第5章 <1>
おそらく多くの人はこの国が雲の上の天高い空間に存在し、そこで暮らす神々が地上の人間たちを見下ろしているものだと思っているに違いない。それは無理もない。国の名前が高天原、神は天つ神と呼ばれているのだから、そうイメージしてしまうだろう。
ところが高天原は天空に広がる国ではなかった。雲海ではなく、まさしく海に囲まれている大きな島に神々が棲みついていた。神の時間と人間の時間は異なり、価値観やルールも人間の尺度では図ることが難しい。そして、神には不思議な力が宿っていた。天つ神の暮らしは、気ままな子供のようであった。
高天原で大暴れしたスサノオが追放されてから、どのくらいの年月が経っただろうか。高天原は悠久の平穏に包まれていた。しかし、最高神タカミムスヒは飽和した安らかな流れを濁流に変えようとしていた。濁流の行きつく先はオオクニヌシが統べる中つ国である。
「タクハタチヂはいるか?」
最高神が娘の館へやってきた。人間が見たら、神の歩き方は地を滑っているような感じかもしれない。タカミムスヒの周りにはいつも何か冷たい風が漂っていた。
「どうしたの、お父様…」
薄紅色の衣を纏った美しい女神が若い神を伴って現れた。最近結婚したばかりの夫、オシホミミである。
「おお、お前もいたか、オシホミミ。ちょうど良い。二人とも天の安河原に来なさい」
「何かお決めになる事でも?」
天の安河原というのは、高天原が何か重要な案件を決定する際に、神々が集まって評定する場所である。タカミムスヒという最高神がいるものの、配下の神々によって細かい事柄が決まっていくという仕組みだ。
「後で皆の前で話す。お前のためになることだよ」
タカミムスヒは笑って去った。去ったというより、風の赴くままに掻き消えたと言った方が適切かもしれない。
しばらくした後、天の安河原は主要な神々が集まり、タカミムスヒの登場を待った。タカミムスヒは河原の高みに立つと宣言を述べた。
「我らは中つ国の悪しき神々ども人間どもを打ち払い、その支配を我が子オシホミミに託すべし」
突然の宣言に、天つ神たちは驚きざわめいた。しかし、最高神の決めたことは正しく、神々は次の言葉を聞こうと静まった。
「オシホミミよ、我が子として中つ国を治めてくるか」
寄り添う妻のタクハタチヂがオシホミミを見上げた。最高神に我が子と呼ばれたオシホミミは、わずかに眉を歪めた。
確かにオシホミミは妻を介してタカミムスヒと親子であったが、さらにタカミムスヒの息子として育てられたという事実がある。母神はいない。なぜなら、オシホミミは勾玉から生成した神であった。
そしてオシホミミは、本当の親はタカミムスヒではなくスサノオだと信じていた。勾玉を使ってオシホミミを生み出したのはスサノオだからだ。だが、スサノオは追放された。中つ国に安住の地を求め、子孫が生まれた。今、中つ国の王はイズモのオオクニヌシと聞く。即ち、タカミムスヒはスサノオの子孫が作り上げた中つ国を侵攻しようとしているのだ。
「仰せとあらば、まずは私が治めるにふさわしいかどうか、中つ国に降り立ちましょう」
オシホミミは極めて冷静を装いながら言った。
「では、行くがよい」
オシホミミは頷くと、タクハタチヂの手を取り、中つ国を目指して飛び立った。
この時、神々の中からオシホミミが去ると同時に消えた者があった。愛する人の国の危機を何としても伝えなければならない。オオクニヌシのかつても恋人オオヒルメは、黄金の魚に身を変え、一心不乱に川を下り海に飛び込んだ。
空を飛んでいると、海との境が一体になって見える。オシホミミは自分が風の一部と化していることを感じた。これは中つ国の人間たちや国つ神たちにはわからない感覚なのだろうか。
透き通る紺碧の海に囲まれ、純白のさざ波が打ち寄せる浜が見えてきた。そこは天の浮橋と呼ばれる、高天原と中つ国との間にある緑あふれる美しい島であった。
「あぁ、ここで暮らしてもいいわね。とてもきれいな眺め…」
「そうだな。もし誰もここに来ることがなければ、俺たちの住まいを作ってもいいのに。ほら、向こうに小さな島が見える。あれが中つ国だな」
オシホミミの視線の先には中つ国があった。タクハタチヂは中つ国を見つめながら、しゃがんで海水に指先をつけた。触れたところから、波を伝って意識が遠くまで移動する。賑やかで楽しい、そして美味しい感覚がタクハタチヂに返ってきた。
「中つ国は素敵な土地みたい。お父様は悪しき神々と言っていたけど、どうしてかしら」
「わからない。しかし、中つ国は美しいところなんだよ。俺も感じてる。海が笑ってるじゃないか」
海水はたぷたぷとやわらかく温かかった。
オシホミミはタカミムスヒが中つ国を手中に入れたいという野心を持ったのは、中つ国の様々な豊かさのせいだと理解した。しかし、棲みつく神々は邪悪だと言う。口実にすぎない。オシホミミは中つ国が高天原に介入され支配される理由はないと思った。だから、密かにタカミムスヒに抵抗してやろうと決めた。
「天の安河原に戻ろう。俺は中つ国を支配する気にはなれない。俺の本当の父の子孫たちが繁栄してる国をどうして奪うことができる?」
「私もよ。楽しそうな人たちを邪魔することはしたくないわ」
妻の同意を聞くと、オシホミミはまたその手を取り飛び立った。名残惜しいが、早く高天原に戻らねばならない。
天の安河原はオシホミミの帰還を固唾を飲んで迎え入れた。どのような成果があったのだろうか。
「皆さん、中つ国は大変騒がしい。私はあのような国に降り立ち、支配する気になれない。それで一刻も早く妻と共に高天原に戻ってまいりました」
「何と嘆かわしい!」
「弱腰の神よ…」
「タカミムスヒの御子が情けない」
「邪悪な国つ神どもをのさばらせて良いのか!」
天の安河原に非難の声が溢れた。息子の予想外の答えに、最高神は少なからず動揺した。しかし、当の本人は批判されるであろうことは察しがついていたので気にしていない。自分は最高神の子でありながら期待に背いた、役立たずの臆病神なのだ。むしろ、そう思われた方が好都合だった。
タカミムスヒはすぐに冷徹な顔を取り戻し、
「静まれ。何があろうと中つ国は我が子の治めるべき国である。しかし、オシホミミの言うように、かの国は邪悪で乱暴な国つ神どもがはびこっていると思われる。オシホミミの手をこれ以上汚さずに、別の神に委任し中つ国を服従させたい」
と述べ、自分の子で参謀役の神を呼び寄せた。
「オモイカネ!」
「はい、父上」
「お前は、中つ国へ派遣するに相応しい神に誰を選ぶ?」
背の高い中性的な顔立ちの青年は、高天原の知恵を司る神だった。オモイカネはふうっと息を吐き出し、最高神を仰ぎ見た。
「では、オシホミミの弟君を使者としてはいかがでしょう。アメノホヒは勇敢で弁も立ちます」
突然指名されたアメノホヒであったが、落ち着き払って承諾した。アメノホヒも同じくタカミムスヒの息子として育ったが、勾玉から生まれていた。兄が中つ国平定を拒否したのには何か訳があるに違いないとアメノホヒは察し、その上でこの目で中つ国を見てやろうという興味本位もあって指名を受けることにしたのだった。
「アメノホヒ、気を付けて行ってこいよ」
オシホミミが声をかけた。お前も俺たちの本当の生みの親が選んだ安住の地を戦乱に巻き込むことは欲しないだろう。兄の心のうちを理解しているのかしていないのか、弟はにやりと笑って、天の安河原を飛び立った。
イナサ浜でオオヒルメの忠告を受け、イズモ全軍に動員の準備をかけるとともに、オオクニヌシの館では高天原からのアプローチパターンをいくつか検討した。即時、大軍を率いて侵攻してくることも考えられたが、高天原の神々のやり方としてはまず使者を派遣してくるに違いなかった。
「タカミムスヒは絶対的な力を持つ最高神だが、必ずしも全ての天つ神が心から従っているわけではあるまい。そういう場合、使者をこちらに取り込む余地が生まれる」
オオクニヌシはそう考え、使者を懐柔する役目を美輝に与えた。
「重要な役目だが、やってくれるな、ナガスソノイオリ?」
「任せて!」
「ちょっと待ってください、オオクニヌシ」
割って入ったのは潤だった。
「そんな重要な役目をこの女にやらせるんですか?」
「ちょっとその言い方ひどいよ。あたしのこと信用できないって言うの?」
「敵側の使者の扱いを女一人に任せるより、タケミナカタか俺が出迎えた方が――」
潤と美輝の口論が続行する前に、オオクニヌシが割って入った。この二人は相変わらず馬が合わないようだ。
「いやいや、お前たちみたいな屈強な武人が出ていったら敵に火をつけるようなものだ。イズモは何よりも平和な国だということを相手方に知らしめなければなるまい」
納得しかねている潤を見て、タケミナカタが言った。
「お前も認めるだろうが、俺の妻イオリは美しい」
「…それで?」
「どうせ高天原の使者は男だ。だからイオリの玉のような肌を見たら少なくとも戦意喪失するだろう」
要するに、イオリを使うのはある種のハニートラップのためだった。
「それでいいのか、タケミナカタ? 俺はこの女がどう思おうと関係ないけど、曲がりなりにも妻じゃないか」
「やってくれるだろ、イオリ?」
「もちろん」
またもや潤に目を合わせず、美輝はタケミナカタに笑顔で返答した。
「イカリヌシの心配は当然だ。だから、タケミナカタとイカリヌシが小隊を率いて陰で待機していればよい。不穏な動きがあれば、すぐに出ていけるからな」
「というわけで、イオリに任せても何も問題はないってことだ」
そこまで言われてしまえば反論はできない。しぶしぶオオクニヌシの作戦を受け入れた潤であった。
それから間もなく、初めて高天原の神と中つ国の神が対面する日がやってきた。アメノホヒはイズモの上空をゆっくり偵察するように旋回し、静かにその地に降り立った。何とまぁ、賑やかで色鮮やかな国なんだろう。地上も水路も人々の往来は激しく、市は栄え、家の周りに子供たちの笑い声が満ち、穀物も植物も実の重みでしなっていた。スサノオの子孫たちは時間をかけてこんなにも豊かな生活を手に入れていたのだ。
アメノホヒはオオクニヌシの館に向かって歩いた。幾重にも巡らされた水濠の手前にやってくると、中から若い女が微笑みながら躍り出てきた。美輝だ。
少し前、見張り小屋に待機していた美輝の姿を見て、護衛を担う潤は眉をひそめた。
「おい、イオリ。何だよその恰好は」
「あたしの戦闘服ですけど」
美輝は得意げに裳の裾をつかんだ。美輝の纏っている衣装は、最も薄い絹を数枚重ねたもので、肌が透けて見えるようなものだった。さらに、胸元が大きくはだけていて、走ったりでもしたらかろうじて肩にかかっている衣がずり落ちてしまいそうだった。美輝としては舞踏部門で演じたサロメを意識していたのだが、潤は「遊びじゃないんだぞ」と、とにかく気に入らないようで始終イライラしていた。
さて、館の様子を伺っているアメノホヒに対峙した美輝は声をかけた。
「何か館に御用かしら…」
「オオクニヌシと話がしたい。私はアメノホヒと申す。高天原からの使いだ」
「お会いになるかどうかはわかりません。でも、ひとまずご案内します。こちらへ」
美輝はすかさずアメノホヒの手を取り、上目使いで微笑んだ。アメノホヒは面食らった。さぞかしオオクニヌシの館は厳重に警備され、屈強な兵士たちがわらわらと現れるかと身構えていたからだ。ところが、妖艶な若い娘が出迎え、中に案内してくれる。オオヒルメがオオクニヌシに警戒するよう伝えているとはつゆ知らず、イズモはわりとのん気な国なのだなとアメノホヒは思った。
案内されたのは離れの小さな部屋だった。美輝は通りかかった雑仕女に声をかけるとそのままアメノホヒと共に部屋に入った。部屋の裏側には潤とタケミナカタが控えている。
「いつもあなたがこうして客を迎えるのか?」
「いいえ、今回は特別。素敵な方がやってくるのが見えたので… ところで、高天原ってどんなところかおしえてくださる?」
正直言うと、ここにやってきたものの、アメノホヒはほとんどタカミムスヒの命を実行する気がなかった。だから、イズモに対して警戒する必要もないし、隠し立てすることもない。おまけに目の前に官能的な女が座っている。アメノホヒはどうでも良い気持ちになっていた。
「高天原は海に囲まれた島だ。中つ国もそうだろう。天つ神は好き勝手に生きている。タカミムスヒという最高神がいるが、本当に統制がとれているのかわからない」
「そちらの世界は楽しい?」
「どうかな。暮らしぶりは中つ国と似ているが、どうもこちらの方が活気があるような気がするよ」
アメノホヒは軽くため息をつき、美輝の手を取り腰を抱き寄せた。美輝は予想していた行動に対し、落ち着いて反応した。アメノホヒの手を握り返し、黙って瞳を見つめたのだ。 遠巻きに様子を伺っていた潤が瞬時に警戒し、剣の柄を握る力を強めた。
「あなたは不思議だ。私はあなたの敵になりたくなくなった。中つ国と戦う必要がどこにある… ところで、あなたの名前は?」
「ナガスソノイオリよ」
「美しい名だ。その姿も」
美輝はまた微笑んだ。そろそろ雑仕女が呼びに来るころだ。
「失礼いたします。オオクニヌシ様がお会いになると…」
「今、行くわ」
美輝は軽くアメノホヒの手を払い、立ち上がった。アメノホヒは残念そうな顔をしたが、本来の務めを果たさなければならない。それに、中つ国にいる間はいつでもこのイオリという娘に会うことはできるだろう。
オオクニヌシの館の正殿には主がかまえていた。アメノホヒはオオクニヌシの正面に座り、美輝は壁際に控えた。反対側にはりらと陽一、コトシロヌシが待機している。そして、護衛役のタケミナカタと潤も入ってきた。タケミナカタは何食わぬ顔をして美輝の隣に座り、「よくやった」とささやいた。
「高天原から来たそうだが、アメノホヒ殿、何用か」
「単刀直入に話しましょう。高天原の最高神タカミムスヒは中つ国をその子オシホミミの統べる国だ考えています。そして、国つ神の長であるあなたに高天原の意向を伝えるために私が派遣されてきたのです」
やはり、りらの言った通りだった。
「中つ国が平和で豊かなことはおわかりだろう、アメノホヒ殿。土地は広い。あなたに提供する土地もある。きっと高天原より良い暮らしができると思うが…」
オオクニヌシは懐柔策を告げた。しかし、アメノホヒの次の言葉はオオクニヌシたちにとっては予想外だった。
「実はオシホミミは中つ国を支配する気はありません。私もオシホミミの弟ですが、はっきり言って、中つ国を手に入れることなど興味ありません」
「騙すつもりか」
すかさず、タケミナカタはアメノホヒに言った。
「とんでもない。もちろんここにやってくるまでは、場合によってはタカミムスヒの命を実行しようと思っていましたが、中つ国を上から眺めて考えを改めました。だから交渉としてではなく、私はイズモに住みたいのです」
そして、アメノホヒはちらりと美輝の方を見やった。できればこの娘を傍に置いておきたいものだが…
アメノホヒの視線に気づいたタケミナカタはやんわりと牽制した。「天つ神が見ても美しいでしょう、私の妻は」とさりげなく言って笑ったのだ。
「これは失礼いたしました。奥方とは思わず、このように麗しい娘をたくさん抱えているイズモはそれだけで高天原に勝るのではと感心しておりました。いや、しかし、実に残念です」
仰々しく答えることによって、アメノホヒは無用な摩擦を避けようとした。タケミナカタという男はオオクニヌシの息子だろう。うっかりナガスソノイオリに手を出しては火傷するところであった。がっかりしたのは半分本心だが、イオリを諦めるほかあるまい。
「それはともかく、私がイズモで暮らしたいという気持ちは変わりませんよ。無論、高天原に内通することもありません。もしタカミムスヒが諦めず、中つ国を手に入れようとしてくるならば、私はオオクニヌシ殿と共に戦いましょう」
「それは心強いが、なぜ高天原を裏切るようなことを?」
アメノホヒの言葉からは嘘偽りはなさそうに聞こえたが、それでも納得しかねるコトシロヌシが尋ねた。りらが神話の詳細を知っていれば話は別だが、りらはオオクニヌシが高天原から国譲りを迫られるという大きな流れしか知らないのだ。
コトシロヌシの問いに対し、アメノホヒは自分の本当の父がスサノオであることを話した。スサノオの子孫であるオオクニヌシに敵対するのは心情的に忍びないというのが、アメノホヒの偽らざる心であった。
「ご存知の通り、スサノオは追放されたのでね。彼が勾玉から生み出した我々兄弟はタカミムスヒに育てられてきましたが、ずっと中つ国、とりわけイズモには心惹かれるものがありました」
興味深い話だ。そもそもオオクニヌシは懐が深い人物であったので、アメノホヒをイズモの一員として受け入れることにためらいはなかった。こうしてタカミムスヒの思惑は外れ、アメノホヒがオオクニヌシの配下に入った。
便りがないのは元気な証拠とはいうものの、使者から音沙汰がないのは送り出したものにとっては不安の種であり、無気味であった。高天原はアメノホヒからの吉報を待ったが、うんともすんとも言ってこない。
「オシホミミよ、弟から報告を受けておらぬか」
「いいえ、何も。私も待っているのですが」
タカミムスヒの苛立ちは日に日に増していった。説得に失敗し、オオクニヌシに幽閉されたか殺害されたのだろうか。
ある日、天の安河原に神々が集められた。アメノホヒがここを立ち去ってから高天原の時間で三年が過ぎていた。タカミムスヒは再び息子のオモイカネに尋ねた。
「この高天原でお前以上の知恵者はいない。中つ国平定のため、次はどの神を差し向けるのが良いか?」
「恥を忍んで、父上の問いにお答えしましょう。アマツクニタマの息子アメノワカヒコがよろしいかと存じます」
白羽の矢を立てられたアメノワカヒコは驚きつつも意気揚々とタカミムスヒの前に歩み出た。アメノワカヒコは高天原の中でも特に容姿が優れた男として有名だったが、その柔和な顔立ちの下には野心が隠されていた。
タカミムスヒの命には従わず、あわよくば中つ国を自らの支配下に置いてしまおう。
「アメノホヒはオオクニヌシの手にかかったやもしれぬ。気を付けて行ってまいれ」
オモイカネはタカミムスヒから預かった力の宿った弓矢をアメノワカヒコに授けた。
「この矢が射られれば、高天原にもそれが伝わる。安心しろ」
「これはありがたい。行ってまいります」
アメノワカヒコは弓矢を受け取ると、その場で成り行きを見守っていた神々に手を振り颯爽と飛び立った。だが、この弓矢を使うことはないだろう。高天原とは縁を切り、自分の国を手に入れるのだ。
輝く日の光が衣を通して地を照らす。りらと美輝は中庭の木陰で涼んでいた。
「ほんとにイオリはセクシーだよね。ねぇ、この色も似合うんじゃない?」
りらは瑠璃色の絹の紐を取り出し、美輝の腰に結びつけた。
「このリボンどうしたの? すごくきれい」
「コトシロヌシがくれたの。でも、ちょっと長かったからおすそわけするね」
「ありがとう。フサミミヒメはコトシロヌシと仲がいいね」
「イオリとタケミナカタもね」
二人の女性はくすくすと笑った。おかしな話だが、現代の女性と古代の男性が恋人同士なのだ。たとえこの関係が一時的なものだとしても、りらも美輝も満足していたし、今は夢のような世界を楽しんでいた。
美輝は次に高天原が派遣してくる使者も色仕掛けでこちら側に取り込むつもりでいた。それでイズモの平和が保たれるならやってみる価値はある。
りらは今のところ出番はなさそうだが、集落を見回って異変がないかをチェックし、コトシロヌシに伝えていた。美輝と別れ、部屋に戻る途中、潤に出くわした。軍の訓練の後なのだろうか、片手で兜を抱え、したたるくらいの汗をかいていた。
「お疲れさま」
「よう。何してるんだ?」
ここではりらは高貴な方の妃で、一方の潤は臣下の武将という立場だ。今は周りに誰もいないので、潤はりらに敬語を使わない。
「仕事の合間に美輝ちゃんと涼んでたんだ」
美輝の名が出て、潤はとたんに不機嫌な顔つきになった。美輝の奔放な言動には慣れることができない。節度をわきまえた品の良い貴子と比べると、どうも落ち着かなかった。
「五十里くんは美輝ちゃんのこと嫌いなの?」
「バカいうなよ。嫌いとかじゃなくてさ… なんつーか、ダンサーみたいな女の考えてることはついてけない」
「ふぅん。素直でかわいくていい子だと思うよ」
全面的に否定してやりたいと潤は思ったが、その代わりに、りらにこんな質問をしてみた。
「で、桧枝さんはコトシロヌシとうまくいってるの?」
「うーん、うまくいってるのかなぁ。古代の男の人って意外と思ったことをはっきり言うからちょっと戸惑うこともあるよ。だけど、私、コトシロヌシが好き。いつか現代に帰る日が来たらすごく寂しくなると思う」
残念だな、長柄。お前は古代の男に完敗だ。潤は陽一の報われない気持ちに同情した。
「まぁ、現代に戻ってもコトシロヌシはどっかにいるよ。俺、汗だくだから水浴びてくる。そっちも巡回よろしくな」
「うん、またね」
去り際に潤が手を振ると、りらの屈託のない笑顔が返ってきた。
妃と副軍団長が会話を交わしていた同時刻、もう一人の妃と参謀役もまた出会っていた。
「最近忙しそうだね、ヒカリサキヒコ」
「ある意味、平時ではないからね。イオリは大丈夫?」
「ヒカリサキヒコは優しいなぁ。ありがとう、あたしは大丈夫」
「なら良かった。タケミナカタとイカリヌシがついてるから心配ないか」
「イカリヌシは余計だよ。いっつもイカってるし」
美輝はふくれっ面をした。
「イカリヌシは君のことを心配してるんだ。ぶっきらぼうに見えるけど、熱血漢だからね。あんまり冷たくするとかわいそうだよ」
えー、あんなのただの偏屈男だよ。あたしのこと嫌いみたいだし。美輝は反発を込めてつぶやいた。
「意外と意地っ張りだねぇ。困ったことがあったら、俺たちに言うんだよ。それから…」
「うん、なぁに?」
最後の言葉は言うか言うまいか一瞬迷ったが、陽一は思い切って言ってみた。
「フサミミヒメのこと、頼むよ。妃同士なら話しやすいだろ」
「もちろん! ていうか、コトシロヌシのことなんて気にしなきゃいいじゃん」
やはり美輝も陽一の気持ちを知っていたのだった。
「まぁ、この世界じゃ難しいよね。早く帰れるといいな。がんばろ」
「そうだね。俺たちなりに努力しよう」
年下の女性に励まされたようで多少恥ずかしかったが、陽一は明るい気持ちになることができた。これからまだまだ高天原という敵に直面しなければならないのだ。悩んでいても前には進まない。
イズモ中が不審者の侵入に目を光らせ、ぴりぴりしていた。潤とタケミナカタが各地に巡らせた偵察網によって、見かけない人物がイズモに入り込んだら狼煙が上がる手筈となっており、アメノホヒがやって来た時はこの仕組みで予め使者の到来を知ることができた。
だが今回、運命の女神のいたずらで、アメノワカヒコが美輝に出迎えられることはなかった。当然、使者と思われる神がイズモに降り立ったことはオオクニヌシの元に伝達され、館の誰もが、いつ高天原の使者が訪れてもいいように身構えていた。
ところが、新しい使者は正門からではなく裏口からやってきた。アメノワカヒコは浜から上陸し、ふらふらっと森の中へ立ち寄り、そのままオオクニヌシの館の裏側、そう、最初に陽一たちが迷い込んだ場所にたどり着いてしまったのだ。
こう見えても力には自信がある。重厚な太刀と弓やを身に着けているにもかかわらず、風のごとく動くこともできるし、射た矢を外したことがなかった。オオクニヌシの館を制圧すれば、イズモを支配することは簡単だろう。あるいは従うそぶりを見せ、機が熟したところでオオクニヌシを裏切り、高天原をも裏切るか……。
腰に履いた太刀を握りしめながら、どうやって侵入しようかと館の様子を伺っている最中に、偶然、小川の冷たい水に果物を浸していた若い娘と遭遇し、視線がぶつかった。
「あなた、誰…」
「驚かせてすまない」
小柄だが大きな瞳につややかな黒髪をなびかせた娘がじっとこちらを見つめている。アメノワカヒコはその視線に心を射抜かれた。誰だろうこの愛らしい娘は。上質な衣に高価な石の飾りを身につけている。下働きの娘ではなさそうだ。アメノワカヒコは思い切って娘に近づき、名を問うた。
「君の名前を知りたい。俺はアメノワカヒコ、天つ神だ」
「私の名は… だめよ、言えないわ。だって、あなたは父の敵でしょう」
娘は名前を明かさなかったが、うっかり「父」という言葉を発してしまった。ここで高貴な娘の「父」と言ったら一人しかいない。そして、アメノワカヒコが知るオオクニヌシの娘も一人しかいなかった。
「オオクニヌシ殿の一人娘シタテルヒメだな」
名前を当てられてしまったシタテルは俯いた。鼓動が速い。怖い。…違う。こんなに近く、目の前に素敵な男性が立っている。寛大な父でもなく、頼れる兄たちでもない。初めて会っだのに、ずっと知っているような感覚。
「確かに俺は君の言う通り敵側からやってきたよ。でも、君を見た瞬間から敵ではなくなった。君を妻として、高天原から守りたい。オオクニヌシ殿の臣下としてイズモに尽くしたい」
アメノワカヒコは真剣に訴えた。ついさっきまで、中つ国を支配したいという野望で満たされていた心が嘘のように消え去り、目の前の娘と共に暮らしたいという小さな願望に変わった。しかしその小さな願望は今やアメノワカヒコにとって全てとなった。
「お願いだ。父上に会わせてくれないか」
懇願しながら、アメノワカヒコは身につけていた武器をーつにまとめ、なぜかその武器に息を吹きかけた後に全てシタテルに差し出した。丸腰になり、二心ないことを示したのだ。
「武器は預かります。父があなたをどうしようと、私は知らないわ」
敵に求婚された動揺を隠しながら、ふわりと武器を受け取り、シタテルは愛想なく言った。アメノワカヒコに背を向け、無言でついてこいと指示をする。逃げもせず拒否もしなかったシタテルは、既に半は敵の使者の存在を受け入れていた。
いつもの通り、オオクニヌシとコトシロヌシ、陽-とりらは正殿で待機していた。不審者侵入の知らせを受けてしはらく経つが何事も起こらない。陽一が正門の様子を確認しに行こうとした時、中庭からシタテルが正殿に上がってきた。後ろには謎の若い男が控えている。そして、さらに美輝とタケミナカタ、潤が駆け足で続いてやってきた。
「シタテル、誰だその男は」
「まさか…」
「父さん、ご察しの通り高天原からの使者を連れて来たわ。名はアメノワカヒコ。武器は取り上げてあります。兄さん、これを…」
シタテルはアメノワカヒコの武器をコトシロヌシに引き渡した。いつの間にか、タケミナカタと潤がアメノワカヒコの両脇に立ち監視をしていた。
「アメノワカヒコ殿、タカミムスヒからの要件は如何に?」
オオクニヌシを始め、その場にいた皆が警戒していた。ところが、アメノワカヒコの返答はアメノホヒのものよりも予想外の内容であった。
「私とタカミムスヒとは既に何の関係もありません。私自身の望みを申し上げます。シタテルヒメを妻にしたい。そして、オオクニヌシ殿にお仕えしたい。私は弓が得意ですし、父と共に農業を司っていました。きっと、シタテルヒメを守ります」
「厚かましいぞ、我らの妹を敵にやるなどもってのほか――」
「まあ、待て、タケミナカタ。その妹の考えを聞いてみようではないか」
今にもアメノワカヒコに掴み掛ろうとしていた息子を制し、オオクニヌシはシタテルに優しく尋ねた。
「かわいい娘よ、お前はこの若者をどう思う?」
「国つ神の王の娘として答えます。私の母は高天原で生まれた天つ神のタキリヒメ、私は混血の娘です。父さんは天つ神の母さんを好きになったんでしょう。高天原とか中つ国とか関係なく。だから私には天つ神だからというだけでアメノワカヒコを拒む理由はないわ」
「面白い娘だ。それで、理屈はわかったが、お前自身はどうしたいのだ? 気に入らないならば追放しようか、処刑してもかまわぬぞ」
シタテルはまた俯いた。もし… ここでアメノワカヒコを追放したら二度と会えない。今度こそ敵同士になってしまう。
「私は天つ神を受け入れることで、平和の役に立ちたいと思います。それに… 彼が好きだわ」
「本人同士が好き合っているなら何も問題ない。めでたいことだ」
父の言葉にようやくシタテルはアメノワカヒコに笑顔を見せた。アメノワカヒコは正面を向き、オオクニヌシに脆いて感謝の意を表した。
「ありがとうございます。私のような者を許してくださるとはやはり寛大なお方だ」
「あなたがシタテルに惚れていることはすぐにわかった。娘の後を追うあなたは不安げではあったが、こちらを敵視するような瞳ではなかったし、娘に気を遣っていた」
陽一たちには、アメノワカヒコがシタテルにどう気を遣ったのかわからなかったが、シタテル本人がそれを証言した。
「ええ、アメノワカヒコ殿は私に太刀と弓矢を預けました。力の弱い女が持てないほど、とても重いものです。でも、羽みたいに軽かったの。それは私に武器を手渡す前に彼が天つ神の持ってる力で軽くしたからよ」
アメノワカヒコが武器に息を吹きかけたのは、シタテルの言う通り、重さを取り除いたためだった。
「それはそうだ。妹があんな重いものを持てるはずがないからな」
普段から武器を扱っているタケミナカタが納得して、顔をほころばせた。アメノワカヒコという男はひ弱そうで見た目が良いのだけが取柄かと思っていたが、どうやら違うらしい。イズモにとって強力な助っ人になりそうだ。
オオクニヌシはシタテルとアメノワカヒコに新居を与え、翌日の夜、既に中つ国の住人となったアメノホヒも招いて二人の婚礼の席を設けた。最初、アメノホヒはアメノワカヒコがイズモに派遣されてきたこと、すぐに寝返ってオオクニヌシの娘と結婚したことが信じられないようだった。野心家のアメノワカヒコがそのような欲を捨て、国つ神に仕えるなど高天原の彼を知る者からしたら驚愕して当然だ。
「アメノホヒ殿は今はどちらに?」
「広い田畑を管理したいのでね、集落のはずれに居を構えていますよ。快適です。なにしろタカミムスヒがいない国なんですから」
アメノホヒは農業の発展によって中つ国に貢献しようと考えていた。今でも十分に豊かではあるが、イズモ以外の上地では収穫量や質にばらつきがあるようだ。アメノワカヒコもまた、自分の能力を持って中つ国を支えていくつもりだった。妻のシタテルは国つ神と天つ神の血が混じっており、父オオクニヌシの生みの親はスサノオ、母タキリヒメの生みの親はスサノオの妹オオヒルメである。シクテルはその出自からオオクニヌシのどの子供たちよりも天つ神に心を寄せていた。
もしタカミムスヒが中つ国支配を諦めてくれたら、アメノワカヒコは父のアマツクニタマや兄のオシホミミ夫妻を中つ国に呼び寄せようと思っている。高天原の神々も自由に中つ国に来ることができるようになればいい。そんな期待を胸に、アメノワカヒコはシタテルと共に穏やかな暮らしを始めた。
しかし、平穏な幸せな日々はそう長くは続かなかった。アメノワカヒコが天の安河原を意気揚々と去ってから、高天原の時間にして八年が過ぎた。何の報告もない。父親にも連絡はない。またもやタカミムスヒはオモイカネに尋ねた。
「アメノワカヒコの行方を調べなさい。誰か相応しい神はいるか?」
「ナキメに行かせましょう」
ナキメは雉の姿をした神で、人の言うことを真似て繰り返し伝えることから伝令の役割を与えられることがあった。ナキメはタカミムスヒの足元に止まった。
「いいか。アメノワカヒコには『お前を派遣したのは中つ国の荒ぶる神々を鎮め、帰伏させるためである。しかし、八年も復命しないのはいかなる理由か』と言ってきなさい。さあ、早く」
雉はきいと高らかに鳴いて飛び立った。今まで派遣した神よりもナキメは忠実であった。ところがここに、誰にも忠実でない女神がいた。アメノサグメという天つ神はタカミムスヒから中つ国の様子を探るよう命じられていたが、気まぐれな性格で適当な報告しかせず、様々な姿に変身しては国つ神や人間とも交流していた。
以前、美輝が情報収集活動のために外出した際に、サグメに会っており、どこでアメノワカヒコとアメノホヒの裏切りを聞きっけたのか、オオクニヌシの館の近くに出没するようになり、今ではアメノワカヒコの家に出入りしている。サグメはタカミムスヒの命を受けているにもかかわらず、それを妨害することになっても自分が面白いと思ったことを優先させてしまう変わり者だった。ただ気の赴くまま行動しており、タカミムスヒにもそれ以外の何者にも服することはなかった。
「なんだ、サグメ。またいたのか」
「いいじゃない。あんたんとこの家、居心地がいいんだもの」
サグメはアメノワカヒコの自宅の庭で涼んでいた。シタテルはこのサグメという女は気味が悪いと言って嫌がっていたが、別に悪さをするわけでもなく、アメノワカヒコと男女の関係になるようなこともなさそうだったので、出入りすることを黙認していた。実際、サグメは悪い女ではなく、シタテルの農作業を手伝ったり、どこからか食べ物を調達してきたり役には立っていた。それに、夜になるとふっといなくなり、また朝や昼になると敷地内をうろつく姿が見られた。
サグメは長い髪を結い上げて、冷たい瓜をかじっていた。すると、門の近くで何かばさばさっという音が聞こえ、鳥の鳴き声が響いた。サグメは瓜を投げ捨て、駆け足で門の様子を見に行った。
「アメノワカヒコはいるか?」
山吹色の衣で、髪に鳥の羽の飾りをつけた女が尋ねた。そして、続けて女は「お前を派遣したのは中つ国の荒ぶる神々を鎮め、帰伏させるためである。しかし、八年も復命しないのはいかなる理由か」と大声で叫んだ。何事かと、アメノワカヒコが門の外へやってきた。
「サグメ、こいつは何だ?」
「たぶん、あんたも知ってるだろうけど、ナキメって伝令の鳥だよ」
「タカミムスヒの使いか」
ナキメは再び同じ言葉を繰り返し叫んだ。サグメはアメノワカヒコを唆した。
「アメノワカヒコ、さっさと不吉な鳥は射殺してしまった方がいいんじゃない? ほら、あんたさ、タカミムスヒから弓矢をもらったじゃないか。使い時だよ」
一瞬迷ったが、あまりにもナキメの叫び声が不愉快だったので、アメノワカヒコはサグメの言うとおり、家の入口にかけてあったあの弓矢を持ち出し、素早くナキメの胸をめがけて弓を引いた。ばさっと倒れる音がした。そこには一羽の雉が胸からどくどくと血を流して横たわっていた。
ナキメを貫いた矢は刺さったままではなく、不思議な力によって、そのまま飛び続けて高天原まで戻ってきた。天の安河原に集まっていたタカミムスヒとオモイカネ、そしてオシホミミとオオヒルメの足元にその矢は落ちた。
「これは…」
オモイカネが矢を拾うと、その羽に血がついていた。
「父上、この矢は父上がアメノワカヒコに授けたものですよ」
タカミムスヒは息子から血の付いた矢を受け取り、その場で見物をしている神々に見せながら言った。
「もし、アメノワカヒコが私の命に背かず、邪悪な神を射た流れ矢が高天原に戻ってきたというのであれば、アメノワカヒコに当たらずにあれ。しかし、もし、アメノワカヒコに反逆の意思があるのならば、この矢の災いを受けるがよい」
これはある種の呪いだった。タカミムスヒは矢を宙に投げた。矢はずんずんと進み、やがて天の安河原からは見えなくなった。
イズモではアメノワカヒコとサグメがナキメの死骸を焼き、家を清めた。アメノワカヒコはこの一件をオオクニヌシに報告し、アメノワカヒコの家にりらを派遣した。娘のシタテルの傍にりらを置いておくのが安心だと考えたからだ。
「あなたが来てくれて心強いわ、フサミミヒメ」
「シタテル、もし何かあったらすぐにコトシロヌシたちに知らせるから大丈夫よ」
その後、何事もない日が数日続いたが、突然、シタテルにとって絶望的な朝がやってきた。りらは夫婦とは別の部屋に寝泊まりしており、いつものように鳥のさえずりで目が覚めようとしていた時、空気を切り裂くようなシタテルの叫び声が聞こえた。りらは飛び起きて寝室に駆け込んだ。
「アメノワカヒコ…!」
りらはアメノワカヒコの変わり果てた姿に息を飲んだ。その胸の辺りは鮮血で染まり、矢がしっかりと胸を貫いていた。
「何があったの!?」
しかし、シタテルは発狂したかのように泣き叫ぶだけで、りらの問いに答えることは不可能な状態に陥っていた。りら自身も、職業上、人の死はいくつか立ち会ってきたものの、このような異常な死に方をした人間を目の当たりにしたことがなく精神的ダメージが大きかった。それでも、りらは誰かに知らせなければならないという判断力を働かせて、オオクニヌシから受け取った火炎筒を中庭に持ち出し、火をつけた。
しばらくは自分が何をしていたのか覚えていない。実際は、火事場の馬鹿力のように体が動いており、狂乱しているシタテルを隣の部屋に連れ出して人が来るのを待った。随分と長い間待った気がした。馬のいななきが聞こえた。
「大丈夫か!?」
コトシロヌシはりらを見るや否や、抱きしめた。同行してきた陽一は泣き続けているシタテルの肩に手をかけ、落ち着かせようとした。
「寝室にアメノワカヒコが…」
肩を震わせてりらが告げると、タケミナカタと潤が隣室を確かめに行った。イズモにとっての衝撃と損失がそこに横たわっていた。
「どうしてこんなことに」
「見ろ。この矢はアメノワカヒコが高天原から持ってきたものだ」
二人は事の次第を悟った。アメノワカヒコを貫いたのは高天原からの還し矢だったのだ。そして、さすがに次は高天原も本気でイズモを攻略しにかかってくるだろうことも想像できた。
突然、愛する夫を失ったシタテルの激しい慟哭は風に乗り、高天原まで届いた。タカミムスヒはナキメが戻ってこないこと、シタテルという女神の嘆きからあの矢が裏切り者アメノワカヒコを射殺したのだと知った。なぜこうも次から次へ天つ神たちはオオクニヌシに取り込まれてしまうのか。息子のオモイカネの進言はもはや当てにならない。
「オモイカネ、お前の指名した神々はいずれも高天原を裏切った。今度は他の神と相談した上で、次なる使者を決めよ」
「申し訳ございません。すぐに相談いたします」
オモイカネはもう後がないと、三日三晩仲間の神々と誰が使者に相応しいか考えた。そうして出た答えは、力づくでイズモを制圧するほかないということだった。武力を背景にした神を遣わし、イズモを明け渡すと承諾しない場合はただちに高天原の軍を派遣するつもりだった。
「イズモへは、タケミカヅチを送るべきかと存じます」
「ほう、雷神か」
「今まで送り出した神はある意味、分別があり過ぎました。タケミカヅチは武人の誉れ高く、父親のアメノオハバリは刀の神ですから」