表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オペレーションくしなだ  作者: 木葉
いにしへにありけむ人も我がごとか
28/31

第11章 <1>

 本格的にオオヒルメ大神を日本国の最高神として祀り、天皇となった自分の先祖であることを知らしめるために、オオシアマが考案したことは、未婚の娘をオオヒルメ大神に仕えさせるというものだった。

「では、オオクをめかんなぎとして伊勢に遣ると、そういうこと?」

「その通り」

 オオシアマの計画はいつでも突拍子もなく、サララを困惑させる。姉と引き離され一人になってしまうオオツの心情が思いやられる。しかし、オオシアマはサララの心配を一蹴した。

「いつまでも姉にべたべたくっついてるわけにもいかんだろ。俺はクサカベもオオツも今後甘やかせるつもりはないぞ」

 サララはそっとため息をついた。

 オオクが巫の役割を果たすことになったのは、実は彼女自身の意思も含まれていた。

 オオシアマは即位すると数日後間もなく、娘を内安殿に呼び、優しく問いかけた。珍しいことに、父娘二人だけだ。

「お前は誰か心に思う背子はいるか?」

「え…… あの、どなたもいません」

 以前、アエやミナベと女の子どうしの話をした時と変わらない答えだ。

「私は、お父様とオオツが一番好きなの」

 ちょっとはにかんだ娘の言葉に、父親として最大の喜びを感じるとともに、為政者としても我が意を得たりと笑みがこぼれた。

「もし、お前に好きな男がいたら頼みを止めようと思ったが、父が一番だったら安心だ」

「頼み? 私にできる?」

「ああ、オオクがもう桑名でやってくれたことだよ」

 桑名――。美しい海辺で過ごした、真夏の苦しくも楽しい日々がオオクの胸に甦った。

 父の力になりたくて自分にできることを探し、それが太陽の女神に祈ることだと思い至った。天に、海に、一心不乱にオオヒルメに話しかけていると、女神が答えてくれた気がした。いつしかオオクの中で、オオヒルメは可憐さと美貌を兼ね備えた憧れの存在となっていた。

「また桑名に行くの?」

「いや、伊勢だよ。既に伊勢祠があることは知ってるね。お前の最初の仕事は、この国で最高の巫として、祠の神をタカミムスヒではなくて、オオヒルメ大神に祀り変えることだ」

 伊勢という言葉に、オオクの胸は高鳴った。桑名に滞在中、伊勢出身の女孺が「私の故郷は常世の国みたいに、すっごく海がきれいで、海岸を歩いていると天女になった心地がします。それに、海の幸が美味しいのですよ」と話してくれたのだ。

 そんな素敵な土地で、憧れのオオヒルメ大神のことを考えて過ごせるなんて、夢みたい。

「お父様、私に任せて! そのお役目は私じゃないとできないわ!」

 身を乗り出すように意気込みを表明した娘の瞳はきらきらと輝いていた。何か勘違いしてるのではと、逆に不安になったが、終身の役目だと告げてもオオクの決意は揺るがなかった。

「本当にそうだ。お前でないと務まらない大役だよ。日本国最高の巫が暮らすに相応しく、伊勢の斎宮を今よりもずっと立派なものにしようと思う。つらいことがあるかもしれないが、不自由はさせないように取り計らうし、ヤマト姫に同行願うつもりだ」

「え、おばあ様も一緒に?」

 オオクとオオツは母を亡くしてからヤマト姫の元で育てられてきたため、肉親も同然だった。ヤマト姫が共に暮らしてくれるのならオオクの不安はかなり軽減されるはずだ。オオシアマはこのために、ヤマト姫を飛鳥から遠ざけることをしなかったのだ。

「オオク、まだ少し先だが四月の吉日に出立してもらうよ。まずは一年間、泊瀬斎宮で心身を清めて、それから伊勢に下向する。いいね?」

「わかりました。あっ、でも、お父様、オオツはどうなるの? また会える?」

 今まで浮かれていて弟の存在を一時でも失念していた。しかし、姉として一番気がかりなのが弟の行く末だった。

「心配ないよ。オオツはいつもクサカベやタケチと一緒だからね。オオツもそろそろ己を鍛えていかなければならない歳だ。四月までできるだけ仲良く一緒に過ごしてあげなさい。伊勢に行くということは、オオヒルメ大神を一番に考えなきゃいけないってことだ。わかるね。オオツとは役目が終わるまでは、会えないと思いなさい」

 最後の父の言葉は、高揚していた心を鎮めるに十分なほど冷たく厳しくオオクの胸にのしかかってきた。

「……お父様、役目が終わる時って?」

「父が死んで新しく天皇が即位した場合や、オオクが巫に相応しくないことをした場合だよ」

「じゃあ、またいつオオツに会えるかはわからないのね」

「そうなるな。でも、お前は一人じゃない。時々、親族の女子を遣わそう。父が許せば、オオツを遣わすこともできる」

「はい」

 オオクは神妙に頷いた。

 オオツと一生会えないわけじゃないわ。オオツだって、もう赤ん坊じゃないんだし。それに、私は特別な娘だってお父様に選ばれたのよ。トオチだってお父様の娘だけど、お父様を嫌うようになってしまった彼女じゃ、このお役目は無理だもの。トオチはちゃんとオオトモ王子の妃だった。ミナベもアエも、早いうちから将来が決まってた。タケチとクサカベの妃になるって。私だけ、行先が決まってなかったの。お母様がいないからって思ってたけど、お父様が慕っているオオヒルメ大神をお祀りする役目を任せてもらえるなんて、私が一番特別だったんだわ。

 ずっとぽっかり空いていた心の隙間が、ようやく満たされた気がした。オオクは自らのうちに光を見出したのだった。


 やわらかな若葉が生い茂る沿道を、総勢三十名の仲間と共に、潤は武官の正装で颯爽と歩いていた。

 時々見せてもらった航空自衛官の制服姿もなかなかかっこいいと思っていたが、こちらの世界の服装に慣れてしまったせいか、貴子の目には武官の正装の方が見映えがした。

 武官団に挟まれるようにして進むのが、オオクを乗せた輿である。輿の正面は簾が下がっていて中は見えない。

「姉さん、僕を置いていくの?」

 飛鳥を発つ前日、姉弟は二人の時間を過ごしていた。オオツは言葉少なに姉に問いかけた。

「私は私の道を見つけたの。あなたを見捨てて置いていくわけじゃないんだから。お母様も私の巫の役目を望んでると思うわ」

「……そう、だね」

「オオツ、あなたは自分の道を歩いてね」

 と、オオクは半ば突き放すように弟に別れの挨拶を告げたという。幼くして母に死なれ、今また姉が神の元へと去っていく。伊勢の巫に選ばれた姉は、まるで惚れた男にのぼせ上がっているようだった、と後にオオツは振り返っている。そして、姉の最後の言葉は、成長し青年となったオオツの心の影となって、己の運命を狂わせていくことになるのであった。

 宮中を出て輿に乗り込むまでの短い間に、貴子はオオクの姿を見ることができた。長く初々しい髪を一つに束ね、繊細な黄金のかんざしが歩みを進めるたびに揺れた。この日のために仕立てられた緋色の裳と、白い袍にかけられたうっすらと透ける乳白色の領巾。紅が引かれた口元は、微かに笑みがこぼれていた。

 貴子が知る、己を小さな心に封印してきた物静かな少女の面影はどこにもなかった。

 飛鳥宮から泊瀬斎宮までは徒歩で二時間もかからない。その道中を兵衛や武官に守られながらゆっくりと進んでいく。オオクと親しかったミナベとアエ、最近再び皆に顔を見せるようになったトオチが輿を見上げて、オオクを見送った。

 その時、彼女たちがそれぞれ抱いていた思いは、さわさわと揺らぐ新緑だけが知っていた。


 一人の少女が飛鳥宮からいなくなった。それでも、宮中は変わらずに動いていく。

 大津宮で共に働いていた上司や先輩たちが新しい部署で堅実な仕事ぶりを発揮し、一掃された老年の幹部の穴埋めに勤しんでいる。

「そういや、オオシアマが新人を募集したけど、いつから来るんだろう?」

 竜成は朝服を脱ぎ、麻の動きやすい衣に着替えながら陽一に話しかけた。

 そろそろ嫌な長雨の季節が近づいてきた。残りわずかな晴天の日々を惜しむように、飛鳥の官人たちは仕事の終わりになると体を動かしに槻木の広場にやってくる。陽一も竜成もその例に漏れず、相変わらず徒歩打毬をしていた。このところ、徒歩打毬は打杖が放棄されて蹴球、つまりサッカーと化している。

 飛鳥寺の僧坊の一画が官人に開放されており、男子ばかりがたむろす部室かロッカールームのようだった。

「さぁ、応募があり次第じゃないの。官職に就けるなら正月に一斉に任命すると思うけど、たぶん違うよね」

 竜成が言及した新人の募集というのは、五月一日にオオシアマが出した詔のことだった。十五、六歳以上の諸臣や豪族の子弟で宮仕えを希望する者は、まず大舎人という雑用担当の下級役人から始めさせ、後にその才能に応じて配属を決めるというものだ。さらに、オオシアマは女子にも門戸を開いた。年齢も、未婚だろうが既婚だろうが関係なく、女官として勤めたい女子を受け入れ、選考は男子の役人に準じると定めた。新しい国造りをするには、今の人員では到底仕事が回らないのである。

「笑っちゃうよなぁ。だって、俺たち、もうこの世界で新人じゃないんだよ」

「……二年経つのか。未来はどうなってるんだろう。同じ速さで時が流れてたら、俺たちは二年も失踪してることになるね」

「ああ、失踪した場所が場所なだけに、神隠し扱いだな」

 陽一の準備運動が終わると二人は揃って広場に向かった。既に始めていた同僚たちに混ざり、軽く走り出す。

 その試合は陽一がいたチームが勝利した。まだウォーミングアップの域だ。再び同じメンバーで次の試合に移ろうと準備をしていると、この場に普段見かけない人物がこちらに向かって歩いてきた。

「おおい! 珍しいな、お前も着替えてこいよ! まだ始めたばかりだ」

 朝服のまま歩いてくる男に気づいた同僚が声をかけた。しかし、彼は無言のままだ。

「どうしたんだ、ワカオミ?」

 別の仲間も叫んだ。その人物は、エサカの弟ワカオミだった。表情がはっきりとわかるくらい近づいたその時、ワカオミは突如、左側の腰に右手をやりながら突進してきた。

 向かう先は、陽一だ。

「危ない! 避けろ!」

 きらりと日の光に反射したのは刀の刃だと気づいた瞬間、陽一は体に強い衝撃を感じた。天地がひっくり返り、体が二転、三転したらしいことはわかった。

「ワカオミ、何してるんだ!? 気でも触れたか!?」

 同僚の怒号が響き、ワカオミが「離せ! 俺はこいつを許せないんだ!」と叫びながら羽交い絞めにされた格好でもがいている。ワカオミの足元にははたき落された刀が横たわっていた。

「大丈夫か、陽一?」

「……なんとか。助かったよ、ありがとう」

 どうやら竜成が咄嗟に突き飛ばしてくれたおかげで、ワカオミの一撃を免れることができたらしい。親友の手を借りながら、陽一は立ち上がり、こちらを睨め付けているワカオミと対峙した。この様子では理由があるようだが、一体自分がワカオミに何をしたというのか。

「ワカオミ、どういうことか説明してくれよ。刀まで持ち出すくらいひどいことをした覚えはないんだけど」

「覚えがないって?」

 ワカオミの表情が一層剣呑に変わった。そして、ようやく消えかけていた、陽一の心の疼きの原因となった名前を口にした。

「桜児を死なせたのはお前だ」

「それは……」

「俺はあの時、桜児を敵陣から助け出すつもりだった。それができれば俺は死んでもいいと思ってた。そもそもお前が桜児を誑かして敵軍に差し出さなければ、あんなことにはならなかったんだっ!」

 言うなり、ワカオミは声にならない声を上げて膝を付き崩れた。

 何ということだ。罠が仕掛けられた瀬田橋を単身で果敢に突き進んだのは、オオシアマ軍のためではなく、ただ桜児を救いに行くためだったというのか。それを斬り込み兵だと勘違いしたオヨリが総攻撃を命じてしまい、結果として桜児は荒れ狂う戦場の犠牲となった。

呆然とする陽一に代わって、憐れみを湛えた竜成がワカオミに弁明を始めた。そう、桜児を騙してなんかいない、と陽一は言えるわけがなかった。

「お前、桜児に恋してたんだな。でも、残念ながら桜児は陽一を慕っていた。あの子は自分からオオシアマの参謀だった陽一の役に立とうとして瀬田橋を渡ったんだよ。だから、この男を責めるのはお門違いじゃないのか」

「嘘だ、嘘だ……」

 ワカオミは力なく拳を大地に打ちつけたが、桜児が陽一に惚れていたことは十分すぎるほど知っていた。何度、歌を送っても、愛の言葉を投げかけても、あの娘がワカオミに応えることはなかったのだから。

「ほら、立て。オオシアマ様の舎人がみっともないぞ」

 ワカオミからすれば先輩にあたる舎人が、腕を引き立たせようとした。あまりにも悲惨な姿を見て、竜成はふと思い出したことがあった。

「確か、オヨリが桜児の遺髪を川原寺に納めたてたと思うよ。他に形見の品を持ってなければ、それを少し譲り受けたらどうかな」

 するとワカオミは胸元から首にかけていた紐を手繰り寄せて、竜成に示した。

「……俺には、これがある」

 掌に乗っていたのは、瑠璃色の勾玉だった。

「おい、これ、どこで手に入れた!? 陽一、見てみろよ」

「ど、どこって、橋の付近で倒れてた桜児の首にかかってたから――」

「これは桜児のものじゃない。俺の妻の勾玉なんだ」


 久しぶりに内安殿に呼ばれた未来の若者たちは、相変わらず博打に熱中していた天皇に苦笑しつつ、出された食事を楽しんでいた。

「まさか、あのワカオミがな……」

 瀬田橋の突撃の真相と、失われたりらの勾玉の発見を聞き終わると、オオシアマは眉根を寄せてつぶやいた。その場に居合わせたわけではないが、軍を率いていたオヨリが絶賛していたほどの勇猛果敢ぶりが、実は好いた女人の救出のためだったとは。

 なぜ桜児がりらの勾玉を首からかけていたかという疑問は、あくまでも推測ではあるが、野上からこっそり抜け出してきた桜児が、戦場となっていた安河のほとりを通った時に、偶然、見つけたのだろうということになった。

「巡り巡ってまた私の元に戻ってきたんだね」

「クシナダヒメは、勾玉はそれを持つに相応しい人にしか持てないって言ってたっけ」

「これでなんとか未来に帰れる前提は整ったね」

 問題はいつどこで、クシナダヒメが告げたように勾玉が導いてくれるのかということだ。

 イズモにいた頃、ヌナカワヒメが勾玉は時空を支配する力があると言っていたが、それにも条件があった。

「条件って、清流の神の依代に勾玉を集めると、だったよね」

「この時代、きれいな水なんてどこにでもあるだろ。それに神の依代だって、ほら、飛鳥寺の槻木でもなり得るし」

 神の依代は高くそびえる木や岩が主な候補に上がる。たいていは神域の付近にあって、注連縄が巻かれているものだが、クシナダヒメの言っている依代が既存のものとは限らない。

「清流を探せばいいんでしょ、手分けして」

 美輝が白玉あんみつのような甘味を頬張りながら、いとも簡単そうに提案した。

「それなら、天候が安定してる今のうちに外を出歩いてあたりをつけるというのはどうだ?」

 オオシアマが必要な馬や雑人を手配すると申し出てくれたので、宮中での仕事を数日間離れ、野山を散策することにした。逐一、飛鳥宮に戻るのも面倒だということで、出掛けた先の民家に泊めてもらうつもりだ。

 初日は飛鳥宮周辺、次に泊瀬や宇陀、葛城山、そして吉野と巡る計画を立てた。オオシアマの妻カジメの実家や小角の縁の者を頼れば、宿の心配はないらしい。

「行ってくるよ。数日間だから、大丈夫だよね?」

 陽一はりらを飛鳥に残すことにした。りらはよく寝てよく食べて健康そのものだが、だいぶ腹部も大きくなっていて、馬に乗り山道を連れ回すことはできない。

「私は平気。皆がいない間は内安殿のサララの部屋の近くに移るから」

「それなら安心だね。いってきます」

 結局、清流探しには雑人一人の他に土地と事情をよく知っているチトコが同行することになり、「特命任務」を帯びた六名は賑やかに出発していった。

 完全にやることがなくなってしまったりらは、一日中薄暗い部屋にこもっていてもつまらないので、おやつを携帯してふらふらと宮中を散歩することにした。

 苑池のほとりで鴨の親子やそよぐ初夏の花を眺めた後、内安殿に戻る道すがら、中臣大嶋が見知らぬ少年を連れて歩いていた。その様子からすると大嶋が宮中を案内しているようだった。相変わらず頼りなさげだ。

大嶋がこちらを向くと、りらは手を振って挨拶をした。気づいた大嶋が軽く頭を下げた。

桧枝刀自ひえだのとじ、あの、お加減はどうですか?」

 いつの間にか、りらは「桧枝の女主人」などというたいそうな呼び名がつけられていた。この時代では、夫が妻が取り仕切る家に通う婚姻関係が普通だったため、こんな名称がつけられたのだ。

「うん、元気。ありがと。そちらの方は……?」

「あ、ちょうど良いので紹介します。ほ、ほら、挨拶を」

 少年は中学生か高校生の間くらいだろうか。しかし、目鼻立ちが鋭く、先輩面をしようと努めている大嶋よりもよほどしっかりしているように見える。

「お初にお目にかかります。中臣史ふひとと申します。先日、大舎人として宮中に上がりました」

「そうだったんだ。よろしくね。あれ、もしかして中臣って、親戚なの?」

「ええ、はとこです。こいつの父親は――」

「大嶋兄さん、父のことはどうでもいいよ。……失礼ですが、桧枝刀自は主上の夫人ぶにんでいらっしゃるのでしょうか? 宮人くにんや女孺ではありませんよね」

 史はりらの膨らんだ腹部に視線をやった。初対面での不躾な態度に、びくっと反応したのは大嶋の方だった。慌てて史を注意する。

「あのね、史、だめだよ、自分からあれこれ訊くなんて。こちらの女人は、主上の側近の妻だよ」

「なぜ側近の身重の妻が宮中にいるんですか」

 口をぱくぱくさせている大嶋に代わって、りらが笑顔で自ら答えた。

「私ね、元々は前の大后の采女だったの。役目が終わって、ある人の妻になったんだけど、一応、今では皇后付きの女孺みたいなものなの。私も夫の仕事を手伝ってるから、ここは出入り自由ってわけ。まぁ、体がこんなだからしばらくは仕事できないけどね」

「そうですか。御身、大切になさってください」

 史は表面だけ丁寧に気遣いの言葉をかけると、大嶋に「次はどちらへ向かうのですか」と離脱を促した。謎の刀自とこれ以上会話をしても意味がないと踏んだらしい。

 平謝りする大嶋に、気にしないでと答えたりらは、ふと考えた。

 ――もしかして、あれかな。この時代のゆとり世代なのかな、フヒトくんって。


 その夜、小ざっぱりと整えられた内安殿の一室に寝泊まりすることになったりらは、厠から戻る途中、昼間の生意気な少年にばったり出くわした。

「あ、ゆとりくん。じゃなかった、フヒトくん、何してるの?」

 史は手持ちの灯を掲げて、目の前に立ちはだかる影を確認した。この女人は昼間に出会っためんどくさい人だ……。

「こんばんは。何と言われても、僕は見ての通り内安殿の見廻りです。今夜は宿直なので」

「あっ、そうなんだ! でも、他にも宿直の人っているでしょ?」

「いますよ」

 邪魔だなと思っているのがありありとわかるような愛想のなさだが、完全には男性になりきれていない声が、かえって微笑ましさを生み出している。

「じゃあ、ちょっと縁側でお話しようよ」

「僕の任務の邪魔をするつもりですか」

 明らかに史はむっとして、りらの脇を通り抜けようとした。しかし、りらは史よりも上手だった。史の横にぴったりとついて話しかける。

「責任者は大嶋でしょ? 大丈夫! 私の警護をしてたことにしたら怒られないと思うし、むしろ主上から褒められるかも。あっ、そうそう、大嶋があなたのお父さんのこと言おうとしてたの遮ってたけど、どなたなの? 豪族はたくさんいるし、家系が複雑だから私ちょっとわからなくて」

 早足で歩いて行き着いた先は行き止まりの縁側だった。開け放たれた扉の外には、ちょっと太り気味の三日月が眠っている。

「まぁまぁ、座って座って。宮中に上がったの、ついこの前なんでしょ? 最初から真面目に仕事してたら、疲れちゃうよ」

「え……」

 言いながら、りらは円い敷物の上に座った。確かに、慣れない勤め先で気が張って心身ともにくたくただと、ここにきて初めて史は気づいた。桧枝刀自はそれを見越して自分に話しかけてきたのか。

「かわいい月だー」

 りらは特に同意を求めるでもなく、一人で楽しそうに月を眺めている。

 妊婦を置き去りにすることもできず、史は諦めて自分も敷物のお世話になることにした。そして、先ほどの問いに律儀に答えた。

「……僕の父は、中臣鎌足です。桧枝刀自は采女の時に見かけたかもしれませんね」

 りらは曖昧に相づちをうった。こっちの世界に飛ばされてきたのは二年前で、既に鎌足は黄泉の国の住人だったため、生前の鎌足のことはカヅラキ大王の腹心の部下ということ以外は知らないのだ。

「お父さんのことは好きじゃないの?」

「尊敬してますよ。でも、いっつも鎌足の息子として見られる…… 親の七光りは嫌だ。僕は父を超える官吏にならないといけないんだ」

 月を見上げながら言い放った横顔から、少年の闘志が垣間見れた。

 男の子って、お父さんがライバルなのかな。陽一さんも、同じ建築士の親父には負けたくないなんて言ってたっけ……。

 実は名門の中臣家は存続の危機に面していた。本家の鎌足が病で亡くなり、傍系の金は斬首、その息子は上総に流され、大嶋の父も死去している。つまり、中臣家の最年長者はあの見かけが頼りない大嶋であり、それに次ぐ史は役人見習いにすぎない。

「僕は大嶋兄さんがのこのこ、中臣家の敵みたいな主上に仕えてるのがちょっと信じられない。大嶋兄さんはやりがいを感じてるみたいだけど、僕は今の主上に心から仕えることができる自信はないんだ」

 突然、史はオオシアマの内安殿で口にするには憚られるような物言いを始めた。

 もしかしたら、誰にも言えずに胸にしまいこんでいた気持ちだったのだろう。りらは黙って聞いていた。

「僕は物心ついた時から、田辺大隅という帰化百済人の家で育てられた。田辺氏は文書の作成とかで代々、大王に仕えてたから父は僕の教育に良いと思ったんだろうな。僕が実家に引き取られる前に父が亡くなって、あの戦が始まった。僕の養父の弟はオオトモ軍の副将で、東国封鎖を突破する任務が与えられたんです。でも、受けた矢の傷がひどくて、命からがら還ってきた自宅で亡くなった」

 中立を保って戦から離れていた許米や大嶋と違って、史は間接的にではあるが、戦に巻き込まれ、つらい面を見てしまっていたのだ。

「僕は文官になるために田辺でみっちり鍛えられました。だから、期待を背かないように仕官することにしたけど、主上のためとは思わないかもしれない」

 史のオオシアマへの不信感は戦に限ったことではなかった。後ろ楯のない史の異母姉妹を、夫人ぶにんとして後宮に迎え入れるという話が中臣家に来ているという。

「ヒカミは僕より年上だからいいとしても、イオエは主上の娘みたいな子供なのに……」

 実はりらはこの話をサララから聞いて既に知っていた。有力な中央豪族の中臣家を配下に置くために、男子は役人として仕官させ、女子は後宮に入れるのが最も妥当だと、オオシアマとサララは判断したのだ。姉妹が幼いことはもちろん承知の上で、夫人として遇するというよりも、親代わりに庇護するという形のようだ。

「主上の意図はヒカミとイオエの保護だと思うよ。皇后が面倒を見るっておっしゃってたし」

 りらは弁明したが、効果はなかった。

「……とにかく、僕は中臣家のためだけに働くと決めました。父の威光を借りるのは嫌だし、僕自身の力で中臣家を支えます。主上は、僕には関係ない」

 若さゆえの大胆さと素直さが、史に危うい言葉を紡がせる。

「そっかぁ。私は主上や皇后の人柄好きだな。豪快で情熱的で」

「だいたいの先輩がそう言いますね。でも、僕たち中臣家が祀ってきたタカギの神を捨てて、新しい神を伊勢に据えるなんて、どうかしてる」

「それでもあなたはオオヒルメを最高神として認めないと。オオヒルメは太陽の女神で、海に囲まれた島国を明るく照らしてくれるんだよ。いずれ、この太陽の国を支える中心になるのはあなたたちでしょう?」

 なぜこうも容易く変革を受け入れられるのか、史には理解できなかった。しかし、桧枝刀自の言うとおり、この宮廷で働く以上は新しい最高神と天皇を信じなければならない。そうでなければ、史は中臣家を亜流に追いやってしまう。いや、違う。自分は中臣家の中だけにおさまりたくはなかった。父を超えた位置まで昇り詰めるには、子供の頃から信奉してきたタカギの神を捨て、日の本の国に身を捧げる覚悟が必要だ。

「……仕方ないですね。今はもう、大王の時代ではなくなってしまったから。ところで、あなたの携わっていた仕事というのは?」

 宮人でもない桧枝刀自が色々と政事に詳しいのはなぜだろう、と史は不思議に感じた。それに、どうして側近の妻というだけで内安殿に出入りしているのか。夫は何をしているのだろう。

 第三者のもっともな疑問に、りらは自分の正体を伏せ脚色しつつ説明した。

「私の夫は前は木工寮の算師だったんだけど、まぁ、功績が認められて今では主上の舎人に加えてもらったの。私はちょっとした能力があって――あ、記憶力が良いっていうだけのことなんだけど、舎人たちと一緒に仕事をしてる。知ってるどうかわからないけど、主上は神々の時代から現在までの歴史書を作ろうとしてて、その作業を内安殿でやってるんだ」

「歴史書、ですか……」

 今まで昔から伝わる先祖の記録だとかを集めたりするということは、各豪族もやっていたが、一つの国としての歴史書は初めてなのではないか。聡明な史は、新しい天皇が本気で中つ国を独立国として対外的に示そうとしているのだと理解した。

 もし、カヅラキ大王がこの重要な事業に手をつけていたのなら、編纂の責任は中臣家や田辺家や西文かわちのふみ家が負ったかもしれない。しかし、オオシアマ天皇は無名の舎人たちに重責を任せたらしい。

「フヒト君は神々の時代のことを知ってる? 主上は、中つ国が高天原の天つ神に武力で負けて、支配されてしまったってことをちゃんと文字として残そうとしてるんだ。巷ではオオクニヌシがタカミムスヒに国を譲ったことになってるから」

「それが、主上の考える正しい歴史なんですね。オオクニヌシが治めるべきだった、と」

 どうりでカヅラキ大王やオオトモ王子と相容れなかったわけだ。史はついおかしくなって、微かに鼻で笑った。

「中つ国は中つ国の人たちが統治すべきでしょう。オオクニヌシとオオヒルメは、日の光と海の恵みがみんなに行き渡ることを望んでたはず。でも、タカミムスヒは中つ国みんなのものじゃなかった」

 りらの最期の言葉に、史の眉がぴくりと動いた。確かにタカミムスヒを熱心に崇めてきたのは、中臣氏、大伴氏、物部氏といった中央の強力な豪族くらいだった。

「つまり、新しいオオヒルメ大神は、この国に住む全ての人が崇めるべき皆の神ということなんですね」

「まぁ、そういうことね」

 ここに来て、史はやっと、ほんの少しだがオオシアマという男に興味を抱いた。日の本の国をあまねく照らす女神の子孫こそが自分だと宣言した天皇は、明らかにカヅラキ大王や母のタカラ大王とは別の方向性を目指している。

 柔和な顔をした桧枝刀自という女人は、謎だらけだ。筋が通ったような説明をしているが、どこかこの世の人でなく、実体がない気がした。だが、この女人が史を捉まえていなければ、史はおそらくオオシアマの思考などに目を向けることはなかっただろう。だからと言って、天皇に忠誠を尽くす気はさらさらなかったが、闇雲に中臣家の繁栄を追求するのではなく、戦略的に動くきっかけは得られた。

 ただ、武力で前大王の玉座を奪った男だと思っていた。しかし、オオシアマ天皇の手の内には隠された変革が握られているのだった。是非、この天皇と頭脳勝負をしてみたいと、史の胸は静かな野心で満ち始めていた。

 史はすっくと立ち上がった。月が陰って、りらにはその表情は見えなかったが、中臣家本流の少年は不敵な笑みを湛えていた。

「桧枝刀自、短い間でしたけどありがとうございます。僕、もう行きます」

「え、あ、そう? じゃあ、私も眠くなってきたし途中まで一緒に行くね」

 りらは口元が少し緩んだような史を見て、安心した。ちょっと難しい話題になってしまったけど、なんかすっきりした顔になったみたいだし、まぁいいか……。

 角を曲がった先が、りらの仮住まいの部屋だ。この辺で別れようとした時、後方から「こんなところに!」という驚き呆れたような声が聞こえた。宿直責任者の大嶋だった。

「史! どこほっつき歩いてたんだい。まさかお前に限って迷子になってたんじゃないだろうなぁ」

「すみません」

 史が素直に頭を下げようとすると、りらが慌てて大嶋の前に進み出た。

「引き留めちゃったのは私なんだ。えっと、厠から戻る途中でちょっと眩暈がして、近くを見回ってたフヒト君にしばらく傍にいてもらってたから…… 今はもう元気だよ」

「そうだったのですか。史、悪かったね。史の行いは、主上の耳に入れておくよ」

「いえ、別にそんなことわざわざ……」

 ぶっきらぼうに答える史に、りらはくすりと微笑んだ。一生懸命に背伸びして大人の仲間入りをしようとする少年そのものではないか。

 正体不明の桧枝刀自が、アレオトメであるということを史が知ったのはそれから数日経った後のことだった。


 漏刻の水位がぴったり正午を指すや否や、守辰丁しゅしんちょうが鐘を打ち鳴らす。飛鳥宮にこだました終業の音が喜ばしいかどうかは、それぞれの官司による。心置きなく昼の市に出かけることができる官人もいれば、鐘が鳴ろうが鳴るまいが黙々と残業を強いられる者もいる。

 りらは官人たちが退出する流れに逆らってこちらにやってくる複数の人影を発見した。清流を探しに宮を離れていた陽一たちが戻ってきたらしい。

 着替えやらオオシアマへの報告やらの後、皆が宿舎の陽一とりらの部屋に集まって探索の状況を説明した。

「端的に言うと、どの場所にも神域になってる土地が複数あって、必ず高い木か岩があったよ。そのうちのいくつかの近くには清流もあった」

 二十一世紀よりも自然環境が手付かずなのだから、それは当然だろうなと、りらは思った。

「でも、試しに勾玉を木や岩に掲げてみたり、触れさせてみたりしたんだけど、何も反応しなくて……」

 貴子の口調からはもうお手上げだという諦めがよく読み取れた。

「もう勾玉の意思に任せるしかないんじゃないの?」

 移動ばかりで全身くたくたになった美輝は何度も欠伸をしている。もう二年もこの世界で生きてきたから慣れてきたし、特に急いで未来に帰る必要性もないのではなかろうか。実は竜成も同じことを考えていたが、陽一は論理的に解決しようとしていた。

「俺はもうちょっと、考えてみる。今までの出来事で何か手がかりがあるかもしれないし」

「そうだな。いい加減、航空機と管制塔が恋しいよ」

 潤が冗談めかして言った。

 翌日、それぞれいつもの役所に戻って勤務をしていると、回覧用の木簡が各部署に回ってきた。雑談や笑い声がちらほら聞こえた執務室の中に木簡が手渡ると、それを黙読した官吏の口元の緩みが次々と硬く閉ざされていった。

――大錦上坂本財臣卒贈小紫位

 オヨリから木簡を受け取った潤は、何が書かれているのかオヨリに教えてもらうと深くため息をついた。

 時々、自分が古代に生きているのだと感じる瞬間があるが、今がその時だった。

 この回覧は、吹負将軍の元で竜田方面の防衛を担当し、高安城を落城させた坂本財たからの訃報であった。戦後、大錦上という大臣級の高位を与えられ、今回、一段上の小紫という位を追贈された。かつての潤にとって敵方の別動隊の担当者の名前まで把握していなかったが、ほぼ一年前の戦に関わった人物で戦後初めてこの世を去ったのが坂本財だった。

「歳はいくつだったんだ?」

「たぶん、兵衛督と同じか少し上くらい」

 星川摩呂は三十代半ばのはずだ。やたらと寿命が延びた時代に生きてきた潤の感覚からすれば、あまりにも早い死である。

「若すぎるね。これからまだ主上の役に立つような働きができたのに」

「ああ、残念だ。けど、あの年齢で黄泉の国へ旅立つ人間は大勢いる。もっと幼くして命を落とすなんてのも、ざらだから……」

 オヨリのどこか冷めた発言を聞くと、やはり自分が二十七年間慣れ親しんできた世界とは異なるのだと感じざるを得なかった。

 訃報が続いた。今度は大津宮でオオトモに仕えていた時期のあった潤が知っている人物だった。沙宅昭明サテクソミョンという亡命百済人で、カヅラキ大王が法官大輔に任命したほど文学に聡明な人物だった。直接話をしたことはなかったが、オオトモの賓客としてよく学問を論じていたのを見かけたことがある。

「ねぇ、潤くん、ちょっとよくわからないんだけど、日本に亡命してきた人に勝手に外国の冠位を与えていいの?」

 沙宅昭明は死後、外小紫げしょうしを贈位されたのだが、貴子が疑問に感じたのは、オオシアマがさらに本国百済の最高位である大佐平テヂャピョンを授けたことだった。

「たぶん、オオシアマは滅亡した百済も新羅も日本の手の内にあるって思ってるのかもね。もちろん、沙宅殿は聡明な方で、オオシアマも尊敬してたってのも理由かもしれないけど」

 この日の内安殿はいつになく、香の匂いが濃厚にくゆっていた。


 月が替わると今度は、対外関係が忙しくなった。

 日差しの強さと湿気を含んだ空気がないまぜになって、筑紫からの使者の体力をごっそり奪っていた。対外関係を管轄する理官大輔おさむるつかさたいふ大伴御行みゆきは、使者の用が緊急でないことを確認するとまず使者に休息を取らせるよう指示をした。

 一刻後、使者と対面した御行は耽羅国から三人の王子ワンジャが到着し、朝貢してきたという報告を受けた。耽羅国は後の済州島に存在した国である。

「それで、朝貢の他には何か目的は?」

「先の大王の喪を弔いたいと申しておりました」

「他には?」

「いえ、それだけです」

 つまり、耽羅はカヅラキ亡き後に弟が即位したことは知らないのだ。御行は使者たちが退去してから、オオシアマの耳に入れた。

 それから七日経ち、再び別の筑紫の使者が飛鳥宮の門をくぐった。

「今度はどうした?」

「新羅から二組の使者が参りました。まず、主上のご即位を祝う者たち。韓阿飡ハンアチャン金承元キムスングォンが筆頭です。もう一組はカヅラキ大王の弔問団。こちらは一吉飡イルギルチャン金薩儒キムサリュが率いております」

「ふむ…… さすがに新羅はわかっているな」

 御行はそう感想を述べたが、竜成にはどういうことかはわからず、上司に尋ねた。上司と言っても実は同年齢である。

「韓阿飡は新羅の冠位で五位だ。これ以上の位は全て王族で占められている。一方、一吉飡は七位。まぁ、通常の貴族だよ」

「ってことは、新羅はちゃんと優劣を付けて使者を選んだんですね」

「そういうこと。……ていうか、タツナリ、お前は新羅出身じゃないのか」

 新羅のことならお前の方が詳しいはずだろということだ。

「いや、日本で育ったので」

 加えて現代人だし、と心の中で弁解した。

 本件を理官長の石川王に報告すると、竜成は二人の上司と共にオオシアマの御前へ参上した。

 今までもそうだったが、御前には常にサララ皇后も控えている。左右大臣や御史大夫が存在しなくてもそれに匹敵する能力を有しているのがサララというわけだ。

 オオシアマは錦で覆われたクッションのような肘掛けに前のめりにもたれかかり、頬杖をついている。

 せっかく天皇となったのに威厳も何もない有り様だが、本人は「普段から威厳があったら、ありがたみがなくなるからこれでいいんだ」とよくわからない理屈をつけている。

「……あのー、主上、お聞きになっていますか?」

「うん、聞いてるよ」

 しかし、視線はどう見ても正面の臣下の方向を示していない。

「それでは、筑紫の件はいかがしましょう」

 石川王が遠慮がちに再度尋ねると、オオシアマはようやく体を真っ直ぐにした。一応ちゃんと対応を考えていたらしい。

「使者に伝えてくれ。金薩儒らには冠位相応の品物を賜った後、速やかに帰国させるべし。前大王の弔いに来たやつらに俺が会う必要はないからな。金承元らはいずれこちらに呼び、返礼の饗応をしよう」

「では耽羅の使者は?」

「とりあえず、筑紫に滞在させてかの国の情報収集だな。久しく交流が絶えていたからちょうど良いだろ」

 長官はかしこまりましたと頭を下げた。しかし、次に頭上に降ってきたオオシアマの何気ない言葉には、筑紫の使者に同情を禁じ得なかった。

「まぁ、急げば筑紫に六日で戻れるよな」

「えっ、それはあまりにも無理な――」

 なぜそんなに急ぐのかと理官大輔は主上に抗議したが、虚しく一蹴された。

「一番早い吉日が戌申の日、つまり今日から九日後なんだよ」

 かくして主上お得意の遁甲の結果によって、筑紫館では役人が徹夜で宴の企画をし、贈り物の予算を弾いて調達するはめになった。そして、六月二十四日、真 夏の夜にささやかな宴が催され、新羅の弔問団に銀の象嵌の刀子、金細工の装飾品、あしぎぬと綿の布が下賜されたのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ