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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
飛鳥の千夜一夜物語
27/31

第10章 <4>

 新羅の一行を乗せた船が故郷へ向けて筑紫を出港したのは、竜成たちが四国の熱田津に停泊している頃だった。行きと違って美輝はほとんどしゃべらなかった。当然、シュナも大人しく、竜成の隣で肩に寄りかかって寝ていた。饗応の後、美輝と太子の間でどんな会話が交わされたのかは知らないが、きっぱりと関係を断ったのだということは推測できた。

 それでも美輝は難波に上陸すると、悲しみと切なさを全て海へ捨ててしまったかのように、明るく溌剌と振る舞った。しかし、人気のない建物の陰で、ひそやかに落涙し、朱色の袖で拭っている姿を偶然垣間見てしまった竜成は柄にもなく同情を禁じ得なかった。

「あーあ、つくづく男運のないやつ……」

 思わず仰ぎ見た蒼天は、地上の人間の渦巻く感情など無に等しいとばかりすました表情をしていた。

 大晦日――。

 紅白歌合戦もなければ、年越しそばもない。夜を明かして家族や恋人と初詣に繰り出すという習慣もまだない。しかし、飛鳥宮は似たようなイベントのために大わらわである。

 美輝とシュナは正月の大宴会で披露する歌舞のゲネプロを始めていた。失恋と言えるのかよくわからない痛手を後生大事に抱えていられるほど暇ではなかったのがせめてもの救いだろう。大安殿の大広間で厳しくも華麗に稽古に励む舞師たちの朱と山吹色を基調とした衣が翻り、緑青の領巾が船尾に連なる波のように立ち現われては消えていく。新しい年、そう全く新しい年の始まりを、歌舞で寿ぐのだ。ただ踊るということだけで、美輝は幸せだった。

 外安殿の南、朝庭ではこれ以上何ものにも染まらないほど漆黒の袍の武官たちが、各自の愛用の弓の弦を新調し張り替えていた。ぶわーんぶわーんという空気を震わす太い唸り音が朝庭にこだまする。

 管弦楽団のチューニングのように、武官たちは弦を力いっぱい弾いて独特な音を出していた。潤は朝賀の際に魔除けの儀式があることを初めて知った。

「しかもこの盾、すげー奇妙な柄だよなぁ」

 潤は特別急行よりも高速で仕事を仕上げてきた工人たちに心底感服した。大津宮に同じ盾が無傷な状態で保管されていると聞かされたオオシアマは「新規で作れ。正月に間に合うように」という鬼のような指示を物部麻呂に下していた。この他にも兵政官の雑工部や大蔵官の縫部や染部などにも重要な品物を新調するよう命じたらしい。ブラック企業並みの人使いの荒さである。

「この柄はな……」

 仲間の肩を力強く抱くように木製の楯をかかえて、星川摩呂は言い出した。楯は表面が隙間なく色づけされているのだが、中央には大きくS字の逆型の渦巻き模様が描かれている。赤と黒の二重線だ。楯の上部と底にも赤と黒のぎざぎざ模様が塗られており、その他は白だ。

「隼人族の楯なんだ。難しいことは俺にはわからねぇが、邪悪な魂を寄せ付けない効果があるんだとよ」

「へぇ」

 大津宮で勤務していた時は、一介の兵衛であり、その後はオオトモ王子の側近の舎人となったが、今の潤は兵政官の武官という実務を扱う中央の役人のような立場である。自衛隊で言うところの幕僚監部と防衛省の内部部局が合わさったような職場だ。とはいうものの、朝のデスクワークが終わるとその後は体を鍛えるために、吹負もオヨリも練兵所に足を運んでその他大勢の兵衛たちと共に武術を磨くことを怠らなかった。

 潤は兵衛の指導をするようになってひと月ほど過ぎた頃から特別な教官という目で見られるようになっていた。まだ外で思い切り体を動かすのが心地よい季節のある日を思い出す。

「五十里殿! 今日もお相手願えますか?」

 わらわらと少年の面影を残す若者たちが、潤の元へ駆け寄ってくる。

「お前ら、自分たちのフォーメーション…… 型をちゃんと考えてきたか?」

「はいっ、考えました!」

「準備しておけ。オヨリを連れてくるから」

「はいっ、お願いします!」

 若い兵衛たちは揃って礼をすると、嬉しそうに互いに笑みを交わしながら駆け足で厩に入っていった。オヨリたちと遊びでやり始めた乗馬を伴う打毬だったが、いつの間にか若い兵衛たちの関心を一身に集め、訓練の一環になってしまった。

 潤は兵衛の仲間たちが気に入っていた。この時代では老将の域に突入している吹負も、再び友人関係を取り戻したオヨリも(相変わらずへらへらと気安く貴子に話しかけているのは気に食わない)、潤を慕って教えを乞いにやってくる若い兵衛たちも、自然な形で絆を育むことができた。

 何のために武芸を磨くのか、何のために自分たちが存在するのか――。

 それは兵政官の高官たちだけでなく、兵衛の身分の者にすら明白な大義名分であったし、存在意義を通じた連帯感はどこの役所よりも強いと思っていた。古今東西、軍人のメンタリティーは変わらないのかもしれない。

 一通りのリハーサルが終わると、武官たちは早々と朝庭を後にそれぞれの宿舎や宮外の自宅へ戻っていった。元日の朝はいつもよりも早くやって来るのだ。


 しんと静まり返った宮中の横を流れる飛鳥川は、元旦の淡く澄み渡った空を正確に写し出していた。音をたてているものがあるとすれば、大安殿前に設置された玄武、白虎、朱雀、青龍の旗くらいだろう。

「新年のお慶びを申し上げます。至らぬわたくしではございますが、本年もお力添えをさせていただきたく存じます」

「こちらこそ、本年もよろしく頼む」

 内安殿では正装したサララとが夫の御前で、今年最初の挨拶を慎んで述べた。オオシアマは既に伊勢の方角に向かってオオヒルメ大神に拝礼を済ませていた。

「じゃあ、顔を見せに出向くか」

「はい」

 太鼓の叩かれる音が次第に大きくなり、ある時点で再び弱められていく。大安殿南側の石畳に整列しているのは飛鳥宮の高官たちだった。

 一際大きな太鼓の打音が響き、大安殿にオオシアマとサララが姿を表した。二人とも未踏の山に降り積もった雪のように真っ白な絹の袍で身を包んでいる。加えてサララは金糸の刺繍が散りばめられた緋色の裳で華やかさを添えた。

 太鼓の余韻が空気に吸い込まれると、オオシアマは高官を目の前にして新年の挨拶を直接語りかけた。

「多くの困難を共に乗り越え、今日こうして新しい年の始めを祝えることはこの上ない喜びである。これから再び困難な道のりを歩まなければならないが、諸官の叡智と豪勇と忠心をもってすれば、中つ国は日の本の国に生まれ変わることができると信じている」

 言い終わるとオオシアマはさっと踵を返して奥に去っていった。次は外安殿の外で待つ武官の儀礼だ。

 元日の朝日を最初に拝んだのは、朝庭にずらりと整列した武官たちであった。一年で最も美しく寒い時期に、まだ夜が明けやらぬうちから野外でオオシアマの目覚めを待ち続けていた。

 先ほどと同じように太鼓が鳴り、オオシアマが外安殿の南側に出でますと、一斉に武官が四度礼をし、一度だけ拍手を打った。

「諸君の武勇甚だしく、近江の邪気に勝利したことは実に慶賀のいたりである。諸君にオオヒルメ大神の御加護があらんことを!」

 オオシアマはそのまま前を向き続けた。雲一つない大空に、弓の弦を規則正しく弾く音がこだまする。己を勝利に導いた掛け替えのない将官たちが、今は平安を祈願して魔除けの儀礼を行ってくれている。儀礼の後は、軍を率いた四将軍の射礼じゃらいである。 

 村国男依、紀阿閉麻呂、大伴吹負、羽田矢国は儀式用の豪奢な武官服を着こなし、順番に馬を歩かせ、オオシアマの御前を通過した。朝庭の西側に的が設けられており、四名は続けて矢を放った。ぱしゅっという小気味良い音と共に、矢が爽快に突き刺さる。四本の矢は引き寄せられたかのように、的の中心に突き刺さった。

 次は真剣対決である。これは、オオシアマが潤のために新しく取り入れた行事だった。

 潤ともう一人の男がオオシアマの御前に歩み出て深々と一礼をした。サララの後方には三人の女性が座っており、ひそひそ話を始めた。

「ねぇ、潤くんの相手って誰? 見たことない人だよね」

「うん、あたしも知らない」

 その男は潤よりも年上に見え、遠目に伺っても精悍で男らしい構えをしていた。あんなかっこいい人、飛鳥宮にいたのかな……。りらもまた、首をかしげた。

 実は、潤もこの男と今朝会った時には誰だか判別できなかった。薄暗かったからというわけではなく、姿かたちからは到底想像できなかったのである。そして、ようやく、「よぉ、今年もよろしくな!」という極めて軽々しい新年の挨拶が飛び出てわかったのだ。

兵衛督ひょうえのかみ!? さ、詐欺ですか!? そんなちゃんとした格好ができるなら、普段からしてくださいよ!」

「いやだねー」

 そう、何を隠そうこの武官の模範は、星川摩呂だったのである。もしゃくしゃ頭はきちんと結い上げられ、山籠りでもしていたのではというほどの無精髭もきれいさっぱり剃られている。不本意ながら、さすがに朝賀の儀礼に修行者と見紛う姿で参列するわけにはいかなかったのだ。

 真剣勝負は四将軍から見ても手に汗握る戦いぶりであった。潤は特別に鍛えられた出雲の鉄剣を操っていた。もし、潤が来年の正月にもこの場にいたならば、武官の真剣勝負は正式な儀礼に取り入れられていたかもしれない。それくらい、白熱した時間だった。

 最終的に相手の剣を叩き落として、懐に飛び込んでいったのは潤だ。

「あの時のジュンは本当に俺を突き刺してしまうのではないかと思ったね。跳躍しながら全身で切り込んでいったのがわかって、俺は鳥肌が立った。もちろん、殺気なんてのはなかったが、面白いやつだと感心して潔く負けてやったのさ」

 というのは「あらま、長官なのに勝てなかったのね、油断してるからだわ」という愛妻の厳しいコメントを受けて、摩呂が返した弁明だ。

 潤が勝利を掴んだ剣はその後、神聖な武器として内安殿の祠に奉納されることになった。この祠の祭神はオオクニヌシである。オオシアマは潤の手から差し出されたよく研ぎ澄まされた武器を「星降るの剣」と命名し、自分の死後にこの剣を共に葬ってほしいと日頃からサララに伝えていたという。

 この年の朝賀の儀礼はことのほか少なかった。正確にはまだオオシアマは即位していなかったし、何が新年の儀式に相応しいか手探り状態だった。それよりも、オオシアマは宴に力を注いだ。大安殿がメイン会場、外安殿も位の低い役人や舎人に開かれ、昼間から酒盛りが始まった。

 いったいどうやって調達したのだろうと不思議に感じるほど、大量の新鮮な食材と酒がこれまた丁寧に作成された漆塗りの食器に惜しげもなく乗せられている。臣下たちはそれより格下の陶器を使うことになったが、通常の役人や庶民が手にする器が須恵器であることを考えれば、贅沢に思わなければ罰が当たる。

「俺はこの時を楽しみにしてたんだ。遠慮なく飲めよ!」

 と言いつつ、オオシアマは既に何杯も酒を仰いでいた。

 午前中の儀礼の間に見せた威厳ある姿はどこへやら、今はただの酒飲みである。オオシアマは子供たちを周りに呼び寄せ、伎楽でよく歌われる歌を一緒に口ずさんだ。

 大広間の三分の一が歌舞のための舞台として設えられ、楽師や舞師たちが正月に相応しい絢爛豪華な演奏を奉じている。

「美輝ちゃんはああしてるのが一番似合うね」

 陽一の隣に座って、舞台を眩しそうに眺めていたりらがつぶやいた。傍目にも思い通りになっていない恋ばかりに落ちて、それでも異世界に溶け込んで生きているその力強さが、少し羨ましかった。もちろん、りらは今、最も幸福な時間を愛する背子と共有している。ただ、穏やかな幸せにはない、激しい輝きというものがあの舞姫にはある気がしてならない。

 陽一の隣には、貴子と真剣勝負で大活躍を見せた潤がすっかり元のさやに納まって、仲良く古代のおせち料理をいただいていた。

「……伊勢海老ってこんなに、嫌になるほど食うものだっけ」

 本当に伊勢海老なのかどうかはわからないが、ぷりぷりした大ぶりの美味しい海老が御膳を占領しており、潤と貴子は平らげるのに一苦労している。昆布も黒々つやつやと存在感を示していた。押し寿司のようなものもあったし、鹿肉の燻製も出てきた。

 飛鳥宮の主、いや中つ国の統治者を見れば、人目を憚らずサララの腰を抱き、片手で賽を振って新しい博打で遊んでいるではないか。オオシアマはなぜか博打にめっぽう強いらしく、惨敗に終わったヒロと菟が頭を抱えて転がっていた。

「ひどいですよ、オオシアマ様! かわいい臣下たちから容赦なく巻き上げるなんて!」

「人聞きの悪いことを言うなよ。賽の神への信心が足りなかったからだ」

「じゃあ、今度は私が相手をするわ、オオシアマ。ヒロ、菟、負けた分は取り返してあげるからね」

「ああ、サララ様がオオヒルメ大神に見えてきました……」

 何の漫才だと突っ込みたくなるオオシアマ劇場であるが、オオシアマがただの遊び好きの王子ではないことは皆承知だ。

「……俺なら、この王子を敵に回したくないなぁ」

 新羅直輸入の濁り酒が満たされた杯をゆっくりと回しながら、竜成が苦笑した。

 だが、そう思ったのは竜成だけではあるまい。宴に招待された渡来人や戦で中立を保っていた中央豪族やあるいはオオトモ軍の配下にあった豪族たちは、飛鳥宮の圧倒的な物量と統制のとれた兵衛府、そしてオオシアマ個人のカリスマ性を目の当たりにした。まぐれで戦に勝利したのではないことが、よくわかる。

 陽一はオオシアマが決して甘い人間ではないということをよく知っていた。舎人たちに対してどんなに親しく接していても、馴れ合っているわけではない。王たる者とそれ以外の身分という差を縮めることなどもってのほかだった。

 オオクニヌシの寛大で慈悲深い統治に尊敬の念と憧憬を胸に秘めつつ、この国で唯一尊重されるべきは神の子孫である天皇つまりオオシアマ一人である。

 当然、現代的な意味での人道主義という考えは持ち合わせていないし、平等な身分制度も逆立ちしたってその口から出てきたりはしないのだ。

「確かに俺はオオクニヌシのような王になりたいと思った。でも、あの方だって臣下の者や民と馴れ合ってたわけじゃないだろ。俺には俺の立場がある」

 以前、オオシアマがサララにそう告げたのを、陽一は耳にしていた。確か、サララが「小角はどうするの? オオクニヌシが目指した国を作るなら彼を宮中にお招きしたらどうかしら?」と提案した時のことだったと思う。

 正月の大宴会は数日間、酒の匂いが誰も彼もの袖から漂ってくるほど大量の酒が消費された。翌日に行われるはずであった朝賀の挨拶が、二日酔いに苦しむ役人続出のため取り止めになってしまったという事実は、ついぞ歴史書に残されることはなかった。


 ――二月二十七日。

 紅梅の蕾がほころび始めた頃、オオシアマは日本国の天皇大帝として即位した。どれほど豪華で荘厳な儀式が行われるのだろうと期待していたが、大安殿に簡素な壇場を設えさせただけであった。

 忌部子人が出雲から取り寄せた神璽、すなわち勾玉、鏡、剣を奉り、中臣大嶋が寿詞を読み上げ、誰が承認するでもなくオオシアマは天皇になった。そして、続けてオオシアマがサララを皇后とすることを宣言し、即位の儀は滞りなく終了した。

 オオシアマが天皇になったからといって彼自身が変わってしまったわけではなかったが、飛鳥宮は着実に過去から脱皮しつつあった。

 中央から派遣されていた国宰くにのみこともちはその役割を四分割され、守、介、じょうさかんという身分が創設された。現在で言うところの県知事や副知事などである。

 即位の儀から数日の間には、飛鳥宮の役人名簿が揃い、一斉に春の人事異動が行われた。ようやく天皇の官僚たちが動き出す時がやってきたのだ。

 それから間もなくして、吉備の国から使者がやってきた。

「ねぇ、アエ! 吉備の守が捕まえた雉はもう見た?!」

「うん! 真っ白だった! 鶏かと思ったらそうじゃないのね」

「父様が天皇におなりになったから、白い雉が現れたんですって」

 ミナベとアエ姉妹が興奮気味に話題にしているのが、吉備から献上された瑞祥とされる白い雉である。憐れな雉は苑池付近に立てられた大きな竹組みの鳥小屋に閉じ込められてしまった。「即位されて初の瑞祥」ということで、そのありがたい白くてふわふわな御姿が官人たちにお披露目されることになったのである。

「私、この雉に名前を付けたの」

 いい考えでしょとばかり、アエは顎を上げて姉と小さな客人に言った。

「どうせ、雪みたいだからユキって名前にしたんでしょ?」

 ミナベが妹の考えていることなどお見通しと、笑った。すると、アエは言い当てられたのが悔しくて、反論を試みた。

「ち、違うもん。コユキっていうのよ! まだ、ちっちゃいから。ね、道代もコユキでいいと思うわよね?」

 半ば強制的に同意を求められた小さな客人は、雉をちらりと見てその大きさを確かめてからとても素直に「はい」と答えた。

「やっぱり道代はいい子ね!」

 賛同を得られたアエは得意気に道代という少女を褒めた。

 道代はもうすぐ生まれて六年目の春を迎える。くりくりした漆黒の瞳は愛嬌があり、しかも利発そうな顔立ちの少女だ。戦中に桑名の評家で、縣犬養大侶が戦が終わったら姪を紹介すると言っていたのだが、ちゃんと覚えていてくれたのだ。こうして道代は、アエの妹のようにくっついてまわっている。

「ずっとクサカベにべったりだったのに、今では道代を放さないんだから、アエは」

 クサカベがアエたちから少し離れた場所で、仲間に入りたそうにもじもじしている姿を思い出して、ミナベはくすりと笑った。そのえくぼを見て、タケチもつられて笑顔になる。

朧月の夜が美しいと、初めてミナベは思った。苑池にゆらゆら映った月もまた風情がある。

 戦が終わってから、タケチは相変わらず学問にも武芸にも励んでいたが、父から「あんまり一人でがんばりすぎるなよ。ほら、ミナベ姫はどうした?」とせっつかれて、勇気を出してミナベと二人だけで外を歩くことにしたのだ。外と言っても、二人がよく出向いたのは飛鳥寺か苑池だった。ほどよい距離で女孺たちがついてくる。

 今夜は苑池のほとりで、春のお月見だ。

「クサカベはとっても優しいんだ。自分のしたいことよりもアエがしたいことを、優先させちゃうからね」

 タケチはそんな弟が大好きだった。ぐいぐい自分で決めたことを進めてしまう父とは正反対の性格だけれど、タケチは父の偉大な背中を受け継いでいるのはクサカベなのではないかと思っている。自分は弟たちより数歩先を進んで、彼らが知らない世界に足を踏み入れていたが、だからこそ父の跡を継ぐということが途方もなく恐ろしく感じられてしまうのだ。やんちゃで恐れを知らないのはオオツだが、タケチはクサカベとは違ったオオツの率直さが何だか心配だった。

「あ、魚がいる」

「ほんとだ。ここは他の魚に食われなくていいね」

「タケチは釣りをしたこと、ある? 舎人たちが釣った魚をそのまま焼いて食べると美味しいって言ってたの」

「美味しいよ。僕は凡海郷で釣りを習った。素潜りもやって、鮑を取ったこともあるよ。あ、あとウニも生で食べたっけ」

「ウニってなぁに?」

 他愛のない会話を自然にできるようになるなんて! タケチもミナベも一年前には全く想像していなかった。でも今は、ずっと前から仲が良かったのだと錯覚するほど、隣同士に座り、笑い合い、時にはちょっとした喧嘩もする。

 弟や妹たちのことを話題にしたり実際に見たりしていると、否が応でも自分たちはもう彼らと同じ世界に住んでいるのではない、住んではいけないのだと思う。タケチもミナベも無邪気な子供時代を脱皮しつつある。大人から見ればまだ幼い部分もあるのだが、確実に大人への階段を上っているようだと自覚しているのはタケチとミナベの方だった。

「ミナベ、よく聞いてね。あなたはもう赤ん坊を授かることができるのよ」

 母のメイ姫のやや慎重なその言葉に、ミナベは真っ白な下着に付着した真紅の血と共に少なからぬ衝撃を受けた。ついこの前、この世に生を受けたというのに今度は自分が母親になれる年頃だというのか。そして、赤ん坊を授かるとしたら婚約者のタケチとの子でしかあり得ず、ミナベはなんとなく恥ずかしくなって俯いてしまった。

 生まれた時から父カヅラキ大王によって決められていた結婚だったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。それよりも、いつでも真面目に武芸や学問に精を出している従兄と大人になってもずっと一緒にいられるということを考えると、ミナベは安心すら覚えたのだった。聞くところによると、サララ皇后は幼い時、オオシアマが将来の夫だと知らされて父に激怒したらしい。おそらく、オオシアマが相手であるのが嫌だったのではなく、勝手にカヅラキが自分の運命を決めてしまったのが激怒の原因だろう。

「ね、タケチ」

「なに?」

「今度、お母様にお願いして皆で吉野山に行かない? きっと皇后様はもうお忙しいだろうから、一緒には来られないかもしれないけど」

 家系が入り組んでいることこの上ないが、ミナベの母メイはサララの叔母であり、サララの母オチが生きている頃から常に身近な存在だ。

「桜を観るの? いいね。実はクサカベとオオツは父さんと吉野山で修行をしてたらしいんだ。すごく羨ましいよ。桜を観ながら鍛錬してたなんてさ!」

 タケチが唯一、弟たちに嫉妬しているのがその点だった。しかも、役小角という父の師匠にも会ったそうだ。しばらく山籠もりしていると聞いているが、自分も会えるだろうか。

 吉野宮から桜は五分咲きという便りが届いたのは、ミナベが母親に吉野行きをせがんだ翌日のことだった。これから準備をして、十日後くらいに出発すればだいぶ見頃になっているはずだ。

「戦で随分子供たちは我慢することが多かったと思います。少しくらい、遊びに出させてやってもいいのでは?」

 山科で戦を耐え忍んだメイ姫は、皇后を通じて天皇の判断を仰ぎ、許可だけでなく、政務に忙殺されている皇后の同行までも勝ち取ったのだった。


 待って。待って。どうして先に行ってしまうの。こんなに短い間しか一緒にいられないなんて嘘だよね……。

 目の前に真っ白に降り注ぐ滝が現れた。次の瞬間には滝は破裂して砕け散り、煙る靄に変わった。さっきまでくっきりと目視できた人影を認めることはできない。

 正座したセーラー服のスカートに、幾何学模様の水滴が広がる。たぶんこんなに泣きじゃくっているのは自分一人だ。それでも、泣かずにはいられなかった。

 大好きな母が理由もなく、突然家族三人を残して息を引き取ってしまったのだから――


「神の湯よりも天の男を選んだ代償は大きいぞ、サクヤ」

 夢か現か、最後に咲夜が聞いた音は若い張りのある女性の声でそう告げた。

 代償として残りの命を奪われた結果、咲夜の澄んだ瞳が太陽の光を感じることは二度となかった。

 隣で寝ている妻が美しいまま彫刻のように冷たくなっていることに気づいたのは、目覚ましが鳴った直後のことだった。

 りらの父、桧枝啓太は医者からの「奥様の体に何ら異常は見られませんでした」という何の慰めにもならない診断を飲み込み、高校生の息子と中学生の娘を抱きかかえた。

かい、りら…… 咲夜ちゃんの分まで生きような」

 遠い遠い時間の向こうで、父が涙をこらえて言った言葉が夢の奥底でりらの脳裏を駆け抜けた。


 小さな昆虫が木のうろから這い出し、よく目を凝らせば枯れ草の中からも瑞々しい若葉が顔を覗かせている。

 これが新しい季節の息吹というものなのだ。

 身重のりらのためにゆっくりとした行程で進んだ一行は、吉野宮で思い思いの一時を過ごしていた。

「リラ、こっちなら桜が見えるわ!」

「ほんと?」

 子供たちの中で一番、りらの世話を焼きたがっているのはアエだった。日に日に大きくなるりらのお腹を見ていつも嬉しそうにしている。

「ほらね」

 アエに手を引かれてやって来た場所は、正殿の北側、人工池のほとりだ。その池の淵に高さ五十センチメートルほどの小さく細い木が植えられている。そしてその枝の先端には、可憐な桜の蕾が三つ揺れていた。

「わぁ、かわいいね。毎年、どんどん大きくなって花も増えていくんだろうね」

「吉野の桜はきれいだけど、山にはちょっとしか生えてないの。もし山全部が桜で埋め尽くされたら極楽みたいになるわね!」

 アエとりらはにっこり笑い合った。首を傾けて山を仰ぎ見ると、確かに桜の木はほんの少ししか見つけられない。観光パンフレットなんかで見た記憶では、吉野山の桜はもっと雲海のように一面に咲いていた気がする。

 サララは激務の飛鳥宮から自分を子供たちと一緒に連れ出してくれた叔母に感謝した。叔母といってもメイ姫は三十代半ば、姉の感覚に近かった。

 吉野山の国栖が提供してくれた団子を食べながら、サララとメイは談笑している。外の人工池の周りでは男の子たちの走り回る騒がしい声が響いている。クサカベもオオツも久しぶりに子供らしく大きな声を出して楽しそうだ。

「最近、オオシアマは子供たちに厳しいのよ。新しい博士をつけてね、朝から晩まで学問させてる。二人とも従ってるのはいいんだけど、毎日あんなじゃ、体がおかしくなってしまうわよね」

「じゃあ、うちの娘に感謝しなきゃ。ミナベが吉野行きを言い出したんだから」

「そうね。あの子は人のことをよく見てるわ」

 ミナベはおそらくタケチの弟たちが勉強漬けで参っていることを知っていて、今回のお花見を提案したのだろう。妹のアエが「またクサカベ、勉強してるんだって。つまらないの」と頬を膨らませていたのを気にかけていたに違いない。当のミナベはタケチと連れ立って、宮のすぐ前をゆったり流れる吉野川の川原に遊びに出ていた。

「まぁ、あの二人は何も言わなくても心配いらなそうね」

「アエとクサカベはどうかしら?」

 それぞれの母親たちはくすりと笑った。池の方から一段と大きな笑い声が流れてくる。後で聞いたところによると、アエが池から這い上がってきた小さなつるんとした蛙を捕まえて、オオツの肩に乗せたところ、オオツがびっくりして転んでしまったそうだ。そこでクサカベが「あ、ひっくりかえる」と真顔で意図せずダジャレを言ってしまったものだから、アエとオオツの姉のオオクが爆笑したのだった。

 サララは姪であり、異母妹であるアエが大好きだった。クサカベもアエも互いのことを慕っているようだし、アエがちょっとお節介なのもクサカベにはちょうど良い。それに、アエは賢かった。クサカベが勉強して仕入れた漢籍の知識を、アエに話して教えると自分のものにしてしまうのだ。

「皆かわいい子供たち…… 将来が楽しみだわ」

 サララは本当に心の底からそう言った。


 吉野宮にやってきてから三日目、山道の安全を確認してきた舎人が戻ってくると、サララとメイ、それに子供たちは連れ立って山の桜を見に出かけることになった。

「貴子ちゃん、私のことは気にしないで皆と行ってきて。ここには、シヒがいてくれるから」

「ダメよ。だって、りらちゃんとシヒは会話できないじゃない。吉野は現代に戻ってからでもいつでも行けるから、私も一緒に待ってるわ」

 二、三回のやりとりを経て、結局、貴子はりらと共に吉野宮で待つことにした。


「具合はどう?」

 人生の先輩であるシヒが、立ち上がろうとしているりらの手を取りながら尋ねた。シヒは飾り気のない動きやすい蓬色の袍に白い袴を履いている。その隣で貴子が通訳をする。

「今日は昨日より暖かいし、気分がいいよ」

「よかった。あなたにはちゃんと元気に赤ん坊を生んでもらわないと」

 シヒの赤ん坊は二歳にならないうちに黄泉の国へ旅立ってしまった。元々体が弱かったのか、育て方が間違っていたのかはわからない。それから、飛鳥宮で再び舎人として勤務している夫との間に子は生まれていない。

「さぁ、できた。ヨウイチが見たらどうなるかしらね」

 シヒがりらに小さな鏡を手渡す。鏡には紐が括り付けられていて、首から下げることもできた。鏡をペンダントのようにして覗き込む。そこには見慣れた素朴な顔ではなく、上品ではあるがしっかりと化粧がされ、髪も普段のように一つに束ねるのではなく、天女のように結い上げられた晴れやかな女性がいた。視線を胸元と張り出した腹部にやると、日溜まりに溶け込んだような柑子色の袍に、柿色の紐がそよぐ。

 短時間で変身させてくれたシヒの手際のよさに、りらは感嘆した。あまり出歩けないりらのために、シヒがサララに頼んで余っている美しい衣を借りて「着せ替えごっこ」を楽しむことにしたのだ。

「カメラがあればいいんだけど」

 りらに丸い扇を手渡した貴子が言うと、シヒがそれは何かと訊いてきた。

「えっと、掌に乗る大きさの箱で、それを使うと今見た景色がそのまま残るの。いつでもその景色を見られるから便利よ」

「なんて不思議な箱! その箱があったら赤ん坊が生きてる間に姿を残せたのね……」

 シヒは目を瞬いて驚いた。未来という時間にはもしかして死者を甦らせる仙術なんかもあるのかしら……

 それから、三人は宮の女孺たちも数名含めて、お茶を飲みながらあれこれと話をした。この場に美輝がいないのは、サララたちと共に桜を山へ出かけているからだ。美輝も残ると言ったのだが、子供たちが三人とも一緒に来ないのは嫌だと言い張ったのでついて行かざるを得なかった。今日は澄んだ青空が広がっていて、きっと遠くの景色までよく眺められるだろう。今頃は賑やかな花見が行われているに違いない。

「ねぇ、私たちも少し外に出てみない?」

 十分休息をとった後、りらは貴子とシヒに声を掛けた。日が落ちる前には花見組も戻ってくるはずだ。

「そうね、宮の前にも桜の木が一本あるからそこまで行ってみましょうか」

 宮から徒歩で十分ほど、橋を渡って対岸に着くと目当ての桜の木の下に筵を何枚か敷いて座布団を置いた。風のない心地よい空気に包まれて、三人は無言で桜とエメラルドグリーンの吉野川を見つめた。

 さわさわ…… さわさわ……

 あれは川の流れの音か。それとも山の木々の微笑みか。目を閉じたりらの耳に微かな自然の動きが入ってくる。

「聞こえますか、アレオトメ」

 突然、貴子のでもシヒのでもない女性の声が降ってきた。目を開けて確認しようとしたが、りらの見た景色は吉野川の川原ではなかった。それは一面の蒼い空間。空だと思った次の瞬間には、風景がまた変わった。あれは飛鳥宮だ。しかし、飛鳥宮の全てが見える。りらは上空から飛鳥宮を見下ろしていた。

 視線はそのまま滑るように移動し、吉野へ向かった道をたどり、吉野川を飛び越えて一気に山の上へ到達した。桜が点々と咲いていて、山にまだら模様を作っている。りらはさらに飛んだ。何か寺院のような建物がある。修行者たちが出入りしている。もっと上へ視線が移ると、さきほどの修行者とは明らかに異なる雰囲気を持つ男が険しい道を歩いていた。役小角だ…… なぜかわからないが、りらは直観的に理解した。

「良い景色だったでしょう、アレオトメ」

 また声が聞こえた。一呼吸すると、りらの目の前には吉野川の川原と貴子とシヒの笑い顔が現れた。元に戻ったらしい。

「りらちゃん、気持ちよさそうに寝てたよ」

 貴子が暖かい肩掛けをふわりとかけてくれた。りらはお礼を言い、ふと胸元にしまいこんであった小さな鏡を取り出した。確かに少しぼーっとした顔をしている。

 りらはいたずら心を出して、鏡を太陽に向かって無作為に傾けてみた。子供の頃、理科の授業で鏡を使って光をどこまでも伝える実験をやった気がする。鏡を傾けるたびに、ちらちらと強烈な光が草むらや桜の幹に反射された。

「あ、サララ様たちが帰ってきたわ!」

 シヒが小さく叫んだ。朗らかなざわめきが、だんだんと声になっていく。山道から川原に続く通りを、色とりどりの衣を纏った一行が歩いてきた。

「ただいま! りらちゃん、大丈夫だった?」

 美輝が笑顔で駆け寄ってきた。

「うん。そっちは桜、よく見れた?」

「思ったよりね」

 美輝や子供たちの上気した頬を見ると、花見はそれなりに楽しかったことがわかった。りらは桜の木の下で立ち上がり、「皆、よかったね」と声を掛けた。

 いや、掛けたつもりだったが、発せられた言葉は全く別のものだった。

――見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにおえるは桜花かも

 りらの声が川原に響き、そこにいた誰もが振り返った。柑子色の袍と裳が風を受けてたっぷりとふくらみ、黄金の耳飾りがしゃらしゃらと揺れた。胸元から眩いばかりの光が照りつけている。

「りらちゃん……?」

 美輝が訝しがって、友人の顔を見つめ返した。りらであって、りらではない何者かが口を開く。

「久しぶりですね、皆さん。再び、こんな風に美しい日が見られるなんて……」

「久しぶり、って…… あっ、もしかして、クシナダヒメ!?」

 最もりらの近くに立っていた美輝は後ずさった。クシナダヒメはりらの姿そのままに、嫣然と微笑んだ。

「サララ皇后、あなたは天つ神の血を受け継ぎながらもよくオオシアマを助け、ここまでやってきましたね。ありがとう」

 クシナダヒメはついと進み出て、サララの両手を握った。サララは突然のことに驚いて声が出せない。

「絶対にオオシアマの子孫を絶やしてはいけませんよ。出雲の血を永遠に中つ国に残すのです。我が夫スサノオは天つ神でした。けれど、私と一緒になってからは中つ国のことだけを考えた。その子孫のオオクニヌシは身も心も中つ国の繁栄に捧げ、天つ神の侵略を許さず最も豊かな時代を築いたのです。もう二度と天つ神に葦原瑞穂の国を任せることはできません」

 サララは息を飲んだ。目の前にいるのは確かに未来からの旅人なのに、鏡の反射のせいもあるのか、直視できないほど神々しい女性が自分に語りかけている。

「……私は、どうしたらいいのですか? どの子をオオシアマの後継者として擁立すべきなのですか? 我が子クサカベ、姉の子オオツ、そして最も出雲の血の濃いタケチ、皆それぞれ優れています。それに、姉には娘オオクもいるし、夫の最初の妻の娘トオチも出雲の血を引いています」

「それで?」

「もし出雲の血を元のように近づけるのなら、タケチを天皇に就け、妃にトオチを迎えるべきなのでしょう。でも、トオチは――」

 サララが先を続ける前に、クシナダヒメは「知っています、あの娘の苦しみは」と答えた。

「皇后よ、跡継ぎは誰でも良いのです。つまり、オオシアマの血を受けた全ての子が相応しいと言えるでしょう。スサノオやオオクニヌシが切り開き、慈しんできた国を負って立つ心があるなら、誰でも」

「はい、そう思います」

 クシナダヒメは満足そうに頷いた。それから、金縛りにあったようにじっと成り行きを見守っていた貴子が尋ねた。

「クシナダヒメ、教えて。私たちはどうしたら二十一世紀に、あの日に帰ることができるの? 私たちが役に立ったかわからないけど、こうやってオオシアマとサララはオオトモに勝ったでしょ。もうあなたの意図は達成されたと思うんだけど」

「勾玉が導いてくれるでしょう。あなたたちがこの世界に来たのも、私ではなくて勾玉の力なのだから。そうそう、オロチの耳飾りがあったわね。あれを後継者に相応しいと思う子に譲り、身につけさせなさい」

 それが難問なのではないか。どの子が後継者に相応しいのか、クシナダヒメは示してくれないようだ。そして、思い出したかのようにこう付け足した。

「勾玉が持ち主に欠けていれば力は発揮されない。たとえ他人が強力な呪術を使っても効くことはありません……」

 さっきまで無風だった川原に少し強めの風が吹き抜けた。二度目の風が吹いた時、それは起こった。桜はまだ満開ではないのに、風に誘われたように桜の花びらが辺り一面に踊り、人間をからかいながら天に昇って行った。

 風が収まり、美輝は一瞬閉じた目を開くと、魂が抜けてしまったかのようにふらついているりらの姿が映った。

「大丈夫!?」

 身重の体が倒れたら一大事だ。美輝は咄嗟にりらの肩と腰を支えた。近くにいた護衛の舎人も手助けする。

「とにかく、早くリラを宮へ。クシナダヒメが体に依り憑いていたんだから、きっと力を使い果たしてしまったんだわ」

 サララは跡形もなく桜吹雪を飲みこんでしまった碧空を眩しそうに見遣った。


 妻が気を失ったという話を聞いて、自分も吉野へ同行すれば良かったと陽一は後悔した。しかし、過ぎてしまったことは仕方ないし、とりあえず体に異常はなさそうだ。それに、元の世界に戻るための鍵が勾玉であることもわかった。たったそれだけしかわからなかったけれども、クシナダヒメが現れたという事実が重要だ。

 オオシアマを始めとして、こちらの世界の人たちは妻をアレオトメと呼ぶようになっていた。神が降臨する巫女という意味らしい。既に未婚でもないし、子まで宿しているのだから本来の巫女とは別物なのだろうが、勾玉なくしてクシナダヒメが依り憑いた彼女が何か特別な力を有していることは、陽一も認めざるを得なかった。

 花見の季節が去り、新緑が世界を支配する爽やかな時間が訪れるようになった。飛鳥宮には旧来の官人がほぼ元の通りに戻り、政務や実務は軌道に乗り始めていた。先日は、川原寺に書生を集めて一切経を書写させるという仏事もあった。

「けどまぁ、勾玉が導いてくれなきゃどうしようもないな」

 武官の黒い朝服を脱いでくつろいでいるのは潤だ。最近は飛鳥宮の警護だけでなく、国土防衛の策などを練る仕事がほとんどで、頭が疲れる。潤としては官僚みたいな仕事よりも、現場でてきぱき動いている方が性に合っていた。

「それに、りらちゃんの勾玉がないと、どうにもならないんじゃないの?」

「オオシアマが出雲の玉造部に命じて、同じような勾玉を作らせたんだけど、あの瑠璃は日本では手に入らないみたいなんだ。一応、最高級の品を献上してくれたけど、身につけてもりらさんは古代人の会話が理解できない」

「てことは、戦場でなくしたまさにあの勾玉じゃないとクシナダヒメの力は発揮されないんだね」

 いくらなんでも、かつての戦場で勾玉をくまなく探すわけにはいかない。死傷者はとっくに引き上げられ、大地も周辺住民によって清められているはずだ。そんな中で小さな石が見つかったら奇跡と言わずして何と言おうか。

 りらはその場で一人うなだれた。あの時、もっときつく勾玉の紐を結んでおけばこんなことにはならなかったのに……。

「俺はもう半分諦めてるからさ、桧枝さん、そんなに気にしなくていいよ。住めば都って言うだろ」

 竜成が軽い調子で、親友の妻を慰めた。本音を言うと、恋人のシュナに思いがけず情が湧いてしまって、このまま離れるのが忍びないと思うようになったのだ。シュナは美輝と親しくなって、以前よりも感情表現を素直に表すようになり、それが竜成には新鮮で魅力的に感じられた。

「ところで、貴子には伝えてあるけど、オオク姫が伊勢祠に遣わされることになって、俺たち武官も護衛で同行するらしいんだ」

 出発は三日後だという。

「どれくらい行くの?」

「それはわからないな。伊勢祠に向かう前に、泊瀬斎宮はつせいつきのみやで一年くらい身を清めるって言ってた。護衛は行きの道中だけだから、俺たちはすぐ戻るよ」

 潔斎期間だけで一年ということは、大がかりな派遣だ。急に決まったわけではなさそうなので、情報は限られた範囲にしか伝えられていなかったようだ。

 貴子はオオクの健康チェックを頼まれた医師の助手として、住まいを訪ねた時に直接、伊勢行きを聞かされていた。

 その時のオオクはどこか誇らしげで、背伸びしているように感じられたが、弟のオオツは対照的に始終うつむき加減だったのがひどく印象的だった。

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