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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
飛鳥の千夜一夜物語
26/31

第10章 <3>

「りらちゃん、これ匂いどう?」

 ある薬草の前で、長い裳裾を軽く上げてしゃがみ、貴子はその葉を擦ってからりらに差し出した。ちょっといたずらっぽい笑顔だ。

「……え、ピザだよね、これ」

 正確にはピザやパスタにちょこんと乗っかっているハーブの匂いが、思いがけずりらの鼻腔に飛び込んできた。

「バジルよ。私も最初はびっくりしちゃった! まさか古代の日本にバジルがあるなんてね。天竺から新羅経由で輸入されてるんだって」

「天竺…… インドってこと? ふぅん、君も遠いとこから遥々やってきたんだねぇ」

 強い異国の香りを漂わせる小さな葉を、天にかざしながら、りらはいとおしそうに呟いた。

 しばらく同じ体勢で、りらは無言のまま薬草を見つめていた。だが、その視線はどこを見ているともしれず、焦点が定まっていない。

 まただ、と貴子はりらの異変に気付いていた。このところ、ごくまれにりらの動きが一瞬止まったり、視線が明後日の方向を見ていたりする。

「大丈夫? りらちゃん、毎日根詰めて記録編纂してるから疲れてるんじゃない?」

「あ、ごめん、また私何かおかしかった……」

 自覚症状はあるようだ。もしかしたら、勾玉が手元にないせいだろうか。もし、この衛生状態が悪くて生活様式も異なる世界で健康を保っていられるのが勾玉のおかげだとしたら、それを失ったりらにとってはまた別の危機なのではないか。

「長柄くんには、ちゃんと状況を話してね」

「うん……」

 たまに目眩もするような気がしたが、いつもすぐに収まってしまうのでりらは陽一に話すことはなかった。ちょっと疲れてるのだろう、とその程度にしか考えていなかった。だからこそ、午後は穏やかな薬草園で過ごすことにしているのだ。

 ところが、不調はただの疲労どころか、りらと陽一の人生に大きな爪痕を、そして飛鳥の歴史に存在すべからざる者を残滓として置いていくことになるのだった。


 僅かな湿り気と冷気が、換気のために確保された引き窓の間から流れ込み、チトコの眠い頭をぴりりと引き締めた。

 秋晴れが続いていたが、今朝は小雨が降っている。気がつけば、飛鳥の森林や丘は鬱金や紅蓮に色づいた木々で覆われていた。今日の雨で一層色が深くなるだろう。

 チトコは誰よりも早起きだった。オオシアマの側近中の側近として、ヒロと共に武芸にも学問にも勤しみ、己を磨いてきた。ヒロとはもちろん赤の他人だが、よく兄弟のようだと好意をもって言われる。ほとんど行動を同じくしてきたせいか、似ていると言われれば否定はできないが、チトコはどちらかというと静謐な時間を好んだ。

 ひと度、宮中が目覚めればあっという間に生活音や読経や子供の声が交差する。それも悪くはないが、ひたすら無音の中でとりとめのないことを考えたり、あるいは何も考えなかったりする時が必要だった。だから、朝早く目覚める癖がついた。

 チトコは今日使用する予定の木簡を用意し終わると、立ち上がってすっと引き窓を閉じた。外もまだ暗いため、閉じても編纂所の室内の明るさはそれほど変わらなかった。

 燭台に火を入れようとした時、ヒロが姿を現した。蘇芳色の朝服は薄付きの紅葉のようだ。

「おはよう、今日はえらく寒いなぁ」

 ヒロは両手を袍の袖口に差し入れながら、机の前に座った。

「こんな日にこそ、剣の鍛練がしたいんだけど仕方ない」

 部屋の四隅に明かりが灯り、だいぶ文字が見やすくなった。机に積まれた木簡をちらと確認する。

「遠い遠い昔の話だな。うちのばあさんでも、こんな始まりの物語は話してくれなかったよ」

「俺も出雲王国の終わりから先の話は、今回初めてまともに知ることになるな」

 時を告げる太鼓が宮中に鳴り渡った。眠気と共についでに雨雲も吹き飛ばしてくれればいいのに、とヒロは思った。

「おはよう」

 陽一とりらが登場し、いつものように朝の挨拶を交わす。

「じゃあ、読み上げよろしく」

 陽一が合図を出すと、ヒロが次々と木簡を読み上げていった。まずは、イワレヒコという男の記録だ。様々な言い伝えが残っており、それぞれ微妙に話が異なっている。とにかく、眠っていた木簡の記録を呼び起こし、再びこの世に存在させてやらなければならない。

 高天原から天つ神たちが降りたって、日向の高千穂宮に腰を据えた後、しばらくの間は国つ神たちも大人しく従っていたようだ。海神の娘たちを娶っており、中つ国の海域も配下に治めようとしてきたことがわかる。しかし、中つ国は思ったよりも広かった。

 オオクニヌシ亡き後の中つ国はあまたの中小国が入り乱れ、興亡激しく、勝手に中つ国の王と称して後漢の皇帝に使者を派遣したりする有り様であった。そして高千穂宮は中つ国の中心部からはほど遠い場所にあった。

「イワレヒコはこれじゃ中つ国を支配したことにならないと思ったのね、きっと。それに、東方に素晴らしい土地があるという噂も聞いていた。高千穂は本当に美しくて暖かくて、居心地が良かったんだけど、イワレヒコはとうとう住み慣れた高千穂を出て、彼にとっての新天地を目指すことにした……」

 りらは流れるようにイワレヒコの物語を紡いでいく。出雲王国の時と同じように、その場でイワレヒコの決断と行動を見てきたかのように、鮮やかに。

「高天原と中つ国のイズモ王国との戦いからもう何十年、もしかしたら百年以上、ううん、もっともっと気の遠くなる時間が経っていたのかもしれない。神さまたちの時間感覚って人間とは違うからね。中つ国の人たちは、戦があったことを忘れかけていて、たくさんの人がイワレヒコの旅を支援してくれた」

 りらが興味を引かれたのは、イワレヒコが高千穂を去った後に火の国、つまり肥国を中心として大規模な戦が勃発したことだった。イワレヒコの配下にあった火の国が真空地帯を埋めようと周辺の国を襲い、高千穂宮まで進軍していた。

 二つ目に興味深いのは、あの出雲の動きだ。徹底的に高天原軍によって破壊された出雲は焦土と化し、人口が激変したが、戦火をくぐり残った人々とアメノホヒが杵築の社を守って細々と生きながらえていた。そして、驚くべきことに、ニニギとその子孫が高千穂宮を本拠地として暮らしている間に、出雲は再び勢力を盛り返していたのだった。

「この時の出雲の長は、タケヒラトリという男。アメノホヒの子孫ね。国の長でもあり杵築の祭祀を司るはふりでもあったタケヒラトリは、イワレヒコが立ち上がったことを知って、オオクニヌシの子孫を出雲から凡海郷に移したんだって」

「子孫? あ、もしかして、コトシロヌシとタケミナカタの正妃が生んだ子供たちの?」

 陽一が明確に指摘すると、りらの胸は一瞬だけきゅんと切なく打った。王の後継者に相応しい、聡明で優しかったコトシロヌシ。りらはコトシロヌシに心を惹かれた。そして、オオシアマによれば、りらの婚約者の遠いご先祖様がコトシロヌシなのだ。

「幸い子供たちは日向と州羽で育てられてたから、高天原との戦いに巻き込まれずに済んでいて、戦が終わった後に出雲に呼び寄せられてたというわけ」

「さらに子孫を別の場所に移して、オオクニヌシの血が絶えないように図ったというわけですね」

 ヒロはため息をついた。天つ神も国つ神も、自らの血を後世に伝え続けることに必死なのだ。いやむしろ、それこそが全力で生きる意味なのかもしれない。

 イワレヒコが生まれた頃、あるいはもう少し前、出雲の祭祀を司っていたタケヒラトリは大量の銅矛、銅鐸、そして銅剣を地中に埋めた。ただ一つでも共同体を守る力があるとされる神器を大量に使用したのは、天つ神の子孫の力から出雲全域を守るためであった。いわば結界を張ったということだ。

「イワレヒコは出雲にも立ち寄ったの。だって、因縁の地でしょ。でも、結界のおかげでイワレヒコは出雲の地を踏むことができなくて引き返した。吉備までの道のりは順調だったみたいね。そこで、軍備を整えて何年も時を過ごし、また東へ向けて旅立った」

 そこから畿内に入った時から、イワレヒコは苦難の連続に耐えなければならなかった。「多くの豪族や女賊が立ちはだかって、国つ神に毒を吐かれたり、土蜘蛛族を倒したり…… そう、高千穂からずっと一緒についてきてくれたお兄さんが戦死したりもした。宇陀、葛城、磐余、磯城をようやく平定し、ついにイワレヒコは橿原に宮殿を造って王座を手にした」

 そこで陽一はイワレヒコに関する最後の木簡を手に取り黙読した。木簡にはこう記されている。

――イワレヒコが東方へ発った後、火の国は周辺国に戦を仕掛けた。国々は大いに乱れ、互いに攻防を繰り返し数年が過ぎた。ついに高千穂の宮は女子をもって王とした。魏とよく通交し、国は栄えた。

「女王の国か……」

 頭の中で何か引っかかるものがあったが、陽一は木簡を机に戻した。オオシアマの決めた編纂の方針は出雲王国に関連する記述を優先してまとめることというものであった。イワレヒコが不在の日向の地で何が起きようと、出雲とつながりがない事象であったのなら、それは記録する必要はないのだ。

 まぁ、この先また女王の国の話が出現したら扱いを考えよう――。

 次の木簡を拾い上げようとした時、ヒロが大きな欠伸をした。

「そろそろ熱い甘酒でも飲みませんかね?」


 約ひと月かけて、竜成は高向麻呂らを引き連れて大宰府へ赴いた。

信じられないことに、美輝とシュナは道中ずっと歌ったり踊ったり、遠足のノリそのままに騒ぎ通しであった。陸路では行く先々の路上で舞踏を披露し、地元民や官衙の役人を惹きつけていたし、水路では船の中で酔いと戦うかのように大声を張り上げて唄っていた。そして時々、ちゃっかり旅芸人がよくやるように見世物代を稼いでいた。

 エリート路線まっしぐらで生きてきた麻呂は、飛鳥を発つ前に竜成が「ああ、先が思いやられるね。エリート君にはきっと試練になるよ」と乾いた笑いと共に漏らしていた意味を思い知った。若い女子が、しかも歌舞に長けた女子が二人も存在すると毎日が騒々しい祭りなのである。

 市場で美しい小物の陳列を見れば、「かっわいー!」と声を上げ、防人を率いる軍団の若者を見れば、「見て、あの人、あたしの好み!」などとさざめくのだ。美輝より断然女性らしく大人びたシュナですら、同種人物に化学反応を起こしたのか冬の凍える道中も何のその、生命力に溢れた笑い声をまき散らしていた。

「君たちはいい年したレディーなのによくそんな元気でいられるね」

 竜成がちょっぴり嫌味を言うと、美輝は何バカなこと言ってんの?という目つきで反論してきた。

「あのね、あたしたち左遷されたわけじゃないし、護送されてる囚人でもないんだよ! しんみり旅したって面白くないじゃない」

「そうよ、タツナリ。暗い雰囲気が嫌いなのはあなたも同じでしょ」

 竜成の後ろで麻呂が苦笑した。ダメだ、女人を二人も相手にしたら返り討ちをくらってあっけなく終わりだ。もしかしたら、麻呂がこの旅で学んだ最大のことは、女人に挑むべからずという教訓だったかもしれない。

「再び息災でお会いできるとは、嬉しい限りです」

 重たい毛皮の外套に薄っすらかかった粉雪を振り払い、脱いだ外套を筑紫館つくしのむろつみの奴たちに手渡す。通された先は、館長室である。

 竜成にとっては顔馴染みの館長、日下部赤勝が飛鳥からの客を出迎えてくれた。

「お久しぶりですね。こんなに雪が降ってるなんて思いませんでした」

「数年に一度くらい、寒さが厳しい冬がありましてね、今年がそうなのでしょう。まぁ、たっぷり積もるということはありません。食事を用意してありますよ」

 大広間に案内されると、食膳からは白い湯気が魅力的に立ち込めていた。外はかなり寒かったが、ここは湿度もあってほんのり暖かい。ホタテの醤油焼きの香ばしい匂いと汁物の深い匂いが、若者たちの空腹を刺激した。

「オオシアマ様はいかがお過ごしでしょうか」

「変わらないといえば変わりませんよ、日下部殿。政事の総覧はなさっていますが、本格的に飛鳥宮が動いていないので、傍目にはのん気に過ごしています。クサカベ様もご健康でいらっしゃいますよ」

「そうですか、随分とご成長されたでしょうな」

 赤勝は嬉しそうに目を細めた。戦乱では長男のタケチが前線で活躍したと聞いており、それはそれで喜ばしいことではあったが、同時に心を痛めた。もし怪我でもしたら……。他方、クサカベ王子は桑名で待機し全く戦火に巻き込まれなかったという。筑紫館長にとっては、それが何よりの吉報であった。

「それから、日下部殿。仲間を紹介します。こちらは高向麻呂、宮仕えして間もないのですが新羅の言葉に不自由しません」

 麻呂が優美に礼をすると、赤勝はうんうんと大きく頷いた。麻呂を見る瞳はどこか懐かしそうだった。

「麻呂殿、父上と私はカル大王の治世の同期なのですよ。国押くにおし殿は刑部尚書、私は兵部侍郎としてね。いやはや、彼の息子がこんな立派な官吏になって大宰府までやってくるとは!」

「そうだったのですね。残念ながら父はこの度の戦が始まる前に亡くなったのです。だから、日下部殿のお話は伺ったことがなく、失礼いたしました」

 亡くなったという言葉に、赤勝は少しショックを受けたようだった。しかし、お悔やみを述べ、「そういう歳なのだな、私も」とつぶやくと、再びにこやかな顔で竜成と麻呂を見た。

「右手の女人たちは、飛鳥随一の歌師と舞師です。シュナと美輝と申します。饗応に相応しい者として、オオシアマ様が推挙されました」

「よろしくお願いします!」

 美輝が元気よく挨拶をした。黙って礼だけすればいいのだとあれほど教えたのに、何てやつだ……

 大きな声で挨拶をしたことすら予定外であるにもかかわらず、さらに美輝は形だけ遠慮した声で館長に最も気になることを尋ねた。

「あのー、新羅の使者たちはどこでどうしてるんですか?」

「おい、その話は後でいいだろ、話がややこしくなる」

 必死で止めようとした竜成であったが、美輝はその目ヂカラというやつで訴えた。お願い、教えてください、教えてください!

「気になるのかね。新羅の使者は別館で寝泊まりしておるよ。明日の夜の饗応にお出ましになる」

「じゃあ、こっちの本館にはいないんですね?」

「まぁ、基本的には……」

 美輝はうっすらと笑みを浮かべた。しかし、その意味するところは竜成には読み取れなかった。孝恭の姿を一刻も早く見たいのか、それともなるべく会わないようにしたいのか。

当然、この場にいる全員が、使者の一人である朴孝恭が太子の金政明キムチョンミョンの仮の姿だと知っていた。だが、館長は美輝と太子の関係までは承知していない。あくまでも非公式の関係なのだ。

「今夜のもてなし、感謝いたします。我々はこの辺で……」

ごたごたが起きる前に、竜成は美輝の頭を無理やり下げさせて退出することにした。腕をひっつかみ半ば強制的に館長室から出ていき、慌ててシュナと麻呂が追う。

飛鳥からの使者のために用意された控え室に戻るや否や、美輝は思い切り抗議した。

「なんなのよ、もう! 館長に色々訊きたかったのに! 鄭くんにはわからないよ、近くに、好きな時にシュナに会えるんだから! 私だって――」

「落ち着いて。今は、個人の感情で動くな。俺たちが負わされている任務が、この国にとってどれだけ重いものかわかるよな?」

聞き分けのない子供を諭すように、竜成はゆっくりと穏やかに言った。

「そんな重要な仕事、何であたしたちに任せるのよ」

「それは、オオシアマに訊いてくれ。任されちゃったんだから、成果を持ち帰らないと。でも、明日の饗応が終わったら好きにしていい」

まだ何か言いたそうな美輝の腕を、シュナがそっと叩いた。

「今日はもう休もう。疲れた顔なんか太子にお見せできないでしょ。ね?」

シュナがいてくれて本当に良かった。もしかして、オオシアマは美輝の手綱をとらせるためにシュナもメンバーに入れたのだろうか。ともあれ、美輝は仲良しのシュナの助言に従うことにした。

 雪は止んでいた。筑紫館の屋根や庭の木々がほんのり雪を被っている。

 美輝はゆっくりと目を開いた。シュナとひっつくようにして布団に丸まっていたせいか、寒すぎるということはなかった。

「おはよう、シュナ」

 声を掛けながら、美輝は布団から這い出した。やっぱり出ると寒い…… 二度寝の誘惑を振り切って、廊下を覗いてみる。水の入った桶と手拭いが用意されていた。

 起き出したシュナと共に着替えながら、美輝は朝方見たらしい夢について話した。

「孝恭の夢、見ちゃった」

「それは当然ね。だって、太子はミキを恋い慕っていらっしゃるんだもの。夢に現れても不思議じゃないわ」

「けどね、彼はあたしを見ても全然気づかないの。しかも、隣にすごくきれいな女性がいた。頭のてっぺんからつま先まで豪華で…… 孝恭はずっとその人のことを見てた」

 言いながら、手持ちの鏡で服の襟紐や髪型が整っているか確認する。最後にくちびるに紅を引いた。

「その女性、きっと太子妃よ」

 シュナは遠慮なくずばっと思ったことを口にした。だが、美輝は気分を害したわけでもなく、親友の言葉を肯定した。

「あたしもそう思う。やっぱり、あたしなんかにヘラヘラしてちゃダメだよね。ちゃんと今いる奥さんを大事にしてあげなきゃ」

 太子や王にはたくさん妃や嬪がいるのが常だから別に構わないんじゃないかしら、とシュナは思ったが、未来から来た人にとっては違和感があるのかもしれない。美輝が何か納得しているのなら、口を挟むことではなかった。

「朝餉、食べに行こ」

 さっきよりもずっと清々しい顔をした美輝がシュナの腕を取った。


 昨晩の夕餉も満足のいく質量であったが、今夜の饗応はそれを遥かに上回る豪勢な膳となっていた。本館の大広間は篝火が煌々と燃え、床には滑らかな肌触りの敷物が敷き詰められている。膳に置かれた瑠璃や玻璃の杯が、篝火の光を受けて深く不規則に瞬く。

 さすがに高向麻呂は薄縹色の礼服を完璧に着こなし、いかにも若手外交官という雰囲気を醸し出している。竜成は初めて孝恭と出会った日を思い出した。あの時の孝恭も今日の麻呂のように、有能なエリート官僚に見えたのだった。

 竜成と麻呂は伏した。主賓である新羅太子と使者たちが大広間に足を踏み入れ、席につく。部屋の左側が飛鳥宮の使者、右側が新羅の使者という位置取りだ。そして、主賓が座るべき真正面には、大きな銅鏡が据えられている。

この配席はかなり譲歩したと言える。確かに太子は飛鳥宮側の誰よりも高位であったが、竜成や麻呂はオオシアマの代理なのだ。そして、オオシアマは自分と新羅の太子が同等であるとは考えていない。向かい合った席は一見対等だが、正面の一段高い場所にはオオヒルメ大神を表す銅鏡が新羅の使者たちを見下ろしている。

「では、宴を始めさせていただきます」

館長が一礼すると、後方に控えていた楽師たちが各々の楽器を奏で始めた。新羅から持ち込まれた十二弦の箏や縦笛が優美だが陽気な旋律を紡いでいく。

「久しぶりだな、鄭殿。元気そうで良かった」

「太子もお変わりなく」

孝恭は美輝が飛鳥から派遣されていていることをまだ知らなかった。竜成から麻呂を紹介され、その流暢な新羅言葉に感服した。

「貴国の官吏と母語で会話ができるのはありがたい。是非これからも、我が国との架け橋になってくれ」

「はい、ご期待に沿えるよう精一杯努力いたします」

麻呂は微笑みながら、兄弟がいれば兄くらいの年齢の異国の太子をじっと見つめた。新羅の現王つまり孝恭の父は半島統一のため唐と交戦中である。この戦が成功裏に終ればかつてない強力な国が生まれるだろう。そして、目の前の若い太子が跡を継ぐことになるのだ。

そう遠くない未来を思う。日本にはオオシアマが、新羅には孝恭が為政者として並び立つ日が必ずやってくる。

筑紫館での饗応から十数年後、麻呂は遣新羅大使として王となった孝恭に謁見することになる。

「さぁ、太子、我が国の楚々たる舞をご覧いただきましょう」

竜成は意味深な微笑みで孝恭に告げ、両手を二度と叩いた。すると、さわさわと薄紅色の裳を引きずりながら舞人が現れた。

舞人は天女の面を着けていて顔はわからない。二人目の天女も登場し、部屋の隅に座った。楽師たちの音色はただ調子を取るくらい微かに響く。二人目の天女が面の下で口を開き、美声を発した。それは歌うというよりも詩吟に近く、囁き畳み掛けるような声だった。

歌女は面を外し、次第に声を高く大きく響かせていった。舞人は面をつけたままだが、既に繊麗な手の動きと優艶な腰使いで使者たちを魅了していた。

天女は一回りすると同時に胸元から布をすっと取り出し、皆に見えるように広げた。それは吉野川に似たエメラルドグリーンの領巾だった。

「……ミキ!」

とうとう孝恭は天女が己の恋い焦がれる女人であると悟った。だが、漏れた愛しき名前は華やかに咲く楽の音色に溶け込んでしまった。

曲調が変化し、里の者が好むような愉快な調べが駆け巡る。美輝は面に手をかけ、一息に投げ捨てた。婉然たる笑みが孝恭の目に映る。

いつの間にか他の舞人や歌女も加わり、宴席は快活で賑やかな場と化した。美輝という万華鏡に捕らえられた孝恭は、永遠に続く美の形から抜け出すことができなかった。

「太子、お気に召しませんでしたか?」

鈴を転がすような声に、我に返ると目の前に天女が座っていた。面を着けていなくても、美輝は完璧な天女だった。

「いや、この上なく素晴らしかった、君も歌女も。美酒に酔ってしまったよ」

現実世界に戻った孝恭は、いつものように太子然として振る舞った。いやしくもこの席が外交の場であることを自覚し、美輝だけを贔屓せず、楽師や舞人たち全てを讃え、飛鳥からの使者と館長に格別な宴席を設けてくれたことへの感謝を述べた。

宴が終わりに近づき、まず新羅の使者が退出する。孝恭は立ち上がる直前、ずっと側に侍っていた美輝に囁いた。

「後で、必ず俺のところへ」


雪明かりにぽうっと浮かび上がったその男の長身を見た時、息が詰まるほどの苦しみを感じた。足を運んだことを後悔し、覚えず溢れた涙を手の甲で拭う。

「ミキ、おいで」

深く優しい声で抱擁されてもなお、美輝は進退を決めかねていた。部屋に一歩踏み込むか、踵を返してシュナの元に帰るか。案山子のように立ちすくむ美輝に、孝恭は歩み寄った。手を伸ばせば触れそうな位置に来た時、美輝が「待って」と留めた。

「聞いて、太子。昨日ね、あたし、夢の中でクシナダヒメからお告げをもらったの。あなたのことよ」

 もちろんクシナダヒメのお告げなんて嘘だ。ただ夢に孝恭が出てきたというだけのことだが、美輝はそれを利用することにした。

「俺のこと……?」

「あなたはすごく立派な姿で、隣には輝くほどきれいな女性がいたよ。あたしじゃなかった。クシナダヒメは、『この男は新羅を負って立つ。かの国を強大に作り上げることができる。ただし、妃を蔑ろにすれば国は綻びるだろう』って教えてくれたの」

「その妃はどんな風貌だった? 本当に君ではないのか?」

「小柄で少しふっくらしてた。瞳が優しくて…… 全然、あたしと違うでしょ?」

 孝恭は押し黙った。その妃とやらは美輝と別人物であるだけでなく、今の太子妃とも異なる女性のようだからだ。美輝がでまかせを言っているのか、それとも本当にクシナダヒメは重要な未来を告げているのか。

「……今は、太子の務めを果たして。あたしはあたしの役目を終わらせる。未来に帰るのよ」

 美輝はただ一歩離れた位置に立っている孝恭を見上げた。いつでも自信に満ちたその瞳に、今だけは言いようのない絶望が宿っていた。これ以上はもうダメ。関係を深めないという決心が揺らぎそうになり、美輝は無理やり笑顔を作った。

「ミキ、触れさせてもくれないのか。せめて今夜限り、側にいてはくれないか。そうでなければ俺の魂はずっと君を求め続けるだろう。俺は妃を蔑ろにしたりは――」

「さようなら、太子。あたしに恋する気持ちがずっと続くなら、きっと未来で会えるよ。この領巾が目印だから見つけられるでしょ? ねえ、そうしよう? だから、あなたは今を生きて!」

 美輝の腕を命綱のように必死に掴もうとする孝恭の手を、あと一息のところでかわし、美輝は裳裾を翻して立ち去った。別れ際に手を握るという一縷の望みすらなく、たった数回のくちづけの余韻だけを残して倭国の天女は消えた。


 しんと冷えた空気に日の光がどこまでも直線に進む。再び夜中のうちに降った雪は、光を浴びて水晶のように見えた。

 正殿応接の間は昨晩の宴の残響を一切感じさせることなく、わずかに緊張を伴って飛鳥と新羅の使者たちを迎えていた。ここに女人の姿はない。

「早速ですが、オオシアマ王子の御意向をお話いたします。承諾していただくか否かは、新羅太子の御聡明な判断をもってお願い申し上げます」

 麻呂は初めての外交交渉をこう切り出したが、言外に婉曲的な脅しが含まれていることは明らかだ。

「一つ、新羅は日本からの使者をいかなる場合も受け入れ、相応に接遇すること」

 孝恭は軽く頷いた。これくらいの希望は想定内だ。

 麻呂は続ける。次が肝心だ。

「二つ、新羅は日本に使者を派遣し、国内情勢を報告すると共に、新たに得た西域や唐の技がある場合、それを知らしめること」

「取れる情報は悉く取るということだな。オオシアマ王子らしい態度だ」

 太子は余裕に構えている。しかし、麻呂が条件を付け加えると、孝恭は気色ばんだ。

「ただし、日本への朝貢という形をとっていただきたい」

 それがオオシアマの条件だった。

「新羅が貴国に臣下の礼を尽くさねばならない理由などない! 恩を仇で返すのか!」

 滅多に声を荒げない孝恭が、激昂し椅子から立ち上がった。補佐の金押實も眉根を寄せて厳しい表情でこちらを見ている。しかし、麻呂は臆することなく言った。

「確かに今般の戦に勝利することができたのは、貴国の援軍あってこそ。とはいえ、我が方が援軍を要請したわけではございません。」

 つまり、新羅が援軍を送ってきたのは、オオトモ王子を即位させないためという国益に従ったものであり、ことさら恩を着せられる覚えはないということだ。

「退出するぞ」

 孝恭は押實を促し、席を離れようとした。その時、おもむろに竜成が口を開いた。

「今、新羅は苦境に立たされているのではありませんか」

 孝恭はその声に背を向けながら一瞬歩みを止めた。竜成は半島の戦況を披露してみせる。

「夏の間、我々は勝つことができましたが、同じ時、新羅と高句麗遺民軍は、右驍衛郎将うぎょうえろうしょう高侃こうかん率いる唐軍によって、平壌が占領され、複数の城を奪われたそうですね。白氷山付近には十万単位の唐軍が控えているとの情報も伝わっています」

「どうしてそれを……」

 押實が驚きの声を発する。今まさに立ち去ろうとしていた新羅太子は後ろを振り向き、元の場所へ引き返した。

「我が国の軍の機密を、なぜ貴国が知っている? 私ですらつい最近知り得た情報であるのに」

 当然、新羅の動向を把握し情報をオオシアマに入れていた人物がいた。それはカヅラキ大王の治世に遣新羅使として半島へ渡った阿曇頬垂あずみつらたりである。竜成がオオシアマと大宰府へやってきた時にも、頬垂からの書簡による報告を受けたことがある。彼はその後も密かに新羅に留まり、様々な情報を本国へ伝えていた。

 竜成はその事実を明かさずに話を続けた。

「オオシアマ様も貴国による半島の統一が望ましいと考えています。高句麗復興運動が功を奏するかどうかはわかりません。しかし、新羅だけでも唐を退けることは十分可能なはずです。我が国が供給している鉄と武具、それに軍資金が全く役立たずであるとは思いませんが…… あるいは、太子の御身をすぐにでも送り出すことも可能です」

 初めからこの台詞を言いたかったのではないかと思うほど、竜成は澱みなく飛鳥宮の意図を伝えた。

 朝貢形式に従わなければ、今後は鉄などの供給を止める。お前自身を人質として太宰府に留め置くことも容易いのだ。それを望まぬのなら、こちらの要求を飲め。

 外交とはかくも無情な世界である。共に戦い、泣き、笑い、一時でも濃い時間を過ごし、最高級のもてなしを振る舞ったが、国の威信や尊厳、存亡が掛かった国と国の付き合いは話が別だ。

 朝貢形式に従わなければ、今後は鉄などの供給を止める。お前自身を人質として太宰府に留め置くことも容易いのだ。それを望まぬのなら、こちらの要求を飲め。

 外交とは無情な世界である。共に戦い、泣き、笑い、一時でも濃い時間を過ごし、最高級のもてなしを振る舞ったが、国の威信や尊厳、存亡が掛かった国と国の付き合いは話が別だ。

 自信に裏打ちされた若い太子にとって、この日本国の要請は屈辱を通り越していた。

 竜成はそもそも新羅の出ではないのか。どうして同胞に過酷な態度を取れるのか。孝恭は問うた。

「新羅の記憶はほとんどありません。俺は今は日本国で生きているのです」

 その答えが本心かは定かではない。ただ、オオシアマに忠実であることは確かだ。

「少し時間をくれ。ここで即答はできない」

「わかりました。我々は明日の朝、発ちます。結果はなるべく早く、日下部殿にお伝えください」

 深々と礼をする竜成と麻呂を一瞥し、孝恭は押實を伴って部屋を出ていった。本当は今まで通り、友人として付き合いたかった。しかし、所詮そんな望みは身分という変えられない壁が存在する時点で、幻想にすぎなかったのだ。

 もし、交渉に当たっていたのが全く初対面の人物であれば、朝貢を要請されてもそれほど抵抗を感じることはなかったかもしれない。なぜなら、三韓時代から百済も新羅も倭国に朝貢するのが常だし、統一したからといって急に力関係が変わるなどということはないのだ。唐が消滅し、半島の背後が完全に安全地帯になるという未来はおよそあり得ないからだ。

「結局、ミキは姿を見せなかったな。もう会うつもりはないということだろう」

 別館の自室に着いた孝恭は押實に袍を脱がせてもらいながら、ぽつりとこぼした。視線はわずかに本館を向いている。

「正直に申しますと、私はほっといたしました。倭国の女人を連れ帰れば、きっと太子妃様は大騒ぎし、嫉妬に狂ってあの女人を虐待しかねません。後宮の乱れは国の乱れでございますゆえ」

 立太子と同時に、妃候補として全新羅から選りすぐりの美女が集められたが、最終的に現王と王妃の信を得た者はその中にはいなかった。というのも、王族に属する蘇判ソパンである金欽突キムフムドルの娘を凌駕する女が見つからなかったからである。世間一般では絶世の美女と呼ばれるその娘は、容姿のみならず教養も深く、傍目には申し分がなかったが、よくある話のように性格に難があった。

「あれに子が生まれさえすれば、心も容貌も穏やかになるだろうが……」

 初めは分別のある上品な顔立ちをしていたが、今では頬は柔らかさに欠け、目元はきゅっと鋭さを増している。何年経っても太子妃からは跡継ぎが生まれず、次第にそれが重荷となって周囲に当たり散らしたり、女官たちを苛めるようになってしまった。孝恭が太子になる前からの恋人が女児を生んだ時も、まだ体調が万全ではない母親を子から引き離し軟禁状態にするという出来事もあった。

 それ以来、孝恭が別の女性と会うこともままならず、倭国へ密かにやってきた。そこで、快活で艶のある美輝と出会って、恋い焦がれない方がどうかしていると言えよう。

「しかし、あの女人はこの世の者ではないのだ、押實」

 窓際に立ちながら孝恭は瞑想した。

「未来で会おうと言っていた。クシナダヒメという倭国の女神のお告げとやらも教えてくれたよ」

「左様ですか。倭国は不思議な国でございますね。太子の御心がその未来まで続きますよう、押實めはお祈りいたしましょう。今の苦難を乗り越え、新羅はいつの日にか最も強く輝ける王国となるでしょう。その時には、倭国とも堂々と渡り合うのです」

「ああ、わかってる」

 窓の外を見ると、今年三度目の粉雪が舞っていた。この分だと、新羅では大雪だろうか。苦境に陥っているであろう故郷の軍を想い、孝恭は武者震いをした。


 時は少し遡る。飛鳥から太宰府への使者が難波津を出港してから数日後、飛鳥寺の僧侶たちが内安殿で読経を上げていた。オオシアマは護国のためには今までの治世以上に仏教の興隆を図る必要があると考え、定期的に仏事を行っていた。

 この日は、身内だけでなく業務に差しさわりのない範囲で内安殿に勤める官人や女孺も参加が許された。

 僧侶の張り上げる声は抑揚はあるが単調で、何を言っているのか全く分からず、りらの意識はところどころ飛んでいた。今日はやけに眠気がひどい。しばらくして眩暈を感じ、さらに突然吐き気に襲われた。そう広くはない部屋に焚き込められたお香が、不調を悪い方向に刺激したに違いない。

 長い読経が終わると同時に、陽一は右肩に重みを感じた。

「りらさん……! どうしたんだ?」

 りらは青ざめながら、片手で口元を押さえ、必死に陽一にしがみついていた。

「大丈夫ですか?!」

「わからない。でも、運んで休ませなきゃ!」

 最後尾の二人の異変に気づいた舎人たちが足早に駆け寄ってきた。退出しかけていた僧侶の栄真も、他の僧侶を先に行かせるとこちらにやってきた。

「とりあえず、静かな場所へ移動しましょう」

 ちょうど史書編纂室の隣の間が空いていたため、りらをそこへ運んだ。りらは軽く吐いた後、横になった瞬間に意識を失った。

 まだ飛鳥宮には女医が着任していないため、薬草園で作業をしていた貴子が呼び戻された。医者ではないが傍に女性がいた方が安心できるのではと、サララが言ったのだ。

 脈の心得がある栄真が、脈に異常は見られないので安静にと伝えると、オオシアマとサララは政務に戻っていった。栄真はりらと親しいと聞いた貴子にだけ聞こえるように小声で二言三言何かを告げた。貴子ははっとしたように瞳を見開いたが、「わかりました、確認します」と答えた。そうして栄真もまた「何かあればすぐ呼んでください」と言い残して寺へ帰っていった。

「あの坊さん、何て?」

 陽一は貴子に尋ねたが、貴子は少し躊躇っている。

「もしかして勾玉がないことと関係してるの?」

「それはまだ言えない…… りらちゃんは私が見てるから、ヒロたちの仕事を手伝ってきて。目を覚ましたらちょっとりらちゃんに確認したいことがあるから」

 釈然としない様子の陽一をなんとか外に出すと、貴子は優しくりらの手を握った。

 小一時間くらい経っただろうか。寝返りを打ったりらの肩から布団がずれてしまい、かけ直そうとした時、りらの瞼がそろそろと開かれた。

「りらちゃん? 具合どう?」

「私、どうしたんだっけ……」

「仏事の終わりに気分が悪くなったみたいで、ここに連れてきて少し寝てたの」

「ずっとここに?」

「うん」

「ありがとう」

 手渡した白湯をりらが飲み終わると、貴子は栄真から示唆されたあることを確かめるため、りらに質問をしてみた。

「……そういえば、すっかり忘れてた。最近忙しかったし、気づかなかった」

 その返答を考慮すると栄真の予想が事実である可能性が高い。りらの不調の原因はわかったが、また別の、しかも古代で生きるようになって以来、最大の問題が生じたことになる。

 りらは自分の置かれた状況を見つめると、あまりにも複雑な感情に支配されて言うべき言葉を失ってしまった。

「長柄くんを呼んでこようか? りらちゃんから説明した方がいい?」

「お願い、そうして。二人だけで話し合いたいから」

 隣室で作業をしていた陽一は、気もそぞろで二回も墨汁を床にこぼしていた。朝服に染みができなかったのが奇跡だ。

 貴子がようやく陽一の元にやってくると、次の瞬間には隣室に滑り込んでいた。

「大丈夫!? 横になってなくていいの?」

 りらはこくんと頷いた。

「病気とか勾玉のせいじゃないから」

「そうなの? でも、原因は……」

 りらは陽一の両手を取り、変わらぬぬくもりをしばらく感じた後、そのまま両手を自分の腹部に当てた。

「赤ちゃんがいるみたいなの、私たちの」

 思いがけない言葉とりらの嬉しさと不安が入り混じった表情を陽一は後々まで忘れることはなかった。何度天地がひっくり返っても、この時と同じ衝撃を与えることはできまい。

「君は、本当に、素敵な女性だ」

 驚きのあまり口の中がカラカラになって、陽一は少しかすれた声で言った。片手でりらの頬に触れ、軽くくちづける。

「もっと、困った顔をするかと思ってた……」

 りらは陽一が喜ぶよりも、面倒なことになったと眉間にしわを寄せて考え込んでしまうのではないかと恐れていた。事実、問題は山積みなのだ。しかし、常にあっけらかんとして事を構えているりらよりも、陽一の方がこの時ばかりは楽観的だった。浮かれすぎていたと、後日、潤に猛省を促されることになるほど、愛する女性との絆の深さに浸っていたのだ。

 それからすぐに、りらには専属の医師がつけられた。出産経験のあるシヒが身の回りの世話をしてくれることになり、食事や衛生面でも最高級の配慮がなされるようになった。

 古代での出産は命がけと言っても過言ではない。栄養が不足していれば胎児の発育不良につながるし、定期的な超音波などの検査もできない。出産時に問題が発生した場合、現代の産科なら朝飯前の対応ができても、この時代ではなす術がないかもしれない。

 そのようなことを、貴子は切々とオオシアマとサララに伝え、万全の態勢で見守ってほしいと訴えたのである。そして、医者ではないが薬剤師の知識で衛生面の管理と食事の指示くらいはできるので、古代の医師が診察する時は必ず立ち会わせてほしいと頼んだ。

 いかに現代の女性にとって古代での出産が過酷な経験であっても、堕胎という選択肢は誰も口にしなかったし、何より子の両親が新しい命をこの世にもたらすことを切望していた。

 しかし、りらと陽一は究極の選択をしなければならないことを、まだ知らなかったのである。


 久しぶりに師走という時期を過ごしているのだと、オオシアマは宮中を忙しそうに行き交い大がかりな掃除や正月の準備に勤しんでいる女孺や舎人を見てしみじみと思った。去年の今頃は、カヅラキ大王が薨去したばかりで、すぐに吉野に引きこもってしまったため、別の意味で慌ただしかった。

 新年を迎える前に一つやるべきことがあった。オオシアマは吉日を選んで臣下たちを大安殿に集め、戦の功績があった者を昇進させた。これに伴い、陽一以下未来からの旅人も揃って小錦下に叙され、真緋の袍を賜った。

 そしてまさに暮れの迫ったある日、天を突きぬけるような碧空の下、難波津に筑紫からの使者が到着した。冬季でも穏やかな瀬戸内海を通る航路のおかげで、竜成も美輝も船酔いとは無縁の旅ができたようだ。特に竜成と高向麻呂はいつになく晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。

「オオシアマ様に良い報告ができて何よりですね」

 難波津から飛鳥へ向かう途中、麻呂は馬上で隣を歩く竜成に話しかけた。

「まさか俺たちが出港したすぐ後に、孝恭が返事を寄越すとは思わなかったね。もっとうだうだ返答を先延ばしするかと踏んでたんだけど」

 下関でいったん積荷の入れ替えを行っている時、猛スピードで小型の官船が近づいてきて、筑紫館の雑人が親書を携えて麻呂に手渡したのだった。船内に戻って竜成と共に親書を開封すると、ただ六文字の達筆な漢字が記されていた。

――諾遣朝貢使也。

「麻呂、君の外交デビューは勝利で終わったな!」

 竜成は思わずがしっと麻呂の手を掴んで握手をした。麻呂は少し困惑気味の笑顔で答えた。

「でびゅう、とは何ですか……?」

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