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オペレーションくしなだ  作者: 木葉
真夏の夜の夢
1/31

第1章

 またこの季節がやって来た。浮足立った熱気が東京中に充満し、むわっとした湿気が色とりどりの浴衣をまとった人々を包み込んでいる。テレビ局のヘリが空を慌ただしく散歩し、隅田川は大きな破裂音とともに輝く幻影をまき散らす。

 七月の土曜日。今日のメインイベントは花火大会だというのに、陽一は夕方まで職場のコンピュータと対峙していた。丹波ソリューションズの事務所は小石川にあり、主に関東の建築設計に携わる小企業である。丹波ソリューションズのうりは、創業者の丹波祥三が神社仏閣を含む伝統的な建築物を得意とする一方で、積極的に若い人材を登用し、近代性をも追及している点である。

 大学との連携を図り、伝統的建築物の分析などの研究にも力を入れており、大洋学園大学工学部建築学科を卒業した陽一は母校と共同研究を行っている丹波ソリューションズに就職することができた。コネだと言われれば否定はしないが、祥三の息子であり、現社長の雅和が陽一の忍耐強さと文化への好奇心を評価していることも事実である。実際に建築を行うのは同企業の宮大工グループなのだが、さしあたり陽一は事務所と大学の研究室を往復し、先輩たちから技術と知見を盗むという日々を送っていた。

 事務所の中は乱雑だった。もちろん設計のプロたちはその仕事道具を粗末に扱ったりはしないのだが、仕事への情熱が時として整理整頓を忘れさせてしまうのだ。そして、陽一はこの事務所が気に入っていた。徒弟制度的な社会の中にもどこか下剋上を期待されているような雰囲気があった。

 現在、陽一が取り組んでいるのは町おこしの一環として伝統的建築物を建てる場合、留意すべき事項は何かという課題である。この課題の成果次第で陽一に任される仕事の内容がレベルアップするとあって、陽一は休日返上で取り組んでいたのだ。

 陽一はテレビのニュースをつけながら身の回りの片付けをした。

「――先日二十日、東京大神宮の本殿に落雷がありましたね。先週の月曜日には長野県の諏訪大社付近を竜巻が通過し、風に巻き上げられた大木が神殿を直撃しました。また、一昨日から続く山陰地方の大雨で島根県美保神社の一部に浸水の被害が出ています。今後しばらく全国的に大気が不安的な状態が続くと見込まれますので、十分にご注意ください。以上、気象情報をお伝えしました。

 では、最後に隅田川上空から花火大会の様子をお伝えして……」

陽一は最後まで聞かず、半ば投げやりな気持ちでチャンネルの電源を切った。これから行くところがあるのだが、おそらく花火大会の影響で混雑しているだろうと思うとげんなりした。特に自宅のある本所付近は交通規制もされているし、毎年のことだが、帰宅時には余韻覚めやらぬ群衆と遭遇することになるのだ。

 陽一はいそいそと地下鉄に乗り込み、銀座で乗り換え、真夏の夜の夢を見上げることもせず、隅田川沿いにあるガラス張りの小洒落た建物に入っていった。

 花火大会の会場から離れているので直接的な影響はないものの、夏の休日ということもあって対岸の月島などはずいぶんな賑わいを見せていた。

 陽一が入った建物はアーバンパーク湊という。明るいクリームイエローの三階建ての建物で、その外見と建物名からすると若者向けのワンルームマンションかと思ってしまうが、この建物の中では若者は少数派である。ここは特別養護老人ホームなのだ。


 アーバンパーク湊は階数は少ないものの、その分、床面積はかなり広い。一階が特養の施設で四十床のベッドを置いてある。二階の一部にスタッフルームがあり、その他と最上階は自立型の老人ホームとなっている。

 少数派の若者の一人である桧枝りらは、アーバンパーク湊での勤務は二年目に突入した。初めて就職した老人ホームは和光市にあり、大型病院のような施設だった。しかし、老人たちはまさに病人のごとく狭い部屋に閉じ込められ管理されているようだった。大学時代に実習を通じてそういう施設や環境に慣れていたつもりのりらだったが、自分は介護士であって看護師ではない、私は病院に勤めているのではないと、葛藤の末に一年も経たず辞職した。自宅から遠くて、毎日くたくたになってしまうのも辞職した理由の一つだった。

 八丁堀で酒屋を営んでいる実家では、娘が早速無職になってしまったことを特に批判することなく、父親は「じゃあ、お店の手伝いよろしく」とだけ言って、普段と変わらず娘に接していた。桧枝酒造は明治時代から続く、小料理屋や料亭を対象にした酒屋だ。りらには店を継いでくれる兄がいたから、自分は自由な道を選ぶことができたと思っている。だから、ここで立ち止まっていても仕方ない。

 しばらく小料理屋などの女将さんたちを相手に、納入する酒の調整をして過ごしていたが、ある日、以前の勤め先でお世話になった年配の介護福祉士からメールが来た。

「もし興味があったら、私から紹介してあげるから連絡ください」

それはアーバンパーク湊の欠員補充の募集だった。若い介護士が就職したものの、結婚してすぐに夫が海外に転勤することになり、翌月に辞めるという。これはりらにとって渡りに船であった。

 りらは主にアーバンパークの一階を担当している。一見、小ぎれいな身なりで普通に歩行できていても、極度の認知症で一日に何度も同じ話をする人、認知症ではないが全身不随で寝たきりの人、両足がなく車椅子で移動しなければならず、さらに認知症も伴っている人… 様々な高齢者がこの一つの川べりの世界に存在している。

 早めに夕食が終わり、食堂の大きなプラズマテレビの前に入居者たちが集まった。花火大会の番組である。健康に問題がない入居者たちは満足気に夏の夜を満喫しているようだ。りらは盲目で車椅子に乗っている大峰さんをテレビの近くに連れて行った。彼はもちろんテレビを見ることはできないのだが、まだ聞くことはそれほど不自由していない。

「花火って、あの、どーんっていう音が夏っぽくていいですよね」

りらが言うと、「そうそう」と大峰さんが相槌を打ってくれた。テレビの前の入居者たちは外に見に行ければねぇなどと言い合いながら、おしゃべりに興じている。りらは食堂を後にし、「すずらんの部屋」に向かった。この施設では各部屋に二~六台のベッドを置いており、それぞれの部屋に花の名前をつけてある。数字で何号室と呼ぶ施設もあるが、固有の名前の方が無機質でないし、認知症の高齢者にとっては覚えやすいようだ。

 すずらんの部屋には、四台のベッドがあり、窓際のベッドには早々と眠りについている入居者がいる。通路には案の定、車椅子の入居者がいた。

「坂倉さん、今日の夕飯どうでした?」

「おいしくいただきましたよ。ねぇ、ちょっと川が見たいの。連れて行ってくれる?」

川が見たいというのは、ほぼ毎日の坂倉さんのお願いであり、外出するということではなく、施設のガラス張りの共有部屋から見える隅田川が見たいということなのだ。りらがアーバンパーク湊に来る前は、坂倉さんはたいてい不機嫌で食事もおいしくないと言って食べないこともあったという。同僚の話を聞くと、夕飯後はミーティングなどで忙しく、坂倉さんの要望を実行してあげられなかったため、彼女は頑なな態度を続けていたのだった。

 そして、りらが施設に入ったことをきっかけに坂倉さんが変わった。りらが初めて入居者と接することになった日、たまたま夕食後のミーティングは開かれず、りらがすずらんの部屋を通りかかった時に坂倉さんのお願いが発せられた。初めてということもあって、りらは坂倉さんにとことん付き合った。同僚は毎回付き合わなくても大丈夫だよと言っていたが、りらは時間が許す限り夕食後の隅田川鑑賞会に付き合った。こうして坂倉さんは以前よりわがままも言わなくなったし、ご飯を拒否することもなくなった。

 車椅子を押して共有部屋に向かう途中、

「なみちゃん、今日は花火だけど食堂でテレビ見ない?」

仲が良い入居者が声をかけてきた。しかし、坂倉さんは「楽しそうだけど、また今度にするわ」と言って、りらを促した。定位置につくと、りらは自分の座る椅子を引っ張ってきた。これから坂倉さんの毎回同じお話が始まる。

「ねぇ、あなた。若い人はちぃとも知らないかもしれないけどね、昼間はアマテラスさん、夜はツクヨミさん、海はスサノオさんっていう神様が、それぞれご担当なさってね、アマテラスさんはそれはそれはお強い女の太陽の神様なのよ」

 初めてこの話を聞いた時、りらは何の脈絡なく語り始めた坂倉さんをまじまじと見てしまった。一体何のことを言っているのかよくわからなかったし、説教をしている風でもなかったし、どのような反応をすべきか困った。

「アマテラスさんは天皇のずうっと昔の最初のご先祖様でね、ある時、地上をお治めしようと思ったの。そして、別の神様を地上に遣わして、地上の国をお譲りなさいとオオクニヌシさんに言ったの。オオクニヌシさんは素晴らしいアマテラスさんがそう言うならと自分の国をお譲りされて、大きなお社におこもりなさった。こうして、アマテラスさんは孫のニニギという神様を地上にお送りになって、地上の国をお任せしたの」

 別の日には、別のエピソードが語られることもあり、まるでおばあちゃんから寝る前に絵本を読んでもらっているような感じだったが、りらは今ではすっかりそれらの物語を覚えてしまった。坂倉さんの語りに登場した神様の名前を忘れないようにメモして、仕事の合間にネットで調べると、それは日本神話のエピソードであることがわかった。

 ネットでは色々と難しい解説が書かれてあって頭に入ってこなかったので、りらは本屋に行き、児童コーナーを眺めてみた。すると、神様らしきかわいい絵がたくさんの絵本を見つけることができた。「あまのいわとのおはなし」とか「おおくにぬしといなばのしろうさぎ」とか「うみさちひこ・やまさちひこ」とか、もしかしたら、りらも子供の頃に母親に読んでもらったことがあるのかもしれない。一瞬、りらの心に寂しさがよぎった。子供の頃にどんな絵本を読んでくれたのか、今となっては母親に確認することはできないのだ。

 お話が日本神話で、特に坂倉さんはアマテラスの大ファンだということはわかったが、なぜその話をするのかは一向にわからなかった。


 ピンポーン。玄関のチャイムが軽やかに鳴った。しばらくしてドアがゆっくりと横滑りに開いた。陽一は笑顔で玄関の中へ入っていった。

「じいちゃん、元気? 今日も散歩したの?」

「行ったよ。築地で寿司を食べてきた」

「え、そんな遠くまで、大丈夫?」

「なぁに、お隣の中里さんと支え合って行ったんだよ」

 アーバンパーク湊の三階に、陽一の祖父は住んでいる。ここは普通のワンルームマンションのような作りで、トイレと浴槽の他に簡単なキッチンがついており、利用者は自宅と同じように暮らすことができる。さらに必要があればヘルパーが来てくれるし、緊急時のために二十四時間、一階の施設の職員と通話ができるので安心だ。

 陽一は月に二、三回祖父の様子を見に来ている。陽一の祖母に先立たれた祖父は健康ではあるが、左足にガタがきており、軽度の認知症のため数年前からアーバンパーク湊にお世話になっている。陽一の自宅は分譲マンションで手狭なため、祖父の部屋を確保できず、かと言って別の家に一人にしておくのは不安があるので、当初は仕方なくいわゆる老人ホームに祖父を預けることにしたのが、意外と祖父はここが快適のようだった。

「スイカ持ってきたよ」

「おお、ありがとう。おしぼり用意しようね。陽ちゃんは花火見たんか?」

「いや、さっきまで仕事」

「そんなに大変なんかね。お休みの日も仕事じゃ、ガールフレンドもかわいそうだね」

「いないよ、彼女は。今は仕事が面白いし」

「そうかい」

 仕事が面白いのは確かだが、結構しんどい上に、同じく建築家である父にちょっとしたライバル心を抱いていて、気の休まる日はそれほどない。

 家に帰るとかわいいミニチュアダックスフントのマカロンが出迎えてくれ、お気楽な母親が翌日の授業の準備を終えて海外ドラマにかじりついているいつもの光景に出くわす。しかし、陽一は勉強熱心で書斎に入り浸っている父親をどうしても意識してしまうのだ。自分も精進しないとな、と。

 建築の勉強をするのは楽しい。少なくとも、資料を読んだり作図している最中は楽しい。しかし、就寝前にふと俺は何で父親に対抗しているんだ、俺の建築の目的は何だ、などと考えてしまう。

 陽一はアーバンパーク湊を訪れるのが一番の息抜きになっていた。祖父とたわいない話をしながら食事をする時は笑い声が増える。時々、祖父の認知症の症状が現れて話が混乱したりすることもあるが、深刻な問題には至っていない。

「さてと、そろそろ帰るね。犬の散歩しないと」

「ああ、犬か。何て言ったっけかな、名前。チョコちゃんか」

「惜しいね。マカロンだよ」

「マカロンか。かわった名前だな」

「なんか女の人が好きな、めちゃくちゃ甘いお菓子の名前なんだって。母さんがつけた」

「そうかい」

「うん。また来るね。来週は母さん、学校が休みの日があるみたいだから、来るって言ってたよ」

 陽一は玄関のロックがかかった音を聞いてから、エレベーターに向かった。

 一階に下りると建物を去らずに、特養ホームの受付に寄った。陽一がアーバンパークに来るのが一番の息抜きになる理由がそこにあった。

「こんばんは」

「あ、長柄さん、こんばんは。今日ね、信太郎さん、中里さんと築地に行ってたみたいよ」

「らしいですね。迷惑じゃなかったかな」

「大丈夫よ、二人とも元気だから。どうぞ、上がって。桧枝さん、今引き継ぎしてるからもうすぐ出てくるよ」

 陽一が祖父の様子を見に来た後、必ず一階に寄ってりらと面会していくのは、アーバンパークの職員なら誰でも知っていることだ。いつの間にか共通の認識になっており、初めの頃こそ陽一は恥ずかしく思っていたのが、今や恥ずかしいを通り越してかえって不審がられず好都合だとさえ思うようになった。

 入り口近くの待合スペースで待っていると、おしゃべり好きな別の職員が通りかかった。恰好の餌食である。

「今日は桧枝さんお持ち帰りできないわよ、夜シフト入ってるの」

「そうなんですか。大変ですね。まぁ、僕は桧枝さんをお持ち帰りしたことも、するつもりもないですよ」

 後半はたぶん嘘だ。

「またまたぁ。まぁ、気づいてないの、桧枝さん本人だけだもんね。立川さんとか駒田さんは鋭いから気づいちゃってるよ。女のカンはいくつになっても衰えないものね。桧枝さんは男前がいるのに知らんぷりしててもったいない、って。おばあちゃんたちには人気者だわね。がんばってよ」

 そう言って、職員は去っていった。全くもって、老婆にモテても仕方がない。

 何曲か音楽を聴き終わった頃、りらがエプロンを片手にやって来た。陽一はこの瞬間が好きだった。しかしこれで満足してしまいかねない自分は臆病なのかもしれない。待っている自分のところにこうやって必ず来てくれる女性を、完全に自分の世界に引き入れることができていないのだ。

「今日、夕飯でもって思ったんだけど、夜勤なんだってね」

「うん。なかなか時間とれなくてごめんね」

「少し疲れてるんじゃない?」

「最近、夜勤が続いてるからかな。さすがにちょっと眠いなぁ。けど、夏休み五日間くらいもらえるみたい」

 何気なく言ったりらの言葉が、彼らの人生に忘れがたい日々を与えることになるとはこの時、まだ想像もつかないことであった。

 陽一は夏休みという言葉を聞いて、反射的に言った。

「一緒に旅行しない、夏休み?」

 りらは眠気が充満した頭をフル回転させて、陽一の提案を反芻した。夏休みがもらえること自体期待していなかった上に、夏休みがあるとわかっても遠出をすることなど考えていなかったため、「夏休みに旅行」という言葉は単純に甘美な響きをまとっていた。

「いいね、旅行! 絶対行く!」

 りらの表情が一変した。陽一はこの瞬間も好きだった。山の天候かと思うほど、この娘の表情は急変する。騒がしいことはないのだが、考えていることがそのまま顔に出てしまうタイプで、たぶん多くの場合、考えるよりも先に気持ちが外に飛び出してしまうのだろう。そして、昔はそんなりらをめんどくさい女の子だと思っていた頃もあった。

 

 実は陽一とりらはかれこれ五年くらい友人としての付き合いがあった。二人とも大洋学園大学という都内では規模の大きい大学に在籍し、りらは福祉学部、陽一は工学部の所属だったが、必修科目の中に選択制の授業があり、出版文化論なるゼミに出席したのだった。りらはこのゼミを担当する教授の採点が甘いという理由で選び、陽一は何かわからない内容に興味を引かれたという理由で参加することにした。

 初老の教授はいかにもゆるい感じで成績評価も噂通り甘かったが、意外と多くの課題を学生たちに与えた。授業中も山あり谷ありの説明や質問や、学生同士のディスカッションがあった。そのうち陽一は真向かいに座っている女子学生の表情が、授業中に七変化することを発見した。

 教授が面白い話を紹介すると素直に笑い、解説が複雑になるにつれ、眉間にしわが寄り、学生のディスカッションを聞いている時も一生懸命に話を追おうとしているのか、しかめっつらの仮面に変わる。そしてまた教授が解説を始め、ポイントに行きつくと一気に目が輝くというサイクルが毎回繰り広げられた。それは本当に雨上がりの雲間に差し込む一筋の光のように輝きを放っているようだったと、陽一は後に気づくに至ったのである。

「この前、俺のじいちゃんが老人ホームに入ったんだけど、そこの職員に、俺が行ってた大学のゼミにいた女の子がいたんだよ」

「ふーん。仲良かったの?」

「悪くはなかったかな。ちょっと変わっててたまにお節介で苦手なとこもあったけど、普通の友達。さっき、ゼミの飲み会とか旅行とか懐かしいなって話をした」

 陽一は丹波ソリューションズに就職してからしばらく付き合っていた当時の彼女にそんな話をした。

 陽一にしてみれば今日あった面白い出来事を伝えただけだったのだが、祖父の様子を見に行くたびに、昔のゼミ友達との会話をする陽一に、彼女は苛立ちを覚え、そしてだんだんわかってしまったのだ。ある時、陽一はまたりらの話をし始めた。

「今思うと桧枝さんは面白かった。彼女が表情を明るくすると、何ていうか、ほっとしたな。ゼミの雰囲気がなごむ感じ。教授によく発表内容を議論が荒いって突っ込まれてたけど、たぶん発想はイケてたんだろうな。それに、意外と記憶力が良くて、話がうまかった」

 一言二言、陽一の彼女は相槌を打ちながら話を聞いていたが、会話を進めるうちにその彼女は鋭い致命的な指摘をすることになった。

「ねぇ、陽一がそんなに人物観察が得意だとは思わなかったよ」

「そうかな。単に桧枝さんが特別目立ってたからだろ」

「要するに、陽一にとって桧枝さんは特別に思い出が鮮やかに蘇る女性なんでしょう?」

 陽一はその言葉に頭を殴られたようなショックを受けた。知らず知らずに桧枝りらの思い出に呆けていたのだということを、自分の彼女に暴かれてしまったのだ。陽一はお茶を濁して逃げる性格ではなかった。

 一人になって冷静になると、陽一が心から欲している女性は現在付き合っている彼女ではなかった。これは陽一にすら信じがたい気づきであったし、彼女に対して残酷な仕打ちをしたということに自己嫌悪に陥りもした。それでも、りらという女性が存在することに満足感を覚え、背徳的な希望を未来に見出していた。

「あなたはもっと硬い人だと思ってた。いつのまにか裏切られてるなんてね」

 言葉少なに、彼女は陽一と別れることにあっさりと同意した。

 それからというものの、陽一は機会があるたびにアーバンパーク湊を訪ね、桧枝りらを食事や遊びに誘ってきた。何回かは成功したが、だいたい運悪く、夜勤であったり研修であったり、家の都合があったりと「今日はごめんね」という言葉が返ってくることが多かった。アーバンパーク側が陽一に意地悪をしているのではないかと思うほど、予定が合わなかった。

 陽一の職場でもいつの間にか陽一が彼女と別れたことが知れ渡っていた。

「え、まだ気になってる娘を落としてないのか? お前、もたもたしてると他の男にとられちまうぞ」

「長柄くんらしからぬ慎重さだねぇ」

 こんな風に社長の雅和や同僚がけしかけてくる。そして、雅和が言った「他の男にとられちまうぞ」という警告は、この後に現実のものとなり、陽一を大いに苦しめることになるのだった。


 時計の針が、そろそろ帰宅すべしと促していた。陽一は夏休みを一緒に過ごしてくれることを快諾してくれたりらに、最高に楽しい旅行をプレゼントしてあげようと心に誓った。

「夏休みは九月の始めなら大丈夫みたい。長柄くんは予定合わせられるの?」

「何とかする。うちの会社も一応、ローテーションで休みとってるから。旅行のことはちょっと計画考えてみるから、また知らせるよ」

「ありがとう、楽しみにしてるね」

「うん、夜勤がんばって」

 外は相変わらず熱気に覆われていた。夜の隅田川が黒く滔々と流れている。ちょうど花火大会が終了した頃で、陽一が地下鉄の本所吾妻橋に到着した時は、駅構内も地上も帰路に着こうとしている人たちで混雑を極めていた。結局、陽一はテレビの画面を通してすら花火を見なかったけれども、もうそんなことは気にもならなかった。

 陽一の夏休みは、きっと小学生のカラフルな絵日記のように描かれるに違いなかった。


 月曜日、いつも通り丹波ソリューションズの事務所に出勤すると、陽一は輪をかけて熱心に仕事と課題に取り組んだ。

「どうした、長柄。そんなペースで仕事してたらかえって非効率になるぞ」

班長が笑いながら言った。

「すみません。なるべく早く片付けておきたいなと思って」

「もしかして用事があるのか」

 いつになく自分の気持ちが行動に表れてしまい、恥ずかしくなったが、正直に話しても構わないだろう。そう考えて、陽一は上司に夏休みの予定を伝えることにした。

「班長はいつお休み取りますか? 実は九月始めに夏休みをいただきたいと思って」

 班長は卓上カレンダーを手に取って確認すると、「何もなさそうだな」とつぶやいた。

「いいぞ。俺は盆休みを取るつもりだし、他のメンバーも八月中に休むって言ってたしな」

「ありがとうございます」

「予定は決まってるのか」

「いえ、まだ。旅行しようかと考えてるんですけど」

「海外もいいけど、この際、国内旅行して古い建造物なんか見てきてもいいんじゃないか。課題に取り組んでることだし、ってそれじゃ、自由研究やらなきゃいけない小学生の夏休みか」

 班長はまた笑った。

 八月に入り、職場だけでなく、お世話になっている大学の研究室も本格的に夏休みモードになった。両親はマカロンを連れて数日前から軽井沢に行ってしまい、帰宅してもそこには静寂があるだけであった。

 突如、携帯電話の着信音が無音の部屋に響き渡った。

「もしもし」

「長柄、元気か」

 電話の相手は、鄭竜成という陽一の高校時代からの親友であった。

「今度の土曜日、ヒマ?」

「たぶん」

「バスケしよう。うちの業界の遊びの対抗戦があるんだけど、俺のチーム、一人参加できなくなった奴がいて」

「いいよ」

 陽一と竜成は成徳高校のバスケ部で切磋琢磨した過去があり、二人とも就職してからも時々、バスケに興じている。竜成は高校を出てからしばらくして出版業界に就職した。家庭の事情で大学には進学せず、両親が京都伏見で営んでいる韓国料理屋の手伝いをしていたようだが、ある日、店に取材に来た「旅の(そら)」という旅行専門雑誌の対応をしたことがきっかけで、この雑誌編集の世界に身を置くことになった。

 竜成は高校時代から頭も良く、バスケ部でも優れた身体能力を遺憾なく発揮しており、並みの能力に甘んじていた陽一にとっては、時に嫉妬の対象であった。おまけに竜成には美人の姉までいるのだ。それでも、二人は波長が合ったようで、今に至るまで何かと頼り合っている。

 渡されたゼッケンは水色。旅の宙のロゴマークが入っている。対戦相手は主に主婦をターゲットにした生活情報を提供する雑誌の編集者たちだった。

「たぶん、向こうのチームも社員じゃない人が参加してると思う。交流試合だから、まぁ、気楽にやってよ」

 そう言った竜成であったが、意外に真剣に見えておかしかった。久しぶりに激しく運動して、解散する頃には若干バテ気味になった陽一は、ほとんど疲れを見せていない竜成に驚いた。

「俺、久しぶりにバスケしたから結構ヤバい。最近、デスクワーク多いし」

「そうなんだ。俺は毎週、運動してるよ。半年くらい前から編集の仕事だけじゃなくて取材もするようになったんだ」

「すごいなそれ、面白そう」

「今度はなんと神社仏閣特集なんだよ。長柄の会社もそういうの関係あるよね、確か」

「まさに神社仏閣扱ってるね」

「編集長がさ、かなり気合入ってて半年かけて特集するっていうから、ちょっと泊りがけで取材してこようかと画策中」

「どこに行くの?」

「それを長柄に聞きたかったんだよ。ていうか、予定合わせるから一緒に来てくれないかな。建築的な観点も勉強したいしさ。うちの雑誌って、割と硬派だからグルメリポートとかパワースポット紹介とかだけってわけにはいかないからね」

 この話は面白そうだ。しかし、陽一には重大ミッションが予定されている。陽一は相談もかねて、りらとの旅行について打ち明けることにした。

「実はさ、前から気になってた女の子と旅行に行くってことになってる。今日、ついでだからその話も竜成にしようと思ってたんだ」

「マジか。いきなり二人で旅行か」

「だから、申し訳ないんだけど…」

 と竜成の提案を断ろうとすると、

「問題ないよ。三人で行けばいいだろ」

「は?」

 何を言い出すんだ。

「別に邪魔はしないよ。時々、俺が単独行動をとるから、その桧枝さんって娘と一緒に過ごせばいいじゃないか」

 陽一は親友である竜成に、りらのことは何度か話をしていた。話を聞いてもらっていた手前、関係ないと言って済ますことはできないし、今後のためにも一度、りらと知り合いになってもらうべきか。

「どう?」

「そうだね、竜成にも桧枝さんを見てもらいたいな」

「よし、予定はそっちに合わせるよ。行先は、まぁ、渋いかもしれないけど神社仏閣がたくさんありそうな場所でどうかな」

「いいよ。旅ジャーナリストの活躍のためだ。桧枝さんも拒否ることはないと思うから、どこか行きたい場所があるか聞いておく」

 当初の予定とはだいぶ違った方向に動いてしまったが、きっとこれも運命の女神の仕業で、良い結果が待っているに違いない。陽一はそう思うことにした。りらが旅行を楽しんでくれればそれで良いのだ。

 バスケの試合でほどよい疲労感に満たされた二人は帰路に着いた。それぞれの期待と思惑を胸に抱きながら。


 翌日の日曜日、昼過ぎから陽一はアーバンパーク湊に向かった。年々増していくような気温と湿度に押しつぶされながら、隅田川のほとりを進む。

 砂漠のオアシスにたどり着いたかのように、急いで冷房の効いた建物の中に飛び込み、まずは祖父の様子を見に行った。

「今日は暑かったろう。アイスあるよ」

「ありがとう。一つもらうね。じいちゃん、そんなの持ってたっけ?」

 祖父は見慣れない甚平を着ていた。

「これはなぁ、一昨日、ばあちゃんがくれたんだよ」

 陽一の祖母は既に他界している。おそらく認知症のせいで、妻からの贈り物だと思っているよう。本当は陽一の母が最近、渡したものだろう。陽一は少し心を打たれた。認知症とはいえ、祖父の心の中には未だに祖母が大きな存在を占めているのだということがわかったからだ。

「そうだ。今度、友達と国内旅行をすることになったんだ。面白い場所ないかな」

じいちゃんが好きなのは九州だけど、今あそこは行かん方がいいなぁ」

 祖父はテレビの画面を見やりながら残念そうに答えた。

 ちょうどニュースで今週の出来事を振り返るコーナーが始まった。

「――今週の注目ニュースはやはり、九州各地で発生した家畜の伝染病被害ですね。過去にも鳥インフルエンザや口蹄疫などが流行りましたけれども、今回のこの伝染病は新型とみられ、ワクチンの開発が急がれています」

 普段はバラエティー番組の司会を務めるアナウンサーが、神妙な面持ちでニュースを伝え、専門家に見解を求める。

「――おそらく今回の伝染病はですね、過去の口蹄疫のウイルスが何らかの形で変化して、新たなウイルスになったのだと思われます。従って、ワクチンの開発はさほど難しいわけではありませんが、驚異的な速さで伝染しているのでね、これはちょっと予防なんかも迅速にやらないといけません」

「――そうですね、昨日、九州の各県知事から自衛隊に災害派遣要請があり、今朝から自衛隊による消毒や掘削作業が始まったということです」

 夏休みだというのに、各地で立ち入り制限が行われている以上、観光業には少なからぬ影響が出ているだろう。

「陽ちゃん、これ、面白いって言ったら悪いけど、面白いことが書いてあったよ」

 祖父が週刊誌を開いて差し出してきたので、受け取って記事のタイトルを読んでみた。

「えーっと、“神々の怒りか!?日本各地の災害急増”、で、地元の人々が各地の自然災害や伝染病などを、神の祟りではないかと指摘していることが多数報告されている、か」

「九州の伝染病も、この前の台風で宇佐八幡宮と岩戸神社が被害を受けて、祀られている神様たちが怒っているからだって書いてあるよ。神様が自分の土地に住んでる人たちを苦しめるようなことをするものかね」

 陽一はそうだよね、と相槌を打った。祖父の言うことはもっともだ。

「今まで俺も自然災害で破損した神社の修復作業に立ち会ったことあるけど、神社の人も地元の人も祟りの話なんてしたことなかったなぁ」

「そうかい」

「とりあえず、旅行は九州以外で考えないとね。お土産買ってくるよ」

 祖父は孫の言葉を満足そうに聞いていた。大きなアイスのカップが空っぽになった。そろそろ次の目的地に行かねば。

「また来るね。今日みたいな暑い日は出歩かない方がいいよ」

「はいよ、陽ちゃんも元気でな」

 時計を見ると、おやつの時間になっていた。祖父はこれから昼寝をするだろうし、階下の入居者たちの大半が休んでいるころだろう。

 一階の受付に行くと、すぐにりらに出くわした。

「あ、長柄くん」

 お盆に麦茶が入ったグラスを乗せて、りらは陽一の方へ歩み寄ってきた。最近、りらは髪が伸びて、襟足にかかるくらいのポニーテールをするようになった。ずっと気づかなかったのだが、露わになった両耳はピアスの穴が開いていた。

「その髪、いいね」

 シンプルに言うのが今の陽一には精いっぱいだった。

「ありがとう。みんなにお茶出してくるから待ってて」

 りらは食堂に向かい、またすぐに受付へ戻ってきた。二人は待合スペースのソファに座った。

「ちょうど職員の休憩時間なの。旅行のことだよね?」

 待ちきれないという風に、りらは尋ねた。

「賛成してくれるかわからないんだけど、俺の高校時代の親友も一緒に行っていいかな。旅行の雑誌を作ってるヤツで、泊りの取材を考えてるみたいなんだ」

「いいよ。面白そうじゃない。どこを取材するか決まってるの?」

「それが、古い建造物をターゲットにして特集を組むとは言ってたけど……」

 陽一がちょっと申し訳なさそうに言うと、りらはぽんっと手を打った。

「あのね、実は、私のおじいちゃんとおばあちゃんが温泉旅館をやってるの。小さいけど、風情があってご飯もおいしいよ。子供の頃はよく遊びに行ってたんだけど、最近はしばらく行ってないなぁ。玉造温泉って聞いたことある?」

「いや、ごめん、知らないな」

「えっとね、島根県の出雲大社の近く」

「ああ、それはいいんじゃない? 確かあの辺って神社たくさんあるし、大社の本殿も数年前に新しくなってるはず」

「さすが、良く知ってるね」

「まぁ、そういう業界で何年か食ってきてるからね。じゃあ、旅館のことはお願いしていいかな。俺たちは航空券とレンタカー手配しておくよ」

「うん、わかった」

 詳細はメールすることにして、陽一は立ち上がった。ちらほら職員が廊下を行き交うようになったので、休憩時間はそろそろ終わりらしい。

 帰宅した後、陽一は竜成に電話し、りらからの提案を伝えた。竜成は機嫌を良くし、言いだしっぺは俺だから、と移動手段の手配を引き受けてくれることになった。

「俺、やることないな」

 陽一は苦笑した。

「んなことないだろ、桧枝さんが喜ぶような店とかイベントとか探しておけよ。らしくないね、浮かれすぎか」

「それは言われなくても考えてるよ」

 やや反抗的に陽一は答えた。考えてないわけないじゃないか。ポニーテールで露わになったりらの首筋とピアスの穴の印象が焼き付いて離れなかった。

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