第9章 <4>
大分恵尺が死を賜るのを覚悟で総司令官の前にひれ伏した。まさか弟があんな無謀な行動に出るとは予想だにせず、一歩間違えば味方に大混乱を起こすところであった。
「エサカ、むしろお礼を言わなきゃいけないよ。誰も怖くてあの橋を渡ろうとしたやつがいなかったんだから! ワカオミには後でたくさん褒美をやるよ。僕もあのくらいの勇気を持だなきゃいけないね」
そう言って気丈に振る舞っているタケチであったが、心身ともに疲労の極限に達していた。今すぐにでも不破に戻って父の顔が見たかった。そして、優しい女嬬に囲まれて柔らかい床でぐっすり眠りたかった。美人とは言えないけれど笑うとかわいいえくぼができるニイタベ姫にも会いたかった。
「タケチ様、戦いはほぼ終わりました。あとは我々が残りの兵を掃討して、大臣たちとオオトモ王子を捕らえるだけです。粟津岡のふもとの豪族の館を仮宮にいたしますから、あと少しご辛抱ください」
これ以上、タケチを戦場に出すわけにはいかないとオヨリは判断した。血にまみれた凄惨な光景から一刻も早く離れ、安らかな場所で休息を取らせないと、タケチの小さな心身が破壊されてしまう。
仮宮に向かうためある舎人の馬に移動し、もたれかかることを許されると、タケチは馬上で意識を失うようにして眠りについた。
幼い総司令官と共に粟津岡の豪族邸にたどり着いた時、陽一はこれまで目の前で繰り広げられた無情な戦とその結末に、愕然としたままだった。
「桜児……」
オヨリが突撃命令を下した直後から、味方の軍勢が対岸に押し寄せ、あっという間に桜児たちの姿が見えなくなった。そして敵を敗走させ戦が終わると、橋のすぐ近くで変わり果てた姿の桜児が発見された。
白い衣は赤暗色に染まり、全身のあちこちに痙ができ、顔は石灰石のように白く冷たくなっていた。
もしかしたら桜児が使者として斬られるかもしれないという予想はしていたし、それでも致し方ないとすら冷徹に考えていた陽一も、戦闘に巻き込まれ、馬に蹴散らされて命を落とすことになるとはさすがに思い至らなかった。
何という残酷な最期を与えてしまったのだろう。ただひたすら自分に好意を抱き、慕い続けてくれた可憐な女性に最も惨い仕打ちをしてしまったのだ。
「ヨウイチ! こんなとこに長くいるもんじゃないぞ」
オヨリがさっさと移動してくれと言わんばかりに声を掛けてきた。血の臭いが充満していて、早速、そこら中に転がっている遺体に蝿がたかっている。
「でも、桜児が……」
「気にするな。あとでちゃんと処理させる」
処理させる、という機械的な言葉が重く響いた。将軍にとっては、勝利した事実が絶対的で、そのために死んでいった無名の者たちは一様な扱いで終わってしまう。陽一にどんな事情があろうとも、それが戦だった。
「言っとくけど、ヨウイチのせいじゃないからな。タケチ様もあの女嬬を指名してたと思うぜ」
オヨリの言うことは正しい。誰かを使者に立てなければならないとすれば、捨て駒が選ばれるのは当然だ。女嬬でなかったとしても、舎人のうちの下っ端が指名されていただろう。
りらは背中からぎゅうっと陽一を抱きしめた。勾玉がないため、オヨリの言っていることはわからなくても、陽一に仕方が無いと諭していることは想像できた。
――久しぶりに床の上に寝転がった。掃討戦にはそれほど人数は必要ないということで、陽一たちは仮宮で休息をとるようタケチから指示をもらった。タケチもまた、安全な仮宮で待機することになった。
「私を守ってくれて、ありがとう」
心の底まで冷徹になりきれなかった男を、りらは愛おしく思った。
お世辞にも良い関係を築けなかったとはいえ、桜児の運命を思うととても心苦しい。それでも誰も責められるには値しないと思う。桜児は自らの意思で陽一の依頼に応じ、敵陣に乗り込んだ。そこに予期しなかった稚臣の単独突撃が発生し、将軍の判断で総攻撃がかけられた。
「陽一さん、私たちの目的は、オオシアマを勝たせることなんだよ」
「……そうだね。そのことだけを考えなきゃいけないね」
勾玉をなくしたという暗影たる痛手を抱えているにも関わらず、りらはきっぱりと言った。そして、陽一の頭を優しく抱え、子供にするように撫でた。
いつの間にか、二人は泥のように深い眠りに落ちていた。
瀬田橋の悪夢から逃れたオオトモは潤と麻呂の二騎のみを伴って最期の地を求め彷徨った。
今頃、オヨリたちが粟津から大津宮までに散らばった兵士たちを掃討しに出回っているだろう。飛鳥の上つ道の将であった犬養五十君は、敗走してきた粟津の市付近でオヨリに発見され、取り囲まれた後、その場で首を刎ねられた。
そして、潤が知る由もなかったが、飛鳥の将軍犬伴吹負は新羅太子や竜成と美輝と共に河内方面から、かつてのカル大王の宮であった難波宮へ赴いた。他の将軍たちは、三道を北上し、大津宮の手前に駐屯している。
「ジュン、麻呂…… 俺は大津宮で首を括ろうと思う」
粟津から大津宮へ向かう途中の山林で、死を覚悟したオオトモは静かに告げた。彼の最期を予め知っておきながらついてきたにも関わらず、潤はこの敗北を受け入れることができなかった。
「でも、最後にトオチとミミモに会いたかったな」
父も母も既にこの世になく、兄弟もいない。母の異なる兄弟姉妹はいるが、サララのように敵となってしまった者も少なくない。唯一の家族といえば、二人の妻たちだった。
たった一人で戦ってきた若者のささやかな本音が、潤を突き動かした。
「会いに行けばいいんじゃないですか」
「え?」
「山科で妃たちと会うんですよ。そして、皆一緒に逃げましょう」
「何を馬鹿なことを……」
オオトモは突然の突拍子もない提案に困惑気味だ。大王も宮も守れずに敗北した大王の息子として、潔く黄泉の国へ向かう決心をしたというのに。
麻呂は沈黙を保っている。この王子に生きていてほしいと思う気持ちは嘘ではない。
「あなたは生きる価値がある。あなたは大王の息子です。死んで責任を逃れるつもりですか? 妃を放置しておいて良いのですか? 俺は…… あなたに生きてほしい。麻呂はどうだ?」
「私もそう思います。妃を連れて、お逃げください。そして、どうか御子を」
麻呂はオオトモの前に脆いた。潤も慌ててそれに倣う。
蝉の合唱がけたたましい。
雌を求める鳴き声は、精―杯に生きている証だ。オオトモは考えた。俺はまだ十分生きることへの責任を果たしていないのではないか。政治も何―つ中途半端に終わらせて習得できなかった。トオチに妃としての教育も受けさせてやれなかった。何より、ミミモの素晴らしい心映えに気づくのが遅すぎて、夫婦らしい時を過ごすことができなかった。
「駄目だな、俺は。何もきっちりやれたものがない。叔父上に何もかも及ばないまま、黄泉の国へ旅立つのは、悔しいな」
三人とも声には出さなかったが、涙を浮かべていた。
潤はオオトモの心が変わらないうちに、思案した逃げる手筈を述べた。
「移動するのは夜間のみ。麻呂と俺で妃たちに連絡をとって連れ出します。そしたら、一緒に宇治川を下って難波津まで行き、船で安房か上総へ向かうのが良いでしょう」
うまくいくかなんてわからない。掃討戦の中で、オオシアマ軍が消えたオオトモを必至に探し回っているのは容易に想像できる。
麻呂は短時間で考えたあることを実行しようと思った。
「……ジュン、オオトモ様を連れて先に山科へ向かってくれ。俺は敵の注意を逸らす細工をしてくるよ」
「細工?」
麻呂が話した内容はこうだ。オオトモが今着ている王子とわかる服と装飾品を持って大津宮付近に行く。そこで適当な兵士の遺体に着せて、その首を斬り、胴体だけを見つかりやすい山中に投げ捨てておく、という。
「お前にそんなことさせられるか」
腹心の舎人の手を汚す真似を許可できるはずがなかった。しかし、麻呂は「これくらい、お役に立たせてください。宇治橋の下で落ち合いましょう」と言い残し、オオトモ上衣と装飾品を荷物に詰め、山林の奥へ走っていった。
勢いのある蝉の鳴き声が、もの悲しいヒグラシの歌に変わった。しかし、まだ残暑は厳しい。真夏の敗戦を味わうには十分な日差しが注いでいる。
山中の岩陰に身を潜め、夕暮れを待った。
「山科まで一刻くらいで着くと思います。出立しましょう」
王子をこうして山道を歩かせるのは忍びなかったが、オオトモはー向に介していない様子で黙々と進んでいる。
一時間かけて逢坂から追分まで歩いた。蒸し暑さが体力を消耗するが、立ち止まることはできない。
「ここからは身を隠せる山林がないので、すっかり暗くなったら歩きます」
山科地区は完全に平地で開けている。夜の闇に紛れて歩くほかない。潤もオオトモも身分の低い舎人の服装に着替えていたし、幸い、戦が続いていたのでカヅラキの御陵工事は中断していて、人の往来はほとんどなかった。
「トオチはこんなぼろぼろの俺を見て怖がるかな。ミミモは何と言うだろうな。戦に負けた男なんか、どの面下げて現れよう」
「何も言いませんよ。生きている姿を見て、喜ばないはずがないじゃないですか」
それは潤自身の希望でもあった。貴子を置き去りにした挙げ句、当然のことながら負けた。そして、未だに敵の王子を逃がすために、貴子がいるであろう場所からどんどん遠ざかっていく。王子の里心がついたのが移ったのか、潤もまた貴子に無性に会いたくなった。
途中の道すがら数人の男とすれ違ったが、誰も潤たちを気にする様子はなかった。工事だの戦だの、いつでもお祭り騒ぎに巻き込まれている農夫たちにとって、道行く人影など取るに足らない存在なのだろう。
「王子はここで待っててください」
大王やヌカタやオオトモの妻たちが避難している仮廬は、所々、松明が灯され、警護の兵士が門を守っている。
瀬田橋の戦いの結果が伝わっているかどうかはわからないが、全体的にひっそりとしていた。オオトモを少し離れた林の中に待たせて、潤は堂々と小走りで門に向かった。
「何者だ、止まれ!」
兵士が矛を突き出したが、潤は臆することなく袖から木札を取り出して見せた。
「私はオオトモ様の斥候です。ミミモ姫にお取り次ぎください」
兵士は小型の松明を掲げて、その木札を確認しようとした。どうやらオオトモ王子の木札であるのは間違いないようだと判断した時、小走りにやってくる女がいた。
「私がどうかしたのですか?」
「ミミモ姫……!」
思いがけず目的のその人が兵士たちの間から、ひょこっと顔を覗かせた。ミミモはじっと潤を見つめると、目をぱちぱちさせ驚きの声を上げた。
「あなた、オオトモ様の……」
この男が本当に味方の人物であることが判明し、兵士たちは引き下がった。潤は門からいくばくか離れた外側にオオトモの妻を誘導し、小声で要件を伝えた。
「お久しぶりです。戦の話は聞いていますか?」
「残念だけど私には何も知らせは届いていないの。あの人は無事?」
「はい。実は――」
オオトモ軍が敗走を重ね、ついに瀬田川を越えさせてしまい、ほとんど兵が残っていないこと、オオトモは自害を思いとどまり、東国へ逃げるためにここまでやってきたことを告げ終わると、ミミモは大粒の涙を流して、何度も潤に礼を言った。
「トオチに知らせるべきだとは思うんだけど、もうヌカタ様と一緒にお休みになられて……」
「ヌカタ様に知られると面倒です。仕方ありませんが、ミミモ姫だけでも共にお逃げください」
「本当につらいことね」
オオトモを慕っている幼いトオチの行く末を思うと、ミミモは胸が張り裂けそうだった。気持ちを落ち着かせると、冷静に言った。
「取り急ぎ、馬を二頭用意します。今から走れば夜明けまでに宇治までたどり着くでしょう?」
「さすが鎌足様の娘ですね」
こんな状況でもみだりに取り乱さずに、今後の行動を考えることができる女性がミミモ姫だった。しかし、ミミモは潤の言葉を自信たっぷりに否定した。
「いいえ、私はオオトモ王子の妻よ!」
なるべく物音を出さないように慎重に馬小屋から二頭の駿馬を引き出し、正門をくぐり抜け、衛兵に「急ぎの用があるから外出します」と告げて、ミミモは潤と共にオオトモが待つ林に走った。
「よく抜けられましたね」
「あの衛兵はあそこの門を守ることしか考えてないのよ。それ以上のことは、自分たちの仕事じゃないって思ってるみたいね」
数分走ると、目印の若い竹林が見えた。急いで馬から下り、林に分け入る。
「オオトモ様! 戻りました」
「ここにいるよ」
無事らしい声が聞こえるや否や、オオトモが「うわっ」と驚きの声を発した。潤の背中が凍り付いたが、それがミミモが夫に抱きついたためのものだと気づき、胸をなで下ろした。
「……ミミモ。叔父上には勝てなかったよ」
オオシアマに破れたということは、従来の大王家の統治が否定されたということでもある。タカミムスヒはオオヒルメ大神に中つ国を差し出さねばならない。
それは完全に、オオトモの居場所はなくなってしまったことを意味していた。
「でも、これからは誰とも競ったり争ったりする必要はないのよ」
額をオオトモの胸に押し当てながら、ミミモがつぶやいた。その一言は、オオトモを全ての重く冷たい鎖から解放した。
「あなたは、もう、ただのオオトモなんだから」
ミミモの泣き顔と笑い顔の混じった表情に、半分黄泉の国へ旅立ちかけていたオオトモの心身が甦った。ただのオオトモ、という言葉がすっかり気に入ってしまった。
「トオチは、元気?」
「すごくあなたに会いたがってた。必ず、いつか呼び寄せてあげて」
「ああ。それまではヌカタ殿にお任せしよう」
おそらく、オオトモとトオチが会う日が来ることはない。何と言っても、トオチはオオシアマとヌカタの愛娘なのだから、飛鳥の宮の中で大事に大事に育てられることは想像できる。トオチが成人する頃には、あの子に相応しい新しい夫が探し出されているだろう。
そういえば、異母弟のタケチはトオチを慕っていたのではなかったか。オオトモは磐余池の堤で目にした従弟妹の姿を思い浮かべた。タケチの右手とトオチの左手はそっと繋がっていた。
「さて、行くか」
舎人が先導し、ただの夫婦を乗せた馬は宇治ヘー直線に駆け出した。
ころころと透き通った小粒のガラス玉が火照った肌を滑り落ちていく。
美輝は垣根が巡らされた空間で、足下の桶から水を掬っては肩や首筋にかけた。サイカチという植物の莢を水につけて揉むと泡が出る。これで汚れが落ちると教えてもらった。
「あー、さっぱりした! 化粧水と乳液があれば言うことないんだけど!」
なにやら日帰り温泉にでも来たような要望であるが、戦で干涸らび、汗臭くなってしまった体がようやく輝きを取り戻した。
もともと難波宮で女嬬が着ていたらしい夏用の麻布の服を着て、美輝は宮の端に位置する来客のための建物へ向かった。
飛鳥と大和の全域を制圧した吹負は、紀将軍らを先に大津宮へ送り、自分は新羅太子とその配下の軍を連れて難波宮へやってきた。ほとんど忘れ去られているとは言え、留守司が管理しているおかげで、最低限の行政機能は使おうと思えばできる程度には維持されている。
美輝が建物に入ると、同じく小ざっぱりとした孝恭と竜成が団扇で扇ぎながら、果物にかじりついていた。
「あー、美味しそう! あたしもっ」
竜成が脇に寄せておいたマクワウリを目敏く見つけて、頬張る。メロンのような濃い甘さてはないが、ほんのり甘く瑞々しい果実だ。
「……昨日まで、戦場にいたんだよな、俺たち」
信じられないことに、今のこの光景は絵に描いたような夏の休息のひと時ではないか。
「あれ、ところで、吹負は何してるの? おやつにすればいいのに」
「お気楽にもほどがあるよ……。吹負は戦後処理で忙しいんだ」
呆れながら竜成が教えても、美輝はきょとんとしている。たぶん、戦後処理の意味がわからないからだ。
オオシアマ軍が勝利し、完全にオオシアマが全国を掌握するために、吹負は今までほとんど関与してこなかった西国諸国に早馬を送った。それぞれの国宰に官鑰、駅鈴、伝印を提出せよという命令を出したのだ。カヅラキ大王、ヤマト姫大王の治世で使用されていた税を納めた倉庫の鍵や公的な馬の使用許可証は、新しい王の元では無効とし、改めて独自の鍵と許可証を頒布する意味がある。
「あとは戦犯者の処罰と功労者への恩賞ってところかなあ」
「ああ。だが、それは吹負殿の仕事ではあるまい。タケチ王子とオオシアマ王のなさることだ」
「……潤は……どうなっちゃうの?」
飛鳥方面軍に入ってくる情報にはタイムラグがあったが、未だに敵の総司令官オオトモは捕らえられていないそうだ。しかし、住み慣れた王宮の付近を彷徨っているに違いない。
そうなると、発見されるのは時間の問題だ。おそらく最後まで付き従っている潤の身柄も拘束されることになる。
潤が寝返ったという報告を受けた時、オオシアマは激怒しなかったものの、さすがにオオトモと一緒にいれば処罰は免れないだろう。
「もう、会えないのかな」
竜成の見通しを聞いた美輝はさっきまでの明るい笑顔を曇らせ、項垂れた。
「それはわからないよ。ただ、あいつも俺たちと同じクシナダヒメの勾玉の持ち主だから」
めそめそしている女を殊更に慰めるつもりはないが、まがりなりにも仲間としてやってきた潤が処分されるのは竜成だって望んでいない。
「じゃあ、クシナダヒメが何とかしてくれるかも。きっとそうよね。勾玉拾わせた責任あるんだし」
美輝か勝手に都合良く解釈していると、さっきから続く会話を不思議そうに聞いていた孝恭が訊ねた。
「二人とも、その、クシナダヒメというのは……?」
うっかり新羅太子がいる前でクシナダヒメの話をしてしまったが、覆水盆に返らず。新羅は今般の戦が、中つ国の神々の代理戦争であるとはつゆ知らず、単純な権力闘争だと理解しているのだ。竜成が、「あー、それは……」とロごもっていると、タイミング良く舎人が現れた。
「皆様方、夕餉の支度が整いました。西殿へお越し願います」
この日の食事は戦でまともなものをロにしていなかった美輝たちにとっては贅沢な時間となった。それは将軍吹負も太子も同じだったようで、甕に入っていた酒の減りが異常に速かった。
翌日、二日酔いの一歩手前で留まった吹負は武官の朝服をびっしり着こなして正殿の一室に座した。ここは舎人たちが控えていた部屋である。対面しているのは西国の一部諸国から早馬で駆けつけた使者たちで、それぞれ官鑰、駅鈴、伝印を携えている。
「針間、吉備、丹波、稲葉、伯岐の方々。確かに官物を預かった。新王からの命は追っていたす。しばらく難波宮で休息されよ」
大役から解放された使者たちは安堵し、一礼すると舎人の間を退出した。
西の諸国はもちろんこれ以上あるが、昨日の今日だ。いくら早馬でも遠方、まして大宰府より南の国々の使者が到達するのは数日後になる。
その後、吹負は再び将軍の姿に戻ると、新羅太子の御前に現れた。
「太子、これまでのご尽力に感謝申し上げます。本来ならばオオシアマ様にお目通りいただきたいのですが」
「今は多忙で、肝心な時だ。お会いするのはいつかの楽しみにしておくよ」
「では私はここで失礼いたします。他の将らと集合せねばなりませんので」
孝恭は頷いた。
飛鳥の将軍を見送るため、竜成と美郷は宮城の門を出た。二人とも一緒に急いで戻る必要はないということで数日間はここで休息を取ってよいとのことだ。それに、孝恭ら一行を難波津から大宰府に送り出さなければならない。
門の外で手を振る若者たちを見て、吹負は軽く手を挙げ、見送りに応えた。
先に大津宮周辺に戻っていた飛鳥方面の将官たちを加え、オオシアマ軍は敗走した敵の幹部を徹底的に捜索した。
日の落ちる前に吹負もそれに加わり、山野に分け入る。
執念が実って、大津宮の重臣三人が同時に発見された。竹薮の後ろ側にあった洞穴に潜んでいたのだ。
「左大臣、右大臣、御史大夫! お前たちを賊軍を率いた科で逮捕いたす!」
兵士たちによって厳重に捕縛された三臣は、オオシアマ軍の将たちがずらりと並んだ前へ引き立てられた。名も無い兵士が大津宮の重臣らの背中をぞんざいに突き、地に伏せさせた。
「これほどの屈辱があろうか……!」
蘇我赤兄は心の底からの怒りに打ち震えた。
自分たちよりも地位が下の者たちも既にオオシアマ軍によって捕らえられているが、そんな彼らと同等の無礼な扱いを受けている。それ以上にも増して我慢ならないのは、地に這う自分たち大豪族を上から見下ろす男たちが、落ちぶれかけた豪族やあるいは舎人の身分に過ぎないものたちということだ。
「わ、私はタカラ女王とカヅラキ大王、そしてヤマト女王に誠心誠意お仕えした者だぞっ。娘はカヅラキ大王の嬪でもある! 右大臣も大王家の神事を担ってきた血筋だ! そ、それを逆賊扱いするなど――」
「だから何だ。悪いが、俺たちは大王家もその祀る神も、決して相容れない存在だと認識してるんでね。あんたたちの処分はオオシアマ王とタケチ王子がよおく考えてくださる。まだ殺しはしないよ」
敵の重臣たちの平均年齢の半分という若さのオヨリは、不敵な笑みを浮かべ、磨き上げられた剣の平たい面を自分の太ももにぱしぱし打ち付けながら言い放った。そして、戦犯者たちをぐるりと見渡す。
「連れて行け。不破で沙汰を待つ」
大臣らが発見された場所からそう遠くない草むらで、日継の御子の遺体が見つかったという報告を受け、オヨリたちは急いで現場に向かった。
「こちらです。頭は……ありません」
「オオトモが自害した後、従者か何かが、首を切り落としてどっかに埋めて隠したのかもしれないな」
吹負は言いながら遺体を検分した。オオトモの背丈も同じ、手や首筋を見ても若く引き締まっている。何より服装も装飾品も欠けているところがない。
「首を探すのは諦めよう。とりあえず、遺体はこの辺りに埋めておけ。目印を立てておけばいい」
「わかりました」
不気味だなあ。王子でもこのざまかよ。血の池じゃねえか――。
遺体を埋める作業に従事する兵士たちはぶつくさ文句を言いながら穴を掘り始めた。誰一人、オオトモが生きながらえ、妃や舎人と共に難波津へ向かっているとは想像せずに。
縁側に座って冷たい水を飲む。缶酎ハイがほしいなと思ったが、ここには水か強い酒しかないらしい。
ごく薄い雲が流れるように夜空を移動している。薄着の肩には孝恭からもらった領巾が垂れ下がっている。きらきらと輝く吉野川を彷彿とさせるエメラルドグリーンの領巾をうっとり眺めていた美輝は、満足して思い切り両腕を挙げて伸びをしようとした。すると、軽く握った拳が何かに当たった。
「あ、孝恭。いるなら声かけてよ」
背後にはいつの間にか孝恭が佇んでいた。白い肌着の上に、緑色の麻の衣を羽織っていて、月明かりに照らされた姿が一層クールに見える。
「俺は明日、大宰府に戻る」
「うん……」
孝恭は美輝の隣に座り、肩を抱き寄せた。しかし、やはりそれだけでは物足りなかったらしく、頬を寄せて美輝のくちびるを奪った。美輝は始め、すぐに顔を逸らそうとしたが、孝恭にしっかりと抱きすくめられて身動きができなくなっていた。その間にも、孝恭はちゃっかり体を求めてくる。
別に孝恭のことを嫌いなわけではない。それに、もはや潤との関係を再開できるとも思っていなかった。だからここで孝恭の愛を受け入れるという選択肢もあった。自信に溢れた情熱的な眼差しを拒否する方が難しい。
「ミキ、お願いだ。俺と一緒に新羅に渡ってほしい。異国の女官であるあなたを、嬪や貴人として迎えることはできないが、淑媛だったらなんとかなる。あなたは戦場で新羅太子の命を救った功績があるんだからな」
「ピン、クィイン、スグォン…… 何なのそれ?」
「後宮の種類だよ。嬪と貴人は上位の妻で、淑媛は妻の中では最下位だが――」
「じゃあ、イヤよ! 奥さんたちの中で最下位なんて惨めじゃない。あたしはあたしのことだけ、一番って思ってくれる人じゃなきゃお嫁には行かない」
新羅の太子は頭を殴られたような衝撃を受けた。こんな言葉を浴びせられたということは、一切の妥協の余地はないに等しい。今まで何回か身分の低い女性と恋愛をしてきたが、彼女たちはこぞって後宮に入れることを夢見て、ことあるごとにその願いを口にしていた。淑媛ですら憧れの地位であるというのに。
「だが、あなたのかつての恋人は他にも女がいただろう?」
全力で拒否されたことが悔しくて、孝恭はついつい意地悪なことを訊いてしまう。
「そっ、それとこれとは別よ! だって結婚するとかっていう話じゃないもん」
必至に忘れようとしていた潤が話題に上って、美輝は顔を真っ赤にしながら抵抗した。
「ねえ、真面目な話なんだけど、あたしはこの勾玉でクシナダヒメに協力しなくちゃいけないの。だから、悪いけどあなたの国には行けない」
「……戦に勝ったら教えてくれると言ってた、あなたの正体は何なんだ?」
この期に及んで隠す必要もないだろう。美輝は自分が未来からやってきたこと、クシナダヒメとの出会い、不思議な勾玉についてありのままに打ち明けた。
「そういうことだから、あたしのことは諦めてね。未来に帰りたいの」
狐につままれたのかもしれない、と新羅の太子は思った。美輝への思慕の炎が消えてしまったというわけではないが、みるみるうちに寂しいという感情が沸き起こってきた。
「俺が贈ったその領巾は未来には持ち帰れないのか。せめて思い出してほしいのに……」
孝恭はもう一度、領巾ごと美輝を抱きしめた。さっきまでの自信に満ちた太子の姿はなく、拾った仔猫がいつの間にか消えてしまったという事実に直面している少年のような面持ちに変わっている。
「しょうがない太子だなあ、もうっ」
あんまりにもしょげている顔を見て、美輝は思わず孝恭の背中に両腕を回してしまった。晩夏の縁側の恋もいいかな…… 美輝は孝恭の肩に頭を委ね、そっと目を閉じた。
七月二十五日、新羅の非公式軍団が難波津を発つ日だ。
じっとりとした空気が首筋に纏わり付く。冷たい手ぬぐいで汗を拭いたいが、一応、賓客の見送りということできっちり朝服を着ている。
「竜成、しばらくは大宰府に滞在してるから遊びに来いよ」
「それは是非」
「新羅に渡るつもりは? 君が我が王朝の官吏になってくれれば、大和との関係構築にきっと役に立つ」
太子からありがたいお言葉を賜ったが、竜成はちらと仲間を伺った。昨日、美輝は全て孝恭に話してしまったという。
「申し訳ないけど…… 大津宮でしばらく働いてわかったけどさ、俺、絶望的に役人に向いてないみたいなんだよ。未来に帰って、この世界のことを雑誌に書きたいしね。もちろん、新羅のことも書かせてもらうよ」
「そうか。なぁ?」
「何?」
「……忘れないでくれ」
最後の言葉は独り言のようで、誰に向けて言ったのか定かではなかった。
「では、太子。そろそろ」
部下の金押賓が孝恭を船に誘導する。
「菟の父上によろしくね」
「栗隈王にも!」
新羅の客人は船の側面にかかっている簾を手で払いながら、上半身を覗かせた。しかし、船乗りに危ないですよと注意されたのか、すぐに船内に身を引いてしまった。
難波津から瀬戸内海へ向かって進む船が水平線に消えるまで、未来からの旅人たちは見送った。
だいぶひっそりとしてしまった難波宮のすぐ北側は淀川と繋がる広大な汽水域である。数百メートル西はもう大阪湾となっている。そして宮と目と鼻の先の北西には難波津があった。
山科から闇を縫って宇治橋にたどり着いたオオトモたちは、橋の下に身を潜めて麻呂の到着を待った。あまり長居はしたくない。というのも、ぼろぼろに朽ちた布にくるまった浮浪者や動物の死骸が薄明かりに浮かび上がって、ひどく気味が悪いのだ。
潤は見張り役を務め、主夫婦に仮眠を取らせた。もう彼らは王子でも王子妃でもなかった。
うつらうつらしかけて、はっと目を開ける。ちゃぽんちゃぽんという水の音が下流から聞こえてくるようだ。潤は音のする方へ慎重に移動した。
「ジュン! 俺だ」
その声は麻呂のものだった。よく目を凝らすと、麻呂は船からこちらを見上げており、知らない男が船を動かしている。
「待たせたな。木幡の辺りで船を借りて船頭を雇ったんだ。これですぐに難波津まで行けるだろ」
船頭はロがきけないらしいので、口外の心配は無用とのことだ。潤はオオトモとミミモを起こし、早速、船に乗り込ませた。
「首尾良くやってくれたな。礼を言う」
オオトモは麻呂の肩を叩いて労った。
既に早朝から難波津付近の水運は賑わっていた。水路を利用する行商人たちや、武装解除された農民兵たちを乗せた大小様々な船が行き交う。
ここまで運んでくれた船頭に多額の謝礼を渡すと、疲れた顔を見せながらも船頭は喜んで何度も頭を下げた。
滅多に大津宮から出ることがなかったオオトモは、難波津のごったがえした人に飲まれているようだ。山科の鎌足邸で過ごしていたミミモもまた、市井の生活をほとんど知らない。
「なんだか、くらくらしてくるわね」
「宮と違って喧噪としていると思いますが、これが庶人の日常なんです」
麻呂は主夫婦が迷子にならないよう注意しながら、東国行きの船が出る桟橋へ向かった。桟橋には十人弱の男たちが並んでいる。様子を伺うと、彼らはオオシアマの河内方面軍に属していた農民兵で、遠江の引間(浜松)や焼津から徴兵されてきたという。
「彼らに混じって乗り込めます。通行証は用意してあります」
通行証は小さな木簡だった。もちろん正式に発行されたものではないが、役所の印は開戦時から麻呂と潤が携帯しているので偽造はいくらでもできた。
「はい、ただのオオトモ様用の。こちらがただのミミモ様用です」
笑いながら麻呂が手渡した木簡には、こう書かれている。
――上総国天羽評 大原黒主 歳二十四 解兵役
――上総国天羽評 大原阿伎 歳二十二 行商
「私たち、すっかり別人になるのね!」
ミミモ姫は興奮気味に夫を見上げた。少しやつれたオオトモは、他の元兵士たちと同じような無地の麻の貫頭衣を着て、布にくるんだ荷物を背負っていた。日継の御子としての繊細で豪華な文様が織られた絹の衣服を、二度と着ることができない道を歩もうとしているのだ。
「生きていれば、小さくても幸せはやってきますよ」
「ああ、正直に言って肩の荷が下りた。あの父の元に生まれたばかりに、身に余る重責を負っていたんだからな……」
あまりにも姿が変わってしまった王子と王子妃を見て、潤は不覚にも目頭が熱くなった。それでも、あの場で自害させることはもっと耐えがたかった。
自分がオオトモに生きるよう仕向けたことで、歴史は変わってしまうのだろうか。だが、飛鳥から遠く離れた上総の地で夫婦がひっそりと暮らすだけであれば、何もオオシアマの治世に影響を及ぼすことはないはずだ。
「では、乗り込みましょうか」
麻呂と潤も自分の袖から通行証を取り出し、連絡船へ歩き出した。その直後――
「その必要はないよ」
言うや否や、オオトモは忠臣たちの手から木簡を奪い、大きく振りかぶった。あっと、気づいた麻呂がオオトモの腕をつかもうとしたが、かすめて宙をつかむ。二つの通行証は、ちゃぽんというかわいらしい音を立て難波の水底へ消えていった。
「何をなさるのですか!? 通行証がなければ、お供できません!」
「これ以上、お前たちを俺のことで煩わせたくないんだ」
オオトモは断固として、麻呂と潤が東国まで付き従うことを拒否した。ミミモという大きな存在が側にいる限り、どんな苦労にも立ち向かっていけると信じているからだ。もうあの宮廷にいた頃のように、誰かを頼りたくない。それに、誰かを従属させて生きていくことが許されるような器ではない。
「しかし……!」
「俺の最後の願いだと思って、ミミモと二人きりにさせてくれ。……麻呂は叔父上の武芸の師だったな」
オオトモは微笑んだ。今でこそ戦に敗れて惨めな姿をしているが、麻呂はそもそも物部連という豪族の嫡流であり、若きオオシアマに剣を指南していたこともあった。本来ならば、オオシアマと共にオオトモを討つべく戦うことを望んでいたに違いないのだ。
「なあ、麻呂、ジュン。かつての主従関係がそう簡単に壊れていいものか」
「……え?」
潤は耳を疑った。オオトモは麻呂だけでなく潤に対しても、暗に、オオシアマの元へ戻れと言っているのだ。
「俺も、ですか?」
「そうだ。ジュンは叔父上のために大津宮に来たんだよな?」
なんという愚かで器の大きな王子なのだろう。潤がオオシアマの指示で兵衛となり、その後、オオトモの舎人として仕えていたことを知りながら、ずっと潤を側近として信頼し続けていたということだ。
「ご存じだったんですね」
状況が飲み込めていない麻呂のために、オオトモが簡単に説明すると麻呂は相当な衝撃を受けていた。端的に言えば、間諜として動いていたということなのだから。
「いつから気づいていたのですか?」
「蒲生野に妹がいるから会いに行きたいと言った時だよ。あの頃、蒲生野は新宮造営のために立ち退きが完了していて、定住民はいないはずなんだ」
潤はオオトモの側近として勤務していたから、蒲生野の現状がどうなっているかは知らなかったのだ。
「それに……散歩をしていた時に舎人の厩を通り過ぎてね。ジュンが蒲生野に走らせているはずの馬が厩に繋がれたままだった。つまり、ジュンは俺に嘘をついて出かけなければならなかった。しかも、馬の必要のない距離だ。ジュンが私的なことで嘘をつくことはない。とすれば、政治に絡む話かと考えたんだよ」
それから、オオトモは潤の言動を注意深く観察するようになった。潤はいつでもオオトモに対して真っ直ぐに向き合い、間違っていることは指摘し、自分の意見をはっきりと伝えていた。もし、オオトモに気に入られ出世したいのであれば、オオトモがいくら未熟だろうが誤った言動を取ろうが、適当におだててイエスマンになれば良い。
しかし、潤は違った。
「出世欲が全然見えなかったよ。だから、余計に大津宮には別の目的で来たんだろうとわかった。タケチに停戦を申入れたらどうかと提案された時、やはり罠だったのかと疑ってしまったけれどね」
「ではなぜ、従ったのですか?」
「……あれは俺の意思でもあったし、ジュンの主張は正しかった。両大臣の喚いていることよりもよほど筋が通ってた」
結局、オオトモは最後まで潤の意図を正確には理解できなかった。オオシアマと通じている一方で、オオトモにも真摯に仕えているという奇妙な態度だったからだ。
「俺は戦が始まるまでは確かにオオシアマに大津宮の情報を話していました。でも、あなたを裏切ることも陥れることもしたくないという気持ちが勝ってしまったんです。だから最後までお供させていただきました。……それだけのことです」
潤は頭を下げた。オオトモは穏やかに「そうか、ありがとう」とつぶやき、片手で潤の肩を叩いた。
だいぶ陸に並んでいる乗客の数がはけてきた。今度こそ、乗り込まねば東国逃亡の機会を逃してしまう。オオトモは妻の手を取り、二人の舎人に丁寧に礼をすると無言で背を向けて歩き出した。
時を同じくして、難波津には二人の男女が他愛ない話をしながらそぞろ歩いていた。竜成と美輝だ。明日、不破に向かって出立するので、ゆっくり津の見物でもしようと美輝が言い出したのだ。
そして、桟橋に近づいた時、美輝の視線がある男とぶつかった。
「……潤っ!」
短い悲鳴にも似たその驚きの声を聞いて竜成の足は条件反射的に動き、潤と麻呂の前に躍り出た。
「た、竜成、どうしてここに!?」
「君こそ、船で逃げようとしてるのか?」
見知らぬ不審な男が現れ、麻呂は懐の刀に手をやった。だが、潤と面識があるようだ。どうしようと逡巡しているうちに、謎の女まで駆けつけてきた。そして桟橋に歩いて行く二人の男女をじっと見た。
「竜成! あの人、あたし知ってる! えっと、えっと、王――」
「黙ってくれ!」
美輝の口は、潤の手によって塞がれた。
「事情は後で全部話す。だから黙って行かせてやってくれ! お願いだ」
常に冷静だった潤の慌てぶりに、竜成は呆気にとられ、現在進行中の出来事を頭の中で整理しようとした。潤が仕えていたのは、そう、オオシアマの主敵であるオオトモ王子だ。だからつまり、あのみすぼらしい姿をして船に乗り込んだのは……。
「痛っ」
「はあっ、苦しかった! ひどいよ、潤!」
口を塞がれた美輝は、思い切り潤の掌を噛んだようだった。自由になった美輝だったが、騒ぐことなく息を整えながら桟橋から綱が外され、徐々に動き始めた船を見つめている。そして、潤の方に向き直り、こう言った。
「二人とも、行っちゃったね。……ねえ、あたし、潤のそういうとこ好きだったよ」
過去形が何を意味しているのか、潤には痛いほどよくわかった。そう、これで良かったんだ。
東国行きの船がすっかり水平線から見えなくなってしまうと、竜成は潤に告げた。
「戻ってこいよ。もう全部終わったことなんだしさ。六人一緒に、未来に戻らないとね。それに、黒部郎女が死にそうな思いで待ってるよ。まあ、他の男に慰めてもらってるかもしれないけど。オヨリとか」
優しい言葉をかけながら、最後に煽るのは竜成の常套手段だ。
それから、事情の飲み込めていない麻呂を無理矢理引きずって、竜成たち三人は難波宮の舎人控えの間に帰った。
女嬬に頼んで、温かい風呂と清潔な新しい衣と力のつく食事を用意してもらった。
「……何か、まだ信じられん」
元気を取り戻した麻呂であったが、もう二度と宮殿など足を踏み入れることはないと思っていたので、自分が難波宮の一角でくつろいでいることが夢のように感じられた。
「明日、不破に向かいます。馬は四疋ちゃんといるのでご心配なく。一緒に来てくれますよね、物部殿?」
さきほどからずっと、三人の若者たちは開戦以降の身の上話をし合っており、潤がオオシアマのそばに仕えていたことが明らかになった。
「もとよりオオトモ様に従って東国へ向かうつもりでいた。だからこの身がどうなろうと構わないが、オオトモ様がお逃げになったことは決して口外しないでいただきたい。約束してくださるなら、不破までお供しよう」
「俺からも頼む。おそらくもう偽の遺体が発見されて、王子は自害したものだと決着がついてるはずだから……」
「わかったよ」
結局、麻呂と潤はオオトモの自害に立ち会い、その首をオオシアマ側に取られないように川に流して捨てたということになった。その後、二人は運良く見つからずに河内方面へ逃げてきたところ、竜成たちに遭遇した。オオシアマが信じてくれるかどうかはわからないが、この筋書きが最も自然だろう。
久しぶりに屋根のある場所で眠りについた。もはや美輝の生き生きとした体を感じることは許されない。貴子も潤に愛想を尽かして、目を合わせてもくれないかもしれない。色んな仮説を立ててみるが、どれも苦しかった。それでも、オオトモが自由な道を歩こうと去った今、潤が戻るべき場所は明白だった。




