第11章 <3>
翌日、昼間の勤務が終わると、陽一は未来へ戻るための最終調整をするために、関係者に声をかけた。
香紀の話を聞くや、竜成は自分はここに残るつもりなのだからと、その勾玉を親友に差し出した。
「ありがたいけど、他人のものじゃ効力はないんじゃないかな」
試しに、自分の勾玉と竜成の勾玉を交換し、近くを通りかかった雑人に話しかけてみた。しかし、予想通り、陽一の言葉は古代語に変換されず、雑人は首をかしげて困惑している。
「やっぱりね。竜成の勾玉は竜成だけのものなんだよ」
それでもなお奇跡にすがりたい母親は、陽一のてのひらから勾玉をつまみとり、我が子の小さな手に握らせた。赤ん坊は目を閉じたまま冷たい石をその手に握りしめたが、何が気にくわなかったのか、ほどなくして勾玉をぴょいと放り投げてしまった。そして、お決まりのようにぐずり始めた。
りらはこの場ではほとんど口を開かず、赤ん坊が泣き始めると一人で抱えて外に行ってしまった。まだ娘と自分の運命の行方について考えているようだった。
「……竜成以外は皆帰るってことでいいね?」
「ああ、それが可能なら、だけど」
それでもダメもとでやってみる他ない。吉野山の夢のわだだけが今の唯一の希望だった。
オオシアマに意向を伝えると、吉日を遁甲で占ってくれた。告げられた日はちょうど七日後と言う。さらに、オオシアマは自分とサララも吉野山まで同行すると申し出た。
「二人とも宮中を空けちゃっていいの?」
申し訳なさそうに訊く陽一に、オオシアマはさらりと答える。
「代理の奴に座っててもらうから大丈夫だ。俺が呼ばない限り臣下がここに来ることはないからな」
今回の行幸は内密だ。関係者以外は信頼できる腕の立つ兵衛を数名連れて行くだけで、子供たちや親しい官人にも出立は伏せることになった。
それから残された日々は、飛鳥宮の仲間に別れを告げることなくいつもと何一つ変わらず過ごさなければならず、それはそれでもどかしく心苦しいものであった。しかし、大伴吹負や村国雄依などは陽一たちを仙界から来たと信じていて、数日間、清流探しのために飛鳥宮を離れた時も仙界に戻っていたと勘違いをしていた。
「仙界では何をなさったんですか? 吉野山が仙界と通じてるんですよね? 今度、仙女に会わせてくださいよ」
兵政官に戻った潤にオヨリが尋ねた時は、焦った。
「お前みたいな下心丸出しの人間には会わせられねぇよ」
そう切り返してごまかした。
そして、中臣大嶋や高向麻呂に至っては、仙界の「せ」の字も思い浮かばないはずだった。何らかの理由で主上が特別扱いしている人々というのが彼らの認識だ。役所は相変わらず殺人的な忙しさで、オオシアマの指示が次から次へと飛んでくる。陽一たちの正体を突き詰めようと考える余裕などなく、それよりも自分たちは選ばれた天皇の官人であるという自負が、若い官人たちを一直線に仕事に立ち向かわせていた。
子供たちにも普段通りに接していたが、ただ一人、異変に気づいた子供がいた。
「タカコ、もしかしてだけど、もうすぐ未来へ帰ってしまうの?」
定期的に簡単な健康チェックと薬の補充をしていた貴子は、驚いてクサカベの顔を見返した。屈んで目線を同じ高さにして、どうしてそう思うのか尋ねてみた。
「みんな、いつもよりも明るくて元気だから。それにね、りらが香紀をずっと独り占めしてるの、おかしいなって。生まれたばかりの時は、みんなに抱っこさせてくれたりしてたのに」
クサカベは大そう鋭い観察力を持っていた。おっとりしていて、よくアエにあれこれ指示されているので気づきにくいが、実はミナベよりも遥かに洞察に長けていた。
「よくわかったね、秘密がばれたのはあなただけよ。私たちは帰る準備をしてるの。あと三日後。うまくいくかわからないけど…… この世界の人たちに会えて、楽しかった。アエやオオツと仲良くね」
貴子は小声で伝えると、クサカベをぎゅっと抱きしめた。初めて対面した時、クサカベは色白で肩で息をしていて、足元がおぼつかないような柔な少年だった。でも今は違う。見違えるほど逞しく成長し、しっかりと前を、未来を見つめて立っている。
「僕、絶対に誰にも言わないよ。でも、みんなには未来に帰った後に伝えて。父さんを助けてくれてありがとう、って」
吉日と遁甲で示された日は、爽やかな秋晴れに恵まれた。それぞれに必要な荷物だけを抱えて、密かに飛鳥宮を去った。
りらはとうとう香紀を置いていくことに同意を示さなかったが、二人で居残るという主張もしなかった。
「帰るその時まで、香紀を抱いていたい」
それがりらが口にした全てだった。万が一にも一緒に帰れる奇跡が起きないとも限らないと考えてのことだ。
見上げたこの空に、鉄の鳥が飛ぶことはない。汚染された空気も温室効果ガスも発生しない、夢のような巨大な空間だ。潤の愛する管制塔もなく、この世界で背伸びをして存在を主張するのは寺院の高い仏塔である。
川原寺と橘寺を背後に飛鳥川沿いに南下していく。飛鳥南端に位置する嶋宮は改修工事が行われている真っ最中だ。いずれ、この宮には本人が希望していたようにクサカベとアエの拠点となるだろう。
川の上流に向かうにつれ、谷間に棚田が広がり、黄金の稲穂が一行を出迎えてくれた。既に三分の一の稲穂が刈り取られていた。臣下と同じような姿で加わるオオシアマとサララに気づく者はいない。
オオシアマはどうやら今年は米不足ではなさそうだと知って、ほっとした。そして歌を口ずさんだ。
――秋の田のかりほの庵の苫を粗み我が衣手は露に濡れつつ
するとサララが驚いて言う。
「どうしちゃったの、あなたが歌を詠むなんて!」
妻の反応は当然だ。オオシアマは歌を詠む習慣がなく、漢詩も好まない。作るとしたらだいたい謎かけ歌や韻を踏んだ冗談のような歌ばかり。当然、「秋の田の」の歌も自作ではない。
「兄さんに教えてもらった歌だよ。かなり昔だけどね。作ったのは農夫。兄さんが即位する前、里に出向いた時に献上された歌だと言ってた」
こじんまりとした寺から先の、栢森という場所を過ぎると山道が現れる。飛鳥川の源泉もこの道なりにある。
「つーかーれーたー!」
峠の頂上に差し掛かる頃、美輝が音を上げた。美輝はお土産と称して荷物を多く抱えていて、それが負担の原因なのだ。
「バカじゃないのか、君は」
そう言うなり竜成は美輝の手から包みをもぎ取った。そして、美輝を一瞥するとすたすたと先に進んだ。
「あっれー、珍しいな。竜成が女の子に優しいなんて!」
自分は懐にオロチの耳飾りだけをしまって手ぶらの陽一が、わざとらしく声を出した。長年この男を知っているが、付き合っている相手は別として、竜成は直接的に女子に優しい態度をとることなどない。
「餞別だ。今日を限りでもう会うことはないだろ。俺だってたまには女子に親切なんだよ」
そんな変な親切あるかよ、と思ったが陽一は隣を歩くりらと顔を見合わせて笑った。腕に大切に抱かれた香紀は揺れが心地よいらしく、大人しく眠っている。
りらは娘を七世紀に置いていくという話が出てから、一度だけ大泣きした。この手に舞い降りた小さくて無限の幸福を、過去と未来という見えない壁が共に歩むことを許さないらしい。どうしてこうなってしまったのかを考えることは、地獄の螺旋階段をひたすら下って行くも同然だったから、何も考えずに泣きまくった。
陽一だって苦渋の決断どころか断腸の思いをしているはずなのに、りらは泣いた。
子供はまた作れる、きっと香紀の生まれ変わりを授かると陽一は言い続けた。何の根拠もないと言えば否定はできないが、それだけが彼らの慰めなのだ。それに、オオクニヌシの縁結びの力がこういう運命をもたらしたのだとしたら、我が子が七世紀の飛鳥に存在することに意味が与えられているのかもしれなかった。
「あなたは出雲の神様の子孫だよ。オオクニヌシが守ってくれるからね」
娘のできたての大福みたいなほっぺを軽くつつきながら、りらは呟いた。まだ一ヶ月も経ってないのに……
飛鳥宮を出て五時間ちょっと。ようやく宮滝の吉野宮に到着した。気のきいた女孺たちが湯を沸かしてくれていたため、順番に風呂に入ることができた。夕食もきちんと整っている。
皆でそろって食事をいただいていると、突然すすり泣く声が聞こえてきた。
「貴子……」
「ご、ごめんなさい。色んな気持ちが…… 今までのこと考えてたらみんなの顔を思い出しちゃって……」
初めてオオシアマとサララに出会った時のこと、竜成には「君が冷静で助かるよ」と言われたが内心、これ以上ないほど混乱して初めの一ヶ月は毎晩涙を流していたこと、そのうちトヨハヤやシヒと親しくなり、風光明媚な琵琶湖のほとりで弓と乗馬の稽古をしたこと。潤と引き離されてしまい、何度運命を呪ったことか。そして、潤と再会し安心したのもつかの間、仲良くなった美輝と潤の関係に気づき、恋の苦しみを味わった。
「みんなと離れるのはすごくつらいのに、帰れるかどうかわからないことも怖いの」
「あぁ、わかるよ。俺もそう思うから」
色白だった肌が真夏の戦で焼けてしまい、未だに元に戻っていない貴子の手を、潤は強く握りしめた。短かった髪の毛も結い上げられるほど長くなり、結び目のあたりに翡翠玉が飾られたかんざしが刺さっていた。実は大津宮や飛鳥宮で兵衛や武官として勤務していた時、きちんと給料が支払われていた。それで市場に出掛けた時に貴子に買ってプレゼントしたものだ。
朝起きて出勤して働いて、終われば市場で買い物をして、たまの休日には馬で近郊に遊びにいく。給料が入ればちょっと良い食事をする。そう、見る景色は違うが、七世紀も二十一世紀も人々の生活はたいして変わらないということを知った。愛に喜び愛に苦しむことも同じだった。
「私もみんなと別れるのが、つらいわ」
もらい泣きした皇后が呟くと、関を切ったようにその場にいた女性たちが泣き出した。ただ、りらだけが深く息を吸い涙を堪えた。
「君たちが帰れるのかここに留まらなければならないのか、全て、オオクニヌシの力次第だ」
オオシアマは瞳を閉じた。
自分がこの国の主になる日が来るなど、考えたこともなかった。ヤマトの人質――。それが彼に与えられた役割だった。それはつまり、死ぬまでヤマトの大王の日陰を歩き、その子孫のために尽くすことを意味した。オオシアマはいつしか人質生活に慣れ、兄の娘を複数妻にもらい、大王家を微力ながら支える人生を送るつもりでいた。
しかし、人生の歯車がカチリと外れた瞬間が来た。未来からの旅人、タカコとタツナリを淡海湖のほとりで拾った時が、見えざる手により歯車が押し退けたれた時だった。
そしてオオシアマは、クシナダヒメの勾玉とオロチの耳飾りを引っ提げてやってきた若者たちのお告げを受け入れ立ち上がった。ヤマトの人質、大王家の後見人という仮面を脱ぎ捨てて。
「本当に、オオクニヌシの御心が決めることなんだ――」
今度は自分に言い聞かせるように、オオシアマは再び呟いた。
幅のある平らな筆でさっとなぞったかのような羽扇の形をした雲が空を飾っていた。
美輝は珍しく人より早起きして、夜明け前からずっと裏庭が眺められる小部屋で何をするわけでもなく寝転がっていた。裏庭の人工池の縁に植えられた桜の木は少しだけ成長した。
「バイバイ、古代の空、桜、鳥……」
そして、古代の王子様。
肌寒いので毛織の外套にくるまり、さらに首にエメラルドグリーンの領巾をぐるぐるに巻き付けた。柔らかな肌触りを愛おしいむようにそっと指先で撫で、これを贈ってくれた男を追憶する。彼の身分は新羅太子。
ね、何であなたは外国の王様になる人だったの……?
他の誰よりも矜持高く、自信に溢れた眼差しは美輝が知らなかったものだ。孝恭と同じ立場のオオシアマも自信満々の態度をとるのだが、彼は長らく日陰者扱いされていたので、どことなく適当さがつきまとっていた。それが戦略的な態度の現れだとしても、孝恭の真摯で激しい情熱とは別物だった。
孝恭とは結局、二回だけ口づけを交わしただけの仲で終わってしまったが、それゆえに日々恋しさが増してくる。竜成はこの世界に留まると言っていた。自分もそうして、新羅に渡れば良かったのだろうか。
「でも、何人も奥さんがいるし、私なんて格下だって言われたしな。そんなの絶対嫌だもん」
それは意外と乙女心を大事にする美輝の譲れない点だった。だから未来で新羅の太子を見つけて、私だけを愛してくれるって誓わせなきゃ。孝恭みたいな人を、ではない。彼そのものを二十一世紀で見つけるのだ。
宵の明星の隣を、流れ星が弾けて駆け抜けていった。
古代でのおそらく最後の朝食を済ませると、オオシアマの指示で皆は西の杵築大社と東の伊勢神宮を遥拝した。全ては神々の采配なのだから――。
「雲が一かけらもない。大雨は期待しない方がいいぞ」
空をぐるっと見渡したオオシアマは苦笑した。標高の高い山ならともかく、それほど高い位置にあるわけではない吉野宮付近の天候が急激に変わるなどあり得ない。
夢のわだの周囲の岩は白く、川の流れは澄んだ翡翠色をしている。いつ見ても心が奪われると、サララは藍色の淵に惹きつけられた。
「とりあえず、夢のわだに一番近い岩場まで行こう」
吉野川は現代でもそうだが、夏になると川遊びができるような場所だ。適度に広がった川原があり、川には簡単に入ることができる。
問題は神の依代を見つけることだ。ここに、明らかに神域として注連縄で囲まれた場所や岩や木は存在しない。ただ、注連縄がなくても神聖な空間であるということは感じられた。
陽一はその場にいた全員を一人一人じっくりと目に焼き付けた。不思議な景色だ。古代の天皇と皇后、側近たち、謡女…… 身分がばらばらの人たちが、こうして未来からやってきた若者を見送りに吉野に足を運んだのだ。
視線を左に移すと、潤がしゃがんで手を川に浸している。そして、手を抜きだし、腕事振って水滴を落とす。
「これくらいなら、まだ入れるな」
「入れるって、まさか川に?」
「うん。流れも緩いし比較的浅いから大丈夫だろ」
その言葉にりらたちが一気に不安げな表情に変わった。それはそうだろう、水に入るなんて想定外だ。しかも絶対冷たいに決まってる。もうすぐ本格的に秋も深まる頃なのだ。
だが、潤は一人で行動を開始した。衣を脱ぎ、褌のみになるとこう言った。
「みんな、勾玉貸して。俺が夢のわだの近くに勾玉を持っていって、適当な場所に祀ってみるよ」
確かに夢のわだのすぐ近くにも岩場がせり出していて、その横を象の小川が下ってくるようになっている。残ると宣言した竜成以外の全員が、無言で勾玉を差し出した。潤はしっかりと首からかけると、そろりと川に入り泳ぎだした。
「潤くん、気を付けて!」
慎重に岩場に這い上がる潤に貴子は思わず声を掛けた。潤はそれに応えて軽く片手を挙げる。潤はゆっくりと岩場の上を歩き、勾玉を祀ることができそうな場所を探しているようだ。その時、潤の動きが止まった。
「どうした、潤!?」
陽一は急に不安になり力いっぱい叫んだ。だが、潤はそれには反応せずに何かを見つめて前に歩いていく。
「ねぇ、どうしちゃったの、潤くん」
貴子もそわそわと陽一に問いかけたが、全く状況はわからない。対岸から再び潤を呼ぶと、ようやく返事が返ってきたがそれは思わぬ内容だった。
「ここに、小さいけど、祠がある!」
誰かが息を飲む音が聞こえた。清流探しに出かけた時、夢のわだ付近に来たこと来たのだが、遠くから確認しただけでそんな奥深くに祠があることなど気がつかなかった。だが、やはりここがクシナダヒメの言っていた時空を支配できる場所の一つなのだ。
「あんな場所に、祠があるなんて聞いたことなかったぞ」
オオシアマは首を傾げた。吉野宮と吉野山は王族の直轄地であり続けたから、そういう祭祀場所は把握しているはずなのに、今まで誰も思い出さなかったなどおかしい。だが、祠があるというのは事実だ。
「あんな場所の祠…… 国栖たちが勝手に作ってしまったのかしら」
管理を任せてある国栖なら地形に詳しいし、吉野山を仙界の入口だと強く信じているため、小さな祠くらい設置してしまうかもしれない。サララはそう推測したが、真相はわからない。
「じゃあ、勾玉を捧げるよ!」
潤は五つの勾玉を皆に見えるように掲げ持ち、奥にあるらしい祠に恐る恐る置いた。
対岸ではりらは香紀をぎゅっと手放さないように抱きしめた。一億分の一でも奇跡が起きて、香紀も共に、家族三人揃って現代に戻れることをひたすら願う。美輝は孝恭にもらった領巾を握った。千三百年の時を経て、もう一度、新羅太子に会いたい。
沈黙が続き、ただ川の流れる音が耳に入ってくる。だがいくら待っても何も起こらない。何も――。
「やっぱりダメか……」
そう都合よく帰ることなんてできないのだ。今日はオオクニヌシのやる気がないのかもしれないし、夢のわだではないのかもしれない。
潤は仕方なく勾玉を回収し、再び岩場を下りて仲間のいる対岸に向かって泳いだ。冬のような冷たさではないが、濡れた身を外気にさらしているので相当体が冷えてしまった。まだ水の中を泳いでいた方が暖かい。
「悪かったな、期待させて」
「何言ってんだよ、俺たちこそ潤だけ泳がせて申し訳ない」
潤と陽一が互いに短く慰め合い、固唾を飲んで見守っていたヒロが潤に布を手渡した。体を拭き終ると潤は貴子から衣を受け取って身につけた。これでいくらかはましだ。
りらは赤ん坊をしっかり抱えたまま吉野川を見つめていた。何も起こらなくて、がっかりしたような、ほっとしたような、そんな表情だ。陽一は妻を子供ごと抱き寄せた。現代にいた時のように飾り気なく、珊瑚朱の衣と鮮やかな紺碧の裳だけをまとっているりらは以前にはなかった愁いを帯びて一層美しく見えた。
美しくないはずがない。命がけで香紀を生んだのだ、この女性は。出産直後のりらを見て、自分の妻は女神に違いないと思ったことは今でも正しいと信じている。
――アレオトメ。神と人を繋ぐ神聖な女。
オオシアマがりらをそう呼んだ訳がようやくわかった気がした。そして、陽一は神の依代が本当は何だったのかを悟った。
「みんな、勾玉をりらさんの首にかけて!」
言うなり、陽一はりらの首に勾玉が結ばれた紐を通し、仲間にも促した。その場から少し離れていた竜成も自分の首から琥珀の勾玉を外し、親友の妻に渡した。
「どうして? 残るんじゃないの?」
「香紀ちゃんの分ってことにして。一緒に帰れることを諦めちゃダメだよ」
竜成は未来への帰路を完全に手放した。陽一に手伝ってもらいながらりらは最後に竜成から受け取った勾玉を身につけた。琥珀の勾玉と瑠璃色の勾玉がカチンと軽く触れあった瞬間、香紀が泣き出した。だだっ広い川原に響き渡るほどの大きな泣き声で、両目からたっぷりと涙が溢れてくる。
「香紀、笑って。ね、いい子だから。一緒に隅田川のおうちに帰ろう。香紀、愛してる。愛してる、私の娘……!」
小さな瞳から流れ出た大粒の涙が、次々と勾玉に滴り落ちた。りらが赤ん坊を揺すってあやすたびに、涙は重力に従って勾玉に引き寄せられていく。
「りらさん、見て、勾玉が光り始めた!」
りらの胸元には蛍の光くらいの輝きが六つ浮かび、徐々に拡大していく。突然のことに驚いた香紀はいつの間にか泣き声を収め、微かに口元に笑いをたたえて光の行先を見つめた。
夢のわだが光の指す方向だった。淵の水飛沫と光が幻想的に混じり合うと、八重垣神社の鏡池が左右に割れたのと同じように、淵が裂けていった。
「地下道が見える!」
貴子は喜びの声を上げた。これで本当に帰ることができるのだ。
陽一はりらの手を引いて、前に進んだ。川はすっかり割れてしまって、こちら側の岩場にも道が繋がった。
時空を支配するこの道を開いたのは、陽一の愛する二人だった。神の依代は岩でも木でもなく、妻のりら自身だった。清流は吉野川でも夢のわだでもなく、娘の香紀の涙だった。もしも本当にこの世の縁を支配するオオクニヌシの力が勾玉に宿っているのなら、この組み合わせは最高にオオクニヌシらしいと、陽一は思った。
ここが夢のわだの中心部だ。もう目の前はどんな風に道が繋がっているのかもわからないほど漆黒の闇に包まれている。
「さあ、行け、未来からの旅人たち。君たちの名は、出雲王国の正しい記憶を呼び起こし、日の照る海の国を取り戻した者として、俺の歴史書に記しておく。共に大和と戦った日々を、俺もサララも決して忘れはしない」
「オオクニヌシとオオヒルメの歴史、楽しみにしてるよ。途中までしか手伝えなかったけど。未来に帰ったらちゃんと読んでみるから」
オオシアマは大きく頷いた。そして、自分の耳たぶをつんと叩いた。すり替えられたオロチの耳飾りが弾かれて揺れる。その意味を察した潤が答えた。
「大丈夫、俺たちは君がこれから作ろうとしている国を、絶対に守る。もちろん国だけじゃなくて、恋人や妻のこともね」
潤はもう一度貴子の手をしっかり握り直した。
サララは思わず美輝を抱き締めた。あたし、皇后とハグしてる! すごい! お別れの時間なのに、妙に変なことで感心してしまって口元が緩んだ。サララが美輝から離れると次はシュナが思い切り抱きついてきた。
「ミキ、私のこと忘れないでね。一緒にお稽古したり、遊びに行ったり、すっごく楽しかった」
「あたしも。シュナは竜成と幸せになってね」
「うん。ミキは未来の新羅の太子妃だもんね。ふふ」
二十一世紀にはたぶん新羅という国はなかったかもしれないけど、そういうことにしておこう。
「お元気で」
陽一たちは順番に、ヒロ、チトコ、トヨハヤ、シヒと握手を交わした。思えば古代の生活を乗り切ることができたのは、彼らの根気強い指導や親切のおかげだった。
初めに潤と貴子が暗闇に消えた。次に美輝。そして、陽一が続く。最後にりらは香紀を腕に抱き、後ろを振り返りつつ夢のわだの奥深くへ歩んだ。竜成はその暗闇と古代の狭間に立ち、しばらく仲間の気配を見送っていた。
何度も何度もこちらを見ながら去っていった女人は、オオシアマとサララの運命を変えた。オオクニヌシの国をこの目で見てきたという彼女の語りがなければ、オオシアマの中つ国奪還は存在し得なかったのだ。
「俺たちは救われたんだな」
「……あら、誰に?」
オオシアマはサララにささやいた。
「不思議な女人。ヒエダのアレオトメにさ」
【最終章へ続く】




