアメノサグメが「おしえてあげようか。あたし、高天原にいたから知ってんだ」と口を出してきた。

「あのね、スサノオが大きくなるとイザナギに疎まれて、お前はどこか遠くへ行ってしまえって言われたんだよ」

「父親に嫌われたの?」

「いいや、タカミムスヒが唆したに決まってるだろ。まぁ、亡くなった母に会いたいと騒いでいたってのもあるかもしれないけどね。で、スサノオは仕方なく根の国に去ることになった。だけど、その前に妹に別れを告げたいと思って、会いに行った。そうしたらさ、あのタカミムスヒが武装してさ、お前に邪な心があるから戻ってきたんだろう、高天原を乗っ取るつもりだろうってオオヒルメの前に立ちはだかったんだ。そこで、オオヒルメは兄をかばって、スサノオの心は清いはずだ、誓約うけいをすればわかるってことになった」

 誓約というのは真偽や成否について祈誓して神意を伺うものである。タカミムスヒはオオヒルメを自分の代理にして、スサノオとオオヒルメは互いの持ち物を交換してそれから子神を生み出すことにした。

「スサノオから男神が生まれたら清い心ってことになったのさ。さてさて、オオヒルメはスサノオの剣を砕いて口に含むと――こんなこと、あんたら国つ神にはできないだろうね――霧みたいに吹き出して子を産んだ。女神が三柱出てきたんだよ。タカミムスヒの心は邪悪だってことさ。で、スサノオはオオヒルメの勾玉を噛み砕いて同じように子を吹き出した。すると、男神が五柱出てきた! 最初に出てきたのがオシホミミ、次がアメノホヒってな具合にね」

「スサノオは何も悪いところはなかったってことだな」

「その通り! ところが、タカミムスヒはとんでもないことを言ったのさ。スサノオ、お前が生んだ男神はそもそも私の代理であるオオヒルメの持ち物から生まれたのだから当然我が子だ――」

「とんだ言いがかりじゃないか」

 こうしてタカミムスヒはスサノオからは女神が生まれた、つまりスサノオには邪悪な心があるということにしてしまったのだ。スサノオはこの仕打ちに激怒し、高天原で暴れまくった。不本意ながらも大人しく高天原を去ろうと思っていたのに、更に心が邪だと虚偽の断定を下されてしまったのだから当然だろう。オオヒルメはあまりの理不尽さに嘆き悲しみ、タカミムスヒへの抗議の意を表すため天の岩戸に隠れてしまった。

「ねぇ、サグメの話、私が知ってるのと違う…」

 りらの言葉に、一同は注目した。スサノオが追放されることになるくだりは、日本の神話の中では一番有名な場面だ。実は陽一もサグメの話と現代に伝わる話とが一致していないことを認識していた。

「前にも言ったと思うけど、スサノオには妹ではなくてアマテラスというお姉さんがいるの。私が知ってる話にはタカミムスヒなんて一言も出てこない。アマテラスが武装してスサノオを尋問して、誓約で負けの判断を下されたスサノオが暴れるとアマテラスが激怒して天の岩戸に隠れてしまうことになってたよ」

「そりゃあ、おかしいね。あんたの話は間違いだよ。きっと誰かに嘘をおしえられたんだ。だって、あたしは実際に見聞きしてきたんだよ、高天原で」

 アメノサグメが自分の話を信じてもらえないと思って反論した。サグメの機嫌を損ねると面倒なことになると思った陽一は、ひとまずサグメの話を肯定した。本当にサグメの言っていることが真実なのかもしれない。

「我々の先祖のスサノオはどのみち理不尽な扱いを受けて、中つ国にやってきた。そうして今まさに高天原の筋の通らない理由で、スサノオの子孫の土地が奪い取られようとしている。我らの国を譲るものか」

 父の心情を代弁したかのように、コトシロヌシが言った。

日が暮れようとしている。おそらく明日、タケミカヅチにこちらの意向を伝えた後にはもはや平和的解決は訪れず、高天原軍の総攻撃が開始されるだろう。同盟国には早馬を送り、共に戦うよう要請してある。イナサ浜からオオクニヌシの館までの道のりも兵を増加動員して守りにあたらせている。館の外に陣も構えた。

 陣の様子を確認しようと、潤が中へ入ると美輝がタケミナカタに向かって問いただしている場面に出くわした。

「ねぇ、どうしても戦わなきゃいけないの?」

「そうだ。国を守るためだ」

「でも、誰かが死んだり傷ついたり悲しいことばかりじゃない、戦争って」

「そうかもしれない。イオリは戦うのが嫌なのか?」

「イヤだ。タケミカヅチと話し合ってみたらどうかな――」

 まるで聞き分けのない子供のように、美輝は頑なに何かを拒んでいた。潤はまたかと呆れながらコトシロヌシに加勢した。

「おい、俺たちを困らせるなよ。この国があんなわけのわからないやつらに乗っ取られてもいいのか」

「だけど戦ったら平和がなくなっちゃう」

「バカか。中つ国の平和を守るために戦うんだぞ、そこんとこ間違えるな」

「イカリヌシの言ってること、いつもわかんないよ。あたしは… あたしは、皆が危険な目に遭うのがイヤなの」

 タケミナカタは美輝の頭をそっと撫でた。

「イオリ、国中の民は皆、山奥や地下に逃げた。それに俺たち武人は戦うためにいるんだ。傷ついたり死んだりする者ももちろんたくさん出るだろうが、武人の務めだからだ。イオリは何も心配するな」

「……イヤ」

 美輝は首を横に振ってタケミナカタに答えた。そして、無言のままタケミナカタの体を押しのけて陣から出ていった。

「ったく、あいつは…」

 舌打ちしそうな気持ちを抑え、潤は美輝を一瞥するとタケミナカタを促して打ち合わせを始めた。

 とうとうその日がやってきた。陽一は寝不足だった。これから直面するであろう戦というものが、今までのようにテレビの中の出来事でも小説の背景でもなく、自分のこととしてやってくるのだ。ただ、神話ではイズモは国を譲ってしまうが、もしかしたら高天原と戦って中つ国が勝利するかもしれないという一縷の希望は捨てていなかった。

 オオクニヌシの館で暮らす女たちは、民と同じ場所に逃げ隠れるよう言い渡されていた。しかし、りらも美輝も館に留まることを選んだ。シタテルも精神的ダメージを引きずりつつ、負傷者の看護にあたる役目を自ら申し出た。アメノサグメは元々漂流していた身である。見物してやるさ、と館に居座っている。

 りらはコトシロヌシに甲冑を着用させていた。りらもまた簡素な防具を身に着けている。

「なぁ、フサミミヒメ」

「ん?」

「君が元いた時代では、戦の経験はあるかい?」

「ないよ。別の国々は戦ってるところがあるけど、日本はしばらく平和だから。私のひいおばあちゃんたちの時代は戦争してた」

「そうか。…怖いだろう」

「うん」

「俺もだ。だけど、俺はイズモを守らなければならない。それに、君を君の時代に帰さないと。ヒカリサキヒコもな」

 コトシロヌシの準備が整うと、二人は外に出て馬に乗り陣へ向かった。

 太陽が高く昇り、強い日差しが降り注いでいる。西の空の影がじわじわと動いている様子が見て取れた。

「コトシロヌシ様、スオウフサミミヒメ様のお出まし!」

 従者が声を張り上げて二人の到着を告げると、陣の周りにいた者たちは皆、一斉にひれ伏した。陽一もまたコトシロヌシの臣下という立場上、地面ぎりぎりに額をつけて礼をした。そろそろと顔を上げ、馬上の人物を見ようとしたが太陽の逆光でなかなか見えない。しかしそれはまるでりらから光が放たれているかのようであり、紅色の衣に防具を纏った妃は神が依り憑いていると思わせるほど近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。

 馬上のりらは地にひれ伏す人々の中に陽一の姿を見つけた。一点を凝視してはいけないと思いつつ、緊張でこわばっているように見える友人に視線を向けた。随分と遠くにいるような気がして、思わず声をかけそうになってしまった。陽一の顔ははっきりとりらに向けられている。確かに、コトシロヌシは申し分なく優しくて、いつもりらを守ってくれていたし、これから始まる決戦においても決して見捨てられることはないだろう。けれども、りらにとってコトシロヌシは異次元の人間でしかなかった。「本物」は目の前で跪き、恐る恐るりらを見上げているあの男なのだ。

「諸君、ご苦労。これからイズモは困難に晒されるだろう。しかし、オオクニヌシの国は永久にオオクニヌシとその子孫が統べる国である。かつて我らが祖先のスサノオが妻クシナダヒメを幾多の垣根を巡らして守ったように、我々もまた、愛する妻や子を守らねばならない。どうか天つ神どもから邪な心が消え去らんことを…!」

 コトシロヌシが陣の周りにひれ伏している配下の者たちを鼓舞すると、大きな歓声が上がり、更に先のイナサ浜に配備されているタケミナカタと潤の軍もそれに呼応した。実質的にイズモの司令塔はコトシロヌシであった。オオクニヌシは影響力を保ちながらも、権力を長男に移譲し、軍事は次男に任せていた。いつまでも権力の座に居座っていてはせっかく栄えた国が長続きしないと考えたためだ。

「ヒカリサキヒコ!」

 コトシロヌシは陽一を呼び寄せ、自ら下馬して語りかけた。りらは従者に連れられて陣の奥に入っていった。

「勝ち目はあると思うか?」

「難しい質問だなぁ。タケミナカタとイカリヌシはよくイズモ軍を訓練してきたと思う。ただ、中つ国は今まで高天原と戦ったことがないから、向こうの力量は全く想像がつかない」

「あぁ、俺たちにはない力を持ってるからな」

「せめてアメノワカヒコが生きていたら…」

 二人は喪屋に安置されている亡きアメノワカヒコの人柄と技量を惜しんだ。イズモにとってアメノワカヒコは強力な軍事的な助っ人となるはずであった。健在なアメノホヒは食料や物資の供給を担当して後方を取り仕切ってくれているが、農業の神に武力を期待することはできない。

「なぁ、ヒカリサキヒコ。俺はイズモに責任を負ってる。何が言いたいかわかるだろ」

「…イズモと運命を共にしなきゃいけないってこと?」

「そうだ。だが、君は違う。君は未来に責任を負ってる。今ではなくて…。君たちまでイズモに責任を負う必要はないんだ。フサミミヒメをちゃんと未来に連れて帰ってくれよ」

「当たり前だ」

「君は… フサミミヒメを好いてるんだろ」

 ほんの少しコトシロヌシは悲しそうに笑った。本当はコトシロヌシは陽一のりらへの気持ちを知っていたのだ。正確に言うと、初めはわからなかったが途中から気づいてしまい、陽一が思い悩んでいたのと同じくコトシロヌシもりらを陽一から奪ってしまったことに心を痛めていた。

「知ってたのか… だとしても、彼女は君を慕ってる。俺はこの世界でも未来に戻ってもただの友人だよ」

「気持ちを伝えてないのにそう言い切るなんて、君らしくないね。とにかく君は戦いの中でも自分の命とフサミミヒメの命を優先に考えてくれよ」

 言い終わると同時に、法螺貝の音がイナサ浜から響いてきた。夏の空が灰色のうごめく何かで埋め尽くされている。いよいよタケミカヅチの軍隊がイナサ浜に接近したのだ。

 夕日の美しい穏やかなイナサ浜は、その様相をすっかり変えていた。雷鳴が轟き、波は高ぶり岩にぶつかっては水飛沫が砕け散っている。タケミカヅチは再びアメノトリフネに乗り、後ろに別の天つ神を同乗させてイナサ浜に降り立った。またしても、剣を逆さにし、その上に胡坐をかいて座るという神業を披露しながら、自信たっぷりにイズモ軍を見渡した。

「やぁやぁ、諸君。結論は出たかな。こちらはいつでも戦う準備はできてるぞ」

「中つ国の神々よ、我はフツヌシ。タケミカヅチの相棒とでも言おうか。今ここで国を譲ればそちらに有利な条件を提示することもできるがいかに?」

 武勇の優れた天つ神たちはまるで仁王像のように並び立ち、イズモ軍の将タケミナカタに迫った。タケミナカタは怒りを込めて静かに告げた。事実上の宣戦布告である。

「悪いがイズモの王はそんな無責任ではない。我らが大地と民は我らのもの。いかなる条件を出されようがオオクニヌシが国を譲ることはない。これが答えだ」

「よくわかった。後悔することになっても後の祭りだぞ。タカミムスヒに栄光あれ!」

 暴れられることが嬉しそうな笑顔で、タケミカヅチは片手で剣を高々と掲げた。それが合戦開始の合図となり、宙に浮かんでいた高天原の軍勢が一斉に海面に下りてきた。有形無形の天つ神たちはあっという間に水軍と化して、大小様々な船が海面に所狭しと並び、イナサ浜に押し寄せる。

 イナサ浜にはイズモの水軍が、カンド軍団を中心に構えていた。軍団長のイツハヤは自ら船に乗り込み、迫りくる高天原水軍へと果敢に向かっていった。カンド軍団の他にもイズモ各地から兵を集め、さらには同盟国のコシやツクシからも水軍を呼び寄せており、総勢で二千五百人ほどの規模であった。

 しかし、高天原水軍はその何倍もの勢力をもってイズモ軍に対峙していた。カンド軍団は揺れる船上でも平衡感覚を保ち、素早い身のこなしで敵の船へ飛び乗り積極的に攻勢をかけたが、兵力数では遠く及ばず、次々と兵たちは水飛沫と血しぶきを上げながら水面下へ没していった。

 馬上から戦闘の様子を見ていたタケミナカタと潤はさすがにこれはまずいと危機感を募らせた。

「浜を突破されたら一気に上陸されるぞ!」

「クリエ、騎馬隊を三重に配置してキヅキ郷への道を厳重に封鎖しろ!」

「承知つかまつりました」

 潤は部下のクリエに命じると、次に別の部下にも指示を出した。火力の投入である。

「さて、こちらの新兵器を使うとしようか」

「待ってろよ、イツハヤ! 楽にしてやる」

 潤の元へ部下のサザワケがやってきた。準備が整ったようだ。新兵器とは、大きな火矢と小型の大砲の中間のようなものである。火薬がないので大砲を作ることはできなかったが、弓矢の原理を使って大型の飛び道具を作り、それを五人一組で操作するのだ。ツクシの軍団が大量に作成し、イナサ浜の騎馬隊の後列に五十基配置した。

「点火始め!」

 潤が号令をかける。そして、タケミナカタが「放て!」と声を張り上げた。ぶぅん、と大きな唸りとともに火の塊が騎馬隊の後方から飛び上がり、高速で沖合に投げ出された。沖に船を並べていた高天原の後方部隊に火の玉が次々に落ち、そのまま火の玉に押しつぶされた兵士も多数出た。ひしめき合っていた船は燃える仲間の船から離れることができず、燃え広がった。

 明らかに高天原軍に動揺が見て取れた。浜に近づけば仲間の船をさらに焼いてしまうことになりかねず、後方部隊は退却せざるを得なかった。そして、浜からは中型と小型の火矢が流れ星のごとく飛来した。

「イカリヌシ、助かったぜ」

 カンド水軍軍団長のイツハヤはほっと一息つき、戦場用の笛を高らかに吹いた。その音を聞いたカンド水軍は一斉に液体の入った丸い袋を高天原軍の船に投げ入れた。油である。実はイズモ軍の船は鉄で覆われていた。これも潤が提案して装着させたものだった。イズモ軍の船も被害はゼロではなかったが、火災で全滅することだけは免れられる。

 海面が紅の炎を映して朱色に染まっていく。カンド水軍は高天原軍を上陸させまいと奮闘した。タケミカヅチとフツヌシも大きな刀を振るってカンド水軍の兵士らをなぎ倒していたが、どうも形勢が不利になったようだと悟るとアメノトリフネに乗り込んだ。

「タケミナカタ! 聞こえるか!」

 タケミカヅチがアメノトリフネから地上に向かって叫んだ。

「ああ、イズモをなめるなよ」

「なめてるわけではないが、そちらには知恵者がいるようだな。今日のところは戦はお開きにしよう」

 言うや否や、アメノトリフネは高速で舞い上がり、瞬き数回の間に高天原軍はイナサ浜から撤退していた。波間には敵と味方の兵士の亡骸と灰になりかけた高天原軍の船が行き場なく漂っている。遠く西側の上空は撤退した高天原の軍勢が蜂が群がっているように浮かんでいた。

 突然の静寂から覚めたイズモ軍は完全に勝利したわけではなかったものの安堵に包まれた。水軍を撤収させて被害状況を確認すると、戦死者は千人に上っていた。引き続き監視を怠らないよう部下たちに指示し、タケミナカタと潤はコトシロヌシの待つ陣を訪れた。

「二人とも無事だったか」

「イナサ浜の部隊は残り千五百余りです。また水上戦になれば突破されてしまう可能性があります」

「イカリヌシの考案した武器の威力はすさまじいものがありますが、高天原の軍勢は底なしのように湧いて出てきます」

 一通りの報告を聞いたコトシロヌシが「それでも形勢を建て直し、全力で敵の上陸を阻止するしかない」と述べると、陽一が重大な指摘をした。

「俺はずっと陣にいたから戦いの様子を始終見ていたわけじゃないんだけど、高天原軍は普通の戦い方で挑んできたんだよな? 剣とか弓とか…」

「そうだ。タケミカヅチとフツヌシは格段に力が強かったが」

「それって高天原の本来の戦い方なのかな。つまりさ、天つ神にはこっちにはない不思議な力があるのに、なぜそれを使ってこないのか、それが気になる」

「実は俺も戦いが始まる前は、タケミカヅチが稲妻を落としたり何かわけのわからない力で攻撃してくるのかと思ってた。始まってからはそれどころじゃなくて、おかしいとは思わなくなってしまったけどね」

 ここで得た結論は、高天原軍はまだ本気を出してなかったということだった。意外と強力な武器を持ち、果敢に挑んでくるイズモ軍を見て、おそらく高天原軍は次は手加減せずに本来の天つ神の戦いを仕掛けてくるに違いない。そうすればただの人間の能力しか持たなくなってしまった国つ神たちではもはや手の施しようがない。

「俺はどんな攻撃をされようと諦めないぞ」

 タケミナカタは微笑んだ。国つ神としての意地があった。

 男たちの話し合いが終わると、そろそろと陣からりらが出てきた。陽一と目が合うとぎこちなく笑った。美輝はオオクニヌシの館に引きこもっているらしく、ここには女性はりらしかいない。

「戦い、終わったの?」

「いや、休戦中だよ。またいつ攻撃されるかわからない」

「そう… たくさん死んだんでしょう?」

 りらは苦しげに浜の方へ視線を向けた。潤がイズモ側の戦死者・負傷者数を告げるとりらは無言で歩き出し、一人で馬に乗ると駆け出した。

「どこに行くんだ?」

 コトシロヌシの呼びかけにも応じず、りらは走っていく。急いで陽一が後を追った。りらの行先は先ほどまで戦場であったイナサ浜である。突然、コトシロヌシの妃が馬に乗り浜に現れ、イズモの兵士たちはどよめいたが、りらはかまわず歩みを進め潤の部下クリエを見つけると問いかけた。

「クリエ、疲れてるところ申し訳ないけどおしえて。負傷者はどこ?」

「お妃様が来られるような場所ではありませんよ、ここは」

 わかってるよ… だけど、本当の私は妃ではないし、医者や看護師でもないけど、助けなきゃいけない人たちがいる。もし戦いを続けるのであれば、早く兵士を回復させて元に戻す必要があるんじゃないのかな。

「フサミミヒメ様、どうされましたか?」

 りらに追いついた陽一が尋ねると、りらは真剣な眼差しで負傷者を早くオオクニヌシの館の中庭や空いている小屋へ運び入れて手当をするよう訴えた。負傷者たちは簡単な手当てを受けていたものの、未だに浜に寝かされているという状況だった。

「因幡の白兎の話を思い出して。オオクニヌシは傷ついた者を放置したりはしないでしょ。イズモの兵士はこの国の大事な民なんだから…」

 陽一は大きく頷いた。そして、クリエに負傷者を急いで運ばせるように命じた。幸い、後方支援を担当しているアメノホヒが浜へやってきており、アメノホヒが集めた支援部隊がその役目を務めてくれることになった。りらは馬から下りると、まだ戦闘の残骸が虚しく漂い打ち上げられている浜辺に寄った。完全に潮は引いていないが、あの海神を祭る祠が半分姿を見せており、りらは祠の前に立つと首から下げている瑠璃色の勾玉を掲げて祈った。

「お妃さまは不思議な方ですね。戦場にやってくる勇敢さがありながら、負傷兵を労わる慈しみの心も持っていらっしゃる」

「それがコトシロヌシ様の妃の務めだからだよ」

 彼女は陽一の永遠に手の届かないところに行ってしまったのだろうか。

日が傾きかけている。沖合の水面は紅赤色に染まり始めた。真っ白な衣に蘇芳色の武具をつけ、祠に向かって祈っているりらは夕日の化身そのものであった。

 高天原水軍が撤退した夜は恐ろしいほど平穏だった。オオクニヌシの館では王が自ら負傷兵の治療の指導を行い、スセリビメの配下にある薬師たちが看護にあたった。りらも率先して看護チームで活躍している。夫を矢で射られて失ったシタテルにとっては、同じように矢を受けて負傷した兵たちの手当てなどをさせることは残酷極まりないと思われていたが、シタテルは「王の娘が何もしないなんて」と自らの精神的な苦痛に耐えて、りらと行動を共にしている。

 翌日の朝、美輝とアメノサグメが偵察から戻ってきた。二人は山中に非難させているイズモの民たちの様子を定期的に見に行く役目を仰せつかっていた。今のところ敵に見つかっていないし、食糧なども十分に供給されているので問題はなさそうだ。

 さて、オオクニヌシの館には三重の濠が巡らされ、見張り用の楼閣が建てられていることは以前紹介したが、この楼閣は館の背後に移動させ、さらに高い物見櫓として陽一の指揮によって建て替えられていた。常時、見張りの兵が二人ついているのだが、時々、陽一たちも上ってイズモを見渡すことがあった。特に視力の良い潤はよく櫓から空を見上げていた。

 鳶が美しく弧を描いて旋回している。西の空は高天原軍の塊が浮いており、色のついた空気がうごめいているかのようだった。風が一吹き潤の頬を撫でた瞬間、西の空が動いた。

「警笛!」

 潤は見張りの兵士に命じた。鋭い音がキヅキ郷の静寂を切り裂く。じっと観察していると、高天原軍は三個軍団ほどに分裂し、そのうち二個軍団が高速で東へ移動し始めた。地上では一気に緊張が高まり、臨戦態勢が敷かれた。

 ところが、高天原軍はキヅキ郷など視野に入っていないとでも言うように上空を素通りし、さらに東へと移動を続けた。潤は櫓を滑るように下りた。

「タケミナカタ! あいつら別の場所を攻撃するつもりだ」

「あぁ、おそらく標的はコシ方面だ」

 陣の中から大きな狼煙が上がり、イズモ中の狼煙が点火されていった。国境近くまで狼煙のリレーが届くと、隣国も同じように狼煙によって危機を伝達していく。

「アメノホヒとイオリをここへ!」

 タケミナカタにとって、この一戦は避けることができないと覚悟を決めていた。イオリをイズモに残してコシへ援軍を送らなければならない。コシにはもちろんタケミナカタの母ヌナカハヒメが君臨し、彼女の軍団がコシ方面を防衛しているがイズモにも兵力を提供してきたため、万全の態勢とは言い難いのだ。

「タケミナカタ殿、いかがなされました?」

「すまぬ、天つ神の力を貸してくれ。俺は高天原軍の兵たちのように宙を駆る技など持っていない。だが、今すぐにコシへ向かわなければならない」

「わかりました。では、コシへ派遣する軍勢をイナサ浜へお集めください。もちろんあなたもいらしてください。私は先に浜に行っています」

 アメノホヒはそう言うと、仲間に声をかけながらオオクニヌシの館を後にした。次に美輝が駆け足でタケミナカタの元へやってきた。いつもは過剰なほど着飾っているくせに、今は質素な身なりの妃の姿に、タケミナカタは胸を打たれた。

「どうしたの?」

「俺はこれからコシに行く。高天原軍が次に攻撃しようとしてるのがコシなんだ」

「あたしも一緒に行く!」

 タケミナカタは頭を振った。その代りに、武骨な男の所作とは思えないくらい美輝の手を優しく握った。

「イオリはここにいて、民のことを守ってくれ。お前が俺と戦場にいたら俺を困らせようと何をしでかすかわからないからな」

「そんなことしないよ、あたし――」

 目いっぱい抗議しようと美輝はタケミナカタの腕を強く握ったが、タケミナカタは少し身を屈めて美輝の耳元でささやいた。

「美しい俺の妻… これからはジュンがお前を守ってくれるだろう」

 美輝ははっと顔を上げた。タケミナカタはイカリヌシとは言わなかった。それはタケミナカタの世界と美輝の世界がはっきりと異なるのだということを告げたに違いない。タケミナカタは既に美輝に背を向け、馬に跨っていた。

 馬の腹を思い切り蹴ると、颯のごとくタケミナカタを乗せた馬が飛び出した。イナサ浜に着くと、タケミナカタが率いる軍団が整列しており、アメノホヒが剣を抱えてタケミナカタを待っていた。

「これはアメノワカヒコ殿の剣で、天つ神の飛ぶ力が備わっております。いわば羽の役割ですね。そして、軍団はこの船に乗り込んで進んでいただきます」

「どういうことだ? まさかこの船がアメノトリフネだとでも言うのか?」

「いいえ、ただの船ですが、私が勾玉に秘めている力を与えたのでアメノトリフネ並みに高速で移動することが可能です」

 天つ神であるアメノホヒの力を使えることは素晴らしいのだが、アメノホヒが移動手段そのものを出現させることはできないため、既存の乗り物を流用するしかなく、そうすると水軍用の船が足りなくなってしまう。

「仕方があるまい。コシもイズモと同じく守るに値する土地なのだから」

 アメノホヒから説明を受けたタケミナカタはそう言い、潤にイズモ防衛の指揮権を与えた。

「早く片付けてイズモに戻ってこいよ。イズモ軍の指揮官はお前なんだから」

「そのつもりだ。後は頼んだぞ」

 二人は握手を交わした。そして、タケミナカタはアメノワカヒコの剣を背負い、駆け出した。棒高跳びをするようなステップで何歩か進み、力強く浜を蹴るとその大きな体は宙に浮いた。後に続いて、水軍の船がヘリコプターの離陸に似た動きで水面を離れて行った。

 その不思議な光景を、美輝は櫓の上で眺めていた。飛翔するタケミナカタと目が合ったかもしれない。だってこの櫓は一番高くてイズモの象徴なんだもん。気づいたよね。ずるいよ、タケミナカタ――。

 イズモ軍の水軍の船は半減してしまった。こうなれば、水上戦よりも陸上から上陸阻止を狙った作戦に切り替えた方が良いかもしれない。潤を中心として、対処方針が話し合われたが、驚いたことに高天原軍の分隊がコシへ向かってから数日間、残された軍勢がイズモ軍を攻撃してくる気配はいっこうになかった。高天原軍はいくつもの小さな分隊に分かれ、イズモの上空を行き来し偵察しているように見えた。攻撃されないというのもまた、守る側にとっては消耗戦である。一時の油断もならないからだ。常に張りつめた空気がイズモを支配している。

 その事件は新月の夜に起きた。

 りらと美輝はオオクニヌシの館で眠っていた。コトシロヌシと陽一は外の陣に寝泊まりしており、潤はイナサ浜で軍団と行動を共にしている。最低限の明かりしか灯されていない館の廊下には、護衛の兵士たちが何人も立っている。

 しかし、その兵士たちはもはや人間の生気を失い、田畑の案山子よりも役に立たない物体と化していた。姿を自在に変化させることのできるカラグタマという天つ神が霧に姿を変えて館に侵入し、兵士たちの魂を吸い取ってしまったのだ。そして、カラグタマは戸の隙間から二人の妃が寝ている部屋に滑り込み、霧のまま美輝の口から中に入ると美輝を操り、美輝をも霧に変えてオオクニヌシの館から脱出した。新月の夜に相応しい音一つない犯行であった。

 翌日、美輝の姿がどこにも見つからないことがわかるとオオクニヌシの館は騒然となった。見張りの兵士たちは魂が抜かれて生ける屍になっていたことから察するに、十中八九、高天原の仕業に違いなかった。

「ごめんなさい、私、全然気づかなくて…」

 りらは事情を聴きに来た陽一に謝った。しかし、りらが謝ることではないのだ。敵の手掛かりを探すように館の者たちに命じてしばらくの後、イナサ浜に来客があった。フツヌシである。

 フツヌシは大きな刀を片手に舞い降り、潤を呼びつけた。フツヌシの背後の空には高天原の一部の兵士たちが控えている。

「タカハネイカリヌシとやら、今朝は驚いたかもしれないなぁ」

「妃をどこへ連れて行った!?」

「返してほしいだろう? あの女の命と引き換えに降伏しろ。さもなくば、海の藻屑にしてやることなど容易いぞ」

「今ここで降伏などできない」

「では、コトシロヌシの妃は帰らぬ身となろう。時間をやる」

「ちょっと待て、誰の妃だって?」

「ふん。コトシロヌシのだ。よく相談してこい。また来るぞ」

 潤が言葉を発する暇を与えず、フツヌシは立ち去った。その後続いて空から高天原の兵士らが落下傘部隊のようにイナサ浜へ降り立ち、フツヌシの声が聞こえた。

「土産に小隊を置いておいてやる。何ならこいつらと戦ってもいいぞ」

なんということだ、高天原の本当の狙いはフサミミヒメだったのだ。それが館に侵入した天つ神がフサミミヒメとイオリを取り違えて攫っていったということだ。

 館の正殿ではオオクニヌシたちが頭を抱えていた。コトシロヌシの妃と間違えられたタケミナカタの妃の命が危うく、かといって降伏することなど言語道断である。

「俺が妃を救いに行く」

 沈黙が続く中、名乗りを挙げた者がいた。潤だった。生意気なめんどくさい小娘のためになぜそんなことを言ってしまったのか自分でもわからなかったが、他の誰かが助けに行くのではいけない気がした。

「大丈夫か?」

「やってみないとわからないけど、タケミナカタが帰って来た時に妻がいなかったら悲しみのあまり死んじまうよ。司令官代理の俺が不在になるが、コトシロヌシとヒカリサキヒコの指揮で十分動くはずだ。それに、フツヌシが答えを聞きに来るまでは高天原も攻めてこないだろう」

「つまり、それまでにイオリを奪還するということだな?」

「あぁ」

 不安が渦巻いていたが勢いで進むしかなかった。潤の深刻そうな顔を見て、縁側に寝転がっていたアメノサグメがけろっとした声で言った。

「あたし、一緒に行くよ」

「はぁ、お前が?」

「これでもあたしは天つ神なんだよ。きっと役に立つから」

 半信半疑な潤であったが、オオクニヌシはサグメに潤の同行を任せることにした。サグメは人の心を読む力を持っているので、手掛かりがない状態ではサグメの力に頼るのが得策であろう。イナサ浜にはフツヌシが置いていった高天原の兵士たちが配備されている。危険ではあるが、敵兵の心から直接情報を読み取るのが美輝への近道だ。頃合いを見計らって、潤とサグメはイナサ浜に乗り込むことに決めた。


 宙を滑るように、風を切るように前へ前へ進む。アメノホヒから授かった天つ神の威力は想像以上だった。タケミナカタは高天原軍を追って、イズモ沿岸を東へ進んだ。ちょうどコシの入口に来た時、地上からは無数の矢が放たれているところであった。母の軍隊が高天原軍を迎え撃っているのだ。まだ遅くはない。タケミナカタは自軍を率いて母の軍隊に加わった。

 攻撃の指揮を副司令官に任せて、母の元へ急ぐ。ヌナカハヒメの館もオオクニヌシの館に匹敵するほどの規模を誇っており、その奥深くに母が控えている。

「母上! 援軍に参りました」

「タケミナカタ、イズモを放っておいてよいのですか。この館と同じく私の国は随所に翡翠の玉を掲げてあります。天つ神たちも自由にその邪な力を使うことはできないでしょう。それよりもイズモこそが中つ国の要ではありませんか」

「しかし、母上の国も重要なイズモ連合の一部です。コシがイズモの繁栄を支えてきたのですよ」

 ヌナカハヒメが立ち上がり動くと、身に着けた多くの翡翠の玉がしゃらしゃらと音を立てる。高い壇から御簾をくぐり、ヌナカハヒメは息子の座っている場所まで下りてくると、語りかけた。

「お前はオオクニヌシの強さと優しさを受け継いだわね。母からは迷わぬ心を引き継いでほしい――」

 そう言って、ヌナカハヒメは首からかけていた大きな翡翠の玉が連なる首飾りをはずし、タケミナカタの首にかけてやった。そして、「後は頼みますよ」と声をかけるとさっと身を翻して御簾の奥へと消えていった。彼女以外入ることのできない祭祀のための空間があるのだ。これがタケミナカタが最後に見た母の姿であった。

 館の外に出ると、再び高天原軍とコシ・イズモ連合軍の激しい戦闘を見ることになった。糸魚川の河口付近から次第に上流へ向かって押されていく。西側には飛騨山脈、東側には北信五岳が連なっているため、逃げ道は正面の北つ海か姫川の上流しかない。

 コシ軍はタケミナカタの隷下に入った。翡翠の力のおかげか、高天原軍の動きは鈍い。少なくとも天つ神の邪悪な力による攻撃はなかった。純粋な力勝負であれば中つ国の兵力でも十分勝つことができるのではないか。

 しかし、現実はそんなに甘くはなかった。一日目の戦闘をなんとか終えたが、高天原軍の勢いは前日と変わらず一向に兵力が削がれている気配がなかったのだ。

「苦戦しているようだな、タケミナカタ」

 タケミカヅチが前線にやってきて、にやりと笑った。さすがにコシの翡翠の女王の強力な結界のせいで、タケミカヅチは宙を自在に飛ぶことができなくなっていたが、腕力は衰えていない。自らも大きな刀を振り回し、中つ国の連合軍を蹴散らしている。タケミカヅチには一つ考えがあった。コシの女王の力の及ばぬ場所に行けば、再び天つ神の力が蘇り、国つ神や人間どもなど造作なく息の根を止めることができる。

 コシ・イズモ連合軍はじりじりと後退を余儀なくされた。訳あって、高天原軍は女王の館を攻撃することなく連合軍のみを標的にしているようだった。何日もかけて、両軍は姫川沿いを南下した。ヌナカハヒメの館から遠ざかるにつれ、高天原軍の力が増してきた気がする。

「タケミナカタ様、もう我らが軍勢は一人握りしか残っておりません。山間部の移動は皆、それほど慣れているわけではないので…」

 コシ救援軍に加わったサザワケが肩で息をしながら告げた。未来では白馬と呼ばれる辺りに来て、連合軍の数が激減してしまった。タケミナカタは遠くイズモを思った。ここと同じように猛攻撃を受けているのだろうか。イオリは無事か。コシから離れて内陸のシナノまで敵の侵入を許してしまった以上、もはやタケミナカタはイオリを抱きしめることは叶わないのだと悟った。

「モレヤ一族の助けは借りられそうにないのか」

「それが… 援軍を乞うため早馬で遣いを出したのですが、戦乱を避けるためにスハの海の山中に身を潜めてしまったようです」

 モレヤ一族とはスハの地に住み着いている民で、独自の神を信奉していた。コシを通じてイズモとの交流があったが、なかなか独立心が強くオオクニヌシの支配下に入ることを潔しとしない気風で扱いが難しかった。

「俺たちは援軍なしか。それでも戦わねばならない。高天原に降伏などあり得んぞ」

「はい」

 兵士たちはボロ雑巾のように大地に横たわっていた。山脈が無情に見下ろしている。雲一つない空に雷鳴が轟いた。翡翠の力を振り切ったタケミカヅチが勢いを盛り返し、タケミナカタの前に現れ挑発した。

「国つ神はそんなにいいものなのか? 何の力もないではないか」

「お前の力は命を奪うことにしか発揮されない。その雷鳴は人々を恐怖に陥れ、その大刀は血に飢えている。それが高天原なんだろう」

「タカミムスヒ様の寛大なお心を踏みにじったおぬしらがそうさせてるのではないか。そんなにこの刀が嫌ならば、どうだ、素手で勝負しようや」

 この提案は、タケミナカタの剣がアメノワカヒコの遺品で天つ神の力を宿していることを見越して出された。素手で勝負となればタケミカヅチだけでなくタケミナカタの剣も使えなくなるからだが、タケミナカタはこの提案を飲んだ。

ちょうど山脈にはさまれた広々とした土地がもう少し先にある。後に松本盆地と呼称される場所だ。そしてさらに先にはスハの海、すなわち諏訪湖が広がる。かつて諏訪湖は現在よりも三倍近い面積を有し、諏訪盆地一帯が湖だったという。タケミナカタとタケミカヅチは宙を滑るようにして開けた空間に躍り出た。

「さぁ、この通り刀は捨てたぞ。地上で勝負だ」

 タケミナカタも地に足をつけると、抱えていたアメノワカヒコの剣を投げ捨てた。これでもう宙に浮かぶことはできない。何度か深呼吸をし間合いを取る。二人は互いにつかみかかった。腕力は互角か、あるいはタケミナカタが勝っているか。相撲かレスリングの試合のように生死をかけた取っ組み合いが続いている。

 汗がしたたり落ちる中、タケミナカタがタケミカヅチを投げ飛ばし、組み伏せようとしたとたん、タケミカヅチの手が一瞬にして氷柱に変わった。鋭く冷たい氷柱がタケミナカタの頬をかすり、タケミナカタは飛びのいた。

「天つ神、卑怯だぞ!」

「刀は使ってない。これも素手だ」

 タケミナカタは今一度タケミカヅチに飛び掛かったが、今度は氷柱が剣に変化してタケミナカタの肩にずぶりとくいこんだ。

「…くっ」

 激痛を感じたタケミナカタは飛び退きながら反対側の手のひらで、剣が刺さった方の肩を押さえた。タケミカヅチが見下ろしつつタケミナカタに向かって歩んでくる。その顔は狩りの獲物を仕留めた獣のように満足気で、思い切り笑いたい衝動を必死に抑えていた。タケミナカタは辺りを見回し、アメノワカヒコの剣を探した。あった。すぐ近くに転がっているではないか。あれさえ手にすれば…。

しかし、タケミナカタが天つ神の剣を手にする機会は二度と訪れなかった。立ち上がり剣の柄に手をかけようとした瞬間、タケミカヅチの手がタケミナカタの手首を掴んだ。その仕草はまるで若く息吹いたばかりの草木を握りつぶすかのように自然で軽いものであった。タケミナカタの手と腕は永遠に失われてしまった。

「さらば、オオクニヌシの息子。黄泉の国で朽ち果ててしまえ」

 両手を失ってもなお、敵将に体当たりを食らわせようとするタケミナカタを変化させた剣で薙ぎ払うと、タケミカヅチはその手を思い切り振り下した。

「高天原の神々に災いあれ――」

 剣が胸を貫き、切っ先が大地に突き刺さった。

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