第9章 <1>
乃楽山の戦いの火ぶたが切って落とされようとする前、鈴鹿で夜を明かした菟と品治の部隊は駐屯地を発った。全速力で鈴鹿山脈を越え、拓植で田中足麻呂の部隊と落ち合い激励を交わし、莿萩野で品治と分かれた。「命に替えても、東国と飛鳥を守ります」と品治が力を込めて言った。
当初、菟の部隊は千騎であったが新羅太子が引き連れてきた水軍の兵が加わり増強されていた。太子は今まで通り外交官風情を装い、見た目にはそれとはわからない。呼び方も 「俺は君を竜成と呼ぶから、俺のことも太子ではなく、孝恭でいい」と言い、大宰府でのような堅苦しい付き合いは止めようということになった。
宇陀評の墨坂付近に到達し、昼食の休憩を取ることにする。
「ところで、この女は何だ? ずっとついて来てるのか? まさか君の妻かい?」
多少危なっかしい手綱さばきで一生懸命に竜成の後を追う美輝を見て、孝恭は好奇の目を向けた。
「サララ様の女嬬だよ。一時、雅楽寮で舞生だったこともある。俺との関係で言えば、ただの同僚。興味待った?」
「ああ。明らかに異常だろう。前線にただ一人、女がいるなんて。しかも馬で駆けてくる根性もある」
クールで物憂げな顔立ちの孝恭であったが、美輝に対しては熱っぽいまなざしを向けている。
「確かにミキは強いですね。うるさいんですけど、思ったよりてきぱきしてて物資補給が円滑に行えましたよ」
新羅太子と舎人の会話を耳にして、菟が話に入ってきた。
ひとまず宍人氏の邸宅とその周りの空き地に兵士を滞在させて、再び雑談を始めた。
「ミキはもう誰かの妻なのか?」
正直言って美輝の現在の恋愛事情がどうなってるのかわからなかったし、潤との関係を話していいものか竜成が逡巡していると、菟がぺらぺらと話出してしまった。
「あくまで噂なんですが、ミキの背子はかなり腕の立つ右兵衛で、オオトモ軍にいるみたいです。それに他にも女嬬と関係を持ってて、ミキは――」
「ねえ、あたしがどうしたの?」
音もなく、話題にしていたその人が背後に現れたので、男性陣の開に一瞬気まずそうな沈黙が訪れた。しかし、孝恭はすっと立ち上がると美輝に近寄り、その手に接吻をした。その瞬問、頭の中が真っ白になってしまったのは美輝だ。
「なになになに!? この人、どうしちゃったの!?」
美輝は竜成と菟に視線を送り、状況を説明してよと助けを求めた。しかし、二人は顔を見合わせ、にやりと含み笑いをし、太子と女嬬を置いて部屋を去ってしまった。
「気が利くやつらだ。……まあ、座れよ」
美輝は敷物の上に胡座をかいて座り、落ち着きなく髪をいじり始めた、鈍感ではない美輝は、隣に腰を下ろしたクールな異国の美男子が自分に好意を持っていることを全身で感じとっていた。
「最初にあなたを見た時、女嬬の姿をしていたね。とても美しいと思ったよ。だからこんな風に舎人に扮装させるのは惜しくてしかたない」
「そう、ですか……」
「戦が終わったらどうするんだい? あなたの背子は敵だろう。遅かれ早かれ、オオシアマ王が勝つ。いや、俺がこうやって新羅の兵を率いてきたからには絶対に勝たせる。あなたはもう背子に会えないよ。つらい思いをさせてる男のことは忘れて俺を見て」
知ってたんだ、潤のこと。ズルいなあ。あたしの悩んでることで攻めるなんてさ。いつの間にか、孝恭の腕が優しく美輝の体を包んでいた。
そういえば、竜成はこちらの世界の女性と付き合っている。いずれ未来に戻らなければならないが、きっとドライな竜成のことだから割り切って楽しくやってるに違いない。しかし、自分はどうだろう? たとえ、潤との関係を続けても貴子の存在が幸せの邪魔をする。いや、貴子の幸せを邪魔するのかもしれない。どのみち前途多難には違いない。それなら、恋をするのであれば始めから竜成のような関係でもよかったのかもしれない。
「太子の恋人になったら、どうなるの?」
「新羅で最も幸せな女性になるよ。倭国の王妃よりもずっと贅沢に暮らせる。俺はあなたの背子のようにあなたを敵に回して傷つけたりしない」
現代に戻ればダンスの練習とバイトに明け暮れる日々が再び始まり、贅沢なんて夢のまた夢だ。孝恭はきっとほしいものを何でも与えて、一緒に楽しく過ごしてくれるに違いない。太子の恋人でもいいかもしれないな、と答えようとした時、外で騒々しく緊急事態を知らせる太鼓の音が鳴り渡った。孝恭は素早く脇に置いていた刀を取り、立ち上がった。
と同時に、竜成と菟が孝恭を呼びに部屋に駆け込んできた。
「まずいぞ、孝恭! 吹負の軍が敗走してきた!」
「では、飛鳥宮は……」
「わからない。とにかく収容して吹負から状況を聞き出さないと」
束の間の休息も終わり、宍人邸は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。負傷兵に手当を施し、健全な者は並ばせて数を数える。あの吹負が命からがら逃げてくるとはどういうことなのか。
「我々の読みが甘かったというわけだ。近江の軍勢は予想以上に多い。それに装備もしっかりしている。反撃できるかどうか……」
「弱気になってはいけません、吹負殿、今の我が方の兵力であれば、河内に攻め入って一矢報いることができるはずです」
墨坂に集まった兵力は負傷者を除けば、河内の将軍の勢力に匹敵するほどになっていた。
あとは斥候がもたらす情報によって、反撃の時を決定するだけだ。
翌日、敵側の様子が判明した。河内国宰が自死したことが原因で壱伎韓国の軍の指揮系統に混乱が生じ、作戦も編成も人幅に変更を余儀なくされているため、今も古市古墳群の辺りに留まっているようだ。
「吹負、ここは急いで戦を仕掛けるより、じっくり挟撃する方法を採ったらどうか?」
「と言いますと、太子?」
「実は今頃、難波津から俺の配下にある新羅の水軍が上陸しているはずだ。夜中に河内軍の陣の近くまで進んで待機。河内軍は準備ができたら竹内峠を越えて飛鳥へ侵入するだろう。新羅軍もその後を追う」
現在地から河内と大和の国境にある竹内峠まで東西に横大路という宮道が通っており、南北には複数の川が横たわっている。吹負は地図を指さした。
「では、我らは葛城川を越えた辺りまで前進し、待機ですな。葛城川より東には一歩たりとも敵を侵入させてはなりません」
「本当に行ってしまうのですか? 戦が終わるまで我が家で過ごしてかまわないのですよ」
男装した美輝の姿をまじまじと見つめながらカジメが言った。兵站部隊の中に女嬬が一人いると知ったカジメは心配して、宍人邸で待っていてはどうかと提案したのだった。美輝と交流のあったオサカベもそれを強く望んだが、当の本人が受け入れることはなかった。
「だって、あたしがいなかったら貴重な食べ物とか、みんな計画性なく食べ尽くしちゃうと思うんだ。サララ様から預かった物だし」
戦と聞けば拒否反応を示していた美輝が胸を張って兵站業務に責任を感じている。戦って多くの人が傷つくのは嫌だし怖いし、避けられるのであればそうしたい。ダンサーなんて、戦には何の役にも立たない。しかし、そもそもクシナダヒメの勾玉に選ばれてしまったのだから、今更逃げても無駄だ。頼りにしていた潤も二人の恋人よりもオオトモに対する義理を果たそうとしている。
美輝は首から下げている勾玉をすがるように見つめ、ぎゅっと握りしめた。
「それは? 随分と美しい作りの勾玉だな。よく似合うよ」
「もらったの、ある人に」
「あなたの背子からの贈り物?」
「え。うん、まあ、そんなところ」
お気に入りの勾玉を褒められた美輝は、よくよく考えずに適当に返答してしまったが、鋭い孝恭はさりげなく追求してきた。
「あなたの背子は兵衛だろう。貴重な石の勾玉など手に入れられないと思うが……。本当はあなたは祭祀に関わっているヒメなのでは?」
嘘をついたのが顔に表れてしまっただろうか。美輝は焦って俯いた。だが、孝恭は美輝を詰問するつもりはなく、ますます謎の女嬬への興味が高まってしまったようだ。表向きは兵站係だが、実は巫女か何かの役目を与えられているので戦場までついてきたのだ、と勝手に解釈して納得している。
「あのね、あたし、別に巫女でもないからね。……戦に勝ったら、あたしがどうして勾玉を持ってるか教えてあげる」
「わかった。あなたの秘密を知るためにも、勝利せねばな」
その夜、態勢を立て直した吹負軍は菟の部隊と新羅の兵を新たに加え、西進することを決めた。
倉歴道の防衛を担当している足麻呂は未だ大伴吹負が乃楽山の戦いで敗走してしまい飛鳥防衛が危機に陥っていたことを知らなかった。飛鳥防衛が失敗したその深夜、足麻呂の部隊はさほど警戒を強めることなく、巡回する歩哨以外は眠りについていた。
ところが、後世の忍者のごとく甲賀の山地を密かに越えて倉歴道に侵入を試みる軍勢があった。オオトモが東国封鎖突破のために急ぎ派遣した副将軍田辺小隅の部隊だ。小隅は音が漏れぬよう慎重に歩き、軍旗をきつく巻き、太鼓を抱きかかえて進むよう命じた。さらに声を出さないようにするための器具を口に咥えさせ、足麻呂の陣に近づくとゆっくりと柵をとり外しにかかった。
「敵襲!」
歩哨が敵の侵入に気がついて叫んだ時には、既に半数以上の敵兵が陣内に存在しており、油断していた足麻呂軍は大混乱に陥った。その上、小隅の兵士たちの間には合言葉が決められていて、出くわした兵が答えられなければ敵と見なし、容赦なく斬り捨てて行った。足麻呂はとっさに自分の鎧を脱ぎ捨て、一般兵と同じ姿になると切り殺された味方の兵士たちの間に横たわった。そして、目を閉じ聞き耳を立てる。
「……カネ」
敵兵の一人がそう言っていた。カネ、金ということか。足麻呂は敵方の幹部に中臣金がいることに思い当たった。安直といえば安直だが、逃げ切るためには合言葉を言わねばならない。足麻呂はそろそろと体を起こした。
「おい、まだ足麻呂は見つからないのか!?」
敵の副将軍が叫んでいる。早く逃れなければという一心で、部下たちの無事などを確認することをもはや放棄して駆け出した。もう一歩で誰にも気づかれずに陣を抜けることができるところだったが、運悪く敵兵の視界に入ってしまった。
「待て! 合言葉は?」
敵兵の目は血走っていた。足麻呂の軍はほとんど壊滅的と言っていいほどの打撃を受け、一切の統率が失われている。味方の戦意はないに等しいが、この敵兵だってもとはと言えば、あの庚午年籍に基づき、大津宮によって徴兵されたただの農民なのだ。もし合言葉を言えなかったり間違えたりしたら、敵兵はまた一人殺さなければならないことになる。殺人を強いられているしがない農民だ。
「カネ……」
一瞬の沈黙の後、敵兵は小さく頷いた。心なしかほっとしているように見えた。次の獲物を探すために、農民兵は足麻呂の行先など確認せずに素早く立ち去った。
わずかに一人だけオオトモ軍の急襲を逃れることができた足麻呂は、混乱して逃げた自陣の馬をつかまえて夜通し鈴鹿山脈を駆け抜けた。生き延びるのは恥なのか。違う。田辺小隅の軍を東国へ侵入させてはならない。鈴鹿を守る数万のオオシアマ軍に知らせることが、今の足麻呂の使命となっていた。
朝方、通り雨が山間の野上の仮宮を濡らした。オオシアマの主力軍は、斥候による敵方の情報を収集し分析するため、まだ不破からそう遠くない地に留まっている。オオシアマは大きな背伸びをしてもう南寄りに高く上がった太陽を眩しそうに仰いだ。はっきり言って、オオシアマは物理的に暇であった。戦は全てタケチに指揮を任せてあるし、実際の戦い方や軍務はその道に詳しい将軍や舎人が担ってくれているので、オオシアマはただ各地で行われる戦闘状況の報告を聞くだけなのだ。
しかし、報告を聞くことに徹するということはなかなか精神的に辛いものだ。自分が戦場に出ていって、槍をつき弓を射る方が性に合っているのだから仕方がない。特に、さきほどもたらされた二つの危機的情報は、オオシアマの冷静さを少しばかり削ぐことになった。
「飛鳥と倉歴が落ちた…… その情報は確かだな?」
真夏の気候には不適切なほど伸びてしまった髪を掻き上げ、オオシアマは報告を持ってきたオギミを問い質した。
「まず、乃楽山の吹負は圧倒的な敵軍に太刀打ちできないと判断し、戦闘を離脱しました。現在は隅坂で菟の部隊と合流し態勢を立て直しているようです」
「それで、飛鳥はどうなった!?」
「わかりません。しかし、オオトモ軍が香久山から急ぎ引き上げているのを見たという斥候がおります」
「倉歴の方は?」
「ほぼ解体状態だそうです。足麻呂が未明に鈴鹿に単独でたどり着きました。鈴鹿を越えさせてはならないので、防衛を強化しています」
この報告の前には、河内方面の守りも崩れたことが知らされていた。オオシアマはこれほどまでに勝つことができない自軍に頭を抱えた。やはり正規軍は強い。自分に味方してくれる者は少なからず存在するが、組織立っているわけではないし、何と言っても徴兵能力の差がありすぎた。
「兄さんは笑ってるだろうな。庚午年籍の力を思い知ったかと」
九州や西国諸国での徴兵が不十分でも、人口の最も多い畿内を自由に扱える大王側に利があるのはある意味当然だった。次の手を考え始めたオオシアマに、紀大人が声を掛けた。
「恐れながら、我が方の主力軍は未だに健全です。東国諸国の徴兵も続いております。それに、新羅太子の軍勢も到着しました。何より、オオヒルメ大神のお導きがございましょう。いざとなれば、私も武人として前線に赴くことを考えております。勝利のみをお考えください」
「そうだな。俺らしくない、弱気になってしまったよ。新たに集まった兵をどんどん飛鳥方面へ送りこめ。阿閉麻呂が吹負に合流すれば勝負はこちらのものだ」
「その意気です、オオシアマ様」
「それから、オギミ。タケチにこの書簡を届けてくれ」
「承知しました」
一礼して野上の仮宮を退出し、馬を準備しているとオギミに声を掛けた者がいた。舎人の姿をした女嬬、貴子だった。
「ねぇ、もしかしてタケチ様のところへ行くの?」
「そうですよ。急ぎなのでお話してる時間はないのですが」
「お願い、私も馬に乗せて!」
桑名から物資を運搬し、野上にやってきた兵站部隊の中に貴子も加わっていた。東国諸国から集められた新兵たちへ食料と武具の供給が終わり、手持無沙汰になったので自分もタケチ軍に加わろうと目論んでいたのだが、出入りの監視がしっかりしていて密かに野上の陣を出ることは難しそうだった。だが、どうしてもタケチ軍に加わり、敵軍にいる恋人と対峙しなければ気が済まなかった。
そこへ顔見知りのオギミが現れたというわけだ。
「女嬬が戦に出るなんて、危険ですよ」
やはり想像していたことを言われた。だが、貴子はそれで怯むような女性ではなかった。
「悪いけど、私、弓は得意なの。それはオオシアマ様だってご存知だし、もう既に女嬬のりらがタケチ様の軍に従ってるし、薬のこともあなたよりは知ってるし、兵站業務だって――」
「わかりましたよ、もう好きにしてください」
ひと息にまくし立てる貴子を、オギミは半ば呆れて制した。
「ありがとう!」
貴子は厩の壁に並べてあった弓矢を一組掴み取ると、颯爽とオギミの後ろに飛び乗った。
主力のオオシアマ軍はまだそれほど不破から離れていない場所に待機していた。これまで琵琶湖北東部に力を持っている息長氏が中立を保っており、オオシアマは吉野に滞在していた時期から再三、こちら側に味方するよう要請しているのだった。
手紙にはある約束を記した。それはこちら側に味方すれば、息長氏をオオド大王の子孫として手厚く遇する、というものだ。
息長氏の本拠地付近に留まっていたタケチは、オヨリからオオトモ軍が迫ってきていることを告げられた。しかも、山部王殺害の混乱を早期に収拾するため、いよいよ大津宮からオオトモ自らが大軍を率いて巨勢人の軍に合流したという。
タケチはオギミが持参した父からの書簡を読み、子供ながらに考えた。一体どうしたら、息長氏の心をオオシアマに寄せることができるのか。使者を遣わして、父の約束を伝えるだけで十分なのか。いや、そんなことは吉野にいた頃から父は密かに何度も使者を送っていたではないか……
「ねぇ、オヨリ、息長氏を仲間にする方法なんだけど」
「何か名案がおありですか?」
タケチはオヨリを信頼していた。それは自分が子供だからといって適当に話を聞き流したりせず、ちゃんと真剣に向き合ってくれるからだ。いつもは軽口をたたいて、すぐに女性を口説いているし、王である父にもからかいの言葉を投げかけるとんでもない舎人だが、本当は誠実な大人であることをタケチはわかっていた。
「息長氏はオオド大王の子孫っていうけど、味方の豪族の中では矢国もそうだよね?」
「はい。羽田氏もオオド大王の子孫で、近江北方を支配してきました。越の国ともつながりがありますし、大いに歓迎すべき王族です。……なんて、私ごとき小豪族の若造が評するのもおこがましいですが」
「じゃあさ、息長氏には僕と同じくらいかもうちょっと年上の男はいる?」
オヨリはほんの少し考えて、確か20歳にならないくらいの若者が嫡流にいるはずです、と返答した。
「どんな人が知ってる?」
「息長老といって、私が聞いたところでは文武両道のようです。戦が起きなければ、そのうち大津宮に兵衛として出仕したのではないかと思いますよ」
タケチは、ふぅんと相槌を打った。父の約束を息長氏に受け入れてもらうために、今までオヨリから聞いた情報を頭の中で整理し、タケチはあることを決心した。
伊勢湯沐令の田中足麻呂が倉歴道防衛を完全に放棄した後、敵の副将田辺小隅は莿萩野に多品治の部隊が控えていることを知り、これを撃つべく西へ進んだ。本隊から引き連れてきた3千騎の他に、その土地の農民兵を配下に入れることに成功した品治は、四方に目を光らせて気を抜くことなく警戒していた。
まだ足麻呂が敗走したという情報は入ってきていなかったが、莉荻野が破られればすぐ南は名張、そして宇陀、奈良盆地へと続き、敵軍の飛鳥進入が確実となってしまう。相討ちとなっても莿萩野を死守しなければならない。
6日の未明、倉歴と同様に音を立てぬよう細心の注意を払って田辺小隅の軍勢は莿萩野の陣地を取り囲んだ。歩哨の数も少なく、壊した垣根の間から見える兵士の数もそれほど多くはないようだ。その上、横になって寝ているとは何と警戒心のない敵だろう。
「行けっ」
小隅の号令がかけられると、部隊は一斉に刀を構えて品治の兵たちに襲い掛かった。
「うわっ。何をする!」
「逃げろ!」
「おいっ、これは人形じゃないか」
たちまち小隅の軍は混乱に陥った。というのも、陣内で寝ている兵だと思って斬りつけたのは藁でできた人形であり、さらに地面から矢が大量に飛んできたからだ。そして、混乱が始まったところに、品治の兵士たちがどこからともなく現れて反撃を加えた。
莿萩野の陣は塹壕が作られていた。そこに兵士たちが弓を構えながら潜み、小隅の軍が陣にまんまと侵入してきたところで、攻撃をしかけたのであった。
「追え! 徹底的に蹴散らすぞ!」
品治は特に若くて俊敏な兵たちを精鋭部隊として編制しており、必死に逃げて行く小隅の軍を追撃した。容赦なく追い立て、目の前に現れた敵兵は全て斬った。
いつしか太陽の光が山の縁をなぞり、大地を照らし始めた。品治の部隊は倉歴道を通り過ぎ、夏見辺りまで小隅を追いこんでいた。
「品治殿、もう敵兵は数えるほどです」
「そうか、小隅は俺の矢を受けて深手を負ってる。莿萩野に引き上げよう、また新たな襲撃がないとも限らないからな」
精鋭部隊の働きは予想以上であった。品治はもとの道を引き返し、再び陣の守りについたが、それからオオトモ軍が攻めてくることは一度もなかった。
神話世界の英雄が神の化身によって病に倒れたという伊吹山のふもとに、タケチ率いる主力軍が控えていた。桑名で活動することになっていた貴子がこの陣にオギミと共に現れた時、陽一もりらも驚いたが、完全に武装をして戦う姿勢を見せていることに更に驚いた。どこから調達したのか、背にはしっかりと矢をしまう箙が掛けられていた。
伊吹山を仰ぎ見ながら恋人のことをぼんやりと考えていた貴子は、背後から呼びかけられ、振り向いた。
「黒部郎女! 何やってんですか」
貴子をそう呼ぶのはただ一人しかいない。
「ねぇ、オヨリ、いつ出陣するの?」
「これからタケチ様と最後の息長氏説得に行くところです。結果がどうあれ、明日は吉日なので動きますけどね。それにしても何ですか、その姿は。リラも舎人の姿だし、女嬬に男装させるのはオオシアマ様のご趣味ですか」
あぁ、黒部郎女は女嬬の姿の方が断然美しいのにもったいない、とオヨリは心底残念がっている。
「今日は冗談を言い合ってる場合じゃないのよ。私も前線で戦わせて。これでも弓は得意なの」
真っ直ぐに自分を見つめる貴子にただならぬ気迫を感じ取ったオヨリは、何か深いわけがあるに違いないと理解した。
「……理由を話してくれますかね?」
「そうね、黙ってるのは公平じゃない。ねえ、ジュンを覚えてる?」
「あぁ、オオシアマ様を裏切った奴でしよ」
その言葉に、貴子は胸が締め付けられるような苦しさを感じた。潤の行為が裏切りなのかはわからない。だからこそ、彼がオオトモの側で戦うであろう姿をこの目で確かめたいのだ。
「あの人は、私の背子なの」
今度はオヨリが衝撃を受ける番だった。黒部郎女があの男と付き合っていたことがもちろん第一の衝撃だが、心を通わせている男女が敵と味方に分かれて、武力衝突するなんてそんなことがあっていいのだろうか。
「あなたも知ってると思うけど、あの人はオオトモの側に仕えるオオシアマ様の密偵だった。でも、オオシアマ様の言うことも正しいけど、オオトモも正しいと思うって。それでオオシアマ様に敵意はないけど、オオトモの舎人として一緒にいたいからって…… 私も潤と一緒に戦うと言ったけど、許してくれなかった――」
途中から貴子はほとんど泣いていた。声を上げないよう必至に堪えているのがよくわかった。もし俺がジュンの立場なら、妹と敵同士になる道など選ばないのに、なぜだ。
こんな時、オヨリは耳に心地よい言葉を発したり、すかさず抱きしめたりして目の前の美しい郎女を慰めることができるほど、実は器用ではなかった。あの新羅の太子であれば、そんな男など忘れろと事も無げに言えるだろうが、オヨリの口は言葉を見失って閉ざされたままだ。
「この戦はオオシアマ様が勝つことが決まってるのよ、絶対に。戦死を免れても、オオトモが負けたらどういう処罰が下されるかわからないじゃない」
言葉は悲痛だが、オヨリから見れば二人の間の愛情は揺らいでいなかった。ジュンがあなたをこちら側へ留めたのは、その勝利を確信しているから。あなたの身を守るためですよ。
そう言う代わりに、オヨリはいつものように明るい調子で言った。
「オオシアマ様はあれでかっこつけたがりですからね、大臣や御史大夫以外の者まで厳重に処して、後世の不評を買うような真似はしない。というか、無駄に人を罰して、サララ様に鬼だの何だの罵られたくないと思ってますよ、きっと」
「……だといいな」
「あ、そうそう、俺の弓の腕前も世が世なら王宮随一ですよ。黒部郎女なら、特別に見物料なしで俺の隣でご披露しましょう」
オヨリは当初、貴子が戦場に出ることをなんとバカなことだと、思いとどまらせようと考えたが、この調子では止めてもついてくるに違いなく、単独で行動されるとかえって迷惑なので、いっそのこと自分の目の届く場所に置いておくのが賢明だということに落ち着いた。ようやく貴子の表情が和らぎ、謝意を伝えた。
「オーヨーリー! 行くよー!」
遠くでタケチが呼んだ。息長氏説得の最後の機会に臨まなければならない。オヨリは貴子に軽く手を上げ別れを示すと、武具をがちゃがちゃ鳴らしながらもう一人の守るべき者の方へ駆けていった。
総勢10名の一行が、息長川の川縁に建てられた桧皮葺の邸宅の門をくぐった。背後を小高い山に囲まれていて、ちょっとした自然の要塞となっている。
息長氏の邸宅は突然の王子自身の訪問に騒がしくなった。タケチはオヨリと陽一のみを同伴させて、正殿に入った。この家の主、息長糠手を狼狽させてしまったようで、タケチは少しきまりが悪かった。
「この度は、タケチ王子御自らお出ましくださり望外の極みにございます」
初老にさしかかった糠手の隣には、オヨリが話していた通りの若い息子が平伏していた。タケチは早くこの若者に声を掛けたかったが、まずはオヨリが要件を伝える。
「こちらに急に参ったのは、想像に難くないだろうが戦のことである。オオシアマ様の御約束事をクケチ様が携えておられる」
「謹んで拝聴いたします」
今までも何度かオオシアマ側から味方になれという要請を受けてきたが、舎人の身分である使者の言付けだけであった。しかし、今回は違う。
「では、代読する。――淡海の北東方を代々よく治め、大王の力となってきた息長一族を称える。今般の戦で、息長一族が中立を捨て私の支えとなってくれれば、これほど心強いことはない。私か新たな王となった暁には、息長一族をオオド大王の子孫としての最高級の処遇を与え、さらなる繁栄を約束する」
オオシアマがここまで見返りを明言したのは初めてだった。最高級の処遇というのが具体的に何かは不明だが、糠手の心を揺さぶったのは、「オオド大王の子孫」という息長氏の誇りを刺激する言葉であった。
「……父は新しい若い力を必要としています」
平伏していた糠手と老の耳に、子供の明瞭な声が届いた。子供の口から「若い力」という言葉が出たことに、陽一はおかしさを感じこっそり笑みを浮かべてしまったが、息長親子は恐れ入るばかりである。
「老、あなたは武芸にも学問にも優れていると聞いています。是非、父の元で働いてもらえませんか。強くて豊かな国を作りたいんです。それに、20年後、30年後、私か私の弟たちが父の後を継いだ時、あなたが国の中心にいて助けてくれると嬉しいです」
直接、名指しされた老はわずかに顔を上げ、王子を仰ぎ見た。大津宮のオオトモ王子は息長氏を特別扱いすることはなかったし、ましてや、成人して間もない自分のような若者が必要だなどと言ってはこなかった。だが、タケチ王子はまだ子供にも関わらず、将来を語っている。父の糠手は保守的で、現状に甘んじているところが老には不満であった。古くはタラシヒメが、近年ではヒロヒメが大王の后となり、権勢を誇っていた息長氏だったが、惰性で大王に仕える時代となってしまった。加えて、老は故カヅラキ大王もオオトモ王子も外国勢力に関わりすぎる、もっとこの国独自の道を歩むべきだと、心の中で批判をしていた。
「父上、我が一族の進むべき道は明白ではございませんか」
「うむ……」
息子は早速オオシアマ側に与することを決心したようだが、肝心の家長はなかなか容易には落ちない。そこでタケチは残念そうに、しかし挑発的にこんなことを言った。
「羽田矢田とその息子は、すぐに父の元にやってきてくれたのですが…… 矢国は将軍として、越方面へ軍を出しています。大津宮は遅かれ早かれ我が父の子に入ります。オオド大王の子孫が、敵味方に分かれてしまうのは悲しいことですね」
この挑発は的中した。琵琶湖北方のもう一つの豪族羽田氏が既に名を上げているという事実に、久しぶりに糠手の競争心が刺激された。オオシアマが勝利すれば、羽田氏は大津宮陥落の功労者となる一方、息長氏は何の働きもしなかった日陰者に成り下がってしまう。
「タケチ様! 恐れながら、息長の名にかけてオオシアマ様の勝利に貢献いたしたく存じます。老、至急、兵を出せ!」
のらりくらりと現状維持に徹していた糠手の英断がオオシアマの主力軍を勢いづかせ、約5千の新たな兵力により、オオシアマ軍はオオトモ軍よりも優位に立つことになったのだ。
タケチはオヨリと陽一に向かって、小さくガッツポーズを見せた。
犬上川の混乱事件から間髪入れずにオオトモは直轄の軍を率いて大津宮を出発した。追加徴兵した分も合わせて潤に指揮権を与え、御史大夫巨勢人が待つ犬上川に到着した。左右大臣も同行しており、大津宮を守る責任がある要人は全てオオトモに従って出陣したことになる。
「大王をお一人にしてしまったな……」
「ヌカタ殿とミミモ殿がついておられます。他の妃や子供たちも。山科まで戦禍が及ぶことはありませんよ」
「それに、山科には御陵があります。亡きカヅラキ大王が皆をお守りくださるでしょう」
川辺の陣で巨勢人から現況報告を受けた後、オオトモはヤマト姫を始めとする残してきた身内を思い遣った。後ろ髪を引かれているらしい王子に、潤と石上麻呂が励ましの言葉をかけた。
大津宮はオオトモにとって帰るべき場所だ。オオシアマが飛鳥を死守しなければならないように、オオトモも大津宮から敵を排除しなければならない。大津宮は今、左右兵衛府の兵士によって幾重にも取り囲まれ防衛されている。そして、琵琶湖西岸は要所ごとに砦を築き、越方面からの攻撃に備えていた。
行軍により現在の米原市役所付近まで進んだところで、オオトモ軍は態勢を整えるために止まった。5人を偵察に放ったが、無事に戻ってきたのは3人だった。たった5km先に、オオシアマの主力軍が控えていることがわかった。
「息長親子がオオシアマに味方したとの情報を得ました」
長らく中立を表明していた豪族が敵方に取り込まれてしまったようだ。近隣に根を張っている息長氏の同族である坂田氏もオオシアマ軍に兵を送っているに違いない。これではもう、不破を突破するのは至難の業だ。
しかし、全力でぶつかるしかない。オオトモには父カヅラキが築いてきた国の基礎を受け継ぐ責任があり、それに対抗してくる者は誰であれ打ち破る義務がある。
「この戦いに勝ったら、俺は叔父上を処刑すべきなんだろうか。姉上は、タケチは、クサカベはどうすれば良いのだろう」
琵琶湖に夕日が沈んだ時、オオトモはそっと目を閉じた。一度は師と仰いだ叔父と弓を引き合う仲になってしまったことに、やりきれない気持ちでいっぱいだ。叔父が大津宮を攻める姿勢が本気だとわかっているからこそ、後には引けない。
「凡海郷を…… 出雲王国の末裔を残らず掃討しなかった結果が、これです。もしオオトモ様が未来永劫、大和の国の安寧と繁栄を願うなら、同じ過ちをしてはなりません」
我ながらよくこんな非情なことを言えるものだと、潤は自分白身に呆れてしまった。長く付き合っている恋人の気持ちを代弁することができるようになることと、朝から晩まで仕えている主人の思考に寄り添えるようになることは、案外似ているのかもしれない。
クシナダ、俺はあんたがくれた勾玉に相応しくない立場になってしまったぞ。いいのか、それで?
しかし、勾玉は沈黙を保っている。
ふいに貴子の面影が脳裏に甦った。彼女はもう俺を許してはくれないだろう。気づいているのかいないのかはわからないが、美輝と幾夜も過ごしてしまっただけでなく、貴子の身を守らずにこうして自分の興味を優先させてしまったのだから。
「ジュン、どうした? 気分でも優れないのか?」
ぼうっと考え事をしていたせいで、オオトモが少し焦っている。それを見ると、部下に慕われているようで、やはり素直で真面目なオオトモを見捨てておけないと思うのだ。オオシアマには個人的つながりの味方がたくさんいる。自分一人いなくても、勝利し、やがて天皇にさえなれる。ところが、オオトモを支える真の忠臣はほとんどいない。
「何でもありません。ただ、恋人のことが気がかりで」
「ああ、すまない。蒲生野の女か。戦が終わったら、是非会わせてくれよ」
潤は素直に頷いた。以前、蒲生野に恋人がいると嘘を言って、自由時間をもらったことがあった。オオトモは覚えていたのだ。
西の空にうっすらと三日月と金星が見える。そういえば、明日は7月7日、七夕の日ではないか。現代の新暦の七夕はだいたい天気が悪いが、本来の旧暦の七夕はよく星が見える。おまけにペルセウス座流星群の時期とも重なっている。
偶然だが、彦星と織姫は武装して天野川、古代の呼称では息長川を挟んで対峙することになるのだった。
星降る夜空を、どんな思いで見上げるのかまだ潤には想像がつかなかった。
空が白み始める頃、オオシアマは一筋の流星が飛ぶのを目にした。息長氏が味方になったという朗報により、河内・飛鳥方面、伊賀方面での敗北が挽回できると確信した。陰陽五行道によると、今日、丙申の日はオオシアマに有利であった。後はタケチとオヨリたちを信じるのみである。
息長氏の邸宅からわずかに離れた場所で、3万の主力軍が出陣の準備を終え、行軍を開始した。先だって一刻前には、オサカベの舎人である祢麻呂が5千の兵を率いて、西方へ向かっている。作戦上、この軍は本隊から離れた別の場所で待機することになっていた。
「この辺、21世紀とあんまり変わりがないね」
陽一と同じ馬に乗り、恋人の腰に腕を回して座っているりらが話しかけた。現代でもほとんどが田畑だということを言いたかったのだ。
不思議な感覚である。神話の出雲王国にいたこと以上に、自分たちが7世紀の空気を吸っているということが奇妙だ。
「りらさん、俺は…… 弱いよ。軍人じゃないから戦い方を知らないし、生きて帰りたいと思ってるし」
「それでいいよ。私も陽一さんと無事に未来に帰りたい。私たちの目的は、オオシアマに味方することなんだから。クシナダヒメは自分たちも戦えとは言ってないでしょ」
身を守るための武具と楯を装着し、帯刀もしているが、実際は役に立たないだろう。情けないと思わないと言えば嘘だが、映画の世界ではあるまいし、現代のデスクワーカーが戦場で活躍できるはずがない。
「たぶん、貴子ちゃんの方が役に立つね」
りらは左前方に視線を移した。単独で馬に乗り、オヨリの後ろにぴったりとついて歩いている貴子は、それはそれは凛々しかった。
競技の弓道と戦場の弓術は根本的に異なるが、貴子はシヒやトヨハヤや他の舎人の根気強い指導を受けて、今では馬上から射撃ができるようになっていた。
「ねえ、ちゃんと勾玉持ってる?」
「ん…… あるよ、ここに」
二人はクシナダヒメの勾玉を付き合わせた。相変わらず瑠璃の石は孤高の艶めかしさで包まれている。勾玉の滑らかな表面を這うように光が駆け巡っているが、それが活動を始めた真夏の太陽の光なのか、勾玉そのものの不思議な光なのかはわからなかった。
動いていた隊列が前方から順次止まっていった。隙間から確認すると、息長川を挟んだ対岸には初めて目にする敵軍が整然と並んでいた。
「あれが、オオトモだね」
「五十里のやつ、何でだよ……」
敵の総司令官の隣でこちらの様子を窺っている仲間の姿に、陽一は未だに「裏切り」が信じられなかった。彼の性格からして、こちらの情報を敢えてリークするような真似はしていないはずだが、歴史の結末を考えると潤の心変わりは釈然としないし、何より「クシナダ事案」の仲間として、その身が案じられた。
初めて潤は自分の呼吸が浅く速くなっていることに気づいた。自らオオトモに従う道を選んだことに後悔していないが、それでも平静ではいられなかった。
「貴子……」
男装しているが、敵の将軍の一人の後ろにいるのは紛れもなく恋人の姿である。それも、よりによってオヨリというチャラい男に寄り添っている。貴子とあいつ、どういう関係なんだ。貴子に気があるようだったから、最悪の場合―― 潤の冷静さはさらに失われた。如何なる経緯で貴子がオヨリと共に戦場に現れることになったのかは知る由もなかったが、後方の補給基地で他の女嬬たちと怯えている貴子も想像できなかった。もしかしたら、美輝もどこかの戦場に出ているのかもしれない。そう考えると急に美輝が恋しくなり、落ち着きを取り戻すためにその肢体に身を任せたい衝動に駆られた。
「大丈夫か?」
オオトモの後ろに共に並んだ麻呂は何気なく訊いてきたのだが、潤は自嘲気味に答えた。
「俺は、どうしようもないやつですよ、武人としても男としても……」
潤の真の心の内を見ることができない麻呂は、ただ戦に不安がっているのだと思い、「訓練の成果を信じろ」と穏やかに言った。
双方の太鼓の音が激しくなる。
川の縁ぎりぎりまで馬を進めたタケチとオオトモは互いに表情堅く、正面に対峙した。一年前の今頃はまだ、同じ大王家の構成員として年の離れた従兄弟同士として何のわだかまりもなく会話し、笑い合えた。しかし、中つ国の最高神は一柱ではなくなった。最高神が複数存在することは許されず、どちらかが息絶えるまでこの戦は終わらないのだ。
「タケチ、久しぶりだな」
よく聞こえるように大声で、オオトモは従弟に呼びかけた。タケチはオオトモが優しく微笑んでいることに驚いた。これから戦うというのに余裕綽々ではないか。もしかしたら、心理的作戦なのかとタケチは身構えたが、オオトモにそんなつもりはなく、ただ幼い従弟が総司令官に任命され大軍を指揮する身となったことに同情したのだった。当然、オオシアマが軍を率いて出てくるとばかり思っていたが、蓋を開けてみればタケチが現れた。
「オオトモ兄さん、僕は絶対に負けない。この国を統べるのはオオヒルメ大神の子孫だ」
子供ながらにタケチが見せる気迫は、オオトモの背後に控える潤と麻呂にも伝わった。
「オオヒルメとは何だ」
「古くて新しい、僕たちの太陽の女神だよ!」
「そうか。お前たちの神はオオクニヌシだと思っていた。でも、俺たちにはどちらでも構わない。この国が信奉すべきは、タカミムスヒ御一柱だからな!」
真夏に似合わないほど爽やかな笑みさえたたえ、オオトモは高らかに宣言した。
今まで犬上川の事件を除けば、オオシアマ軍に連勝しているオオトモは、相手の兵力が少し上回っていることなど不安材料ではないし、オオシアマの影に怯える必要なく実はあっけなく勝利を手にすることができるのではないかという希望観測を抱いていた。
何と言っても大和の大王家なのだ。一度敗北した出雲王の血を引く流れ者が大王の軍に打ち勝ち、大王の偉大な力を退けることなどできまい。
互いに簡潔に言いたいことを言い終わると、タケチもオオトモも片手を上げて後方のお付きの者たちに合図をし、滑らかに馬を操って先頭から隊列の後方へ移動した。双方の総司令官が安全な後方へ着くと、再び太鼓が重い音を戦場いっぱいに歩かせた。
オオトモ軍の後方の陣には左右大臣と御史人夫が揃って控えていた。命のやりとりという戦いの指揮は将軍たちに任せ、自分たちは成り行きを見物するのが仕事だと思っているらしい。
太鼓の音が止んだ。そして一呼吸後に、両陣営から矢が雨あられと飛びかかり、先頭の部隊が突撃を開始した。一つの分隊は前列に大きな楯を構えた歩兵が5人並び、その後ろに4人ずつの歩兵が並んで、25名のかたまりが前進する。横の分隊も後続の分隊も同様だ。
オオトモ軍の右翼は泰友足、左翼は境部薬に率いられている。タケチ軍の中央は村国男依、右翼は和珂部君手、左翼は胆香瓦安倍が将軍である。君子は後に戦の回顧録を記し、「戦場には驚喜と狂気が渦巻き、その荒波を乗り越えたものが勝利を手にする」と感想を述べている。
隊列の後方でオヨリの楯に守られるようにして、飛んでくる矢を避けていた貴子は急に視界が開けたことに気づいた。太陽の光が飛び込んできて、思わず目を瞑る。
ぱたりと矢の応酬が止まっていた。しかし、次の瞬間には水しぶき、砂埃、刀がぶつかり合い何かが壊れる音、雄叫び、悲鳴、そして血の乱舞に取って代わられた。映画のワンシーンのような光景があまりに非現実的過ぎて、貴子は妙に落ち着いていた。
「ここにいてください、黒部郎女」




