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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
日出ずる湖畔
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第4章 <1>

 やわらかい陽射しに包まれた田園風景があっという間に流れ去っていきます。岐阜鳥羽を過ぎ、さらに関ヶ原のあたりを通過すると、私は「ひかりX」か「こだまX」に乗ればよかったかなと少し後悔しました。速度を落とすことなく走り続ける「のぞみX」の中で、私はしばしあの時代のことを懐かしんでいました。

 もうずいぶん昔のことになるけれど、私の夫は関ヶ原で戦い、勝利したのです。徳川家? いいえ、それよりもずっと過去にあった関ヶ原の戦いです。正確に言うと、関ヶ原は不破と呼ばれ、この地に本陣を置いて、南下しながら戦っていました。大津と飛鳥で戦い、琵琶湖の南端の瀬田で敵を敗北に追い込みました。

 私と夫は――当時はまだ私たちは夫婦ではなかったけれど――オオシアマ王子とその妃サララ姫の庇護の下にあり、彼らの正義のために共に戦いました。倒すべき相手は、カヅラキ大王。そして、後継者であった息子のオオトモ王子。オオシアマ王子とサララ姫にとっては、苦渋の決断だったでしょう。なぜなら、カヅラキ大王はオオシアマ王子の兄であり、サララ姫の父だったのです。

 ある日、私は娘の部屋の掃除をしていて、勉強机の上に無造作に放られていた歴史の資料集を見つけました。ふと、忘れかけていたあの頃を思い出して、資料集をめくってみたのですが、どういうわけだか、私たちが見聞きしたこととは違っているような気がしました。

――背景:古代日本における最大の内乱であった壬申の乱は、天智天皇が次期天皇とされた弟の大海人皇子を政治から遠ざけ、我が子大友皇子への強い愛情を優先させ、後継者にと望んだことが発端であった。

――経緯と結果:身の危険を感じた大海人皇子は出家して大津京を去り、吉野へ引きこもっていたが、天智天皇の死後、大友皇子による暗殺の計画を知り、吉野を脱出した。その後、油断していた大友皇子側へ反撃を加え、劣勢に立たされた大友皇子をついに滅ぼした。大海人皇子は、天智天皇の正統な後継者・天武天皇として飛鳥で即位し、皇后の持統天皇とともに強力な中央集権化を進めた。

――先取り:天武と持統の子である草壁皇子は即位することなく早逝したが、草壁皇子の子は元正天皇と文武天皇となり、養老律令を編纂し日本書紀を完成させた。文武天皇の子・聖武天皇は東大寺を建立し、この天皇の治世は貴族中心の天平文化が栄えた。

 ご丁寧に、資料集には試験対策問題もついていましたが(娘は試験勉強なんてしていないでしょうけれど)、空欄に年号と人物を入れるというとても味気ないものでした。これでは、なぜオオシアマ王子とオオトモ王子が対立しなければならなかったのかがわかりません。

 それに、「王位継承を巡って争った」の一言では、彼らの人柄や理想なんて伝わってこないのです。私はひどく悲しくなりました。カヅラキ大王が何を目指したのか、オオシアマ王子は何を背負っていたのか、なぜサララ姫は夫と協力して父と甥を追い詰めたのか…。古代の一時期を共に過ごした人々の面影を、私は忘れることができません。それは夫も同じでしょう。

 「のぞみX」はぐんぐん琵琶湖を南下し、今度は琵琶湖の西側を北上していくのでした。


 琵琶湖は古代より交通の要所として、都と若狭湾と北陸・東北をつなぎ、また、多様な生態系を抱える漁場でもあった。今朝もまた小型の船が近く遠くに見え隠れしている。

 湖畔を一組の男女が散歩をしていた。女性の方が先に進んでいたため、Uターンして連れの男性の元に戻ってきた。

「走ると気持ちいいわね、オオシアマ」

 彼女ら自身が走っているのではなく、二頭の馬が並行して軽やかに走っている。

「サララ、お前は男に生まれても十分やってけるよな(笑)」

「そしたら私はあなたの妻にはなってませんねー」

「それは困るな。ま、女でもお前は大物に違いないよ」

 男勝りの妻の手綱さばきを見て、夫のオオシアマは何気なく妻を評したのだが、この二十代後半の夫婦は、後に夫婦そろって大王として君臨することになる。

 この時、まさか自分たちがこの国の権力機構の基礎を作り、特に妻に至ってはこの後千三百年もの間、日本人の精神までも支配しようとは想像だにしないことであった。

確かにオオシアマは時の最高権力者カヅラキ大王の弟であり、サララはカヅラキの娘であり、血統という観点からすれば申し分のない生まれであったが、二人に求められる役目はあくまでもカヅラキの補佐に過ぎなかった。

従って、今から三十秒後までは、オオシアマもサララも歴史の表舞台に登場することのない脇役の道を、夫婦仲良く気楽に歩いていた。

「帰ろうか。気が進まないけど、兄さんと同盟策について話さないといけないし」

二人が馬の向きを変え、湖畔を離れようとした時、サララが夫を呼び止めた。

「オオシアマ、待って。あれ、誰か水際に倒れてるみたい」

 サララは言うなり、下馬して再び湖に近づいた。

 おかしな姿をした男女が気を失った状態で浜に打ち上げられている。二人とも髪が短く、見たことのない服装だ。サララは急いで息を確認した。比較的しっかりした呼吸だった。

「ダメか?」

「生きてる! うちに運ばなきゃ」

 オオシアマは男を、サララは女を自分の馬に乗せて邸宅にひた走った。


 近江の邸宅はにわかに騒がしくなった。主夫妻が何やら異形の男女を拾って持ち帰ってきた。しかも、全身濡れているではないか。

 オオシアマとサララは信頼できる女官と舎人を呼び、介抱するよう指示を出した。舎人たちは謎の二人組を空いている部屋に運び込み、奇妙な服を脱がせ、水を拭き取ると新しい衣服を着させた。邸宅の人間にとって、髪の毛の短さは異様だった。罪人だろうか。それも男女そろって。

 何か騒がしい。

 竜成は薄らと目を開けた。確か自分は出雲大社でヘリの事故から逃げていたのではなかったのか。鳥居をくぐった後の記憶がない。階段につまづいて頭を打ったか。

「桧枝さん…? じゃないな」

 隣で横になっている女性は桧枝りらではなかったが、おそらく同類なのだろう。竜成が目を覚ましたことに気づいた女官たちが何か話しかけてくる。しかし、聞き取ることができない。時々、日本語の単語が聞こえる気がするが文章としては理解できなかった。

 女官の一人が盆に粥を乗せて、竜成の枕元に座った。食べろと言っているようだ。

「これ、お粥? 味ついてんの?」

 何となく小腹が空いているようだったので、匙ですくってすすってみた。味はよくわからないけれども、腹を満たしたい欲求が勝って全て平らげてしまった。女官は嬉しそうな顔をして盆を下げに行った。

 ここはどこだ。女性たちの服装からすると朝鮮王朝のように見えるが、明らかに日本語を話している。いわゆる着物でもないし、平安貴族のような衣装でもない。かといって、出雲大社で見たオオクニヌシの姿とも違う。

「大丈夫?」

 隣の女性がもぞもぞ動いたのを見て、竜成は声をかけた。頼むから現代日本語が通じてくれ。

「ここどこ… 潤くんは?」

 通じた。知らない人間だが、同類がいてほっとした。

「ここには君と俺しかいないよ、現代日本人は。俺は竜成。鄭竜成。知り合い二人と出雲大社にいたんだけど、気づいたらここで寝てたよ。正直言うと、ここがどこかわからないし、周りの人間とは会話ができない。俺たちが知ってる日本語じゃない日本語をしゃべってるみたいなんだ」

「そうなの… どうしよう、って言っても仕方ないよね。私は黒部貴子。彼氏と一緒にいたんだけど、はぐれちゃったみたいね」

 貴子は起き上がって、周りを見回した。木造の平屋の建物で、柱は赤く、壁は白で塗られている。見た感じからすると、ここの住人たちは良い暮らしぶりをしているように見えた。

 竜成は貴子の様子と口調から、この女の子は不安がっているけれども気は強そうだと分析した。女の子に何から何まで頼られるのは嫌いだ。

「そのお粥、美味しいかわかんないけど、食べて大丈夫だよ。俺は全部食べた」

 貴子もおなかが空いていたのか、数分後にはお椀が空になった。女官が片付けようとした時、部屋にひときわ立派な男女が入ってきた。

 オオシアマとサララは女官たちから報告を受け、謎の男女は元気そうだということで様子を見に来たのだった。しかし、オオシアマが大丈夫かと声をかけても、返事がない。互いに途方に暮れていると、サララが思い出したように何かを取り出した。勾玉だった。

「あ、勾玉!」

 貴子と竜成が身振りで勾玉が自分のものだと示すと、サララは勾玉を手渡した。

「それ、あなたたちが倒れていた場所に落ちてたの。拾っておいて良かったわ」

「ちょっと待って。言葉がわかる」

 勾玉を手にした瞬間、貴子と竜成の耳にはっきりと現代日本語が飛び込んできた。そして、オオシアマとサララにも貴子と竜成の言葉が自分たちと同じ音声として聞こえるようになったのだった。

「不思議なものを持ってるんだな。君たちは、呪術者かそれとも神に仕える者か」

「どっちでもないね。あ、助けてくれてありがとう。ここは一体…?」

「大和の近江だ。俺はオオシアマ、こっちは妻のサララ。さっき言葉が通じなかっただろ? 外国から来たのか?」

「いや、俺はずっと日本に住んでたよ。正確に言うと、俺は日本人じゃないけど」

 竜成の言葉に、サララが首をかしげた。

「日本って何? 大和のこと?」

「そうだと思う。日が昇るもとの国って意味だよ」

「自信に満ちてていい名だ。倭国だとか大和だとかよりずっといい。俺なら日本を使うな」

「つまり、あなたたちは私たちと同じ国に住んでるのに言葉が通じなかったってことね」

「思うに、俺たちは過去に来てしまったんだと思う。あり得ないことではあるけど、夢じゃないとしたら事実なんだ」

「君も大和の人間ではないのか?」

 オオシアマは興味深げに未来からの迷い人たちの話を聞いていた。兄カヅラキが築こうとしている国の先がどうなっているのか知りたかった。

「私は日本人。黒部貴子といいます。松江に住んでるんだけど、実家は岐阜の美濃市で――」

「何だって。美濃って言ったよな?」

 何かまずいことを言ってしまったのではないかと、貴子は身をすくめた。

「ねぇ、怖がらないで。美濃はね、オオシアマの領地があるの」

 貴子が美濃出身ということを聞いて、オオシアマとサララは急に貴子に親近感を覚え、安堵したのだ。オオシアマは大王の候補に上がることはなかったが、有力な王族としてかなり広大な所領を頂いていた。特に、美濃と尾張と伊勢、若狭と丹後という琵琶湖の北東部を押さえており、他にも所有地ではないが、地方の国司などにも協力者がいた。

「ところで、タツナリは大和の人間ではないと言ってたが…」

「あぁ、俺は朝鮮半島の出身だ。わかんねぇよなぁ、ほら、大陸にある半島だよ」

 またもや、オオシアマとサララは半島という言葉に反応した。期待と不安が入り混じったような表情だ。

「高句麗か百済か新羅か、どこだ?」

 オオシアマたちが生きていた時代、東アジアの勢力は動乱と言って差し支えない状態であった。大陸に唐という大帝国が出現し、朝鮮半島は三つの国がしのぎを削っていた。

「どこって言われてもなぁ。先祖は確か、慶州市出身って言ってたけど」

「…新羅だな。君は新羅の言葉を話せるのか?」

 竜成は器用な男だった。韓国籍だからという理由ではなく、単に旅行をするのに役に立つのではないかという思惑から韓国語を勉強していた。もちろん英語もだ。ビジネスに使えるレベルではないものの、旅行は十分に楽しめる程度には習得している。

「まぁ、簡単な会話ならね。俺が新羅出身だとどうなの?」

「友好国だから、君と付き合うのに気が楽だろ」

 オオシアマは拍子抜けするほど軽々しい答えを返したが、実際はオオシアマらにとって、竜成が新羅と関係があるということは重要な意味を持っていた。

 今から十一年前、大和は滅亡した百済の再興を支援するため、朝鮮半島へ五万近くの軍勢を派遣し、唐と新羅の連合軍と戦った。そして、その二年後に大敗を喫していたのだ。

 この時、カヅラキとオオシアマの母であるタカラ大王が指揮を執ったのだが、九州で逝去してしまい、カヅラキが最高司令官としてこの戦いを主導した。カヅラキは古くからの同盟国であった百済の助けを断ることなく、全面的に引き受けた。戦いが始まった時、オオシアマは十七歳だったが、兄の決断に疑問を抱いていた。いくら鉄資源がほしいからといって、海の向こうの争いに首を突っ込む必要はなかったのだ。傍観して、落ち着いたら再び鉄資源を求める活動をすれば良かったのだ。

 百済救援の戦争で甚大な損害を被り、カヅラキは唐か新羅が大和に侵攻してくることを恐れるようになった。カヅラキは防衛体制を強化するため、増税、徴兵、労役を国民に課し、国民の不満は増大していた。並行して、国内の地方への影響を固めるため首都を飛鳥から近江へ移し、人々の不評を買っていた。多数の不審火も発生した。

 結局、唐と新羅は高句麗も滅ぼしたため、最終的には唐と新羅の勢力争いという構図ができあがってしまった。唐を恐れるあまり、カヅラキは今度は唐と同盟を結ぶつもりらしかったが、オオシアマには全く理解ができなかった。大和の平和は、半島に独立国が存在することで確保されるのであって、もし、唐と一緒に新羅を滅ぼしてしまえば、最後に巨大な唐の歯牙にかかるのは大和であることが明らかではないか。

「今までの話を聞いてると、もしかしてあなたたちは身分の高い人なの?」

「言ってなかったっけ? 俺はカヅラキ大王の弟で、サララは王の娘だ」

「え、こんな気安く話していいの?」

「気にするな。俺たちは王の親族というだけで、何も決定権はないし、大臣たちの方が力は持ってる」

 竜成は違和感を抱いた。さっきから大和の大王と言っているが、それはつまり天皇ということではないか。しかし、なぜ天皇と言わないのだろう。

「なぁ、オオシアマ。俺たちの時代はさ、大和の大王のことを天皇って言うんだ」

「北の天に上がる動かない星のことか。面白いな。大王は不動の存在ということか」

どうやらオオシアマが言う星は、北極星のことのようだ。

 貴子もまた疑問を感じていた。

「サララは叔父と結婚したってこと?」

「そうよ。けど、私とオオシアマは一つしか年が違わないし、十三の時からずっと一緒なの。私の姉と妹二人もオオシアマの妻なんだけど、姉は息子を残して四年前に亡くなったわ」

 サララにとって幸か不幸か、姉オオタ王女の早すぎる死はサララに正妻の地位を与えた。そして、オオシアマのかけがえのない戦友となって大和の歴史を変えてしまう主役に躍り出るのである。

「俺と兄とは十八も年が離れてる。その娘を四人も嫁にもらうなんて、おかしいと思うよな」

「まぁ、そうだね。ちょっと特殊かもしれない」

 当然の反応を聞くと、オオシアマは笑って、「複雑な話はここまでにしよう」と言った。サララは先ほどから貴子たちが持っている勾玉を気にしていた。

「あなたたちは呪術者ではないんでしょ? だったらどうして勾玉を持っているの?」

「俺たちもわからない。神社で拾ったんだよ」

「私も拾ったの」

「ちなみに、俺は呪術は知らないよ。そうだな、俺がやってたのは記録をする仕事ってところかな」

ふひとか? 国に仕えていたんだな」

 竜成は大いに笑った。ここで、然りと答えてみるのも面白いかもしれないと思ったが、素直に職業について話すことにした。未来では旅が人気で、その情報を集めて記録して公開する仕事があるのだということを。

 貴子もまた自分が薬剤師であることを告げた。こちらはこの時代にも医療制度があるので、簡単に理解してもらえたようだ。宮廷には女性の職員もごくわずかであるが活躍していた。

 一通りの会話が終わると、オオシアマは少し考えた後、竜成と貴子にそれぞれ部屋を与え、身の安全を保障すると約束した。その代り、竜成はオオシアマの舎人、貴子はサララの女官となって身の回りの世話をすることになった。

「俺は面白いことが好きだ。君たちにとっては、今の状況は不本意かもしれないが、仲間を見つけ出して未来へ帰れるまで、ここに留まるのが一番安全だ。タツナリは、ここで見聞きしたことを記録して、未来に帰ったら公開するといい(笑)」

 竜成はオオシアマという王子らしからぬ物言いをする人物に興味を引かれた。もしこれが本当に日本の過去であるなら、自分たちは何か大きな歴史のうねりに絡め捕られたのかもしれなかった。


 新人としてオオシアマ夫妻の古参の舎人や女官たちの中に放り込まれ、古代の生活を強いられること十日間。心身ともに緊張の連続だったが、舎人のヒロとチトコという若い男と、女官のシヒとトヨハヤという若い女が何かと世話を焼いてくれるのが助かった。オオシアマたちの気遣いなのだろう。

 意外なことに、彼らは嫌々召し使われているというわけではなく、オオシアマとサララを慕って仕えているのだった。

 例えば、サララと女官の冗談めかしたやりとりからも親しさが垣間見れることがあった。ある満月の夜、オオシアマとサララはいつもの通り夕食後に舎人や女官たちとおしゃべりに興じていた。

 サララはため息交じりにシヒにこう言ったのだ。

「聞きたくないって言ってるのに、無理やりシヒが強いてくるこじつけ話、最近聞かなくなったから久しぶりに聞きたいわねぇ」

するとシヒは笑って答えた。

「ひどいですよ、もうお話しませんって言ってるのに、話して話してっておっしゃるからシヒは話すんですよ。それこそ強い語りってもんでしょう」

 こんな調子だったから、オオシアマ夫妻が見知らぬ謎の竜成や貴子に対しても気さくに接するのも、本人たちにしてみれば普通のことだったのだ。オオシアマもよく舎人を相手に言葉遊びなどをして楽しんでいた。

 そして、オオシアマの邸宅では定期的に宴が開かれていた。歌舞などの芸能振興に力を入れているほか、地方豪族を集めて博打大会なども行われている。派手な振る舞いが好きだったから、表向きオオシアマは風変わりで遊び好きの王子だと思われていた。確かにその評価は間違いではなく、「俺は別に否定はしないけどな」とオオシアマはうそぶいていたが、本当は明確な狙いがあった。

「芸能に携わる者は定住していない場合が多いんだ。各地を巡って、芸を披露するのが仕事だから、俺は彼らと親しくなることで各地の情報を仕入れてるわけだ。大和だけじゃなく、大陸の人間も交じってる」

 こんなことがあった。三年前、カヅラキが即位する直前、三種の神器である草薙の剣が何者かによって奪取されるという事件が発生した。未遂に終わったものの、もし草薙の剣が持ち去られていたら、カヅラキどころか大和は誰も即位できなくなってしまうところであった。

「俺はこの情報を唐の踊女から教えてもらっていた。新羅から道行って名の間諜が入り込んでるから要注意だってな」

「どうやって捕まえたの?」

「丹後の豪族から情報提供があって、一人の従者がずっと道行を見張ってた。だから、わざと泳がせてたんだ」

 新羅の間諜がカヅラキの即位を阻止しようと目論んだことにはある目的があったのではないか、とオオシアマは踏んでいた。大和が連合軍に大敗した後、唐と新羅は対立関係に入った。カヅラキはどちらかと言うと親唐派であり、新羅との関係を疎遠にしつつあった。そこで、危機感を持った新羅は間諜を送り込んで、新唐派のカヅラキが即位することを回避させようとしたというわけだ。

 しかし、大和の方が一枚上手だった。見張りを務めた丹後の従者は、功績が認められ、今ではオオシアマの息子タケチ王子の舎人となっている。

 要するに、地方豪族を集めて博打大会をするのも、こういういざという時のためのネットワーク作りを強化する目的があった。芸能民から情報を入手し、危機に際しては地方豪族の協力を仰ぎ、中央からの伝達事項は再び芸能民が各地に散らばって語ってくれるのだった。これほど便利なシステムはない。

「俺には力はない。軍事力はたいして持ってないし、発言権は大臣に及ばない。だから、兄を補佐するには情報を仕入れて提供したり、人を使ったりすることくらいしか、俺はできないんだよ」

 オオシアマは謙虚に言ったが、竜成はこの男がその気になれば大王になれるのではないかと思わずにいられなかった。


 サララの女官たちは小柄な見かけによらずタフだった。現代で言えば、キャリアウーマンなのだが、それ以上に体を動かすことも好きなようだった。シヒもトヨハヤも馬に乗れるし、小型の弓を引くこともできた。

「私も弓はできるよ」

「ほんと?」

 トヨハヤが貴子に自分の弓を渡そうとすると、貴子は断り、舎人のチトコが手にしていた大きい弓を借りた。弓道部主将だった貴子にとっては、男性の弓がちょうど良かった。藁の的には五回のうち四回が突き刺さり、見物していた竜成や舎人たちを驚かせた。

「すごいのね、タカコ」

「昔、ずっと弓を練習してたから。でも、あなたたちみたいに馬は乗れないよ」

「じゃあ、馬も練習すればいいじゃない」

 というわけで、貴子はシヒとトヨハヤに勧められて、乗馬の特訓をすることになり、それが彼女らの朝の日課になった。

 特訓の間、貴子はシヒとトヨハヤの身の上話を聞くことができた。シヒはオオシアマに仕える舎人の妻で、子がいたが二歳にならないうちに死んでしまったという。症状を聞くと肺炎のようだ。

「そういえば、クサカベ王子もお体が弱くて心配だわ。この前も、熱を出されてしばらく床に臥せっておられた」

 クサカベは九歳になるサララとオオシアマの一人息子だった。普段は愛嬌のある性格で周囲を和ませていたが、生まれつき病弱なことが気がかりである。部屋にこもっていることが多く、貴子はまだクサカベを見たことがなかった。

 トヨハヤには子はいなかった。夫とともに筑紫に住んでいたが、夫は先の百済救援戦争のために駆り出され、異国の地で戦死した。オオシアマとサララもカヅラキに従って筑紫に遠征に来ており、サララはこの時にクサカベを出産した。身寄りのないトヨハヤがサララに引き取られたのもこの時だった。

 貴子は潤を思った。もし戦争が起これば、潤は前線配置だろう。しかも航空基地だ。自分にもトヨハヤのような悲しみを経験する時が来るかもしれないと一瞬でも考えるのは恐怖であった。今頃、潤はどこで何をしているのだろうか。

「サララ姫は素晴らしい人よ。できないことはないわ」

「そうね、きっとあなたの恋人を見つけ出してくださると思う」

 貴子が自分の身の上を語ると、シヒもトヨハヤも一生懸命に励ましてくれた。

竜成は元々、運動神経が良かったので乗馬はすぐにできるようになった。すると今度は、舎人のチトコが武器を指さしてにやりと笑った。

「新羅語と唐語を勉強してばかりで、体が鈍るだろ?」

「マジかよ… 俺、唐語のために徹夜したのに」

「俺たちもオオシアマ王子に鍛えられらんだぜ。朝は乗馬、昼は剣と弓の稽古、で、夜からは外国語だ。ああ、そうだ、王子は槍が得意だから直接教えていただくといいよ」

 竜成は仕方なく武器を選んだ。槍と弓にしてみようか。しかし、舎人と言っても特にオオシアマ近くに仕える者たちは単なる雑用係ではないらしい。文武両道なのだ。

「ところで、色々訊いてもいいかな?」

 ヒロに弓の張り方を教えてもらいながら、竜成は尋ねた。オオシアマとサララの仲は良いのか、大津宮での政治的状況はどうなっているのか――。

「まぁ、オオシアマ王子とサララ姫はだいたい一緒に行動していらっしゃるな。もちろん仲たがいされることはあるけど、一日経てば何事もなかったように元に戻るね」

「たくさん妃がいるんだろ、王子には?」

「そうだ。最初の妃はヌカタといって、ご自分で選んだ妻だ。トオチ姫という娘がいる」

「トオチ様はカヅラキ大王の世継ぎでいらっしゃるオオトモ王子に嫁がれた。そして、今ではヌカタはカヅラキ大王の妃となっている」

 この話を聞いただけで竜成は混乱した。しかも、まだ妃はいるのだ。

「で、次に筑紫宗像地方の豪族の娘アマコ様。宗像の先祖はオオクニヌシなんだが、オオシアマ王子はよくオオクニヌシをお祀りしているから、宗像の娘がほしかったんじゃないかな。タカギの神を祀っているのは、公式行事くらいしかない…」

「おい、チトコ、その話はマズいんじゃないか」

 何がマズいのか、竜成には理解できなかった。こんなところで、あのオオクニヌシの名前が出るとは思わなかったが、タカギの神とは一体なんだろう。

「タカギの神って何なの?」

「大和の最高神だよ。高天原に君臨してる全ての源となる神だ。今の話は忘れてくれよ。でな、アマコ様にはタケチ王子という息子がいる。今年で十になるかな。聡明な方だ」

「それから、オオタ姫はカヅラキ大王の娘で、オオク姫とオオツ王子というお子たちがいらっしゃる。ただ、オオタ姫は四年前にお亡くなりになって、お子たちは大王に引き取られ、大津宮で育てられているんだ。大王にとっては孫だから、特にオオツ王子はかわいくて仕方ないんだろうよ」

 後は、オオタの妹であるサララと二人の妹がオオシアマの邸宅に住んでいる。

 相当複雑な家系図だ。入れ子のような素直でない婚姻関係が多く、子や孫たちはカヅラキとオオシアマの血がクロスして生まれているのだ。まるでわざわざ特殊な血統を作り出そうとしているかのような。

「大津宮には何か派閥みたいなものはあるの?」

「いや、我らがオオシアマ王子には人望があるけど、大津宮で力ある者たちが王子に肩入れすることはないね。風変わりだと思われてるし、今年の一月にはオオトモ王子が太政大臣に任命されて事実上の次期大王に決まったから、今のところ大津宮は揺るぎない状態だよ」

「オオシアマ王子が大王になる可能性はなくはないのか?」

 竜成はちょっと期待を込めて言ってみたが、ヒロから即座に否定されてしまった。

「残念ながら、王子はご自身のお子や大王のお子たちの後見役だからな。オオトモ王子は今年二十三歳になられたけど、もう何年も前から次期大王として扱われてたし、大津宮での暗黙の了解だった」

 というのも、大津の辺りにはオオトモの養育を任された豪族の本拠地があり、この地に都を建設した意味は、将来、オオトモ王子の都とすることでもあった。しかし、百済救援戦争の頃から常にカヅラキの補佐役として国政に携わってきたオオシアマは、こうした王位継承に納得しているのだろうか? オオシアマはカヅラキと同様、前大王夫婦タムラとタカラの子である上に、国政経験も豊富で人望も厚かったから、よそ者の竜成や貴子にしてみれば、オオシアマは十分に次期大王の座に相応しく思われた。

 こうした素朴な疑問をヒロとチトコにぶつけてみたが、二人の答えは「そういう考えもあるな。だけど、オオシアマ王子がこれ以上の地位を望まれることはない」「納得してるから積極的にカヅラキ大王に協力してるんだよ」というものだった。

 ただ、チトコが僅かながらに顔をしかめて呟いた言葉が、竜成の心に引っ掛かりを残した。

「王子はお辛いご自身の立場をわきまえておられるから…」


 さらに日が経った。貴子の乗馬姿はようやく様になり、サララの散歩のお伴を仰せつかるようになった。竜成は語学の勉強と弓槍の特訓の合間に、ちゃっかり彼女を作っていた。オオシアマが贔屓にしている俳優集団の謡女うたいめだった。

「余裕だね、鄭くんは(笑)」

早速、博打大会に彼女を同伴させて出席していた竜成を見て、貴子は半ば呆れつつも羨ましく思った。せめて潤がこの大津のどこかにいてくれたら…

「黒部さんの彼氏何してる人なの?」

左に謡女の恋人シュナを、右に貴子を座らせて、竜成は細い木の棒を使った博打で遊んでいた。陽一が見たら、調子に乗りやがって、と苦笑したに違いない。

「美保で飛行機の管制やってるよ。自衛隊なんだ」

「すげーな。管制とかちょっと憧れるよ」

彼氏を褒められて、貴子はくすぐったい気分になった。潤は冷静で強くて正義感があって優しいのだ。

「みんなどこにいるんだろうな。もしかして、カヅラキの部下だったりして… お、悪いね~、この勝負は俺がもらった!」

竜成は珍しく大声を出して喜んでいるが、貴子にもシュナにも博打のルールはわからなかった。勝負に挑んでいた他の参加者からはうめき声が漏れ、竜成の横に置かれた篭にたくさんの石がつぎ込まれた。これがチップのようだ。

 今回の大会は地方豪族の上級者ではなく、比較的若い子弟が招かれており、芸能集団の姿も交じっていた。オオシアマは自分の直属の部下である舎人たちを重んじていたので、博打や芸能の催し物から排除することはせず、息抜きも兼ねて積極的に参加させていた。オオシアマの政治的立場では、カヅラキに近い高位の人物と親しい間柄になることは控えなければならないため、必然的に地方豪族や身内の部下を厚遇するようになった。そして、こうした繋がりは、この後、思わぬ効果を発揮することになるのだった。


 梅雨も終わりに近づき、久しぶりに晴れ間が広がった昼過ぎ、大津宮ではオオシアマがカヅラキの執務室に呼ばれていた。普段は舎人のヒロとチトコが随行するのだが、チトコに用があったため、竜成が代わりに随行している。

 一月に太政大臣に任命されてから、カヅラキの隣には必ずオオトモが控え、執政の様子を勉強している。叔父と甥とはいえ、オオシアマとオオトモは四歳しか離れておらず、オオシアマはオオトモを弟のように思い、知識の伝授や助言を惜しまなかった。オオトモもまた、敷居の高い父カヅラキよりも何かとオオシアマを頼りにしていた。

 目の前には葛粉で作られた涼しげな菓子が置かれている。カヅラキの正妃ヤマト姫お手製で、自らお茶とともに持ってきてくれたもので、控えの舎人たちにも配られた。

「どうぞ、最近はちょっと暑くなってきたからお団子はやめたの」

「いただきます」

 ヤマト姫は夫や息子たちがあっという間に菓子を胃に収めてしまったのを見て、満足そうだった。片づけを采女らに任せ、ヤマト姫はカヅラキの後方に座った。彼女もまた、カヅラキの重要な補佐役を長年務めており、左右大臣などの高官からも一目置かれる存在であった。

「ところで、オオシアマ。地方豪族と友好関係を保ってくれていると思うが、庚午年籍こうごねんじゃくの施行具合はどうだ?」

「今、豪族に引き続いて民の戸籍もまとめさせています」

 庚午年籍は昨年作られた全国的な戸籍台帳だ。数年前から戸籍の調査を開始し、第一段階では九州から東国までの豪族と氏を持つ下部の集団を登録し、今、第二段階として氏を持たない一般の民の登録を行っているところだった。

「全ての記録は膨大なので、保存は各地の政庁で管理させています。大津には正丁せいてい中男ちゅうなんの記録のみ抜粋した木簡を取り寄せています。こちらの管理は専用の書庫を使った上で、オオトモに任せました」

 正丁とは二十一から六十歳の健康な男性、中男は十七から二十歳の健康な男性のことで、彼らが課税と徴兵の中心的対象である。

「わかった。これについてオオシアマには苦労をかけたな。さて、また苦労をかけてしまうんだが、大陸との問題に本腰を入れようと思っている」

 オオシアマは身構えた。今までずっとカヅラキに、大和が他国のごたごたに巻き込まれず安定を保てる唯一の方策を説いてきた。果たして兄は訴えを聞き入れてくれただろうか。

「いかがするつもりですか?」

「お前の進言と五大臣の評価は全く異なるのだ。そこで、お前には筑紫帥つくしのそつから最近の情勢を直に聞いてきてほしい」

 筑紫帥とは外交の窓口である大宰府の長官のことだ。つまり、オオシアマは九州出張を命じられたのである。今の筑紫帥は栗隈王と言って、オオシアマと親しい王族だった。

「わかりました。早速、明日にでも出立します。ちょうど今、新羅と唐の使者が大宰府に滞在しているようなので、情報を集めるにはうってつけの機会でしょう」

こうした外交上の情報は栗隈王からオオシアマの元に届けられるのが常であり、オオシアマは必要に応じてカヅラキに伝えていた。今年に入って、大陸からの使者の往来が増えた。いよいよ大和との同盟を巡って、唐と新羅が動き出したと言うことだ。

「オオシアマ、頼んだぞ」

「俺も叔父上について行きたい。まだ飛鳥と近江それに吉野から外に出たことがないんだ」

「お前には近江で学ぶことがたくさんあるだろ。筑紫に赴く機会はこれからいくらでもあるからな」

子供のように諭されて、オオトモは若い叔父に敵う気がしなかった。叔父は十代の頃から父カヅラキの影のように働き、冠位制度も作っているし、戦時がどのようなものかも知っている。守られてきたオオトモと違って、オオシアマは一人で地方豪族と渡り合い、外交使節団と交渉する術を身に付けていた。

「では、何人か舎人を連れていきますが、身軽に行動したいので他に伴はいりません。妃たちをよろしく頼みます」

オオシアマは一礼して執務室を退出し、竜成たちも後を追った。

この日の政務を片付けると、オオシアマは急いで自宅へ戻った。

「サララ、急な仕事だ」

「大宰府でしょ。旅の仕度はできてるわよ」

「知ってたのか」

「優秀な舎人のおかげです。一月くらいで戻る?」

「おそらく。一人にして悪いな」

「大丈夫よ。クサカベもいるし、うちは賑やかでしょ」

我が妻ながら、サララはよくできた女だ、と改めてオオシアマは感謝した。

筑紫視察に同行させる舎人は語学に長けているチトコだ。加えて、オオシアマは記録係として竜成を供に選んだ。

寝床の中で、オオシアマはサララに留守中の注意や頼み事を伝え、束の間の休息に就いた。夫の寝息が聞こえてくると、サララは夫の頬にそっと触れた。

「大王に従うのも楽じゃないわね… でも、何があっても私はずっとあなたについていくわ」


まだ日が昇らないうちにオオシアマ一行は出立した。近江から港のある難波までは馬を走らせ、難波から海路で瀬戸内海を抜けて玄海灘に進む。うまくいけば、十日ほどで大宰府に到着する見込みだ。

難波までの道のりはひたすら馬を走らせる単調なものだった。予想に反し、既に交通網は整備されていたので楽と言えば楽だ。近江の邸宅を出ると田畑が広がり、農民たちの作業姿を見かけた。家はといえば、竪穴式住居ばかりで身分の違いが歴然としていることに驚かされた。

「タツナリ、疲れてないか? 無理するなよ」

「まだ行ける。ヒロが鬼のように鍛えてくれたからね」

途中、いくつかの駅で休んだり馬を替えたりしてなんとか難波にたどり着いた。次は少し長い船旅である。

難波では王族専用の船舶が停泊していた。赤く塗られ、船体に金の装飾が施されている。少し気恥ずかしいデザインだな、と思っていると、チトコに「おい、行くぞ~」と呼ばれた。オオシアマとチトコは王族の船とは別の波止場に向かっていた。

「あれには乗らないよ。目立つし、遅いからね。俺たちの船は商船だ」

 チトコが指さす先には、ごく普通の木造船が浮かんでいた。オオシアマは荷物を抱えて波止場の小屋に消えていったが、すぐに出てきた。しかし、王子オオシアマの姿ではなく、身軽な麻の衣をまとった商人風の格好となっていた。

「驚いたか? 大王の弟は何でもやるんだぜ」

「破天荒だな、これで庶民と同じ船で博多まで行くのか」

「商船の方が速いし、商人の会話は面白いんだ。次期大王のオオトモにこんなことはさせられないだろ」

 竜成はにわかにこの筑紫行きが楽しくなってきた。型破りな王子が天下を治めるようになれば面白いだろうに。

 商船の波止場では、さっきから中年の色黒の男がこちらの様子を伺っていた。怪しいなと思っていると、オオシアマが男に近寄り、手を差し出した。

「久しぶりだな、ヤツカ。元気だったか?」

「ああ、やはり王子でしたな。お待ち申しておりましたぞ」

 なんだ、知り合いだったのか。

 ヤツカと名乗った男は、オオシアマの荷物を担ぎながら一行を船に乗せた。この船の責任者のようだ。

「月日が経つのは早いですな。あの時は、タカラ大王、カヅラキ王子、ヌカタ殿、オオタ姫それにサララ姫もいらっしゃいましたな。大船団でした。まさか、お転婆のサララ姫が正妃におなりとは思いませんでしたが(笑)」

「俺もだ。十年も経つのか、あの戦から。ヌカタはトオチを産んでから一年も経っていなかったし、オオタもサララも俺の子を身ごもってたのに、一緒に来ると言い張って、乗り込んできたんだ。ほんと、無茶苦茶なやつらだよな」

 あの戦とは、百済救援戦争のことらしい。ヤツカはその時、水軍の一大将として大船団の一隻を率いて、海を渡ったのだ。しかし、連合軍の猛攻撃にあい、命からがら撤退を余儀なくされた。それから、ヤツカは大将を辞し、大王との繋がりを持った商船の運行に携わるようになった。

「で、お前さんは新人かね?」

 大人しく話を聞いていた竜成に、突然、ヤツカは話しかけた。

「あ、そうです。今回はお供に選んでいただき光栄です」

「船は慣れてるかい?」

「いや、乗る機会がないのであまり…」

「まぁ、瀬戸内は穏やかだし、気楽にな。姫君たちでも、けろっとしてなさったくらいだからな」

 乗ってみると商船が大きいことに気づいた。船底には積荷が格納され、甲板から上部に乗組員の部屋と移動する商人たちの大部屋が作られていた。大部屋は特に何かがあるわけではなく、雑魚寝するためのものだった。

 難波からオオシアマ一行の他に十人ほどの商人が乗り込み、出港した。

まだ付き合いはじめて間もないシュナを置いてきてしまった。寂しくないといえば嘘だが、彼女も謡女としての仕事があり、近江宮を離れる時もあるのだ。九州の土産をたくさん買って帰ろう。心配なのは貴子の方だった。彼氏とはぐれた状態で心細いだろうに、竜成の知る限り弱音を吐いていない。

 瀬戸内海は静かだった。夏の始まりが下りてきたように水面を太陽が照らしている。ヤツカは竜成に西日本の地図をくれた。もちろん、現代の精密さには遠く及ばないが、だいたいの位置はわかる。夕暮れに明石海峡を通過し、本州沿いに進んだ。

 甲板に出て景色を眺めていると、竜成は知らない男に話しかけられた。

「瀬戸の海は穏やかでいいな。俺の住んでるあたりは波が高くてきつい。お前はどこから来た?」

「近江だよ。あんたは?」

渟足柵ぬたりのさくの近くから来た。蝦夷のやつらと交易をしてるんだが、最近じゃ、珍しい品物がないと商売があがったりでね。筑紫まで買い付けに行くところだ」

 蝦夷というから、この商人は東北から遥々やってきたのか。

「で、お前さんも買い付けか?」

「酒と反物がほしいんだ」

 竜成たちは豪族と取り引きをしている商人ということになっていた。東北の商人はクロマロと名乗った。クロマロは声を潜めて言った。

「ここだけの話だが、また税が増えるみたいだな」

 また? それはおかしい。近年の大津宮の政策について、チトコから講義を受けたことがあるが、つい一年前に税を上げたばかりだったはずだ。この時は、寺社の建立や修繕、港や駅の整備のためだった。

「次は地方にも例外なく課税するってよ。まぁ、あくまでも噂だけどな」

「やだねぇ」と言いながらクロマロは船内に戻った。今の話はオオシアマに伝えた方がよいかもしれない。

 船内では持参した簡素な食事をかじり、大部屋で睡眠をとった。よく寝たのかどうかわからなかったが、気がつくと船内に光が射し込み、朝が訪れたことを知った。外は何やら騒がしい。

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