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第一幕 第一章


【午前6時30分】

 五月病って何だろう。

 それは、鬱病とどう違うんだろう?

 小鳥遊(たかなし)悠一(ゆういち)は自室ベッドの上で、深く深く溜息を吐く。

 本当に――憂鬱だ。何故、今日と言う日が来てしまうのだろう。朝起きて世界が終わっていたら、自分はどんなに救われるか。四月、億劫そうにしていると「もう五月病なの?」と聞かれる。六月、梅雨時になっても塞いでいると、「まだ五月病?」などと言われる。つまり、自分は一年の四分の一を五月病で過ごしている訳だ――って、そんな訳はない。悠一だって分かっている。そんな、実体のない、エクスキューズのための病気で逃げるほど、自分は卑怯な人間ではないはずだ。

 原因は、はっきりしている。

 机の上を見る。乱雑に開かれた教科書と、ほとんど埋まっていない真新しいノート。食べかけの菓子パンと空のマグカップ。

 今日は、定期テストだ。

 しかも、一時間目は悠一がもっとも苦手としている数学。更に言えば、その後に控えている英語、世界史、古文も苦手の範疇に入る。と言うか、得意科目が体育である悠一にとって、定期テストは苦行以外の何物でもない。

 昨日は一夜漬けで勉強するつもりだった。勉強はできないが、ここ一番の集中力と記憶力には自信がある。一夜漬けでどうにかなるものではない数学は早々に切り捨て、比較的暗記に頼ることのできる英語、古文、世界史に絞って勉強しだしたのが、夜の八時。三時間ほど机に齧り付いたところで睡魔に襲われ、ほんの少し仮眠をとるつもりでベッドに潜り込み――結局、七時間がっつり睡眠をとってしまった。体調だけはやけに万全だが、気分は最悪である。このままでは赤点確実。……自然と、溜息がこぼれる。いっそのことカンニングでもしてやろうかと考えるが、そんな策を練っている時間すら、今の自分にはない。馬鹿なくせに正攻法でいこうとしたのが間違いだったのか――一夜漬けが正攻法なのかどうかは知らないが。

沙樹(さき)ッ! 悠一ッ! いつまで寝てるのーッ! いい加減起きないと、遅刻するよッ!」 

 階下から母親の声がする。時刻は六時三十五分。悠一はダメ押しとばかりにもう一度深い溜息を吐き、緩慢にベッドから降りたのだった。


【午前6時45分】

 五月十三日、週の真ん中水曜日。

 すでに朝食の準備はできていた。豆腐の味噌汁に納豆、ウィンナー付きの目玉焼きはサニーサイドアップ。和食派である悠一の好物ばかり並んでいるのだけど、それでテンションが上がるほど単純なな人間でもない。いつものように新聞を読みながら味噌汁をすする父親に朝の挨拶をして、悠一は食卓につく。

「何だ、顔色が優れないな。昨日はあまり寝てないのか?」

 新聞越しに父親が尋ねてくる。

「んや、寝たよ。七時間寝たよ。おかげで全然勉強してない」

「……だから普段からしっかり勉強しておけと言っているのに……」

 溜息混じりに呟く父親は、銀縁眼鏡の堅物で、銀行員のステレオタイプといった感じ。

「アンタさ、今度赤点とったら、分かってンでしょうね! 本気で家庭教師雇うからね!」

 台所で専業主婦の母親が騒いでいる。あーもう、ただでさえ憂鬱なのに、これ以上追い込まないでくれ……。頭が痛くなってくる。

 半ば項垂れながら、悠一は納豆をかき混ぜる。テレビでは朝のニュースショーが放映されている。今は天気予報のコーナーだ。夜半から続いている雨は、今日の昼すぎまで降り続ける、らしい。全く、これで快晴なら少しは気分も晴れようってもんなのに……。

 その後の十二星座占いランキングに至っては、悠一の蟹座は最下位だとか言いやがる。どこまで人を追い込んだら気が済むんだ。

 厄日だな、今日は――七時のトップニュースをBGMに、悠一は身支度を開始する。

「ちょっと、なんで起こしてくんないのォ!? 今日、朝イチで必修入ってンだけどっ!」

 その頃になって、ようやく女子大生の姉・沙樹がバタバタと起き出してくる。

「何度も起こしたわよっ!」

「……だから、夜遊びも程ほどにしておけと言っているのに……」

 うるせーな、本当に。

 何かと騒がしい家族に心の中で毒づきながら、悠一は身支度を開始するのだった。


【午前7時15分】

 何をやっても駄目な日というのは、確実に存在する。傘を差して最寄りの華見(はなみ)駅に向かえば、今度は電車が来ない。何でも、隣の紫苑(しおん)駅で人身事故が発生したらしい。おかげで雨のホームで三十分も待ちぼうけを喰らう羽目になってしまう。遅刻ギリギリだ。

 電車に乗ったら乗ったで、乗車率百二十パーセントで窒息しそうになるし、前の女の髪は目に入るし、足を踏まれるし――本当に、厄日だ。


 結局、学校に着いたのは始業十分前だった。

 これでは最後の悪足掻きをすることもできやしない。

「……終わった……」 

「何が終わったのさ?」

 机に突っ伏して絶望する悠一に声をかけるのは、クラスメイトの入江(いりえ)明弘(あきひろ)

「……ゼンゼン勉強してねぇ……」

「テストの前にそう言うの、いい加減やめにしない?」

 赤縁眼鏡のフレームを押し上げながら、入江がつまらなそうに呟いている。

「いや、オレの場合、本当に勉強してねーんだって」

「昨日は? お得意の一夜漬けはどうしたの?」

「眠くなって、寝た。起きたら朝だった」

「それは、また、何て言うか……かける言葉が見つからないね……」

 呆れて笑っている。それはそうだろう。自分でも馬鹿だと思う。

「……入江ぇー、テストの途中、答案用紙見せてくれねえ?」

 一年の時からの親友である入江は、悠一と違って成績優秀で、定期テストでも常に学年十位に食い込んでいる。いつも悠一たちと馬鹿やって騒いでいるのに……何だか、納得いかない。

「無茶言うなよ。席離れてるし、先生の目もあるし……」

「つまり、席が近くて先生の目を誤魔化せるのなら、見せてくれるってことか?」

「席が近いのなら、ね」

 左の口角をクイッと上げて、悪い笑顔を見える入江。秀才のくせに優等生ぶらない、入江のこういうところが好きだ。

「だけど、無理だから。小鳥遊の隣、僕じゃなくて篠原(しのはら)でしょう?」

「ん? あたしの答案、見る?」 

 隣の席で篠原美那が笑っている。

「何が悲しくて、危ない橋渡ってミナの答えカンニングしなくちゃいけねェんだよ。お前ら、『自殺行為』って言葉、知ってるか?」

 美那の成績は、下から数えた方が圧倒的に早い。可愛い部類には入るのだろうけど、勉強のことで彼女を頼りにしようとは、絶対に思わない。

「俺は俺自身の力で解答してみせるからなっ!」

「おお、死亡フラグだねー」

「ちょっと、ひどくない? 入江クンはともかく、悠一にそんなこと言われる筋合いないんだけどっ!」

 ケラケラと笑う入江と、露骨に顔をしかめる美那。二人の言葉にかぶさるようにして、始業のベルが鳴る。

「んじゃ、お互いに頑張ろーね。健闘を祈ってるよ」

 涼しい顔をして入江が自分の席へと戻っていく。

「健闘――なぁ……」

 残念ながら、負け戦は決定している。何度目になるか分からない溜息を吐いて、悠一は雨に濡れる窓ガラスに視線を移したのだった。


【午後0時30分】 

 結果報告。

 英語、数学、古文、世界史――四戦四敗。

 採点結果が出ていない以上、まだ勝敗は決してないとも言える――のだけど、少なくとも、空欄に丸はもらえない訳で。半分以上を空欄で提出して合格点がもらえると思うほど、悠一も馬鹿ではない訳で。

「――灰になってるねぇ……」

「燃え尽きてもいないくせにね」

 机に突っ伏して撃沈している悠一の頭上で、入江と美那が好き勝手なことを言っている。 

「うわ、篠原、厳しいこと言うねー」

「だって、勉強してなかったんでしょ? 勉強してこなきゃテストできる訳ないじゃん。あたしですら、徹夜してきたってのにさ」

「う~ん、フォローしたいとこだけど、全くもって反論の言葉が思い浮かばないや」

「フォローすることないよ、こんなバカ」

「うっせぇなーっ! 黙って聞いてりゃ、何だよお前ら! 言いたい放題かよっ!」

「だって、本当のことじゃん」

 唇を尖らせながら、美那が憎まれ口を叩く。

「なんだよ、今朝のこと、まだ怒ってんのか?」

「そんな訳ないでしょ。あたしにも色々あるのっ!」

 携帯をいじりながら、意味の分からないことを言っている。

「ね、二人ともさ、帰りにマック寄ってかない?」

 入江が一人ニコニコして、悠一と美那の二人を昼食に誘う。テスト期間中は、午前に行われるテストだけで解放されるのだ。当然、部活動も休みだが、帰宅部である三人にはあまり関係がない。

「あたしはパス。コタローと約束あるから」

『コタロー』こと松本(まつもと)虎太郎(こたろう)は美那の彼氏で、テニス部の副キャプテンを務めている。いつもは部活が忙しくてなかなか会えないと文句ばかり言っているが、さすがにテスト期間中は別らしい。まあ、悠一の知った話ではないが。

「マックかぁ……うーん、何か、今日はハンバーガーって気分じゃねーんだよな……」

「あ、そう? 明日のヤマ、教えてあげようかと思ったんだけど――そりゃ残念だ」

「行くに決まってるじゃないですか、入江さんっ! 水臭いこと言わないでくださいよー」

 何故敬語なのか自分でも分からない。分からないが、この親友にはずっとついて行こうと、今決めた。持つべきモノは親友だ。

「仲良くていいネ、アンタたち……」

「いや、篠原もさ、松本との用事が済んで、もし暇になったら、マックおいでよ。僕らずっといるし」

 松本と一緒にいて、『暇になる』ことなんてある訳ないだろうに、入江はそんなことを言っている。

「考えとく。気が向いたら、行くこともあるかもね……」

 携帯の液晶画面を見つめながら、美那が溜息を吐いている。この時はまだ、彼女の言葉の意味が分からなかった。

 その時は、まだ。

 

【午後1時10分】

「――雨、やんだな……」

 駅前のマック、二階窓際の席にて。

 悠一と入江はテーブル席にノート、教科書を広げて臨時の勉強会を開いていた。明日の教科は、物理と地理と英語のSR(サイドリーダー)で、そのどれもが悠一の不得意科目であるのは言うまでもないのだけど――特に物理は壊滅的だ。だがテストは待ってくれない。秀才・入江の力を借りて、乗り越えるしかない。

「小鳥遊、よそ見しないで。誰のためにやってると思ってるのさ」

「でもさ――ほら見ろよ、虹出てんぜ!?」

「もしかして、飽きた? 始めて三〇分で、もう飽きちゃった? やめる? 帰る? 帰って寝ちゃう? それで明日のテストも惨敗する? 僕はそれでも一向に構わないよ?」

「そんな訳ないじゃないですかー。雨やんだ、虹出てるって、見たまま報告しただけですってば。俺はもう、やる気満々ですよー」

「じゃあ、ここの例題解いて?」

 ニッコリと笑う入江に怯えながら、悠一は黙々と物理の問題を解いていく。と言っても、悠一の学力では基礎レベルで何度もつまずいてしまうのだけど、その度に横から入江が教えてくれる。

 彼の指導は丁寧で分かりやすく、二時間が経つ頃には応用問題が解けるまでに成長していた。

「……できた」

「やっぱり、小鳥遊って頭いいよね。理解が早いし、集中力もあるし。勉強ができないのは、単純にやる気の問題なんじゃないかな?」

「買いかぶりだっつの。この問題が解けるようになったのは、入江の教え方がうまかったからだよ」

「一年の時、家庭教師(カテキヨ)のバイトしてたからね」

 そう言えば、そうだったか。詳しくは知らないが、確か女子中学生相手に勉強を教えていたのだとか。道理で教え方が上手い筈だ。

「でも、僕がどれだけ頑張ろうと、できない子はできないからね。その点、小鳥遊は優秀だって。教え甲斐がある」

「持ち上げたって何も出ないっての。俺の頭が悪いのは、俺が一番よく分かってるし」

「それこそ、卑屈になってるだけだと思うんだけど……」

 苦笑する入江を横目に、すっかり薄くなったコーラを啜る。頭の出来を誉められたのなんて初めてで、どんな顔をすればいいか分からない。

「や、卑屈とかじゃなくてさ、事実と言うか、実績と言うか――小中の成績だってひどかったし、誰も俺が頭いいだなんて思ってないし……」

「頭の善し悪しとテストの成績は別だよ。学校の勉強なんて、コツさえ掴めばそんなに難しいものじゃあない。要は積み重ねだから。小鳥遊、記憶力と集中力は確かにあるんだからさ、後はモチベーションの問題なんだと思うけど……」

 そんなものだろうか。理屈は分かる気はするが、どうもピンと来ない。頭のいい人間の言うことはよく分からない。

「まぁ、いいや。とにかくさ、この計算問題を完璧にしておけば、明日の物理、三〇点は取れるから」

「三〇じゃ赤点だろ……」

「いやいや、だからさ――これ、貸してあげるよ」

 言いながら、鞄から一冊のキャンパスノートを取り出す入江。

「明日のテストに出そうなトコ、要点とか用語とかまとめてあるから、これを丸暗記するだけでも平均点は取れる。物理だけじゃなくて、地理とSR(サイドリーダー)に出そうなトコも一緒にまとめたしね。徹夜でやれば、赤点だけは避けられる筈だよ?」

「……俺のために、こんなノートまで……?」

「まさか。これは僕のために作ったの。でも僕はもう覚えちゃったからさ。だったらせめて、少しでも誰かの役に立つように、使ってもらいたいじゃん?」

「入江ぇ……お前、ホントにイイ奴だな……」

「ありがと。よく言われる」

 涼しい顔でポテトを摘む入江。やはり、持つべきものは友だ。……してもらうばかりで、一向に借りを返せないのが心苦しいが。全く、何のための親友なんだか。


 ――何のために。

 最近になって、よく考える。

 何のために、自分は生きているのだろう。

 自分が生きていることに、息をしていることに、果たして意味があるのかどうか……。多分、答えなんてないし、そんなことを考えるだけ時間の無駄だということも、分かっている。だけど、考えずにはいられないのだ。毎日毎日、夢も目的もなく漫然と過ごしている。入江や美那相手に、馬鹿やってふざけて、悩みも苦労も挫折も知らず、傷や痛みさえ知らずに、平凡に平穏に平坦に平均に生きて――だったら、この自分は一体何なのか。小鳥遊悠一が小鳥遊悠一であることに意味はあるのか。価値は、あるのか。ないならないで仕方ないけど、あるならそれを突き止めたい。……そんなことばかり、考えている。

 一度、入江にその話をしたことがあるが、その時は「ハハ、小鳥遊も中二病だねー」と流されてしまった。まるで意味が分からなかったのだけど、入江が言うには、思春期になると誰もがそういう思想に取り付かれるものなのだと言う。そういうのを(厳密には少し違うらしいが)俗に『中二病』と称するらしい。

 結局は、こんな悩みすら平凡なものなのか……。何だか、自分がひどくつまらない人間に思えて、少し凹む。もちろん、入江に悪気はないのだろうし、そんなことで嫌いになったりはしない。入江はただ、事実を言っただけなのだから。『小鳥遊悠一』なんて個性は、広大な砂丘の砂粒一つほどの価値もないのだという――動かしようのない、事実を。


「――吃驚したぁ……」

 無言でトレイの上のバリューセットを片付けていた入江が、不意に頓狂な声を上げる。視線は、悠一の後ろを向いている。何事かと視線の先を追うと……そこには、見知った人物が、見たこともない様子で立っていて。

「――美那。どうした?」

 彼氏と一緒にいる筈の篠原美那が、蒼白な顔で二階フロアの入り口に突っ立っている。服装は制服のままだが……とにかく、何かがおかしい。目は赤いし、メイクもボロボロ、ひどく憔悴しているようにも見える。

「松本と一緒じゃなかったの?」

「――うん。色々あって、さ……」

 口元を僅かに歪ませ、二人の席に近付く美那。それで笑ったつもりなのだろうか。事情は分からないが、何だかひどく痛々しい。

「色々――って?」

 そこは流すべき部分だったのかもしれない。だけど……きっと、彼女は聞いてもらいたがってる。そう思ったから、敢えて悠一は質問を重ねる。

「松本と、何かあった?」


「――ふられちゃった」


 嗚呼、やっぱり。

 半ば予想できていたことだけど、彼女の口からその事実を知らされると、やはりショックで。

「何で? お前ら、昨日まですげえ仲よさそうに――」

 勢い込んで聞こうとする悠一を、入江が手で制する。

「言いたくないなら言わなくてもいいよ。だけど、僕たちに話して、それで少しでも篠原の痛みが和らぐなら――聞かせてもらって、いい? 取り敢えず、僕たちに今できるのはそのくらいだから」

 悠一の親友は、どこまでも冷静で大人で、本当に頼りになる。本当に――頼りに、している。

「うん……あのね、ちょっと前から、そういう兆候はあったんだよね。ほら、うちらが付き合い始めたのって、今年のバレンタインからじゃん? あたしがチョコあげて、それで付き合おうってことになって――」

 どうだっただろうか。彼女とは、今年度に入って、同じクラス、隣の席になったから親しくなったのであって、その前のことはよく知らない。

「コタロー、冬の間は部活もそんなに忙しくないし、けっこう頻繁に会う時間もあったんだけど、二年になってからは、新入生も入ってくるし、コタロー自身も副キャプテンになるしで、本当に忙しいみたいで――だから会えないのも仕方ないって、そう自分に言い聞かせてたんだけど……だけどさ……」


 結局、あたし、騙されてただけなんだよね……。


 視線を俯け、口元を歪めたまま、自嘲するような口調で彼女は語り続ける。

「タカハラミヤビ、って知ってる? テニス部のマネージャー。コタローさ、その娘とずっと付き合ってたんだって。二股かけられてたの。しかも、あたしの方が二番でさ……つまり……あたしの方が浮気相手ってことで――笑うっしょ? こっちばっか本気になって、熱あげて、向こうはあたしのことなんて何とも思ってなくてさ。ケッサクでしょう? あたし、本当の馬鹿だよね?」

 顔をクシャクシャにして語る美那――震えていた。悠一自身も、震えていたのかもしれない。怒りのためか、美那の気持ちに共感したのか、それとも痛々しい彼女の姿を見られなかったからか――自分でも分からない。負ったばかりの傷を晒す彼女に、何と言葉をかけていいのかも、分からない。

「――そっか。で、今日、松本に本当のことを?」

 何も言えないでいる悠一の代わりに、入江が先を促す。

「うん――あたし、コタローに言われるまで、そのことに全然気付かなかったんだよね。ほら、あたし馬鹿だから。本当に、救いようがないくらいに――馬鹿だから、さ。でも、これ以上は続けられない、ミナに申し訳ないからって、コタローに言われて……。

 嘘ばっかりッ!

 申し訳ないと思ってるのは、あたしじゃなくて本命の彼女の方じゃん! どうせ、その彼女に怒られて、あたしとの関係を清算したかっただけなんでしょ!? それならそう言えばいいのにさ、もっともらしいことばっか言って――最低――ホント、最低ッ!」

 語っている途中で抑えていたモノが噴出してしまったのだろう。感情剥き出しにして、美那は内側を晒し続ける。フロア中の人間がこちらを見ているが、気にしていられるか。

「――そっか……」

 美那の話が一段落したところで、入江がゆっくりと口を開く。

「よく、話してくれたね。ありがとう。篠原、友達とか多いだろうに、真っ先に頼ってくれたのが僕たちで、本当に嬉しいよ……」

「だって、こんな話……恥ずかしいし、それに、あたしの友達、口の軽い娘ばっかりだし……本当に信頼できる人間って、そんなにいないから……」

「光栄だね。二ヶ月ちょっとの付き合いで、そこまで信頼を得られたなんて」

 入江は謙遜しているが、実際、美那の目は正しいと思う。

 悠一の十六年あまりの人生で、コイツほど優しい人間には会ったことがない。

「――辛かった、よね。痛いよね。……苦しい、よね。僕は、人を裏切ったことも、裏切られたこともない。だから適当で無責任なことは言えない。篠原の話を聞く限りでは、松本が悪いのは確実だけど――それだけで、彼を悪し様に罵ることはしたくない」

 彼女に合わせればいいものを、こういう断りを入れるあたり、入江のフェアで慎重な人格が出ている。

「自分でも情けなくなるほど、僕は無力だ。

 だけど……篠原の苦しみを聞いてあげることぐらいは、できる。 それで君の傷が少しでも癒えるのなら、僕は喜んで、その()け口になるよ?」

 彼の声は、ひたすらに柔らかく、温かく、そして、優しい。ああ、コイツ、こんな声も出せるんだ――一年以上の付き合いがあるのに、今さらながらにそんな発見をする。

 悠一にはできない芸当だ。

 そりゃ、裏切られて苦しい気持ちは分かる。これ以上ないほどに、美那に共感している。共鳴して、痛みを分かち合っている。だけど、それだけだ。悠一では、美那の苦しみを癒すことなどできない。入江のように優しい言葉をかけることもできない。かと言って、今から松本を殴りに行くような真似もできない。無力以下の、大気を舞う塵芥と同等の価値しかない人間なのだ、自分は。

「入江クン……」

 緊張の糸が切れた美那は、周りに多くの客がいるのにも構わず、ワッと泣き出す。入江は、無言で彼女の頭を撫でてあげている。そうすることで、少しでも痛みを、苦しみを和らげようとでもしているかのように。 

 悠一は、そんな光景を、ただ眺めていることしかできなかった。


【午後5時20分】

 店を出る頃には、五時をすぎていた。

 あの後、美那はずっと泣き続け、入江はずっとそれを慰め続けて。泣き止んだ彼女はお礼を言って早々に帰ろうとしたのだが、今は別のことに集中して苦しみを忘れた方がいい、という入江の提案で、結局三人で勉強会を再開することになった。悠一ほどではないにせよ、美那だって赤点候補生だ。秀才・入江の家庭教師など、願ったり叶ったりだろう。物理の計算問題をメインに、地理とSR(サイドリーダー)のヤマを教えてもらって――気が付いた頃には、二時間がすぎていた。

「とりあえず、今日教えたところを完璧にしておけば大丈夫だね。後は二人の努力次第だよ」

 帰り支度をしながらそう言う入江は、どこか満足げだ。

「ありがとね、入江クン。……何から何まで」

「お礼を言うのはまだ早いってば。本番は明日だから、ね?」

 二人とも松本のことには触れようともしない。悠一にはそんな経験がないから分からないが、こういうのは、とにかく早く忘れた方がいいのだろう。

「――小鳥遊は、絶対に寝ないこと。徹夜しろとは言わないけど、せめて二時くらいまでは頑張って」

「……二時か……。高校受験の時だって、そんなに遅くまで勉強しなかったぞ」

「……しようよ。受験の時くらい」

「てかさ――悠一、徹夜でゲームとか、しょっちゅう平気でやってンじゃん。二時くらい、余裕じゃないの?」

 確かに、遊びの時はいつまでも起きていられる自信がある。翌朝、目の下にクマを作っていって、美那にツッコまれたことも数え切れない程ある。

「机に向かって勉強してると、不思議と眠くなるんだよ……。多分、俺の教科書には睡魔が取り憑いてんじゃねェかな?」

「睡魔が取り憑いてるのは、教科書じゃなくて悠一の脳味噌でしょう?」

「ゴメン、全くもってフォローできない」

「フォローする気ねぇだろっ!」

 いつものことながら、美那と入江のコンビネーションは見事だ。さっきまでピーピー泣いていたのが夢に思えるほど。

「……まぁ、眠くなるものはしょうがないから……だったら、軽く仮眠をとるのもいいかもしれないね」

「その仮眠が本眠になった例を、俺はいくつも知っている」

「だからさ、ベッドとか布団とかで寝るんじゃ駄目なんだよ。机に突っ伏したり、床に横になったり――敢えて寝心地が悪い状況で、本当に軽く寝るつもりで仮眠をとるんだ。時間も、三〇分とか、短めに設定しておいてさ」

「ウチの目覚まし、アナログだからそんなに細かい時間設定できないぞ?」

 どれだけしっかり針を合わせても、数分から数十分の誤差が生じるのを、悠一は経験から知っていた。

「携帯のアラームがあるでしょう? キッチンタイマー使ってもいいし」

「はぁー、ナルホド。入江、頭いいな」

「うん、よく言われる」

「……否定しろよ」

 まあ、そういうのもひっくるめての、入江明弘なのだけど。


 二人とは、マックの前で別れた。美那のことは、まだ少し気にかかるけど――彼氏でもない自分にできることなど、何もない。憔悴した彼女を慰めたのも入江一人だし――全く――。

 無意識に、また溜息が出る。

 今日一日で、どれだけの幸せが逃げて行ったことだろう。何だか色んなことがあって、よく分からない。テスト、雨、占いランキング、人身事故、松本とみやび、泣いた美那――クソッ!

 駅へと繋がる歩道橋を渡りながら、悠一はムシャクシャした気持ちを押し殺す。必死で、今日勉強した部分を思い出す。静摩擦係数と動摩擦係数を割り出す公式は――

 と、下ろした右足が勢いよく滑る。

 危ない、と思った時には、階段を転げ落ちていた。

 考え事をしながら歩道橋を下りたりしていたものだから、階段のゴム部分が雨で濡れていたのに気が付かなかったらしい。

 ――ええい、クソッ!

 咄嗟に受け身をとったおかげで、幸いかすり傷程度で済んだけど――制服は泥だらけになってしまった。

「……あの占い、けっこう当たるんだな……」

 痛みと恥ずかしさを誤魔化すつもりで、そんな下らない独り言を吐いてしまう。

 ずいぶんと向こうで、若い男がこちらを見て大笑いしている。

 夕陽が逆光になって顔はよく分からないが――何て失礼な奴だ。腹が立ったけど、おかしな奴だったら怖いので、平静を装ってその場を後にする、ヘタレな悠一。

 ――本当に、今日は厄日だ。

 街を蜂蜜色に染める夕陽に背を向け、悠一は駅へと急ぐ。途中、傘を店に置き忘れてきたことに気が付くが、もう、取りに戻る気力など、どこにも残されていなかった。

  

【午後6時10分】

 珍しく、今日は父親が早く帰っていた。マックに行ったばかりで腹など減ってないが、そのまま夕食になる。

「俺、今日徹夜で勉強するから。何か夜食用意しておいてよ」

「へぇ~、珍し。悠一がそんなこと言い出すなんて――明日、オタマジャクシでも降るんじゃないかしら」

 母親が大袈裟に驚いている。せめて雪にしてもらえませんかね。

「オイオイ、せっかく悠一がやる気出してるんだから、そんなこと言うなよ」

 リビングでは、部屋着に着替えた父親が、ニュースを見ながら煙草をふかしている。

「……そう言えば、姉ちゃんは?」

 いつもこのくらいの時間には帰っている、女子大生の姉・沙樹の姿が見えない。バイトもしてないから、遊びの用事がない限りは家にいることが多いのに。

「あ、それがねぇ、お通夜なんだって。黒いワンピース着て、慌てて出てっちゃった」

「はぁ!? 誰か死んだの?」

 両親が家にいるということは、大学関係の人間か。

「うん、同じ学科の娘だって。あまり親しくはなかったみたいだけど……若いのに、可哀想にねぇ……」

 そう言いながらも、その口調はどこまでも他人事で。まあ、実際他人事なのだけど。

 それでも……今日、どこかの誰かが死んだという事実は、決して喜ばしいことではない。ほんの僅かに、気持ちが沈む。

 大好きだった彼氏に裏切られた少女がいて、

 二十年弱の人生に幕を下ろした人物がいて、

 それに比べれば――自分の些細な不運なんて、大したことがない気がしてくる。第一、『不運』などと言ったって、その半分は自分の怠慢や不注意が原因な訳だし。

 軽く自分を戒めながら、悠一は夕食に箸をつける。鳥の唐揚げ、まぐろの刺身、豆腐サラダに豚汁――今日のメニューは悠一の好物ばかり。何だかんだ言って、自分は両親に愛されている。親友がいて、家族がいて、毎日自分の好きなモノを食べて――何だ、自分は幸せなんじゃないかと、今さらながらに気が付く。

 何が不運だ。

 何が厄日だ。

 何が――赤点だ。

 小鳥遊悠一の底力をナメんなよ。

 そんなもん、自分の力で吹き飛ばしてやる……。

 唐揚げを頬張りながら、悠一は固く、そう誓ったのだった。



【午後11時30分】

 ――眠い……。

 机に向かって数時間、悠一は今、強大な敵と闘っていた。

 つまりは、睡魔――である。

 今までも何度か襲われていたのだけど、それは気力で薙ぎ倒してきた。睡魔に実体があるとするなら、今頃この部屋は屍の山が築かれていることだろう。

 だが、今回のは相当に手強い。ラスボス級だ。今のレベル、装備では、とてもではないが敵う気がしない。物理の用語集を丸暗記し、やっと地理の範囲を覚え始めたところだと言うのに。

 ……まだ、SR(サイドリーダー)も残っているのに……ここで、寝てしまっては……また同じ轍を踏むことに……自分自身もそうだけど……それでは……入江に……申し訳が……こんな……まだ……寝る訳には……まだ……。

 …………。


 …………。


 …………。


「あああああッ! あぶねえッ!」

 大袈裟に跳ね起き、意識して大声を出す。そうすることで、少しでも睡魔を退散させようとする。平手で自分の頬を張る。ゴシゴシと目をこする。椅子から立ち上がり大きく伸びをする。目薬を差す。勉強を再開する。入江特製のノートを開く。用語を繰り返しノートに写し、頭に焼き付ける。頬杖をつく。瞼が閉じる。意識が霧散していく。

 …………。

「だーかーらーッ、違うってのッ!」

「悠一ッ! ウルサイよッ!」

 大声で一人コントを演じる息子を、階下から母親が叱りつける。

 ――もう、限界だ……。

 やる気はある。入江にここまでしてもらったのだ。それ相応の結果を出せねば、人として最低だと思う。だけど、体がついていかない。プレッシャーをモチベーションに昇華させたところまではいい。だけど、そこまでだ。悲しいかな、慣れないテスト勉強に、結果がついてこない。

 そこで蘇るのは、やはり入江の言葉だった。

『軽く仮眠をとるのもいいかもしれないね』

 そう、仮眠だ。本眠ではない。携帯アラームをセットして、机に突っ伏して、ほんの三十分眠るだけ。それだけだ。次に目覚めた時は、完璧に眠気も取れて、完全リフレッシュ。入江に太鼓判をもらった集中力・記憶力を駆使して、入江が張ってくれたヤマを丸暗記する。完璧だ。孔明も裸足で逃げ出す、完璧な作戦だ。イッツ・ア・パーフェクト・プラン。

 ……眠すぎて、思考能力が極限まで落ちている。これは冗談ではなく、本気で限界を迎えているのかもしれない。悠一はそそくさと携帯アラームを『30分』にセットし、机の上を軽く片付けて、照明をつけたままの状態で突っ伏の体勢に入る。

 ほんの数秒と経たないうちに意識が遠のいていって――

 悠一は、眠りに落ちた。



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