第2章
いよいよ出雲旅行。
予定時刻に着陸した飛行機が、乗客を次々に吐き出していく。出雲空港のターミナルビルは女性限定のツアーに参加する団体客で賑わっていた。出雲大社を始めとするこの地域の神社は様々な縁結びの神を祀っており、パワースポットとして女性に人気が高いようだ。
バゲージクレームの柱には大蛇のオブジェが飾られており、到着客を出迎えてくれる。なぜ大蛇かというと、出雲地方の神話にスサノオノミコトという男神が、毎年この土地に住む娘たちを食べてしまうヤマタノオロチという大蛇を倒し、残った娘クシナダヒメと結婚したという重要なエピソードがあるからだ。
「でね、クシナダヒメはスサノオノミコトに櫛に姿を変えられて、スサノオノミコトはその櫛を頭に挿してオロチと戦ったんだって。私、神話の中でこの話が一番好きなの。だって、絶対に王子様が助けに来てくれる話って素敵だもん」
「桧枝さんはロマンチストなんだねぇ。ていうか、もしかして神話マニアなの? 俺、全然わかんない」
竜成は通常の荷物に加え、カメラなど取材道具も抱えながら、軽やかな足取りのりらを見やった。
「そういうわけじゃないけど、うちのホームになぜか神話が大好きな入居者がいて、その人の相手をしてたら話覚えちゃったんだ」
「竜成、取材するのに出雲地方の神話や昔話なんか下調べしてこなかったのか?」
陽一だってそれほど神話に詳しいわけではないので人のことを言える立場ではないのだが、旅ジャーナリストがこれでは心もとない。
「今回はやり方を変えてみた。いつもはもちろん下調べはするよ。けど、今回は敢えて何も知らずに行ってみようと思うんだ。直観を大事にするということで」
「大丈夫かなぁ」
陽一は笑った。
「だって、神話は桧枝さんに聞けばいいし、建築については陽一がプロだろ」
「ごめん、私の知ってる神話は入居者が語ってるのを記憶してるのと、子供向けの本で仕入れたくらいだから、あんまり当てにならないと思う」
縁結びを謳う空港だけあって、至る所にハートマークの飾り物が存在する。三人は物珍しそうに眺めながら歩いた。レンタカーを借りると、気を利かせてくれたのか、竜成が運転席に座った。
「カップルシート」
竜成が後部座席を指して、陽一に耳打ちした。
「ねぇ、鄭くん、道わかる?」
りらがプリントアプトした地図を竜成に渡した。
「たぶん行ける。宍道湖沿いに真っ直ぐ行けば玉造温泉だから、一時間もあれば」
出雲空港はシジミで有名な宍道湖のほとりにあり、そこから東へ向かうと玉造温泉だ。左手に宍道湖を臨みながら進み、玉湯交差点を右折する。しばらくして、細い玉湯川と平行に走るようになった。
玉造温泉の旅館やホテルはこの細い川の両側に沿って並んでいる。玉造温泉は奈良時代初期から始まり、日本最古の温泉に分類されるという。近所には史跡や神社もある。
「おばあちゃんから教えてもらったんだけど、ここの温泉は一度入るとお肌がすべすべで、二度入るとどんな病気や怪我も治ってしまうから、神の湯って呼ばれてきたみたいだよ」
りらの祖父母が経営する旅館紅玉亭はその一番奥にひっそりと構えていた。駐車を終えると、三人はそれぞれ荷物を抱えて、紅玉亭の玄関をくぐった。
「こんにちはー」
りらは、老人にもはっきりと聞こえる声で呼んだ。
「あがーなはいましぇ」
奥からよく通る女性の声が聞こえ、着物を着た老女が現れた。りらの祖母豊子だ。
「あれあれ、あがーなはいましぇ」
豊子はまさにしわくちゃにした笑顔で出迎えてくれた。
「お世話になります。りらさんの大学時代の友人の長柄陽一です。こちらは僕の高校時代の友人です」
「鄭竜成と言います。お邪魔します」
「はい、いらっしゃい」
豊子はりらに鍵を二つ渡した。鍵の番号を見ると、最上階の一番良い部屋だった。
「東京の家族は、まめなかね?」
「うん、元気にしてるよ」
「まぁ、便りがねのは、まめな証拠だけんの」
「そういえば、おじいちゃんは?」
りらが祖母に連絡を取った時、実は祖父の体調が優れず、旅館の仕事はしばらくやすんでいるという話であった。
「心配しちょっただも、この二三日、すわっちょーねぇ」
「それは良かった。後で、おじいちゃんとこ会いに行くね」
陽一と竜成はこの地方の方言は全くわからなかったが、豊子の言っていることは何となく推測できたし、陽一たちに話しかけるときは、東京弁を使ってくれた。
「お二人とも、お仕事は何をしてるんですか」
「あ、僕は旅の雑誌を作ってます。なので、良かったら後で出雲地方のお話を聞かせてください」
「かまわないですよ。この辺のことを雑誌に書くの? じゃあ、ぜひとも玉造温泉をアピールしてくださいよ」
豊子は朗らかに笑った。
「長柄さんは?」
「はい、僕は建築士です。神社やお寺を修復したり、新しいのを建てることもあります」
「ああ、そうなの。この辺には来たことあるの?」
「いえ、初めてなんですよ。僕の勤め先は関東周辺の建物を扱ってるので」
「いいわね、若い人は楽しそうだわね」
「そんなことないですよ、女将さんの肌、とても若く見えますよ」
すかさず竜成がフォローする。竜成らしいな、と陽一は思ったが、実際、豊子は年齢よりも若々しく見える。
最上階の部屋に着いた。
「さぁ、部屋は二つ。自由に使ってくださいな。お食事はどうする?」
紅玉亭は宿泊客の数は限られるが、その分、豪華な食事を提供することができ、それが評判となっていた。
「四泊させてもらうから、外食することもあるけど、今日の夜は旅館でいただきます」
りらはそう豊子に伝えた。
「テーブルにね、お菓子、松江の代表的なの出しといたから、あがーましぇ」
「ありがとうございます」
豊子は立ち去り際に、孫に向かってそっと囁いた。あんた、咲夜の若い頃そっくりね、と。りらの母親はりらが中学生になるかならないかくらいの頃、突然この世を去った。病死であったが、原因はわかっていない。豊子の囁きは、りらのそばに立っていた陽一にも聞こえていた。その時の、りらの悲しみを押し殺したような苦い微笑みは、ますます陽一の心を捕えた。
三人はひとまず大きい方の部屋に荷物を置き、早速、和菓子をいただいた。
「松江かぁ、確かに北の方に行くと松江だよなぁ。次の取材にとっておこう」
早速、和菓子を平らげた竜成は、取材道具の準備も終わり仕事モードになっていた。温泉と懐石料理は夜に取っておくとして、いよいよ出雲観光いや取材だ。
落ち着く間もなく、三人は再びレンタカーに乗り込み、元来た道を戻り山陰道を東へ進んだ。目的地は八重垣神社である。陽一は予め出雲地方の有名な神社をガイドブックで探し、この神社がある理由で女性に人気があることを知った。そして、陽一にもご利益があるかもしれなかった。
「八重垣神社ってどんなところなの?」
実は陽一はりらに一つお願いをしていた。ガイドブックやインターネットで出雲地方のことを調べないでほしいと。ある意味、無謀なお願いをしたなと思ったが、りらは「わかった」と承知してくれた。これは陽一なりに考えたサプライズの一環であった。
「まぁ、行ったらわかるから楽しみにしてて」
神社に着くと、年齢はばらばらだが参拝客のほとんどが女性であった。
「ここはね、スサノオノミコトとクシナダヒメ夫婦を祀ってあるんだよ」
本殿に向かって歩きながら、陽一は説明し始めた。りらの表情を見ると、興味が高まったようだ。
「境内には鏡の池っていうのがあって、クシナダヒメが使ったと言われてる。社務所で占いの紙をもらって、池に浮かべると、文字が出てくるしくみになってるらしいよ」
「なるほど、恋愛にご利益があるんだな」
竜成はプロ仕様のカメラを抱え、シャッターを切っている。まず、本殿でお参りをしたのだが、スサノオノミコトとクシナダヒメのご神体に向かって、陽一はかなり真剣に祈った。ありきたりだが、ご縁がありますようにと。
「いいことあるといいね」
りらが陽一の顔を覗き込んだ。今日のりらは髪を下している。陽一はその髪を掻き上げたい衝動に駆られた。竜成はというと、形式的に参拝しただけで、あっさりと本殿から離れていた。
「で、社務所で占いの紙を買わないと」
社務所に陳列されているお守りの類は、クシナダヒメに関するものや恋愛に関するものが多く、早速、りらは占いの紙と一緒にクシナダヒメのお守りを買っていた。
境内の左手を行くと、鬱蒼とした森が現れた。いかにも神霊を感じさせるような佇まいに、陽一も竜成もどことなく落ち着かなくなった。
「あ、池が…」
何人か女性がその池の淵にしゃがみこんで、池の水面を眺めている光景が飛び込んできた。その場にいた女性たちが喜びやら落胆やらの声を上げ、立ち去って行ったので、三人は入れ替わりに池の淵にしゃがんだ。
「で、どうするの?」
「紙を池に浮かべて、その上に何でもいいから硬貨を置いて自然に沈むのを待ってるだけ。文字も現れるし、あと、紙が沈む時間も占いの一つ」
「沈むのが早い方がいいの?」
「うん。早いと良縁近し、ってことらしい」
「よし、三人同時にやろう」
競走するものでもないが、三人は同時に紙を水面に置き、硬貨を乗せた。しばらくして、文字が現れた。
「西に待ち人現る。気長に待て」
竜成が最初に読み上げた。次に陽一が言った。
「忍耐せよ。幸は自己の力次第」
最後にりらが声を弾ませながら文字を読んだ。
「ねぇ、待ち人は意外に近し。目を開くべし、だって」
このりらの占い結果は、陽一にとって喜ぶべきものだった。しかし、紙が沈む時間に問題があった。
「お、やった。俺の沈んだ」
竜成は三分ほどで沈んだのだが、りらと陽一の紙は無情にも水面を漂い、それより下に潜ってくれないのだ。
始めは様子を面白そうに眺めていた竜成であったが、なかなか動きのない二人の紙を見て、周囲の写真を撮ることにした。
十分くらい経過した頃、陽一の紙がすっと池の底に引き込まれていった。
「え、何で私の沈んでくれないの」
りらの顔が半泣きになったので、陽一は焦った。俺も困るよ、少なくとも同時に沈んてくれないと。
すると、紙の上の硬貨が傾き、ようやくりらの紙もゆらゆらと池の底へと旅立っていった。
「二人とも終わったの?」
「ようやく」
「しかし、桧枝さんの占いは面白いね。待ち人は近いのに、なかなか結びつかないってことかな」
余計なことを言うなよ。陽一は竜成の腰のあたりを叩いて抗議した。
「王子様はなかなか来ないのかなぁ」
りらは本気でしょげているようだった。陽一がなんと慰めようかと逡巡していると、りらが「見て。何か光ってる」と声を上げた。
いったん池の淵を離れかけた竜成と陽一がりらの指さす方を注視すると、確かに何か光っている。光は三か所から放たれており、他の参拝者たちは自分の占いなどに夢中で全く気付いていないようだった。
りらはもう一度屈んで、池の淵にそっと指先を入れた。
「小さな石かな…」
陽一と竜成も訝しがりながら、りらの真似をした。石らしきものをつまんで水から引き上げると、それは形からすると勾玉であった。りらと陽一が手にしている石は瑠璃色で、竜成のものは琥珀色だった。
「誰かの落し物かな、こういう場所でこんなの拾うとちょっと気味が悪いな」
竜成がつぶやいた。かと言って、池の中に戻そうという気もしない。
「私は持っていた方がいいかなって思う」
りらは勾玉を大事そうにタオルハンカチに包んでいた。
「すごく綺麗な色だし、お守りになるかもしれないよ」
扱いに困っている陽一に向かって、りらが言った。
すると、ひんやりした風が静かに流れていった。そして、気が付くと陽一の隣に見知らぬ老婆が立っていた。小柄で腰が曲がっていて、ちょっと自宅を抜け出してきたというような身なりだ。老婆がきっぱりとした口調で言った。
「その娘さんの言うとおり、勾玉は大事にすること。贈り物だよ。決して誰かに渡したり捨てたりしてはいけないよ」
「え、おばあさん、この勾玉が何か知ってるんですか」
「知るも知らぬも、勾玉は神事に使う大事なものじゃないかね」
言い終わると、老婆は境内へ戻る道とは逆の方向へ歩き出し、鬱蒼と茂った木々の中へ消えていった。余りにも怪しい感じであるにもかかわらず、動揺しているのはりらたち三人だけだった。
「他の人には見えてない…?」
「まさか」
この老婆の出現で、今までの占いの結果などりらの頭の中からすら消えていた。勾玉と老婆は明らかに三人を対象にして現れたに違いなかった。
「とりあえず、勾玉はしまっておこう。罰が当たったら洒落にならない」
「で、どうする?」
三人は顔を見合わせた。そして、りらが遠慮がちに提案した。
「おばあちゃんとこに戻って、温泉入ってから考えない?」
八重垣神社を逃げるように離れ、車内では始終無言のまま玉造温泉の紅玉亭に戻ると、りらの祖母豊子は孫たちの様子が何かおかしいことに気づいた。
「どうしたの?」
「おばあちゃん、神社って不思議なことが起きるのかな」
りらは八重垣神社での出来事を祖母に語った。豊子は深刻そうな孫につられて、眉間にしわを寄せながら聞いていた。豊子自身は神社や神様の不思議な力が実際にあるのかどうかはわからなかったが、確かに宿泊客から、今日、不思議なことがあったんです、などという報告を過去にも何回か受けていたことがあり、頭から否定できるものではないと思っていた。
一通り孫が話し終わるのを待って、豊子は良い解釈を伝えることにした。
「その知らないおばあさんは、別に悪いこと言っていたわけではないでしょう。勾玉を大事にしなさいって言ってたなら、そうしなさいよ」
そして豊子は宝石にはそれぞれ意味があることを思い出し、付け足した。
「瑠璃はラピスラズリだったかしら。真実を見抜く力があるのよ。琥珀は力の源と呼ばれてるんだから。持っていて損はないわね」
「そういうことを聞くと、気味悪がる必要はない気がしてきますね」
陽一は豊子に感謝した。陽一はそれほど自然の石が持つ力などに詳しくないし興味があるわけでもないが、今は嘘でもいいから良い意味付けがほしかったからだ。
「初日から面白い出来事に遭遇したね。記事に書けるよ。陽一、後で八重垣神社の建築史なんかおしえてくれると助かる」
「ああ、いいよ」
竜成も陽一も基本的にはポジティブだ。りらに至っては感覚的にポジティブな言動が飛び出すので、祖母に話を聞いてもらって安心したのか、早速、温泉の話をし始めた。
「おばあちゃん、露天風呂入ってもいい?」
「もちろん。最上階の部屋にも小さいけど露天風呂ついてるから、そっちもどうぞ」
「え、家族風呂的なやつですか。すごいなぁ」
竜成の表情も明るくなった。豊子に、湯に浸かった後、夕飯を食べると告げ、三人は自室へ戻った。
日もだいぶ陰ったとはいえ、まだまだ蒸し暑い。ロビーの自販機で炭酸飲料を買って、陽一と竜成は畳に寝そべった。天井の照明器具は涼しげな和紙で覆われており、壁には絵筆で描かれたヤマタノオロチとクシナダヒメ、そしてスサノオノミコトが躍動していた。
「ねぇ、二人とも、私、こっちの部屋一人で使わせてもらうけどいい?」
りらが荷物を抱えて、二つの部屋を仕切る引き戸の前に立っている。
「そっちの部屋はちょっと広いから男性二人でも狭くはないよね」
部屋割りのことを考えていなかったが、この期に及んで陽一がりらと同じ部屋を希望するわけにもいかず、そのままりらは当然のごとく仕切りの引き戸を閉め、ロックしてしまった。
「俺は気にしないから、後で桧枝さんの部屋行って来れば? 戻ってこなくていいから」
竜成がにやにや顔で言った。
「無理だよ。ロックした音聞こえただろ。初日から焦っても良くないよ」
「まぁね」
竜成は寝そべったままノートに何か書き込んで動こうとしないので、陽一は洗面所からバスタオルを持ち出し、部屋に隣接する家族用の露天風呂に行くことにした。
目の前に座っているその女性は普段に増して陽一の心を落ち着かなくさせた。桜色に染まった頬と唇、しっとりとした肌。
「いいね、桧枝さん。水も滴るいい女って言葉がぴったりだね」
またしても竜成が余計なことを言う。
それぞれ温泉に入った後、待ち合わせて離れの座敷に赴いた。宿泊客は夕食の開始時間を五時半か七時か選ぶようになっており、陽一たちは後半を選んでいた。中庭の灯篭がちらちら淡い光を躍らせている。
ビールが運ばれてきた。お互いのグラスにビールを注ぎ、陽一が乾杯の音頭を取った。
「素晴らしい休暇だね」
「え、竜成は仕事じゃないの」
竜成と陽一のやりとりに、りらは笑った。りらもそこそこ酒は飲むので、気を遣わなくて助かる。宍道湖の珍味の一つシラウオの刺身や土瓶蒸し、甘鯛の湯葉包み、島根和牛の焼きしゃぶ、そして締めは出雲ソバと料理が次々と運ばれて、若い胃袋を満足させた。
「お味はいかがでしたか?」
デザートの柚子シャーベットを食べていると、豊子が挨拶に来た。
「とても満足してます」
「それは良かったわ。しばらく座敷にいてもいいし、二十四時まで入口は開けてあるから、散歩してきてもいいですよ。今着てらっしゃる浴衣は、この温泉街だったらそのまま外を出歩けますから。それと、朝食も同じ座敷ね」
「色々ありがとうございます」
順番に挨拶をしているため、豊子が隣の部屋へ移ると、りらは携帯電話の時計を見て、「ちょっと先に失礼するね」と言って、座敷を出ていってしまった。
最上階の部屋に戻ると、敷布団が用意されていた。旅館に来たんだなぁと思う。せっかく気持ちよさそうな布団が敷かれているが、陽一はりらの行方が気になり、一階ロビーへ出てみることにした。
「竜成、俺、ちょっと出かけるけど」
「いいんじゃない? ちょっと俺は編集チームにメールしなきゃいけないから」
こいつ、意外と仕事熱心なんだな。陽一は一人で行動できることにほっとして、一階へ下りた。
ロビーのソファに座りながら、陽一は中庭をぼんやりと眺めていた。離れの座敷の方からは食器を片づける音が微かに聞こえ、時々、共通の露天風呂に行ったり来たりする浴衣姿の客の声もした。ずっとロビーにいても仕方がないと、玄関を出ようと立ち上がった時、りらがロビーの奥からやって来た。
「桧枝さん、どうしたの」
そのまま立ち去ろうとしたりらの手首を、陽一は思わずつかんだ。陽一を見上げたりらの両目は少し赤く潤んでいた。
「外に行こう」
りらが大人しく頷き、陽一に従ってついてくるそぶりを見て、陽一はそっとりらの手首を離した。このまま手をつなごうとするのは何か卑怯な気がしてしまった。
夜になりようやくしのげる暑さの外気に、時折、涼しい風が吹き抜けていく。
「きれい…」
りらが息を飲むようにしてつぶやいたのには訳があった。河原には無数の灯篭が並べられ、温泉街全体がオレンジ色に包まれていた。駅方面へ向かって川沿いを歩くと、提灯を下げて散歩する人や、河原に設けられた足湯に浴衣のままつかっている女性客がちらほら見られた。
「で、どうしたの? 俺に話してくれる?」
陽一はりらの様子を伺いながら聞いてみた。りらの視線は河原の灯篭に向かっていた。
「さっき、おじいちゃんに会ってきたんだ」
「あまり良くないの?」
「ううん、そうじゃなくて、おじいちゃんは全然元気で色々話をしてたら、お母さんに似てるって言われたの。長柄くんに言ってたかわからないけど、私のお母さん、中学生の時に亡くなって…」
そこまで言って、りらは黙ってしまった。陽一は豊子がりらに「咲夜の若い頃そっくりね」と言っていたことを思い出した。りらの母親が既に他界していることは初めて知った。りらはしばらく玉造温泉を訪れていなかったというから、祖父母が孫の成長した姿を見て、早くに亡くなった娘と重ね合わせたことは想像に難くない。
「お母さんもきれいな人だったんだね」
「だんだん」
りらは真っ直ぐ陽一の目を見ながら答えた。
「だんだん?」
「ありがとうってこと。ここの言葉」
「ああ、いい言葉だね」
りらは笑顔を取り戻した。そして、思い出したように首元に手をやり、何やら紐を手繰り寄せた。引き出した紐の先には、あの瑠璃色の勾玉が通してあり、温泉街の無数の光を受けて深く淡く輝いていた。
「ほら、あの知らないおばあさん、勾玉のこと贈り物って言ってたでしょ。出雲にいる間は身に着けてみようかなって…」
「そうだね。俺はずっと財布に入れっぱなしだ」
「それでもいいんじゃない?」
りらは勾玉を浴衣の下にしまわず、勾玉が見えるようにそのまま下げるようにした。
「桧枝さん、気づかなかったけどピアスの穴、開けてたんだね」
「そうだよ。学生の時からずっと。就職してから、あーいう職場だから普段はつけられないし、なんとなく最近は耳元が寂しいかも」
それなら俺が君に似合うピアスを見つけてあげるのに。温泉街の程よい喧噪が夏の夜に広がり、それがかえって二人だけの空間を切り離していた。
りらの黒いセミロングの髪がさらさらと揺れるたび、甘い香りがする。今なら手をつないでみてもいいかな。落ち着きを取り戻したりらの顔を見て、陽一はそろそろと手を伸ばした。あと一センチでりらの指先に手が届く。その瞬間、
「あ、見て」
りらの体が不意に陽一から離れていった。りらの視線の先には、カメラを手にした竜成がいた。あまりにも予想外のことで、陽一は呆然としたが、どうやら驚いているのは竜成も同じだったようだ。
「二人ともこんなところにいたんだな、気づかなかった」
「仕事は?」
「いや、今も仕事中だったんだけど。編集チームの後輩から、玉造温泉の夜はライトアップがきれいだからちゃんと写真に収めてくださいって連絡が来てさ」
陽一は突如気が抜けた。誰のせいでもなく、陽一の史上最大の試みが失敗に終わったのだ。竜成はこちらに気づかず、河原の写真を撮っていただけで、偶然にりらがそれを見つけてしまっただけの話なのだ。
――忍耐せよ。幸は自己の力次第
八重垣神社の占いは結構当たるのだろうか。
この日は、五十里潤にとって忘れられない一日となった。地下の国から新鮮な空気を吸いに地上に出てきたかのように、潤は深呼吸をし、どこまでも遮るものがない空を見上げた。雲一つない鮮やかな青色を背景に、白く厚塗りされたような入道雲が存在感を見せていた。
このところ仕事が忙しかった。潤の仕事は、航空管制だった。初級幹部であるので、この先、ずっと現場にいることはないが、今は滑走路と飛行機が見える管制塔での勤務にいそしんでいた。実任務も訓練も盛りだくさんの毎日であった。
昨晩、潤は訓練を終えると真っ先に彼女である黒辺貴子に電話をし、翌日のデートの約束の確認をした。貴子はシフト制の勤務をしているため、今月はちょうど潤と同じ日を休日にすることができ、二週間ぶりに会うことになった。二十分ほど話し、電話を切ると、からかうような声をかけられた。
「五十里二尉、彼女さんっすか? 早く結婚してこんなとこ出た方がいいっすよ」
「そうは言っても、色々あって大変だぜ」
声をかけたのは潤の部下、川田士長だった。潤は航空自衛隊の若手幹部で、最初の赴任先が美保基地の美保管制隊という、民間の米子空港の管制も担う部隊であった。
美保基地は鳥取県弓ヶ浜半島の中央部に位置し、米子空港との共同飛行場を持っている。戦前は海軍航空隊の基地であったが、昭和三十三年に連合軍から返還されて航空自衛隊の基地となり、全国の自衛隊の基地に隊員や物資を輸送する第三輸送航空隊を主力としておいている。
「まだしばらくここにお世話になるかなぁ」
潤は苦笑した。ここ、というのは基地内の宿舎である。自衛隊の生活はなにかと規則が多いものの、外出や外泊は許されているので、衣食住が政府から支給されている基地の生活も楽と言えば楽なのである。
ともかく、潤は仕事を忘れて貴子とのデートを楽しんでいた。潤が美保に赴任することが決まった時、既に六年以上も遠距離恋愛を続けてきた二人は久しぶりにお互いの存在を身近なものに感じることができた。そしてなるべく休日は一緒に過ごすようにしていた。
朝早く潤は自分の車で美保基地を出発し、中海を北側から迂回するように松江へ向かった。くにびき大橋を渡り、松江駅を通過してしばらく行って右折する。貴子は松江市街のマンションに住んでおり、潤は合鍵をもらっていた。
「潤くん!」
貴子は既にマンションの玄関前で待っていた。白いワンピースに籠バッグという夏らしい装いだった。
「暑いから中で待ってればよかったのに」
「気になって、待ってられなかったの」
松江の市街地を走る車の中で、貴子は女子大時代の部活動を思い出していた。貴子は高校時代から弓道部に入っており、高校でも大学でも主将を務めるほどの腕前だった。薬学部の勉強はそれなりに大変ではあったが、部活動も続け、気楽な仲間たちと汗をかきながらキャンパスライフを謳歌していた。
大学三年の秋、東海地方の十大学が集まる武道大会で、その事件は起きた。貴子が主将を務める東海国際女子大学弓道部は順調に決勝進出を果たし、後輩たちに決勝戦への気合いを入れた後、貴子は一人、気分転換をするため弓道場の外へ出た。
武道大会の会場となっているスポーツセンターは、弓道以外にも合気道、剣道、柔道の試合も行われており、負けん気が強い学生たちがせわしなく動いていた。貴子はすれ違う同じ大学の別の部員に「お疲れさん」「がんばろうね」と声をかけ合いつつ、お茶を買い足そうと自動販売機に向かっていた。
「黒部貴子、待ちなさいよ」
突然、聞きなれない声が貴子を呼び止めた。そしてその後、起きた出来事は一瞬のことで何が何だかわからなかった。
「痛っ」
貴子は自分が叫び声を上げていることすら自覚していなかった。
「誰か救急車、呼べ!」
そんな声が聞こえた。貴子を呼び止めた女子学生が、果物ナイフで貴子を切りつけてきたのだった。鬼のような形相をした女子学生は、「何で私から全てを奪うの!」などと叫びながら、貴子に襲い掛かる。貴子はパニックに陥りながらも相手をまっすぐ見ると、それはさきほど東海国際女子大学と対戦し、僅差で負けた弓道部の主将だった。
「どうして…?」
かすれた声を出した時、貴子は自分の体が宙に浮いたような気がした。幻覚ではなかった。
「大丈夫、あの女は取り押さえられたから。君の怪我も大したことないよ」
冷静に話しかけてきた男子学生が、自分の体を抱きかかえているのだと理解した時、貴子は更に動揺した。貴子を包む筋肉質の腕の持ち主は、五十里潤だった。
「黒部さん!しっかりして」
「先輩、大丈夫ですか!?」
貴子と潤の周りに、部活の仲間や大会関係者が集まってくる。幸い腕の怪我は浅く、消毒と包帯を巻いて止血することで済んだ。
貴子を突然襲った女子学生は、精神的に異常状態であった。完全に妄想なのだが、自分が好きな男子学生と貴子が付き合っていると思い込んでおり、日頃から貴子を憎く思っていたところ、試合でも負けてしまった。そして、貴子を傷つけるに至ったらしかった。
「試合には出ます」
怪我の治療が終わると、貴子は立ち上がった。
結局、全体的な力量不足で東海国際女子大学の弓道部は二位となってしまったが、貴子にはかけがえのない出会いがあった。
「さっきは、どうもありがとうございました」
武道大会が終わった後、急いで助けてくれた男子学生の元に走った。
「試合、見てたよ。大怪我じゃなくてほんと良かった」
潤は竹刀の片づけをしているところだった。潤としては、周りが混乱していた状況で誰も貴子を助けようとしなかったのを見て、体が動いたのは当然だった。危険を顧みず人を助けるという行為は、今の職業に通じているのかもしれない。
八重垣神社が近づいてきた。
「ねぇ、潤くん。そういえば、何で自衛官になったの?」
「え、特に深い考えがあったわけじゃないよ。管制の仕事に興味があったのと、体動かすの嫌いじゃなかったから面白そうかなって」
潤は国立大学で物理学を専攻し、大学院に進むことなく一般大学卒業生として航空自衛隊幹部候補生学校に入校した。もともと剣道部で鍛えていたから体力面はなんとかなったし、第五術科学校での航空管制技術の勉強もひどい結果に終わることはなかった。
「何で急にそんなこと訊いたの?」
「大学時代のこと思い出して、あの時は、二人とも遠距離になるとか、地元とは離れたとこで働くとか想像してなかったなぁと思って」
「まぁそうだね」
潤は車を降りると、また貴子のバッグを持ち、空いた手で貴子の手をつないだ。久しぶりに触れた彼女の手は少しひんやりしていた。
「ごめん、クーラー寒かった?」
「そんなことないよ」
貴子はいつも潤がさりげなく気を遣ってくれたり、心配してくれるのが嬉しかった。大学三年の秋、とっさに貴子を抱きかかえてくれた時から、潤は貴子を守ってきたし、何年遠距離であろうとも、それは続いてきた。貴子はこの先もずっと潤が傍にいて自分を守ってくれると疑いなく信じていた。
神社の境内はやかましいくらいのセミの声が響いていた。お賽銭を投げ入れてお参りをした後、二人はペアのお守りと占いの紙を買った。
「何が書かれてるのかなぁ」
貴子は紙を太陽の光に透かして文字を見ようとしていた。
「あ、それズルいよ」
潤は貴子の仕草に笑った。
森が風でざわめき、池の水面がわずかにさざ波だっている。
「じゃあ、いくよ」
先客たちの間に入らせてもらい、二人は硬貨とともに紙を池に浮かべた。ほどなくして文字が浮かび上がった。
「迷うことなかれ。道は一つ」
最初に貴子が結果を読んだ。
「新しき道に真実あり、か。お互いまともな言葉で良かったね」
紙が沈む時間は長かったような気がしたけれど、大切な人は隣にいるわけだし、遠距離恋愛だったし、潤も貴子も特に気にすることなく、「面白かったね」と言い合って池を離れようとした。
再びつないだお互いの手が心地よかった。しばらく前から、貴子は潤を未来の夫だと考えるようになっていた。そろそろ潤からプロポーズの言葉が出てきてもおかしくなかった。
潤はというと、やはり漠然とこのまま貴子と結婚するような気がしていた。しかし、航空管制の仕事が面白く、二十代後半にして部下が何人もいることにやりがいを感じ、どうしてもベースが職場になってしまう。そのうち、ちゃんと考えることにしよう、と潤は後ろめたさを感じつつやり過ごしていた。
太陽に厚い雲がかかり、薄暗い森に更に影が差した。境内では聞こえていたセミの鳴き声は全く聞こえない。静寂の中、何かが池に落ちたような音がして、潤は反射的に振り返った。
「貴子、ちょっと待って」
「どうしたの?」
潤は池の淵に用心深く目を凝らした。やはり。
「空から落ちてきたのかなぁ」
視力の良い潤の目が小さな光る物体を的確に捕えていた。
「そっちにもあるよ」
潤は貴子の足元を指さした。
「ぞくぞくするね、こういうの」
深い青色の勾玉が潤の手のひらに鎮座している。急いで貴子も池の淵から光る物体をつまみ上げた。
「琥珀だ。高価なアクセなのに、どうしてこんなところに」
怪しく光る飴色の勾玉に顔を近づけた時、
「贈り物だからだよ」
突然、老婆の声がした。それは明確に聞こえたにもかかわらず、他の参拝客は変わらず自分たちの世界に入り浸っているようだった。
「おばあさんが私たちにくれたんですか?」
「決して捨てたり誰かに渡してはいけないよ。道しるべなんだから」
老婆は貴子の質問には答えず、一方的に告げた。そして、不意に頭上から強い太陽の光が差し込み、潤と貴子は眩しさに一瞬目を閉じた。
「うそ… いない」
「夢じゃないよな」
あの謎の老婆は消えていたが、依然として手のひらにはひんやりとした勾玉が転がっていた。不思議な出来事に落ち着かなくなり、貴子は潤の腕を強くつかんで、早くここを出ようと促した。
こういう非科学的な現象が起きた時、潤はどこまでも合理的に考えようとするタイプであったが、同時に現象を受け入れる柔軟性も持ち合わせていた。確か、老婆はこの勾玉を贈り物だと言っていた。
ということは、その言葉を額面通り受け取るなら、呪われた秘宝だとか邪悪な石だとかの類ではなく、お守りの一種として与えられたということではないか。
「貴子、とりあえずこの石は持っておこう。あの婆さんが何者かわからないけど、ここの神社って縁結びや恋愛に関係してるだろ。悪いものじゃないよ」
「うーん、潤くんがそういうなら…」
納得したのかどうかわからないが、貴子は少し冷静になったようだ。
二人は再び車に乗り、宍道湖沿いに松江道路を進み、西の出雲大社へ向かった。
時間は少し遡り、りらたちが八重垣神社を訪れる数日前、実は同じ奇妙な体験をした若い女性が一人いた。徳永美輝は今まで勾玉を拾った五人の中で最年少の二十三歳で、派手なネイルアートと個性的なファッション、そして長い髪が人目を引いた。陰鬱で霊的な雰囲気の森の中では、明らかに場違いな見かけであった。
「美輝の紙は何て書いてあった?」
一緒に八重垣神社へやってきた仲間が無邪気に訊いた。
「ん、運命を受け入れるべし、待ち人遠からず、だそうな」
美輝は長い髪が池に濡れないように気を付けながら、硬貨と占いの紙が沈むのを見守った。だいたい仲間と同じくらいの速さで沈むと、美輝は彼女らと「良い出会いあるのかなぁ」と笑いながら立ち去ろうとした。
美輝は母親がピアノ教師をしていて、生まれた時から華やかな音、リズムとメロディーに満ちた毎日を送っていた。しかし、特段、娘には音楽の才能はなかった。母親は少し落胆したが、その代わりに娘は母親のピアノに合わせて、体を動かすことをお気に入りの遊びにした。
「猫みたいだわねぇ」
母親は美輝が目をキラキラさせながら全身で踊る姿を見てそう言った。美輝は子供の頃からダンス教室に通い、高校でもダンス部に入り、勉強は赤点だけはかろうじて取らないくらい最小限のエネルギーで、残りの時間はダンスに費やした。
東京生まれ、東京育ちの美輝が松江市にいるのは、美輝が所属する東京パフォーミングアーツ学院舞踊部門が松江市と出雲市のシティーホールで和をモチーフにしたダンス公演を行っているからだった。
「たまには和風もいいもんだね」
「部長のセンスは計り知れないな。どんどん世界が広がるっていうか、すごいよね」
「あー、あたし、ダンスやってて良かった!」
美輝は松江での一回目の公演が終わった後、仲間とともに興奮しながら自由に体を動かす喜びを語り合った。
キャット。専門学校での講師や振付師は、美輝をそう呼ぶことが多かった。見た目や性格もどことなく猫に似て、体が柔らかく、その跳躍の美しさには定評があった。
美輝たちが鏡の池を離れ、境内への道を戻ろうとした時、美輝は一本の木の細い枝にペンダントのようなものが引っかかっているのを見つけた。
「待って。何か木にぶらさがってる」
「誰か落としていったんじゃないの?」
手を伸ばして、その物体をよく見ると、引き込まれてしまうような深い青色の勾玉だった。
「これ、ラピスラズリでできてるのかな」
美輝はパワーストーンの類が大好きで、必ずと言っていいほど、自分の装身具には取り入れていた。
「スマホのストラップにしちゃおうかな」
「え、誰のかわからないのに、やめなよ」
仲間が苦笑しながら制止したが、美輝は勾玉を手放さなかった。すると突然、声が聞こえた。
「大切にするといい。贈り物だよ。誰のものでもない。あんただけのものなんだから」
「え?」
声のする方に振り向くと、驚くべきことに老婆が池の対岸の淵にたたずんでいた。目の前に参拝客がたくさんいるにもかかわらず、誰も老婆に視線を向けていなかった。美輝の仲間も、池の方へ振り返った美輝を怪訝な顔をして見つめているだけであった。
「なんか、あたし、おかしいのかな。おばあさんの声がしたような気がした」
仲間の方に体を向けて、つぶやくように告げ、また確認しようと池を見やると、もうそこに老婆の姿はなく、池の周りには美輝たちと同じような若い女性たちが楽しげに群がっているだけだった。
「早く行こうよ、美輝。スイーツ食べるんでしょ」
「うん」
仲間が歩き出してもしばらく立ち止まったまま、美輝は手にした勾玉を見つめていたが、思い切って勾玉を首に下げた。もともとたくさんの装飾品で飾られているのだから、一つくらい増えても目立つまい。それに、このパワーストーンは手放すには惜しいほど美しかった。
この日、美輝と仲間たちは松江のスイーツを堪能し、工芸品を見て回ったが、やはり瑠璃色の勾玉より心惹かれるものはなかった。次の日からまた二日間、全力で松江の舞台に上がり、次に出雲市へ移動した。午前中のミーティングが終わると午後は自由行動だ。美輝たちは出雲大社へ足を運ぶことにした。
快晴。空には遮る雲も、飛ぶ鳥の影もなく、出雲大社は残暑に見舞われた。陽一らは、玉造温泉から西へ向かい、国道九号線で斐伊川を越えた。ヤマタノオロチは、しばしば氾濫し赤い濁流となった斐伊川を表しているとも言われる。
「いよいよ、取材のメインだな」
出雲大社の駐車場から、正面の鳥居へ移動する。入口の鳥居は何か冒険の始まりを予感させた。松並木の参道を黙々と歩き、三つ目の鳥居にたどり着いた。この先が社殿の集まる場所だ。
「兎がいるよ」
竜成が指さす方には、人間と兎の銅像が建っている。
「これ、オオクニヌシノミコトと因幡の白兎だよ」
「どういう話なの?」
「それはですね~」
りらは得意げに話し始めた。
「オオクニヌシは優しい神様で、少年だった頃、傷ついた白兎に治療方法を教えてあげたの。まぁ、この兎は自分が悪いんだ。サメを騙してしまったために、皮をはがされたんだけどね。最初、オオクニヌシのお兄さんたちが嘘の治療方法を教えて、全身傷だらけになってしまったの。その後、オオクニヌシが正しい治療法を伝えて、助かった兎は予言するの。ヤガミヒメはあなたの妻になるでしょうって」
「ヤガミヒメって誰?」
「因幡に住んでた美人の女神で、オオクニヌシのお兄さんたちが求婚してたんだけど、結局は白兎の言うとおり、オオクニヌシと結婚したんだって」
「桧枝さん、こっちの像は何かわかる?」
白兎の像の反対側には、またオオクニヌシの像があった。跪き、両手を天にかかげている。その前には、波間に丸い玉が乗っている像もある。
「うーん、こっちはよくわからない」
りらは首をかしげた。この像はムスビの御神像と言って、オオクニヌシが海神から不思議な魂を授けられ、縁結びの神になった場面を表している。どうやらオオクニヌシは成長して一人前の神になったようだ。
両手と口を清めた後、鳥居をくぐる。出雲大社は他の神社とは一味違う。例えば、参拝する時の柏手は二回ではなく四回だし、いわゆる神在月には全国の神々が集まるため、境内の東と西に長細い神々の宿泊所があったりする。
「噂には聞いてたけど、巨大だなぁ」
陽一は神楽殿の正面にかかっている注連縄を見上げた。遠くの空に、何か飛行機の音がしたような気がしたが、その時、陽一は特に気に留めることはなかった。
境内には参拝を終えた潤と貴子が仲良く手をつないで歩いていた。その十メートル後方に、カメラを手にした竜成と今夜の夕飯をどうするか相談する陽一とりらの姿があった。この四人の左方で、美輝が神馬・神牛の像を触ったり写真を撮ったりしていた。
おそらくこの五人はその人生において、すれ違うことも、会話を交わすこともないはずであった。ところが、古代から続く出雲大社の上空に、現代最先端技術を詰め込んだ飛行物体が現れた時から、何かが変わり始めた。
「今日の空は快適ですね」
「そうだな。任務も問題なく終わりそうだ。美味いビールが待ってるぜ。そろそろ帰投する」
「よし、全員、配置につけ」
通称ホークアイと呼ばれる米海軍の早期警戒機E2-Cが山口県の岩国基地から飛び立ち、任務を終えて再び基地へ戻るところであった。
しかし、ホークアイは出雲大社付近を通過しかかった頃、その動力を支えるエンジンにトラブルが発生した。乗組員は必死に応急措置をとったが、ホークアイは元気を取り戻してくれるどころか、火花をまき散らしながら高度を下げていった。陽一が上空で飛行機の音を聞いた気がしたのは、ホークアイのうめき声だった。
「おい、あれは何だ」
お守りを買うために並んでいた参拝客が、空から招かれざる客が降りてくることに気づき、周りの参拝客も次々と上を見上げ始めた。
潤はパイロットとしてもやっていけるほどの良い視力で、その飛行物体が米軍機であると識別した。
「貴子、まずい。逃げよう」
潤はいち早く、貴子の手を引いて鳥居の方へ向かった。
ほどなくして、瀕死のホークアイは火の鳥のように翼に炎を輝かせ出雲大社に舞い降りてきた。墜落した衝撃と爆発音が神聖な空間に響いた。
「ちょっと、何やってんだよ、竜成! 逃げるぞ」
竜成は真剣な表情をしてカメラを上空へ向け、シャッターを切り続けていた。墜落した瞬間も、炎上した後もファインダーから目を離すのを止めなかった。
ホークアイはこともあろうに御神体が祀られている御本殿を直撃した。上空にどす黒い雲が立ち上り、瞬く間に火災が広がった。
「桧枝さん、走って」
「どこへ行くの」
「遠くへ。鳥居の方に向かって!」
ようやく竜成も写真を撮っている場合ではないと、逃げる姿勢を見せ、三人は銅の鳥居をくぐった。
潤と貴子は既に松並木の参道を駆け抜けており、美輝もその後ろをひた走っていた。さらに少し後方に続いて、りらと陽一、そして竜成が出口を目指した。参拝客が逃げ惑っているが、ここにいる誰もが逃げることに必死で周囲を見渡す余裕はなかった。
「もうすぐ外に出られる…」
潤は貴子の肩を抱きかかえるようにして、正面の鳥居を突破した。なだれ込むように鳥居の外へ向かう参拝客の中に、美輝、りら、陽一、竜成の姿もあった。鳥居をくぐる時、りらは胸のあたりが明るく光っているような気がした。
大半の参拝客が神社の敷地から離れたが、若者六人が跡形もなく消えていた。オオクニヌシと白兎にも、その行方はわからなかった。