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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
いにしへにありけむ人も我がごとか
29/31

第11章 <2>

 無性にかき氷が食べたい、と陽一は思った。甘いものはそんなに好きではないが、抹茶のシロップがたっぷりかかったかき氷なら喜んで食べる。クーラーどころか扇風機もない七世紀、かろうじて使えるのは団扇だが、いい加減腕が疲れる。

「私、千手観音になりたい」

 丁寧に組まれた蓙に座って団扇で扇いでいるりらがぽつりと呟いたのを聞いて、陽一は暑さでとうとう古代の思考に毒され始めたのかと驚いたが、りらはただ、手がたくさんあったら団扇を使える手が増えるよねと言いたかったのだ。

「その考えはなかったね……」

 一瞬、妻が千手観音になった姿を想像しかけて、慌てて空想を掻き消した。それはともかく、りらの腹部はまんまるとして子が順調に成長していることがわかる。相変わらず、母親も健康そうだ。蒸し暑いと言っても、二十一世紀の異常な亜熱帯的な気候ではなく、影のある縁側で寝そべっていれば何とかなった。

 陽一は部屋に二つある小さな檜の箪笥の片方に視線を送った。陽一の小物入れだ。引き出しの奥には誰にも見つからないように絹の小袋に入れたある装飾品がしまわれていた。

 現代に戻るまで、りらにすら知られてはいけない二つで一セットの装飾品は、実は手元に片方しかない。もう一方は潤が保管している。

 事の発端は、りらに依り憑いたクシナダヒメの言葉であった。


「私、ちゃんとこの耳で聞いたの! 後継者に相応しいと思う子にオロチの耳飾りをつけさせなさいって、クシナダヒメが言ってたのよ!」

 内安殿の一室で、サララは夫に訴えた。

「別に君の話を疑ってるわけじゃないだろ。俺は即位したばかりで、まだどの子も成人とはほど遠い。それなのに、今から後継者を決めてこの耳飾りを譲るのか? いつかはそうするが、後継者を選ぶ時間はたくさんあるべきだ」

 兄カヅラキとうまく協力して統治に関わっていた頃、どの子が跡を継いでも遜色ないように配慮していたし、今でもオオシアマは後継問題は白紙のままにしていた。子の伸び代は凄まじいものがあるし、事情が急に変わることもあり得るのだ。

「仮に耳飾りを今にでも子に譲ったとしてどうなる? クシナダヒメはその先のことは何か言ってたのか?」

「それは……」

「そもそも、この耳飾りはオオクニヌシの代から必ず出雲の王に受け継がれてきたんだから焦ることはないさ」

 サララはこの耳飾りを王の証だと思っているようだが、オオシアマはきっかけに過ぎないと思っていた。

 オオクニヌシの国を復活させるという夢は、オオトモ王子を倒したことで完成したのではない。それには長い年月がかかるだろうということを、オオシアマは理解していた。

「サララ、俺は太陽と海の恵みを知っていたオオクニヌシに率いられた出雲王国をこの秋津洲あきつしまに取り戻すには、王つまり天皇にオオクニヌシの血が流れているかどうかよりも重要なことがあると思ってる」

「血統を守るために戦ってきたんじゃないの?」

「それもあるけど、俺は既にタカラ大王の血が混じってる。クサカベには君を通してカヅラキ大王の血も…… クサカベとアエの子だってそうだろう? もし王の血で国が成り立つのなら、それはとても脆いものだ」

「……ええ、確かにそうだわ。誰も王を継ぐ者がいない場合は、本当にそれでオオクニヌシの国はなくなってしまう」

 再び冷静さを取り戻したサララは真剣に夫の顔を見つめた。私は何か勘違いをしていたのかもしれない……。

「俺はオオクニヌシの統べる国を復活させたいと願ってきたが、その血が全てだとは一度も言った覚えはないよ」

 そう、そうだった。血統を優先させようとしてたのは、他ならぬサララの父カヅラキではなかったか。

 オオシアマは美しい妻の黒く艶やかな髪を一房すくい取った。夏場にもかかわらず、爽やかな香の匂いが微かにする。

「俺はこの国に、たとえオオクニヌシの子孫が絶えてもその力を永遠に残すにはどうしたらいいか考えてきた。太陽と海の島々が容易く揺らがないように」

 その後、オオシアマは内々にチトコを通じて宮内官作物所つくもどころの一流の細工師を呼びつけた。天皇から直々に召された細工師はびっくり仰天して、いつものよれよれの作業着から滅多に袖を通さない朝服に着替え参上した。

「突然すまないな。これは他言無用の依頼だが、引き受けてくれるか?」

「はっ、秘密は絶対お守り申し上げます」

 細工師が額を床に擦り付けるように深々と平伏すると、オオシアマはある装飾品を高坏に乗せて差し出した。

「これをそっくり模倣してくれ」

 それからひと月ほど経っただろうか、細工師が恐る恐る完成品を奉納すると、オオシアマは「よくできたものだ」と感心しながら呟き、新しい仕事道具一式と絁十五疋を下賜した。

 この夜、オオシアマは潤と陽一を二人一緒に呼んだ。

 振る舞われた酒と肴に舌鼓を打っていると、オオシアマが小さな絹の袋をそれぞれに放り投げた。慌てて空中でキャッチする。潤の袋は青藍、陽一のは濃紅の色だ。

「これは?」

「開けてみてくれ。君たちにそれぞれ持っててほしい。未来に持ち帰ってくれってことだよ」

 細い組紐をほどき、中身を確認した二人は顔を見合わせた。

「俺たちが持ってていい代物じゃないよな?」

「オオシアマ! これ、オロチの耳飾りじゃないか!」

「そうだよ。正真正銘のやつだ」

 さらに驚くべきことに、オオシアマの両耳には同じように耳飾りが眩く揺れていた。

 これがあの細工師に極秘で作らせた耳飾りだ。サララにもすり替えたことは告げていない。

「出雲の心を持つ未来の若者が、どうしてこのオオクニヌシから続く耳飾りを持ってちゃいけないんだい?」

 オオシアマはにやりと笑ったが、陽一にはにわかに信じられなかった。出雲の王が受け継いできたものを、オオシアマはあっさり手放した。

「ヨウイチ、俺はもう出雲の王ではないよ」

「ああ。……日の本の天皇だね」

「そういうことだ」

 つまり、オオシアマにとって自分こそが始まりであり、新しい国を作るためにオロチの耳飾りを手元に置いておく必要はなかった。今度はオオシアマが子孫に何かを残す番だ。

「俺は血よりも、王の物証よりも、葦原瑞穂の国そのものを残したい」

 目を閉じれば、沈み行く太陽の散らす光が波間を駆け巡り、沖には漁民を乗せた小舟が行き交っている。それはオオシアマが子供の頃から親しんだ海人族の風景だった。

「まだ始まったばかりだ、俺の国は。オオヒルメ大神を太陽の神として伊勢に祭ったのは、葦原の国の民の記憶に残ってるからだ。……あ、酒が足りないな。誰か、酒を頼む! ……再び、民は太古のように太陽の神に祈るようになるだろう。時間がかかるだろうが、皆が共通の神を仰ぐことでこの国は一つになる」

 オオシアマは女孺が運んできた追加の酒を杯に注ぎ、潤と陽一に回した。天皇自らの酌など滅多にあるものではない。

「いただきます」

「俺、ここの酒、結構好きだな。余計な味がしないから」

 潤は一般的な自衛官の例に漏れずよく飲む。実は貴子も深窓の令嬢のごとき見た目からは想像できないが、酒豪だった。だが、りらが妊娠したことが判明してからは友人に付き合って、酒を控えているらしい。

「じゃあ、後はタカミムスヒを拝んでた豪族をどうするかだよな。恨まれないかなぁ」

「そうそう、俺も思った!」

 陽一は酒の量を控えているが、あとの二人はペースを落とさない。それでいて、思考回路に差しさわりがなさそうなのは、驚異である。

「タカミムスヒを祀ってきたっていうのは、ヤマト直属の豪族ってことかな」

 陽一の言葉に、オオシアマは頷いた。

「誰だと思う? 大伴氏、物部氏、中臣氏、佐伯氏、忌部氏、蘇我氏、巨勢氏、紀氏…… こういった氏族がヤマトの中核だった」

 現代からやってきた陽一や潤が聞いても、名だたる豪族だということはわかる。だが、新しくオオヒルメを伊勢に祀ることに、今のところ表だって反発できる豪族がいないということに陽一は気づいた。

「大伴って、吹負も御行も安麻呂も戦の時、オオシアマ軍で戦ってたね。今は、それぞれ要職に就いてる。物部氏は、側近の麻呂だろ。中臣は金は処刑してしまったし、今の筆頭の大嶋や史はまだ若くてどうこう言える立場じゃない。蘇我氏と巨勢氏の筆頭は流罪。あ、あと紀氏は大人と阿閉麻呂がこちらの味方だね。それに、忌部子首こびとは吹負の部隊で飛鳥宮を防衛……」

「佐伯大目は、父親がカヅラキ兄さんの側近の一人だったにも関わらず、俺を選んだ」

 じわじわと敵の退路を断つようなやり方だと潤はぞっとした。全てオオシアマの計算通りというまではいかないとしても、有利な状況であることは間違いない。

 オオシアマは「改革」がじっくり根を張ることができるように、事は急がないことにしていた。急進的な改革ほど短命なものはないからだ。

「そのうち支配層の秩序を組み替えようと思ってる」

「どういうこと?」

「カバネというのはわかるよな? 未来にも存在するだろう?」

「え、臣とか連とかグループ…… じゃなかった、同族の集団を表すものだよね。俺たちの時代にはもうそういう呼び方はないけど」

「ないのか。じゃあ、どうやって同族か区別するんだ?」

 氏の後ろにかばねがつくことがまずある種の地位の高さを示していた時代の人間からすると、姓が存在しないことは奇妙以外の何ものでもなかった。

「姓って確か、大王とどういう関係があるかも示すんだよね。つまり、未来の日本では大王、っていうか天皇との関係なんか別に誰も気にしないんだよ。あっ、簡単に言うと、氏がわかれば十分っていうか、究極的には名が一番大事なのかも」

「全くわからんな……」

 オオシアマは苦笑いをしながらお手上げの仕草をしてみせた。そして、自分の構想の続きを話す。

「まだ詳細を詰めているわけではないが、高天原とよりつながりの深い姓を格下げして、中つ国とつながりの深い姓を上位に並べ替えようかと思ってる」

「順位を入れ替えるだけ? どうせなら、新しい姓とか作っちゃえば? その方がオオシアマらしさが出せると思うなぁ」

 ほとんど日本史の知識がない潤が何気なく適当に言ってみた提案は、後にオオシアマの構想の肥やしとなり、八色の姓と呼ばれる新制度を生み出すことになったのである。

――オロチの耳飾りは大切に持ち帰ってほしい。

 オオシアマはその時随分と真剣な眼差しで、陽一と潤に言った。そして、無事に未来に戻るまで、りらや貴子にもその存在は秘するように、とも。入れ替えたことが女性たちの口からうっかり判明したら、サララは大騒ぎするに違いないから。オオシアマ以上にクシナダヒメの存在と告げ事を金科玉条のごとく信じているのだ。

 陽一は視線を檜の箪笥から妻に移した。

結局、竜成たちが筑紫に帰って来た時には、りらの妊娠が判明していて、何やかんや忙しかったこともあり、結婚式というか披露宴は行われずじまいだった。それでも、飛鳥宮の誰もがりらが陽一の妻、桧枝刀自であると知っている。

「また、吉野に行きたいなぁ。私、一度もあの山に登って桜を見てないし」

「おまけに、クシナダヒメが降臨しちゃったしね」

 りらは大きなお腹を優しく撫でながら言った。

「クシナダヒメと一瞬同居したから、この子はきっと美人の女の子だね」

「いやー、結構、強くお腹を蹴ったり動いたりしてるから、男の子じゃないか」

 古代では当然、胎児の性別を判断する手段はない。だからこそ、互いに推測し合う時間がものすごく幸せだった。


 八月に入り、戦でオオシアマの本拠地となった東国を巡回し、伊賀国に滞在していた紀阿閉麻呂や置始菟らに戦の功労を讃えた詔が発出され、恩賞が与えられた。大和方面の将軍としての阿閉麻呂の援護がなければ、大伴吹負の軍勢は敗走したままであったに違いない。

 飛鳥から遠く離れた伊賀の地で、阿閉麻呂と菟は大いに喜び合った。

「主上から特別に褒美をいただけるなんて! 夢かな」

「死んでも悔いはないな」

 この夜、伊賀の評家で地元の役人たちとささやかな祝杯を交わした阿閉麻呂は、半年後、坂本財よりも年若くして、帰らぬ人となった。人生の情熱をオオシアマの勝利に捧げた男だった。

 八月二十五日、大宰府ではオオシアマの明確な方針に基づく外交が行われていた。栗隈王は飛鳥からの指示に一通り目を通すと、「主上は何とも大胆でいらっしゃる」と笑った。

 午前中、栗隈王は大宰府正殿で耽羅国の使者と対面した。使者の長は王子の久麻藝クマイェと言う。

「耽羅国王子を三人も遣わしていただき、我が国の天皇は歓迎されております」

「では、お目通りが叶うのでしょうか?」

 長いこと筑紫館に留め置かれていた王子らは顔を輝かせた。せっかく王からの命で異国にやって来たというのに、手土産なしでは帰るに帰れない。しかし、喜んだのもつかの間、大宰率は耽羅の使者の前に壁を作り出した。

「主上は新たに中つ国を平定されました。そしてこの国で初めて即位されたのです。ゆえに、即位の祝賀使を除いては外国からの使者はお召しになりません」

「し、しかし!」

「……じきに寒くなります。耽羅と我が国は近接しているとはいえ、波が荒れ、長くこちらに滞在すれば気がかりとなるでしょうから、今回は速やかに帰国されるのがよろしいかと」

 栗隈王は深々と頭を下げた。言葉は丁寧だが、体の良い追い出しである。耽羅の使者たちは互いに顔を見合わせた。いくら祝いの言葉と献上品を持参しなかったからと言って、この仕打ちはあんまりだ。王子の一人、都羅トラは激しく抗議をした。しかし、大宰率」は頑として頭を下げたまま、無言を通している。

「このままでは我らは国王に顔向けできぬ」

 久麻藝は苦渋に満ちた顔で声を絞り出した。ようやく栗隈王は面を上げて、「おまけ」があることを告げた。

「日本国天皇は、貴殿ら王子三名と貴国王に我が国の冠位を授けると仰られました。位は大乙上。百済の佐平チャピョンに該当するかと存じます。こちらを賜るように……」

 傍に控えていた役人が、冠を掲げて栗隈王に手渡した。格下の冠位ではあるが、豪奢な錦繍にしきぬいもので飾られた冠である。

「……では、謹んで日本国の冠位を賜ります」

 久麻藝は美しく繊細に飾られた冠をその両手にいただいた。ここで拒否すれば、天皇は激怒し外交問題に発展するのは目に見えている。オオシアマは相手方が拒否できない策を持ち出し、冠位を与えるという行為で耽羅国が日本国の配下に置かれていることを、かの国に認識させたのだ。

 午後になると栗隈王は新羅の使者、金承元を呼び寄せ、耽羅国への対応と真逆のことをやってのけた。つまり、オオシアマが新羅の祝賀使を饗応したいということを告げたのだ。

「まだ先の話ですが、おそらく難波宮で宴が行われると存じます」

「ありがたきこと。ご尊顔を拝することは叶いますか?」

 ふむ、と栗隈王はたくわえた立派な口髭を捻り、楽しげに笑った。

「それはどうでしょうか。博打大会をする、というのであれば喜んでお出ましになるやもしれませんね」

 なんと、天皇が博打! 新羅の使者はここが、似て非なる日本国であると改めて認識したのだった。


 場所は変わって、飛鳥。今日も空は飽きもせずに美しい蒼色を生み出し、ぽっかりと盛り上がった甘樫丘を覆っていた。

「あれが香久山か……」

 私服の鳶色の衣を着た二人の青年が、丘の頂上から既に見慣れたと言えるほどの時を過ごしてきた飛鳥を見下ろしている。

 心地よい秋風が彼らの髪をたなびかせた。仕事ではないので冠は被っておらず、胸部辺りまで長く伸びた髪を適当に髷にして括り、あとはそのまま垂らしているからだ。初めのうちは、この時代の男性が現代では通常はあり得ない髪の長さであることに戸惑い、非常に抵抗感があったが、もはや自分の姿を鏡で見ても何とも思わなくなってしまった。

「まだ、未来に戻ること、諦めてないのか」

 歩きながら、長身の竜成は時々、木の枝を掌で避けていく。そういう何気ないしぐさですら、この男は様になった。今では竜成はすっかり新羅人として半島の言葉を操り、高向麻呂と共に玄蕃部の主力を担っている。

 親友と比べて平凡さを自覚していた陽一はというと、意外と多忙であった。歴史書編纂と掛け持ちで、苑池のデザインを任されてしまい、内安殿と外安殿を行ったり来たりする日々だ。それはそれで楽しいと思う。

いつ現代に戻れるかわからないからといって、何もせずに待っているのも無駄な気がして、皆それぞれ今まで通りに過ごしていた。

「諦めてないよ。だから、ずっと元に戻る手掛かりがないか考えてる。で、ちょっと思いついたことがあるんだけど」

「うん?」

 木陰に入ると肌寒く、陽一は腕を組むようにして袍の中に両手を突っ込んだ。もう少し歩くと、また別の日当たりの良い場所だ。

「時空を超えた時のことを考えてみたんだ。最初の出雲大社では米軍ヘリの墜落事故から逃げる途中、階段から落ちて突然、イズモ王国に飛ばされた。着地点は斐伊川のほとりだった。高天原との戦で最後に俺たちは敵将に追い詰められて、その後気づいたら出雲大社の近くに戻ってた。イズモ王国では前が見えないほど大雨だった」

「俺と黒部さんの着地点は琵琶湖のほとりだったな。危うく溺れかけたよ」

「次にこっちの世界に飛ばされたのは、八重垣神社でだ。ひどい雨だった。でも、クシナダヒメが現れるとそこだけ晴れて、鏡池が割れて道ができた」

 何となく、行ったり来たりする時にはパターンがあるらしいことはわかった。切羽詰まった状況か、水が存在する状況が勾玉の力が発動するスイッチなのではないかと陽一は考えた。

「難しいな。追い詰められた状況なんて簡単に作り出せないし、そもそもそんな状況に置かれたくないね」

 とすると、果たしてクシナダヒメの言う清流なのかは不明だが、川や池を見つけて雨乞いでもするほかあるまい。

 ようやく視界が開けた。再び眩しいくらいの日の光が目に飛び込んでくる。二上山や葛城山がくっきりと展望できた。視線を下げると、丘の斜面に建物群が見える。今から三十年前には蘇我氏の大規模な軍事施設だったと言うが、乙巳の変で蝦夷と入鹿がこの世を去り、カル大王が難波に遷都してからは閑散としていた。さらに下方の丘のふもとには黄金の絨毯が延々と広がり、白い衣の農夫たちが稲刈りの真っ最中だ。

「確かに、出雲のオオクニヌシや近江のオオシアマに会うために飛ばされたのに、全然関係なさそうな静岡県とか高知県とかに着地しなかったし、お前たちが一旦帰れた時も、王国内からだったんだよな」

「そういうこと。王の力だって関係してるかもしれないだろ。だから、俺は一番あり得るのは吉野山だと思ってる」

 その推測は、恋人のシュナからさんざん吉野山の霊験と風光明媚な景色の話を聞かされてきた竜成にとっても納得できるものだった。

「ほら、この前、清流を探しに行った時、夢のわだってあったの覚えてる?」

 夢のわだというのは、きさの小川という澄んだ流れが吉野川に注ぎ、青い淵となっている場所のことだ。山の斜面を流れてくる小川が白い飛沫を上げ、翡翠色に輝く吉野川を表面を繊細なレースのように飾っている。

 竜成は夢のわだの名を聞き、何かを思い出したように胸元から例の勾玉を引っ張り出した。しかし、紐には勾玉だけでなく直径三、四センチの可愛らしい円形の板がぶら下がっていた。

「何、それ?」

 興味深げに覗き込んだ陽一は、そこに墨書された細かい漢字の列に戸惑うと同時に感心した。

――夢乃和太 事西在来 寤毛 見而来物乎 念四念者

よくこんな細かく書けるな。しかも、たどたどしいが明らかに柔らかい筆跡で、よく役所で目にする男性的な文字ではなかった。

「これ、吉野山マニアのシュナが作った歌なんだよ。あいつ、字の読み書きができないから知り合いの女官か誰かに教えてもらって書いたらしい」

「へぇ、それで竜成にくれたの?」

 読み方は忘れたが、だいたいの意味は、「夢のわだは夢じゃなくて現実になっちゃった、ずっと見たいと思い続けてたから」というようなものだと竜成が教えてくれた。たぶん、夢のわだを初めてみた時に感動したのだろう。

「なぁ、今さらだけどさ、俺、戻ろうか迷ってる」

 親友に背を向け、飛鳥宮を一望しながら竜成はぼそりと言った。

「は? 迷ってるって、古代人として生きたいってこと?」

「うん、まぁ、それでもいいかなと思う」

「考え直せよ。おじさんやおばさんはどうすんだよ。俺と旅行してたお前が、一人だけ行方不明なんて、どう説明したら――」

「別にうちの両親は息子のことなんて気にしてないと思うぜ。旅行のことも話してないし、仕事が忙しくて音信不通くらいにしか考えてないね。就職してから二年くらい連絡しなかった時期もあったし」

 伏見で韓国料理屋を営んでいる竜成の両親とは何度か会っている。竜成と一緒に京都に遊びに行くと、毎回、食べきれないほどの食事をごちそうしてくれた。親子関係が悪いわけではないが、竜成は高校生の頃から既に上京していた姉の元で暮らしていて、バイトで生活費を稼いでいたから仕送りもなく、疎遠になりがちと言えばそうだった。一人っ子で建築家と大学教授の両親の元で、あれこれ世話を焼かれつつ特に苦労なく育ってきた陽一は、そういう竜成の境遇が不思議でもあった。

「俺はなるべく早く帰りたい。さすがに両親も心配を通り越してるだろうし、りらさんのこともあるし、それに、未来でなきゃできない仕事を考え付いたし…… 竜成が帰らなくていい理由は、シュナだろ?」

 絶対に指摘されるだろうと思った竜成は、ようやく陽一と向かい合った。そして、首を横に振った。

「シュナと離れたくないのはその通りだよ。もっと早く簡単に戻れると思ってたから、遊びのつもりだった。でも、もう二年も一緒にいる。未来に帰ってもこんなに相性のいい女と巡り合えるかわからないと思う。それに、こっちでの外交の仕事が面白いってのが本音だ。新羅の太子には役人には向いてないって答えたけど、仕える人間が誰かで全然やりがいが違うってことがわかった」

 いつになく竜成は真剣な表情だった。

「もし、お前が飛鳥に留まるなら、俺たち永遠にお別れだな」

さっきから竜成の両親のことを心配していたが、その実、陽一は親友を失うことになることが最も気がかりで、怖かった。

「まぁ、そうなるね。つらいよ、俺だって」

 そう言ったきり、二人は押し黙ってしまった。そして、無言のまま丘を下り、蘇我氏の軍事施設の脇道を通ってふもとに到達すると、思いがけない人物が沿道に立っていた。女孺のトヨハヤだった。

「ヨウイチ、今すぐ宮に急いで。リラが陣痛を起こしてるの」

「えっ……」

「この馬に乗るのよ。私とタツナリは急ぎ足で徒歩で」

 臨月ということはわかっていたが、本当に生まれるその時は突然だ。陽一はトヨハヤが連れてきた馬に飛び乗り、その腹を勢いよく蹴った。


 しばらく前からりらのための産屋が宮中に設けられていた。出産は穢れと考えられていたので、あまり内安殿などに近い場所ではなく、普段寝泊まりしている宿舎の一画を利用することになった。

 部屋ははふりが行ってくれた祓いによって清められ、勾玉や鏡などで飾られた。一体全体、古代の出産方法はどのようなものだったのか。貴子はまずシヒから彼女自身の出産の様子を教えてもらい、次に助産師から話を聞いた。助産師たちは驚くほど若い女性で、大津宮でもカヅラキ大王の妃たちの出産に立ち会ったことがあると言っていた。

 分娩方法は何となく想像できたが、十中八九、衛生概念はないはずだと考えた貴子は、助産師たちに指示を出す前に、サララにこうお願いした。

「前にも話したと思うけれど、現代人はここの人たちと違ってもっと清潔に過ごしてるの。だから、菌に弱くて、少しの汚れでも感染症を起こしてしまうかもしれない。それを防ぐために色々指示を出すから、あなたから助産師たちに私の言うことに従うように言ってくれないかしら?」

「えーと、つまり、仙界の人々は私たちよりも繊細で穢れに反応しやすいということ?」

 サララには菌とか感染症とかいう言葉がわからなかったようだが、貴子の言いたいことを的確に理解してくれた。

「そう。今の言葉はとてもわかりやすかったから、助産師にもそれで説明して」

 こうして助産師たちは、主上が吉野山で出会った仙界の女人の指導を受け入れることになった。

 産屋の床と壁は高濃度のアルコール、つまりオオシアマの大好きな酒で拭き取り消毒され、綿布や助産師たちが着用する衣なども煮沸消毒を行った。

 陽一が甘樫丘から戻り、産屋に駆け付けると、全身真っ白な貴子に阻まれた。

「清潔に保ちたいから、ここから先は入らないでね。大丈夫、脈に異常はないし、顔色も悪くないから」

「あ、そ、そうか。よろしくお願いします」

 傍にいて手を握ってやりたいが、外出先からそのままやってきた人間は菌のかたまりのようなものである。さらに隣の部屋は待合室みたいになっていて、潤や美輝も落ち着かなそうにしている。オオシアマとサララは公務でこちらに来ることができないらしく、代わりにミナベとアエの母親であるメイが様子を伺いに来てくれた。メイだって、二人の娘を元気にこの世に産み落としたのだ。

「りらちゃん、長柄くんが来たよ。見える?」

 貴子が指さす方を見ると、夫が遠慮がちにこちらを覗いていた。痛みが治まっていたりらは、元気よく手を振った。

 ……そうだよ、りらさんは別に病気じゃないんだから、落ち着け自分。俺が動揺してどうするんだ。古代人だって、普通に出産してるじゃないか。

 漏刻台の太鼓が鳴った。甘樫丘から飛鳥宮に戻る途中に一回聞いてから三回目の太鼓だから、かれこれ六時間経ったということだ。既に夕餉の時間を過ぎており、陽一とメイ以外は退出している。まだ道のり半ばだから何か食べてきなさいよ、とメイに言われたものの、その場を離れる気分にはなれなかった。

 そして、陣痛の間隔が短くなり、助産師の一人が「頭が見えます」と言った。もう日付が変わろうとする頃だろうか。うつらうつらしかけた陽一だったが、助産師の一言で眠気が消滅してしまった。

「りらちゃん、もう少しよ。ちゃんと、出てきてるから」

 分娩に関しては完全に助産師やシヒに任せて、貴子はりらの汗をぬぐったり手を握ったりして励ましている。

 昔、現代にいた時、何かの文献で平安時代の出産について読んだことがあった陽一は、僧侶が外で延々と読経を上げたり、加持祈祷をしたり、出産しようとしている女性に物の怪が取り憑いたりするという恐ろしい光景を思い描いていたのだが、飛鳥宮ではごくシンプルな様子で安心していた。

 ひときわ大きく息を吐く音が聞こえると、それに続いて大音量の泣き声が産屋に拡散された。

「姫ですっ!」

 赤ん坊に負けないくらい大きな声で、シヒが叫んだ。それから貴子が部屋の入口にやってきた。

「何、ぼうっと立ってるのよ。お父さんだよって、顔見せてあげて」

 今、自分は何を言われたのだろうかと、一瞬戸惑ってしまうほど信じられない瞬間だった。

「陽一さん……」

 りらは穏やかに微笑んでいる。自分の妻がこれほど美しいと思ったことはなかった。披露しているだろうに、全身から輝く光が放たれているようで、この姿がまさに神々しいと言うのだ、と陽一は思った。

「よく、がんばったね。ありがとう。りらさんは女神だよ、本当に」

「うん。あっ、私が言った通り、女の子だったでしょ?」

 りらは視線を夫から離し、両手を宙に差し出した。きれいな柔らかい布に包まれた赤ん坊が、シヒの腕に抱かれている。失った我が子を思い出したのか、微笑みながらシヒの目には涙が浮かんでいた。

「半日で問題なく初産を終えられて、本当に良かったわ」

 シヒは赤ん坊をそっとりらの頭の横に寝かせた。勢いの良い泣き声は止み、この世界に出てから初めての安眠をむさぼっているようだ。


 その女の子は、「香紀かのり」と名付けられた。

 現代でよく使われる人名漢字を思いつくだけ並べて、木簡に記し、オオシアマとサララにその中から二文字を選んでもらった結果がこの名前だった。適当と言えば適当なのだが、天皇夫妻に命名してもらったのだから意味のある漢字ではある。

 赤ん坊はすぐさま飛鳥宮の人気者となった。とりわけ、若い女孺たちが仕事の合間にりらの部屋にやってきては、あやしたり、小さなてのひらをつついたりしていく。母親は迷惑がるどころか、一緒になって楽しんでいた。

 りらが宣言した通り、生まれて間もなくても香紀は成長したら美人になる要素が見て取れた。父親はとりわけハンサムというわけではなく、とりあえず害のなさそうな容貌だったから、どちらかと言うと母親に似ているのかもしれない。

 陽一はりらが美人だと思っているが、人目を引くような華やかさがあるわけではなかった。そういう顔立ちをしているのは貴子である。ただし貴子も化粧はごく控えめなので、むやみに異性を惑わすこともなかったが。とにかく、陽一は黒目の大きな娘が自分を見つめるたびに、ほくほくした気分になるのであった。

 妻の産後の回復も順調で、陽一は再び苑池の設計に取り掛かった。十日後に新羅の祝賀使を難波宮で饗応することになっており、その際に新しい苑池のデザインを披露したいとオオシアマが要望を出してきたのだ。

 数日間、木工部のある役所で夜なべをして大まかな図案を完成させた。陽一は緋色の袍の着用を許されるそこそこ高い身分だったが、やってることは現場の技術者と変わらず、物部麻呂から「私より冠位が高いのに働き過ぎですよ」と笑われたこともあった。

 一応完成させた図面を携えて、面会を申し込んだ時刻に内安殿に赴くと、いつものようにオオシアマとサララが陽一を待っていた。心なしか二人とも表情があまり快活ではない。政務の疲れが出ているのだろうか。

「向かって左が現在の苑池の図面で、右が今回新しく考えた方。今の苑池は角ばっているから、角を円く削りつつ、外側に向かって少し広げてみたんだ。そして、南北二つある池は渡堤で区切ってあるけど、この他にも橋をかけてみたらどうかな。噴水施設を置くこともできるし、池の縁に低い櫓みたいな展望台を建てることもできる」

 陽一は図面を指示しながら一気に説明をした。オオシアマの反応を伺うと、身を乗り出して真剣に聞いていて安心した。

「いいな、これ。曲線を取り入れたのはなかなかいい。今後は苑池で外国使節を饗応することも考えてるんだが、こうした形は新羅のものとよく似てる」

「そうなの? 全然知らなかったよ。外交使節に見せるなら、もっと壮大に造り変えてもいいかもね」

「ああ。基本はこの図案で改修しよう。細部は木工部の算師たちに考えさせる」

 オオシアマが満足してくれたところで陽一は退出しようとしたが、サララに呼び止められた。やはり浮かない顔をしていた。

「ねぇ、ヨウイチ。考えてほしいことがあるの」

 そう切り出したサララは、再び陽一が袍と袴を整えて座り直すと懸念を話し始めた。

「香紀のことよ。あの子も一緒に未来に帰ることができると思う?」

「え? そりゃ、だって、俺たちの子供だよ。連れて帰るよ。両親に説明する覚悟はできてるし、事情を話したら役所も戸籍手続きをちゃんとやってくれると思うし……」

 サララは肩にかけた落ち葉色の領巾を無意識にてのひらでなぞった。落ち着かない証拠だ。

「違うのよ。香紀にはクシナダヒメから与えられた勾玉がないでしょう? 私ね、クシナダヒメが言ってた言葉を勘違いしてたわ」

「どんな言葉?」

「勾玉が持ち主に欠けていれば力は発揮されない。そう言ってたんだけど、その時、私はりら自身の勾玉がなくなってしまったから絶対に探し出しなさいという意味だと思ってたの」

 その後、紆余曲折を経て無事にりらの勾玉が手元に戻ったため、サララはこの言葉をすっかり忘れていたのだが、生まれた赤ん坊も勾玉が欠けている状態ではないかと気づいたのだ。

「……つまり、香紀をこの時代に置いて帰らなきゃいけないってこと、だよね」

 クシナダヒメはなんという残酷な仕打ちを与えるのであろうか。愛する女性が自分の子を宿してから、その子が無事に天使のような姿で生れてくるまで、陽一はあまりにも幸せ過ぎて、何もかもがうまくいくものだとすっかり思い込んでしまった。要するに、浮かれっぱなしだったということだ。

「俺たちは、君やアレオトメがこの世界で香紀と共に暮らすことを選んでもそれを受け入れるし、賓客として歓迎する」

 ありがたい言葉だが、陽一は竜成と違って千三百年以上も昔の飛鳥に留まる意思はなかった。自分やりらの両親、それに老人ホームにいる祖父、ミニチュアダックスフントのマカロン、丹波ソリューションの同僚や上司、建築の仕事…… 全てが恋しかった。苦労してこちらの古代の生活に適合してきたけれども、苑池の水面に映し出された自分の朝服姿は、まるで何かの化身に見えた。

 宿舎に戻り、香紀が母乳を飲み終わってすやすや眠っている顔を見たとたん、怒りと悲しみが同時に沸き起こり、不審に思ったりらが声を掛けるまでその場に立ち尽くしてしまった。

「りらさん、話がある。香紀は誰かに見てもらって」

 夫のただならぬ様子を察知したりらは、女孺に赤ん坊を預けて居住まいを正した。

 ――そんなのって、ひどい。

 サララから指摘されたこと、そして陽一が自分で出した結論を言い終わるや否や、りらは泣き崩れた。

 香紀に勾玉が与えられていない以上、確実な選択肢は三つしかない。その一、三人とも古代飛鳥で生き続ける。その二、両親のどちらかが香紀と一緒に古代に残る。その三、陽一とりらだけ未来に戻る。もしくは、三人共に帰れる奇跡を信じて清流を求めるか。このうち陽一は、自分とりらのみを帰還させるという考えを伝えた。

「この子を置いていくなんて、できないよ! 陽一さんはこの子が必要ないっていうの!? そんな冷たい人だと思わなかった! 香紀は私たちの宝物でしょう!?」

 予想通り、りらは激しく夫を詰った。大学生の頃からりらを知っているが、彼女がこれほど負の感情を露わにして、誰かに言葉をぶつけるのを見たことがなかった。

「りらさん、もちろん香紀は俺たちの命よりも大切な子供だよ。俺だって悔しいよ。今ばかりはクシナダヒメを恨みたいと思うほどに。でもね、確実にあの子を守る方法があるとすれば、オオシアマに託して彼の子供として育ててもらうことじゃないかな」

 三人で一緒に飛鳥に残るという選択肢が最善のように思えるが、クシナダヒメは帰るためには勾玉が導いてくれるとはっきり言ったのだ。自分たちは期限付きでここに飛ばされた。だから、本来ならば古代に存在すべきではないと思う。だが、娘は元から古代に生まれた。彼女は果たして二十一世紀に受け入れてもらえるのだろうか。存在し得ないものとして、ある日突然、事故に遭い死んでしまうかもしれない。不確実な道を選ぶよりも、陽一は父親として娘を生かす可能性を追求した結果、香紀を置いていくという非情な選択をすることにした。

 記憶が正しければ天武天皇の治世に戦が起きたことはなかったし、その次には皇后の持統天皇が即位して八世紀初めに亡くなるまで太上天皇として影響力を持ち続けたという。

「つまりね、香紀が少なくとも三十歳になるまでは二人の天皇に保護してもらえるんだ」

「……時を超える時に、もしかしたら香紀は消えてしまう可能性があるの?」

 ようやく妻は嗚咽を押さえて、確かめるように陽一に問うた。

「そうだよ。考えてみて、俺たちが未来に戻れたとして、その日が最後に八重垣神社でクシナダヒメと会った日と全く同じだったら、そもそも香紀は存在してないよね」

 りらは小さく頷いた。しかし、動揺が収まらないらしく、よろよろと立ちあがって娘の名前を呼んだ。すると、すぐに預かってくれていた女孺仲間が香紀を連れてやって来た。りらの腕に赤ん坊がすっぽりとおさまると、りらはその存在を確かめるように頬ずりをしながら陽一の前を去った。少し考える時間が必要だ。

 陽一は香紀を守るためと言ったが、両親だけ元の世界に戻るのは、りらを守るためでもあった。もし出産中に問題が生じて、母体に危険が及ぶ状態になったとしたら、陽一は迷わずりらの命を救う方を選んだだろう。子はまたできるが、妻を失ったらそれで終わりだからだ。

 それにイザナキとイザナミの国生みでも、カグツチという火の神を産んだせいで死んでしまった妻のイザナミを追って、イザナキは黄泉の国まで赴いたではないか。しかもその時、父であるイザナキは怒りのあまり、子のカグツチを剣で殺している。

 子は手放しても妻は手放し得ないという選択が陽一のエゴだったとしても、結局は二人の存在を共に守る最善の策だということに変わりはなかった。

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