幕間 織田広樹の彷徨
【午後11時20分】
いつの間にか、公園に到着していた。
誰に命令された訳でもない。誰に指図された訳でもない。かと言って、自分の意思かと言えば――それも違う気がする。義務などなく、明確な目的もなく、漠然と、漫然と、この『壊れた世界』を漂う七色海月。
だけど、不思議と厭じゃない。
きっと、自分もまた――壊れた人間だからだろう。
織田広樹は首の関節を一度鳴らし、緩慢な足取りで公園へと入っていった。
決して大きくない公園である。
JR埼浜線藍土駅前に存在する、緑豊かな木々以外は何もない、最近の風潮から遊具すら撤去されてしまった――だけど住民が憩いの場にするには充分な、どこにでもあるような、何の変哲もない公園。
公衆便所脇の東屋に、奴はいた。
ベンチに腰掛け、こちらに背を向け、コンビニで買ったらしいペットボトルの無糖コーヒーを、これまたコンビニで買ったらしい紙コップに注いでいる。
胡散臭いこと、この上ない。
だけど彼が身につけている上等そうなスーツや、彼自身の上品で洗練された風の――悪く言えば気取った感じの――所作が、それを否定している。エリート感満載の男が深夜の公園で無糖コーヒーを呷っている、というシチュエーションには違和感しか覚えない。もっとも、この『壊れた世界』においては、違和感のない部分を探す方が、難しいのだが。
「――来たね」
こちらに背を向けたまま、彼――新城保は口を開く。足音はもちろん、気配すら消して近付いたのだけど……この男には通用しなかったようだ。
「何やってンだよ」
足音を消したまま、新城の背後に近付く。決して、一緒のベンチに腰掛けたりはしない。
「織田君、占いは好きかな?」
肩越しに覗くと、新城はベンチの上に、何やら数枚のカードを並べて広げているところだった。タロットだろうか。
「興味ない」
「だろうね。私も興味がないよ」
「……じゃあ、アンタは今、何をしてンだよ」
「うん? 花札でもしているように見えるかい?」
「見えねェよ」
「君は、花札とタロットカードの見分けもできないのか?」
「見えねェって言っただろ。人の話聞けよ。オレは、占いに興味ないアンタが夜中の公園で何タロットカード広げてンだって、そう聞いてンだよッ!」
いちいち癪に障る男だ。
自分の上司でなければ、問答無用でボコっているところなのだけど、我慢しておく。何かの間違いで殺してしまったら――新城を失ってしまったら――路頭に迷うこと、確実だ。路頭に迷うのはこりごりだ。……じゃあ今は違うのかと言われれば、それはかなり難しいところなのだけど。
「私はタロット占いの作法など知らないし、興味もない。だが――これが、なかなか面白い」
「馬鹿なオレにも分かるように説明してくれ」
「馬鹿な君にも分かるように説明しよう」
この男、いつか、ボコる。
「同じ時刻の同じ場所、全く同じ配列のカードの束を、全く同じようにシャッフルし、全く同じように札を捲る――だが、その度に出てくるカードの絵柄は、違う。これが何故だか分かるかい?」
「あぁ? んなもん、前提がおかしいんだろうよ。場所や時間やカードはともかく、全く同じようにシャッフルするなんてことが、普通の人間にできる訳がねェ」
カジノのディーラーや手練れのマジシャンならそれも可能だろうが、まあ、一般的には無理な芸当ではないだろうか。
「そうだね。しかし、この世界では、それも難しい話ではない。分かるね?」
「……あー、リピートすりゃ、何もかもが同じ、だからな……」
同じ一日を何度も繰り返す『壊れた世界』。
繰り返された一日は、何もかもが同じだ。
天候も、人々の言動も、捲られるカードの絵柄さえ、全て一緒。
「そう、この世界においては、全く同じことが繰り返し何度も行われる。それは、確定要素だ。不確定要素があれば――それは我々、ということになる。同じ一日を繰り返している私が捲るから、違う絵柄が出る、という訳だ」
「……なるほどな」
言いたいことは、分かった。
「そう。私たちは果てなく続くリピート世界――地獄の無限ループに生きている。右を見ても左を見ても、同じことの繰り返しだ。
――私たちのような『リピーター』が何か行動しない限りは、ね」
「オレたちの何らかの行動が、少なからずこの世界に影響を与えている、ってことか?」
「変化があったなら、そこには必ずリピーターの干渉がある。だが残念ながら、今の私たちでは、バタフライ・エフェクトを完璧に解析することなんてできはしない」
バタフライ効果――『ブラジルでの蝶の羽ばたきがテキサスにおいてトルネードを引き起こすか』という例えで有名な、カオス理論における思考実験――だったっけか。正直、織田の頭では理解しきれない。
いつだったか、新城に騙されて同名の映画DVDを見せられたことがあったが――多分、映画自体はそれなりに面白かったのだろうけど、途中で気分が悪くなって見るのをやめた記憶がある。当たり前だ。こんな状況にある人間が見ていい映画ではない。ちなみに、『ビューティフル・ドリーマー』と『時をかける少女』というタイトルのアニメ映画を一緒にレンタルするように指示されていたが、全力で無視した。嫌がらせにも程がる。いくら何でも、織田もそこまで馬鹿ではない。何が悲しくて、リプレイ、ループ、タイムスリップを扱った作品ばかり見なくてはいけないのか。こんなのを見て喜ぶのは、どこぞの偏屈な文学少女くらいのものだ。
「――ま、いつか全てを解析してみせるけどね」
新城の声は、いつものように、自信に満ちあふれている。それは自己演出の一環なのか、それとも本気でそう思っているのか、愚鈍な織田には分からない。どちらの方がより幸福なのか――やはり、織田には分からない。分からない方がいい、とも思う。
そうしてきたのだから。
そうしていくのだから。
「――それで、定時報告の方はどうなんだい?」
安っぽい紙コップに無糖コーヒーを注ぎながら、相変わらずの気取った態度で話題を変換する新城。
「報告って言われても、なァ――今さら報告することなんざ、特にねェよ」
「フン、どんな些細なことでもいいんだけどね。君にとっては意味のない事柄でも、私が聞けばそれなりの意味を持つかもしれない」
「ずいぶんな自信だな」
「前例を挙げていくかい?」
「……いや、やめてくれ。長くなりそうだ」
全く、どうして頭のいい人間と言うのは――いや、自分で自分のことを頭がいいと思っている人間というのは、話が長くなるのか。簡潔な言葉で的確に伝えることこそが真の知性だと思うのだけど。もっとも、そんなことを織田なんかに指摘される筋合いもないのだろうが。
「……第一、報告は携帯メールで、と言ってある筈だ。わざわざ対面で報告されたんじゃ、手間と時間の大幅なロスになる」
「だーかーらー、報告することなんか何もねェっての。今回は本当にヒマだったから、たまにはアンタの顔でも見ておくか、と思っただけでさ!」
「それでも報告は怠らないでくれよ。君は仮にもウチの幹部なのだよ? 君が不真面目なのは昔からだが、それでは新参メンバーに示しがつかないだろう」
そんな風に言われると、本当に自分がどこぞの正社員にでもなった気分になれるから不思議だ。十年以上、非正規雇用の日雇い派遣を続け、ここ数年でネット難民にまで身をやつしたような――こんな、歯車以下の扱いしか受けなかった自分が。
もちろん、新城の言葉を真に受ける程、織田も子供ではないのだけれども。
「そうは言っても、報告するコトがないモンは仕方ねェだろ。どこまで行っても同じことの繰り返し――ってヤツだよ」
「何もなければ、それはそれでいいんだよ。定時報告ってのは、そういうものだ。実際、他のメンバーは律儀に報告をしてくれている。私はその全てに目を通し、この『世界』の動きをある程度把握している。そこに穴があってはいけないだろう?」
何だか、さっきから平行線を辿っている気がする。
「『何もありませんでした』ってメールすることに、何の意味があるってんだよ?」
「意味はあるさ。少なくとも、その時点で君が無事だって証明にはなる」
「――アンタ、オレのことを心配してるのか?」
「当たり前のことを聞かないでくれ。幹部のことを心配しないリーダーなどいないさ。特に、織田君は何かとやんちゃがすぎるきらいがあるからね。君の身が無事でも、君の周りはそうではないかもしれない。君はたまに無茶苦茶な行動をとるからね」
「ンだよ、オレがいつ無茶苦茶な行動をとったってんだよ」
「前例を挙げていくかい? 悪いが、私は時系列から、その時の状況、客観的に見た君の感情に至るまで、微に入り細を穿ち、嫌らしいほど細かい描写をする自信があるのだけど?」
「お願いですから、やめてください」
嫌がらせの最上級だ。
「……まぁ、そうだね。今日という日も、あと三十分しかない。君の武勇伝を語るには、朝までかかるに違いない。気に食わない人間の骨を折り、口喧しい人間の喉を潰し、叩き、壊し、刻み、炙り、引き摺っていたぶって――全く、一歩間違えば、君はテッド・バンディ、エド・ゲイン、ヘンリー・リー・ルーカス、アルバート・フィッシュと並ぶくらいの快楽殺人者になってたかもしれないねえ」
新城の挙げた横文字の名前は一人として知らないが、文脈上、それなりに有名な犯罪者なのだろう。それと同列に評されるのが光栄なのか、どうか――恐らくは確実に侮蔑なのだけろうけど――否定できないのが、悔しいところである。
「分かったよ……。アンタがそこまで言うなら、一応、報告はしておく。だけど、本当にしょーもない内容だから、期待しないでくれよ?」
「君の報告で、今までしょーもなくなかったことがあるかい?」
ああ、クソッ! もし許されるのなら、今すぐにコイツをミンチにしてやるのに!
だけど、我慢してしておく。いい歳して、感情、欲望の赴くままに行動していたのでは、犬猫と変わらない――いや、それ以下だ。
織田は瞬時に気持ちを入れ替え、ここ数周観察し続けた、一回り下の少年の話を始める。
「ええと、あの坊ちゃんだけど……まぁ、予定通りだな。
今日になって、どうやってもこのループ状態から逃れられないと気付いたっぽい。朝起きて発狂してたよ。ま、そこからは通例通りってとこかな。どれだけ無気力を感じても、家族と同居してるからそのまま家で寝てるって訳にもいかない。だから仕方なく街に出て――本気でどうでもいいと思ってンだろうな、滝なゆたの件も篠原美那の件も、テストもマックも、何もかもスルーだ。学校にも行かず、午前中はこの公園で時間を潰して――って、そういや、その時アンタもそこにいたんだよな?」
「いたね」
コーヒーをぐびぐびと飲み干しながら、涼しい返答を返す新城。
「だったら、オレが報告するまでもねーだろ。あの坊ちゃんの感じ、アンタだって充分に分かってンじゃねーかよ」
「私はあくまで背景の一部に徹してたからね。数周に渡って彼を観察していた君にかなう訳がない」
「…………」
そう言われてしまっては、返す言葉がない。
本当に、ズルい男だ。
「さ、報告を続けて?」
手の平を見せて促す新城に、抗う術を織田は知らない。
「いや、後はホントに大したことなくてさ――公園出た後、ゲーセンとか漫喫とかで時間を潰して、程良いところで家に帰って爆睡――って感じ? ほぼ、アンタが予測した通りだ」
「……なるほどね」
織田の報告を聞いて、またコーヒーを呷る新城。生憎、彼がどんな表情をしているか伺い知ることはできないのだけど。
「どうすンだよ?」
「どうもしないさ」
「はァ?」
人にこれだけ喋らせておいて、『どうもしない』ということはないだろう。
「織田君には、引き続き彼の観察に当たってもらう。観察だけだ」
「それ、オレじゃなきゃダメなん?」
「残念ながら、他の皆は忙しいんだよ」
「……アンタのさじ加減一つだろーが」
「いやいやいや、偵察にせよ交渉にせよ、適材適所で役割分担してもらってるんだ。筒井君には、筒井君にしか出来ない仕事がある。鷲津さんには、鷲津さんにしか出来ない仕事がある。冗談でも何でもなく、皆、自分たちの仕事で手一杯なんだよ」
「アンタは、暇そうだけどな」
「何を言う。私に一秒足りとて暇な時間などないよ。この先どうするか、その展望に頭を巡らすのに大忙しなんじゃないか」
「具体的に、アンタはどうするつもりなんだ?」
「――土下座する準備は、できている」
「いや、カッコつけて言われてもな……」
結局、何も考えてないんじゃないだろうか。それ以前に、誰にどういう理由で土下座すると言うのだ。意味不明にも程がある。
――それより。
「一つ、聞いてもいいか?」
「何を今さら。聞きたいことがあるなら、好きなだけ聞いたらいい。私に答えられる範囲で答えてあげるから」
「オレの役割って……何だ? オレは、アンタの中でどういうポジションにいるんだ?」
別に、改めて聞くことでもなかった。自分の存在価値など、だいたい分かっている。不真面目で、態度も悪くて、記憶力も悪くて、おまけにひどく逸脱した欠陥人間で――そんな自分を、何故誘い、何故幹部扱いしているのか――そのくらい、馬鹿な自分にだって分かっている。
だけど、確認せずにはいられなかった。
自分の価値を。
自分の意義を。
新城の口から、聞きたかったのだ。
「……君は、遊軍だ」
「ユウグン――って、じゃあ、オレは遊んでればいいってことか?」
「『遊軍』ってのはそういう意味じゃないよ。ただ、決まった任務を持たず、状況に合わせて動かすことができる――って意味でさ。
君には、君にしかできない仕事がある。
だけど君の力が必要になるのは、緊急事態のみだ。有事の際に、君は真価を発揮する。……そのくらいのこと、君自身が一番よく分かっていると思ってたんだけどな」
「……まあ、そうだろうとは思ったけどよ」
口ではそう言いながらも、安堵している自分がいる。何だか妙に腹立たしい。
「心配しなくても、活躍の場は程なくやってくる。それまではこちらの言うことを聞いてほしい。時が来たら――君には、思う存分暴れてもらうから」
言い終えると同時に、こちらを振り向く新城。
「君には――期待してるんだ」
初めて、目があった。
こちらの目を真っ直ぐに覗き込んでの、その台詞。
本当に――ズルい男だと、思う。
そんな風に言われたら、こちらも従わざるを得ないではないか。記憶力が異常によくて、回転が速くて、博識で、おまけに人心掌握に長けていて――全く、厭な男だ。
「とにかく、そういう訳で頼むよ。君は何でもないと思ってるのだろうけど、実際、今まで君がやっていたことも、充分、君にしかできないことなんだから」
そうだろうか。あの程度の仕事、案外誰でもこなせると思うのだけど。
「悪いが、私は私で、色々と忙しいものだからね。彼のことも大切だが、そればかりにかまけている訳にもいかない。知っての通り、深刻な人手不足なものだからね――と」
そこで腕時計を確認する新城。生憎と織田は腕時計なんて洒落たモノは所持していない。仕方なく携帯で時間を確かめる。
午後十一時五十七分。
「……もう、こんな時間か」
「今日という日を無事に終えられたことに、お互い感謝しなければならないね」
「ハイハイ。それもこれも、我らが偉大なボスのおかげですよ」
何だか無性に悔しかったので、精一杯の嫌味をぶつけてやる。
「フン。そんな台詞を言わせたかった訳ではないんだけどね。……まあいい。次周は忙しくなる。……君も、覚悟しておくことだ」
「ハイハイ」
新城の忠告に生返事を返し、織田は空を見上げる。
大きな月が、そこに浮かんでいた。
湿った空気を胸一杯に吸い込む。この天気がいつまでも続けばいいと、本気で思う。勿論、それが叶わぬ願いであることは重々に承知している。数分後には、世界は再び雨の中だ。
やるせない気持ちになりながら、織田はゆっくりと、息を吐いたのだった。