第9章 <3>
もうどちらの神が頂点に立っても良い気がしてきた。そして、こんなことで二度と戦になってほしくない、とも思う。誰かが武力によって勝てば、負けた方はまた武力で勝利を取り戻そうとするだろう。その永遠の繰り返し。
「ねえ、陽一さん?」
例によって陽一の後ろに座り、腰にしがみついているりらが訊ねた。
「カヅラキ大王が特殊な血統を作り出そうとしたのは、不毛な後継者争いをなくすためなんだよね。オオシアマはどうすると思う? 今回の戦で、争いを最後にするために何か考えがあるのかな」
りらの疑問は鋭かった。現代人がその辺のことまで気にする必要はないのかもしれないが、オオシアマがオオトモとの対決を決断するきっかけとなったからには、気にしないわけにはいかなかった。
りらが気にしているのはタケチの存在である。明らかに、ほぼ同年齢のクサカベ、オオツ、オサカベよりも活躍し、長男としての能力を発揮していた。
「タケチが一番、オオクニヌシに近いってことが気がかりだよね……」
「後継者に出雲王と海人族の娘の血が入ってる人物が選ばれたら、この戦で敗れたヤマトがいつかリベンジするかもっていう心配?」
「そう。クシナダヒメは『中つ国の統治の正統性がイズモにあることを確立させてしまうの』って言ってたよね。もし、オオシアマが王位に就いて、タケチがそれを継いだら、クシナダヒメの目論見は完成するかもしれない。だけど、クケチが継ぐ前に誰かが挙兵したら……? タケチの息子がヤマトの大王の血を引く人にその座を奪われることになったら……?」
王というのは、かくも勝利の後に気を遣わなければならない存在なのだ。
「俺、思うんだけどさ、オオシアマにとって最も大事なことって、もしかしたら王の血統じゃないのかも」
「え?」
陽一には何とかくわかっていた。オオシアマがオオトモに反旗を翻したのは確かに出雲王国を復活させるためだ。しかし、血統とは実は脆い象徴に過ぎない。
オオシアマは中つ国に、もっと確実で永遠に続く理想の国を作り、残そうとしているのではないか。
りらに自分の考えを話す前に戦闘開始を告げる太鼓が双方の陣地から響き、最後の打音が鳴らされた。矢を避けるために楯を構える。
安河の戦いが幕を開けた。
赤という色は、人を高揚させ攻撃的にするものだ、とオヨリは思った。オオシアマ軍のテーマカラーは赤。兵士たちの体には必ず一箇所、赤い布が結びつけられているし、もちろん軍旗は赤く染められている。
「オヨリ、あなた将軍なんだからそんなに前に行って戦わなくてもいいじゃない」
「あ、俺の心配してくれてるんですか、黒部郎女?」
「……ま、まあ、そうだけど」
本音はというと、オヨリに離れられてしまうと、敵を防ぎようがなくて怖いからである。
「でも、あいつらも前線にいるんですよ。負けたくないじゃないですか」
あいつら、というのはオオトモ軍の潤と麻呂のことだ。今までの会戦では、彼らは後方でオオトモを守備していたようだが、正規の将軍がいないとなっては出てこざるを得ないのだろう。
恋人が古代人と同じように戦場で戦っている姿を目の当たりにして、貴子の苦悩は一層、顔に表れた。今この瞬間にも、オオシアマ軍からの矢が麻呂や潤の馬の付近を通り過ぎ、運悪く当たってしまった農民兵を仕留めているのだ。
「じゃあ、俺、行きますよ」
オヨリは馬の腹を蹴った。すると、意を決したように貴子も手綱に込める力を強め、馬を前へ駆り立てた。
何のために戦っているのか理解しないままぶつかり合う兵士たちが、ほとんど生身のまま粗末な刀で互いに斬り合っている。即の所で、命を長らえても息つく暇もなく次の目的に向かって武器を繰り出さなければならない――。そんな光景が川のほとりで続けられている。
貴子はなるべく周りを視界に入れないように前方を見た。オヨリが敵を倒している問に、横から飛び掛かろうとしている別の兵を後方から弓で射て援護するのだ。5回に3回は命中した。外した場合でも、誰か他の場所から援護の矢を放っていたし、なによりオヨリ自身が華麗な太刀の一振りで処理してしまうのだった。
敵将が間近に追っていた。
もちろん潤もよく知っているオヨリだ。本来ならば彼の隣で仲間として槍を振るっていたかもしれない。
潤はオヨリを挑発しようと思い、馬の向きを変えた。すると、その途中で目に飛び込んできた人物がいた。貴子が少し離れた場所からオヨリの援護をしているところなのだった。しかし、貴子は前方だけに注意を払って一心不乱に弓を引いている。
「貴子っ」
潤は左方の歩兵がきりきりと弓を引っ張っていることに気づいた。その鏃はまさに貴子を撃ち抜こうと睨み付けている。
聞き慣れた声がすると思ったら、敵陣で潤が喚いている。しかも、自分の名前を大声で呼んでいるではないか。そして、すぐに潤が騒いでいる理由がわかった。しかし、足が煉んで、というか手も足も硬直してしまって馬を操るどころではない。
無情にも歩兵の番えた矢筈が弦から離れた。
この場に似つかわしくない、ひときわ甲高い女性の悲鳴が天に駆け上った。オヨリがその声に振り返った時、貴子の頭上に煌めく死の手が襲いかかろうとしていた。
だが、貴子よりも先に最後まで重心を保てずバランスを崩し、地面に這うことになったのは射手の方だった。矢は放たれてしまったが、射手の指から飛び出すその瞬間に大きな衝撃を受け、飛翔経路に僅かなブレが生じていた。
潤は手応えを感じると、手にしていた槍の切っ先を引き抜いた。思わぬところから肩を突かれた歩兵は、なぜ自分か味方の、しかも指揮を執るオオトモの舎人の攻撃を受けたのか全くわからないまま、呻きのたうち回った。
貴子を狙っていた矢は虚空を切り裂き、貴子の鐙から10センチメートル横を下降し、草の間に突き刺さっていた。
「怪我は!?」
魂が矢の先にでも引っかかって持っていかれてしまったのか、貴子は目の焦点が合っていないまま、ふるふると首を横に振った。
「黒部郎女、もうわかったでしょう。あなたの背子は味方の兵を殺してまで、あなたを守ったんですよ。……お願いだから、後方に戻ってください」
オヨリの口調は厳しかった。どう考えても潤がオオシアマ軍を離脱した心変わりの理由はわからなかったが、貴子に対する気持ちは全く変わっていないようだ。
「これ以上、あなたを危険な目に遭わせ、万が一傷つけることがあったら、次はジュンは俺を責めるに決まってますよ」
「……それは、申し訳ないどころじゃないわね」
「わかったなら、行って。女人の弓に頼らなきやいけないほど、俺は弱くない」
敢えて素っ気なく言った。この会話の間も、オヨリは馬上から敵兵を斬っている。貴子は素直にオヨリの指示に従って、馬の腹を蹴った。
後方では祢麻呂が君手に確認していた。
「食糧と仙水、それに矢の補給は十分届いている。交代で補給させるよう配下の者たちに伝えてくれ」
仙水とはあの塩分を含んだ経口補給水のことだ。桑名から続々と到着する物資は、さらに野上で仕分けられて、主力軍を追うように届けられるのだった。皮肉なことに、絶対に補給を途切れさせてはいけない、とタケチに進言していたのは潤であった。おかげで、オオシアマ軍の兵士の体力と矢は何時間でも一定に保たれていた。
りらと陽一はひたすら戦場を逃げまくっていた。後方で待機しているからといって、必ずしも安全とは言えないからだ。
時々、大急ぎで補給物資の分配の手伝いをし、またすぐに馬に乗り……ということを繰り返す。補給物資を捌くため徒歩で雑踏を移動したり、馬に飛び乗って戦場を縦横無尽に駆け回り、武器を握っていないわりには激しく動いていた。
「放て!」
歩兵たちを前線で戦わせる一方、騎馬兵を後方に集め、新しく届いた矢を10本ずつ配り、将軍肝香瓦安倍は腹の底から命じた。
馬上の高い位置から射手の指を離れた矢は、大きな弧を描きながら滝のように敵陣に降り注いだ。
どすっ、どすっ、かんかん、という音が、潤の構えた楯の向こう側で踊っている。何本かの矢がめり込んだようだ。まともな防具を携帯していない兵士たちは絶え間ない空からの攻撃に、呻き声と鮮血を散らしながら次々と地面に伏していった。
最後の一巡の矢が残った兵士たちを標的にすると同時に、オオシアマ軍の将、和珥部君手が突撃の号令をかけた。
死屍累々の味方の兵を踏みつけながら、オオトモ軍の歩兵は鞭打たれるようにオオシアマ軍に向かっていった。しかし、余力と勢いの差が激しく、オヨリ曰く、「塵を掃除するくらい」あっけなく勝敗が決まってしまった。
「オオトモ様、兵力は半数に落ち込みました。これ以上は耐えきれません。ご決断を」
麻呂が撤退を促した。潤は連絡係から畿内の追加徴兵の状況を聞き取ると、瀬田川の西側に布陣するよう指示を出した。
「あと1万の兵が山城と丹波からやってきます。瀬田に集めて、我々もそこへ引き返しましょう」
「わかった。こんな時によくぞ募兵を進めてくれたな。現地の者には褒美を出さねばなるまい」
オオトモは汗を拭いながら、にっこり笑った。
おそらくこの戦況を考えると、追加で兵を集めるためにかけずり回った現地の役人たちに、王子から報償が渡されることはないであろう。それでも、この切羽詰まった時でも部下に感謝の念を忘れないオオトモは、麻呂と潤を感動させた。
敵軍が順次撤退する様子に、オオシアマ軍は歓声を上げる。安河のほとりの戦いはオオシアマ軍の圧勝であった。
「みんな、よくがんばったよ!」
ただ一言、タケチは大きな安堵感に包まれながら集まった幕僚たちを労った。
軽傷を負っている者はいるが、幕僚の中に死傷者はいない。もし、この中の誰かが戦死したらどうしようと、タケチは不安でいっぱいだった。父から、「お前はオヨリたちに守られてるけど、本当はオヨリたちを守らなければならないのはお前だ」と言い聞かさせていたからだ。
防具に着られていると言った方が適切なタケチの小さな両肩に乗せるには、総司令官という役目は重すぎる。形だけと言えばそうかもしれない。だが、タケチ自身はそれに甘んじようとはしなかった。
タケチは額に手をかざしながら天を見上げた。
「オオヒルメは眩しいなあ。でも、すごく美しいね」
誰に言われるでもなく、タケチはオオシアマ軍の最高神を称えた。
その後、オオシアマ軍は負傷兵を回収し、生きている敵兵を捕虜とし、味方を休息させ、さらなる進軍に備えることにした。栗太評を抜け、次に立ちはだかるのは瀬田川である。
オヨリは栗太評に散らばったオオトモ軍の残党兵を追撃しながら瀬田川まで進むよう指示した。だが、ひとまずは休息が先だ。
「そういえば、リラとヨウイチがいないわね」
貴子が周囲に首を巡らせると、馬から下りた二人がこちらに向かってくるところだった。だが、勝利の女神はこちら側に微笑んだと言うのに、深刻そうな顔つきである。
「どうしたの、怪我でもしたの!?」
貴子が駆け寄り、タケチやオヨリも二人の様子を心配そうに見つめる。りらが顔を上げて、苦しそうに口を開き、言葉を発した。
「……………」
「え!?」
その場にいる全員に聞こえるくらいの大きさの声でしゃべったにも関わらず、りらが何を言っているのか、タケチにもオヨリにもわからなかった。理解できなかったというよりも、言葉そのものを聞き取ることができなかったと言った方が相応しい。
「ど、どうしたんだ、リラ!? 神が、依り憑いたのか!?」
再びりらが何かを言ったが、ばらばらの音がその口から流れてくるとしか思えなかった。しかし、貴子にはりらの言葉はいつも通り聞こえた。ただし、その内容は衝撃を伴うものだった。
「クシナダヒメの勾玉が、なくなっちゃった……」
「嘘……」
りらは嘘でない証拠に、勾玉を首からかけるために使っていた紐を差し出して見せた。その先に瑠璃色の石はない。
「タカコ、ヨウイチ、君たちにはリラの言葉がわかるの? 何て言ってるの?」
タケチが思い切り眉間に皺を寄せて訊いた。
「たぶん戦場で駆け回っている間に、勾玉を落としてしまったんだ。しばらくその辺を探しだけど、見つからなかった。自分の勾玉がないと、その…… 皆と会話ができない」
話すことができない、いや、古代人の言葉に変換できないりらに代わって陽一が状況を説明する。
「仙界の方々は勾玉がないと、我々と話ができないってことなんてすね」
「……困ったことはそれだけじゃないよね、ヨウイチ? 勾玉がないと、仙界に帰ることができないかもしれない」
オヨリと違ってタケチは陽一たちが未来からの旅人であることを知っていたが、事情を知らない者に話を合わせた。そして、たぶん奇妙なクシナダヒメの使者たちは、勾玉がないと元の場所に帰れないということも、タケチは理解した。それは彼らにとって、とてつもなく重大で、絶望的な問題に違いない。
「とにかく、彼女には俺がついてるから、通訳は心配ないよ。まずは、最後まで勝つことを考えよう」
タケチが危惧するように、もしかしたら未来へ戻ることができない可能性があるが、そもそもオオシアマが勝利を確実にしなければクシナダヒメの願いは達成されず、もっと未来へ帰れる機会がなくなってしまうだろう。
陽一はりらに不必要な精神的不安を与えないよう、勾玉紛失の件はなるべく通訳問題に矮小化してしまおうと考えていた。
その夜、ダイヤモンドダストをぶちまけたかのような煙たさと輝きを併せ待った空の下で、りらは陽一の腕の中で声を上げて泣いた。勾玉を失ったことで、仲間の運命を変えてしまうのではないかという恐怖がりらに取り憑いているのだ。
「君のせいじゃないよ。何かあっても、俺はりらさんと一緒にいるから」
ごめんね、とりらは何度も謝った。そのたびに、陽一は「君のせいじゃない」と伝えた。もしかしたら、これもクシナダヒメのシナリオに織り込み済みの出来事かもしれない。
どのみち、陽一は恋人が無事で隣にいるだけで良かった。あの激戦の中、二人とも傷一つ付かなかったのだから。潤が貴子を守ったように、りらを守るためなら自分に対しても他人に対しても非情にすらなれるだろう。 21世紀だろうが7世紀だろうが、そんな時間軸なんて些細なことだった。
それよりも、瀬田川でオオシアマ軍が完全に勝利することの方が死活的なのだ。
「んー……」
長年仕えてきたチトコであったが、戦時中に人目も憚らず地面に寝転がっている王を目撃して、いささか衝撃を受けた。片膝をついて、オオシアマの肩を揺さぶる。
「何だよ、うるさいサララもいないし、昼寝くらいさせてくれよ」
どうしたら近々、中つ国の王になる男の口から妻の尻に敷かれた庶民の夫のようなセリフが出てくるのか。チトコはため息をつき、それから立ち上がって仕事モードに切替える。
「戦況のご報告があります!」
ぱちっと瞼を開き、オオシアマは素早く身を起こしてその場に胡座をかいた。
「動きがあったか?」
さっきまでのぐーたらぶりは一体何だったのだろうと思うほど、才オシアマの眼光は鋭く、王の顔に戻っている。
「飛鳥奪還に引き続き、タケチ様の軍も安河で大勝し、栗太評に散らばった敵を掃討しつつあるとのこと」
「……となると、次は瀬田川越えか」
「はい。あと一歩です。タケチ様は、本当に…… 一生懸命戦って、おられるのです」
チトコの目尻に涙が浮かんだ。
「わかってる」
未成年の長男に現場の指揮という過酷な重責を負わせていることに負い目がないと言えば嘘だが、王の息子とはそういうものだ。オオシアマは今は敢えてタケチヘの想いを父と息子ではなく、王とその後継者候補として捉えていた。
「オオシアマ様、それから、ちょっと気になることが」
「どうした?」
「はい。あの未来から来た者の一人が、勾玉を紛失したと……」
「誰のだ?」
「リラです。同じ未来の者同士での会話は通じるようですが、我々には通じないし、我々もリラの言葉がわからないそうです」
「まずいな。勾玉がないとなると、元の世界へ戻る力が失われたことになるんじゃないのか」
二人の間に重たい沈黙が流れた。
さらに、もしクシナダヒメの勾玉の力によってここまで勝利できたということになれば、それが欠けた以上、瀬田川の戦いに勝てる保証はない。
「……だが、あの女はアレオトメだ。同じ勾玉がなかったとしても、神を降ろすことができるはずだ」
オオシアマはオロチの耳飾りをもたらし、真実の出雲王国滅亡を語ってくれたりらをアレオトメだと信じていた。出雲の神と我々を繋ぐ神聖なアレオトメ――。
「チトコ、桜児を出雲に遣いに出してくれ。出雲国造に最高級の勾玉を献上するよう依頼するんだ」
「承知しました。良いお考えです」
陽一からオオシアマの世話をするよう言いつけられた桜児は、彼の言うことに素直に従い、甲斐甲斐しくオオシアマに仕えていた。主に食事の準備を担当していたが、その他の雑用もよく気がついてこなし、仮宮の女嬬の中で最も信頼できる存在となっていた。
しかし、オオシアマから指示を受けたチトコがいくら探しても、野上に桜児の愛らしい姿は見つからなかった。
7月22日。新暦であれば現代の子供たちが夏休みの宿題に追われ始める頃だ。
栗太評の敵をしらみつぶしに倒しながら、オヨリの軍は瀬田川の東岸に到着した。
どうせもう、たいした兵力も残っていまいと見込んでいたが、その予想は大きく外れた。オオトモ王子は瀬田橋の西側に大きな陣営を構えており、こちらからはその陣の後方が見えないほど、兵が密集していた。軍旗が野に林立し、土埃は空高く舞い上がり、太鼓の轟きは川を越えて数キロもこだました。
「最後の悪あがきだな、あいつら」
増強されていた敵軍を見てもなお、オヨリは不敵にも笑った。
しかし、瀬田橋を渡ろうとするにも、オオシアマ軍は苦戦を強いられることになった。
というのも、オヨリが言うところの最後の悪あがきで、オオトモ軍は瀬田橋に仕掛けを施していたのだ。
悩みの種がまた一つ増えた。というより、置き去りこしていた悩みが復活したとでも言うべきか。
陽一は裾がぼろぼろに切れ、手足が泥まみれになって立っている女嬬を見つめた。なぜ今ここに、君がいるんだ……
「どうしてオオシアマ様の側にいて差し上げないんだ、桜児?」
「私が側にいたい御方は、ヨウイチ様なのです」
野上にいた馬を拝借し、途中で馬に逃げられながら、桜児は二日間かけて徒歩で瀬田川までやってきたという。
「私はあなたのお役に立ちたいの」
「だったら、野上で――」
桜児は頭を横に振った。
「絶対に、あなたは私を必要とする時があるわ」
呆れるほど強情で一途な少女だった。視線の先には恋敵のりらがいる。桜児はふふっと恋敵に微笑み、腫を返して陣の食事場に去って行った。
「陽一さん、あの子、いいの?」
「良くないよ。戦の足手まといになるかもしれないし、俺は彼女を守ってやる義務もないし」
りらの垂れ気味の眉がさらに悲しそうに下がった。あれほど桜児が陽一を追いかけてくるにはそれなりの理由があるはずだ、とりらは思った。りらが陽一と一切接触せずに大津宮にいた半年間は、きっと桜児にとって至福の大切な時間だったに違いない。陽一さん、優しいからなあ……。桜児に対して冷たい態度を取ることもなく、かといって本当の恋人に対しても後ろめたい気持ちにならなかったのだろう。
間もなくして、瀬田川を挟んで対峙した両軍のにらみ合いが始まった。
「あの橋を突破したら、ただただ前進するのみ!」
オヨリはそう命して、第一陣を送り込んだ。
敵はじっと構えている。引き付けきったところで、攻撃してくるに違いない。オオシアマ軍の第一陣は楯を上方と前方に突き出しながら橋の中腹まで駆け抜けた。
そこで、異変が起きた。最前列の兵士たちが悲鳴と共に橋から忽然と消えたのだ。
「引き返せ! 落とし板だ!」
何人かの兵士がぽっかり空いた橋の中腹から真っ逆さまに落ち、瀬田川に飲み込まれていく。橋の端には矢を番えた兵士が、川面に浮いてきたオオシアマ軍の兵士を射殺する。
それでも果敢に橋を渡そうとする兵士たちには、対岸から容赦なく矢が雨あられと降り注いだ。
「智尊、素晴らしい。これは名案だな」
「お褒めに預かり光栄です、王子」
オオトモの隣の馬上には、袈裟を着た若い僧侶が指揮棒を持ち、瀬田橋をじっと見つめている。川辺にある螢谷寺が、オオトモ軍が瀬田川のほとりに布陣すると聞いて、若く聡明な沙門と武装兵20人を遣わしたのだった。
将に任じられた智尊はまず橋の中程の板を10メートルに渡ってタトし、その板に縄を取り付け、自在に板を動かせるように再び付けさせた。一見すると、普通の橋に見えるが、その上を通ろうとする者を奈落の即へ落としてしまうという立派な防御罠である。
しばらくオオシアマ軍は橋へ兵士を送り込んだが、その都度、川へ吸い込まれるか矢の歯牙にかかっで命を落とす者が絶えず、タケチはやむなく進撃を止めさせた。
「もう一刻も矢の撃ち合いが続いてるな…… あちら側から橋を渡ってくることもそろそろ考えないと」
祢麻呂は他の将軍に注意を促した。オオシアマ側を疲弊させたところで、急に突撃してこないとも限らない。
気を緩めるなと全軍に指示を出したところで、橋の向こう側に動きがあった。人がせわしなく働き、幕僚クラスの人物たちが奥に消えていく。
「何か、あったのか……?」
すると同時刻、タケチ配下の吉野山の斥候が一人、報告を持ってタケチの前に現れた。
「申し上げます」
前線から引き上げ、奥の陣に幕僚たちと共に入ったオオトモの前に跪いた斥候の口から、絶望的な知らせが告げられた。それも、二つだ。
「まず、大伴吹負と紀阿閉麻呂が率いる軍は飛鳥宮の我が軍の侵入を阻止し、さらに北上して大和の地を平定したとのことでございます。さらに、越方面からは、我が軍から離反した羽田矢国らが南下し、三尾城を落城させ、大津宮へ向かっております」
オオトモは大きく肩で息をし、ゆっくりと吐き出した。
三尾城が落ちたのは致命的である。敦賀から琵琶湖沿いに大津宮へ向かうには、三尾城を通過しなければならない。現在の高島市の音羽から大津市の北小松にかけて、現在では国道161号線が敷かれているが、当時は湖岸に十分な平地の道がなく、すぐに切り立った山林となっていて天然の関所の役割を果たしていた。だがこの三尾城を越えてしまえば、大津宮への道のりを阻むものはないに等しい。
「宮の守りはどのくらいだ?」
「せいぜい二千です」
「矢国の軍勢は?」
「一万は越えているでしょう」
さらに、三尾城から大津宮まで半日の行軍で到達してしまうほどの距離だ。つまり、どう考えても、二千の兵が一万の勢いに乗じた敵軍を全滅させることができない限り、明日の夜には大津宮は再びヤマト姫とオオトモを迎え入れることがなくなるということである。
突然、オオシアマ軍から雄叫びと歓声が沸き起こった。
「……あちらにも、同じ報告が届けられたのでしょう」
これでオオシアマ軍はまた勢いづくに違いない。捨て身の覚悟で橋を強行突破するかもしれない。
オオトモは大津宮で過ごした日々を想う。采女の身分ながら母は大王の長男として恥じないような育て方をしてくれた。父に頼んで一流の百済の学者を師としてつけてくれたし、体を鍛えさせることも忘れなかった。
叔父は自分の望み憧れるものを全て持っていた。そして、惜しみなく人生の先輩として知識や経験を分け与えてくれた。その妻である異母姉も、いつも叱咤激励し、大王の後継者の自覚を持たせてくれた。
オオトモにとってかけがえのない人や時間が、決して戻ることのできない、相容れない存在となってしまったのはいつからだろうか。
そういえば、ヤマト姫に仕えていたあの采女はどこでどうしているのか。オオシアマの手の者だったことには少なからぬ衝撃を受けた。よく仕えてくれていたのに。今では瀬田川の向こうの敵軍に混じって、こちらの情報をタケチに入れているのかもしれない。
「あの采女が宮に上がる前は、何もかも、普段通り変わらなかった気がする……」
オオトモの独り言は、潤の耳にしか届かなかった。
幕僚たちは喧々誇々、今後の対応を論じている。それを横目で見つつ、潤はずっと心の内にしまっていた提案をオオトモに申し述べた。
「王子、停戦というのはいかがですか? 和平を結ぶのです」
「なぜ和平を?」
「……あなたのこの戦の目的は何ですか?」
唐突に思える初歩的な質問に対して、オオトモは目を丸くした後、いたって真摯に答えた。
「大和の国を統べる大王を、服わぬ者どもからお守りし――」
「そうです」
潤は途中で遮った。
「このまま戦い続け、明日を迎えたらどうなりますか?」
オオトモは頭の中ではっきりと起こりえる状況――大津宮が炎上し、全てなくなることを想像した。しかし、それでも反論する。
「……宮は、新しく造れば良いではないか」
「無理です。大津宮が陥落すればそのまま矢国たちの軍は、大王やご家族がいらっしゃる山科を攻めるでしょう。だからここでこの橋の向こうにいる軍を破ったとしても、オオトモ様に残されたものは無きに等しい。それに、新しい宮を造る場所はもうどこにもないんです」
飛鳥と大和地方、河内地方、瀬田川以東の東国、越方面全てオオシアマの配下に置かれてしまった。吉備地方も出雲地方も、筑紫もオオトモの入城を武力を持って拒否するであろう。オオトモと大王の居場所は、今のところ大津宮しかないのだ。
「わかった。もし大王と我々の居場所を守ろうとすれば、これ以上、オオシアマの軍と戦うべきではないのだな」
「はい」
途中からオオトモと潤の会話に耳をそばだてていた幕僚たちは、口々に非難した。「この期に及んで何と愚かな選択を!」「この身を賭しても、最後まで戦い抜くのが筋ではありませんか!」などと言う。
しかし、オオトモはきっぱりと言い放った。
「死しては何も守れない! タケチに停戦を申入れる」
双方の司令官と幕僚たちが陣内で話し合いを行っている最中も、兵士たちのにらみ合いは続いた。どちらも散発的にではあったが、撃ち合いを止めることはなかった。
そんな中、オオトモ軍のひしめく兵士たちの間を縫って、全く武装を解いた人影が現れた。
「あれは女人……?」
特に目の良いオヨリがつぶやいた。橋の途中までやってきた無防備な女性には伴がいる。それはなんと潤だった。
「撃ち方止めっ」
タケチにも人物が特定できたらしく、すぐに攻撃を中止させる。すると潤は女嬬に何か告げると、自分はオオシアマ軍に背を向けて自陣に戻っていった。見知らぬ女嬬は恐る恐る橋を渡り、オオシアマ軍に近づいた。
「わたくしはオオトモ王子の使者でございます」
男が女嬬に変装しているのではないかとも疑ったが、小さくうずくまり、肩が恐怖で震えているらしいその姿は紛れもなく少女であった。
オヨリは将軍として自ら使者に向き合った。
「そちらの要件は?」
「オオトモ王子は、タケチ王子との戦をここでお止めになり、互いに兵を引き上げてはいかがと申しております」
和平交渉の申入れがやってくるとは、予想だにせず、オヨリは素早く馬上のタケチを見上げた。タケチは束の間思慮し、直接、少女に問いかけた。
「ここで戦いを止めれば、勝ち続けてきた我々には得をすることがない。見返りはあるのか?」
「……は、はい。オオシアマ王子を凡海郷の王として認め、そちらにお住まいいただくという提案でございます」
オオトモ側にとって現状維持のための最大限の譲歩である。中つ国に二王を立てたとしても評の範囲よりも小さな王国など無視できるということか。
「それから、お返事の使者にはこちらの陣にいらっしゃる女嬬をお寄越しください。以前、大津宮にお勤めになっていた方と聞いております。オオトモ様の強いお願いでございます」
今、主力軍にいる女嬬で大津宮に出入りしていたのは、りらと貴子であるが、オオトモが念頭に置いているのは、ヤマト姫に仕えていたりらのことだろう。貴子はオオトモと面識がないはずだ。
りらを寄越せという意図がわからない。もしかしたら潤の提案かもしれない。話しやすいからか、それとも人質という牽制か。
「即答はできない。少し時間がほしい。四半刻後に使者を送る。お前はオオトモ王子の元へ戻ってよい。後ろから矢を射たりすることはないから、安心しろ」
女嬬は律儀に一礼すると、小走りに去って行った。
すぐさまタケチ以下幕僚が集められ、検討が始まる。
「停戦の申し出とあの条件は、罠じゃないのか?」
「実は俺もそう考えてる」
女嬬の持ってきた話の内容を聞いた陽一は、そもそもその和平合意案が偽りではないかと疑った。たとえ真実であっても、いずれオオトモが即位し内政を充実させれば、ある時点で独自の統治を認めた凡海郷を攻め滅ぼそうとするに違いない。
「父さんは凡海郷の王であることを守ろうとしてるんじゃないよ。中つ国全部に、オオヒルメ大神の光を輝かせたいと思ってるんだ。そのために戦ってきたのに、ここで停戦なんてできないよ」
オオシアマの意図を正確に理解しているタケチが率直に意見した。相手の提案が真であろうが偽であろうが、この場にオオシアマがいたら即刻却下しているはずだ。
「さすが、タケチ様。しかし、拒否した場合、あの大軍はすさまじく反撃してくるでしょうね。どうします?」
オヨリの少し意地悪な問いに、幼い総司令官は腕組みをして唸った。それでも、彼の信念は揺るがなかったようだ。
「申し出は絶対拒否する。反撃されても、飛鳥宮は僕たちのものだし、明日には大津宮は味方が攻めて滅ぼすんだから、どのみちオオトモに逃げ道はないよ。きっと今頃、吹負や新羅の太子たちが河内方面の逃げ道も塞いでると思うし」
「では、否と返しましょう。使者は…… リラでよろしいですか?」
後方から呼び寄せられ同席していた陽一は耳を疑った。どうして、恋人の名が出てくるのか。
「ちょっと待った。使者がりらさんつて……」
「ああ、オオトモが大津宮に仕えていた女嬬を寄越せと言ってるんだ」
「ダメだ。彼女は行かせられない」
そもそも、今、りらは勾玉を失っていて古代人と会話ができない。それに、申し出を拒否しに行くということは、使者が無事に戻ってくる可能性は低くなる。その場で斬られてしまうかもしれないではないか。
陽一はそう反論しつつ、恐ろしいほど冷徹に考えを巡らせると急いでその場を立ち去った。向かった先は――。
「お願いがある、桜児!」
陣の隅に設けられた食事処で作業をしていた桜児の足下に、陽一は躊躇いもなくひれ伏した。獣が突進してきたのかと驚いた桜児は、それが愛しい背子だと知ってさらに驚いた。陽一を立たせようと、桜児はしゃがみ込みその手をとった。
「どうしたんですか。そんなに大慌てで、あなたらしくないわ」
「君は『絶対に私を必要とする時がある』って言ったね。まさに今がその時なんだ」
陽一は用心深く桜児の腰を抱き寄せた。桜児は陽一の言葉としぐさに、うっとりと目を閉じた。
「何をすれば良いの?」
「タケチ様の使者として、オオトモに伝言してはしいんだ。あちら側からの使者も女嬬だった。だから我々も女嬬に返答させることになった。ただ、『否』と伝えれば済む。……やってくれるよね、桜児?」
目を閉じ、陽一の肩に頭をもたれて話を聞いていた桜児に、陽一はそっと口づけた。りらを一切の危険から遠ざけるための手段として、これくらいは許されるだろう。
「ヨウイチ様、私、できるわ」
桜児は胸のあたりで両手を軽く握り、微笑んだ。死んでもいい、とさえ思った。愛する人に必要とされ、ほんの少しでも甘い時間を味わうことができたのだから。
こうして桜児は顔を隠すために薄絹を頭に被り、陽一に手を引かれて橋の上を歩き出した。
橋の向こう側から女嬬が舎人と共に渡ってくるのが見えた。中腹に仕掛けられた落とし板を無事に通り過ぎる。
潤は舎人が陽一であると確認すると、隣の女嬬が当然、りらだろうと思い込んだ。潤がそうしたように、陽一も途中で女嬬を置いて自陣側に引き返した。
対岸にたどり着くと、桜児は兵士に導かれてオオトモ軍の幕僚たちの前に連れて行かれた。桜児はわざとゆっくりと丁寧に脆き、一礼をする。
「そちらの考えは如何か?」
智尊が敵の女嬬の前に立ちはだかり、低い美声で訊ねた。桜児は一拍深く呼吸をすると、わずかに頭を上げ、一言述べた。
「否、でございます」
「なんと!」
「愚かにも敗北を選んだか、オオシアマよ!」
女嬬の返答を聞くや否や、左右大臣が立ち上がり吠えた。肩をびくっと震わせた桜児に追い打ちをかけだのは他ならぬオオトモの言葉だった。
「……お前はあの采女ではあるまい」
采女という言葉に、桜児は本当はりらが使者でなければならなかったのだと悟った。自分は身代わりとして使者に立てられたのだ。桜児はうずくまりながら、胸元に手をやり、服の上から何かをそっと握った。
どうか私を助けて――。
敵陣の様子がおかしい、とタケチの幕僚たちの誰もが気づいた。
桜児は陽一の指示通り、ずっと俯いて顔を見せないように動いていたが、やはりりらとは別人だとわかってしまったのだろうか。潤が敢えて指摘したということも考えられる。
「あっ、桜児が……」
貴子が声を上げた。敵陣の幕僚に控えていた兵士が使者の腕を捕らえて強引に立たせようとしている。
その瞬間、タケチ軍の幕僚が並んでいる前線の横から風が吹き抜けた。否、それは十五、六歳の若い舎人だった。
「おい、待てっ、勝手なことをするな!」
祢麻呂は少年に向かって叫んだが、疾風怒濤の勢いで少年は単独で橋を渡っていく。甲冑を重ねて着込んでいるのか、異様に上半身が大きく見えた。橋の手前で四.五メートルもある邪魔な長矛をうち捨て、使い勝手の良い刀を抜き、ひた走る。
突然の訪問者に気づいたオオトモ軍の弓兵たちが少年に集中砲火を浴びせたが、それでも少年は臆せずツバメのごとく体を低くして走り続けた。
「あいつ、落とし板の綱を切りやがった……!」
オヨリは少年の右手の刀が素早く動いたことを察知し、その瞬間、自軍に対して叫んでいた。
「全軍、突撃っ!!」
将軍自らも馬を走らせ、瀬田橋に乗り込んだ。何が起こったのか理解できた兵士はほとんどいなかったが、攻撃命令が下った以上、突進するのみだ。
使者の女嬬に完全に気を取られていたオオトモ軍の幕僚たちは、赤い雪崩が押し寄せるのを呆然と視界に入れるほかなかった。落とし板が機能しなければ、この橋はただの道でしかない。
「逃げるな、戦え!」
智尊は敗走する味方の兵士たちを斬った。声を張り上げて、踏みとどまって応戦せよと命じるが、元から連敗続きで士気が下がっていたオオトモ軍は文字通り背水の陣で、この先がないことをわかっていた。
すっかり赤い雪崩が瀬田橋を越えてしまうと、大半のオオトモ軍の兵は一目散に逃げ出し、残った兵は哀れにも雪崩に押しつぶされていった。袈裟姿の将軍もまた、橋の付近であっけなく斬られて命を落とした。
「王子、こちらへ!」
潤と麻呂はオオトモが混乱に巻き込まれないうちに、この場から脱出させることにかろうじて成功した。既に左右大臣と御史大夫の姿は前方の彼方にある。彼らにとって大切なものは大王の息子ではなく自己の命であった。
瀬田川の戦いは、大分稚臣という若い舎人の大胆不敵な突撃により流れが変わった。一度決壊した堤防は水の流れを変えることはできず、ただ一滴の水も残ることはなかった。
「申し訳ございません、タケチ様」




