第8章 <4>
日暮れも追っているので、不破からの部隊は鈴鹿駐屯地で休息し、明朝、山脈を越えて乃楽へ向かうことになった。
「よう、意外と元気だな」
市場がお開きになった後、竜成はスープのようなものを啜っている美輝に声をかけた。
「もう、へとへとですよ。まだ始まってないのにみんながっつきすぎ~」
「農民は普段、肉とか栄養のあるもの食べられないから仕方ないよ。桑名にいた時、サララから聞いたんだけど、本当は戦の時の食べ物も武器も農民が持参しなきゃいけないんだって。でも、今回は特別にオオシアマが一部用意することにしたみたいだね」
駐屯地のあちこちに松明が灯ると、鈴鹿山脈が黒い影となってそびえているのがよくわかった。天然の要塞が東国をオオトモ軍から守っているのだ。しかし、明日この山を越えればいつ敵と遭遇し戦闘になるかわからない。
「タツナリ殿、ちょっと着替えて一緒に来てください」
鈴鹿軍団の庁舎を休息場所としていた菟が突然、外の掘っ立て小屋付近に現れた。鎧は外しているが、随分と小綺麗な格好で、竜成にも新しい服を着るよう指示する。菟は隣に座していた美輝にも女嬬としての服装をして同行するよう求めた。一体どういうわけかはわからない。
支度を済ませると、馬が用意されていた。
「すぐそこの鈴鹿の津まで走ります」
「何があるんだ?」
「行ったらわかりますよ。懐かしい御方に会えます」
懐かしい人ということは以前、この世界で会ったことがあり、最近まで接触していない人物ということだが、竜成はすぐに思い浮かばなかった。
古代の伊勢国の港といえば安濃津であるが、鈴鹿評の軍団から近い場所にも津が設けられていた。海岸が近づくにつれ、海上に大量の明かりが浮かんでいるのが見えてきた。船が20隻以上も停泊しているのだった。
「ここで待ちましょう」
菟は下馬して緊張した面持ちで海の方を向いた。竜成と美輝もそれに倣う。桟橋に着岸している船からずらずらと人が降り、まず中年男性がこちらにやってきた。
「お迎えが遅れて申し訳ございません、金押實殿」
「こちらこそ、何とか間に合いましたな。半数の船は既に難波津に向かわせたところです」
名前こそ記憶に留めていなかったが、この男に見覚えがあった。そうだ、ちょうど去年の今頃、オオシアマと一緒に大宰府へ出張した時に新羅の使節団と面会したのだった。押實は使節団長で専らオオシアマと話し込んでいた。確かに懐かしいと言えばそうだが、竜成はほとんど彼と話をしなかった。
すると、後方に控えていた集団から一人、暗がりではっきりとは見えないが若い男性が歩み出てきた。押實と菟は一歩下がって場を空け、脆いた。
「元気にしてたか、鄭殿」
「……え、あなたは朴殿、ですよね?」
目の前にいるのは確かに新羅の若き外交官、朴孝恭である。しかし、上司であるはずの押實が恭しく頭を垂れているのはどうしたことか。一年間で孝恭が相当の昇進を果たして立場が逆転したのか。新羅の使者と初対面の美輝はぽかんとしているが、竜成の方が混乱している。
「鄭殿、俺は大宰府で、君の望みが叶うよう努力しよう、と言ったのだが、覚えてるか?」
そういえば、この男は去り際にそんなことを言っていた。まだカヅラキ大王の治世で、竜成はオオシアマの方針を代弁して、大和はどことも同盟を組まず、内政を充実させるのが望みだと孝恭に告げたのだった。
「それから、俺はこうも言ったと思う。大王が真に相応しい治天の君であったなら、他国の影に怯えることはない、と」
「覚えてます。でも、どうして――」
最も疑問に思うのは孝恭の雰囲気である。大宰府で話した時も彼は有能さを漂わせていたが、今はそれよりも堂々として尊大ですらある。それに、深紅の絹で織られ、金色の刺楠が施された豪奢な外套を羽織っている。
「……俺の本名は金政明。7年前に新羅国の太子に立てられた」
「太子って…… 国王の息子なのか!?」
驚きを含む質問に、孝恭は素直に頷いた。第一印象として確かに自信たっぷりな若者だとは感じていたが、まんまと欺かれた。次期国王ならば「上司」と意見が違うにも関わらず、余裕綽々に構えていられるはずだ。
「俺は父王から依頼されて非公式でオオシアマ王を援助するために船団を率いてやってきた」
なるほどそういうことだったのか。
「オオトモ王子が即位したら、前大王のように百済や高句麗の復興に手を貸し、新羅による半島統一の邪魔をすることになるから?」
「そんなところだ。オオシアマ王ならば大陸や半島の国々と無用な戦を起こすことはないだろうし、大和が強く安定してくれれば、我が国も心置きなく内政に専念できる」
「それはわかりますが、太子自ら軍を率いて来るなんて予想外でしたよ!」
そこで初めて孝恭は楽しげな笑みを見せた。
7月3日、低丘陵である乃楽山の山頂に、大伴吹負は自陣を構えた。飛鳥に集結した兵力をごっそりと配下に組み入れ、その後北進してこの位置でオオトモ軍を迎え撃つのだ。
今のところ、まだ北方にオオトモ軍の姿は見えない。もし潤が吹負の部隊にいたら、この地をとても懐かしく思っただろう。乃楽山の南は、1300年後には潤が最初に教育を受けた空自の奈良基地が存在するのだ。
吹負は深刻な情報に直面していた。タケチが送った味方の斥候から、河内方面にオオトモの大軍が控えており、進軍を開始したという報告を受けた。河内の将軍である壱伎韓国 (いきのからくに)が率いる敵は1万はいるとのことだが、高安城付近を防衛している我が方の坂本財の兵力はわずか300騎である。他にも佐味と鴨が数百騎ずつで大和と河内の間の道を防衛していたが、吹負は挟撃されることをほとんど想定しておらず、完全な手落ちである。
しかし、千騎にも満たない兵力しか配備していなかった理由もなくはない。河内の国宰の来目塩籠がオオシアマ側に加勢し、その軍を集めているという情報を得ていたからだ。
「将軍、申し上げたいことがございます」
「何だ、言ってみろ」
眉間に皺を寄せて西方をにらみつけていた吹負に、部下の荒田尾赤麻呂が進言を求めた。荒田尾氏もまた、カヅラキ大王に取り入ることなく飛鳥に留まった渡来系氏族だった。
「我が軍は数千騎で乃楽にやってくる敵を討とうとしておりますが、西からも攻められるとなると北方に全力を集中させることができなくなります。飛鳥宮は本営です。なんとしても死守しなければなりません。しかし、飛鳥宮を守る兵力が少なく、甚だ危険な状態ではありませんか?」
吹負は首肯し、直ちに赤麻呂と忌部子人に千騎を分け与えて飛鳥に送り出した。こちらは大津宮を陥落させ、敵は飛鳥宮を奪還することが最終的な目標なのだ。飛鳥宮が敵の手に渡ればそれは即ち敗北である。
赤麻呂と子人は玉のように流れ落ちる汗を拭う暇なく、飛鳥の防衛に工夫を凝らす作業に取りかかった。兵士たちに命じて、飛鳥宮の道路の両端をふさぐ板をことごとく取り外させ、即席の盾を作り、京の端に何重にも並べさせた。遠くから見て、大軍が守りを固めているように偽装したのだ。
さて、河内の坂本財は先日、少数のオオトモ軍が占拠していた高安城を奪って駐屯していた。たいした損害なく敵を追い払うことができたので、財は少し安心していた。ところが、城の楼閣に上ると南西の方角に明らかに軍勢と思われる人影がうごめいているのがわかった。真新しい軍旗が自信に満ちた様子で翻っている。
「昨日までに追い払ったやつらは、俺たちをここまでおびき寄せるための囮に過ぎなかったんだ……!」
全ての兵を城から出し、衛我河を渡ってその西側に待機する。鼓動の音が前方からやってくる地鳴りと重なる。財の300騎を飲み込もうとしているのは数万の兵士たちだった。
古市古墳群の合間を縫って、敵軍が近づいてくる。古墳に眠っている二人の大王、タラシナカツヒコとホムタワケの加護は見込めそうにない。
「退却せよ! 河を引き返し、懼坂の陣まで退却せよ!」
まともに戦って勝てる軍勢ではなかった。財は全軍を引き上げさせた。
不戦勝を勝ち取った河内将軍の壱伎韓国は従軍している女嬬から冷たい水を受け取り、一気に飲み干した。
「明日はこのまま河内のオオシアマ軍を蹴散らして、飛鳥へ突入するぞ」
士気の高いまま早期に敵の本拠地を奪還し、東国戦線に合流すれば数日で決着がつくに違いない。韓国はオオトモ軍を勢いづかせることができ、勝利に導いた功績の見返りを想像しほくそ笑んだ。
ところが、敵が敗走した直後に思わぬ事態が生じた。
「だ、大事が発生したしました、将軍!」
「どうした。財の部隊が引き返してきたとでも言うのか?」
「いえ、河内の国宰がオオシアマと通じていたことがわかりました」
「……!? 来目が? あり得ん!」
河内の国宰は韓国の幕僚の一員であり、飛鳥を背後に回って攻撃する任務を任されていた。韓国は真偽をこの目で確かめようと来目の部隊に急いだ。だが、来目の口から直接話を聞くことはかなわなかった。
「国宰は先ほど、オオトモに災いあれと言い捨てて自害されました!」
駆け付けた副将軍の手にはどす黒い血にまみれた来目の刀があった。やはり寝返りは本当だったのだ。密かに兵を集め、離脱を図ろうとしていたところ、策が漏れてしまったことが判明し、来目は死を選んだのであった。
そして時を同じくして、難波津には新羅の太子が手配したオオシアマの援軍が20隻、闇に紛れて上陸しようとしていた。
飛鳥の多くの豪族を味方につけたとはいえ、吹負の軍勢は近江からやってくる敵軍の数には遠く及ばなかった。昨日までに河内と飛鳥に分隊を派遣しており、乃楽山の駐屯兵は二千騎にも満たない。
4日の夜明けとともに山頂から臨んだ地平線に、自軍の三倍はあろうかという人の群れを目の当たりにした飛鳥方面軍は怖じ気づいた。
「怯むな、オオヒルメ大神のお力を信じて戦うのだ!」
吹負は声を振り絞って兵士を鼓舞した。山を下りて、押し寄せてくるオオトモ軍を迎え撃つ。黒光りする鉄の兜と冑のぶつかる音、そして刀と矢の入り交じり服や皮膚を切り裂く音……
正規軍である敵の強さは侮りがたかった。まず、装備が過不足なく行き届いており、日頃から武芸の鍛錬に努めている兵衛たちを中核にした布陣は、豪族の若者を俄仕立てで将官とし、寄せ集めの農民兵を指揮している我が方の動きを凌駕した。
ほどなくして吹負は退却を決意した。既に自軍の統制は失われ、兵士らはちりじりに逃げていっている。戦死者と負傷者はうなぎ登りに増加している。
「所詮、反乱軍だ。飛鳥の守りもお粗末なものに違いない」
配送する吹負軍を追撃しながら、敵将大野果安は嘲笑した。勢いに任せつつ軍を南下させ、飛鳥宮の手前までたどり着いた。
「一気に攻めこみたいところだが、目のいいやつを二人、香久山に登らせて京の様子を確かめさせろ」
「承知いたしました」
もしこの時、果安が勇猛果敢だけが取り柄の将軍であれば、飛鳥宮はあっけなく陥落していただろう。オオシアマは東国の主戦を勝ち抜いたあと、さらにその足で飛鳥宮奪還を目指さなければならなかった。
ところが、果安の慎重さがオオシアマを救った。香久山に部下を遣り偵察させたことはオオトモ軍にとっては汚点となった。部下たちがその様子を報告しに戻ってきた。
「将軍、飛鳥宮は区画ごとに盾が敷き詰められ完璧な防御態勢がとられていました。何重にも盾が巡らされているところからすると、伏兵が多数潜んでいると思われます」
「それに、飛鳥寺の僧侶たちもオオシアマ方につき、武装しているのです。吉野山の修行者どもも妖術を駆使して待ち構えているとの噂がございますし……」
加えて、雷丘と甘樫丘という高台から矢が降り注いで来ないとも限らない。果安は迷ったあげくに不戦敗の道を選んだ。とりあえず近江に引き上げ、主力軍に合流する。どのみち、決戦の地は東国なのだから。
統制を失いながら吹負の軍は飛鳥方面へ後退し、三輸出の裾野を東へ逃げた。現代の初瀬街道沿いを進むと、宇陀や名張方面にたどり着くことになる。意気揚々とオオシアマに加勢することを良しとしたが、この様は何だ。いやしかし、まだ負けたわけではない、退却して一度態勢を立て直せばいいのだ、と吹負は己に言い聞かせた。最後に勝利し微笑むのがオオシアマであれば、途中の苦境など笑い話になるではないか。
■第9章へ続く




