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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
オペレーションくしなだ part3
21/31

第9章 <2>

 どこに行くのと訊ねる前に、オヨリは右手に長槍を握りしめ烏合の衆の農民兵たちを鼓舞しながら疾風のごとく敵陣の最中に突っ込んでいった。ふいに貴子は恐怖がこみ上げてきたことに気づいた。オヨリが離れて行ってしまったということは、ほとんど無防備な状況であることを意味していたし、オヨリが将としていくら重厚な防具を身につけていたとしても、意外なところで命を落とすかもしれないという考えが初めて現実味を持って貴子に迫ってきたのだった。

 まだ現代で普通の幸せを空気のように感じていた頃、貴子の隣に座っていた潤は笑いながらさらりとこう言っていた。――危険だからといって、軍人が安全な場所に逃げるわけにはいかないんだよ。

 まさにオヨリはそれを実行している。将ではないけれど、潤もまた敵陣の中でオオトモの護衛を務めている。

 深呼吸をして気持ちをなんとか落ち着かせると、貴子は手綱を操ってこまめに戦場を移動した。激しい戦闘が行われている場所を避けて身を守ることにしたのだ。オヨリ、早く戻ってきて……!

 貴子の念が届いたのか、こちらに向かってくる敵兵が周囲にいなくなった隙を見計らってオヨリが貴子の元に帰還した。早朝とはいえ、じっとりと蒸し暑い空気に包まれた戦場は兵士たちには過酷な環境である。貴子はオヨリに手ぬぐいを渡したが、あっという間に布の色が変わってしまった。

「まあ、あとは兵士たちの戦いぶりに任せましょう。……さて、そろそろかな」

 竹筒の水を飲み干したオヨリは、斜め右方をちらりと見やった。貴子の目にもその方向から赤い集団がだんだん大きく突進してくるのがわかった。

 密集した木立の暗い影で見えていなかったのだが、タケチ軍の最右翼である文祢麻呂ふみのねまろの部隊が潜んでおり、戦闘開始で両軍が入り乱れてきたところに猛スピードで攻勢をかけるという作戦である。

 祢麻呂の部隊は人数は多くはないが、日頃から軍事訓練に励んでいた舎人の騎馬隊が中心で、あれよあれよという間に敵の農民兵を蹴散らしていった。

「オオトモ軍の将、境部薬!」

 黄金の鳳凰を兜の飾りとしている男が、敵軍の将の一人だった。祢麻呂は薬の注意を引くと、刀を振り上げ斬りかかった――。

 オオトモ軍の中にしては、境部薬は忠誠心にあふれる男と言える。タカラ大王の治世に、カル前大王の第一王子アリマが謀叛を起こそうとして絞首刑となった事件があった。薬は連座して尾張に配流となった。

 表面だけ見れば、謀叛人が死罪を免れ、今やタカラ大王の孫を守る立場となったことは奇妙に思えるだろう。しかし、薬は現在の最高権力者である左大臣蘇我赤兄に乞われて、アリマ王子排除に一役買った囮であった。

「薬殿、あの事件から実に15年近く経ちましたな。私もあなたも蘇我の本家からは外れた血筋だが、こうして生き残り、私は政を、あなたは軍事を担うようになった……」

出陣前、左大臣は昔を懐かしむように左翼将軍に話しかけた。

「タカラ大王、カヅラキ大王、そしてこの戦が終われば大王となられるオオトモ王子、我々は三代に渡って仕えてきました。偉大なる大王家の安寧を邪魔する輩は、アリマ王子と同様の運命を辿ることになるのです。わたくしめにお任せあれ」

「頼みましたぞ」

 赤兄の信頼を背負って、薬は戦場に立った。若い頃から鍛え、百済救援戦争をも乗り越えてきた体は全く衰えていない。もうそろそろ、引退の時期ねと妻がしみじみ言っていたが、自分ではそんなつもりはなかった。

 だが、敵将の祢麻呂は遥かに若く、俊敏だった。振りかざされた刀を受け止めたが、衝撃と痺れが薬の腕に響いた。薬は培ってきた肉体の力を全て握りしめた刀に込めて応戦した。二度三度と刀がぶつかり合った後、しばらく刀が交差したまま動く隙なく睨み合いが続いた。

 すると、人間のものではない苦痛の悲鳴が上がったかと思うと、薬は視界が大きく動き、落下していることに気づいた。ずどん、という重い音とともに、全身に鈍い痛みが走った。隣を見ると、乗っていた馬が地面に倒れており、その首に矢が刺さっていた。使い物にならなくなった大きな茶色の獣は苦しそうに四足をばたつかせ暴れている。

 矢はオヨリが後方から放ったものだった。祢麻呂が薬を引きつけている間に、馬の動きを止める作戦である。

「さて、もうあんたは逃げられない」

 よろよろと立ちあがった薬は、周りをぐるっと矢を構えた兵士たちに取り囲まれていることを知った。自分の片腕であった刀は、力なく地面に眠っている。

「最後に言いたいことは?」

 捕虜となり後ろ手を縄で縛られた薬に、祢麻呂は言った。

「……勝ったと思うなよ。最高神の御力は我が方にあり!」

 取り囲んでいた兵士数名によって無理やり両膝を地に着かせられ、兜も外された薬は、急に開けた視界に澄み切った青い空を見た。

「最高神か……」

 祢麻呂は空を見上げた。光の端さえ眩しすぎて捉えることができない大きな太陽が、祢麻呂にとっての最高神であった。


 自軍の将の一人が見せしめのごとく戦場まっただ中で斬首されたという事態に、オオトモ軍は恐れをなし、兵士たちの士気は一気に喪失してしまった。ひたすら逃げることしか頭にない兵士たちはもはや分隊長の号令など耳に入っていない。

「薬が斬首だと……!?」

 オオトモよりもうろたえたのは赤兄だった。最も大王家に忠実な豪族の一人が、あっけなく逝ってしまった。それも、若い舎人の身分の将軍によって……。

「赤兄、ここは一度退却しよう」

 混乱の収拾がつきそうにないと判断した、潤と麻呂の助言によってオオトモは一時撤退を決断した。タケチ軍は容赦なく追撃してくる。今は全速力で逃げ切るほかない。

 潤はその後、貴子の姿を見ることなく息長川のほとりを後にした。


 ようやく負け戦から脱したオオシアマ軍は、同じ日、もう一つの戦場でもひと暴れすることになった。懸案事項は河内方面である。

 葛城川の東側、金綱井かなつなのいまで進んだ吹負と菟の軍は、乃楽山の戦いで散り散りになってしまった自軍の兵力をこの地で再集結させた。

「よくまぁ、これほどまでに再び兵が集まったものだ……」

 己の力不足で乃楽山から敗走し、多くの兵を失ってしまった吹負は、黄泉の国から生き返った死体のようにわらわらと集まってくる男たちを見て、恐ろしい気持ちになった。好き好んで戦をしに故郷から出てきたわけでもなく、勝ったからといって将軍や舎人らと違って褒美ももらえない境遇であるのに、再び武器を手にしている。

 もしかしたら美濃や伊勢から連れてきた農民兵は、オオシアマ様の理想を共有してくれているのだろうか――。

「ま、そんなわけないな」

 けだるそうにごろりと横になったり、食糧の取り合いでちょっとした小競り合いをしている農民兵たちを見た菟は一瞬抱いた甘い幻想を叩き落とした。

 相変わらず美輝は男装のまま従軍していた。あまり素顔を見られたくないらしく、大きな布をフードのようにして被っている。それでも、被り物で狭くなった視界からよく見ようと顎を少し上げて、布の間からちらりと視線を動かす動作は、明らかに男ではない艶めかしい雰囲気を醸し出していた。

「吹負殿、とりなしをお願いしたいのだが……」

 絡め捕られた美輝の視線を無理やり断ち切り、孝恭は真面目くさって切り出した。

「とりなし、とはオオシアマ様へですか?」

「そうだ。俺はあの女を新羅に連れて帰りたい。正体をなかなか明かしてくれないところをみると、きっとオオシアマ殿やサララ殿にとって大事な人物であるに違いない。そうでなければ勝手に連れ去るのだが」

 傍でこの話を聞いてしまった竜成はあやうく吹き出しそうになり、吹負に怪訝な目で見られて慌てて咳払いをした。大事な人物だなんて、とんでもない。未来から飛ばされてきた得体の知れないただの若者なのにな。

 そういえば、吹負は竜成や美輝たちのことを仙界から来たと思っている。オヨリもそうだし、他の近しい舎人たちは仙界から下ってオオシアマ様を助けに来たのだと信じている。ごく当初から付き合いのあるヒロとチトコだけが、彼らの本当の正体を知っていた。

 しかし、美輝は存在しているだけで男を魅了する力を持つとんでもない女だということだけは素直に認めざるを得ないところだ。

 美輝は馬に跨りながら舟を漕いでいた。落馬するのも時間の問題だろうと誰もがはらはらしかけたその時、美輝は自分の頭の揺れで目を覚ました。そして、視線を釘づけにしている男たちに向かって、寝ていたことを誤魔化すためにぺろっと舌を出してみせた。

「これほど戦意を失わさせる女は初めてだよ」

 新羅の太子は伊勢に上陸してから、恋の病に感染してしまったようだ。


 味方の異国の王子をすっかり骨抜きにしてしまった張本人は、全くそのつもりもなく、いつもの通り、気持ちはめんどくさそうに、しかし動作はてきぱきと軍の幹部たちに食料と必需品を配給していった。

 あとは出陣するのみである。どうやら孝恭の読み通り、壱伎韓国の軍勢は混乱した指揮系統を整えるのに時間がかかり、その後、ようやく河内と大和の境の竹内峠を越え始めたようだった。

「じゃあ、行きましょうか!」

 短時間休んだだけで驚異的な回復力を見せる若い将軍、菟が張り切って言った。

 二人の将軍を先頭に、その後ろには孝恭と竜成の新羅組、そして竜成の馬には美輝が相乗りしている。孝恭は美輝は自分が守ると主張して譲らなかったが、竜成は美輝を無理やり引きはがして自分の馬に乗せた。もちろん竜成も美輝を欲していたわけではなく、孝恭の理知的判断を狂わせないために心を鬼にしてやったことだ。

 大和の山々が黒く存在感を増していき、茜色にぼやけた空を侵食し始めた。オオヒルメの微笑みが徐々に別の世界に捕らわれていく頃、吹負と菟の飛鳥方面軍は横大路を西に進みだした。

 このお荷物どうしようか――。竜成は自分の両腕の間にすっぽり収まり、鞍の手すりをぎゅっと握りしめている男装の麗人を見て思案した。戦うことができないのは竜成も同罪だが、さらにその仲間を抱えて戦場をうろうろするなど無謀であった。黒部貴子であればもっと楽だっただろうに、と竜成は意地悪なことをつい考えてしまった。美輝は兵站業務では期待以上の働きをしてくれたが、戦となると役に立つ隙が皆無である。

「ねぇ、あたし、迷惑だよね…… ごめん、桑名でサララと待ってればよかった」

 竜成が始終無言で移動していたことが、美輝の心をちくちくと痛めつけていた。

 マズいぞ、と竜成が美輝の涙目に警戒し始めると、ますますいたたまれなくなった美輝は大きくため息をつき、震える声で過去の話に言及した。

「あたし、イズモでもそうだった。鄭くんはずっとこっちにいたから知らないけど、ほんとに役に立たなくて…… それどころか高天原軍の人質になったこともあるし…… あたし、何でクシナダヒメの勾玉拾っちゃったんだろうって思うの。きっと別の人と間違えちゃったんだよ」

 最後の方は泣くのを堪えるために、大いに拗ねた口調になっていた。

 もし人質にならなければ、潤は危険を冒してまで自分を助けに来てくれなかっただろうし、二人が結ばれることもなかった。だから、迷惑をかけたことは後悔していないけれど、やはり勾玉を持っている資格なんかないのではないかと思う。

「それを言ったら、俺も同じだよ。勾玉持ってても特殊な力が仕えるようになるわけでもなくてさ、ただこうやって本物の将軍の後ろについて行くだけ。それが勾玉の望みなんじゃないの?」

 竜成は敢えてそっけなく答えた。不思議な力のことなんか考えるだけ無駄だ。泥沼にはまって答えの出ない回廊を永遠に行ったり来たりするはめになる。

 美輝は黙っていた。泣いているのかと、やはり心配になったが違うようだ。泣いているのではなく、俯いてある一点を凝視していたのだ。

「どうしたの?」

 少し柔らかい声で、竜成は尋ねた。

「勾玉が…… 光ってる」

「え?」

 反射的に自分の首からかけている琥珀の勾玉を確認してしまった。驚くべきことに、琥珀が金粉をばら撒いたようにまばゆく光り揺らめいていた。美輝の勾玉は透き通るような深い蒼を湛えている。

「何これ、どういうこと?」

 勾玉が光り続ける以外の変化は見られない。

 クシナダヒメが突然現れるでもなく、ただ淡々と勾玉は存在をアピールしていた。しかし、それが意味するところはわからずじまいだった。

 勾玉のおかげで沈みかけた気分を忘れてしまった美輝は、「ま、いっか」とつぶやいて、大人しく竜成の腕の中で前方を向いた。

 大和の西の境に位置する当麻たぎまの村に到着すると、戦前のはらごしらえが配給された。そして、万全の態勢を整えつつも仮眠をとることになった。葦池という沼地のような池が広がっており、少なくとも急襲されるおそれはないと二人の将軍は判断した。

 そして、まだ夜明けとは言えない時刻に吹負の軍隊は再び目を覚ました。

「来ましたね、奴ら」

 目を細めて遠くを見遣りながら、菟は呻いた。吹負はオオヒルメに勝利を念じると、「点火!」と号令をかけた。

 光のドミノとも言うべき光景がそこに広がる。

 葦池の対岸に陣を構えた壱伎韓国は、オオシアマの軍がすっかり勢力を回復してこちらに挑もうとしていることを知った。

 次々に火が灯される松明は池の水面に映り、倍の数に見える。さらに吹負と菟の音頭によって兵士たちの間に気勢が上がった。

 闇を駆け抜けるようなピーィという高い音色が鳴り響くと、オオシアマ軍は一斉に池を左方向に迂回しながら突き進む。対するオオトモ軍も雄叫びを挙げて向かってくる。

「大伴将軍! ここは私に先陣を切らせてくださいっ」

 後方で怒鳴り声に近い若者の声がしたと思ったら、雷神の如く吹負の横を駆け抜けていく騎馬がいた。若者は刀を抜き、一瞬の躊躇いもなく敵陣にぶつかっていった。一体あれは誰だ、初めて見る奴だと吹負も後に続きながら考えたが、若者自らが敵に向かって正体を明かした。

「俺は河内国宰、来目塩籠くめのしおこの息子だっ! お前らまとめて黄泉の国に送ってやる!」

 迫りくる敵兵を薙ぎ倒し、あるいは斬りつけながら吹負は前方を一人でどんどん進んでいく若者の心情を思った。彼の父は息子と共に、同じ吹負が率いる軍でオオシアマ王のために戦うはずであった。そして、あと一歩で実行に移せるはずだった。しかし、彼の父は二度と息子の名前を呼ぶことなく、永遠に口きかぬ人となってしまった。自害とはいえ、息子にとっては敵に殺されたも同然だろう。

 まだ乾ききらない他人の血に次から次へと新しい血が重なっていく。もう何人の農民兵を帰らぬ人にしてしまったかわからない。若者は自分が受けた切り傷などまるで気にもせず、鬼神さながらの形相で、敵陣を掻き乱していた。

「次は誰だ!? 相手は俺だ、出てこい! 今の俺は親父の分の力もあるぞ! 強いと思ってる奴は相手をしろっ」

 ほとんど悲鳴だった。

 一人の若者の悲痛を伴う果敢な突撃が、オオシアマ軍を鼓舞し、今までの敗北の汚名を雪ぐかのように敵兵を蹴散らしていった。

 オオヒルメ大神がそっと目を覚ます時刻には、オオトモ軍はことごとく逃げていた。

 ようやく刀を休めさせる状態になった河内国宰の息子は、必死に息を吸い込もうとしていた。若者に近づいてくる敵兵は菟が槍で突いて戦闘不能にしてやる。

「から、くには、どこだ?」

 何かに憑りつかれたのではないかと思わせるほど、若者は戦意を失ってはいなかった。敵将の名を呼び続けるのが何よりの証拠だ。他の兵士たちも来目に倣ってまだ敵兵を捕えては切り殺している。

 吹負は叫んだ。

「オオシアマ様の本意は、無駄に殺すことにあるのではない! 元凶を討つことだけ考えろ! もうこれ以上、お前たちと兵士を殺してはならん!」

 すると、味方の男たちはふっと気を緩め、振り上げた刀をゆっくりと下した。誰だって同じように強制的に参加させられた同じ境遇の人間を傷つけたくはなかった。しかし、あの若者だけは未だに敵将を探している。

吹負はさっと頭を巡らし、まさに地を這うようにして軍から離れて逃げんとする壱伎韓国の姿を捉えた。

「来目よ! 敵将はあそこだ。お前がその弓で討つが良い」

 その命を聞くや否や、若者は渾身の力を込めて弓を放った。

 寸でのところで、その矢は韓国の太腿に突き刺さるのを免れた。四つん這いになって前進していたのだが、一瞬よろめいて矢の道の反対側に体が倒れたからだった。

 もう一度、矢を取ろうとしたところで、若者の思考は途絶えた。五感が消えたことすら気づかなかった。

「とんでもない強い若者だな」

 意識を失って重力に従うに任せた若者の体を支えたのは孝恭だった。あまりにも獅子奮迅し過ぎた、自分よりも年下の男をこれ以上酷使するわけにはいかないと、孝恭はその手首のあるツボに鍼を指して気絶させたのだ。

ここで敵将を討ち損じてしまったのは惜しかったが、大損害を与えて敗走させることができた。あとは放っておいても、難波津から上陸してきた新羅軍が残党兵や敵将を駆逐してくれるだろう。

吹負は戦闘終了を宣言すると、休む間もなく全軍を再び東へ戻すことにした。

飛鳥への道のりは3時間ほどだが、炎天下の中の移動は、戦闘を終えたばかりの体には過酷である。だが、吹負の軍で熱中症にかかった者はそれほど多くはなかった。

「やはり仙界から来た方が作るものは、神秘的ですね!」

竹筒にたっぷりと入っている水をがぶがぶ飲んだ菟が感嘆の声をあげた。

「でしょう? 真夏の運動にはこれがなくっちゃね」

美輝が胸を張って主張した水の正体はなんのことはない、経口補水液である。桑名に滞在中、貴子から作り方を教えてもらい、事前に用意していたものだ。この時代、簡単には砂糖が手に入らないようだったので、デンプンを含む米を多量の水で煮て塩を加えただけなのだが、とても重宝した。

無傷な旧き都を目の当たりにした時、オオシアマ軍は初めて安堵の溜め息をつくことができた。

「飛鳥は愛すべき我らの都だな」

将軍のつぶやきはその場にいたオオシアマの側近たちの心をそのまま代弁していた。

ひとまず善戦し疲れきった兵士らを木陰や建物の中で休ませ、幕僚たちが飛鳥寺の広場に向かうと、そこにはたくさんの元気な兵士がたむろしていた。

「おかえりなさいませ、大伴将軍」

河内からの攻撃を防ぎ戻ってきた幕僚を迎えたのは、飛鳥防衛を任された荒田尾赤麻呂と忌部子人であった。心底ほっとしたような表情だ。そして、不破から出発した増援軍の将、紀阿閉麻呂も満面の笑みで吹負に礼を示した。

「共に戦えることを光栄に思います」

「私もだ、紀将軍」

「今日はよくお休みになってください。いずれすぐにオオトモ軍が北から攻めてくるでしょうから。今は三道にそれぞれ千騎の兵を配置し防衛態勢をとっています」

 阿閉麻呂率いる本隊が飛鳥に到着したことにより、吹負と菟の軍の士気はあっという間に回復した。自分たちの肩だけに勝利への思い責任がのし掛かることはないという安堵の気持ちが、逆に余裕をもたらすことになった。

「鄭くん、何してるの?」

 ようやく、寺の宿坊というまともな屋根と床のある場所でぐっすり眠ることができ、久しぶりに頭が冴えている美輝は、さきほどから机にかじりついて巻物に何事かを書き連ねている竜成に尋ねた。巻物の空白には所々、戦陣のようなイラストが描かれている。

「ああ、これね。日記というか、戦いの記録だよ。ほら、チトコも記録を付けてるだろ? でもあいつはオオシアマの近くで仕事してるから、実際の様子はわからない。だから、代わりに俺が記録しといて、後であげるんだ」

「なるほどねえ。従軍なんとかってやつ?」

「そ、従軍記者。俺なんか武器を持ってもロクな事にならなそうだからね」

 スマホのカメラでもあれば完璧なんだけど……と竜成はつぶやきながら、今までの出来事を思い出しては、文字通り筆を進めていった。

 そういえば、当然のことながら電波の入らないスマホはとっくに電池を使い果たして無用の長物となって、手荷物の奥に忘れ去られていた。21世紀ではいつでもほしい情報が掌の上で手に入ったり、誰かと繋がったりしていた。そんな生活から離れて既に1年近く経っている。

 なりきり従軍記者の邪魔にならないように、美輝は宿坊を出た。そっと素足で地面に降り、大きく息を吸い込む。甘樫丘にかかる入道雲がちょっと飼っている猫がうずくまったシルエットに見えた。うちの猫、元気かなあ。清瀬の家の記憶がぼやけつつあった。

「女嬬、沓をお履きなさい」

 緊張感溢れる若い汗まみれの男たちの存往に慣れてしまっていた美輝は、後方から掛けられた丸く優しい声に驚きながらもほっと気を緩めた。

 宿坊での世話をしてくれている初老の僧侶が、女性用の皮沓を掲げていた。

「ありがとう、栄真さん!」

「もうすっかり地面も熱くなっているから、裸足では痛いでしょう。それから、これを……」

 さらに栄真は袈裟の袖から薄い布を取り出し、美輝に手渡した。それは冬の吉野川のような淡いエメラルド色の領巾ひれだった。広げてみると、布の両端に向かって次第に藤色に変わり、全面に粉雪のように銀の糸で刺繍が施してある。

「すごく素敵…… どうしたんですか、これ?」

「目差しが強いのでね、肩に掛けると良いかと思いましてな」

「そうじゃなくて、こんな素敵なものをあたしがもらっていいの?」

 男ばかりの寺院に似つかわしくない品物だし、得体の知れない女嬬に簡単に渡すようなものではない。美輝の疑問をよそに、栄真は目尻に皺を寄せながら微笑んだ。

「娘に贈ろうと買ってはみたものの、なかなか帰郷する機会がないもので、葛寵つづらにしまいっぱなしより、こうしてがんばっている女嬬に使っていただいた方が、その領巾も喜ぶのでは?」

 恋人に捨てられ、血と鉄刀にまみれた日々を送っていた美輝の心がほんのり明るく暖かくなった。なんだか父親にご褒美をもらった気分だ。

 久しぶりに女嬬の姿に戻り、おまけにかわいい沓と上品な領巾を手に入れた美輝は上機嫌で栄真に礼を言うと、ほとんどスキップをしかけながら西の広場に出向いた。

 広場にはいくつも天幕が張られ、兵士たちが武器を磨いたり、昼寝をしている。

 戦が始まっても相変わらず、槻木は堂々と巨体を太陽に晒し、その周りに安らぎの影を与えていた。

 美輝は木陰に足を踏み入れ、広場を眺めた。そう、ここで蝦夷饗応の百済舞を踊ったんだっけ――。あの時は、美輝を熱っぽく見つめる潤の姿があった。

 考えても仕方がないな。

 美輝の体はあれこれ思案するよりも、まず動くようにできていた。

 二、三歩木から離れて、両手を広げる。肩から長く垂らした領巾を軽くつまみ、ふわりと一回転。ずっと封じられていた感覚が戻ってくる。もう一回転。そして、沓の履き心地を確かめるように、つま先をバレエの動きで遊ばせる。また回る。両腕を羽ばたかせる。

 風がまとわりつき、額から流れる汗も心地よく感じた。気がつくと、美輝はダンサーの顔を取り戻していた。

「ミキ! すごい。そんな才があったんですね」

 興奮気味に話しかけてきたのは菟だった。美輝は褒められて素直に嬉しくなり、笑顔を見せた。踊ることは恥ずかしいことではない。息をすることと同じなのだ。すると、菟は思いがけない行動に出た。

美輝にくるっと背を向け、菟は天幕に向かって叫んだ。

「みんなー、飛鳥随一の舞が見られるぞー」

「ええっ」

 抗議する前に、天幕の兵たちが一斉に槻木に視線を向け、何事が始まるのかと大部分の男たちが美輝と菟の周りに集まってくる。

「ちょ、ちょっとぉ、何であんなこと言うのよ!」

「だって、あまりにも素晴らしい舞だったから、俺が独占していいもんじゃないなあと思って」

 いつの間にか、吹負と阿閉麻呂の二将軍までもが現れ、地面に座っている。その隣には栄真が竜成を宿坊から連れ出してやってきていた。

 美輝は観念した。束の間の平和を、舞で楽しんでもらおう。

「あのー、音楽くれない?」

 その場がざわついた。戦に駆り出された野郎どもが手にするものと言ったら、鉄刀、弓矢、槍……人の心を不安にさせる不協和音を叩き出す武具であって、天女を酔わせる楽器を忍ばせる風流人がどこにいるのか。

 突然、ピョオー、と静かで力強い笛の音が、槻木の葉のさわさわとこすれる音の合間を縫って美輝の耳に届いた。

 兵士たちの笑い声や怒号がピタリと止む。

 さも自宅でくつろいでいたかのような藍染めの平服で、横笛を愛おしげに奏でながら颯爽と歩いてくる男がいた。

「孝恭……」

「俺の音色では不足か?」

 そう言いつつも、孝恭は自信たっぷりに美輝に微笑みかけた。

 さすがは太子、文武両道のみならず楽にも覚えがあるとは。吹負も阿閉麻呂も唸った。現時点の中つ国で、この新羅の太子に匹敵あるいは凌駕するのはオオシアマしかしないだろう。年齢的にはオオトモの方が近いはずだが、オオトモは謙虚さが前面に出てしまい、自信を漲らせることができる性格ではない。

「えっと、速めの曲お願い。楽しくなるようなやつがいいな」

 まさかここに孝恭が登場するとは思わなかった。孝恭は軽く頷くと、そっと横笛に息を吹き込んだ。

 数拍分の前奏の後、いきなりアップテンポのメロディーが広場に響いた。高い音をふわっとつかみながら、美輝は大きく跳び、腕を空に向かって突き出す。祭りのような曲だ。誰もが美輝の全身から溢れる生命力とその笑顔に魅了され、我を忘れていた。

 美輝は小刻みにステップを踏み、観客の方へ躍り出た。そして、自分の踊りを最初に褒めてくれた菟の手を取り、舞台に引きずり出す。

「うわぁ、俺、踊りはちょっと……」

 抗議の声も虚しく、美輝の「さぁ、いくよっ」という大声に掻き消されてしまう。観客は大いに盛り上がり、やんややんやと手拍子を打って菟を冷やかした。美輝は次々に将だろうが兵だろうがお構いなしに、ご指名して一緒に踊らせた。

 ――飛鳥寺の西の広場は太陽以上の熱気に包まれていた。何が起きているのかと不思議に思った寺の僧侶たちは唖然とした。

「祭りでも始まったんですかねぇ」

「全員、踊ってるんじゃないか、あれ?」

 いつの間にか、観客の兵士たちが立ち上がり、美輝や菟たちと踊り始めていた。皆、故郷の祭りを思い出しているのだろうか。ばらばらに、好きなように体を動かし、見知らぬ兵士同士が笑い合い、そこには確かにオオシアマ軍という共同体の祭りが存在していた。


 夜、再び舎人の姿に戻った美輝は宿坊の縁側に寝そべり、天の川が広がる空と月を見上げながら反省していた。

 皆が喜んでくれたとはいえ、出陣の前日に暑い中、兵士たちの体力を消耗してしまったことに今更ながら気づいて、珍しく後悔の気持ちに苛まれていたのだ。

「なぜ、ため息なんかついてるんだ?」

「うわ、びっくりした」

 音もなく現れた人影に、慌てて体を起こそうとした美輝は再び背中が縁側にくっついたのを感じた。月明かりに照らされた孝恭の涼しげな顔が間近に迫っている。

「ちょっと、どうしたの……」

 数秒の沈黙が続いた。正確には、美輝の唇が塞がれていて声を発することができなかった。新羅太子の横面をひっぱたいてやろうかと思ったが、孝恭は美輝の体をそっと起こし、にっこりと笑った。

「浮かない顔をするなよ。あの踊りは素晴らしかった。また見たい。新羅の父や母にも見てもらいたい。……明日は、きっと飛鳥防衛の最後の戦いになるだろうな」

「どうしてわかるの?」

「今日の祭りで、オオシアマ王の兵士たちが鼓舞されたから。君のおかげでね」

 太子にそう言ってもらえるのなら、あんまり反省しなくてもいいのかな。美輝の心配事は天の川を駆け抜けた流星よりも速く消えてなくなった。

「では、おやすみ。ゆっくり休んで」

 名残惜しそうな熱を残して、孝恭は握っていた美輝の手から指先を離し、宿坊の奥へと戻っていった。


「菟と高市麻呂は上つかみつみち、吹負殿は中つ道、そして俺は下つしもつみちをそれぞれ防衛する。決着がついたら、即刻、他部隊の援護にまわるということで」

 明け方、阿閉麻呂は幕僚を集めて最終確認を行った。

 竜成と孝恭そして美輝は、上つ道の部隊に従うことにした。

 美輝が宿坊の縁側で悶々としていた時刻、オオトモ軍の飛鳥方面軍の将となった犬養五十君は乃楽方面から中つ道を下り、飛鳥寺から9キロメートルあたり手前に駐屯した。そこから廬井鯨いおいくじらという部下に精鋭200騎を与え、まだ薄暗い夜明け間近の道を歩かせた。

 7月9日、三道に分かれたオオシアマ軍の中で、最初に敵と相対することになったのは吹負の軍だった。相手はこちらよりも遥かに少ない200騎であったが、兵衛たちで構成されていて、農民兵が中心の吹負軍は子供が大人と相撲を取っているような情けない有様だ。

「誰か弓が得意な者はおらぬか!?」

 吹負は味方の弓がことごとくあらぬ方向へ飛んでいき、一向に敵兵を仕留めることができないことに危機感を覚えた。

「付近の大井寺の奴が5人、弓に腕が立つと申してやってきました!」

 リーダー格の若者は徳麻呂と名乗り、自ら先鋒に立って戦うと主張し、危険を顧みずに部隊の前線に駆けて行った。

 百発百中だった。吹負は徳麻呂たちを護衛するよう別の歩兵たちに命じ、中つ道を防衛した。

 鯨の上官である犬養五十君は中つ道から上つ道へ移動し、前進した。菟と高市麻呂の部隊は積極的に北上し、両軍はヤマトトトビモモソヒメの陵墓、つまり箸墓古墳が横たわる地で出くわした。

「かかれー!」

 菟は言うや否や、自分も馬を走らせ敵陣に向かっていく。一昨日合流し、編成したばかりの軍だったが、昨日の美輝のパフォーマンスが功を奏したらしく、兵士たちは文字通り一丸となって雪崩のように前進した。

 肉弾戦が続く。敵兵から繰り出される槍を同じく槍で押し返し、続けざまに刀で斬りかかる――。孝恭はお飾りではなく、オオシアマ軍のために戦っていた。

 今回もまた、美輝は竜成の馬に同乗していて、端っこの方で戦の推移を見守っていた。しかし、視線の先は孝恭のみに向けられていた。

「徳永さん、大丈夫?」

 一応、気遣って竜成は声を掛けた。美輝はいつものように勾玉を握りしめている。大丈夫ではなそうなのは、前線で戦っている孝恭の方だった。

 美輝が二回瞬きをした間に、孝恭の姿が馬から消えていた。

「太子っ!?」

 付近にいた高市麻呂が叫び、手綱を繰って群がる敵兵から抜け出そうとしたが、その前に、一人の舎人が転がるようにして落馬した孝恭に覆いかぶさった。

「徳永さん、危ない!!」

 オオシアマ軍の将の一人が乗った馬を射て、馬上の人を地に落とした後、五十君が柄まで黒光りする刀を振り上げて孝恭に斬りかかろうとした。そこへ美輝が滑り込んだのだ。

 勢いが止まらず突っ込んでくる五十君の刀の先が、舎人姿の美輝の結い上げられた髪をすぱっと切り裂き、刃先はそのまま肩から背中に流れた。

 誰もが太子を守る小柄な舎人の背中から鮮血が吹き出すだろうと思った。竜成が絶望的に瞳を閉じたその時、瞼の裏が白く照りつけられる。反射的に目を開けると、美輝と太子が大きな強烈な光に包まれ、五十君の刀が無残にも砕け散って光を反射させながら宙に舞っているところであった。

 その欠片はスローモーションのように華麗に戦場に舞い散った。

「たっ、た、祟りだぁーー」

 何が起きたのか把握できないでいる五十君の後ろから、恐怖に襲われたある兵士が叫び、事実、人を斬りつけるどころか跳ねつけられ粉々に砕けた鉄の刀を見て、この世のものではない力の関与を信じない者はいなかった。

「神の祟りだ!」

「今すぐ逃げろぉ」

 斬り合いを続けていた敵の兵士たちが口々に祟りだと言い始め、武器を投げ捨てるようにして逃げていく。

 我に返った五十君は、自分をじっと見つめる敵の小柄な舎人が、美しい女人であることに気づいた。

「お、お前は、何なんだ……」

 一心に孝恭を守ろうとした美輝は無言で毅然と立ち上がった。その姿に怖れをなし、五十君の両足は踵を返していた。

 状況を飲みこめていない味方であったが、敵将を敗走させたことで勢いを増し、菟は高市麻呂に太子のことを託すと、自分は軍勢を率いて敵を追い立てて行った。さらに、中つ道の吹負軍の援護に回り、鯨の後続の部隊が進撃するのを断ち切り、吹負軍と睨み合いを続けていた鯨軍の背後を襲った。

「菟、またお前に助けられたな」

「いえ、上つ道ではちょっと神が降臨し奉ったんですよ」

 世に言う箸墓の戦いは、オオシアマ軍の圧勝に終わった。五十君も鯨も結局逃げおおせてしまったが、錯乱状態に陥ったオオトモ軍は破滅的な損害を被り、二度と飛鳥方面へ姿を見せなかった。

 敵と味方が作り出した砂埃が諦めたように元の地面に落ち着くと、菟と竜成は美輝と太子に駆け寄り、安否を尋ねた。

「あたしは平気。でも、孝恭が……」

「俺も、何ともない。馬から落ちて、ひどく腰を打ったようだが」

 孝恭は言葉通り先ほどと変わらず、立ち上がってみせた。菟のほっとしたため息が聞こえた。

「太子、この馬にお乗りください。高市麻呂が敵を敗走させてますから、もう我々は飛鳥の本陣へ戻りましょう。ミキも無事でよかった」

「相変わらず無茶苦茶だな」

「……そうだ、もし君の身に何かあったら、俺がどう思うか考えてくれよ。でも、ありがとう」

 迷わず孝恭は美輝を抱き締めた。顔を赤らめた菟は、ふいと視線を逸らす。

 竜成はもう美輝を同乗させずに馬の手綱を引き、さっさと飛鳥宮への道を駆け出した。堂々と、太子が美輝を伴って帰還すれば良いではないか、と心の中でにんまり笑いながら。

 孝恭は手を貸しながら自分の馬に美輝を乗せ、自分も美輝の後ろに跨るとその耳元で囁いた。

「あの領巾ひれはとても似合ってるよ。……俺が直接渡したら受け取ってもらえなかったかもしれないから寺の者に預けた」

「そうだったの!?」

 栄真の娘の話にちょっとばかり感動してしまったのだが、すっかり騙されていたということだ。

「二人ともグルだったのね……」

「怒るなよ。嘘も方言って言うだろ」

「……それ、方便、ね」

 笑いが込み上げ、怒る気にもなれなかった美輝は、どこまでも突き抜ける青い空を仰ぎ見た。


 さて、同日、タケチを総司令官とする主力軍は二日前の息長川の戦いに勝利した足で、さらに南下し、彦根を通過し、鳥籠山に至った。オオトモ軍の右翼の将である秦友足は残りの全軍を一人で指揮することになり、自分の背後に控えている兵士たちの怖れと不安と士気の低下を一身に受けなければならない。

 案の定、有効な反撃の機会を作り出すことができずに、友足はじりじりと後退を迫られた。そして、ついに波に乗ったオヨリが単騎で攻めてきた折に、オヨリの手から放たれた矢が友足の右肩を貫いた。オヨリは容赦なく今度は兜の隙を狙って刀で斬りつけた。

 ここでもまた将軍を失ったオオトモ軍は退却を強いられることになった。御史大夫の巨勢人が将軍となり、物部麻呂と潤が補佐に任じられた。

 オオトモ軍は後退に後退を重ね、愛知川と日野川を渡り、草津付近の安河の南部に布陣した。

 陣幕の奥に座している王子の顔に疲労が見て取れる。今まで飛鳥と河内で敵を敗走させてきたという実績があっただけに、主戦場での大幅な後退は、精神的にも肉体的にもオオトモを圧迫していた。

「河内も飛鳥も、オオシアマ軍が勢いを盛り返してきて我が方は敗北を喫したそうだよ」

 さてこれからどうしようか、という思案を含んだ言葉が、側近の二人に投げかけられた。飛鳥の占領が不可能となった以上、大津宮を死守するほか選択肢は残されていない。

「我が方に気合いなど残ってるんだろうか」

 若き司令官は自嘲気味につぶやくと、潤がそれを優しく諭した。

「気合いで勝つことができるのなら、戦ほど楽なことはありませんよ」

 潤は嫌と言うほど、気合いとか精神力とかで戦争に勝とうと思うことがいかに無謀で馬鹿げているか、自衛隊で教えられてきた。だが、ではどうすれば勝てるのかというのはまた別問題だ。

「兵は追加で徴集できるか?」

 オオトモの問いに、潤と麻呂はあらかじめ検討していた結果を告げた。ほとんど不可能である、と。

 そもそも戦が始まった時点で、筑紫と吉備から拒否され、山陰地方はオオシアマの手の内にあり、東国も封鎖されている。今や河内方面も越方面もオオシアマ軍に押さえられており、残るは山城と丹波あたりからの募兵だが、既に大部分の正丁がオオトモの主力軍に組み込まれていた。

「それか、淡路や讃岐は募兵の余地はあります」

「……しかし、難波津は新羅兵が占拠しているそうです」

 泣きっ面に蜂とはまさにこのような状況を指すのだ、と潤は身にしみて理解した。それでも、オオトモはぐっと顔を上げて指示をする。

「可能性のある場所全てに追加徴兵令を出してくれ。大津宮を守れるのなら何でもやってみる価値はあるだろ」

「承知しました」

 実は潤の心の中には、ある提案があった。ヤマト姫大王とオオトモ王子とそして大津宮と、未来の蒲生宮を守るための策だ。

 けれども、オオトモが絶望していない限り、まだその提案を口にすべき時ではなかった。


 その日がやって来た。

 何日かぶりに夜半に雨が降り、安河の流れは少し早く濁っており、夜明けの朝日を吸い込んでいた。

「タケチ様、敵側の勢いは衰えつつあります。この川を越えれば、次は瀬田川、そうなればもう大津宮とは目と鼻の先です」

「わかった。今日、ここで、勝とう」

 聡明な少年はオヨリの言葉の意味を正確に理解した。

 もし安河で敵が勝ち、自軍が後退すれば双方の士気に影響するだけでなく、戦の終結が伸びてしまうということだ。無駄な戦はせず、さっさと勝利を収めて農民たちを故郷に帰してやらねばならない。

 ――どうか、僕の軍に力を与えてください、オオヒルメ様。

 馬に乗る前に、タケチは雲間からひょっこり姿を覗かせた太陽を拝した。

 敵の将軍はもうこの世にはいない。今日、前線で兵を率いているのは巨勢人、潤、麻呂の三人である。

 貴子は潤の無事な姿を確認すると、視界から遠ざけるように別の場所に移動した。眠れない日々が続いていた。どちらが勝っても貴子と潤にとっては不幸だ。何よ、タカミムスヒもオオヒルメも人間が考え出した、ただの支配のシンボルじゃない……。

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