第一幕 第二章
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【午前6時30分】
目覚ましのベルで跳ね起きた。
「――――」
即座には、自分の身に起きたことが理解できない。
確か、悠一は『軽く仮眠』をとった筈だった。携帯アラームをセットして、三〇分だけ、机で突っ伏して眠気をとる筈だった。その後で、地理とSRの勉強を再開する筈だった。
――なのに、何故ベッドで寝ているんだ?
――何故この時計は、六時半を示しているんだ?
理解不能。
理解不能。
理解不能。
「へ……へへ……」
可笑しくもないのに、笑いがこみ上げてくる。
「俺――ひょっとして――また、やっちゃった?」
誰に対する問いでもない。でも、できれば答えてほしい。
違うよ、と。
これは夢なんだよ、と。
夢なら、早く覚めろ。覚めろ覚めろ覚めろ。早く起きろ、悠一。……だけど、夢と断定するには何もかもがリアルすぎて。
昨夜そうしたように、平手で頬を張る。何度も。何度も。夢から覚めようとしているのではない。痛覚で夢だと確認しているのでも、ない。
悠一は、自分が許せないのだ。
せっかくの入江の厚意を、自分はふいにしてしまった。あれだけ偉そうなことを言っておきながら、この精神力の無さはどうだ。最低だ。最低最悪の馬鹿野郎だ。
昨日、恋人に裏切られた美那を見て、松本を許せないと思った。裏切りは、人として最低の行為だということを、学んだ筈だった。
それなのに――。
「沙樹ッ! 悠一ッ! いつまで寝てるのッ! 早くしないと、遅刻するよッ!」
階下で母親が呼んでいる。
悠一は大きく一つ溜息をついて、ベッドから下りたのだった。
【午前6時45分】
今日も、朝から雨だった。
ダイニングの窓を叩く雨粒を恨めしげに眺めながら、悠一はまた、軽く溜息を吐く。
「何だ、顔色が優れないな。昨日はあまり寝てないのか?」
新聞を読んでいた父親が、昨日と同じ台詞を吐く。
「いや――寝ちゃったよ。仮眠のつもりだったんだけどさ……」
「……普段から勉強しておけば、前日になって慌てることもないと言っているのに……」
紙面に視線を落としながら、父親が似たような台詞を吐く。
「アンタ、今度赤点取ったら分かってンでしょうね! 今度こそ家庭教師雇うからね!」
エプロン姿の母親がどこかで聞いたような台詞を吐く。
「それ、昨日も聞いたし……」
幸か不幸か、悠一の呟きは誰の耳にも届かなかったのだけど。
憂鬱な気持ちで朝食に手をつける。納豆に味噌汁、ウィンナー付きの目玉焼きはサニーサイドアップ。テレビのニュースショー、天気予報では雨は昼すぎまで続くのだと言う。十二星座ランキング、蟹座は最下位だ。
…………。
うん?
何かが、おかしい。
鈍い悠一でも、いい加減に気が付く。
何から何まで――昨日と一緒だ。
天候、両親の台詞、朝食のメニュー、天気予報、占いランキング――いやいやいや、そんな馬鹿な。ただの偶然だ。二日連続で雨が降ることなど珍しくもないし、天気予報がそれに連動した内容になるのは当たり前の話。両親の言うことなんて、いつも紋切り型で大差などない。朝食のメニューだって、同様に似たり寄ったりだ。占いだって、二日続けて自分の星座が最下位になることも――どれだけの確率かは分からないけど、ゼロではないだろう。そう。全ては偶然。偶然だ。
無理矢理自分を納得させた悠一は、父親の広げた新聞を視界に捉える。日付を、見る。
『五月十三日(水)』
口に含んでいた味噌汁を、盛大に吹いた。
「オイっ! なにやってんだっ!」
父親の怒号が飛んでいるが、そんなことはどうでもいい。
「え、ちょ、きょ――今日って、十三日!?」
「んん? ……ああ、そうだな。今日は十三日だ。……って、そんなことより、早く味噌汁を拭かないか! 床にこぼれるだろう!」
父親が叱責するのと同時に母親が飛んでくる。
「……アンタ、もう高二なんだから、小さい子みたいな真似しないでよね……」
両親の叱り声など、耳に入らない。
悠一はパニックに襲われていた。
これは――どういうことだ?
確か、昨日は十三日だった筈だ。なのに、今日も十三日なのだと言う。……自分の勘違いだろうか。昨日は、十二日だったのだろうか。よく思い出せない。でも、まさか、そんな――
また、同じ日を繰り返すなんて――
そんな馬鹿な。そんな非現実的なことがあってたまるか。そりゃ、漫画や映画ではよく見るシチュエーションではあるけれど、これは現実だ。SFでもファンタジーでもない。今日は何でもない日常の一日で、悠一はどこにでもいる普通の高校生ときている。ドラマ要素など、どこにもない。当たり前だ。これは現実で、自分は現実の世界に生きている平凡な小市民にすぎないのだから――。
「ちょっと、なんで起こしてくんないのォ!? 今日、朝イチで必修入ってンだけどっ!」
「何度も起こしたわよっ!」
――嗚呼。
必死で否定する悠一を突き放すかのような、この現実。姉と母親の遣り取りは、まるで昨日のそれをトレースするかのようで――悠一は混乱した頭を抱えながら、身支度を進めていく。
机の上には、数学の勉強道具が広げられていた。
物理、地理、SRの教科書は棚に収まっていて、入江が貸してくれた特製ノートなど、どこにもなくて。何だか、昨日一日にあった全てを、否定された気がして。
もう、溜息を吐く気にもならない。溜息を吐いてこの事態が説明できるのなら、肺の空気を全て吐き出してもいいのだけど――。
【午前7時15分】
その後に起きた出来事も、全て昨日を丸写ししたかのようで。
雨に濡れる。
電車は遅れる。
満員電車で足は踏まれ、
学校に着いた時刻はギリギリで、
テストの結果は、全教科散々で――。
「――灰になってるねぇ……」
「燃え尽きてもいないくせにね」
「うわ、篠原、厳しいこと言うねー」
「だって、勉強してなかったんでしょ? 勉強してこなきゃテストできる訳ないじゃん。あたしですら、徹夜してきたってのにさ」
「う~ん、フォローしたいとこだけど、全くもって反論の言葉が思い浮かばないや」
机に突っ伏したまま、昨日と同じ遣り取りを聞く。
分かっている。
昨日と全く同じテストを受けながら、昨日と全く同じ成果しか出せなかった自分の駄目さ加減など――厭と言う程、この自分が分かっている。
……だけど、それも仕方ないだろう!? どこの世界に、同じ日をもう一度繰り返すなどと予想できる人間がいる!? こんなことなら、ちゃんと復習しておけばよかった……。
「ね、二人ともさ、帰りにマック寄ってかない?」
「あたしはパス。コタローと約束あるから」
これも、昨日と同じ。入江が誘い、美那が断って――と、そこでようやく悠一は顔を上げる。
――駄目だ、いけない。
この後、彼女がどんな目に遭うか、すでに悠一は知ってしまっている。恋人である松本に裏切られ、ファミレスで泣きはらす美那をどんな想いで見ていたかを、今更ながらに思い出す。
そんな未来は――いらない。
「いや、ダメだ! 美那も、俺らと一緒にマックに行こう!」
「……え、いや、だから、あたしはコタローと約束があるから……」
困惑している。当たり前だろう。悠一の態度はあまりにも唐突で不自然で、妙に感じるなと言うのが、無理な話で。
「行っちゃダメだ! 松本のトコになんか、行っちゃいけない!」
「……あたし、ずっとコタローに会えてなくて、今日、すっごい久しぶりなんだけど? テスト期間中は部活も休みで、それでやっと会えるんだよ? それなのに、悠一は行くなって言うの?」
訴えかけるような、美那の瞳。悠一は視線を逸らしながら、必死で言葉を紡ぐ。
「そうだっ! 行かない方がいいっ! いいに決まってるっ!」
「何で!? 何の権利があって、悠一はそんなことを言う訳!?」
権利など、ない。
悠一にあるのは、この後、美那が松本にフラれるという『情報』『経験』そして――『記憶』だ。
――『未来』の『記憶』。
何て、馬鹿げた話だろう。このことを正直に打ち明けたところで、二人は信じるだろうか。……絶対に、ムリだろう。何せ。悠一自身、未だに半信半疑なのだから。
急速に口の中が乾いていく。
「小鳥遊――少し、頭冷やそうか?」
入江の声は、ひどく落ち着いている。
「理由があるなら、聞くよ? あるなら教えて?」
言える訳がない。松本が二股かけていて、美那はこれからそれを知らされることになる、なんて――。
「……だってさ、二人より、三人の方が楽しいと思って……」
「ウン、分かるけど、小鳥遊の気持ちは分かるけど……それは、また、今度にしよっか?」
分かってない。入江、お前は何も分かってない。
「ゴメン。そろそろ時間に遅れるから、あたしそろそろ行くね?」
美那の背中を、悠一は絶望的な気分で見送ったのだった。
【午後1時10分】
予想通り、雨は一時過ぎにあがった。駅ビルの上に虹が架かっている。悠一と入江の二人は、やはり駅前のマックで臨時の勉強会を開いていて――
「じゃあ、ここの例題解いて?」
笑顔で促す入江だが、今日の悠一は、それに従う訳にはいかない。……そう、今この時に、物理の勉強などしている訳には、いかないのだ。
「……ゴメン、今更何だけど、明日の勉強より、今日のテストの復習、させてもらっていいか?」
「復習? ――って、何の?」
「例えば、数学とか……。そういうのをまとめたノートとかって、ねェかな?」
定期テストにおいて、入江は教科ごとに要点をノートにまとめている――という『情報』を利用して、ずいぶんと図々しいことを言ってみる。
「……いや、まあ、あるはあるけど……」
ビンゴ!
『入江ノート』があるなら、最強だ。どんな参考書も敵いっこない。出題範囲の傾向と対策はもちろん、担当教師が作成する問題のクセまで網羅しているのだ。このノートを手にしただけで、二〇点は変わってくる――と言っても過言ではない。
「でも、数学なんて今日終わったトコだよ? そんなトコ勉強したって――」
「いや、だから復習だって! 終わったからってそのままにしてたんじゃ、未来永劫そそのままだろ!? 終わったトコこそ、大事にしてかないと!」
「……小鳥遊とは思えないほど、殊勝な心がけだね……。ま、お前がやりたいってんなら、別に反対はしないけど」
幾分、訝しげな顔をしながらも、丁寧に微分方程式の解き方を手ほどいてくれる入江。本当なら、明日に備えて物理や地理など、自分のためになる勉強をしたいだろうに……。
「……ゴメンな。俺のワガママに付き合わせて」
「ん? 何を今さら」
キョトンとした顔で入江が見つめてくる。
「僕は嬉しいんだよ? やっと小鳥遊がやる気を出してくれてさー。僕なんかで力になれるなら、出来る限りのことはするつもりだし」
いい奴すぎる。若干、後光が差しているように見えるのは、目の錯覚ではない筈だ。
「それに、親友が留年なんかしたら、僕だって悲しいし?」
「さらっと怖いこと言うなよっ!」
せっかく、人が感激していたというのに。……それとも、これは入江流の照れ隠しなのだろうか。どうも、頭の良い人間というのは何を考えているのか、分かりづらい。入江のことは本当に信用しているので、別に気にもならないが。
――数学なんて、この世からなくなればいい。
ずっと、そう思っていた。こんなものが何の役に立つと言うのだ。四則計算ができれば、それで充分じゃないか。高校に入ってまで学ぶ意味があるとは思えない。そのせいで、どれだけの高校生が辛酸を舐めたと思っているのだ。数学者など滅んでしまえ。インド人は全員敵だ。
……以前までは、そんな益体のない呪詛ばかりを、ずっと垂れ流してきた。数学というものを忌み嫌い、背を向けて生きていく覚悟だったのだ――以前までの、悠一は。
だけど……二時間ほど経って、少し――ほんの少しではあるのだけど――考えが変わってきた。
「高校レベルの数学なんて、パズルと一緒だって。きちっとしたルールがあって、どっかの誰かが考案した公式があってさ、それに当て嵌めて計算すればいいだけの話なんだから。もちろん、模試や大学入試ともなればそれなりに高度にはなるんだろうけど――少なくとも、定期テストくらいだったら、このくらいの認識で充分だよ。……ね? 簡単だよね?」
簡単では、ない。
覚えることは多いし、計算は面倒だし、そもそも訳が分からない。だけど……入江の分かりやすい解説のおかげで、取り敢えず方程式の解き方くらいは、何となく理解できるようになった。やはり、ほんの少しだけではあるが、苦手意識も軽減された気がする。
「……昨日これをやっとけば、今日のテスト、いけたかな?」
できるだけ自然な感じを装って、その実一番気になっていたことを聞いてみる。
「いやいやいや、さすがにそんな簡単には。小鳥遊に教えたのは基礎の基礎だから。確かに基礎問題なら大丈夫かもしれないけど、応用となると厳しいカナー。一朝一夕でどうにかなる科目じゃないからね。コツコツと地道に演習をこなさなきゃ、本物の実力なんて身につかないよ」
「……だよな」
現実は甘くない。分かっていたことではあるが、入江の正論に、悠一のテンションはどうしても下がってしまう。
「もっとも、あらかじめ出題される問題が分かっていれば、どうにかなるかもしれないけど?」
「だよなっ!」
「……いや、何故そこでテンションが復活するのかが分からない。僕は冗談で言ったんだけど……」
確かに、我ながら現金なリアクションだったかな、とは思う。放課後に美那を引き留めた時にも思ったことだけど、もう少し自重すべきかもしれない。
「……小鳥遊、さ……まさかとは思うけど、変なこと考えてないよね?」
訝しむような入江の視線に、悠一の心臓は軽く跳ね上がる。
「――変なことって?」
「職員室から問題用紙盗むとかさ――」
ああ、そっちか。
「な訳ねーだろ。バレたら退学モンだぞ、それ。第一、数学のテストは今日終わったトコじゃねーか。終わったテストを、今さらどうするっつんだよ」
その終わった教科の勉強を必死になってやってるのはどこの誰だ、という話なのだけど。
「……まぁ、それもそうか。いや、別にいいんだよ? 不正はよくないとか、そんな生真面目なことを言うつもりなんてないし」
入江の口角が、徐々に上がっていく。かけている赤縁眼鏡のレンズが光る。
「実際、テスト中に答案見せろって言われたら、見せるつもりでいるしね?」
「ンなこと言ったって、俺の隣、入江じゃなくて美那だしなー。美那の答案写すなんて、自殺行為だろ。実力で解いてみせるっての」
「おお、死亡フラグだねー」
――激しい既視感に、目眩すら覚える。
いや、分かっている。
既視感などではなく、既視だ。
昨日の朝、悠一と入江は教室で同じ会話を交わしている。だけど今朝はそんなことはしていなくて――混乱と困惑で、そんな軽口など叩けなかった――それが、時間も場所も状況も違う、この場面で回収されるだなんて。
あるべき流れに軌道修正されている、と言うか――どうやら、悠一がどれだけ違う行動をとろうが、時間は、世界は、緩やかに所定の位置に戻ろうとする特性があるらしい。
――運命は変えられない。
ふと、そんな絶望的なフレーズが脳裏に浮かぶ。
何をしても、無駄なのか。
せっかくのチャンスなのに、二度とない好機なのに――結局は、何も変えられないのか。電車には遅れる。テストは惨敗する。このまま自分は今日という一日を厄日として過ごして――その一方で、美那は恋人にこっぴどく裏切られて。
――美那。
美那か。
一度は頭の隅に追いやった彼女の顔が、また不意に蘇る。
確か昨日は……そう、あと数十分くらいで、彼女がマックに姿を現したのだ。蒼白な顔をして。下手くそな、痛々しい作り笑いを、その顔に浮かべて。
今、彼女はどうしているのだろうか。気になって仕方がない。彼氏の松本に真実を告げられ、一人、肩を落として歩いているのだろうか。誰も見てない場所で泣いているのだろうか。それとも――今まさに、松本に傷をつけられているのだろうか――?
一度考え始めると、もうダメだ。入江が目の前で真剣に数学を教えてくれているのに、それが全く頭に入らない。全然集中できない。全く――どうしたものか。
「……小鳥遊、どうかした? ボーッとしちゃって」
こちらの変化にすかさず気づいてくる入江。全く、抜け目がないというか何と言うか。
あれこれ考えるのは苦手だ。
勢いをつけて、悠一は立ち上がった。
「――ゴメン入江! 俺、帰るわ!」
「え……えぇ!? いきなり何!? こんな中途半端なトコでいいの!?」「ホントにゴメンっ!」
言いながら、走り出していた。
行き先は決まっていない。強いて言えば、駅前の噴水広場だろうか。学校帰り、美那と松本の二人が仲良さそうに話していたのを見たことが、何度かある。何とか間に合えばいい、と思いながら、悠一はがむしゃらに地面を蹴る。
――同じ時を繰り返す――
これは一体、どういう冗談なのだろう。理屈は分からない。理由も分からない。何らかの不思議な能力を身につけてしまったのか、或いは、『時空の狭間』とか何とか、そんな感じのモノに足を突っ込んでしまったのか。
もしかしたら、自分は悪い夢を見ているのかもしれない。そんな可能性も、否定はできない。
ただ――もし仮に、これが純然たる現実だとするならば――自分は、そういう『世界』に迷い込んでしまったのだとしたら。
これは、チャンスなのかもしれない。
そんなことを、思う。この先に何が起きているのか分かっているのなら、当然、それを回避することもできる。自分や、その周囲に降り掛かる災いを、あらかじめ潰すことだってできる。
この馬鹿げた現象に意味があるとしたら、そこだ。
入江と二人、マックで真面目に勉強会を開いている場合ではない。今この瞬間にも、美那は恋人から別れを告げられているのかもしれないのだ。
勿論、松本が二股をかけているという事実を覆すことはできない。根本的な部分から解決しようとすれば、美那が告白したという今年のバレンタインにまで時を遡る必要がある。そんなことはできない――が、ならば今この時、悠一に何もできないかと言えば、そんなことはなく――真実を告げ、別れを切り出す松本を止めることくらいは、できる。ただの先延ばし、その場凌ぎの対症療法でしかないことは分かっている。それでも、何もしないよりはマシだ。悠一は頭をフル回転させて駅前へと急いだのだった。
学校の最寄り駅である藍土駅、その駅前広場の中心に、大きな噴水がある。
そこに、美那はいた。
一足、遅かったようだ。
噴水の縁に腰掛け、膝を抱え、暗く沈んでいる。
「――悠一?」
悠一に気が付いて僅かに顔を明るくしたかのようにも見えたが、恐らくは気のせいだろう。仮にそうだとしても、常夜灯くらいの明度だ。……自分は、その程度の人間なのだ。
「……何してるの、こんなトコで」
「それはこっちの台詞だって。……松本は、どうした?」
嗚呼、何もかも知っているくせに。そのために、ここまで走ってきたくせに。
「――ふられちゃった」
口の端を歪め、美那は絞り出すように、そう呟く。昨日、マックで見たのと同じように――やはり痛々しさしか感じさせない、下手な作り笑顔を浮かべながら。
「――そう、か……」
そんなつまらない返事しか返せない自分に、心の中で舌打ちをする。
「……ゴメン。こんなこといきなり言われても、困るよね。悠一には関係ないことなんだし」
「関係ないことねェだろ」
美那の、『関係ない』というその一言に、思わず過剰反応してしまう。実際、関係ないことに違いはないのだけど。
だけど――だったら、悠一のこの一日が無駄になってしまう。
何となくそんな風に感じられて、悠一は必死に頭を巡らせ、必死に舌を回した。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど……だけど、俺に話して、それで少しでもお前の痛みが和らぐなら――聞かせてもらって、いいか? 取り敢えず、俺にはそのくらいのことしかできねェし」
何を、言っているのだろう。
これは昨日、入江が語った台詞そのままではないか。
『つまらない返事』が厭で、何か気の利いたことを言いたくて、ない頭を必死に巡らせた結果が――剽窃とは。全く、この二十時間弱で、自己評価の最安値を叩き出すとは思いもよらなかった。
「うん……あのね、ちょっと前から、そういう兆候はあったんだよね。ほら、うちらが付き合い始めたのって、今年のバレンタインからじゃん? あたしがチョコあげて、それで付き合おうってことになって――」
それから美那が語ったのは、昨日と全く同じ内容だった。そう、一字一句違わずに、全く同じ内容を、彼女は語ったのだ。
バレンタインに成就した恋。しかし彼氏の松本はマネージャーの高原みやびと付き合っていて、自分はずっと二股かけられていて――それが今日、本命の彼女にせっつかれた松本が、美那との関係を清算するために彼女に事の真実を突きつけて――本当に一字一句違わずに、顔を引き攣らせながら美那は自分の失恋話を語って。
声が震えている。
躰も震えている。
聞いている悠一も――震えずには、いられなかった。
自分は何をしているのだろう。美那がこうなるのは、前もって分かっていた筈だったのに。呑気にマックで微分方程式の解き方など学んでいる場合ではなかった筈なのに。
「――そうか……」
頭をフル回転させて、口を動かす。言葉を紡ぐ。
「――辛かった、よな。痛いよな。……苦しい、よな。俺は、人を裏切ったことも、裏切られたこともねェよ。だから適当で無責任なことは言えねェ。美那の話を聞く限りでは、松本が悪いのは確実だけど――それだけで、アイツを悪く言うようなことはしたくない。
自分でも情けなくなるくらい、俺は無力だ。
だけど、美那の苦しみを聞いてやるくらいのことは、できる。 それでお前の疵が少しでも癒えるのなら、俺は喜んで、そのはけ口になるわ」
最低だ。
親友の台詞をパクって――それで手柄を横取りして、自分は何を得ようとしているのか。何に、対抗しようとしているのか。
「……ありがとう」
やめてくれ。
「悠一って――凄い、いいヤツだね……」
嗚呼、やめてくれ、やめてくれ。
自分はそんな人間ではない。
女友達が傷つくと分かっているのに放置して。
手遅れになった頃に、やっとこさ駆けつけて。
それで親友の台詞を剽窃していい気になって。
何と言う卑怯者――何と言う偽善者だろうか。
無理して笑顔を作る美那を正面に見据えながら、悠一は気付かれないように深い溜息をつくのだった。
【午後4時10分】
その後、美那と何でもない会話をして、二人は別れた。
昼過ぎというには遅く、夕暮れと呼ぶには早い、そんな中途半端な時間帯。そう言えば、またマックに傘を忘れてしまった。全く学習能力のない男だ。
帰りの電車に揺られながら、悠一は今日一日に起こったことを思い返していた。
目覚まし時計、親の台詞、朝食、天気予報と占い、雨、遅れた電車、入江と美那、テスト、マックでの勉強会、そして美那の失恋――何から何まで、昨日と同じ。
それはそうだ。
昨日も今日も、同じ五月十三日なのだから。
発見はそれだけではない。九割方、起きたことは同じだが――それでも例外はある。例えば、悠一が昨日と違う言動を取った場合、当然のことながらその反応も変わってくる。逆に言えば、悠一が全く同じ言動をとる限り、周囲も全く同じ言動を取り続ける訳で――それはつまり、悠一の行動一つで運命を大きく変えられる、ということで。
その一方で、時間や場所、状況が違っていても、似た台詞を吐く場面も多く見受けられた。入江がそうだし、美那がそうだ。きっと、他の人間もそうなのだろう。世界は、時空は、確実にオリジナルの、『あるべき姿』に戻ろうとする性質があるようだ。ゴムのように、形状記憶合金のように――例え悠一がその形を強引に歪めたところで、放っておけば、元の形に戻ってしまうのだ。
油断はできない。
確実に運命は変えられるけれど、それをそのまま維持するのは、予想以上に骨が折れる作業のようで。
だけど。
だけれど。
それもこれも、たった一日の範囲で起きることなのだ。
先に何が起こるのかは分かっている。
経験し、記憶し、学習している。災いを回避することは、可能だ。
――だけど、その回避した先に、また別の災いが待ち受けていたとしたら? 或いは、避けたと思っていた災いが、形を変えて、大きく口を開け、待ち構えていたとしたら?
どれだけ抗おうが、『運命』には逆らえないのだとしたら?
……ならば、自分は何故、時を繰り返すなどという、馬鹿な現象に巻き込まれているのか。そこには必ず意味があって――悠一にしかできない『何か』が隠されている筈で。じゃないと、悠一は未来永劫、五月十三日をループする羽目に陥る訳で。
――頭が痛くなってきた。
自分は頭脳労働には向いていない。分かり切っていることだ。結局は、なるようにしかならない。分かっていたことだ。これ以上ないほどに、分かり切っていたことの筈なのに――。
列車が華見駅に着くのと同時に、悠一はまた、懲りもせずに何度目かの溜息を吐いたのだった……。
【午後5時15分】
家に着いてからは、とにかく机に齧り付いた。勉強する科目は、数学を筆頭に、英語、古文に世界史――今日、テストで終えたところばかり。だからテストに何が出るかなど当然分かっている。それに加え、『入江ノート』もある。数学はともかく、残りの暗記系科目はサクサクと進んでいく。くどいようだが、記憶力には自信があるのだ。
近年稀に見る集中力を発揮させていると、隣室からバタバタと騒がしい音が聞こえてくる。姉の沙樹が帰ってきたらしい。人がテスト勉強してんのに、何やってンだ――と彼女の部屋を覗いてみれば、そこにいたのは黒のワンピースに身を包んだ姉の姿。
「ちょ、ユウッ! ノックしないで部屋開けんなッ! こま切れにするよ!?」
こま切れにはなりたくないなぁと、悠一は素直に扉を閉める。
「姉ちゃん、どっか出かけるの?」
ドア越しに尋ねる。分かってるくせに、そんなことを尋ねてみる。
「うん……同じ学科の娘に不幸があって……これから、そのお通夜。お母さんには、ご飯いらないって言っておいて!」
分かっていたことだったけど、姉の口から直接そう言われると、やはりショックだった。
「……分かった」
簡単な返事をして、悠一はその場を去る。
六時二十分の夕食に、沙樹の姿はなかった。早く帰ってきた父親と母親の三人で、食卓を囲む。
「俺、今日徹夜で勉強するから。何か夜食用意しておいてよ」
「へぇ~、珍し。悠一がそんなこと言い出すなんて――明日、オタマジャクシでも降るんじゃないかしらね」
「オイオイ、せっかく悠一がやる気出してるんだから、そんなこと言うなよ」
予想通り、両親の反応は昨日と同じモノだった。夕食のメニューは、鳥の唐揚げ、まぐろの刺身、豆腐サラダに豚汁と、これまた昨日と同じ。当たり前だ。悠一が違う行動を起こさない限り、全ては予定調和、全ては固定された『運命』として、消化されていく。そういうふうに、なっているのだ。
夕食を終えた悠一は、またガリ勉モードに突入する。英語と古文は、ほぼ完璧にマスターした。今は世界史の解答を頭に叩き込んでいる。何が出題されるのか分かっているテスト勉強ほど楽なモノはない。一時間ほどで、その作業を終える。最後に控えるのは最難関の数学だ。
――さて。
何故明日の教科(物理、地理、SR)ではなく、今日終えたはずの数学などを勉強しているかと言えば――敢えて明言するまもないだろうが――そう、
悠一は、同じ日がもう一度来ると思っているのだ。
確信などない。根拠などない。ある筈がない。ただ――何となく、そんな気がするというだけ。
今日、悠一は同じ日をもう一度繰り返すという、希有な経験をした。だけど今回の悠一はただひたすらに困惑し混乱するだけで、何一つ有効に使えなかった。馬鹿みたいに、愚者みたいに、前回をトレースするかの如く同じ事を繰り返しただけ。何の意味もない。
本当に、繰り返したことに何の意味もなかった。
これではダメなのだ。
きっと――ダメなのだ。
繰り返すということは――やり直しを強要されるということは――この一日の間に、何かやり残しがあるということに、他ならない。それが何なのかは分からない。分からないということは――おそらく、しくじったのだろう。ならばきっと、その何かをクリアしない限り、先には進めないのだ。明日は――まだ見ぬ五月十四日は――やって来てはくれないのだ。
シン……と皮膚に染み入るような静寂の中、悠一はただ無心に教科書の問題を攻略していく。頭を抱えながら、何度も参考書や入江ノートを引っ繰り返しながら、とにかくがむしゃらに問題を解いていく。地道に、ではあるが、確実に学習は進んでいる。
『小鳥遊は、やればできる人間なんだけどな』と宣ったのは何処の誰か。小学校の時の先生か、中学校時代の担任か――それとも、他ならぬ入江明弘か。
馬鹿を言わないでほしい。
大概の人間は、『やれ』ば『できる』のだ。ただ、その『やり方』が分からないだけで――世に言う『できる』人間というのは『やり方』を知っていて、その上で最大限に『やっている』人間に他ならない。取り敢えず、定期テストに対する『やり方』は入江に教えてもらった。あとは、『やる』だけだ。
時計の針は十一時五〇分を指している。不思議なモノで、今日は昨日のような猛烈な睡魔に襲われることもない。やはり、明確な目標を持って取り組むと集中度合いも変わってくるのだろうか。いつだったかテレビで見た『ウサギとカメ』にまつわる訓話を思い出す。能力面で遙かに勝っていたウサギは、何故途中で居眠りなどしてカメに敗れてしまったのか……。答えは簡潔だ。レースに臨むにあたって、両者は違うところを見ていたのである。
ウサギはカメを見ていた。
カメはゴールだけを見ていた。
油断を戒めるのではなく、愚直に目標を目指すことを説いた寓話だったのだ、アレは。
悠一は、シャープペンシルを置く。
時刻、午後十一時五十九分。
あと一分弱で、今日が終わる。
瞬きもせずに時計を見つめる。秒針が頂上を回った頃、自分がどこにいるのか――このまま明日を迎えるのか、それともベッドの上でもう一度、一日をやり直すのか――二つに一つだ。普通に明日が来るのなら、それはそれでいい。また、いつもの凡庸な日常が始まるだけの話だ。
だけど、もしそうでないとするならば――。
今日が残り数秒になったところで、悠一はイメージトレーニングを開始する。到来するのが、また今日と同じ今日ならば、自分はどう振る舞うべきか――知恵熱を出しそうな程に脳をフル回転させて――そんなことをしている間に、秒針は今日の終わりを告げ