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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
八雲立つ出雲八重垣
4/31

第3章 <2>

 タケミナカタがプレッシャーをかけるように意地悪く笑った。

 オオクニヌシは一連のやりとりを興味深そうに聞いていた。新しい風がイズモに良い影響を与えてくれるのではないかと期待を込めて。

 ここで、思い出したといった風に、タケミナカタが質問をした。

「イカリヌシ、さきほど言ってた空の守りというのは?」

「空を飛ぶ乗り物があるんだよ。それも、ものすごい高速で」

 さぞかし驚くだろうと潤は期待したが、タケミナカタは驚きよりも警戒心と怪訝な表情で問いただしてきた。

「アメノトリフネということか?」

「…アメノトリフネって何のことだ」

 潤たちにはタケミナカタが警戒している理由がわからなかった。

「神の世界にも高速で空中を飛ぶ乗り物があるのだ。ただし、それは天つ神であって、我々国つ神ではない」

「正直に言ってほしい。未来は天つ神たちによって統治されているのか」

「天つ神と国つ神が何のことかわからない。俺が言った空飛ぶ乗り物は飛行機と言って、鉄の、鉄ってイズモにもあるんだよな? 羽がついた巨大な鉄の塊が火力で飛ぶものなんだ。だから神の力は関係ない」

 ここまで説明して、やっとオオクニヌシたちは目を丸くした。

「意味がわからん。なぜ鉄の塊が神の力を借りずに飛ぶことができるんだ?」

「俺も不思議でならないけどさ、揚力っていう、そうだな、簡単に言うと風の力を利用して飛ばしてるんだよ」

 潤は遠い昔、大学時代の始めに習った知識の一部を思い出した。

 今度は陽一が神々にアメノトリフネとは何かを尋ねると、コトシロヌシが言葉を慎重に選びながら答えた。

「アメノトリフネとは高天原にいる神で、やはり高速で飛ぶのだ。高天原がどこにあるのか、正確には我々も知らぬ。この葦原の中つ国の海を越えたどこかに存在し、天つ神たちが住まうところなのだ」

「つまり、もし俺たちの世界の飛行機がアメノトリフネのことだったら、葦原の中つ国にも高天原の連中がやってきたってことになる、そう言いたかったんだな。実際は飛行機は物理学と航空工学の賜物だけど」

「私の先祖はそもそも天つ神だった。ところが高天原を追放され、イズモに拠点を構えたのだよ」

 オオクニヌシの言葉は意外なものだった。

「しかし、高天原の連中が今どうしているのか、何を考えているのかはわからない」

 野外は既に闇だ。松明の明かりも心もとない感じだった。今までの話を完全に消化できた者はいなかったが、そろそろ宴もお開きの時間のようだ。

 りらは一人、思いを巡らせているかのように押し黙っており、それでも何か言いたそうに陽一の様子を伺っていた。陽一はりらの視線に気づいていたが、コトシロヌシの視線にも気づいていた。

 オオクニヌシは全員の食事がきれいに平らげられているのを見て、夕げの終わりを告げた。現代の若者にしてみれば量は少なかったし、味もほとんどないか塩で調節するくらいで満足したとは言い難かったが、米と魚は素材が良いのか美味しく感じられた。

「旅人は疲れたであろう。ヒカリサキヒコとイカリヌシは私の館に部屋を用意させた。伴らをつけてあるゆえ、入り用があれば遠慮なく伝えるといい」

 いよいよ陽一はりらと引き離されてしまうのだ。りらは陽一について行こうとしたのだが、コトシロヌシがそっとりらの手をとり、「私の館にそなたの部屋を設けた。今日はゆっくり休め」と言い、一緒に自分の館に消えていった。

 美輝は陽一とりらに「おやすみなさい」と挨拶をした後、潤の顔を見ようともせず、速足でタケミナカタの後ろについて反対側のタケミナカタの館に向かった。残された陽一と潤は、迎えに来た雑用係に導かれて奥の部屋に入った。イズモでは雑用係を伴と言っているらしかった。

「あー、疲れた。全くの外国に来たようなもんだよ」

「そうだな。何ていうかゲームの世界に入り込んだみたいだ。コスプレじゃないか」

 陽一は伴が持ってきた服を見て言った。現代の服を脱いで、このシーツを頭から被るようなイズモの服を着ろということらしい。

「髪型は…仕方ないな。いきなり髪は伸ばせないし」

「風呂とかトイレはどうすんだ。あ、トイレっていうのは、厠だ」

 潤が大事なことを訊くと、伴が教えてくれた。風呂は館の裏側に体を洗う場所があり、温かい湯に浸かりたいなら、森の中の川沿いにある温泉に行けばいいという。トイレも館の裏側に鍵付きの小屋があるとのことで、意外とまともな衛生環境に安心した。

 伴が下がると、陽一と潤は敷物の上に横たわった。軒先から見える空は白く輝いていたが、それは星で埋め尽くされているためであった。長い一日であった。できることなら、明日の朝、目覚めた時には玉造温泉の布団の上であってほしい。

「五十里さん、じゃなかった、イカリヌシって呼んだ方がいいか。彼女さんのこと、心配だよな」

「まぁね。ただ、貴子は見かけによらず強いから。現代にいるなら、松江の自宅に戻るだろうし、こっちの世界にいたとしても、何とかなるだろ。貴子もあの勾玉を持ってるんだ。それに、君たちの仲間と一緒の可能性が高いわけだし」

 竜成と一緒なら、命の危険にさらされていない限り、あいつは頭がいいから機転を利かせて乗り切れるに違いない。

「しかし、女性たちにとってはとんだ災難だな。謎の世界に来て、初めて会った男に求婚されるなんて、あり得んだろ」

 潤の言葉に陽一は胸が締め付けられた。今頃、りらとコトシロヌシはどうしているのだろう。想像するだに苦しかった。

「ヒカリサキヒコ、お前さ、あのフサミミヒメのことが好きなんだろ」

 潤はさらりと言ってのけたので、陽一はしぶしぶ肯定した。

「ずっと落ち着きがなかったし、視線でわかったよ。隔離されてしまうわけじゃないだろうから、そう落ち込むな。もしかしたら奪還するチャンスがあるかもよ」

「だといいけど。しかし、桧枝さ…、フサミミヒメがコトシロヌシと話してるのを見ると案外楽しそうなんだよな」

 もしコトシロヌシが敵だったり悪い男だったりしたら、彼を傷つけてでもりらを取り戻すことができたが、コトシロヌシはとりあえず味方であり、特に非が認められない男なのだった。

「これからのことはまた明日考えようぜ」

 潤はあくびをしたかと思うと、そのまま眠りについた。陽一も疲れが先行して、気が付くと寝息をたてていた。

 同じ頃、りらはコトシロヌシの部屋の近くに与えられた自室にいた。入口付近にはコトシロヌシが座っている。コトシロヌシは一通り館の説明をして、りらに着替えの服を渡した。襟ぐりには朱色の細い帯が縫い付けられ、袖の先にも小さな玉で飾りがつけられていた。

「着なれぬ服だろうが、我慢してくれ」

「ありがとう。かわいいね。私、こういう服好きだよ」

「そうか」

 りらは夕飯を食べている時に聞いていたオオクニヌシたちの話について、言いたいことがあり、陽一に話をしようとしたのが、その機会なく今まで悶々としていることをコトシロヌシに打ち明けた。

 アメノトリフネの話題になった時、オオクニヌシたちは未来の葦原の中つ国が天つ神に支配されているのかと尋ね、潤は飛行機の原理を説明することでそれを否定した。

 しかし、りらは勤め先のアーバンパーク湊で坂倉さんから聞いた神話の中に、天つ神がイズモにやってきた後、その土地を天つ神に譲るというものがあることを思い出していた。

「コトシロヌシ、私、あなたたちのこと少しだけ知ってるの。といっても、イズモについてはオオクニヌシのことくらいだけど…。それに、この国の近い将来のことで、たぶん重要な話も知ってると思う」

コトシロヌシは控えめに話すりらの言葉を真剣に聞き、りらの肩に手を置いた。

「その話は重要なんだな」

「うん」

「今すぐに皆に伝えた方がいいか? 今日はそなたは早く休むべきだと私は思うのだが」

 りらはコトシロヌシの気遣いを素直に受け取り、「明日話しても同じだから、また明日ね」と返答した。実際、とても眠たくてまぶたが何度も落ちそうだったのだ。

「夜更けまで付き合わせて悪かったな。私の部屋はすぐそこだが、また明日、迎えに来る。日が高くなってから皆にそなたの話を聞かせてほしい」

「ありがとう。おやすみなさい」

 戸口に立って、コトシロヌシを見送ると、りらは鼓動がいつもよりも早いことに気づいた。この世界が現実かもわからず、コトシロヌシが得体の知れない人物とわかっていても、りらはこの男に抗しがたい何かを感じていた。眠っている大胆な衝動が少しずつ刺激されているかのようだった。


 近くで風に揺さぶられた簾の音が心地よく耳に入り、い草の新鮮な香りが鼻腔をくすぐった。薄らとまぶたを上げると、眩しさに目が眩んだ。ここは、清瀬の自宅ではない。いつもはふかふかのベッドで一緒に丸まっている猫の代わりに、硬い板の上で隣に寝転がっていたのは……

「ちょっと、タケミナカタ! 何であたしの隣にいるのよ!」

 タケミナカタを押しのけるように飛び起きた美輝は、衝立の裏側に逃げ込んだ。

 昨晩、中央の館から引き上げ、タケミナカタが美輝を自室に連れて行ったところ、急に美輝のご機嫌が斜めになってしまった。

 館の主は新しく手に入れた妻を抱こうと、敷物の上に横たわって彼女の腰に手を回したのだが、一瞬の後に、温かく柔らかい体が消えていた。美輝はタケミナカタの腕をすり抜けるように体を回転させて、敷物から離れたのだ。

 タケミナカタは美輝を捉えようと何度か試みたが、やはり同じように美輝はしなやかな動きでタケミナカタの腕を振り切った。

「イオリ、どうした」

「忘れちゃったの? あたし、あなたに倒されるの二度目なんだけど」

タケミナカタはすっかり記憶をなくしていたが、美輝は森の中でタケミナカタに射抜かれたことを言ったのだ。

「あたしのこと、矢で殺そうとしたもん」

「おい、あの時はまだイオリだとわからなかったからだ。得体の知れないものだったから仕方なかっただろ。それに俺の弓の腕は確かだ。そもそも殺すつもりはなかったんだぞ」

 タケミナカタにすれば、美輝の抗議は理不尽であったが、美しく風変わりな妻はご立腹なのだった。

「謝ればいいんだろ。許してくれよ」

 タケミナカタが再び美輝の腰に手を回そうとすると、今度は手の甲をぴしゃりと叩かれた。

「あたしのこと傷つけようとした人とは一緒にいられません」

 美輝が「あたし、あっちで寝るから来ないでね」と言いながら敷物を衝立の裏側に引きずっていこうとするのを見て、タケミナカタはひとまず降参した。

「わかった。そなたはちゃんとここで寝ろ。俺は別の場所で寝る」

すごすごと退散するタケミナカタの後姿を見届けて、美輝は朝までぐっすり眠った。

 ここで冒頭の場面に戻る、という経緯であった。タケミナカタはしばらく中庭をうろうろしたり、別室に出入りしたりして、美輝が夢の中へ入ったころを見計らって戻ってきたというわけだ。

 衝立の後ろから寝ぼけた顔を覗かせている美輝に向かって、タケミナカタはイズモの衣を放り投げた。「着てみろ」ということらしい。真っ白の薄手の布だが、何枚もの生地が重ねて作られており、着てみると天女の羽衣のようなデザインだった。腰には朱色と橙色の帯を巻いて完成だ。

「イオリ、気に入ったか? 兄貴がフサミミヒメに渡した衣より高価なものを用意した」

 得意げにタケミナカタは言い、美輝を手招きした。美輝が警戒してそろそろと衝立から出てくると、タケミナカタは翡翠の玉が連なる首飾りを掲げた。

 その翡翠の首飾りは一つ一つが大きく、朝日の光を受けて四方八方に反射していた。タケミナカタは、ついに美輝を引き寄せ、その首に翡翠を巻きつけた。一晩続いた美輝の不機嫌はすっかり雲散霧消してしまっていた。

「もらっていいの?」

「もちろん。俺の母がコシで翡翠の生産を司ってるから、いくらでも取り寄せられる。他にもそなたのほしいものは何でも贈ろう」

 タケミナカタが美輝を抱きしめようとした。

「考えとく!」

 満面の笑みをたたえ、衣の裾をひらりと返して、美輝はまたしてもタケミナカタを振り切って、部屋を飛び出していった。まるで、逃げることを楽しんでいるかのようだった。

 そのまま素足で廊下を駆け抜けていくと、中央の館に向かって歩いていく人影に出くわした。陽一と潤だった。

「おはよう。よく眠れた?」

 そう言う陽一は寝不足のようで欠伸を何度もしていた。

「やっとまともな姿になったな。タケミナカタと楽しくやってたのか」

「余計なお世話ですー」

「ところで、朝めし食った?」

 男性二人は、実は朝早く目が覚めてしまったので森の中にある温泉に行ってきたところで、オオクニヌシの館で朝食を食べに行く途中であった。

 美輝はそのまま中庭に下り、二人の後についていくことにした。昨晩の食事は女性でも少し物足りなくて、目覚めた時から空腹だったのだ。

 昨日と同じ広間には、コトシロヌシとりらが席に着いたところだった。朝食は米とアワを混ぜたもの、魚介の汁、そして冷やした桃という予想よりもまともな献立であった。後から来た三人も皿をつつき始めると、遅れてタケミナカタも部屋に入ってきた。タケミナカタは美輝に逃げられても懲りずに当然のごとく隣に座った。

「兄貴、父上は?」

「朝早く、奥殿と共にカンド郷に視察に行ったようだ」

「仕事熱心だな、父上も奥殿も」

「イズモも大きくなった。小まめに各地を見ておかないと心配なんだろう」

 しばらくして、コトシロヌシは寝る前にりらが打ち明けた重要な話をこの場でするよう、りらに言った。

「みんな、聞いて。私、昨日から不思議に思ってることがあるんだ。少しだけど、オオクニヌシの話やイズモのことを知ってるから」

「どういうことだ?」

「私たちの未来には、あなたたちについての伝承があるの。神話っていうんだけど。例えば、オオクニヌシは少年時代に多くの兄弟と一緒に因幡に行って、白兎を助けたり、ヤガミヒメと結婚したり…」

「ヤガミヒメか。父の最初の妻だったが、奥殿の嫉妬に恐れをなしてイナバに帰ってしまったらしいな」

「それから、オオクニヌシは兄弟たちの迫害を逃れようと、ネの国というところに向かったの。あのスサノオが治めてる土地で… そう、オオクニヌシはスサノオとクシナダヒメの子孫なんだよね。ネの国ではスサノオの娘のスセリビメと出会って…」

「互いに一目惚れしたとか言ってたな。なんだかんだ言って、あの夫婦は仲睦まじい」

 その後、オオクニヌシはスサノオの出す難題をスセリビメの協力により乗り越え、ネの国を去る時に、スサノオからスセリビメを正妻に迎え、立派な宮殿に住み土地を治めよと命じられたという。未熟な若者が統治者として認められたのであった。

しかし、りらはこの後オオクニヌシがどのようにイズモを統治し拡大させていったかは知らなかった。

「イズモが発展してきた様子は、直接、父に聞いてみればいい。視察から戻ったら、おぬしらにイズモのことを教えよう」

 コトシロヌシが皆に提案し、りらは話の続きを始めた。

 ここからが重要なのだ。

「昨日、イカリヌシが未来にアメノトリフネはいないし、天つ神に支配されてないって言ってたけど、私が聞いた話ではオオクニヌシはこのイズモを高天原の神々に譲ってしまうの」

 朝食の席がざわついた。陽一は旅行パンフレットに載っていた神話を思い出した。

「確か、国譲り神話って言って、かなり有名な出来事だよね」

「そうみたい」

 りらはアーバンパーク湊で坂倉さんから聞いた話と児童書などから仕入れた知識をまとめながら、国譲り神話を語った。

 まず、女性の太陽神アマテラスが治める高天原では、アマテラスが葦原の中つ国は自分の息子オシホミミが統治すべき国であると宣言したことにより、中つ国に様々な神を派遣するようになる。

 そして、タケミカヅチという力を誇る神がオオクニヌシに、アマテラスの意向を伝えると、オオクニヌシは息子のコトシロヌシとタケミナカタに尋ねてほしいと返答する。

 タケミカヅチはコトシロヌシに中つ国をアマテラスに譲ることの是非を尋ねると、「私はアマテラスの子孫に譲るべきだ」と述べ、海の中に隠れてしまう。

 一方、タケミナカタはタケミカヅチと力比べをしたいと申し出るが、負けてしまい、「中つ国はアマテラスに差し上げよう」と返答する。息子たちの決断を聞いて、オオクニヌシは中つ国をアマテラスに譲ることに同意し、その代わりに大きな宮殿を建ててほしいと願ったのだった。

 こうして、アマテラスは息子のオシホミミを中つ国の統治者にしようとしたが、オシホミミに息子ニニギが生まれたため、高天原の神々と共に、ニニギが中つ国に上陸した。つまり、天つ神が中つ国にやってきて統治を始めたということだ。

「むちゃくちゃな話だな」

 りらの語りを聞き終わり、タケミナカタが声を荒げた。オオクニヌシを始め、自分たちがこの豊かで平和な国を易々と他人に譲るはずがない。眉をひそめて考え込んでいたコトシロヌシがつぶやいた。

「……私はアマテラスという神のことを聞いたことがない」

「え?」

「俺もだ。高天原のことはほとんど知らないが、あそこの最高神は女ではなかったはずだ」

 またもや、互いに混乱し始めた。

 神話に詳しくない陽一でも建築関係から、日本で最高の神社である伊勢神宮に祀られているのがアマテラスであることは知っていたし、潤もまた、幹部候補生学校時代に研修の一環で伊勢神宮を訪れたことがあり、簡単な説明を受けていた。

 要するに、女神アマテラスが最高神であること、オオクニヌシが中つ国を譲ったから出雲大社が存在するという神話が存在することは、現代に住む人間にとって疑いようのない事実であった。

「ねぇ、コトシロヌシ、それじゃあ、一体、高天原の最高神は誰なの?」

「私が聞いているのは、タカミムスヒという男神だ。日の神ではない」

 タカミムスヒを知っている人間は、りらたちの中にはいなかった。もしかしたら、本当に存在する神かもしれないが、最高レベルの神だとしたらもっと一般的に知られていて良いはずだ。

「とにかく、イズモはそんなわけのわからない女神に身売りなどせぬぞ。おぬしたちにもイズモの強さを後で見せてやろう」

 タケミナカタは息巻いた。自分の管理する軍団を披露するつもりだった。

「しかし、未来にそのような不吉な話が伝えられているということは、何か理由があるのではないか。看過することはできぬな。父が戻ったら報告しよう」

 コトシロヌシはそう結論づけて、りらの手をとり、席を立った。タケミナカタは感情が高ぶっているのか、美輝に悪ふざけをする様子もなく、黙って自分の館に戻っていった。どこに行こうか一瞬迷ったものの、美輝は夫の後を追いかけることにした。

 自室に戻ると、陽一と潤は携行品から旅のパンフレットを取り出して、中身をぱらぱらとめくった。しかし、先ほど、りらが語った以上の神話の情報は得られず、蕎麦屋や伝統工芸品店の紹介が虚しく踊っていた。

 潤はため息をつきながら、若手幹部自衛官らしい考えを陽一に話した。

「どう考えても、俺は腑に落ちないんだよな」

「何が?」

「イズモが高天原に国を譲ったこと。だって、例えばだよ、日本が中国でもロシアでもどこでもいいけど、第三国から突然、日本は我が国が治めることにしたから譲ってくれ、なんて言われて、では差し上げましょうって答えると思うか?」

「ないね。断るだろ」

「すごい身近な例だと、隣の家の人から、あなたの家は立派なので私が住むべきだ、譲ってほしいって言われるようなもんだろ?」

 この神話は何かおかしい。二人は直観的にそう思った。

 何がおかしいのかを突き詰めようとした時、廊下で伴が呼ぶ声がした。

「申し上げます。コトシロヌシ様から厩に集まるよう言付けがございました。皆で外出しようとのことです」

「わかった、ありがとう」

 陽一と潤は水筒を腰に下げると、すぐに裏庭の厩に向かった。

 厩には通常、馬が七頭つながれているが、今は四頭が厩の外に出されており、コトシロヌシとりら、タケミナカタと美輝がそれぞれ一頭に跨っていた。

「これから館の外に出ようと思う。おぬしたちにイズモの風景を見せたい」

「馬は乗れるか?」

「いや…」

 首を横に振った二人の前に、馬番が一頭ずつ馬を引いてきた。一応、背には鞍と鐙らしきものがついているので、何とかしがみついて乗ってみた。

「大丈夫だ。手綱をしっかり持って、行きたい方向に引けば動いてくれる。こいつらは賢いし、おぬしらには大人しいのを選んだからな」

馬の背丈は低めとは言え、背に乗った状態での視線はかなり高く、ゆらゆらと不安定だった。

「では行くぞ」

 コトシロヌシが馬の腹を軽く両足で蹴ると、馬は歩き出したので、真似をしてみると、陽一と潤の馬も言うことを聞いてくれた。

 さしあたっての目的地は、館の周辺のキヅキ郷であった。キヅキ郷というのは、出雲大社があるあたりを言い、その南には実は神門水海かんどのみずうみという大きな湖あるのだが、現代では姿を消している。

 館の門には守り人が槍を携え、警備にあたっており、外に出ると、大きく深い堀が三重に張り巡らされていることに気づいた。外堀と中堀の間には、高い見張り用の楼閣も建っている。

 しばらく馬を歩かせていると、メインストリートというべき道が整備され、長く続いていることがわかった。

「ここが、キヅキ郷の中心の市だ。市司に登録をすれば、誰でも物を売ったり交換したりすることができる。もちろん、イズモ以外の国の者も利用できる」

 現代の若者たちは、初めてイズモの一般市民たちを目の当たりにしたのだが、彼らの身なりがきちんとしていることに驚いた。衣服はオオクニヌシたちに比べると、ごわごわしたような生地であったが、それぞれ服や髪に装飾品をつけているものが多かった。

「みんな、おしゃれだね」

 りらがコトシロヌシに言うと、コトシロヌシは装飾品は魔除けの意味もあると教えてくれた。

 子どもも活発に外で遊んでいる姿が見られた。市から少し離れた場所には、竪穴式住居が点在し、何軒か一まとまりになり環濠集落を作っていた。庶民の家であっても、堀に囲まれているのだ。

 こうした環濠集落の外側は田畑であった。収穫に向けて稲穂が徐々に色づき、首を垂れ始めている。

「どうだ、イズモは素晴らしいだろう。父上の努力が実を結んだのだ」

タケミナカタは自慢げに水田を指さした。

 さらに、タケミナカタは馬を走らせ、果樹園の入口で馬を下りて果実を探しに分け入った。残された美輝は、いたずら心からおそるおそる手綱を取り、馬の腹を蹴った。当然、馬は進めと指示されたと思い、歩き出した。

「いい子だねー」

 美輝は面白がって、馬を操った。

「イオリ、何してる! 危ないだろ」

「だいじょぶー」

 美輝に食べさせようと両手に桃を抱えて戻ってきたタケミナカタは、妻に自分の愛馬を乗っ取られうろたえた。美輝は強く馬の腹を蹴った。すると馬はあっという間にタケミナカタを後方に駆けだした。

「ちょっと待てよ!」

 桃を抱えながらタケミナカタは美輝と馬の後を追いかけた。

 美輝がコトシロヌシたちの元に戻ってきた時、馬の主人は地上をばたばたと駆けて合流した。

「妻の手綱は握れないのか、タケミナカタ」

 弟の情けない姿を見て、コトシロヌシは半ばあきれつつ笑い、潤はタケミナカタに同情した。

「イオリ、そなたは意のままにならぬ女だな」

「そうかな」

 美輝はタケミナカタの腕から桃を取ると、腰に下げた麻袋から小さな鋭利な石を取り出して器用に皮を剥いて食べた。「おいしい」と感想を述べた後、美輝はりらにも桃と石を手渡した。

 りらは一生懸命に皮を剥くと、コトシロヌシの口元に桃を差し出した。それはまるで、声に出さないけれども「あーん、して」と言っているようだった。

 コトシロヌシとりらが交互に瑞々しい桃をかじっているのを、陽一は見るも苦しくなり、馬の方向を変えて視線を逸らした。コトシロヌシは、自分ができなかったことをいとも容易く自然にやってのけているのだ。

 全員一つずつ桃を食べ終わると、また一行は別の場所に移動した。数本の小川に囲まれた広い敷地には竪穴式住居ではなく、高床式の建物が二棟設置されている。小川の一部や建物の入り口には榊や勾玉などが飾られていた。

 六人は馬から降り、入り口をくぐった。何とも言えない、植物のような独特な匂いがした。

「静かに見てくれ」

 階段を上り、建物の中にそろそろと入ると、壁の両側にい草で作られた敷物が並べられ、その上には人が寝ていた。

「コトシロヌシ様、タケミナカタ様、ようこそおいでくださいました」

 中年の男女が床に額づいて挨拶をした。

「突然、訪問してすまない。皆の具合はどうだ? 薬は足りているか?」

「今のところ、病人の数は少なく、薬は十分にあります」

 この独特な匂いは薬と病からくるものだったらしい。スセリビメが言及していたイズモの施薬処、つまり病院とはここのことであった。中年の男女は夫婦で施薬処を管理している薬師くすしだ。

 施薬処には病室の他に薬の調合室があり、裏側には温泉も湧き出ていた。この温泉は湯治としても使われるが、健康な人間も利用できた。

「今朝方、オオクニヌシ様とスセリビメ様もおいでになったのですよ」

「父上たちが?」

「はい。まだ暖かいですが、これから秋冬と寒さで病人が増えるかもしれないから今のうちに良い薬を作っておくようにと。それから、たくさんの絹の衣をくださいました」

 イズモでは養蚕も行われており、絹織物は高位の者しか着用できなかったが、オオクニヌシは絹が汗を吸いやすく乾きも速いこと、保温性があることから、病人にこそ絹の衣を与えるべきだと考えたという。

「イズモにはまだ薬師が足りない。育てなければな」

 コトシロヌシの言葉を聞いて、潤は貴子を思った。貴子は薬剤師なのだ。もしここに貴子がいれば、何か役に立てたかもしれない。

 病院に長居するわけにもいかず、一行は薬師夫妻に礼を言って、施薬処を後にした。だいぶ日も傾いた。イズモでは一日二食が基本のようで、現代の若者たちは空腹だった。

 館に戻り、馬を厩につなぐと、タケミナカタは皆に温泉に入ってはどうかと勧めた。現代の夏に比べるとずいぶん涼しいが、長時間の乗馬で体が痛かったし、汗もかいていた。ありがたいことに、オオクニヌシの館では男女別に温泉が作られ、着替え用の小屋も建っているのだ。

「飛ばされたのがイズモで良かったね」

りらと美輝は一緒に温泉に浸かりながら、不幸中の幸いに感謝した。

 温泉の次は夕食だ。まるで、温泉旅館にでも来たような生活だが、夕げの席での話は深刻なものだった。

 オオクニヌシとスセリビメが視察から戻り、一同は広間に集合した。

「お帰りなさいませ。視察はいかがでしたか?」

「今度は、水上交通をもっと広げたいと思った。神門水海から支流を引けば、交通の便が良くなるだろうし、田畑も潤う。おぬしたちは何をしていたのだ?」

「我々も視察といったところですよ。キヅキ郷の一部ですが、イズモを知ってもらうには実際に見てみるのが早いですからね」

 視察の報告が済むと、コトシロヌシは父に今朝、りらから聞いた国譲りの話を報告した。するとオオクニヌシは怪訝な顔をして、「私が妻たちやスクナビコナ、それに子らと築き上げたイズモを天つ神に譲るわけがなかろう」と明瞭な口調で言った。

「スクナビコナとは誰のことですか?」

「すまない、フサミミヒメ。これはまず私の過去について、話した方が良いな」

 オオクニヌシは自分の少年時代から話を始めた。イナバのヤガミヒメとネの国のスセリビメを妻にした経緯は、りらが語ったことと概ね一致していた。

「こうして、私はイズモの地を拠点として中つ国に勢力を広げていくことになったのだが、多くの妻を娶るということが重要だったのだ。次に、私はコシの国へ行き、ヌナカハヒメを妻とした」

「コシってどこですか?」

「イズモのずっと東、そして少し北だ」

 オオクニヌシは指で宙に日本地図を描き、コシの辺りを示した。北陸地方のようだ。

「ヌナカハヒメは俺の母親だ」

 ヌナカハというのは新潟県糸魚川市を流れる姫川のことで、ヌナカハヒメはここで産出される翡翠を支配する祭祀的な女王であった。

「しかしだな…」

 オオクニヌシは少し気まずそうに話を続けた。時折、妻のスセリビメの様子を気にしているようだ。

「まぁ、若かりし頃だな、スセリをほったらかしにしておってな。それで、喧嘩もしたし、スセリが私を責めるので嫌になってイズモを出ていこうとした時があったのだ」

「ええ、他にもタキリビメやカムヤタテヒメとの恋愛もございましたね。わかってるんですよ、イズモを広げ強くするためには各地の有力者の娘を妻にするのが良いということは。けれど、あなたが長くイズモを留守にしてそのたびに新しい妻を得たと聞いて、辛い思いをしましたよ。まぁ、昔のことですけどね」

 スセリビメは涼しげに笑った。

 各地の妻と子供に地方を任せて、オオクニヌシがイズモを拠点に安定した勢力を保てるようになると、スセリビメはオオクニヌシの補佐役として遺憾なく能力を発揮した。イズモの館にはタケミナカタの他に、カムヤタテヒメの息子コトシロヌシとタキリビメの娘シタテルが同居しており、母は違えど、スセリビメとも仲良く暮らしていた。

「国を作るうえで、女たちの協力は必要だったが、もう一柱、重要な仲間がいた。これもまた私がまだ若い頃だが、どうしたら強い国を作れるか悩んでいた頃があってな、ミホ岬で考え事をしていたのだ。すると、海から木船に乗った神がやってきた」

 その神はスクナビコナと言い、温泉、酒、穀物、薬その他の知識をオオクニヌシに授け、どこに行くにも二神は一緒に行動した。

 スクナビコナは高天原にいる女神の息子らしかったが、なぜイズモにたどり着いたかはわからなかった。ふらっと立ち寄って、国づくりという面白そうなことをしているオオクニヌシの元に居座ったというのが本当のところかもしれない。

 実際、スクナビコナはイズモの大地が栄え始め、オオクニヌシが一通りの妻を得ると、忽然と姿を消してしまったのだった。スセリビメはスクナビコナがいなくなってしまった後のオオクニヌシが、しばらく意気消沈していたことを今でも覚えている。

「つまり、スクナビコナは高天原にいるんですか?」

「私もスクナビコナの居所を知りたいのだが、全くわからない。天つ神は我々、国つ神には不可解なところが多いのだよ。いつも突然現れて、何かその不思議な力に魅了されたと思えば、ふといなくなってしまう。その時の喪失感と言ったら…」

 まるでスクナビコナの他にも天つ神と親密な交流があったかのような口ぶりであったが、オオクニヌシはそれ以上何も言わずに、イズモの現状について話題を変えた。

「昔話はこのくらいにして、今のイズモのことを話そうか」

 月明かりに照らされて、中庭から見える小川の水面がクリームイエローに点滅している。今夜の食事も構成は昨晩と同じであったが食材が異なっていた。

「イズモは水の都だ。東には入海があり、西には神門水海があり、その間にはイズモ大川が横切っている。この川は北ツ海にもつながっており、交通の便が良いのだ。イナバ、コシ、スハ、アワにツクシ、どこにでも行ける。それに、良い港がたくさんあってな、食事を見ればわかるだろうが、海産物が豊富だ」

「美味いだろう、鮎やワカメや海苔の佃煮は」

 コトシロヌシがりらに自慢げに言うと、りらは素材がいいから味がついてなくても美味しいと答えた。現代の人間にとっては、やはり、超薄味の食事なのだった。

「おぬしたちは水田を見ただろう。山に入れば、山の植物やけものが豊富だ」

「まさかこんなに豊かな生活を送っているとは思いませんでした」

「ということは、未来では我々の生活はひどいと考えられているのか?」

「そうだなぁ、ひどいとかっていうよりも、そもそもイズモという国があったことなんか普通の人は知らないし、昔のことは興味がないと思う。実際、俺たちもそうだったし」

 陽一の見解に、コトシロヌシたちは少し悲しげな表情になった。

「未来の人間たちから我々の記憶が消えてしまうのか。忘れてしまうくらい、遠い時間の先におぬしたちは生きているのだな」

 存在を確かめるようにタケミナカタは美輝の腕をなぞり、耳元に顔を寄せた。美輝は相変わらず興味がなさそうに、くすくす笑うだけでタケミナカタに応えることはしなかった。

「タケミナカタ、イオリの美しさに呆けている場合ではないぞ。軍の視察はどうした?」

「意地が悪いな、兄貴は。明日、皆にイズモ軍精鋭を見せようと思ってたところだ。キヅキの小毅には事前に知らせてある」

「イズモは常備軍なのか?」

 確か、昔の日本は一般市民に兵役が課せられて、かなりの負担になっていたのではなかったかと潤は疑問に思った。

イズモ軍総司令官タケミナカタによると、指揮官クラスは豪族の若者から志願者を集めて頻繁にキヅキ郷で訓練を行っている一方、一般の兵士は各集落から機械的に集め、集落で訓練しているという。

「人口数が少ないから志願制常備軍は難しいよな」

「イカリヌシ、俺の友人としてキヅキ軍団長になってくれないか。キヅキは俺が指揮をしているが、俺は総司令官の役目があり、一つの軍団ばかり見ることは不可能なのだ」

「前にも言ったけど、俺は未来では下っぱだったんだ。せいぜい小隊長がやっと」

「気にするな。未来からすればイズモの軍団など小隊に等しいだろう」

 総司令官がそんな適当でいいのかという気がしたが、辞退するのも男らしくないと考え、潤は引き受けることにした。

「では、また明日、厩から出発しよう」

タケミナカタの言葉で、夕げがお開きになった。

りらはコトシロヌシと一緒に立ち、またね、と陽一に小さく手を振りながら去っていった。今日のりらは昨日よりも着飾ってきた。髪に金細工の飾りを差し、珊瑚の腕輪を幾重にもつけていた。

一般的な女性の持ち物についてよくわからないのだが、まさかりらが化粧道具をフル装備でバッグに入れていたとは考えられない。現代のまともな化粧品など使ってないだろう。

しかし、りらの顔は不思議なほどきれいなままだった。少し垂れた眉と柔らかな瞳は、心地よさげにそっとコトシロヌシを見つめていた。


さて、翌日、同じメンバーで馬に揺られながら演習場へ向かった。メインストリートを進む途中、たくさんの人が作業を止めて地に額づく光景に出くわした。

コトシロヌシとタケミナカタが王の息子であると実感するに十分な待遇だった。

「ねぇ、どうして一般の人たちはあなたたちが王の息子だってわかるの?」

「イズモでは王とその関係者以外は、首飾りを三連までしか身に付けてはいけないからだ」

 改めてよく見ると、コトシロヌシとタケミナカタの首飾りは四連だった。四という中途半端な数字がなんとなく気になった。

 イズモの特徴である大小の川をいくつか越え、丘陵が見える広い草原にたどり着くと、雄叫びのような声と硬いものがぶつかり合う音が耳に入ってきた。

 二十人くらいの若者が上半身を肌蹴て、手足に防具をつけて剣の打ち合いをしているところだ。その中から、馬を走らせてくる若者がいた。

「司令官、お待ちしておりました」

「おう、クリエ。しばらく任せきりで悪かったな」

「いえ、司令官がお忙しいのは承知しております」

 クリエと呼ばれた若者は、軍団長の次の位である小毅という階級で、タケミナカタからの信頼が厚い男であった。

 軍団にはそれぞれの特徴があり、地域ごとに分かれているためかメンバーの愛着が見かけに表れやすい。例えば、カンド軍団は水上戦が主流なため、武器や防具に魚の絵柄が彫られている。

 キヅキ軍団はと言えば、かなり異様で、上半身に入れ墨が施されていた。しかも、はっきりとした絵柄ではなく、抽象的な漂う雲や渦巻きのようなものだ。キヅキ軍団の入れ墨は士官の若者だけの慣例であって、機械的に徴兵される一般の若者には入れ墨が強要されることはなかった。

 一同は士官たちが訓練している場所へ近づいた。

「訓練止め」

 緩んだ表情ばかり見せていたタケミナカタが別人のように、険しい顔つきになった。士官たちは動作を一斉に中断し、その場にひざまづいた。

「平和で豊かなイズモを支えているのは諸君らの努力のおかげだ。俺も常にこの場で鍛錬したいとは思うのだが、他の軍団の視察や軍以外の政務も担っていてなかなか来ることができない。そこで、今日は私の代わりに新しい軍団長を連れてきた」

 士官たちに少し緊張と動揺が走ったが、それは潤も同じだった。タケミナカタが潤を手招きする。

「こいつはタカハネイカリヌシといって、俺の友人であり、オオクニヌシが国を治める上で重要な協力者でもある。イカリヌシ、自己紹介を」

 無茶ぶりかよ。何のプロファイルも与えられていないタカハネイカリヌシという人物を自己紹介できるもんか。とはいえ、逃げることはできない。潤は何かにつけて事細かな経歴や出身地や家族構成などの自己紹介をする自衛隊を思い出した。

「俺は、イズモの出身ではない。スハの地から訳あってイズモへやってきた。理由は聞かないでほしい。しかし、スハでは軍団長を務めていたことがある。剣術は得意だ。妻がスハにいる。子はいない」

 以前、地理の話をしていた時、スハというのは長野県の諏訪あたりのことだということがわかった。そして、偶然にも潤の実家は諏訪市だったのだ。だから、妻がいるということ以外はあながちウソではない。

 短い自己紹介が終わると、潤は士官たちの様子を伺った。すると、誰かが武具を叩き合って音を出した。その音に続いて、他の士官も同じように武具を鳴らし始めた。

「安心しろ、イカリヌシ。これは歓迎の音だ」

「そうか、良かった」

 タケミナカタが制止するように手で指示すると、青い空に届くような高く大きな歓迎の音色は余韻を残して静かに消えていった。

「では、何か質問は?」

 少しの沈黙の後、後方の士官が手を挙げた。

「ツキヤ、何だ」

「司令官と一緒にいるのは奥方ですか」

 この質問は不意打ちだったが、確かにタケミナカタが、兄のコトシロヌシと新軍団長の潤以外に見知らぬ人物たちを引き連れているのは、士官たちにとって好奇心の対象であっただろう。

「紹介が遅れたが、俺の妻だ。兄貴の後ろにいるのはその妻。イカリヌシの隣にいるのが、ナガツヒカリサキヒコ、こいつは兄貴の政務を助けている。東国からイズモのために来たのだ」

 タケミナカタは言い終わると、木刀を潤に放り投げた。

「新軍団長に挑みたい奴は前に出ろ」

 またしても無茶ぶりだ。剣道は久しくやってないし、デスクワークばかりで体が鈍り気味なのだ。拳銃の訓練の方がまだマシな気がした。

「しゃあねぇな…」

 数人の士官が遠慮がちに前に出てきた。互いに礼をすると、潤は一人ずつ対戦した。

 イズモには全部で七十の郷があり、郷ごとに軍団があった。一個軍団の員数は数百人から千人の間で、イズモ全軍で二万五千人ほどの軍勢であった。キヅキ軍団が最大で、千人弱なので、士官一人につき約五十人の兵士を指揮することになる。

 潤は頭の中で、自分が置かれた立場を自衛隊に当てはめて考えてみた。三十人くらいを率いる小隊長どころか、連隊長じゃねぇか。五階級も昇進してやがる。

「イカリヌシ、強いじゃないか」

 対戦が終わると、タケミナカタは満足そうに言った。しかし、潤が強いのではない。士官たちが弱かったのだ。

 おそらく、この神話時代の人間は近代的な体の構えや動きとは違う形で、力任せに戦っているだけなのだ。最強であろうキヅキ軍団がこのあり様ということは、イズモ軍の強さは推して図るべし。

 後で館に帰ってから話そう。司令官の面目がつぶれないように、潤は敢えてこの場では何も指摘せず、皆もなかなか強かった、とウソを言った。

 タケミナカタも部下たちも満足な様子で、視察を終えた。潤は明日から毎日、こいつらを鍛えてやろうという気になった。そして、もうちょっと強度のある武器を作らせなければならない。せっかく製鉄の技術があるにもかかわらず、武具と防具にはあまり鉄が使用されていないのはもったいない。

 演習場からの帰り道の光景はあまりにののどかであった。川の両岸には様々な穀物や桑や麻が生え、しかも実の重さでたわんでいた。遠くの丘のふもとでは、生い茂った木花がゆらゆらと昼寝をしているようだ。

 馬に水を飲ませるために川辺で止まると、鮎や鱒や鰻が瀬を泳ぎ回っており、漁民たちが魚を捕獲するための仕掛けを作っていた。オオクニヌシの館に着くころには、集落に明かりが灯り、野外で酒盛りが始まっていた。特別な行事があるわけではないが、天候が良い場合は、毎晩こんな感じで賑やかだという。

 いつものように、温泉で汗を流して、新しい服に着替えると夕食だ。ところが、今日は夕げの席に客人がいた。美輝とともに広間にやってきたタケミナカタが、驚きの声を上げた。

「母上!」

「久しぶりね、タケミナカタ。最近の話は、今ちょうど皆から聞いていたところ」

 透き通るような若竹色の領布を肩にかけ、大きな翡翠の勾玉を首に下げている中年の女性は若い頃の美しさが偲ばれた。青年時代のオオクニヌシがこのヌナカハヒメの美貌を聞きつけてコシまで赴いただけのことはある。

「遠くからどうしたのですか?」

「新たな翡翠の産地を発見したので、イズモに供給できる量が増える見込みなの。それに蓮華石の玉も交易に加えてもらおうかと、交渉に来たのよ」

 コシの女王が直々にやって来たということはかなりの規模の商談に違いない。

 そのせいか、夕食の品数もいつもより多い。米、猪の肉、鶉の卵と茸の煮物、鮑とウニの吸い物、ヤマゴボウ、海苔、酒、そしてスモモという献立だった。いつもこれくらい出してほしいというのが現代の若者の本音である。

 コシの女王は自国の食も豊かだが、イズモはさらに素晴らしいと褒めた。どちらも日本海側の地域で特に米と海の幸には恵まれているのだから当然だ。

 食事をしながら、陽一はヌナカハヒメに全員が八重垣神社で拾った勾玉を見せ、何かわかることがないか尋ねてみることにした。

「ヤマシロ郷のあたりでこの勾玉を拾ったのですが、どこから来たのかわかりますか?」

「あら、随分と立派な玉ね。琥珀は東国でも採取できるけど、この青い方は見たことがないわ」

「そうですか」

「少なくとも私の国で作っているものではないわね。ただ、勾玉は限られた人しか持つことができないし、持ち主に相応しくないと勾玉が判断したらその人に留まることはない。それに、恐ろしいもので、清流の神の依代に勾玉を集めると時空を支配できる力を持っているのよ」

 時空を支配できる… それはつまり、うまくいけば現代に戻れるということではないか。一気に期待が高まったが、ヌナカハヒメによればそれは簡単なことではないようだ。

 神が降臨する依代というのが何かわからないし、そこに神が依り憑いていなければ勾玉を集めても全く意味がないのだ。

「帰るのは難しいね」

 りらはため息をついた。イズモの生活を楽しんでいるように見えるが、やはり一刻も早く帰りたいのだった。

 右隣の男は、りらをできるだけ長くイズモに留め、未来という時間に帰したくないと思い、左隣の男は何が何でも彼女を無事に未来に連れて帰り、今度こそ思いを告げねばならぬと誓っていた。

 この夜、ヌナカハヒメとオオクニヌシ夫妻は、夕食後、続いてイズモとコシの交易の話を進めた。コトシロヌシとりらはいつものように仲良く手をつないで館に戻っていき、陽一はふて寝するほかなかった。

 潤は日中に視察した軍団の基礎教練や武具の強化をタケミナカタに進言するため、タケミナカタの館に赴いた。時代は違えど武人であることに変わりない若者たちは、朝方まで熱心に軍事力の向上について語り合った。

「あたし、一人じゃつまらないから聞いてていい?」

美輝がついてくると、タケミナカタは追い払うことができず、美輝を同席させた。

 しばらくは真剣に聞いているようだったが、美輝は「何で男の人ってそういう話が好きなのかわかんない」「そもそも軍隊なんてあるから戦争になるんじゃないの」などと、武人の真面目な話の腰を折り始めたかと思えば、眠いと言って、タケミナカタの膝に頭を乗せて潤の目を気にすることなく眠ってしまったのだった。

 この女、マジでしばいてやろうか。危うく、潤は声に出してしまいそうになった。

「疲れているんだろう。おぬしともども、早く元の場所へ戻してやりたいがどうにもできぬ」

 タケミナカタは美輝の髪を撫でた。薄く白い絹がメリハリのついた肢体にまとわりついているようで、潤は横たわる美輝から視線を逸らした。ガキみたいに考えなしに言いたい放題言いやがるのに。

「で、製鉄の話だが、イズモとツクシから砂鉄は採れる。技術者はスハから呼び寄せてはどうだろう――」

 全く気にせずといった風に、タケミナカタは話を続けた。こんなことなら陽一を同席させればよかった、と潤は後悔した。


 米軍の偵察ヘリが出雲大社に墜落してから、どのくらいの日が経っただろう。陽一たちはこのまま現代へ帰ることはできないのではという諦めを胸に抱きつつ、コトシロヌシたちとともに政務や軍務に参加する日々を過ごしていた。

 イズモ大川では切り出した材木を上流下流に運ぶ筏が行き交うのを見た。製鉄所を拡大し、新たなデザインの武具や防具を作るのを見た。港では他国の商人とイズモの商人が交渉をし、人々で溢れる市場を見た。時々催され、人々が楽しそうに踊り続ける祭りも見た。

 陽一とコトシロヌシは一緒に行動することが多く、イズモの全体的な情勢を統括している。りらとの関係を除けば、純粋に年が近い男同士の付き合いとしては、陽一はコトシロヌシの穏やかで知的な性格と波長が合ったし、イズモという国の次世代を担う者を助けるという仕事はなかなかやりがいがあり面白かった。潤は「俺はいつの間に陸自隊員になったんだよ」 とぼやきながらも、キヅキ軍団長として、毎日汗だくになりながら部下の訓練に励んでいる。

 りらはスセリビメに気に入られ、よく施薬処に出入りしているようだ。デイサービスからヒントを得て、集落の巡回もしており、オオクニヌシからは医療についても学んでいるらしい。そして、美輝は館にいる時には、タケミナカタが与える豪華な衣服や装身具を身に着け、頼まれれば踊り、タケミナカタの目を楽しませているが、実は昼間は雑仕女から借りた質素な服に着替え、どことも知れず一人で外出をしているのだった。

 イズモの朝は早い。夜明けとともに下働きの人間たちが活動を始め、伴が洗顔用の水桶を持って起こしに来る。

「おはようございます」

「おはよう」

「今日はフサミミヒメ様のお供でございますね。必要な荷物は用意してございますよ」

 昨晩、コトシロヌシから頼まれた事とその意味を考えていたら寝つけず、陽一はやっと明け方に少し眠ったばかりだった。頼まれ事というのは、りらの護衛として一緒にイナサ浜の祠に出向いてほしいというものだ。

 定期的にその祠に詣でているのだが、潮が引いた時にしか祠は現れない。今日が潮が引く日なのだが、コトシロヌシは所用で行くことができないため、りらを行かせることにした。しかし、一人では心もとないので、陽一に護衛の役が与えられたというわけだ。

 今日の引き潮は日の沈む少し前なので、日が傾いた頃に館を出発した。

「なんかこうやって二人で話すの久しぶりだね」

 一頭の馬にりらを乗せ、陽一はその後ろから別の馬でついて行く。りらの危なっかしかった手綱さばきも最近ではまともになってきたようだ。

「施薬処とか巡回とか、忙しい?」

「そうでもないよ。っていうと、暇みたいに聞こえるけど。イズモはもともと若い人が多くて、温泉のおかげなのかわからないけど、病人はそんなにいないから。ヒカリサキヒコは仕事面白い?」

「面白いよ。小さな国の大臣になった感じ。未来じゃ、しがない建築士の見習いだったのにね。最近は、法の整備について考えてるよ」

「法の整備って、どんな?」

「争いの処理方法だよ。この国はかなり商業が盛んだから、結構、商人の間で揉め事が起こるんだ」

 先日、市場でちょっとした争いを目撃した陽一がコトシロヌシに、「そういえば、未来には裁判っていうのがあって、色んな決まりに従って行われるんだ」と言ったことから、法の整備の話になったのだ。とはいえ、陽一だって法律の専門家ではないので、実際には何らかの判断基準を作ってみるという作業に止まりそうだが。

「だとしても、大変だね。私は現代での経験に従ってやってるだけだから」

 浜に着いた頃には水平線に太陽が落ちていく途中であった。近くの松林に馬を繋ぎ、陽一はりらが馬から降りるのを待った。

 何もない砂浜の先に、薄藍の海が広がっている。目的の祠はすぐに見つかった。雲間から差し込む茜色の太陽の光が真っ直ぐに祠の周りを飾っていた。

「フサミミヒメ、あの祠だね」

「うん」

 りらは朱鷺色の絹を纏い、萌黄色の縮緬の帯を結んでいる。セミロングだった髪は少し伸び、頭頂部で一つにまとめていた。

 りらはこちらの世界に来てから、日ごとに美しさを増した。介護士としてのりらは正直に言うと飾り気がなく、色物を取り入れていなかったので地味であった。しかし、イズモではコトシロヌシから高級な衣服と装身具を惜しみなく与えられ、目元や口元の化粧も明るくなったのだ。それだけでなく、コトシロヌシの愛情もりらを変えていた。

 誰もいない浜。遠くに打ち寄せる波の音。りらを取り戻すには最適な状況であった。

 ところが、陽一はコトシロヌシの意図を疑い、慎重に行動することを選んでしまった。もしかしたらコトシロヌシは、陽一の気持ちに気づいていて、わざと二人だけの時間を作ったのかもしれなかった。次期国王の妻に手を出したことがわかった瞬間、処罰され、永遠にりらと共に現代に戻ることが叶わなくなるということが考えられたからだ。

「この祠はね、海神を祀ってあるんだって」

 波の届かない砂浜に履物を脱ぎ捨て、服の裾を少し持ち上げ、りらは祠の方へ歩いた。陽一は荷物から榊を取り出し、りらに手渡した。夕日に映し出され、祠に祈るりらは神々しかった。

「きれいだ」

「え、何か言った?」

 りらの微笑みに対して、陽一は首を横に振った。何でもないんだ。

 少しばかり夕日を眺めていると、海水が満ちている方から黄金に光る魚が砂浜に向かって泳いできた。そして、その魚は勢いよく跳ねたかと思うと、水飛沫の中から何かが現れた。

「オオクニヌシはどこ?」

 その魚、否、小柄なかわいらしい人間の女性は息を切らせたように慌てた様子で尋ねてきた。突然のことに、思考が止まってしまった陽一とりらは、もう一度、「この祠に来たということは、オオクニヌシを知ってるでしょ?」という質問をされてようやく声を出すことができた。

「たぶんオオクニヌシの館にいると思う…」

「私はオオヒルメ。あの方とかつてご縁があった者よ」

「ご縁って?」

「よくよく申し伝えなさい。国の守りを固めるように、と」

「国の守りを固めるってどういうこと?」

 その質問に答えることなく、オオヒルメは水飛沫を上げてまた海中に消えた。黄金の魚は逃げるように祠から離れていった。

「何かよくわからないけど、急いで館に帰った方がいいね」

 二人は浜に上がると履物をつかみ上げ、裸足のまま馬にまたがり、イナサ浜を後にした。

三十分ほど馬を走らせ、オオクニヌシの館の厩に飛び込んだ。するとちょうど外出から戻ったコトシロヌシに出くわした。

「どうした、そんなに慌てて。フサミミヒメ、祠はどうだった?」

「コトシロヌシ、祠には無事にフサミミヒメを連れて行ってきたから安心してほしい。でも…」

「何だ?」

「海から突然、女が現れて、オオクニヌシはどこだ、国の守りを固めるように、ってそれだけ言って消えたんだ」

「父上を知ってるのか、そいつは?」

「オオヒルメと名乗ってた。昔、オオクニヌシと何か縁があったらしい。それ以上のことは――」

 陽一が最後まで言い終わる前に、コトシロヌシは駆け出していた。振り返りながら、陽一とりらを呼び寄せ、伴にはタケミナカタと美輝を呼ぶよう伝えた。

 息子のただならぬ様子に、政務を中座し、オオクニヌシは皆の集まる広間にやってきた。タケミナカタの隣には質素な姿の美輝が座っており、妙に顔をこわばらせている。

「コトシロヌシから事情は聞いた。端的に言おう。戦になるやもしれぬ」

 この平和すぎるイズモに、戦ほど似つかわしくない言葉はなかった。陽一とりらには、なぜオオヒルメの出現が戦につながるのか理解できていなかった。

「どこと戦うの?」

「高天原だ。オオヒルメは天つ神、スサノオの妹なのだ」

「ちょっと待って。なぜオオヒルメは敵になり得る私たちに警告してきたの? それに、スサノオの姉じゃないの? アマテラスのことじゃないの?」

 りらは自分が知っている神話と合致していない状況を問いただした。神話では、イザナギとイザナミという神夫婦の間には、長女アマテラス、長男ツクヨミそして弟スサノオの三柱が生まれた、というのはアーバンパーク湊で坂倉さんからよく聞かされていたし、絵本でも姉と弟のストーリーが描かれていた。

 オオクニヌシは少し言いにくそうにオオヒルメについて語った。

「遠い昔のことだが、オオヒルメは私の妻であった。スセリビメと出会う前だ。私はオオヒルメが天つ神だとは知らなかった。旅をしている途中、日当たりの良い海辺で一人楽しげに遊んでいる女がいた。着飾りもせず、素朴でかわいらしい姿をしていた。それがオオヒルメだ。私たちはしばらく一緒に海沿いを旅した」

 オオクニヌシはオオヒルメをイズモへ連れて行き、住まわせるつもりであった。ところが、イズモへ着く頃、オオヒルメは突然泣きながら、もう一緒にいられない、中つ国に来ていることをタカミムスヒに見つかってしまい、帰らなければならなくなったと言ったのだ。タカミムスヒは高天原の最高神であり、オオヒルメにとってもその言葉は絶対的であった。

「つまり、オオヒルメはタカミムスヒの目を避けて、危険を冒して、父上の住む中つ国にやって来たということだな。そして、高天原の連中が中つ国に攻めてくることを伝えようとした」

「そういうことだ、タケミナカタ。それに先ほどのイオリの話とも合致する」

「父上、ナガスソノイオリの話とは?」

 実は、一日中、館にいて妻の役目をするのはご免だと機嫌を損ね始めた美輝は、タケミナカタから少なくとも昼の間は妻の役目を「免除」されており、好き勝手に出歩いていた。時には数日間、館に帰らないこともあった。

 そのうち、市井で見聞きしたことを夜の床でタケミナカタに話すようになったのだが、治安や交易を司るタケミナカタにとって、その情報は貴重なものとなった。

 要するに、美輝はタケミナカタの耳としてイズモの住民の声を聞き、時には他国に入り込み、密偵のように情報収集をしていたのだった。

「あたし、イズモの南の国境地帯にいたの。ニタ郷ってとこ。最初は砂鉄の情報を集めてたんだけど、滞在してた温泉でサグメっていう女に会ってね、踊りが好きっていうから仲良くなったんだ。そしたら、高天原は豊かなイズモがほしい、キビもほしい、ツクシもほしい、力ずくで取りに行くぞって変なことを言うんだよね」

 サグメも天つ神であり、タカミムスヒの密偵として中つ国にいたのだと考えられるが、サグメはタカミムスヒに忠誠を誓っているとは思われなかった。故意に、おそらく面白いからという理由で、美輝に高天原の意図を伝えたようだった。

 高天原が中つ国を手に入れようとやって来る――。これはまさしく神話と同じではないか。しかし、神話と異なるのは、高天原が平和裏にオオクニヌシに国を譲ってほしいと願うわけではなさそうだということだ。

「イズモは我々が築いた土地だ。天つ神の住む場所ではない」

「父上の仰せのとおり」

「コトシロヌシ、ナガツヒカリサキヒコと共に戦に備えよ。他国と同盟を今一度結び、民が戦に耐えられるよう手配いたせ。タケミナカタよ、おぬしはイズモと同盟国の軍を統率せよ。タカハネイカリヌシはキヅキ軍団長の任を解く。そして、イズモ軍第二司令官として、タケミナカタを支えよ」

 この日、にわかに神話が動き出した。

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