第4章 <2>
「熱田津に着いたよ。また夕刻に出港するけど、俺たちはやることないから、上陸してふらふらしてよう」
チトコが示した地図を見ると、熱田津は愛媛県に位置していた。オオシアマにとって、あの戦争の際、最初の妻であるヌカタがタカラ大王に代わって出陣の歌を詠んだ思い出深い地である。熱田津は瀬戸内海の交通の要所で、商業港と軍港の機能を兼ね備え、人々の往来も多かった。
「しばらく出かけてくるよ」
オオシアマはヤツカに声をかけ、部下の二人とともに下船した。行先は港の近くにある弁天山という低い山である。市の露天で焼き芋や小魚の佃煮を調達し、山に登った。朝もまだ早いということもあり、この辺はほとんど人影がなかった。
甲板でのクロマロとの会話を思い出して、竜成はオオシアマにその内容を告げた。
「そんな話は兄から一言も聞いてないぞ」
「つい最近、寺社の修繕作業などが終わったばかりですしね」
「じゃあ、やっぱり単なる噂かな」
「いや、近江から遠く離れた陸奥の人間がそういう話をしてたんだろ。全く根拠のない噂とも言い切れない。この話は帰ったら兄に報告しよう」
弁天山からは瀬戸内海が一望できた。露天で買った朝ごはんを食べながら、海に浮かぶ様々な船を眺めた。オオシアマはぽつぽつと昔話を始めた。
「昔、母が百済救援軍の指揮を執るため、同じ航路で筑紫朝倉宮に向かった。寄港地で俺の二番目の娘が生まれ、ここ熱田津ではヌカタが出陣の歌を詠み、翌年、朝倉宮でサララが息子を産んだ。俺はまだ十七か十八だったけど、この戦の重大さはわかった。兄は古くから国交のあった百済を全面的に支援しようとしたんだ。滅亡した百済の王子が大和に滞在していたから、そいつを帰国させて復興軍を率いてもらい、共に新羅を倒した後に唐とも戦うという作戦だった」
復興軍は百済南部の新羅軍を撤退させたものの、唐が増援を派遣し、大和と百済は挟撃されてしまった。陸上でも海上でも、連合軍に押され、最後は水軍に大敗を喫した。「無謀だよな」とオオシアマは苦笑いをした。
「君と最初に会った時にも言ったけど、大和は半島に武力介入すべきでないんだ。距離を保って、商業上の取引きに徹すべきだ。兄はあの戦いで相当、精神的に傷を負った。船団を半分も失い、一万もの兵を帰らぬ人にしてしまったんだから。当然、百済の復興は叶わず、唐や新羅が大和に攻め入る口実まで与えた」
カヅラキは異常に唐を恐れ、遣唐使も派遣していた。
「兄がこのまま唐に媚びていたら、最終的には大和は唐の属国になるぞ。百済の二の舞になるのは何としても避けなきゃいけない。俺は我が国が大国に媚びるのも、属国になるのも嫌だ」
竜成とチトコを真っ直ぐ見つめて言った最後の言葉は、珍しく力強く、揺るがない信念が感じられた。
「俺は大和が永久に独立を保った、強い豊かな国にしたい。借り物の強さじゃなく、大和に起源をもつ強さがほしい。兄だって強く豊かな国を思って制度を変えようとしてるのに」
「制度? 例えばどんな?」
カヅラキは大和が強く、外国と互角に渡り合うにはそもそも国内の権力基盤を安定させることが肝要だと考えていた。それは、王位継承の争いをなくし、大王あるいは大王候補の力を権力闘争ではなく、国政に集中させることである。
オオシアマはまだ生まれていなかったが、カヅラキが子供の頃から王位継承の争いは既に数回あった。しかも、王位継承争いは今に始まったことではない。大王という地位が大和で確立された遠い時代からずっと続いてきたのである。
カヅラキが知る最初の争いは、大和初の女王であるヌカタベ大王が死去した後に発生した。ヤマシロ王子とタムラ王子が王位継承候補者だったのだが、この時はタムラが即位した。そして、タムラ大王が死去すると再び王位継承権を巡る火花が散った。タムラ大王の長男であるフルヒト王子と、別系統のカル王子がその主役となった。ヤマシロ王子も候補の一人であった。
「ちょっと待って。大王と王妃の息子がいるんだから、そいつを次の大王にすればいいんじゃないの?」
竜成は素朴な疑問をオオシアマに尋ねた。日本だけでなく、世界の王室も王と正妻の長男や長女が跡を継ぐ体制ではないか。
「いや、ここが問題なんだ。王位継承者は年齢と執政経験と人柄で決まるから、複数候補者がいることになる。母親の身分が王族でなくても、長男であれば候補者になれる。まぁ、あくまでも長男に限られるけどな」
だから、弟のオオシアマは王になる資格は有していない。オオシアマたちの時代において、自動的に王位が継承されるルールは確立されておらず、その都度、複数の候補者が権力闘争を行うことになった。
このような場合、次期大王が決まるまでの中継ぎの役目を負う大王を擁立するのが解決策であった。
「フルヒト王子とカル王子の争いは決着がつかず、とりあえず俺の母タカラ姫が大王になった。けど、争いを一時的に棚上げしてるだけだから、王子たちの争いは続いてた。母はとりあえず、大臣に命じてヤマシロ王子を滅ぼさせた」
「候補者が少ない方がいいってこと?」
「そうだ」
そしてある日、軍事クーデタが決行された。首謀者はカル王子とその支持者たちであった。軍事クーデタにより、ライバルのフルヒト王子を支持する蘇我氏が滅亡した。
「この事件は乙巳の変って言うんだ。母はカル王子に譲位した。俺はまだ赤ん坊だったからこの話は全部、兄から聞いた。え、兄は何してたかって? 叔父のカル王子の手足となって、蘇我の嫡男暗殺に加わったよ。一回り年上のフルヒト王子が即位したら、兄が即位する可能性はほぼなくなるからね」
結局、フルヒト王子は出家したのだが、謀反の疑いを理由にカヅラキによって攻め滅ぼされてしまった。弱冠二十歳のカヅラキは複数の候補者がいる王位継承体制に疑問を抱きつつあり、この慣習を大胆に改革しなければならないと思うようになっていた。それには何としても自らが即位し、改革に着手する必要があった。母が即位した頃から、大陸と半島情勢がにわかに騒がしくなっていた。
「あのさ、その時、カヅラキ大王は王位継承候補者じゃなかったの?」
「二十歳そこそこだったから、人間的にも未熟だし実績も皆無。まだ王位は任せられない年齢だ」
古代の人間は早熟なのかと思っていたが、案外そうでもないようだ。
ここからが大事なことなんだけど、とオオシアマが言った。
「まぁ、こんな感じで争いばっかだっただろ。周辺諸国が戦争してて、国内では成長して民を食わせていかなきゃいけないのに、一部の王族が血みどろの戦いを続けてるのはどう考えてもおかしい。だから兄は仕組みを変えようと考えたんだ」
カヅラキは今後は血統を最優先させて、特殊な系統の王子にのみ王位継承権が与えられるという制度を確立させようとした。
「兄と正妃ヤマト姫の間に子はいない。男子は伊賀から連れてきた采女ヤカコが生んだオオトモだけだ。大王に一層の権威を与えるためには、下級豪族の娘である采女と大王の子を最優先させる血統にするわけにはいかないだろ。だから兄は娘を四人も俺に嫁がせたというわけだ」
「でも、オオトモは次期大王に決まってるって…」
「もちろんそうだ。ただし、中継ぎとしての大王なんだよ、オオトモは。本格的な血統優先の大王継承は俺の子の代から始まることになるね」
カヅラキの長女オオタ姫はオオツ王子を産み、次女サララ姫はクサカベ王子を産んだ。念入りに、次期大王オオトモ王子の妻にはオオシアマの娘トオチ姫を嫁がせている。といっても、トオチ姫はまだ十一歳に過ぎないため、子を産むにはあと五年は待たなければならないが。
「つまり、次期大王はオオトモで、サララ姫が君の正妃だから、その次の大王はクサカベなんだね。確かに争いの余地はないね」
「あぁ、クサカベもまだ子供だけど、兄の娘アエを嫁にもらってる。いずれ、アエが息子を産めば、兄と俺の孫がまた次の大王になるってことだ」
「なんだか訳がわからないよ(笑) 特殊な血統ができつつあるってのはよくわかったけど。君は大王にはなれないけど、オオトモの補佐とかクサカベやオオツの後見っていう大役を担ってるんだな」
「結構大変なんだぞ。甥の教育とかうちのガキの躾とか」
日本国の王を巡る話をしているとは思えないほど、軽い口調でオオシアマは言った。
「ところで、俺たちはこうやって強い国を作ろうとしてるけど、未来の君たちの時代はどうなんだ? 大王は国をうまくまとめてるのか? 国は強いのか?」
オオシアマの質問に、チトコも興味がありそうに竜成の答えを待っている。しかし、竜成は複雑な心境になった。彼は日本が母国ではない。権威を与えられた大王、即ち大日本帝国の天皇のせいで、母国では日本の属国になった歴史がある。そして、日本はアメリカという大国に敗北している。今もって、領土の一部が他国の支配下にあり、同盟国の米軍が駐留していた。
「大和は同じ過ちを犯したのか…」
竜成の話を聞いて、オオシアマは苦々しく呻いた。未来でも半島に手を出し、他方で大国を敵に回し、甚大な被害を蒙ったというのか。なぜオオクニヌシが作りし豊かな国土と民を守ることができないのだ。
「オオシアマ、そんなにがっかりするなって。俺の考えだけど、あの時は、日本の大王に実は力がなくて、部下たちに不備があったのが原因なんじゃないかな」
「大王は名ばかりだったってことか?」
「ぶっちゃけ、そうだね。今なんかはもっと名ばかりだけど」
怪訝な顔をしている古代の二人に対して、竜成は日本の権力機構を説明した。大王が政治に参画することはなく、国民が多数の代表者を選んで政治を動かしている、という仕組みにオオシアマは目を丸くした。
「現代はどこの国も人口がめちゃくちゃ多いからね。誰か一人が何でも決めるのは無理だよ。それに、こっちの世界の話を聞いてると、そんなに大きく仕組みが違うとは思わないな。だって、大王の下には太政大臣と左右大臣がいて、例えば、農業や軍や交易を扱う役所があって、その下には官僚たちがいるだろ? 似てるよ」
「そういうもんなのか」
ずいぶんと長い間、複雑で濃い話を聞いた気がする。竜成の脳は熱く回転し、興奮していた。確かにカヅラキとオオシアマはこの国の統治を変えようとしているのだった。
「これで兄が俺の外交策を採用してくれさえすればな……」
「そのためにも筑紫から情報をしっかり仕入れてきませんとね」
主人の荷物をまとめながらチトコが言った。
一行はゆっくりと下山した。遊びに来た子供たちが集団で坂道を駆け上がっていった。実にのどかである。
出港までの時間は、市場をじっくり見たり、水軍の訓練の様子を見学したりして過ごした。見かけは庶民のように質素だが、水軍の団長はオオシアマの姿を見るなり、感激したように迎え入れてくれた。団長はオオシアマが子供の頃から近くに仕えていたらしい。
商船に乗り込み、ヤツカに戻った旨を伝えると、荷物の最終確認をしたら出発するとのことだった。大部屋で待機していると、船が動き出した。明日の朝には下関に到着し、ここでも夕方まで停泊し、明後日の朝、博多に到着する予定だ。天気も良さそうだし、今のところ竜成は船酔いをしていなかった。
先ほどから床がぎしぎし、ばたばたと音を立てている。十歳前後の子供が五人も集まり、大津宮の離れで鬼ごっこをして駆けずり回っているのだから無理はない。カヅラキの娘であるアエを除けば、他は全てオオシアマの息子と娘たちであった。
「クサカベ、大丈夫?」
走りすぎて肩で息をしているクサカベを見て、この中で年長のトオチ姫が心配そうに声をかけた。すると、クサカベの“妻”であるアエも駆け寄り、「クサカベはあたしの旦那様なの!」と、クサカベの背を撫でていたトオチの手を払った。
サララにとっては見慣れた微笑ましい光景だ。月に何度か、サララはオオシアマの邸宅に住んでいるタケチとクサカベを連れて、大津宮に遊びに行く。同じ年の子供たちと遊ばせるのも教育だし、将来のことを考えると、今のうちからお互いのことをよく知っておいた方がいいと思っているからだ。
「姉上、今日も賑やかですね」
大津宮で執政の勉強をしているオオトモが離れにやってきた。サララとオオトモは実はカヅラキを同じ父とする異母姉弟なのだ。
「おいで、トオチ」
オオトモが優しい声で呼びかけると、トオチは嬉しそうにオオトモに抱き着いた。オオトモはそのままトオチを抱きかかえる。この二人は夫婦だが、まだまだ兄と妹のようだった。他方、いずれ妻にするか別れるかはわからないが、オオトモは既に何人か豪族の娘を恋人に持っていた。成長した後のトオチの気持ちを考えて、オオトモは普段、恋人たちを大津宮に呼ぶことはしなかった。
オオトモの足元に何かがまとわりついた。
「僕も抱っこー」
最年少のオオツがぴょんぴょん飛び跳ねながらオオトモをじっと見上げている。
「だめよ、オオツ。トオチ姫はオオトモ王子の奥様だから抱っこしてもらえるのよ」
オオツの姉オオクが諌めた。オオツは母が数年前に他界して以来、特に甘えん坊になってしまった。反対に、長女のオオクは忍耐強く育っている。この姉弟は、カヅラキの若い妻メイ姫の元で、アエと共に育てられていたが、オオクは迷惑をかけまいとして必死に寂しさを堪えているのだった。
サララは実の姉の子であるオオクとオオツを自分の元で育てたいと主張したが、父であるカヅラキに却下されていた。初孫ということもあり、どうしてもカヅラキは自分の近くに置いておきたいようだった。
オオトモは笑いながら、今度はオオツを抱っこした。「オオトモ王子、ばんざぁい」とオオツははしゃいでいる。
「ねぇねぇ、オオトモ王子は次の大王なんでしょ?」
「そうだよ」
「いいなぁ。大王になったらお菓子いっぱい食べられる? 僕もいつか大王になれる?」
「どうかな、いい子にして父上やかか様を困らせたりしなかったらなれるかもしれないね」
かか様というのはメイ姫のことだ。
「僕だって、大王になるんだよ!」
アエとビー玉で遊んでいたクサカベが立ち上がり、オオトモの傍にやってきた。
「クサカベは体が弱いから大王にはなれないよ!」
子供というのは残酷だ。オオツは次の言葉でクサカベに一撃を与えた。いや、サララにも衝撃を与えた。
「だって、おじい様がクサカベには大王は無理だって言ってたもん」
うわぁん、とクサカベが泣き出し、サララに駆け寄ってきた。サララは今にも息子を強く抱きしめ撫でてやりたかったが、子供は平等に扱うという約束をオオシアマとしている手前、そうすることができなかった。「大王になりたい男の子は泣かないのよ」と声をかけるのが精いっぱいだった。
クサカベの泣き声につられて、アエも泣き出した。こういう時、サララの代わりになってくれるのがトオチである。クサカベとアエの手を握って、頭を撫でてやっている。
この一連の騒動にも動ぜず、一人で黙々と本を読んでいる少年がいた。オオシアマの長男タケチである。タケチは幼いながらに落ち着きがあり、賢く、また武芸も得意だった。まだ先の話であるが、タケチは後に太政大臣にとして頭角を現すことになる。そして、タケチはこの頃からトオチに恋心を抱いていた。幼くとも、トオチが次期大王の妻になったことくらいわかっていた。だから、早くオオトモ王子を倒してトオチ姫を妻に迎えなければならない。物静かな少年は、心のうちで嫉妬と闘志を燃やしていた。もちろん、トオチ少年の野望は誰も知らない。
泣き止んだクサカベは、部屋の隅に座っていた貴子に歩み寄り、お菓子をねだった。貴子がクサカベと初対面を果たしたのは昨日の昼ごはんの時であった。その時から、クサカベは貴子にも懐いてくれた。女官のシヒやトヨハヤよりも怖くない女の人だ!
「そんなにたくさんのお菓子を食べると夕飯が食べられなくなりますよ」
「でもおなか空いた」
「じゃあ、ハッカの寒天ならいいでしょう」
サララのゴーサインが出た。
貴子はクサカベの体の弱さは基本的な栄養不足が原因ではないかと考えた。薬剤師の知識がどれほど役立つかわからなかったが、大津宮には漢方の薬師もいるし、薬草園も整備されていたので、薬師と相談しながらクサカベに必要な薬を調合することにした。しかし、苦い薬は飲みたがらないので、薬草をお菓子に入れてみたり工夫している。そしてなるべく運動もさせるようサララとオオシアマにアドバイスをした。
確かにクサカベはひ弱で頼りなさげだが、両親に似て目の奥には強い意志と好奇心があった。自分より立場が下の人間たちにも優しく接していたし、動物をいじめることもなかった。
昨日の夕飯ではこんなエピソードがあった。ある地方豪族が上等の鹿肉を献上してくれたので、それが食卓に上った。現代人の貴子が食べてみても美味しい肉だった。だが、クサカベは鹿肉を半分残した。
「どうしたの? こんなに美味しいものなのに。全部食べないとダメよ」
サララが注意すると、「美味しいから半分は、アエにあげて」と言う。クサカベは続けた。
「だってね、アエのとこにはオオクとオオツもいるでしょ。子供が三人もいるから、アエの食べるご飯はきっと少なくなって、おなかが空いてるよ」
その場にいた者全員がクサカベの小さな心配事に胸を打たれ、サララは思わずクサカベを抱きしめた。
「心配しなくていいのよ。アエもあなたと同じくらいたくさんご飯を食べてるから」
「ほんとに?」
「ええ、メイ姫がちゃんとみんながおなかいっぱい食べられるように用意してるんだもの」
「じゃあ、僕もご飯全部食べる!」
クサカベは安心して残した鹿肉を口へ運んだ。
どの子も個性があって良い子だ。だが、愛嬌と優しさが目立つのはサララの一人息子であろう。客観的に貴子から見てもクサカベは不思議な魅力があった。だからこそ、体を強くしてあげたいと願わずにはいられなかった。
オオシアマたちが下関に到着する頃、貴子はサララと二人で琵琶湖の辺を散策していた。例によって、乗馬での外出だ。少し汗ばむ気候だが、風が爽やかで心地よかった。
「いつも子供たちの面倒を見てくれてどうもありがとう。トヨハヤたちも助かってるわ」
「それは良かった。私にはこっちの世界の政務はよくわからないけど、子供と遊んだりするのはお安い御用。最近、クサカベの体調も良いみたいだし。タケチがお兄さんぶって、クサカベに色々教えてるのが面白いの」
常に一緒に暮らしているせいか、クサカベとタケチは仲が良く、タケチはクサカベが悪戯をしても、声を荒げたり手を出したりすることがなかった。既に他界しているが、実母のアマコの躾が行き届いていたのだと、サララは貴子に言った。
まだ独身の貴子であったが、夫に複数の妻がおり、子供たちのことも気にかけなければならないサララの立場が苦労の連続であろうことは理解できた。
「ねぇ、サララ。旦那さんにたくさん妻がいて嫉妬しないの? 立場は違うけど、私だったら自分の恋人が浮気してたらって思うと狂いそう」
「彼女たちの存在を受け入れてるわけではないわよ。ただ、どうしようもないでしょ。全て父の指示だし。私はね、幸せな方なの。政治的思惑でオオシアマと結婚させられたけど、結局のところ彼以上の男はいないってわかったし、クサカベも生まれて……」
そこまで言うと、サララは一瞬息を飲んだ。何か感極まるような様子だった。サララが幸せだというのは本当のことだ。サララの女性の親族は不幸な境遇に陥っている者が多い。しかもその原因が父カヅラキを中心とした出来事に起因している。
サララは唐突に貴子に昔の話をし始めた。そして、その中でサララはカヅラキを軽蔑し憎んでいることも吐露した。
「姉が早くに亡くなったことは知ってるでしょ。母のオチも私が子供の頃に亡くなったの。亡くなる前の一、二年は精神に異常をきたして、弟を産んでから力尽きたように息を引き取ったそうよ。なぜだかわかる? 父が祖父を追い詰めて自害させたからよ」
貴子はいつも溌剌と明るいサララの口から重く暗い話を聞かされ驚くほかなかった。
「何があったの?」
「祖父は当時、カル大王の右大臣を務めていたんだけど、謀反の疑いをかけられて窮地に陥った。父は軍を率いて祖父に自害を迫ったの。母は自分の父が夫に殺されたと知って、悲しみのあまりおかしくなってしまったみたい」
母は祖父が亡くなってからは塞ぎ込んでいることが多く、些細なことに対しても気分を害し、しばしば子供たちに手を上げることもあった。オチが感情を抑えられず暴れ出すと、複数の女官たちに羽交い絞めにされ別室に連れて行かれる場面を、サララは何度も目撃した。サララはそういう辛い記憶を封印してきたのだ。
「父は母に対して一言も詫びていなかったわ。思いやりのある言葉もなかった」
そして、オチは三人目の子供を産んだ後、娘のオオタとサララにこう告げた。カヅラキから逃げなさい、と。母が精神を病みながら産んだ弟のタケルは言葉を話すことができず、カヅラキの愛情を受けることもなく夭折してしまった。幼い頃の暗い過去は常に付きまとい、成長するにつれて母の悲惨な姿が鮮明に蘇るようになった。
父の手からいつか逃げよう。そう決心したサララの味方であり盾となったのがオオシアマだった。それが父が決めた結婚相手だったというのは皮肉である。
「カヅラキの行いはよくわからない。カル大王の反対にもかかわらず、難波宮を捨てて飛鳥に戻ってしまったこともあったわ。ほとんどの役人はカヅラキに従ったし、祖母だけでなく、カル大王の妃までも飛鳥に帰ってしまったの。カル大王は一人、難波で憤死…」
カル大王の妃ハシヒトはカヅラキの妹であったが、実はこの二人は恋愛関係にあったという噂がまことしやかに囁かれていた。それは事実だとすれば、ハシヒトが夫を難波に置いて、カヅラキに付き従ったことは納得がいく。とはいえ、カヅラキが妹であるハシヒトに兄である自分に従うことを強要しただけのことかもしれない。
それよりもサララにとって心を痛めたのは、カル大王の息子アリマが十八歳で絞首刑に処せられたことであった。謀反の疑いがあったというのが処刑の理由だが、サララはカヅラキが裏で糸を引いて、王位継承の邪魔者を消したのだと信じている。
「アリマ兄さんは、謀反をたくらむような人じゃなかったのよ」
「よく知ってる人だったの?」
「ええ。私もオオシアマも勉強を教えてもらったり、すごく優しかった。僕には大王の地位は荷が重い、歌人になるか大学の先生になるんだって言ってたわ」
アリマは父親の死後、カヅラキを恐れてわざわざ気が触れたふりまでしていたのだった。権力闘争に巻き込まれたくない、構ってくれるなというのが本音であっただろう。
「父はね、実直な人なんだと思う。真剣に自分に与えられた役割を果たそうとしているのよね。だからと言って、それが他人への優しさにはつながらなかった。目の前に見える真っ直ぐの道が彼の全てで、それを阻むものや逸脱した道は悪なのよ。彼にとっての悪を排除することで傷つき悲しむ人がいることなんかまるでわかってない」
子供の頃から抱えてきた父に対する怒りや軽蔑が込み上げ、貴子が異世界の人間であることを忘れて、サララは心情を一気にまくしたてた。
感情を露わに激しい口調で話すサララを見たのは初めてだ。貴子は負の感情を感じ取り、落ち着きがなくなっている馬をなだめながらサララの話を黙って聞いていた。
「タカコはまだ子供はいないわね」
「うん」
「タカコの世界では、王位継承で争いが起きることはある? 正妃の子供が他の妻の子供に負けて王になれないことはたくさんある?」
「そうだなぁ、日本ではそういうことはもうないと思うけど、他の国ではあるかも。日本では継承の順番が決まってるし、そもそも夫は一人の妻しか持ってはいけないから。愛人がいるって人ももちろんいるけどね」
「ずいぶんと単純なのね。私、タカコの話を色々と聞いてきたけど、オオシアマと一緒に未来に生まれれば良かったと心底思うわ」
「どうして?」
サララには一つの悩みがあった。カヅラキ大王は息子のオオトモを次期大王に指名している。しかし、オオトモの次の代の大王は誰になるのだろうか。現時点ではオオシアマには三人の男児がいる。サララは自分の息子クサカベが大王になるものだと思って育てているのだが、実はオオシアマはクサカベが次世代の大王になると明言したことはなかった。
「オオシアマの中では、オオツもタケチも等しく大王になる資格があると考えているんだと思う。オオツは姉さんの子。姉さんが生きていたら、正妃になってたんだから本当はオオツが大王。それに、父はオオツがお気に入りなの。クサカベと違って、活発で頭の回転も速くて……」
貴子はオオツがクサカベに放った一言を思い出した。「おじい様がクサカベには大王は無理だって言ってたもん」
しかし、クサカベものんびりしているだけで、利発だったし、思いやりの気持ちに溢れていた。
「タケチは文武両道で、子供のくせに聞き分けがいいの。何事にも動じないっていうか、不思議な子ね。それに、血筋やオオシアマの願いを考えると、タケチが最も大王にふさわしいのかも」
それはなぜだろう。貴子は首をかしげた。筑紫宗像の豪族の娘が大王家よりも良い血筋なのだろうか。オオシアマの願いは、カヅラキと同じく内にも外にも強い大和を作ることではないのか。
「ごめん、タカコ。たくさんしゃべり過ぎちゃった。今まで話したこと、誰にも言わないでね。特にオオシアマには。私があれこれ悩んでるって知ったら、正しい判断ができなくなるでしょ」
「大丈夫、秘密にしとく」
「じゃあ、帰りましょう。そろそろクサカベがお昼寝から起きる頃よ」
鴎が四、五羽、薄日の空を円舞している。難波津を出港する時にヤツカが言った通り、瀬戸内海の船旅は酔いに悩まされることなく終わりを迎えた。
博多湾は今まで寄港したどの港よりも賑わっていた。大和の衣装とは違う姿の人物も大勢見られ、波止場では外国語も飛び交っていた。
「安全な船旅だったな。ヤツカ、ありがとう」
「またお声掛けください。我々は二日ばかり停泊してから、また難波津へ戻ります」
オオシアマはヤツカと握手をし別れを告げた後、チトコと竜成を引き連れて博多湾付近で最も大きな建物へ向かった。
「どこへ行くの?」
「筑紫館だよ。大陸からの使節団やこちらからの留学生を饗応したりする宿泊所だ」
筑紫館は後に鴻臚館と呼ばれる施設で、使節団は大宰府へ赴く前にここに立ち寄るのが常であった。
商人の姿のままで追い返されたりしないだろうかという心配は杞憂である。筑紫館の正門前には薄緑色の衣が映えるスマートな中年男性、筑紫帥の栗隈王その人が出迎えに来ていた。
「ようこそ、王子。これまたそのようなお姿でお越しになるとは! やんちゃぶりは健在ですね」
「少しばかり世話になるよ。あなたは相変わらず若々しいな。ご子息たちも大きくなっただろう」
「ええ、二人ともありがたいことに武勇に秀でております。大宰府でお目にかけましょう」
筑紫館は東西の建物に分かれており、東側が宿泊用の部屋、西側が宴会場となっている。夜には小宴会を設けてくれるとのことで、しばらく部屋で休息を取ることにした。
館に明かりが灯り始めた。慣れない船旅に疲れ、竜成は陸酔いを感じながら泥のように眠っていた。チトコは欠伸をしつつ、竜成を揺すり起こした。
「もうすぐ宴だって」
「オオシアマは?」
「王子なら既に着替えて待ってるよ」
竜成は慌てて飛び起き、顔を洗って栗隈王が用意してくれたという新しい衣を身に着けた。チトコともども、それなりに立派な下級役人風情ができあがった。オオシアマはというと、薄汚れた商人ではなく、絹の赤い着物に太刀を履き、髪を髷にして黒い冠を被っていた。
西側の宴会場の客人は今夜はオオシアマたちだけのようだ。栗隈王とその妻ナツ、筑紫館の館長・日下部赤勝、そしてオオシアマ一行という小宴会だ。
「改めてようこそおいでくださいました。オオシアマ王子をお迎えできるとは光栄の限りです」
「急な訪問ですまなかった。大王が是非とも筑紫太宰から話を聞いてくるようにと仰せだ。まぁ、今夜は堅い話は止めよう」
栗隈王に促されて、ナツが各人に酒を注いだ。唐からもたらされた酒だという。食事は比較的質素なものだったが、やはり大陸の品を使って調理している。
「大王は恙なくいらっしゃいますか」
「ああ。精力的に政務をこなしているよ。ヤマト姫の実力も相当なものでね。最近ではオオトモも政務の助けをするようになった。俺の出番は特にないから、好き勝手やって暮らしてるぞ」
「何をおっしゃる。王子は次世代を担うお方ではありませんか」
「それなら、なおさら今から働くには及ばない。俺は滑稽な芸能と博打があれば良いんだ」
オオシアマは猪の肉の串焼きを豪快に食べた。
「クサカベ王子のご様子は?」
館長が尋ねた。館長は地方豪族の日下部氏から選出されていたが、オオシアマの一人息子クサカベはこの豪族によって養育されていた。百済救援戦争の頃、サララが筑紫でクサカベを出産した時から世話になっている。いわば家族みたいなものである。
竜成が愛らしいクサカベ少年について語ると、館長は顔をほころばせて喜んだ。貴子の知恵によって、クサカベは体力をつけつつあった。
「ところで、宗像へは行かなくてよろしいのですか」
「いや、博多に着く前に船の上から祈りを捧げたから」
宗像はオオシアマの妻アマコの実家であり、オオシアマにとってオオクニヌシの系譜を引き継ぐ宗像一族はアイデンティティの一部なのであった。
「差し出がましいとは存じますが、あまりタカギの神を敬うことを疎かにしては危険ではありませんか」
オオシアマはなぜかオオクニヌシを信奉していた。この時代、大和の最高神はタカギの神、つまりタカミムスヒであり、王族や特に中央豪族の大伴、物部、中臣氏はタカギの神を信奉していた。こうした氏族が丸ごと同じ方向を向いているわけではないが、カヅラキの息子を養育した大伴氏やカヅラキの忠臣であった中臣鎌足らのコアメンバーがタカギの神を篤く敬っていることは疑いがなかった。
「疎かにはしていないよ。ただ、オオクニヌシも大和の神の一人だろう。俺がオオクニヌシを拝めばアマコだって黄泉の国で喜ぶはずだ」
オオシアマはそれ以上語らなかったが、竜成はなぜオオシアマがオオクニヌシにこだわるのかいまいちよくわからなかった。それは、栗隈王や日下部赤勝のようなオオシアマに近い臣下にすら謎であった。
さて、ささやかな宴が終わり、腹も満たされ、竜成たちは朝まで熟睡することができた。良質の酒と食事のおかげだろう。
筑紫館の柱は赤く塗られ、珍しく屋根は瓦が使用されている。外国からの使者を迎える迎賓館とあって最先端の技術を取り入れたのだ。館は見晴らしの良い小高い丘に建設され、博多湾が一望できた。
「素晴らしい景色だね」
竜成はチトコに言った。チトコは「ああ、気持ちがいいな」と背伸びをし、深呼吸をしている。これから馬に乗り、筑紫館の裏側から約十六キロメートルにわたって延びている幹線道路を走って大宰府に向かう。途中で防衛態勢を視察することになっていた。
赤勝に昨夜のもてなしの礼を言い、栗隈王の先導で馬を走らせた。大宰府まで寄り道をしなければ小一時間で到着する距離だ。
「あれ、行き止まりじゃないの?」
四十分ほど経ったころ、目の前に横長の壁のようなものが現れた。竜成は疑問に思ったが、栗隈王は「大丈夫」と言って速度を落とさずに進んだ。道路は少し緩やかな坂になっているようだ。しばらくすると、立派な門が見えてきた。
「これが水城です。カヅラキ大王が建設をお命じになった大堤防です」
水城は高さ十四メートル、全長一・二キロメートルで、濠には水が蓄えられている。筑紫館から延びる道路の最も狭い部分と交差し、博多湾から上陸した敵の進撃を阻むようにできていた。
栗隈王が門に近づくと、衛兵が銅鑼のようなものを鳴らし、門を開けた。その先には、馬に乗った若者が二人、栗隈王を待っていた。
「父さん!」
「意外と早く着いたね」
若者たちは栗隈王を挟むように迎え入れた。
「王子、不肖の息子、兄のタケイエと弟のミヌです」
「頼もしいな。俺はオオシアマだ。よろしく」
いつかクサカベやオオツも彼らのような立派な青年に成長するのだろうか。タケイエがオオシアマに近づいた。
「お初にお目にかかります。我々はいつも父からオオシアマ王子の武勇と知略を聞かされて育ってきたんですよ。遠く筑紫の地にいても、王子のお役に立てるよう励んでおります」
「そんな風に言われると照れるな。俺はただの博打好きな男だぞ。そうだ、そのうち近江に遊びに来たらいい。博打大会に招待しよう。友人がたくさんできるぞ」
兄弟は憧れの対象が気さくな人物であることにほっとしたようで、馬上で笑い合った。ミヌが左手方向にある山を指して、説明をしてくれた。
「水城はこの山麓に続いています。頂上には大野城があります」
カヅラキは連合軍に敗北した後、筑紫に防衛網を築かせた。防人を配備し、烽と水城を作り、そして大宰府の北側標高四百十メートルの四王寺山の山頂に砦を築城した。土塁、石垣、四つの城門、望楼、武器庫、食糧庫、駐屯所などで構成されており、大宰府の南方にも同じような砦が建っていた。こちらは有明海からの侵入を防ぐためだ。
「しかし、すごいな、筑紫の防衛は」
馬上から水城と大野城を見上げて、オオシアマは感嘆の声を上げた。
「全部、亡命百済人が指揮を執って作り上げたんですよ」
「百済人が?」
「そう。瀬戸内海沿岸にもね、点々と山城が建設されて、それも百済人の力がなければできなかった」
国家の防衛施設の建設を外国人に任せていたということに、竜成は少なからず違和感を覚えた。チトコから聞いた話では、大津宮には亡命百済人など渡来人が多数、出仕し、大和の国政に関わっているという。お雇い外国人のようなものなのだろうが、現代の人間からすると考えられないことである。特に韓国籍を持つ竜成にとって、古代の渡来人の王権への関わり方は興味深いものだった。
「俺も実は“渡来人”ですよ。祖国は新羅」
「さすがはオオシアマ王子、新羅人を臣下に加えるとは」
「新羅は今、大変だろう。唐は手ごわい」
「そうですね。しかし、そのうち唐は退散しますよ」
竜成はチトコにおしえてもらった朝鮮半島情勢を予備知識として、いかにも新羅人であるように応答していた。新羅は今、唐と交戦中だった。
「こうして防衛態勢を見ただけでも、渡来人の存在がいかに重要かわかりますね。大和人でなくても使える者は使うべきです」
普段、竜成は自分が在日韓国人であることを意識せずに暮らしていた。ただ過去に一度だけ、苦い思いをしたことがある。高校生の時、別の学校に交際していた女の子がいた。しかし、ある時、泣きながら別れ話をされたことがあった。理由を尋ねると、一部の男子学生から彼氏が韓国人であることを悪しざまに言われ続け、それが耐えられないからだと言う。意味が分からない、と竜成は思ったが、最終的にその彼女とは別れることにした。同じ高校ではないから彼女をかばってやれないし、自分のせいで辛い思いをさせるのが嫌だったからだ。小説や映画みたいなことが自分の身に起こるとは想像したことがなかった。繊細な男子高校生にはショックな出来事であったが、比較的早く立ち直れたのはバスケ部で仲良くなった陽一のおかげだ。「一緒にそいつら殴りに行こうか」別れ話が出たということを相談した時、陽一は真面目な顔をしてそう言ってくれたのだ。
古代の人間は、相手が誰だろうと優れていれば登用するという傾向があるようだ。しかし、オオシアマが披露した考えは少し変わっていた。
「確かに我々より優れた知識と技能を持っている渡来人のおかげで、大和はここまで発展することができた。色々と学ぶべきことはまだたくさんある。けど、俺はこういう状況は情けないと思うんだ。王宮から民家まで、渡来人がもたらした知恵や道具で溢れてるだろ。渡来人を追い出そうってわけじゃないが、大和は大和の手で作るべきだと思ってる」
「そのような考えは初めて聞きましたよ」
栗隈王が驚きの声を発した。新しい視点だった。
「俺たちは大陸からの借り物で暮らしてきたんだよ。渡来人が務めてきた頭脳から人夫に至るまで、本当は大和の人間が担わなきゃダメだろう。もちろんこれからも優れたものは積極的に学ぶことには変わりないが」
更にオオシアマは踏み込んだ考えを示した。
「俺はさ、この国が敬う最高神も大陸からの借り物なのはおかしいと思ってる」
この発言に臣下たちはぎょっとした。最高神がおかしいなどと批判するのはいくら王族でも許されざる試みであろう。オオシアマの発言を聞いて、竜成は栗隈王とその息子たちが完全にオオシアマの配下にあり、信頼できる人物なのだということを理解した。
「借り物ってどういう意味?」
竜成は続きを促した。
「相当昔のことだけど、大和にはイザホワケっていう大王がいてね、この頃から大和はタカミムスヒを最高神として祀るようになったらしいんだ。ただ、この神は北方の高句麗から来たものだった」
「確か、大和は一度、高句麗と戦い敗北していますよね」
外交の勉強から得た知識をミヌが披露した。
「よく知ってるな。我が国と高句麗はかつて互いに主敵だと認識していたようだ。しかし、大和は負けた。…にしてもよく負けるよな、この国は(笑)」
百済救援戦争を念頭に置いて、オオシアマは苦笑いをした。
かつて、倭と呼ばれた大和には最高神なるものは存在しなかった。神々たちは好き勝手に存在していた。それは当時の倭が、緩やかな豪族連合であったことを反映していたのかもしれなかった。倭の王と言えども、豪族連合の盟主に過ぎず、完全に支配し支配される関係とは言い難い。高句麗に敗北した後、倭は主敵である高句麗の最高神を自らの政治的思想に取り込み、縦の体制を確立させようと試みたのだった。
「ワカタケル大王の時代には伊勢に神宮が建てられて、タカミムスヒが鎮座するようになってたっていうけど、まぁ、どれほど専制支配に成功したかはわからないな。今でさえ、大王が完全な存在かというと微妙だよ。だから兄は制度を変えようと奮闘しているんだし」
「ふぅん。で、オオシアマには何か考えがあるの?」
「実行するのは不可能だろうけど、俺としては最高神を大和に古来から存在してる神を据えた方がいいとは思っているよ」
それは一理あるな、と竜成は納得した。だが、カヅラキがこの提案を受け入れるはずはないし、果たして大和の最高神に相応しい土着の神がいるのだろうか。
「その神って、もしかしてオオクニヌシ?」
これまでの発言から、オオシアマはどういうわけかオオクニヌシを敬っているということは竜成にもわかった。オオクニヌシが大和の最高神にふさわしいと考えていてもおかしくない。
「いや、俺が考えてる神の名は――」
最後まで言い切る前に、栗隈王が一行に注意を促して歩みを止めた。
「王子、お話し中、申し訳ございませんが、我らが大宰府が見えてまいりました」
視線をオオシアマから全方へ移す。すると、赤い柱に白い壁の建造物群が間近に迫っていた。筑紫館に比べると質素な造りのようだが、正門と庁舎を囲む塀はそれなりに立派だった。
ミヌとタケイエが馬を走らせ、筑紫帥の帰還と王族の重要人物の来訪を衛兵たちに告げに行った。衛兵らは正門の扉を開け、その前に整列して一行を迎え入れた。
「ご覧の通り、工事中の部分がかなりあります。当初予定していた規模より、拡大しなくてはならなくなったので」
「そうだな。大宰府は求められる役割が膨大だろう。我が国の要と言っても過言ではないよ」
門の付近で馬を預け、オオシアマたちは正面の正殿へ向かった。仰ぎ見ると、大宰府の裏に位置する四王寺山の大野城がそびえていた。
少し休息を取った後、早速、オオシアマは外国からの使者たちと面会したいと栗隈王に告げた。現在、大宰府には唐、新羅、百済、高句麗の使者が揃って滞在している。特に唐と新羅からの使者に会い、本国の意向を聴取する必要があった。
「今晩、王子の来訪を歓迎して、外国の使者も列席した宴を開きます。そこで、酒を酌み交わしながらとっかかりを作るのが良いかと…」
「わかった。何か参考になるような報告や木簡はあるか?」
栗隈王はしばらく考えた後、息子たちに何かを持ってくるよう指示を出した。すぐに二人が戻ってくると、大和では珍しい紙の巻物が手渡された。オオシアマは竜成とチトコも読むよう促した。
「頬垂からの報告か… 最近のものか?」
「はい、王子がこちらにいらっしゃるということで、直接お見せしようと、近江にはまだ送付しておりませんでした」
紙の報告の送り主は阿曇頬垂といって、百済と高句麗が滅亡した後、初めての遣新羅使である。昨年の秋に大和を発ち、冬にはオオシアマにも新羅の王宮の様子など一般的な報告が送られていた。阿曇氏はオオシアマに近しい氏族であった。オオシアマを養育した海人族の一グループで、海神ワタツミを祖とする。
頬垂の二回目の報告によれば、新羅の軍隊は破竹の勢いで旧百済領を支配下に置き、同時に唐の圧力も跳ね返す力を持っている。もし大和が唐と同盟を結び、半島に軍を送ったとしても新羅に敗北する可能性が高い。
さらに、頬垂は新羅の外交関係者から聞いた話として、驚くべき報告を記載していた。それは、カヅラキ大王がまたもや百済に軍事支援を行う予定であるということだった。
「どういうことだ…」
旧百済領の一部は既に新羅に吸収されているが、未だに抵抗を続けている地方もあり、滅亡したにもかかわらず、百済からは調を携えた使者が頻繁に大和にやってきていた。
「頬垂がここに報告してくるということは信憑性は高いですね」
「国内の軍事や指揮制度もままならないのに、大王はなぜこれほど百済に肩入れするのでしょう」
「俺にもわからない。ただ、母の時代には百済人は我が国の発展と繁栄になくてはならない存在となっていた。兄は百済なしじゃ国を支えられないと思い込んでるんだ。頬垂は、百済救援軍を送り、同時に唐と同盟し、新羅を攻略する流れになるだろうと言ってる」
「これが実現したら、いよいよ大和の命運は尽きてしまいますね」
「近江には… 兄の周りには百済人が多すぎる。なにせ、次期大王のオオトモを立派に育ててくれたのは彼らだしな」
竜成はオオシアマの言葉から、オオトモが大王に就いたあかつきには更に百済との結びつきが強められるであろうことを悟った。カヅラキが近江に都を移した理由は二つあった。頼れる百済人の多く住む湖畔であること。そして、遷都構想の段階では存在していた高句麗と同盟を目論み、唐と新羅に軍事的に対抗すること。竜成は一歩先へ考えを進めた。つまり、王都が近江大津にある限り、大和は半島に介入し続けなければならず、そのたびに国力を落としていくことになるのだ。
しかし、そもそも、百済救援戦争が敗北に終わったのは、戸籍がなく徴兵が各地でばらばらだったこと、指揮系統が確立されておらず、戦場での合図もなければ作戦もなかったことなどに起因する。今では戸籍は作成されたので徴兵はまぁ問題が少なくなるとしても、王宮や軍隊での指揮系統が末端まで行き届いておらず、気合いで何とかなるという精神はすぐに変わるものではない。突撃すれば敵は退散するだろうという考えは、何も大日本帝国陸軍の専売特許ではなかった。
「ダメだ、ダメだ! 第二次百済救援戦争なんて、あり得ない!」
オオシアマは頬垂の報告書をぎゅっと握りつぶした。
「兄もオオトモも百済の言いなりだ。外国の使者に会うまでもない。我が国の危機がそこまで迫ってる」
その夜、外国の使者たちが列席する宴にオオシアマたちは出席したが、形式的な友好を確認するというものだった。オオシアマもチトコも外国が堪能だったのだが、スパルタ教育のおかげで、竜成もそれなりに会話に加わることができた。特に、新羅人とは意思疎通ができた方だと思う。
「どうです? こちらの生活は?」
宴会場が設けられている大宰府の裏庭の端に佇んでいた竜成に、声をかけた者がいた。
「ああ、朴孝恭殿。酔い覚ましですか?」
パク・ヒョゴンと呼ばれた男は新羅の若い使者であった。
「使節団はここへ来ると連日のように酒だ。まるで緊張感がない。鄭殿は祖国に帰ろうとは思わないのですか」
「俺は生まれも育ちも大和なので、特に望郷の気持ちはありませんね。今、あなたと話している新羅語だって、中途半端ですよ。興味はありますけど」
「例えば?」
「新羅が大和とどういう付き合いを望んでるのか、とか、大和が唐と結ぶとどれくらい新羅は困るのか、とか」
竜成は外交上の問題を単刀直入に言ってのけた。朴は自分より格下の、舎人という下級役人を面白そうに見返した。
「鄭殿はオオシアマ王子の部下だそうだが、主と同じ考えなのか?」
「まぁ、そうですね」
「羨ましいな。実は私は上司たちと考えが異なる」
竜成は宴の席で、新羅の使者たちがオオシアマに「新羅と同盟を組めば怖いものはありません」と言っていたのを思い出した。だが、朴は違う意見を持っている。
「自分の意見を聞き入れられない若者の話として聞いてくれ。私は、新羅は大和と同盟を結ぶべきでないと思っている。理由は簡単。大和と同盟を組んだところで、得るものがないからだ。大和は軍の装備が遅れている。それだけでなく、指揮もままならない。私の友人が白村江の戦いに参加していて、大和の戦いぶりを聞かせてくれたが、てんで話にならなかったそうだ。軍事的に弱い国と結んでも、足を引っ張られるだけだろう」
確かにこんな意見は新羅の上官どころか、大和に対して面と向かって言えるものではない。朴は続けた。
「それに、新羅は大和が唐と結んでも困ることはない。同じ理由だ。唐にとって大和は援軍にすらならない。同盟と言っても、唐は大和を対等に扱うことはないだろうから、そのうち大和は唐の属国に成り下がるだけだ」
「随分と大和を見下してますね。でも、つまりあなたは現状通り、新羅と大和は軍事同盟なく友好を保ちたいということを望んでいる――」
大和側はいずれの国にも明確な回答を伝えていない。だから、竜成が外国の使者に大和の立場を伝えることはできない。しかし、竜成は「個人的な望み」を述べた。
「私としては、大和が戦争に巻き込まれるのは嫌です。大和にはまずやるべきことがあるでしょう。恐れながら、大王には足元を見てほしいのです」
暗に大和はどの国とも同盟すべきでない、ただしカヅラキ大王は外国に目を向けてしまっているということを言ったつもりだ。
「それは鄭殿の主も納得する望みか」
「朴殿はさきほど『羨ましいな』とおっしゃいました」
竜成はオオシアマの考えを代弁したのだ。朴は「そうだったな」と頷いた。宴はまだ続いている。ささやかと言いながらも、楽人や踊女などが呼ばれ、賑やかである。
「鄭殿」
「何でしょう」
「真に相応しい治天の君であったなら、他国の影に怯えることはない、とは思わないのか」
「……」
「わかるだろう、鄭殿なら。私の言った意味が」
遠くから使節団の仲間が自分を手招きしているのを見つけ、朴は立ち去ろうとした。
「お元気で」
「私は鄭殿の望みが叶うよう願っている。いや、努力しよう」
立場の異なる同胞の姿が薄明りに消えていった。宴の席に戻ったようだ。一日の緊張感が解けて、急に眠気を催してきた竜成は、その足で大宰府政庁内の宿坊へ戻った。
それから一週間ほど、オオシアマは書庫にこもったり、使者と面談したり、時には大宰府の外に出て、市場に寄り芸能集団と語り合ったり忙しい日々を過ごした。竜成とチトコは同行することもあれば、政庁で木簡から有益な情報を読んでいることもあった。
栗隈王は筑紫帥としての仕事に熱心だった。というより、敬愛するオオシアマの役に立とうと奮闘していた。おかげで竜成とチトコにも、十分な情報が与えられ、政庁内を自由に移動することができた。
唐人は何を考えているのかわからない、というのが竜成の印象だった。唐からの使者に李守真という男がおり、政庁内を行き来していると時々すれ違った。
李とは直接話をしたことはなかったが、栗隈王によれば、しきりに百済人の登用を勧めたり、遣唐使を派遣するよう要請しているらしい。明らかに、新羅に対抗するためだ。
「チトコ、これ何て書いてあるの?」
竜成はいくつか木簡を見せた。これは竜成たちが大宰府に来る直前の、外国使節との面談記録だった。オオシアマから有益な記録を整理しておくよう指示されていたのだ。
「えっと、『本日の会談では李からの忠告が激しかった。誤った選択をすれば必ず大和は後悔するだろう、と。筑紫帥は明確な返答を避けた』『再び戦火を交えたくなければ、大和の歩む道は限られるとの趣旨を李が述べた』」
チトコは面談記録を読み上げていった。わかったことは、李が栗隈王に対して脅迫まがいの交渉を仕掛けており、唐の指示に従わない場合は武力行使も辞さないと言ってきていたことだ。これはオオシアマの耳に入れなければならない。
大宰府を発つ前日、オオシアマと舎人たちは必要な情報を互いに伝えながら整理していった。例の李からの脅しについて、カヅラキにどう伝えるべきか話し合った。
「この木簡を見せたらマズいよなぁ」
「そうですね……」
「李の脅しを知ったら、兄は混乱すると思うぜ。同盟どころか自ら進んで唐のしもべになるだろうね」
「じゃあ、黙っておきますか?」
「いや、表現を穏やかにして伝えるくらいがいいんじゃないの?」
「だとしても積極的には伝えたくない情報ではあるな。しかし、大王の命で筑紫に来たのだから、握りつぶすわけにはいかない」
「唐からは大量の土産もあるしね」
「もしオオシアマ王子であれば、武力をちらつかされても屈しないでしょうが」
「仮定の話はやめよう。大王はカヅラキの兄なんだから」
結局、カヅラキには「唐は大和との友好関係を望んでいる」とだけ伝えることにした。しかし、唐が甘い言葉を言ってきたとしても対等な関係にはなれず、最終的には周辺国を滅ぼした後に大和も飲み込まれてしまうだろうという忠告も忘れてはならない。事実、唐は新羅を属国化し屈辱的な扱いをしてきた。そして今、新羅は唐がチベットと戦争を始めた隙を狙って唐の支配を振り払おうと戦い続けている。
もし、大和が新羅の立場だとしたらとても生き残ることはできないだろう。だから今は、大陸や半島に余計な関与をせず、むしろ唐や百済を支援することなく新羅を生き残らせる道を取るべきなのだ。
出立の朝、オオシアマは栗隈王に引き続き外国使節との面談の様子や各種の情報を近江に送るよう伝えた。筑紫帥が博多港まで同行する代わりにタケイエとミヌが見送りに来てくれた。
「世話になったな。近いうちにお前たちを大津宮と俺の家に招待するよ。博打大会はいいぞ。父上をよく助けて、近江の大王の支えになってくれ」
「はい。王子もお元気で」
「我らはいつでも王子のお味方です」
甥のオオトモより若く、まだ少年の面影を残す武人たちは真摯な瞳をオオシアマに向けた。
後にオオシアマは、この博多湾での別れの場面を鮮明に思い出し、筑紫帥親子に心から感謝することになるのだった。
雲一つない淡い青空が広がっていた。
大津宮はじんわりとした蒸し暑さに包まれ、忙しく働く舎人や女官たちの額は薄っすらと汗を滲ませていた。
琵琶湖を手の届くような近さで眺めることができる庭の木陰に座りながら、冷たい水を含ませた手ぬぐいで、母に体を拭いてもらっていたクサカベは、声を弾ませて尋ねた。
「ねぇ、父さんはもうすぐ帰ってくるよね?」
「もうすぐよ」
心なしか、サララの頬も緩んで見える。
その日の夕刻、カヅラキ大王とその一族が食事の席につこうとしていると、何やら騒がしい音がした。ひと月ぶりにサララの夫と部下が大津宮に帰ってきたのである。その姿を認めると、カヅラキは立って弟を出迎えた。
「ただ今、無事に戻りました」
「ご苦労だった。まぁ、まずはうまい飯と酒で腹を満たしなさい」
席につくなり、オオシアマは妻に留守中のねぎらいの言葉をかける間もなくクサカベとオオツのおしゃべり攻撃にあった。父さん、僕ね、一人で馬に乗れるようになったよ! 僕だって弓を引けるようになったんだよ! それからね……
「もう、二人とも静かにしなさい。父さんはお疲れなのよ」
子供たちが仕方なく黙ってご飯を食べ始めると、オオシアマはやれやれとため息をついた。俺の息子たちはちゃんと栗隈王の息子たちのように育ち、大王に相応しい器の青年になるんだろうか。
一夜明けて、オオシアマと竜成たちはカヅラキ大王とヤマト姫に大宰府視察の報告をした。筑紫館から始まり、大宰府政庁に至るまでの防衛態勢の詳細を説明すると、カヅラキは大いに満足していた。
「百済人には感謝してもしきれないな。冠位と褒美を授けなければ」
カヅラキの頭には、大野城に詰めている大和の兵士や大宰府で勤務している官人のことなどないようだった。
「その百済人のことですが、大和が再び百済の旧領に軍を派遣し救済するという約束がなされているようですが…?」
「そうだ、お前が大津宮を出た後に正式に決定したものだ」
「大宰府を通して交渉していたわけではありませんね。俺は阿曇頬垂からの書簡でその交渉を知ったんですよ」
「それは良かった。新羅にも情報が伝わっていたということだ。新羅は警戒してるだろう」
外交は全て大宰府を通して一元化してきたはずなのに、大王自らが裏で百済と交渉していたのだ。しかも、それがうまい作戦だというような口調であった。
最後にオオシアマは、唐の意向、すなわち大和と友好関係を保ちたいということを伝えた。
「その答えが聞きたかった。唐は我らの味方だ」
「しかし、唐は甘言を振り撒きながら自国以外の国は全て配下に置こうとしてきたではありませんか。その言葉の裏には何が隠されているかわかりません。もしかしたら――」
必死に言い募るオオシアマを遮って、カヅラキはやんわりと諭すように命じた。
「オオシアマ、これから同盟に向けて全国で徴税と徴兵を実施するのだ。近江周辺だけでなく、今回は大がかりに。今こそ庚午年籍を活用する時だと思わんか」
「あなた、もう少し弟のお話を聞いて差し上げたら…」
黙ってやりとりを聞いていたヤマト姫が口をはさんだが、オオシアマの瞳がヤマト姫を制した。
「承知しました。大王のお言葉は絶対です。オオトモに補助をさせて徴税と徴兵の準備をしましょう。失礼します」
このような結論を導き出すために、俺は筑紫に赴いたわけじゃない。それにあの課税の話が現実となってしまう。すっきりしないもやもやを抱えながら、オオシアマは一度、大津宮を退出して自宅に戻ることにした。
昨晩は食事の後、早々に寝てしまい、留守を預けていた妻ともほとんど会話をしていなかった。サララと子供たちは朝早く既に大津宮を出て帰宅していた。
一か月ぶりの我が家の門をくぐると、夏の花が庭を飾っていた。庭師と一緒に手入れをしていたサララは、夫の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。冷たい水、用意させるわね」
「ありがとう」
作業を庭師に任せると、サララとオオシアマは居間へ入った。昨日の夕飯の席では子供たちがいたので、話した内容は観光的なものだった。サララにはきちんと視察の報告を伝えねばなるまい。
「どうしたの? 眉間にしわなんか寄せて」
「あぁ、大王は俺の報告を聞いても聞かなくても、百済支援と唐との同盟を追求するつもりだったんじゃないかと思うよ」
オオシアマは冷たい水を一気に飲み干した。すると、サララは「やっぱり、そうだったんだ…」とつぶやいた。
「何が、そうなんだ?」
「真っ先に伝えるべきだったんだけど、あなたは筑紫に行ってしまってたし、昨日もそれどころじゃなかったから… あなたの筑紫派遣は単なる口実だったかもしれないの。わざと不在にさせて、その間に百済支援と唐との同盟を進める準備がされてたのよ」
実はかなり前に、密かにカヅラキの元に百済の使者が訪れていた。使者は旧百済領の再興を試みるため、大和に軍事支援を要請した。カヅラキは迷うことなく、その要請を承諾し、左大臣・蘇我赤兄と右大臣・中臣金に軍事支援のための兵と資金集めを命じた。それが、あの東北での課税の話につながるのだ。
そして、オオシアマたちが瀬戸内海を航行している頃、前筑紫帥であった蘇我赤兄は独自のルートで唐の使者と会っていた。内容は、筑紫で栗隈王が李守真から伝えられたこととほぼ同じであったが、赤兄の場合、唐が百済の再興を支援する約束というおまけがついていた。
「それで大王はもう百済を救援しつつ、新羅とも戦うことができるって喜んで、ほとんど唐の使者に同盟の申し出をしかけてたのよ」
「赤兄の野郎、勝手に唐と通じてたのか…!」
「そうみたいね。御史大夫の二人は亡命百済人からたくさんの貢物をもらっているようだし」
「御史大夫の二人?」
「蘇我果安と巨勢比等のことよ。今、私が話してることは紀大人から聞いたの」
御史大夫というのは大王の側近で、左右大臣の下の地位だ。官僚を統括し、政策立案を担当する。紀大人も御史大夫の一人なのだが、他の側近たちに比べて、大王の言動に冷ややかだった。蘇我たちはオオシアマに積極的に情報を入れることはなかったが、紀はオオシアマやサララとも言葉を交わし、必要な情報は提供してくれていた。かと言って、栗隈王親子のようにオオシアマに肩入れしているわけでもなかった。
「で、大王と側近たちは俺のいない間に、着々と準備をしてたってわけか」
サララは夫はさぞかし怒り狂っているだろうと思い様子を伺ったが、オオシアマの瞳は意外にも悲しみに満ちていた。夫の心中を察して、逆にサララの胸の内に怒りが込み上げてきた。父の夫への仕打ちと国のかじ取りの甘さに対する怒りだ。
すぐさま大津宮へ乗り込んで事の次第をカヅラキとその側近たちに問いただそうと、サララがオオシアマの手を取り立ち上がったその時、舎人のヒロが部屋に駆け込んできた。
「失礼いたします。至急のご連絡が」
「何だ?」
悲痛な面持ちのヒロは努めて冷静にオオシアマ夫妻に、今しがたもたらされた情報を告げた。
「……トヨカネ王が、崩御されました」
この突然の訃報は、オオシアマを更に悲しみの底に突き落とした。しばらく言葉も発せず、ただ黙って立ち尽くしていた。文字通り王であった男がオオシアマを残してこの世を去ってしまったのだ。
「伝令はまだいるのか?」
「はい。ハルネと申しておりました」
オオシアマは竜成と貴子を呼ぶよう指示し、サララと共にハルネが控えている客間に急いだ。
意外なことに、客間に落ち着きなく座っていたハルネという伝令は少女だった。ハルネはサララと貴子の姿を見ると、少し安心したようだ。突然呼び出された竜成と貴子は状況を把握できていない。客間からは人が遠ざけられ、いつもとは違った重い雰囲気に包まれている。
「ハルネ、遠い道のりをよく一人でやってきてくれたな。ありがとう」
「王子、戻って来てはいただけないのですか? トヨカネ王はあなた様のお帰りを強く望んでおられました」
「わかってる。でも、俺にはここでやるべきことがあるんだ。ここにいることが、故郷を守ることにもなるから」
怪訝な顔をしている竜成たちを見て、サララが状況を説明した。
「ちょっと驚くかもしれないけど、聞いてね。オオシアマの……実の父親が亡くなったのよ」
「実の? だって、父親はかなり昔に亡くなったタムラ大王なんじゃ――」
「違うの。タムラ大王が亡くなった後に生まれた、トヨカネ王という方とタカラ大王の息子よ。大和は丹波や丹後と呼んでる地域があるんだけど、そこは一つの国。凡海郷という独立勢力がいるところ。どのみち、オオシアマは王子なんだけどね。もちろん、オオシアマの生まれの秘密は大津宮でも限られた人しか知らないし、話題にすることは暗黙の了解で禁じられてるわ」
こんなことってあり得るんだろうか。大王夫婦の次男が、実は大王家とは別の男性の血を受け継いでいたなんて。
「じゃあ、カヅラキ大王は――」
「全て知ってるよ。その上で、俺に娘たちを嫁がせて、子供たちの後見役にしてる。少なくとも、俺と兄の母親は同じだからね」
「凡海郷って何なの?」
貴子の問いに、遠慮がちに小さな声でハルネが答えた。
「私たち海人族の故郷よ。ずっと昔から。オオクニヌシがスクナビコナと一緒に作った大地なの。そして、オオクニヌシの子孫が高天原の神に出雲を譲った後に住み着いた場所」
「…ということは、オオシアマはオオクニヌシの関係者?」
「子孫だよ。俺の耳飾り、変わってるだろ。剣に大蛇が巻き付いてて。これ、俺がトヨカネ王からもらったんだ。オオクニヌシの形見と言われてる」
「そうなんだ。気になってたんだけど、それって片方だけしかつけてないよね」
「そう。片方しか受け継いでない。もう一方は遥か昔に消えてしまったそうだよ」
幼い頃、凡海郷で王の息子として育てられたオオシアマは記憶を辿った。航海術に長け、海の幸を大切にしていた海人族の仲間と素朴な景色が蘇る。オオシアマはその名の通り、海人族の長なのであった。
オオシアマは入り江で夕日を眺めるのが好きだった。太陽の光と夜の闇が交わる短い時間は、昼と夜の対立ではなく、同居する優しさに満ちていた。
「ある時、俺は突然、タカラ姫が住む飛鳥に連れて行かれてさ、異父兄まで現れて、今度は飛鳥の王子として育てられたんだ。まだガキだったけど、俺は一体何者だよ、って混乱したね」
オオシアマは故郷と父が恋しくて、何度か飛鳥宮から脱走を試みた。そのたびに、衛兵に見つかり、母から叱られた。オオシアマが宮から姿を消すと、将来一緒になることが約束されていたサララは、オオシアマに嫌われたと思って大泣きをした。目を真っ赤にして意気消沈しているサララの姿を何度も見るうちに、オオシアマは子供心に申し訳なく思うようになり、いつしか脱走しようという気持ちがなくなっていた。
しかし、成人しても自分が凡海郷の王子であることを忘れはしなかった。母からも脱走については戒められたが、凡海郷の記憶まで捨てろとは言われたことはない。タカラ姫は息子が西の夕日に向かって、オオクニヌシに祈っても見て見ぬふりをした。当然、飛鳥ではタカギの神を最高神として奉じなければならないにもかかわらず。
「後になって理解したよ、俺は人質だったんだって」
「凡海郷は大和に抵抗してるのか…」
「イズモの二の舞になることを恐れてたのよ。オオクニヌシは天つ神たちに国を譲ってしまったでしょ」
「俺の父が選んだ道は、血を流すことでもなく大和に屈することでもなく、大和と――つまり、母と結ばれることだった」
とはいえ、トヨカネとタカラの間に全く愛情がなかったわけではない。さすがにタカラが凡海郷を訪れることははばかられたが、トヨカネが商人に身をやつして飛鳥まで来たことはあったし、タカラは密かにトヨカネに手紙を送っていた。オオシアマも母の手紙に一言二言、父に向けて何か書いた覚えがある。
凡海郷にとっては、トヨカネ王の息子が大和の中枢にいることにより大和の干渉を防ぐことができ、大和にとっては、凡海郷の武装蜂起を抑制できるという均衡が保たれてきた。ところが、トヨカネ王がこの世を去ったのである。
「王子、戻ってはくれませんか」
再び、ハルネは懇願したが、オオシアマは首を縦に振らなかった。
「俺が戻ったら、ここぞとばかりに兄は凡海郷に干渉するだろうね。即刻、敵扱いされてしまう。だから、俺が大津宮にいることが故郷を守ることになるんだよ。ハルネ、わかるだろ?」
だが、王の不在という致命的な状況を長引かせるわけにはいかない。オオシアマは竜成と貴子に重大な依頼をした。
「これから俺が書く木簡を持って、凡海郷に行ってきてくれないかな。俺の代理で父の弔問も兼ねて…」
「了解」
本当にわけのわからないことに巻き込まれたな、と竜成は自分を落ち着かせるために深呼吸をした。旅ジャーナリストとしては情報の宝庫のような世界に興奮している。もし現代に戻ったら、独自の特集が組めそうだ。そう、忘れかけていたが、竜成と貴子は現代に帰らなければならないのだ。
この夜、竜成はオオシアマから厳重に封がされた木簡入りの袋を受け取った。トヨカネ王を補佐していたアラカマという豪族の青年に渡すよう指示された。ハルネはアラカマの妹であった。
凡海郷までの詳しい道のりはハルネが知っているので、ついていけばいいだけだ。琵琶湖を北上し、一度、若狭まで陸路を行き、再び水路で西に進むと凡海郷である。現在の舞鶴あたりだろうか。
伝令が少女だったので、オオシアマは竜成だけでなく貴子も同行させることにした。若い女官が一緒にいれば、ハルネも心細くないと考えたからだ。
まだ気温が上がっていない早朝、琵琶湖は水面から徐々に顔を覗かせる太陽の輝きに包まれていた。三人を乗せた船が、湖畔をゆらゆらゆっくりと離れていった。