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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
飛鳥の千夜一夜物語
25/31

第10章 <2>

「あの子は妻としては幼いけれど、子供というほどでもないわ。今の状況を完全に理解してる。不幸なことに本当に純粋に、オオトモを慕ってたのよ。だからね、オオシアマ、あの子にとってあなたは敵以外の何者でもないのよ」

 久しぶりに元夫と対面したヌカタは涙を浮かべながら言った。

「……わかってる。トオチは俺に会う気はないだろうね」

「たぶん、そうね。本人の気持ちに整理がつくまではそっとしてあげて」

 オオシアマはこの戦いで、敵味方双方に多くの農民や将官の死傷者を出したことなどは惜しむべきこととは思っていなかったが、唯一悔やまれるのは、娘の心を誰よりも苦境に立たせてしまったことだ。父と夫の間に立たされた感受性の強い年の娘の心情を思うと、申し訳ないと思わずにはいられない。

「私はトオチの傍についているわ。当分、政務に関わることは控えさせてくださる?」

「ああ、娘を頼んだよ。父を許してはくれないだろうが」

 戦の後遺症は延々と続く悲しみである。後悔はなくとも、悲しみは存在する。もう一つの悲しみは、オオトモの二番目の妻であるミミモ姫のことだった。

「ミミモ姫は今、どちらなの?」

 サララがヌカタに問う。山科へ退避していた女性たちは全てこの嶋宮に呼び寄せたが、ミミモ姫の姿はなかった。

「それが……」

 オオトモの死が伝えられた日の朝には、山科の仮庵からミミモ姫が消えていた。敷地内のどこを探しても見つからない。ミミモ姫を最後に見たのは衛兵であった。オオトモの舎人が夜中にやってきて、何事かを告げるとミミモ姫も共に去っていったという。

「その舎人はこっそりミミモ姫にオオトモの自害と場所を伝えたのだと思う。それでオオトモの元に駆け付けて、その後、妃は後を追ったんじゃないかしら……」

 ヌカタの言葉に、サララは両手を口元に当てた。さすがにミミモ姫の最期はサララの胸を締め付けるに十分だった。沈黙の間にサララのすすり泣く声だけが響いた。敵側のいかなる事情にも涙するまいと決めていたが、夫を愛する妻の気持ちに共感しないでいることは今のサララには不可能だった。

 夜も更け、女孺が灯りの油を足しに来た。それを見ると、オオシアマは立ち上がり暇を告げた。

「遅くまで失礼しました。数日は嶋宮に滞在します。岡本宮が整い次第、移りますので」

 オオシアマとサララは軽く会釈をして、羽をもがれた女王の部屋を後にした。


 それから三日後、ヤマト姫とヌカタ母娘を残してオオシアマたちは岡本宮に入った。ヌカタも連れて行くつもりであったが、トオチが父とは一緒に行きたくないと言い張ったため、別の日に後から移ることになった。

 宮中はそこかしこが修復新調されていて、新しい木の香りが漂い、汚れのない壁と床が清々しい気分にさせた。

「ああ、本当に懐かしいわね。皆も古巣に戻ることができて安心してると思うわ」

 宮殿最南端の外安殿門を背にして、サララは広場となっている朝庭を眺めた。現代からの若者たちは物珍しそうに古代の宮殿を見物しており、特に陽一は目を輝かせながら真剣にあちこち見て回っていた。大津宮のような狭隘な土地ではないため、やはり規模が違う。

 門をくぐり、外安殿を通り過ぎ、また門を抜けると建物が南北に並んでいる。南側が大安殿、北側が内安殿である。

「ヨウイチ、宮殿が面白いか?」

「うん、まあ。俺の未来での仕事は、過去の建物の修復や復元だからね。よく見ておきたくて」

「飛鳥の宮殿は残ってるのか?」

「いやー、さすがにもうないよ、跡形もなくね。のどかな景色だよ。観光客にはすごく人気だけど」

 何もないのに客がやってくるということを、オオシアマはあまり理解できなかったようだ。

「ここは元は俺の母の宮殿だった。今から新宮を造営してたら落ち着かなくて政務ができないだろうから、この宮を使うことにしたんだ。国の基礎ができてきたら、そのうち別の場所に移るつもりだけどな」

「え、そうなの?」

「だって、いくら母の宮殿と言ってもその前は母の夫、タムラ大王も使ってたし、大津宮に遷都する前は兄も使ってた、いわばお古だろ。俺は新しい中つ国のために新しい都を造りたい」

「場所は決めてあるの?」

 夫の構想を初めて耳にしたサララは気が早いわねと思いつつ、尋ねた。

「それはその時に決めるさ。良い土地を調査してからだ。今は飛鳥で体制を整えることが先だしな」

 石畳の空間を徒歩で進み内安殿に到着すると、オオシアマは皆に入るよう指示をした。内安殿には宴会を催したり、大人数を召集したりできるような大きな部屋はなく、だいたい八畳から十五畳前後の部屋で成り立っていた。というのも、ここは私的生活のための建物だったからだ。そして、呼びこまれない限り臣下は内安殿に入ることはできない。

「まあ、楽にしてくれ」

 最も広いと思われる部屋に通された陽一たち、そして側近数名は敷物の上に座った。オオシアマとサララは少しだけ床が高くなった場所から一同を見渡した。

「俺は年が明けたら即位し、サララを立后しようと思う。それまでは俺の身分は王子のままだ。即位したら俺は不動の北辰、天皇大帝となる。決して大王とは呼ばせるな。そして中つ国を、日本国ひのもとのくにと呼んでほしい」

 新しい国だ、と陽一は背中がぞくぞくするような感覚に襲われた。言葉のわからないりらのために、筆談で木簡に「来年」「天皇」「日本」と書きつけ、「大王」の文字の上にバツ印をつけた。オオシアマの言葉を理解したりらもまた胸の高鳴りを感じていた。

「皆も気づいてると思うが、飛鳥宮はしばらく留守にしていて宮中や官庁の機能は停止している。大津宮に移っていた官人たちの引っ越しが終わるまでは、政務はままならない。それに、即位後から若い新しい官人を採用しようと思ってる。なるべく大津宮時代の幹部は交代させたいからな」

 カヅラキとヤマト姫の治世には、左右大臣と三人の御史大夫という重鎮が大王を補佐していたが、オオシアマは自分の実質的な補佐はサララだけで十分だと考えていた。それ以外にはヒロやチトコのような有能な舎人が複数いれば問題ない。あとは役所が機能しさえすれば国は動くのだ。

「じゃあ、本格的な政務は来年からってこと?」

「そうなるな。差し当たり、俺は官庁の新設や再編を考えておく。外交も先に手を付けるべきだろう。大宰府は栗隈王に任せてあるから仕事は早い。それから――」

 オオシアマはここで陽一とりらに視線を向けた。

「記録の編纂も優先させるべき事項だ。内安殿に専用の部屋を設けることにするから、昼間はそこで作業に当たってほしい」

「わかったよ」

 どうやら陽一とりらには仕事が割り振られているらしい、と初めて知った竜成は残りの四人が手持無沙汰のままで良いのか尋ねてみた。するとサララがその疑問に答えた。

「全員、手伝ってもらうわよ。タツナリは外交ね。まずは新羅との関係を強化すること。ミキは雅楽寮で歌舞を教えてほしいの。特に芸能集団の芸を宮中に取り入れたいから。ジュンは兵衛や衛士の再編と訓練をお願いするわ。タカコは内薬司で医薬の監督をしてちょうだい」

 戦が終わった今、早く元の世界に戻りたい気持ちでいっぱいなのは確かだが、新しいオオシアマの国造りがどんなものになるのかも知りたかった。だから、各々仕事を割り振られてありがたかったが、その内容を考えてみると荷が重いような気がしないでもなかった。

「心配するな。何も君たちが総監督の責を負うわけじゃない。助言者として関わってほしいということだ」

「それなら喜んで手伝わせてもらうよ」

「官衙は北側地区にかたまってるんだけど、人手が足りる状態ではないから、しばらくは外安殿を役所の作業場にするわ。明日からよろしくね」

 舎人や女孺の寝泊まりする生活の場は、いくつかに散らばっていて役所群に近い場と正殿の東側に設けられていた。昨年の十月に吉野宮に赴いた時に、オオシアマに付き添ってきたものの再び大津宮に戻った舎人たちなどが飛鳥へ集まってきていた。元々、オオシアマに仕えていた者たちだったのでもう一度、飛鳥宮で働かないかと召集の号がかかった時は喜んで承諾した。

それから、大津宮で勤務していた舎人や女孺たちも職を求めて飛鳥宮に赴いた。オオシアマが今般の戦でごくわずかな幹部のみを処罰の対象としたことで、下級職員は「罪に問われることはない」「差別されることはない」と安心したのだ。

差し当たり、飛鳥宮における炊事洗濯、掃除、馬の世話などの雑用係が不足することはなかったし、宮を警護する兵衛も留守時代から仕えているものに加え、捕虜の中で帰郷を望まなかった男たちを配置している。

外安殿に入ると見知った顔ぶれが揃っていた。紀大人、物部麻呂、三輪高市麻呂、県犬養大侶、大伴安麻呂、大伴吹負、村国男依、紀阿閉麻呂、文祢麻呂、大分恵尺、稚臣、朴井雄君、羽田矢国と大人親子、息長老、多品治、高坂王など戦の功労者たちだ。

「あーそうだよな、人材不足なんじゃないかなんて心配は無用だな」

潤はほっと笑みを漏らした。というのも、オオシアマの手足となる臣下がどれほどいるのかと気にしていたのだが、武人の彼らは舎人でもあり、事務的な実務もこなしてきている。つまり、飛鳥宮をピラミッドで表すとしたら、頂点のオオシアマと上級幹部層、下層の雑用係は揃っていることになり、後は中核となる中級と下級の役人の穴が埋まればよい。態勢が整うのは年末頃だろうか。

多くの男たちは二十歳から二十代半ばで、外安殿は活気と汗臭さで満ちていた。その中で、裳裾をふわりと翻す貴子と美輝の存在は異質だったが、戦でも同じメンバーだったので女性が混じっていることを気にする者はいなかった。

「タカコ、ミキ、あなたたちの同僚を紹介します。今日からは彼とも協力してください」

紀大人と共に飛鳥宮の実務全般を監督することになった物部麻呂がそう言いながら、一人の若者を連れてきた。若者は顔かたちが悪いわけではないのに、冴えない風体で何故かおどおどしていた。

「あのー、どうも、中臣大嶋と申します」

「何だ、大嶋、もっと堂々としろよ」

 麻呂は苦笑したが、大嶋は「は、はぁ……」と間の抜けた返事しかしない。

ところが、一緒に仕事をするうちに、大嶋はかなり有能で何でもそつなくこなす人物であることがわかり、任されていた神司かみのつかさと宮内の事を着々と整備していった。

「ねぇ、大嶋? なんで初めて会った時、あんなにおどおどしてたの?」

未だに堂々という言葉とはかけ離れた冴えない様子の大嶋に、美輝は好奇心から尋ねた。戸惑っているらしい大嶋の代わりに、会話を横で聞いていた羽田大人が口を出してきた。

「こいつ、奥方が厳しいらしいから、女人を目の前にすると身構えてしまうんですよ」

「え、そうだったの?!」

「いや、あの……」

しどろもどろになっているところを見ると、図星のようだ。悪いとは思いつつ、美輝は爆笑している。

「恐妻家だったんだぁ。でも、別にあたしたちは恐くないでしょ。はい、これ、新しい楽の部門を整理してみたの」

美輝が手渡した木簡には、既存の宮中の舞楽に漂流芸能集団が得意としている演劇的要素の強い舞いや、各地で行われている神楽を加えるという企画が書かれていた。

「ありがとう、ミキ。うーん、新しい楽というよりも、伎楽や散楽のことですね」

 仕事のことになると大嶋は冴えた顔つきになる。

「それじゃ、ダメ?」

「いいえ、オオシアマ様のお考えに合致してると思います。伎楽はかつて厩戸王が保護されたようですが、タムラ大王やタカラ大王の治世にはあまり顧みられず、今まで宮中外の楽として扱われていたんですよ。だから今回、正式に宮中の楽に指定するのは適切かと」

大嶋の定的な返事を聞いた美輝は「やったね。あたしもちょっとは役に立つ!」と小躍りしている。大嶋はそんな美輝の姿を完全に無視して、というよりも仕事に集中して視野に入らず、筆を器用にくるくる回しながらぶつくさ言い、木簡とにらめっこしている。そして、「予算が……」「これでもまだ人員不足だな……」などと独り言を言っては、民官や大蔵を担当している高坂王や大伴安麻呂の元を往復していた。

実は大嶋がおどおどしていたのにはもう一つ理由があった。自己紹介後、しばらくしてから休憩の合間に貴子がこんなことを尋ねた。

「もしかして、中臣って、あの右大臣だった金とご親族だったりするの? 違ったらごめんなさい」

「……やはり、わかりますよね。右大臣は僕の叔父です。息子の英勝は、上総に流されましたが、僕と年も近くて仲が良かったんですよ」

「そうなの…… じゃあ、鎌足とも繋がりが?」

「僕の父からすると従兄にあたります。鎌足殿も叔父も、カヅラキ大王の忠臣だったので重鎮として上り詰めましたが……」

そこで大嶋は哀しげに微笑んだ。

「ただ、皮肉ですね。忠臣たちはこの世を去り、今こうして残って新たな宮に取り立てられたのが、中臣家の日陰者だったのですから」

中臣家の本流である鎌足の死後、氏の代表者となったのは傍系の金だった。その弟、つまり大嶋の父許米こめは表舞台に出ることはなく足手まといにならないようひっそりとしてきた。

「結局、父も僕も戦には加わりませんでした。だから、オオシアマ様からお声が掛かって正直言って驚いたし、僕のようなどっち付かずの人間がこんなとこにいていいのかなって……」

「それで、初めのうちはあんなに肩身が狭そうにしてたのね」

この話を聞いて、貴子はオオシアマの人事采配に感心した。味方の忠臣だけを要職に就けることはせずに、カヅラキ王権時代に忘れ去られていたような氏族や大津宮で働いていた者たちも少なからず取り立てていた。それが新たな忠誠心を生むことを、オオシアマは十分にわかっている。

見慣れない顔は他にもあった。いかにも貴族のような品のよい若者が竜成に声を掛ける。

「初めまして。鄭竜成殿ですよね」

「ああ、そうだけど。君は?」

かなり若い。竜成はこの男は菟と同年齢くらいだろうと思った。しかし、菟はまだあどけなさを残しているが、目の前の若者からは少年ぽさは感じられない。

「私は高向たかむく麻呂です。若輩者ですが、新羅の言葉を習得しておりますので、こうして宮中にお呼びがかかりました。鄭殿は新羅出身とか」

「出身ってだけで、ほとんどこの国の人間と変わらないよ。新羅の言葉もついこの前勉強したほどだし」

「そうなのですか。新羅の太子と親交があると聞きました。色々教えてください」

高向麻呂は優雅に礼をした。きっとこいつはエリートなんだろうと竜成は思った。実際、蘇我本家の支流で、父親はカル大王の治世で刑部尚書という役職に就いていた高官だ。カル大王が失意のうちに亡くなってからは中央政治から遠ざかっていたものの、オオシアマが聡明な息子に目をつけたというわけだ。

「私は言葉はそれなりにできますが、新羅の政治や国との関係はよく知らないのです」

「俺もそんなに詳しくはないよ。ちょうど新羅の使者たちが大宰府に滞在してるんだ。オオシアマ様が最初に強い関係を結ぶべきは新羅だから、近いうちに饗応を考えてる。君も宴の内容と協力すべき事項を検討してくれないかな」

「もちろん!」

自分にもできそうな仕事を与えられ、エリート君の表情がやっとほぐれた。


星川摩呂という男は、中臣大嶋や高向麻呂のように謙虚な態度は一切見せない。それどころか、初対面の中でも余裕綽々だ。年のころ三十代半ばがなせる技だろうか。自分の担当ではない部署の官人にちょっかいを出しては去っていく。

とはいえ、摩呂が宮外に設けられた練兵所に姿を表すと、身に纏う空気が変わる。

「おう、今日の教練対象は乙班だな!」

もしゃくしゃの長い髪を後ろで無造作に一つにまとめ、髭も特にきれいに整えているのでもない。同じように不敵な笑みを浮かべる軽いノリのオヨリが貴公子に見えるほど、この男はむさ苦しい姿だ。

しかし、大和方面の将軍であったオヨリでさえ、星川摩呂の弓の腕前は一級だと認めないわけにはいかなかった。オヨリの弓は比較的小振りで軽く、連射に適しているが、摩呂の持つ弓はやけに大きく、相当な腕力が必要だった。

「そういえば、お前の矢の他に遠くの後ろからすっげー勢いの矢が飛んできてたけど、あれが星川の放ってたやつだったのか」

初めて摩呂の射撃を見た時、潤はオヨリに言った。戦の時、潤は敵軍から、将軍オヨリを援護する兵士を見つけ出し、弓のできる物部麻呂に教える役目を負っていた。

「そうですよ。星川がいたから、本当は黒部郎女を前線に出して、俺の援護なんかさせる必要はなかったんです。俺だってあの方を危険な目に遇わせたくはなかった」

俺を責めるなよ、そもそも彼女が前線に出てきたがったのはジュンのせいだと暗に仄めかしていた。

教練が始まった。プログラムは潤が自衛隊の新人教育で行ったようなものをいくつか取り入れている。ストレッチをしてから走り込み。基礎的な号令に従う練習。武器や武具の手入れ。それから弓の訓練。夜には「反省会」と称する飲み会、などなど。

「いや、全く、反省会というものは毎晩でもすべきだな! 将軍も反省することはたくさんあるでしょう。ははは」

 潤が提案したプログラムは、オヨリや吹負だけでなく星川摩呂にも好意的に受け入れられ、特に反省会は兵衛府の結束を強めるのに大いに貢献していた。

 しかし、一度、反省会に顔を出した女性陣からは兵衛府の酒豪っぷりと不真面目さを呆れられ、りらには「うわ、外安殿も男ばっかりだけど兵舎が一番チャラいよ」と言われる始末であった。


 あの真夏の戦いがまるで嘘のような静けさと爽やかな風に包まれて、りらはうたた寝をしていた。

薄い綿入りの布団にくるまって、夢と現の境を漂っていると最高に幸せな気分だ。隅田川沿いの下町で暮らしている時も、りらは幸せだと思っていたが、「過去」という今こそがかけがえのないものとなっていた。

最近では日が落ちるのが早くなった。斜陽が飛鳥の宿舎に入り込み、寝返りをうったりらの瞼を茜色に染めた。

かたん…… 近くで戸が動く気配がした。りらは半分夢の中で、顔を音のした方へ向けた。

「あ、ごめん。起こしちゃったね」

「ん……」

りらはその声を聴いてまた幸せな気持ちで満たされた。立ち上がるのがめんどくさくて、布団にくるまったまま声の主の足下まで転がる。

「陽一さん、勝ったの?」

「いやー、今日のチームは竜成がいなかったから負けたよ」

恋人の思いがけない行動に笑いながら、陽一は答えた。

古代の朝はかなり早く、昼過ぎには仕事を切り上げて午後は市で買い物をしたり、運動をしたりするのが日課である。陽一は大津宮にいた頃と同じように、竜成や潤を誘って、兵衛府や舎人の若者たちと徒歩打毬かちうちまりに興じていた。

出雲王国と違って、近くに温泉がないのが難点だが、飛鳥川の水源は豊富で比較的自由に井戸は使えた。それでも、汗をかいた後は水を絞った手拭いで拭くしかない。湯を使うことができるのは、王族と一部の豪族だけだ。

「おかえり」

 りらは布団を剥ぎ立ち上がると、陽一の背中に両腕を回した。ほんの少し、首筋から汗の臭いがする。

 陽一は新しく支給された朝服のほうを脱いだ。紺で染められた絹の上着といったところか。化学繊維のポロシャツを愛用している陽一にとって、この朝服は身に余る衣服である。

 大津宮の木工寮で勤務していた時は無位であったが、オオシアマは陽一たちの扱いを考えて冠位を与えることにし、大山上に叙した。本来ならばさらに高位の小錦が適切かと思われたが、どこから来たともしれない若者に通貴と同じ位を与えると不愉快に思う輩がいないとは限らない。それで、一つ格下の位を選んだのだった。

「ああ、ありがとう。自分でやるのに」

 陽一が袍を脱ぐと、りらがそれを手に取って、木でできたハンガー、といっても棒の両端に組紐を結んで作っただけのシンプルなものに掛けた。

 白い内衣と下裳に包まれたりらの後姿は意外に艶めかしかった。横になっていたせいで、後ろでまとめで折り返した髪がほつれ気味だ。冠も壁に掛け終わったりらが振り向いた。その一瞬を、陽一は永遠に手にしたいと思わずにいられなかった。

 陽一はついと数歩進み出て、夕日に眩しそうにしている恋人を抱き締めた。りらもまた、そっと陽一を抱き返す。

珍しく宿舎の周りは静かだ。名前の知らない小鳥がどこかで囀ずっている。時を告げる漏刻に合わせて太鼓が叩かれ、その音は宮内のあらゆる建物の中に入り込んだ。

太鼓の音が止み再び静寂がやってくると、陽一はりらの耳元で囁いた。

「ずっと一緒にいたい。未来に戻っても」

りらは微笑みながら顔を上げ、陽一を見つめた。その瞳は先の言葉を促すかのようだった。

「俺さ、戻ったらやりたいことができたんだ。長い時間が必要になるかもしれないけど、りらさんにも見てほしいと思う」

「それ、この時代と関係ある?」

「うん。オオシアマの夢を甦らせるんだよ、俺の建築士としての腕と情熱で」

七世紀後半のこの時代に飛ばされて丸一年が過ぎ、陽一はある夢を膨らませていた。古代という何もかもが異なる世界で、不便な生活を強いられ、たくさんの危険に直面してきたし、未だに帰る手立てもわからないままだが、そんな中でもオオシアマの壮大な構想や飛鳥の美しさに触れていると、こうしたもの全てが失われてしまっている現代はひどく生彩を欠いている気がしてならなかった。

「宮殿を建てるってこと? すごく素敵。出雲王国も姿を現すってことでしょう?」

「野心的すぎると思うけどね。誰も俺の見たことなんて信じてくれないだろうし」

「でも、私は陽一さんと同じ景色を見てきたよ」

「これからも同じ景色を見続けてほしいな」

りらは大きく頷いた。どんな景色でも、この人の隣で目に焼き付けよう。

不意に陽一がりらの両手を握った。それは絶対に離しはしないという意思の現れだった。

「りらさん、結婚しよう。いつかあの時に戻ったら、一生の伴侶になってほしい」

陽一にとってその言葉は、時に切なく時に険しい道のりを越えた後の必然だった。そして、りらが小難しい顔で答える。

「もしも…… もしも、未来に戻れなくても、私をお嫁さんにしてくれる?」

「君がいる時代が未来なんじゃないのかな」

二人は共に笑い合い、長い長い口づけを交わした。


 墨汁の匂いが衣に染み込んでしまいそうなほど、内安殿の「史書編纂室」は書きたてほやほやの木簡が散らばっていた。

「やはり、オオシアマ様が挙兵されたのは正しい選択でしたね」

筆を置き、ため息混じりに感想を述べたのは舎人のヒロである。今朝から、りらの語る高天原の様子を聞いてそれを木簡に書き残していくという作業をしていた。

アメノサグメから伝え聞いた高天原の物語を、りらは全て覚えていた。国常立尊クニノトコタチノミコト国狹槌尊クニノサヅチノミコト豊斟渟尊トヨクムヌノミコトの三柱がどこからともなく現れ、天地の中に葦のように出でたという。

それから次々と神が生成し、原初の神の最後があの伊奘諾イザナキ伊奘冉イザナミ夫婦である。

「俺はてっきり初めからタカミムスヒが天の王者だと思ってましたよ」

チトコは大津宮の書庫から持ち出された旧辞とりらや陽一の語りとを比べている。

「イザナキとイザナミは海原にオノゴロ島を作ったでしょ。それで、高天原からその島に降り立ってたくさん国を生んでいったというのは知ってると思うけど、留守の間にタカミムスヒがやって来て、高天原に君臨してしまったというのが真相ね」

りらの言葉はヒロやチトコには音の断片にしか聞こえず、逐一、陽一が通訳している。チトコは未だに書き続けている日記に「アレオトメの口から出てくるのは我々には理解できない、まさしく神からの告げごとだった」と綴っている。

「初めのうちは、天も地も明確には分かれていなかったそうだよ」

陽一は、天つ神タギリヒメと国つ神オオクニヌシの娘シタテルから教えてもらったことを思い出した。配偶者に天つ神アメノワカヒコを選んだあの娘は「本当は天も地も関係ないのにね」と悲しそうに言っていた。

「イザナキが身を清めた時に生まれたのが、スサノオ、ツクヨミ、オオヒルメで、父神はそれぞれ海と夜と日を支配するよう命じた……」

 今までの話を反芻しながら、ヒロは木簡に書きつけている。

「タカミムスヒは一体どこからやってきたんでしょうか? 天とは別の世界から?」

 陽一がヒロの疑問をりらに伝える。しかし、りらにもタカミムスヒが元いた場所は知らなかった。

「あくまでも私の想像なんだけど、天と地とそれに海ははっきりと分かれていなくて、ずーっと遠くで生れたタカミムスヒが、クニノトコタチや神々が集まっている場所に引き寄せられたのかもね」

「とにかく、初めは神々に序列なんてなかったらしいよ。それが突然、タカミムスヒがやってきて神々の上に君臨するようになって、天と地と海を明確に切り離したんだ。もちろん、イザナキとイザナミが生んだ国々も天とは別世界と見なされるようになった」

 全ての根源として存在するはずだったタカミムスヒは、既にイザナキの子供たちが海と夜と日を司ることになっていたことを知ると、オオヒルメとツクヨミを配下に治め、気性の激しく容易に従わないスサノオを地上に追放することにした。

 あとは、サグメが語り、陽一とりらが実際にイズモ王国で見聞きした通りだ。

 四人とも黙りこくってしまい、重たい空気が流れる。りらは何とはなしに、硯で墨を研ぎ、陽一は小刀で木簡を削る。

 そんな折、廊下から女孺が声を掛けた。

「オオシアマ様がお越しです」

 戸の方へ向き、姿勢を正して待っていると、オオシアマが酒の徳利を片手にやってきた。

「何だ皆して、辛気臭いな。ああ、タカミムスヒの話か……」

 ヒロとチトコが急いで席を設けようとするのを手で制し、散らばっている木簡の間を踏み分けて、オオシアマは空いている場所に座り女孺が持ってきた器に酒を注いでいく。

「まだ昼ですよ。夕餉でもまたお飲みになるでしょうに」

「おいおい、ヒロ、サララみたいなお小言は止めてくれよ。酒が入れば仕事も捗るぞ」

 オオシアマは真面目なのか不真面目なのか測りかねるところがあった。大津宮で子供たちの後見役を担わされていた頃からそうだ。芸能集団を呼んで派手に宴を催したり、博打大会で憂さ晴らしをしたり。もちろんそれらには隠された意図があるということを側近たちは知っていたが、心から楽しんで熱中している姿を見ると、どうもこの王子は何も考えずに遊んでいるだけなのではと思ってしまう。

「で、どこまで進んだ?」

「神々の誕生から出雲王国滅亡まではだいたい…… 箇条書き程度ですけど」

「早いな! さすが俺の舎人たちだ。俺、暇だからまた博打大会してもいいかな」

 冗談とも本気ともつかないことを口にし、オオシアマは何か魚の干物を左手でかじりながら、右手で木簡を取って眺めている。そして、何枚目かの木簡をしばらく読んでいると、こう言った。

「タカミムスヒは切り離した中つ国まで支配しようとした。スサノオの子孫が作り上げた葦原瑞穂の国までも。だから、今度は俺が、神の世界を支配する」

 酒のつまみをかじりながら言うことか、とそこにいた誰しもが思ったが、オオシアマの瞳には揺るぎない意思が灯り、言葉には自信が漲っていた。しかし、神の世界を支配するとはどういうことか。側近の舎人たちは首を傾げた。

「オオシアマ様が神に何かを命じたりするのですか? 今までも筮竹や天文遁甲で神の意思を動かしたり力を借りたりしておられたではありませんか?」

「あれは一時的な儀式に過ぎないよ。俺が言った意味は、俺自身が神になるってことさ」

「はぁ。か、神になる、のですか?」

 チトコは目を丸くしている。だが、オオシアマはある時期から、カヅラキの後継者の後見役を放棄すると決めた時から、新しい統治方法をしっかり見据えていたに違いない。

 陽一には何となく、オオシアマの意図がわかった。この時代から千二百七十四年後、昭和二十一年に、天皇が新年の詔書で自らの神格性を否定するまで、オオシアマがたった今、披露した目論見は実現していたのだ。

「あの、ではオオヒルメ大神やオオクニヌシは一体どうするのです?」

 まだヒロが混乱しているようなので、陽一は自分が知っている知識からかいつまんで教えてやる。

「オオヒルメ大神やオオクニヌシは、先祖ってことになるんだよ。だから、その子孫であるオオシアマはちゃんと彼らを敬って、祭祀を執り行わなきゃいけない。俺たちの時代でも、天皇は時々宮中で儀式を行ってるよ。まぁ、詳しいことは知らないけど」

 ここにいるのは陽一たちが未来から来たと知っている者だけなので、陽一は現在の話を持ち出してオオシアマの考案を擁護した。ただし、現在では古代からの儀式は継続されているものの、天皇は神ではないことは黙っておいた。これはオオシアマにとって、衝撃的すぎる事実だからだ。

オオシアマが新しい中つ国を作ろうとした時、天皇が生まれた。そして、天皇は神となる。だが、大日本帝国が連合国に敗北し、新生日本国を目指そうとした時、天皇は人となってしまった。今まで何も考えたことはなかったが、皮肉なものだと陽一は思った。

 自分の構想が未来にも残っていることを知ったオオシアマは、俄然勢いづき、二本目の酒に手を出し始めた。

「俺の先祖は神、俺も神、俺の子孫も神。オオクニヌシの夢よ、永遠なれ」

 歌うように言うと、オオシアマは酒を一気に煽った。

「神って、宣言してなれるものなのか」

「さぁ、オオシアマ様のお考えになることは壮大過ぎてわからんな」

 ヒロとチトコは囁き合い、主人の真似をして酒を一気飲みした。

 この時、オオシアマの頭の中には自らの神格化を推し進めるための、先祖神の祭祀についての構想が既に形作られていた。

 またしても、自分の可愛い子供に試練を与えることになる。だが、その子が務めを立派に果たしてくれるであろうという期待と確信を得るに十分な出来事が、戦の最中に桑名で行われていたのだから父親として躊躇う必要はなかった。


 苑池の周囲に絶妙な間隔で揺れているススキは、月明かりに波打ち、秋の虫の交響詩を指揮している。中島の草陰から水鳥のつがいが姿を現し、仲良く夜の水面をかき分け始めた。

 飛鳥宮の北西に人工的に整備されたこの池は澄んだ水を湛え、鳥や虫だけでなく、飛鳥宮の人間に憩いの空間を提供していた。

 風情溢れる庭園を、陽一は愛する女性と……ではなく、親友鄭竜成とオオシアマ王と共にあずまやの中から眺めていた。

「二人に頼みごとがある」

苑池を散歩しようと誘ったオオシアマが本題に言及した。

「まず、タツナリ。近く、筑紫に向けて発ってほしい。正式な外交として、新羅太子以下の使者を饗応すること」

「わかった」

 この話が出るであろうことは予想していた。サララから外交を任された時から、竜成自身も考え、高向麻呂と共に案を練ってきた。先日、その案をオオシアマに上奏したばかりだ。

「供には高向麻呂と君の恋人と美輝を連れていけ。筑紫にも饗応のための楽団と舞人はいるけど、あの二人の女人を加えれば特別な場になるはずだ」

 シュナは百済や新羅の歌が、美輝は神楽や里の流行り舞に長けていた。宴を更に彩るにはうってつけだ。

 それに、オオシアマは新羅太子が美輝に惚れ込み、後宮にとまで望んでいることを知っていた。戦の後、大伴吹負から小耳に挟んだ話だ。二人の関係が進展するかどうかは美輝次第だろうが、この機会を逃せば再び会うことは叶うまい。

「またあの女のお守りかぁ。シュナが一緒なのは嬉しいけどね」

 竜成は半ば諦め顔で苦笑した。

「で、俺たちの上奏通りの対応でいいの?」

「うん、任せた。俺と同じように、あっちの国王にも野望がある。半島統一ってやつだ。そのためには、我が国の要求を甘受するほかない」

 オオシアマの口調は何か意地悪な響きを含んでいた。竜成らの上奏の内容を聞いた陽一は、オオシアマが決して甘い人間ではないということを改めて認識した。

 新羅は日本の友人だが、両国には決定的な違いがあった。それは、日本は唐の属国ではなくれっきとした独立国であり、新羅はそうではないということ。

「俺の国が、なぜ属国と同じ目線でいる必要がある?」

 薄明かりの中ですらはっきりと感じられるほど、オオシアマは自尊心に満ちた笑顔を見せた。一体どこからそんな自信が湧いてくるのだろうと、陽一は羨ましくもあり、恐ろしくもあった。

 根っからの王なのかもしれない。自分の出自に迷うことがなくなり、力で玉座を奪い取ったオオシアマには絶対的な何かが降臨したに違いなかった。

 次にオオシアマは陽一に声をかけ、まさに苑池を指差した。

「この池、ちょっと修造できるかな。ほら、全体的に角張ってるだろ。これをもう少し曲線的に……」

「え、それが俺への頼みごと? 土木建築はほとんど範疇じゃないんだよなぁ」

 陽一は申し訳なさそうに腕を組んだ。

「実際の作業や監督は別の技術者にやってもらうから心配ない。そうじゃなくて、図案というか絵図面を描いてほしい」

 それはつまり、庭園のデザインを描けということだが、それこそ陽一の未知の領域だ。

「俺、庭園添景物の設計なんて素人だよ」

「他の誰に頼んでも同じだから気にするな。なんか、こう、もっと中つ国らしい景観にならないかな」

 オオシアマは今でも十分美しい苑池にご不満な様子だ。というのも、大の土木工事好きだったタカラ大王が百済の庭園を模して造らせたのが、飛鳥宮苑池だ。既に百済の時代は終わり、新しい意匠を凝らした庭園が望まれるのも無理はない。

「中つ国らしい、ねぇ。ま、何とか考えてみるよ。庭園のイメージくらいなら思い出せばなんとかなるかも」

 なんとなく、陽一の頭の中には平安時代の寝殿造や江戸時代の大名庭園の風景が浮かんでいた。日本的だしな、と安直に考えてのことだ。

 苑池での散歩に誘われた時から、陽一はあることをオオシアマに告げようと決めていた。親友も一緒なので都合がいい。

「オオシアマ、竜成、ちょっと報告したいことが……」

「何だ?」

「俺、結婚することにしたよ」

 一瞬の後、陽一の両肩ががしっと掴まれた。

「よかったな! 俺のおかげだろ? お、もしかして俺って縁結びの神だったりして」

 竜成が満面の笑みにほんの少しの恩着せがましさを加えて、親友の慶事を喜んだ。そもそもここに至ったのは、竜成が三人で玉造温泉に行こうと言い出したことに始まる。そういう意味で、竜成には感謝してもしきれない。

「おめでとう、コトシロヌシの子孫はアレオトメを選んだんだな。いや、アレオトメが出雲を選んだと言うべきか」

「ああ、また大袈裟な。そんな風に言われると照れるよ」

 陽一は困ったように頭をかきながら笑った。しかし、隣の竜成は二人の会話に混乱している。

「ちょ、ちょっと待った。お前が、コトシロヌシの子孫? いつからそんなことになったんだ?」

「うーん、俺もちょっと信じられないんだけど――」

 陽一が自信なさそうに説明しかけると、オオシアマが遮って話し出した。

「ヨウイチの本来の氏姓は、長柄首ながらおびとと言うんだ。河内に近い葛城の地には杜もある。長柄一族の祖はコトシロヌシなんだよ。あの杜はオオクニヌシの娘シタテルヒメと異母兄コトシロヌシが祀られてる。クシナダヒメの勾玉を拾ったということは、つまり、ヨウイチが出雲と無関係ではないことを意味してると俺は確信した」

「ふーん、そんなもんなのかねぇ。てことは俺も関係者なのか? でも、鄭なんてありきたりな家名だし、先祖が特別だったなんて聞いたことないよ」

 記憶を手繰っても、竜成の来歴はよくある在日三世でしかなかった。そこで、竜成はふと親友の婚約者が果たして何者なのかという疑問に思い至った。

「オオシアマの推測を当てはめると、桧枝さんだってイズモ関係者になるはずだよね」

「そういえば、そうだね」

 この時代にやってくるまで、自分が何者かなんて考えたこともなかった。頭の中では神話やら古代の大王やらが存在していたことは知っていても、長い歴史と共に現代と結び付いているなどと思ったことはない。

「次にクシナダヒメが現れた時にでも訊いてみるしかないな。俺たちは何者なんだ、って」

 とは言うものの、クシナダヒメがこの先、陽一の目の前に顕在化する保証はなかった。初めは目に見えぬ主祭神、次に老婆、最後に現れたのは現代の若い女性。どこでどんな姿で登場するのか皆目見当がつかない女神だった。

「そろそろ宮殿に戻るか」

 月が薄雲に隠れ、ひんやりとした空気が流れてきた。静寂の中をひたひたと三者の沓音が擦れる。

 唐突にオオシアマが言った。

「婚儀はいつだ? 俺が吉日を占おう」

「いつ、って、この世界で式を挙げるの?!」

「そういうことじゃなかったのか?」

 オオシアマが逆に驚きを表すと、竜成も「俺も近々披露してくれると思ってたんだけど」と苦笑している。

「ではこうしよう。君たちがいつあちらの世界に帰れるか不明だが、ひとまずタツナリたちが大宰府から戻ったら婚儀を兼ねた宴を開くのはどうだ? 即位後は忙しくなるだろうからその前で。いつもの小規模な顔ぶれなら身構えずに済むだろう?」

「まぁ、それならいいかな。けど、りらさんの承諾をもらわないとね」

 何だか大事になってしまった気がするが、たぶん、婚約者はさほど考えずに「いいよ」と言ってくれるはずだ。

 果たして予想通り、りらはオオシアマの提案を快諾した。

「うわー、それって天皇が仲人やってくれるってことでしょ! ゼクシィだって思い付かないよね!」

 というのが、彼女の第一声であった。突っ込みを入れるべきかと思わないでもなかったが、りらの愉快な表情を見ていると何もかもどうでも良くなってしまう。

 あなたが幸せそうな笑顔を見せてくれるなら、俺はこの世界のどんなルールにでも従うよ――


 翌日、残りの仲間や内外安殿の舎人たちに結婚の報告をすると、皆喜んでくれた。そもそも、彼らの関係を知らない者は飛鳥宮にはいなかったので、自然な成り行きだと思われていた。ちなみに、陽一が行く先々で羨望とからかいの言葉を投げ掛けられたことは言うまでもない。

 りらと陽一は、内安殿での記録編纂作業に一層力を入れた。ヒロかチトコに解説してもらった『旧辞』の記録をいくつかまとめて陽一が読み下していき、それをさらにりらが頭の中で整理して物語化していくという、手間と時間のかかる作業だ。イズモの滅亡から先の時代は、りらも陽一も未知の領域である。

 午前中が終わると、陽一はいつものように仲間と徒歩打毬を楽しみ、りらは最近では貴子と薬草園で過ごすことにしていた。

 美輝も誘っているのだが、彼女もなかなか多忙のようだ。歌舞という趣味が合致するシュナと親密になったようで、毎日のように飛鳥寺で芸能の練習をしている。日が落ちるまで練習に打ち込んでしまい、よく竜成が迎えに行って2人して引きずって帰ってくるという光景が見られるほどだ。

 飛鳥川を越えたすぐ西側、川原寺の北に薬草園はあった。もっと大きな薬草園は甘樫丘の麓にあるが、日常的な薬草を育てるには寺の一角を拝借するくらいで間に合う。

 ガーデニングっぽくていいな、とりらは思った。青々とした小さな葉や白や黄色の可憐なつぼみに囲まれて、少し湿った土の匂いを嗅ぎ、枯れかかった葉や花を手で摘み取っていく。単純な作業だが、不思議といつの間にか心が安らいでいく。

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