第一幕 第三章
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【午前6時30分】
目覚ましの音ではね起きた。カーテンを開ければ、外は雨。机の上には数学の教科書と、ほとんど白紙のノート。慌てて階段を駆け下りる。
「母さんっ! 今日って何日!?」
「――ビックリした。今、起こそうと思ってたのに……」
台所でフライパンを手にしていた母親が目を白黒させて驚いている。
「知ってるっ! で、今日って何日!?」
「何日って……」
息子の剣幕に気圧されながら、キョトキョトと壁に貼られたカレンダーを確認する。
「――十三日だけど?」
「分かった! ありがとっ!」
言うが早いか、さっさと踵を返して自室にUターン。一、二分で身支度を整え、部屋を出る。ついでとばかりに、隣室を掌底ノック。
「オイッ! 姉ちゃん起きろッ!」
「……………………んあー?」
ダメだこりゃ。ドアを開け、姉の部屋にズカズカと上がり込んでいく。一応ノックはしたし、こま切れにされることはないだろう。
「オイ、起きろって!」
「……ううん……」
「今日、朝イチで必修があンだろがっ!? 後で文句言うくらいなら、さっさと起きろバカ姉っ!」
ベッドにダンッ、と蹴りを入れ、悠一はさっさと部屋を出る。
「……誰がバカだ……ユウのくせに生意気だぞお……」
寝惚けながら何やらゴニョゴニョ言ってるが、今はそんな姉の相手をしている場合ではない。全く――あまり似てない姉弟だけど、こんな風に寝汚いトコはそっくりで、何だか厭になる。
「ゴメンっ! 俺もう行くわっ! 朝メシいらないからっ!」
玄関先で靴を突っかけながら、母親に対して声を張り上げる。
「えぇ!? ちょ、悠一、電車の時間なら、まだ――」
「その電車が遅れるんだっての! 今日は自転車で行くっ!」
「でも、雨――」
「行ってきますっ!」
母親の言葉を背に受けながら、悠一は玄関を飛び出す。外はザンザン降りだが、構ってなどいられない。最寄りの華見駅で、三十分待ちぼうけを喰らう『未来』を、悠一はすでに知ってしまっている。学校最寄りの藍土駅までは三駅の距離だ。だったら、自転車を漕いで行った方が早い。ほとんど役に立ちそうもない傘を左手に握りしめ、悠一は大腿筋をフル稼働させて学校までの道を急いだのだった。
【午前7時45分】
「松本いるっ!?」
学校へ着くや否やC組の教室に乱入した。美那の(この時点での)彼氏・松本虎太郎は、この二年C組に在籍している。
「うっわ、ビショビショ……」
「てか、誰?」
「タカナシだっけ? A組の――」
外野が何やら騒いでいるが、今の悠一には、そんなもの一つも耳に入らない。教室を見回し、即座に長身の松本を視界に捉え、そちらに向かいズンズンと歩みを進めていく。勢いよく歩くたびに、髪や制服からポタポタと水滴が垂れる。大雨の中、自転車で突っ走ってきたものだから、全身濡れ鼠になっているのだ。
「……松本、ちょっと、時間ある?」
教室の最後列の席に、彼はいた。二時間目のテストに備えているのか、机の上には英語の教科書が開かれている。
「――おお、誰かと思えばコトリアソビじゃん」
「タカナシ。ベタな読み間違いはやめてくれ」
『小鳥遊』と書いて『タカナシ』と呼ぶ、この珍しい苗字のせいで、今までどれだけからかわれてきたか。言う方は面白いのだろうけど、正直、言われる方はウンザリなのだ。
「……どしたの、お前? ビショ濡れじゃん。タオル貸すから、拭けって。風邪ひくぞ?」
キレイに整えられた眉毛を寄せ、バッグから取り出したスポーツタオルを渡してくれる松本。
「……ありがと」
悪人ではないんだよな……困ったことに。
殴りかかるくらいの勢いで来たのに、毒気を抜かれてしまう。だが、ここで引き下がる訳にもいかない。大雑把に躰の水滴を拭い、意を決して口を開く。
「……ちょっと、話があるんだ。五分もかからない。他の人に聞かれたくない内容だから、ちょっと廊下に来てもらっていいか?」
「……いや、別にいいけど……話って、何?」
そう尋ねる松本はどこまでも爽やかで、物腰も柔らかく紳士的で――何だか、やりづらい。
だけど今さら剥いた牙を収めることなどできない。……そう、これは、自分だけに課せられた『使命』なのだから……。
「時間がないから、単刀直入に言うわ――」
廊下の隅、柱の陰となる部分に、悠一と松本はいた。美那を通して何度か面識はあるが(この男は何度訂正しても悠一のことを『コトリアソビ』と呼ぶ)、こうして二人きりで話すのは初めてだ。
「――何?」
こちらが真剣モードなのに気付いてか、松本の顔もキリリと引き締まる。太い眉、二重の目には力があって大きくて、だけど顔全体のバランスはとれていて、テニス部で鍛えているせいか均整のとれた体つきをしていて――まあ、俗に言うところの『イケメン』ってヤツだろうか。これでモテない訳がない。……別に、そのこと自体に問題などない。妬んでなどいない。僻んでなど、いない。だけど――クラスメイトを傷つけるとなれば、話が別だ。
「……お前さ、美那と付き合ってンじゃん?」
「そうだよ? ま、最近は部活の方が忙しくて、なかなか会えないでいるんだけど」
「だったらさ、とりあえず……テストが終わるまでは、会わないでやってくれるかな?」
「ハァ?」
悠一の唐突な申し出に、やたらと柄の悪い声を出している。
「ああ、いや、ゴメン。変な声を出して。――でも、何で? ちょっと意味分かんないんですけど」
「じゃ、分かるように言うわ。違ったら否定してくれ」
僅かに気色ばむ松本を前にしても、悠一の言葉には迷いがない。威圧的ですらある。それを感じてか、対する松本もちょっと気圧されている。
「松本、お前、マネージャーの高原みやびと付き合ってンだろ? しかも、本命はそっちだ。美那は、部活が暇な間だけの遊び相手にすぎないと思っている」
「ちょ、コトリ、何でソレ――」
「だから聞けって。あと、俺の苗字はタカナシだ。間違ったうえに略すんな。訂正すんの、これで最後にすんぞ」
「いや、それは分かったけど、何で――」
「何で俺がそれを知っているのかは、聞くな。特殊な情報筋、とでも思っておいてくれ」
「…………」
ついに無言になってしまう松本。まるで宇宙人とでも対峙しているかのように、呆然とした表情をしている。
「話を戻すぞ。……お前は、二股をかけている。だけど、それが本命の高原にばれてしまった。お前らは喧嘩した。だけど、許してくれた。いや、お前が謝り倒して、どうにか許してもらった、って方が正しいか。いずれにせよ、高原が許してくれたのは、自分が本命だと分かっていたからだ。分かったうえでの余裕、優越感から、どうにか彼女はお前を許した。
……だけど、彼女は――本命の高原みやびは、お前を許すにあたって、一つの条件を出した。
浮気相手の篠原美那との関係を、一刻も早く精算すること。
それで、お前は、今日、美那に、本当のことを話そうとしている――違うか?」
たたみ掛けるように、噛んで含めるように、こちら側の要求を伝える。
「な、何で、お前が、そんな……」
一気に捲し立てた悠一に対し、松本は口をパクパクさせて混乱している。
「そんなの、お前に関係ないだろ!?」
「あるね。美那は、俺の友達だ。うるせーし、口開けば可愛くねェことばっか言うヤツだけど――だけど、アイツが傷つくのは、何つーか……許せねェんだよ、俺的に」
「そんなこと言われても……今さら……」
「だからさ、やり方を変えればいいんだっつの。フるにしてもさ、もうちょっとやり方ってモンがあンだろ!? 何でもかんでも、ホントのことをストレートに言やいいってモンじゃねェんだよ……。ホントのこと言って傷つけるより、ウソついて救うことの方がいいってコトもある。そうだろ!?」
「そりゃ、まぁ……俺だってそうは思うけど……」
一方的な悠一の台詞に、松本は頷くしかない。
……それにしても、昨夜、必死にイメージトレーニングしたとは言え、ここまでスラスラと台詞が出てくるなんて。自分には詐欺師の才能があるのかもしれない。
「ゴメンな。急に呼び出して、色々言っちゃって……。でもさ、俺も、美那が傷つくの分かってて、黙って指くわえているなんてコト、できねェしさ」
「……いや、まあ、それは分かるけど……悪いのは俺の方だし……だけど、ミナを傷つけないようにって言われても、急には――」
「慌てて考える必要なんかないんだって。取り敢えず、今日はやめてくれ。テスト期間中だし――タイミング的に、最悪なんだよ。別に、今日じゃなきゃいけないってこともないんだろ?」
「それは……まあ……」
先延ばしでしかないことは分かっている。対症療法でしかないことは、分かっている。だけど、やらない訳にはいかないのだ。今日のトラブルを解決しないことには――明日は来ないと、分かっているから。
「繰り返し言うようだけど――ホントに、ゴメンな。テスト前に面倒くさい話しちゃって。でも、どうしても今日中に、松本に言っておかなきゃいけない、と思ってさ」
何故、今日中でなければいけなかったのか、その理由――自分には今日しかないから――なんて、言える訳がない。どうせ言ったところで信じてもらえないのだから、意味などないのだ。
「いいよ。悪いのは俺の方だし――分かった。考えておくよ」
「……ありがとう」
想定外に紳士的な松本の言質をとったところで、ようやく悠一は自分のクラスへと向かったのだった。
「十五ページの和訳、テストに出るぞ」
そんなアドバイスを置き土産にして。
――さぁ、本番はここからだ。
【午後0時30分】
悠一は震えていた。
机に突っ伏しながら、表面の傷を凝視しながら――躰の震えを抑えられずにいた。
――こんなことが。
――こんなことが、あっていのか。
本当に、困った。自然と顔が綻び、紅潮してしまう。この喜びをどう表現すればいいか分からない。躰の奥からエネルギーが湧き出るのを、どうすることもできない。
「――灰になってるねぇ……」
「燃え尽きてもいないくせ――」
「俺は充分に燃え上がってるッてんだよッ!」
ガバと起き上がり、その勢いのまま、美那の額をペシリと叩いてやった。
「いだっ」
「……どうしたの、小鳥遊?」
額を押さえる美那の横で、入江が訝しげな表情を見せている。だけど親友のそんな顔ですら、今の悠一はエネルギーに変換してしまう。とにかく早く、この喜びを分かち合いたい。
「聞いてくれよ、入江――」
「うん」
「……聞いてくれよ、入江さん。ちょっと聞いてくださいよ」
こみ上げる笑いを抑えることができない。クツクツと笑いながら、入江の肩をバンバン叩く。
「うん、聞くってば。だから話して? あと、痛いから叩くのはやめてね?」
「俺――ついに、やってやったんだよッ!」
「ん? やったって、何を?」
「テストだよッ! 数学も英語も古文も世界史も、オールコンプリート――ほぼ完璧ッ! 信じられるか!? 赤点常連だったこの俺が、下から数えた方が遙かに早いこの俺が、解答用紙を全て埋めただけでなく、テストにかなりの手応えを感じているなんてッ!」
言いながら、ボルテージが上がっていくのが分かる。声もかなり大きい。分かっている。
「やればできる、努力は必ず報われる――そんなモン、一握りの勝ち組連中だけに許されるキレイゴトだと思ってた……ッ! だけど、だけれど、実際は違ったんだッ! 俺はついにやってやったんだよッ! 数学! 英語! 古文ッ! 世界史ッ! 紆余曲折の果てに、俺はついに満点に近い結果を叩き出したんだッ!」
それはすでに大声というレベルではなく、『叫び』と表現した方が適切かもしれない。すぐ横で聞いている入江や美那にしてみれば、うるさくて仕方がないだろう。だけど、許してほしい。悠一にとってはそれだけの出来事なのだ。驚天動地なのだ。前代未聞なのだ。前人未踏なのだ。言葉の使い方が間違っている気がしないでもないが、細かいことは気にするな。
「俺はやったんだッ!
やってやったんだッ!
ついにやってやったんだッ!
俺はやりゃできる男なんだよッ!
新しい小鳥遊悠一、ここに誕生だッ!」
悠一の咆哮がが教室に木霊する。教室に残っていたクラスメイトのほとんどが、何だ何だとこちらを見ているが、構うモノか。何も知らず、いつもと同じ会話を始めようとしていた入江と美那は、ポカンとして椅子の上に立つ悠一を眺めている。
「……小鳥遊、どうかしちゃった?」
「オーバーヒート、しちゃったんじゃないかな……。頭の使いすぎで。追い詰められてたんだよ、きっと……」
「だよね……。こんな、ありもしない妄想にすがるまで精神をやられてたなんて……。もうちょっと早く、気付いてやれれば……こんなに近くにいたのに……」
「オイッ! 何コソコソ話してンだッ! 丸聞こえなんだよッ!」
「小鳥遊――大丈夫だから、ね? 定期テストの結果なんて、長い人生においては些細なことなんだ。そんなに、気に病むことじゃないんだよ?」
「オメェは人の話を聞いてねーのかよッ! こちとら完璧だったって言ってンだろーがッ!」
「うんうん、そうだね……。大丈夫――大丈夫だよ? 僕は、何があっても小鳥遊の親友でいるから……長い時間をかけて、ゆっくりと治していけばいいからね……?」
「……悠一、かわいそう……」
憐憫の表情を隠そうともしない二人を見て、頭の血管が何本かブチブチと切れていく。
「うがーッ! そんな目で俺を見るなーッ! 俺は正常だッ! 本当に、俺はやってやったんだっつのッ!」
「……まさか、虚言癖になるまで追い詰められていたなんて……」
「だーかーらーッ、虚言なんかじゃねーつーのッ! と言うか、全体的に可哀想な感じにすんじゃねぇーッ!」
嘘ではない。妄想でもない。悠一は、やってやったのだ。自分自身の力で、数学、英語、古文、世界史の四教科を制覇してやったのだ。
「答案返ってきたら、真っ先にお前らに見せてやっからなッ! 俺が本気出したらどうなるか、刮目して認識しろッ!」
「……最高にハイって奴だねぇ……」
ハイテンションでたたみ掛ける悠一を相手に、入江は呆れ笑いで応えている。薄々感づいてはいたが、やはり先ほどのは単に悠一をからかっていただけだったらしい。……しかし、打ち合わせもなしにあの言い草か。入江と美那――何故、この二人は悠一をからかうことに関して抜群のチームワークを発揮するのか。何だか色々と悔しい気持ちになる。
「ま、手段はどうあれ、小鳥遊が赤点免れたのなら、僕は素直に祝福しておくよー」
赤縁眼鏡の奥の目を細め、入江はそんなことを言う。
「それのどこが『素直』なんだよッ! 『手段はどうあれ』って何だ!? 物凄く引っ掛かるんですけどッ!?」
「……………………カンニングじゃないの?」
「――親友だったら何を言っても許されるって訳じゃないんだよ、入江明弘くん」
「ハハ、ゴメンゴメン。謝るから、無表情のままフルネームで呼ぶのはやめてね? 怖いから」
笑って誤魔化している。
だけど――悠一が表情をなくしたのは、純粋に怒りのため、という訳でもない。焦ったのだ。入江にカンニングを指摘され、焦って無理にギャグっぽく突っ込んだのだ。
もちろん、教科書や答案を盗み見るとか、仕込んでおいたカンペやケータイを使うといったような、分かりやすいカンニングなどしてないない。
だけど……やっていることは、大差などない。
悠一は、あらかじめテストで何が出るのかを知っていた。
知っていた上で、学年で何番目かの秀才である入江に個人授業までしてもらって――真剣にテストにあたったのは事実だが、そのやり方は、正々堂々とは程遠いもので。
――何が実力だ。
――何が本気だ。
とんだ卑怯者じゃないか。外からは見えない薄皮一枚下で、悠一は軽い自己嫌悪に陥る。
だけど、やらない訳にもいかないのだ。
唐突で意味不明で、理不尽さすら感じさせるループ状態――すでに五月十三日も三周目に入っている。何もかも分からないのは相変わらずだが、昨夜、悠一は一つの結論を得た。
――つまり、同じ一日を何度も繰り返してしまうのは、その一日に何らかのやり残しがあったからで――何らかの、失敗があったからで。
まだ見ぬ明日に到達するためには、今日という一日を完璧にすごさなくてはならない――そう、結論付けたのだ。
人身事故を見越して、自転車で登校した。
美那を傷つけないよう、松本を説得した。
卑怯な真似を使って、テストを攻略した。
先に進むためには、仕方がない。
仕方が、ないんだ。
「……ま、真面目な話、小鳥遊が赤点回避するためだったら、僕はできるかぎりのことをするつもりでいるんだけどねー」
「お前はいい奴だな――だけど、気遣いは無用だッ! この俺は生まれ変わったのだからなッ! これからの小鳥遊悠一にこうご期待だッ!」
僅かばかりの自嘲と罪悪感をハイテンションで吹き飛ばし、悠一は着々と時系列を進めていく。
一日を、進めていく。
「それよりオメェら、腹減らねェ? これから、勉強会も兼ねて、マック行こーぜ」
空腹なのは、本当だった。何せ今日は朝食抜きだ。よく集中力が持続したと、自分でも驚いている。
「奇遇だね。僕も今、そう言おうと思っていたトコだ」
だけど――奇遇などでは、ない。断じて違う。何せ、悠一は今日というこの日、どの場面で誰がどんな台詞を吐くかを、だいたい記憶しているのだから。
「ね、二人ともさ、帰りにマック寄ってかない?」
記憶していて、入江が何を言うのか分かっていて、それで敢えて先手を打ったのだ。悠一は、先に何が起こるのかを知っている。この先の出来事を、『経験』として、『知識』として、『情報』として知っている。秀才の親友・入江が何を言うのかも知ってしまっている。それが分かったうえで――自分は、入江の台詞を横取りしたのだ。
もちろん、そんなことに大した意味はない。誰が言っても角など立たない、ただの日常会話にすぎない。
問題は――悠一の心にある。
自分は、何をしているのだろう。
何様のつもりなのだろう。
こんな異様な状況に巻き込まれて、他の人間より多くの情報を得て――それで、上に立ったつもりでいるのか。入江の台詞を先取りして、それで優越感に浸りたいのか。頭脳も、才能も、人格も、遙かにと劣っているくせに、そんな僅かなことで――努力や才能ではなく、ハプニング的に入手した『情報』で――自分は、親友を出し抜こうとしているのか。
客観的に見れば大したことではないのかもしれない。だけど、悠一にとっては大問題だった。こんな異常な状況下で、自分は自分の優越性を、自分に示そうとしている――全く、反吐が出る。
どれだけ、自分が好きなのだろう。
自分の稚拙さに、幼稚さに、卑小さに――ほとほと嫌気が差す。
とは言え、そんなこと、目の前にいる入江や美那には関係がない。悠一は肥大した自己愛を奥深くに封じ込め、とにかく話を先に進めることに専念する。
「どうだ? 明日のテスト攻略もかねて、入江先生にご教授を願おうじゃあないかッ!」
傲慢なんだか卑屈なんだか分からない台詞を吐きながら、悠一は二人の反応を見る。
「……まぁ、僕は最初からそのつもりだったからいけどさ……篠原は、どう? 僕らと一緒に、勉強会に参加する?」
話を振られた美那は、一心不乱にケータイをいじくっている。
高橋からの誘いメールが来ないことは知っている。
悠一が、そうしたからだ。
松本からのメールは来ない。別れ話を切り出されて、傷付くこともない。
――少なくとも、今日は――。
だけど、悠一にはそれで充分だった。
今日を、乗り越えられればいいのだ。
五月十三日――この今日と言う日、悠一を含めた誰もが悲劇に見舞われなければ――それで、いいのだ。
「あ――でも、今日は松本と遊ぶ予定があるのかな? だったら、無理にとは言わないけど」
悠一の気持ちも知らず、そんなことをしれっと言う入江。KY最上級。
……まぁ、『空気読めない』なんて――その『空気』は悠一が勝手に作ったモノなのだけれども。
そう言えば、『空気』って、いつから解読しなければいけないシロモノになったのだろう? 解読しなければ呼吸することもできない。そしてそれを、皆、当たり前のこととして受け入れている。
道理で息苦しいわけだ。
「……何か、メールの返事来ないんだよね。ずっと待ってるんだけど」
そんなモノ、待たなくてもいいのに。待つだけの価値なんて、ないのに。
「部活も休みだし、久しぶりに一緒に遊べると思ったのにナ――知らない、あんな奴!」
パチン、とケータイのフリップを閉じる美那。気分を変えようとしているのか、さっさと帰り支度を始めている。
――よし、計算通りだ。
「さぁ、行くなら早く行こ? きっと混んでるよ?」
切り替えの早い美那に急かされるようにして、三人は教室を後にしたのだった。
【午後1時10分】
「――雨、やんだね」
「篠原、よそ見しないで。誰のためにやってると思ってるのさ」
「あ、見て、虹出てるよ!?」
駅前のマック、二階窓際の席にて。
悠一はノートにシャーペンを走らせながら、目の前で繰り広げられる入江と美那の遣り取りを不思議な気持ちで眺めていた。
既視感ではなく、既視。
すでに何度目になるか分からない。ただ今までと違うのは、かつて悠一が放っていた台詞を、今度は美那が喋っているという点にある。悠一が黙っていたために、補完するために、美那がその代理を務めた――ということだろうか。
この『世界』は、放っておくと、是が非でも、ほんの僅かでも、元ある形に収束しようとする性質にあるらしい。
「もしかして、飽きた? 始めて三〇分で、もう飽きちゃった? やめる? 帰る? 帰って寝ちゃう? それで明日のテスト、赤点取る? 僕はそれでも一向に構わないよ?」
「そんな訳ないじゃんっ! 雨やんだね、虹出てるねって、見たまま言っただけじゃん。あたしはいつだって、やる気満々だよ!?」
「じゃあ、小鳥遊と一緒にここの例題解いて?」
「……むー」
「俺は、さっきから黙々と勉強してンだけどな。美那と一緒にすんなよ」
入江が指示した例題は、すでに解いてある。一昨日、必死になって勉強したのだ。そんなにすぐ忘れる訳がない。
「何よ、ちょっと今日のテストで手ごたえ感じたからって、調子乗っちゃってーっ! 言っときますけど、それでもあたしの方が順位上なんだからねっ!」
「今回のテストで逆転するっての。どうせお前、数学赤点なんだろ? 悪いけど、俺、八〇はとれてるから」
「はぁ!? 何、その自信!? ちょっと勉強したくらいで、いきなりそんないい点数とれる訳ないじゃん!」
「お前は俺の本気を知らないんだよ」
「何コイツ、ムカツクなーっ! 入江クンからも、何か言ってやってよっ!」
「……篠原、例題解いてくれる?」
美那のヒステリーを、入江はいつもの苦笑いで受け流す。
「分かんないんだもん、解けないよっ!」
「――――で?」
苦笑を浮かべる目の奥が、笑っていない。
「……スミマセン。教えてください……」
「よろしい」
素直に教えを請う美那の横を陣取り、入江の丁寧で分かりやすい解説が始まる。悠一は薄くなったコーラを啜りながら、そんな二人の様子を眺めている。
何だか、ひどく、いつも通りの光景だ。
これが、『日常』と言うヤツだろうか。
場所がマックに移っただけで、三人の遣り取りはいつも教室で行われているモノと大差なく――美那は無駄に明るく、入江は穏和で冷静で、悠一は馬鹿な憎まれ口ばかり叩いて――少なくとも、この場には傷付いている人間も、悲しんでいる人間もいない。それだけは断言できる。
――ならば。
これで、明日はやって来るのだろうか。
今日のやり残しがなければ、必ず明日はやって来る筈――などと言うのは、あくまで悠一が立てた仮説にすぎない。真相は、全く別の場所にあるのかもしれない。だけど、今の悠一には、その仮説に縋るしかないのだ。何かに縋らなければ、とてもではないが、正気を保っていられない。
今日は、終わる。
明日は、来る。
悠一は自分にそう言い聞かせ、すっかり冷えて固くなったフライドポテトを口に放り込んだのだった。
【午後3時50分】
勉強会は思ったより早い時間にお開きとなった。一昨日は、確か五時までかかっていたように記憶している。まだ日が高いうちに終われたのは、単純にスタートが早かったのと、傷心の美那を慰める必要がなかったからだろう。
「とりあえず、今日教えたところを完璧にしておけば大丈夫だね。後は二人の努力次第だよ」
時間はだいぶ早いものの、入江の台詞は一昨日のそれと全く変わらない……気がする。
「ありがとね、入江クン。すごい助かった!」
「お礼を言うのはまだ早いってば。本番は明日だから、ね?」
何だか、目眩がする。
「――小鳥遊は、絶対に寝ないこと。徹夜しろとは言わないけど、せめて二時くらいまでは頑張って」
同じ台詞。
同じ言葉。
繰り返し。
――繰り返し。
――――繰り返し。
――――――繰り返し。
「――小鳥遊? 聞いてる?」
入江の声で我に返る。よかった。これは、初めて聞く台詞だ。
「大丈夫? 何か、顔色悪いけど?」
「大丈夫……だと思う。ただ、疲れてるだけじゃねェかな……」
やっとの思いで、それだけの言葉を紡ぐ。それ以外に、言いようがない。『記憶にあるのと同じ台詞ばっかで、気持ち悪くなってきた』なんて――言える訳がない。
「悠一、もしかして、風邪ひいたんじゃん? ほら、今日の朝、あの大雨の中、自転車で来たんでしょ? 昇降口で見かけたけど、ズブ濡れだったじゃん!」
案外、美那の言う通りかもしれなかった。精神的なモノもあるが、肉体的にも、確実に衰弱している。
「そっか……なら、さっきあんなこと言ったばっかだけど、今日はあまり無理しない方がいいかもしれないね。勉強も大事だけど、それで学校に来られなくなっちゃうようじゃ、大変だし」
「そうそう! 悠一ってさ、体力とか健康とかには自信あるっぽいけど、そういう人が一番危ないんだからね! 特に、風邪のひき始めは大人しくしてなきゃ!」
「分かった……ほどほどに、しておくよ……」
珍しく優しい言葉をかける二人に手を振り、悠一は駅を目指した。
そう言えば、今日は、自転車で来たんだっけ……。そんなこと、今まですっかり忘れていた。だけど、今さら学校に引き返す気にもならない。学校から家まで、自転車で数十分――今の悠一に、そんな体力など残されていない。
あと、今日もまた、傘を忘れてきてしまったようだ。ダメだ。マックに行くと、どうしても忘れてしまう。
駅へと繋がる歩道橋、その下りに差し掛かったところで――悠一は足を滑らせた。刹那、心の中で舌打ちする。嗚呼、こんなところまで一緒だなんて――昨日は、マックから美那のいる駅前広場に直接向かったため、歩道橋は渡らなかった。だから失念していたのだ。
バランスを崩し、転げ落ちるのを覚悟して受け身の姿勢を取る。
……しかし、いつまで待っても衝撃は訪れなかった。誰かが悠一の右腕を咄嗟に掴んで、引っ張り上げてくれたからだ。
「キミ、大丈夫!?」
「あ……はい」
悠一の腕を掴んでくれたのは、落ち着いた色調のスーツに身を包んだ、細身の女性だった。歳は二〇代半ばといったところだろうか。少しキツ目の印象も受けるが、充分に『美人』と呼べる容貌をしている――って、そんなこと、どうでもよくて。
「……ありがとう、ございました……」
「え、ちょっと、本当に平気? 何か、顔色悪いよ?」
こんな通りすがりの人にまで言われるってことは、本当にひどい顔色をしているのだろう。
……だったら、なおさら早く帰らないと。
「すみません……本当に、大丈夫ですから……。じゃあ……」
無愛想に聞こえたかもしれないが、本当に辛いのだから仕方がない。悠一は、一歩一歩踏みしめるようにして、歩道橋を降りていった。
…………?
不意に強い視線を感じて、振り返った。
しかし、そこには誰もいない。
――体力がないせいで、変に敏感になってるな……。
首を振り、おかしな妄執を振り払い、駅へと急いだ。
【午後5時30分】
やっとの思いで家に辿り着いた悠一は、着替えもせずにそのままベッドに倒れ伏した。
…………。
その姿勢のまま、数分。危うく眠りに落ちそうになるところで起き上がる。リビングに下りて風邪薬を飲み、洗面所で顔を洗った。たったそれだけのことで、ほんの少し回復した気がしてくるから不思議だ。やはり、単純に疲れていただけなのかもしれない。と言うか、そういうことにしてしまおう。明日が来るにせよ来ないにせよ、こんなところでダウンする訳にはいかないのだ。
悠一は自室に戻り、真面目に明日のテスト勉強を始めていた。本当に明日が来るのかどうかなんて、分からない。来ないかもしれない。だけど、絶対に来ない、という確証もない。もしこのまま、何事もなかったかのように五月十四日が来たのなら――待っているのは、赤点祭りだ。ある程度、入江に基礎やヤマを教えてもらったとは言え、まだまだ勉強が足りない。このままでは駄目になると分かり切っている。あれほど渇望した明日に待っているのが、失敗では浮かばれない。少しでも失敗する危険性があるのなら、保険はかけておくべきだ。
しばらくして、にわかに隣室が騒がしくなる。沙樹が帰宅したらしい。悠一はシャーペンを置き、慌てて姉の部屋へと向かう。
「姉ちゃん、帰ったのー?」
ドアの外から、声をかけた。
「あぁ、うん……ただいま」
「おかえり――ドア、開けていい?」
「開けたら合い挽きにする」
ミンチにされたくはないので、大人しく従っておく。微妙に状況が違うせいか、昨日とは違う台詞が返ってくるのが、何だか妙に嬉しい。……何故脅し文句が精肉関係ばかりなのかは、全くもって謎だけれども。
「どっか行くの?」
「うん……同じ学科の娘に不幸があって……これから、そのお通夜。お母さんには、ご飯いらないって言っておいて!」
この問いには、昨日と全く同じ答えが返ってくる。それに対して、昨日の悠一は『分かった』と簡単な返答をするだけだったのだが、
「……それ、何て人?」
今回は、もう少し突っ込んだ質問をしてみる。
「は? いや別に、ユウの知らない娘だけど? 私だって、『友達』って呼ぶほど親しかった訳じゃないし」
「オカルトサークルの人でもなくて?」
「だから、ただ同じ学科ってだけだってば。あと、前から言ってるけど、占いはオカルトじゃない!」
姉は大学で『占星術研究会』という怪しげなサークルに所属している。昔から、タロットとかの類が大好きなのだ。この前も、バイトで稼いだ金で数万もする水晶玉を買ったと言って、家族を呆れさせたばかりだ。
「とにかく、その人のこと、教えてよ」
「滝――滝なゆた、って娘ダケド……」
滝なゆた、ね……覚えた。
「何なの? アンタ、何か知ってるわけ?」
「分かんない」
「何ソレ……」
弟の態度に鼻白んでいるのが、ドア越しに伝わってくる。
「分かんないけど、もしかしたら知ってるかも。だから教えてよ。その滝さんって人――何で、死んじゃったの?」
「私もよく知らないケド……何か、駅のホームから線路に落ちたところを、来た電車に轢かれたんだって――」
全身を電流が貫いた。
そういう風に――繋がるのか。
「それって、朝の話!? 紫苑駅であった、人身事故のこと!?」
紫苑は華見の隣駅だ。今日の朝、紫苑で起きた上りホームでの転落事故のために、華見は数十分、列車の運行がストップした。昨日も、一昨日もそうだ。
「は? 何でユウがそのことを知ってンの?」
「いや、だってそのとき華見にいたし! その事故のせいで、すっげぇ電車遅れたし!」
「……アンタ、今日、自転車で学校行ったんじゃなかったの?」
迂闊だった。今回の今日は、自転車通学だったのだ。悠一が電車で通学したなんていう現実は、もうどこにも存在しないと言うのに、混乱でごっちゃになってきたらしい。
「ちがうちがうちがう。今のは、同じ駅から通ってる友だちの話! 俺は自転車で行ったんだけどサ、そいつ、その紫苑の人身事故のせいで遅刻ギリギリで――」
慌てて弁解を始める。
「ふうん……別に、何でもいいけど」
唐突に目の前のドアが開かれる。そこには、黒のワンピースを喪服代わりにした沙樹が立っている。アクセサリの類は何もなく、メイクも控え目。普段のギャルっぽい印象はどこにもない。
どうやら、悠一と話をしながら着々と身支度を整えていたらしい。器用な女だ。
「聞きたいのは、それだけ?」
「……あ、うん」
いつもと違う、清楚で落ち着いた雰囲気の姉に戸惑い、僅かばかり気押されてしまう。
「そ。……じゃ、行ってくるね」
「……行ってらっしゃい」
階段を下りていく姉の背中は、何だか少し気落ちしているように見えた。件の滝なゆたとどうの程度親しかったのか――或いは、同じ学科というだけで、ほとんど親交がなかったのか――悠一は、何も知らない。だけど、いずれにせよ、沙樹は今日、初めてその訃報を聞いたのだ。ショックを受け、気落ちするに決まっている。
面識すらなく、訃報自体、聞くのが三度目の悠一とは気持ちのレベルが違うのだろう。
――滝なゆた。
姉が教えてくれた名前を、心の中でもう一度反芻してみる。
滝なゆた。
滝なゆた。
滝なゆた。
何度繰り返したところで、思い浮かぶ事柄など何もない。全く知らない人間だ。こんなことでもなければ、この先も何一つ接点などなかったに違いない。
――だけど。
悠一はまた一つ、新しい仮説を立てていた。
『滝なゆたの死』が、今回の現象に関わっているのではないか―― 彼女の死を阻止すれば、悠一にも明日が来るのではないか――
そんな、仮説だ。
滝なゆたなんて、面識もない、ついさっきまで名前すら知らなかった人物の生き死にに、何故悠一が関係しているのか――それは分からない。だけど、少なくともこれには人命がかかっているのだ。テストで赤点をとらないとか、美那を傷つけない、というモノとはレベルが違う。
人の命を救うことで、それが明日に繋がるなら――そんなに素晴らしいことはないではないか。
毎度のことながら、根拠などない。確信もない。ただ、何となくそう思っただけだ。
勿論、三周目の今日で終わりになる可能性も高い。そのために今日一日頑張ってきたのだ。雨の中自転車を走らせ、松本を説得し、テストも完璧にこなし、美那を傷つけずに済ませて――それでループ現象に別れを告げられるのなら、それに越したことはない。
ただ、強いて言うならば――滝なゆたは――助けたい。
それだけが、今日唯一の、心残りだ。
もし明日が来ないのであれば……今度こそは……。
今日中に出来ることはやってしまおうと、取り敢えず玄関先の電話台から分厚い電話帳を取り出し、調べ物をする。幸い、この町内に『滝』姓は一世帯しかいなかった。これが滝なゆたの実家であるかどうかは五分五分だが、取り敢えず今はこれに賭けてみるしかない。いつもなら、速攻でケータイに登録するか、メモに記すかするのだけど――生憎、繰り返す今日には、記憶しか持って行けないのだ。仕方なく、市外局番を除く七桁の番号を必死に暗記する。何度も復唱し、暗唱して、頭に叩き込む。電話番号を暗記したのなんて生まれて初めてだ。
家族との夕食を済ませ、自室に戻った悠一は、また明日のテスト勉強を再開する。今日のと違って、明日のテストは何が出るか分かっていない。だからなかなか進まない。だけど考えてみれば、そっちが当たり前なのだ。分からないから、勉強するのだ。……勉強したからと言って簡単にできるようになるほど甘くはないのだけど――それでも、何もやらないよりは数段マシだ。
九時前くらいに、姉が帰ってきた。今まで友だちとファミレスで食事をしていたらしい。一応念のため、と思って、姉に滝なゆたのケータイ番号を聞いてみたが――やはり、知らないらしい。『友達』と呼ぶほど親しかった訳じゃない、という姉の言葉は本当だったらしい。
「アンタ、さっきから何なの? 何を調べてるの?」
いかにも訝しげな姉を、適当な言葉で必死で誤魔化した。幸い、彼女も疲れているのか、それ以上追及してくることはなかった。どっちみち、明日になれば忘れているだろう。
――今日になっても、忘れているのだろうけれど。
時計を見た。
十一時五十八分。
三回目の今日が、柄にもなく必死になった今日が、もうすぐ終わろうとしている。後二分でやってくるのは、今日か、明日か。
もしまた繰り返してしまうのであれば、今度は滝なゆたを死なせないようにしようと思う。そのための算段を、シミュレーションを、頭の中で何度も繰り返す。
時計の秒針が十二に近付く寸前、悠一は大きく息を吸った。