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第一幕 第四章


【午前6時30分】

 ジリ――

 耳障りなアラームを鳴らすその瞬間、悠一は目覚まし時計に掌を叩きつけていた。跳ね起きた勢いもそのままにカーテンを全開にする。雨。下に目をやれば、当たり前みたいな顔をして悠一の自転車が鎮座している。それだけ確認すれば、もう充分だ。

 ついに、四周目に入ったのだ。

 数十秒で身支度を終え、鞄を引っ掴んで部屋を出る。隣室のドアを開け、「起きろ、バカ姉っ!」と叫んでおくのも忘れない。……別にこの行程は省略してもいいのだけど、姉を遅刻させるのも可哀想だし。

 階段を降り、洗面所から大きめのタオルをかっさらって鞄に詰め込み、その足で玄関へと急ぐ。

「おはようっ! 行ってきますっ!」

「え、ずいぶんと早――」

 台所でフライパンを手にしていた母親が何か言っているが、全てを聞き終わる前に家を飛び出る。

 今回は人の命がかかっているのだ。

 今日、滝なゆたという女性が、紫苑駅で事故に遭う。

 持っている『情報』は、たったそれだけ。

 詳細な状況も時刻も、何一つ分かってない。だけど、少なくとも、七時十五分の時点で事故は起きてしまっていることだけは分かっている。ならば、急がなくてはならない。紫苑(しおん)駅までは、どんなに急いでも二十分はかかる。六時五十分――微妙なラインだ。もしかしたら、間に合わないかもしれない。ならば、またやり直しだ。繰り返しだ。

 そんなのは――もう、ゴメンだ。

 真正面から降りつける大粒の雨に息苦しさを感じながら、悠一は力強く、ペダルを踏み込んだ。


【午前6時48分】

 ――着いた。

 腕時計を確認。六時四十八分。……予想していたより、ほんの数分早い。まずまずだ。駐輪場に自転車を駐めるのももどかしく、悠一は急いで学校最寄りの藍土(らんど)駅までの切符を購入し、鞄から取り出したタオルで躰を拭きながら、慌てて上り方面のホームへと向かう。

 通勤・通学ラッシュと重なっているのか、ホームはやたらと人口密度が高かった。サラリーマン、OL、大学生、高校生――様々な人々が、屋根付きの箇所で次に来る電車を待っている。これでは、滝なゆたがどこにいるのかを探すのなど不可能に思える。

 と、そこまで考えて――悠一は、滝なゆたの顔を知らないことに気が付いてしまう。彼女を救うつもりでここに来たのに、これではどうしよもない。せいぜい、不審な人物がいないか、目を光らせるくらいのことしかできない。黄色い線の外側を歩き、ホームに居並ぶ人々を、吟味するように見回る悠一。端から見れば間違いなく悠一自身が不審者に見えるのだろうが、今はそんなこと、気にしていられない。

 そもそも、滝なゆたが人身事故に遭った、という事実だけを知っているものの、それが純然たる事故なのか、自殺なのか、それとも誰かに突き落とされたのか、悠一は知らない。限られた情報の中でできることは数少ない。頭のいい人間なら、少ない情報から『真実』に到達できるのかもしれないけど――悠一には、それすらできないのだ。ただ、気を付けて見回るだけしか……。

 横なぐりの雨は屋根付きのホームにも容赦なく降り付けてくる。皆は黄色い線より更に一メートル程下がって、雨を凌いでいる。その前を、悠一は歩く。滝なゆたらしき人物はいないか、不審人物はいないか、ホーム中に視線を巡らせながら、何度も何度も往復する。

 この中に。

 この中に――彼女はいる。

 滝なゆたが、いる。

 彼女の『死』を阻止すれば……。

 その時は、今度こそ、明日が……。

 

 どれだけの時間が経っただろう。

 どれだけの電車が、通過しただろう。

 ふと我に返って腕時計を見れば、すでに七時二十分を過ぎていた。――本来なら、すでに人身事故が起きている時間の筈だ。だけど、上りホームは平和だ。何も起きていない。線路を挟んだ向こうにある下りホームにも目線をやるが――あちらも同様、日常の風景が広がっている。予想していた惨事など、どこにも見当たらない。


 ――阻止できた……のか?


 あまりに呆気なくて、何だか肩透かしだ。

 人の命を救うのだから、もっと緊迫した事態を想定していたのに……まぁ、別に構わないけど。

 もちろん、まだ油断はできない。この『世界』は多少時間がズレても、状況が違っても、元ある形に戻ろうとする習性があることを、すでに悠一は知っている。これから事故が起こることだって、充分に予想できる。

 悠一は辺りに注意を払ったままケータイを取り出し、昨夜必死になって暗記した番号にかけた。数回の呼び出し音が鳴る間に、言うべき台詞を頭の中で何度も高速シミュレートする。

「……はい、滝ですが」

 電話口に出たのは、甲高い声の中年女性だった。

「あ、あの、朝早くスミマセン。滝なゆたさんのお宅でしょうか?」

 何度もシミュレーションを繰り返した台詞なのに、いざ本番となるとどうしても緊張してしまう。そう言えば、ケータイ同士の遣り取りなら腐る程あるけど、誰かの家の電話にかけるのなんて、初めての経験ではないだろうか。その第一号が見知らぬ相手なのだから、何だか不思議な気分になる。

「……そうですけど……失礼ですか?」

「あ、スミマセン。僕、なゆたさんと同じ大学のタカハシというものです」

 さすがに本名をそのまま言うのは気が引けた。だからと言って、一字違いの偽名もどうかと思うが。子供の頃から、会う人間の十人に三人は『タカハシ』だと間違われたし。

「今日は朝イチから外せない必修講義があるので、遅刻しないようにと思って、電話したんですけど……」

『滝なゆた』という個性を全く知らない割には、うまく話せているのではないだろうか。姉の沙樹と同じ学年・同じ学科ならば、同じ講義を受けている可能性が高い。そうでない危険性もあるが、どちらにせよ親が娘のカリキュラムまで把握しているとは考えづらい。つまり、電話する口実としてはもってこいな訳で。

「あー……それは、ご丁寧にどうも。でも大丈夫ですよ。なゆた、三十分くらい前に慌てて家出て行きましたから。もう電車に乗ってると思いますよ?」

 なるほど。

 彼女は、すでに電車に乗って、今まさに大学に向かっている途中のようだ。ならば取り敢えず、この駅で、人身事故によって命を落とす、というパターンは消えた訳だ――これからどうなるかは分からないけど。

 悠一は丁重に挨拶をして、電話を切った。そしてそのまま次に来る電車を待つ。そろそろ自分も学校に向かわないとマズい。

 取り敢えずは、安心しても――いいのだろうか?

 事故は起きなかった。

 滝なゆたは、死ななかった。

 ダイヤは通常通りに運行され――このまま次に来る電車に乗れば、八時前には学校に着くことができる。

 全てが、うまくいっている気がする。

 うまくいっているのなら、何も問題はないのだけれど――何だか、うまくいきすぎてて、逆に不安になる。

 これで、いいのだろうか。

 このまま、時系列を進めて大丈夫なのだろうか。

 

 それとも――全ては、自分の考えすぎなのだろうか。


 案外、このままうまくやれば普通に明日を迎えられそうな気もする。もちろん、それもこれも、これからの一日をパーフェクトにすごせば、の話だが……。

 考えすぎて頭が痛くなってくる。やってきた電車に乗り、窓際に頭をもたらせ、しばしの休憩を取る。

 これからが、忙しいのだ――。


【午前7時57分】

 前の周より少し遅れて、学校に到着した。

 悠一に休んでいる暇などない。息つく暇もなくC組に突入し、松本を呼び出し、昨日(三周目)と同じ説得を試みる。うまくいくことは分かっている。昨日だってうまくいったのだ。悠一が一字一句同じ台詞を言う限り、松本が納得することなど分かっている。実際、うまくいった。テストが終わった後、松本が美那に連絡を取らないことも、すでに悠一には分かっている。だから英語のテスト範囲を、少し多めに教えてやっておいた。未来はできるだけ変えたくないが、このくらいは構わないだろう。


 テストは、昨日同様、完璧にこなした。


 唯一違う点と言えば、古文と世界史のテストの間に、姉のケータイに電話を入れたことくらいだろうか。

「あ、姉ちゃん!? 今、大丈夫?」

「……何? アンタから電話なんて、珍しいじゃん」

 弟から突然の電話を受けた姉・沙樹はどこかロウテンションだ。きっと、朝早くに悠一に叩き起こされて眠いに違いない。この姉が不機嫌な時は、眠いか空腹か彼氏とうまくいってない時のどれかと、相場が決まっている。

「あのさ、姉ちゃんの学科に、滝なゆたって人、いる?」

「……滝さん? うん、いるけど……何、アンタ、知り合いなの?」

「その人って、今日も学校に来てる?」

 姉の質問を無視(スルー)して、悠一は聞きたいことだけを聞く。

「うん、まあ――普通に来てるけど? 必修でも一緒だったし……」

 やはり、滝なゆたは無事だったらしい。隙あらば少しでも元の形に復元しようとするこの『世界』の習性から心配していたのだが――どうやら杞憂に終わったらしい。

「分かった。ありがと」

 聞きたいことだけを聞いてさっさと切ってしまう。気にすることはない。どうせ数分もすれば忘れてしまうのだ。大らかと言うかズボラと言うか、悠一は、姉のそういう細かいことを気にしない個性が嫌いではなかった。


 そして、放課後。

 悠一、入江、美那の三人はいつものように、マックでの勉強会を始める。そこからは、全く昨日と同じ。美那が騒ぎ、悠一が憎まれ口を叩き、入江が諫め――そんな風にして時間がすぎていく。

 誰も傷付かない。

 誰も死なない。

 そんな、平和な一日。


 何もかもが――完璧に、進んでいた。


【午後3時30分】

 そして、マックでの勉強会は終了する。後は、いつもの会話、いつもの遣り取りのオンパレード。悠一もそれに合わせるようにして、今まで同じような会話を再現。もうすでに、何とも思わない自分がいる。人間は、慣れる生き物だ。否応なしに、慣れなければいけないのだ。どんなに異常で不条理な状況にだって――慣れなければ、やっていけない。


 悠一は店の前で二人と別れ、駅を目指す。今回は、傘を持ってくることも忘れない。どんな些細なことでも、ミスはミスなのだから。

 歩道橋を、渡る。

 一周目に転げ落ち、二周目は渡らず、三周目では通りがかりのOLさんに助けてもらった、この歩道橋。さすがに今日は、足を滑らせるような間抜けな真似はしない。

 こんなところでケチをつけるのも馬鹿らしい。

 全てが順調なのだ。

 全てが完璧なのだ。

 この様子なら、ほぼ満点で明日を迎えることが出来る――悠一は半ばそう確信していた。もちろん、まだ油断はできない。残り数時間は、消化試合というわけではない。まだ、何が起こるか分からない。過信は禁物だ。

 ――視線を感じて、後ろを振り向いた。

 確か、昨日(三周目)もこんなことがあった気がする。確かその時は振り返っても誰もいなくて、気のせいにして終わらせたのだけど――今日は、違った。


 そこには、一人の少女が立っていた。

 髪は肩までの黒髪で、眉の上で一直線に揃えている。見慣れないブレザーの制服を身に纏っているが、恐らくは悠一と同じくらいの年だろう。あまり詳しくないので自信はないが、あの制服は隣町にある樫尾(かしお)女学院のものだろうか。買い物帰りなのか、手にはコンビニのビニール袋を提げている。

「…………」

 目の縁が赤い。

 まるで、さっきまで泣いていたかのように見える。

「…………」

 その少女が――悠一を、じぃっと睨みつけていた。 

 見間違えではない。

 気のせいなどではない。

 五メートル程先で、別の学校の見知らぬ少女が、他でもない自分に対し、圧倒的質量の敵意と悪意をその視線にたぎらせ、ただ無言で睨みつけているのである。視線というものに本当にエネルギーが存在しているのであれば、悠一はとうの昔に消し炭になっていたに違いない。

「……えっと……」

 当然、悠一は混乱した。困惑した。意味が分からない。意図が分からない。何故だ。なんでだ。何故(なにゆえ)に自分が怒りの表情で睨みつけられなければならない。全く心当たりがない。

 そのそも――彼女は、誰なのだ。どれだけ見ても、どれだけ記憶をまさぐっても、彼女とは初対面の筈だ。誰か第三者を経由しているのかもしれないけど、生憎と樫尾女学院に知り合いなどいないし、樫尾女学院に知り合いがいる、という知り合いさえいない。まるで繋がりが見えてこない。

「……あのさ、」

 少しばかりの勇気を出して、声をかけようとする悠一。こんなところでにらめっこしててもしょうがない。勘違いや人違いかもしれない。そうじゃないかもしれない。分からない。分からないのなら、分かるように聞くまでだ。悠一の思考回路は基本的にシンプルに出来ている。

「…………っ」

 だけど、少女は悠一の呼びかけの途中で、こちらにふいっと背を向けて建物の陰に隠れてしまう。追いかけようかと一瞬迷ったが、やめておいた。追い縋ったところで、何と言葉を続ければいいか思い浮かばない。

 何なのだ、これは。

 何だって言うんだ、一体。

 五月十三日も四周目を迎え、意味不明で不条理な状況にもだいぶ慣れたつもりでいた。慣れたうえで、この状況を自分なりに解釈し、推理し、突破口を見つけ、乗り越えるつもりでいた。というか、すでにゴールの目の前にまで来ている。何の問題もなく、遺漏なく如才なく完璧に、明日を迎える準備を整えようとしていたのに……後半に来て、見知らぬ少女に、あんな風に意味もなく睨みつけられるだなんて。

 ……いや、そもそも、意味などあったのだろうか。悠一に心当たりがない以上、因果関係を考えるのは不可能だ。だったら、彼女の行為には端から意味などなかったと考える方が、精神衛生的にいい。きっと、機嫌が悪かっただけなのだ。そういうことにしておこう。そもそも、怒ってすらいなかったのかもしれない。彼女は元々ああいう目付きなのだ。あの目付きのせいで、子供の頃から苦労してきた、そんな可哀想な娘なのだ。

 そういうことにしておこう。

 悠一は意図的に思考を停止させ、帰途を急いだ。

 今日が終わっても、まだ明日がある。

 その明日を見て、自分は生きていかなければならないのだから。


【午後5時30分】

 家に帰った悠一は、まるで義務づけられているかのように、机に向かう。そして明日のテスト勉強を始める。

 大丈夫だ。

 大丈夫。

 大丈夫。

 勉強の合間、何度も何度も、呪文を唱えるかのように、そう繰り返す。全ては完璧だった。全ては想定内、全てが自分の思い通りに運んでいる。

 滝なゆたの死を、阻止した。

 遅刻せずに学校に到着いた。

 テストも完璧に終わらせた。

 美那を、傷つけずに済んだ。

 歩道橋からも落ちなかった。

 何も問題はない。

 何も遺漏はない。

 やり残したことなどない。 

 やり直さなければならない事柄などない。誰も死なず、誰も傷付かず、一切のトラブルはなく、全てが順調に終わった。

 これで、明日は来る筈だ。

 もしこれで、また繰り返してしまうようなら――その時は、今度こそ本当に、どうしたらいいか分からなくなってしまう。今まで悠一が考えてきた仮説、推理を根本的に見直さなくてはならなくなる。

 こういう時、相談できる人間がいないのは辛い。いや――いなくはないのだけど、果たして、こんな荒唐無稽なお伽噺を信じてもらえるかどうか……。


 隣室で音がした。姉が帰ってきたらしい。悠一は軽い足取りで部屋をでて、隣室の扉に手をかける。

「ねえ、姉ちゃんちょっと――」

 言葉の途中で顔にクッションが直撃。思わずその場に尻餅をついた悠一の目の前、扉がバタンと音を立てて閉まる。

「ノックしないで入ってくンなって言ってンでしょうがっ! 三枚に下ろして酢漬けにしてやろうかっ!?」

 相変わらず、その点に関しては異様に厳しいな。着替えの途中だったみたいだけど、別に弟に見られてどうって訳でもないだろうに。……しかし、今日は鮮魚関連できたか。少しでもシチュエーションが違うと、いくらでも違う語彙がでてくるらしい。少し面白い。

「……ゴメンって。今日は早かったんだね。何もなかったの?」

 我ながら、ずいぶんと不自然な質問だ。

「はぁ? ……うん、別に、何も。と言うか、昨日だって同じくらいの時間に帰ってきたじゃん。何なの、急に? 昼の電話もそうだけど――今日のユウ、何かおかしくない?」

「ゴメンゴメン。何もないならいいんだ。じゃあ、俺テスト勉強があるからっ!」

 昼の電話のことも含め、追及されると困るのでさっさと逃げ出しておく。取り敢えず、滝なゆたの通夜がなかったと知れただけでも充分だ。

 全ては、完璧だった。


 夕食を済ませた悠一は、その足で自室に戻った。今日は四日ぶりに、家族全員での夕食となった。……いや、『四日ぶり』というのは悠一の主観によるもので、実際には前日の十二日にも家族四人で食卓を囲んでいるのだけど。……不思議なモノだ。悠一は、しみじみと思う。

 姉が通夜に行き、家族三人だけで食卓を囲む『世界』がある。

 滝なゆたが、紫苑駅で人身事故に遭うという『世界』がある。

 美那が松本に真実を告げられ、傷付くという『世界』がある。

 勉強不足のせいで、テストで惨敗するという『世界』がある。

 全て、悠一が実際に経験してきた――だけど、もうどこにも存在してない、悠一の頭の中だけにある『世界』たち。

 それらは、どこへ消えてしまったのだろう。

 自分は――この、小鳥遊悠一というちっぽけな存在は、どこから来て、そしてどこへ行こうとしているのだろう――。

 ――なんて、どうでもいいか。

 一瞬とはいえ、訳の分からないことを考えてしまったことを後悔する。何を考えているんだ。そんなこと、どうでもいいじゃないか。大切なのは、やがて来る明日をどう迎えるかであって――過ぎてしまったことなど――記憶の中にしか存在しない三日間のことなど――考えるだけ無意味。

 取り敢えず、今はテスト勉強だ。今自分がやるべきことは、それだ。悠一は気分を切り替え、邪念を捨て、もう何度目になるか分からない問題集を、一から解いていくのだった。


 時刻、十一時五十八分。

 こうして時計を見つめながらカウントダウンするのも、もう三度目か。初回は仮眠中に戻ってしまったため、戻る瞬間を実感していないのだ。……まあ、予兆も余韻もなく、毎度毎度気が付いたら朝、という感じなので、実感も何もないのだけど。

 カチカチと規則正しく時を刻む秒針の眺めながら、悠一はただ明日のことだけを考えていた。今までは、期待と不安で半々だった。だけど今は期待が百パーセント。自分はやるだけのことをやったのだ。何度も失敗しながら、試行錯誤しながら、ようやく『完璧』だと思える一日を造り上げたのだ。

 未だに理由は分からない。誰の仕業なのか、何の陰謀なのか、どんな現象なのか――自分の巻き込まれたことの一切合切が謎のまま。だけどそれで構わない。どうせ、この世のほとんどのことなど、自分には分かりはしないのだ。自分はただ、これから自分が向かうであろう先のことだけを考えていればいい。その先々で出会う人々のことだけを、考えていればいいのだ。

 今日が、あと十秒で終わる。

 悠一は軽く溜息を吐く。長かった一日が、これでようやく終わりを告げようとしている。これでようやく、新しい一日が幕を開ける


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