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始幕

『戦車』×『死神』

【午前1時5分】

「武器屋ァァァッ!」

 入り口を蹴破ると同時に、織田は雄叫びを上げる。部屋にいることは、灯りが点いていることからも明らかだ。

「……随分と騒々しい登場だねェ……」

 奴は、定位置でパソコンを覗き込んでいた。

 夜中だというのにサングラスをかけ、薄汚れた黒いパーカーに袖を通し、フードをすっぽりと被っている。片手にはコップ酒。何もかもが、いつも通り。

「てめェ、随分と余裕じゃねェか? 自分の立場分かってンのか? あぁ?」

「何だよぅ。怖いなァ。ボクの立場って、何だよォ?」

 あくまでトボけるつもりらしい。

「……盗聴器、仕掛けたろ?」

 生憎と、織田は美智代のような交渉術など持ち得ていない。新城のように口や頭が回る訳でもない。いつでも直球勝負だ。

「だったら、何?」

 意外にもすんなりと認める『武器屋』。

「何で、ンなことした?」

「何でって――リーダーさんが言ってた通りだよォ。せっかくの拷問だよ? 密室で終わらせたんじゃ、もったいないじゃない」

「拷問じゃねェ。身体罰だ」

「同じことだよォ。織田チャンの人体破壊ショーなんて魅力的な催しがあるって知って、このボクが無視できる訳ないじゃないのサ」

「見せ物じゃねェんだよッ!」

 咄嗟に襟首を掴み、締め上げていた。

「……何だよォ。何をそんなに怒ってるんだよォ……。ボクが何をしたっての?」

 その言葉を聞いて、織田は愕然とする。

 この男、本気で言っている。

 自分のしたことに、微塵も罪の意識を抱いていない。

 その鈍感さに――戦慄すら覚える。

「馬鹿野郎ォッ! てめェ、盗聴した音声、ネット掲示板に上げただろ。今回の騒ぎは、それが発端になったんだぞッ!」

「発端は発端でしょォ? ボクは悪くないよォ? 悪いのは、あの入江って坊やと、その坊やに操られて暴れまくった小鳥遊くんでしょォ?」

「……てめェは、盗聴してたくせに、何にも人の話を聞いてねェな……。奴らには奴らの理由があったんだよ。ま、どんな理由があろうが許されねェことなんだが――それでも、てめェよりは救いがある。人が血を流すのを見て喜んでるような、変態よりはなッ!」

「えぇ……? よく分からないなァ……? 盗聴して、それを掲示板にアップするのが、それほどの罪なの? ま、罪は罪なんだろうけど、殺人や殺人教唆に比べれば、そんなの微罪――」

 全て言い終わる前に、そのヘラヘラ顔を殴りつけていた。

 一発。

 二発。

 三発。

 サングラスは吹っ飛び、折れた歯が血と共にこぼれ落ちる。

 だが――奴は、まだ笑っていた。

 これ程の怒気に当てられ、殴られても尚、この変態は、そのヘラヘラ笑いを顔に貼り付けている。

「……ボクみたいな人間、許せない? それなら、それでもいいサ。だけどね、ボクみたいな人間は、どこにでもたくさんいるよォ? 猟奇事件をイベントとしか捉えない人間もいるし、容姿のいい殺人犯をアイドル扱いしてファンサイトを立ち上げる人間だっている。血が好きで、死体が好きで、人の不幸が大好きで――なんて人間、巷にはゴマンと溢れている。織田チャンは――ってか、『グループ』は、そういう人間を一人一人狩っていくつもりなの?」

「黙れ変態ッ! ご託はいいんだよッ! オレは、てめェが許せねェんだッ!」

 勢いで、もう一発殴る。

 掴んでいた襟首を引き寄せ、『武器屋』の顔を至近距離にまで引き寄せる。フードとサングラスを外した『武器屋』の素顔。奴の素顔を見るのは初めてではないが、ここまで至近距離で見るのは、これが初だ。

 奴と、目が合う。


 そこには、(うろ)があるだけだった。

 

 勿論、眼球はある。

 だが、光がない。

 何も見ていない。

 何も感じない。

 怪物(モンスター)の――目だ。


 恐ろしくなっって、思わず突き飛ばす。

 もんどり打って倒れる『武器屋』。だが、まだ笑っている。

「許せないって――どうするつもり? また、ボクの躰、切り刻む? いいよいいよォ? どんどんやりなよォ。純ちゃんの時は、ずいぶんと可愛がってくれたもんねェ? 口では、もう厭だ、沢山だって言ってたけどさァ――ボク、本当は、あの時のことを思い出しては興奮してるんだァ。どんどんやりなよォ。道具なら、いくらでも、腐る程あるんだからさァ――」

 ケケケケケ、と笑う『武器屋』を見て、織田は完全に血の気が引いてしまう。

 この男は、駄目だ。

 そう、思った。

「おめェは……ダメだな」

 だから、そう言った。

「アハハハハ。織田ちゃんは分かりやすくていいねェ。そうだよォ。ボクはダメ人間だよォ。そんなダメ人間を、早くイジめてくれよォ」

 駄目だ。

 この男には、何をしても、無駄だ。

『罰』を行ったところで、何の意味もない。

 何も――変わらない。

 どれだけ痛めつけようが、この男は変わらない。この後も、この

男は危険人物に武器を貸し続ける。残酷な場面を、目を輝かせながら観察し続ける。そのために、些細な干渉を続けていく。例えそれで事態が悪化しようと、微塵も罪の意識を感じない。自分は何も悪いことはしていないなどと嘯きながら、同じことを続けていく。

 何度も。

 何度も。


「――やめた」

「ん?」

「ここに来たときは、てめェを処刑するつもりだった。だけど――それも、やめだ。てめェには、何をしても意味がねェ。関わるだけ、損だ。てめェには――見切りをつけた」

「ハ? 何言ってるんだよぅ。今さら、縁なんて切れる訳ないだろォ? ボクと『グループ』は、切っても切れない関係――」

「思い上がンな。てめェの武器なんざなくたって、オレもムギもやってけんだよ。オレらには、それだけの実力がある。それに――」

 言いながら、尻ポケットの感触を探る織田。

「てめェから借りなくたって、得物くらい持ってンだよ」 

 取り出したのは、折りたたみナイフだった。

 即座にそれを開き、

「てめェとは、もう金輪際付き合わねェ」

 素早く横に振り払う。

「全ての記憶を失って――ケチな武器商人に戻るんだな」

 ピッと、奴の喉に赤い線が走る。

 次の刹那、赤い噴水が上がり、変態『武器屋』はゆっくりと上体を崩す。

 血の噴水を僅かに浴びながら、織田は素早く踵を返す。

 不安要素にしかならない怪物(モンスター)とは縁を切って、仕切り直し。

 ここから、やり直すのだ。

 ここは、始まりの第一歩なのだ。

 もう、後ろは振り向かなかった。


 ――あ。


 数歩進んだ所で、織田は悠一としたした約束を思い出す。

 もう二度と人は殺さないと――そう、約束したのに。

 実際、もう二度と人を殺めるつもりはなかったのに。

 約束は、守らなければ意味がない筈――だったのに。

 ――ううん――。

 悠一にどう言い訳しようか――頭を捻りながら、織田は雨に濡れる街の闇に、姿を隠したのだった。

 

  

『正義』×『塔』

【午前2時30分】

「織田さん――結局、アイツのことリセットさせたみたい」

 高層マンションの一室に、並木の淡々とした声が響く。

 漫画本を捲っていた司の動きが、止まる。

「リセット……?」

「そう。リセット。今の状態じゃどうにもならないから、リセットさせて、全部忘れさせて、縁を切ることに決めたんだって」

 携帯メールを読み上げる並木の声からは、大した感慨も感じられない。それは司も同様で、「そうですか」くらいしか返せない。

 別に、『武器屋』の顛末に興味がない訳ではない。双方とも無関心を装ってはいるが、それが欺瞞であることは本人たちが一番よく分かっている。

 それなのに、一時間ばかり遅れて送信された織田の報告メールに淡々とした態度しか示せなかったのは――お互いに、緊張していたせいでしかない。

 ひどく、気まずい。

物凄く、気まずい。

 最初からそういう段取りになっていたとは言え、並木に全てを知られて尚、こうして同じ部屋でじっとしているというのは――正直、肩が凝る。

 かつて、二人が付き合っていたこと――それは、事実だ。入江にそれを利用され、巧みな情報操作で亀裂を生み出し、今回の騒動の元凶となったこと――それも、事実。並木は事実を知っただけにすぎない。

 だけど。

 だけれど。

 司の、並木に対する想いは現在進行形な訳で――そのことを含めて、並木には全てを知られてしまった訳で。

 並木は無関心を装っているが故に鈍感なところがあるが、決して馬鹿な訳ではない。むしろ、頭はかなり切れる方だ。あの、馬鹿な悠一にさえ、初対面で看破された程なのだ。全ての事実を聞かされて、今の司の気持ちに気付かない訳がない。

 そんな彼と、密室で二人きり。

 針の(むしろ)――とんだ羞恥プレイだ。

 どんな顔をすればいいか分からない。今回ばかりは、こんな人員配置をした新城を恨む。全てが終わった今となっては、彼を監視する必要などない筈なのに……。


 並木がマウスをクリックする音と、司が頁を捲る音だけが部屋に響く。今回は、今までとは毛色を変えて、任侠漫画を選んでみた。こんな状態では、小説など頭に入らない――そう思って、わざわざ深夜営業の新古書店で購入したと言うのに……やはり、まるで頭に入らない。彼の背中ばかりを見てしまう。

 背中越しにパソコンの画面が部屋に入る。どうやら、匿名掲示板のスレッドをに片っ端から目を通しているらしい。並木が今見ているのは、ニュース板。『武器屋』が、盗聴した音声をアップした板だ。

「……一つ、不思議なんだけどさ……」

 悶々とする司をよそに、並木の口調はあくまでも淡々としている。それが虚勢なのか、或いは気まずさを感じているのは司だけで並木の方は何も感じないでいるのか――それは分からない。

「何ですか?」

「あの男、盗聴して録音した音声ファイルを掲示板にアップした、って言ってたじゃない。入江はたまたまそのスレッドを見つけて、結果、こんなことになっちゃった。……だけどさ、何でその時、おれはその書き込みを発見できなかったんだろう。その時のおれがそれを見つけていれば、もっと違う展開になったかもしれないのに……」

 その当時の並木慎次の記憶は、すでにリセットされている。当然、当時の記憶などない。今の並木は、当時の並木が例の書き込みを発見できなかったことが許せないのだろう。気持ちは分かる。

 だけど。

「結局――結果論なんじゃないですかね。いくらネット上を(つぶさ)に探索したところで、見つけられないものは見つけられないですよ。第一、その時はもう、白石純の事件は解決したものだと思って――並木さん、どっかの企業のコンピューターにハッキングするのに必死になってましたから」

 企業や政府、各種自治体のコンピューターに入り込んで、情報を操作する――それが、当時の並木の主な任務だった。

「ハッキングなんて……そんなの、おれできないよ……」

 画面に向かいながら、弱音を漏らしている。

「五月十二日までの並木慎次さんは、確かにそうです。私と出会った時の並木さんは、確かに何もできませんでした。だけど、その後数千周もかけて、ハッキングの技術を習得したんです。大丈夫ですよ。私たちには、無限の時間があるんですから」

「数千周って……気の遠い話だなぁ……」

 司の言葉を受けて、並木は溜息を漏らす。

「結局――昔も今も、おれは役立たずなんだよね……。何にも知らないで、一人だけみそっかす」

「そんなことないです! 並木さんはちゃんと――」 

 柄にもなく、大きな声を出してしまう。

「そんなことあるよ。おれ、先周まで、この世界のルールすら、ろくに把握してなかったんじゃん」

「…………」

 返す言葉もない。

「おれは、全部知りたいんだよ。情報弱者はもう沢山だ。この世界のことも、他のリピーターのことも――それに――」

 不意に、並木の腰掛けるキャスター椅子がくるりと回転する。


 並木と、目が合う。


「かつておれが好きだった――君のことも、もっと、知りたい」


 …………。

 何だ。

 この人は、何を言ってるんだ。

「人を好きになったことなんてないし、正直、人を好きになるってことがどういうことなのか、よく分からないけど――だけど、かつておれと付き合ってた――おれが好きになって、おれのことを好きになってくれた君のことを、もっと……知りたいんだ」


 ――卑怯すぎるッ!


 この場で、このタイミングで、こんな台詞を吐くなんて――。

 急激に顔が赤くなっていく。

 気取られるのが怖くて、咄嗟に顔を俯ける。

 何だこれ。

 何だこれ。

 何だこれ。

 急すぎる。

 何で今。

 何で今なんだ。

 並木がリセットされてから十数周――初めて視線を合わせてした、初めての会話が、これなんて――心の準備が、できていない。

 この人は、いつでも何でも、いきなりなのだ。

 臆病なくせに妙に度胸と行動力があるものだから、一緒にいるとハラハラする。それ以上に、ドキドキする。

 ……やばい。

 全身の血液が顔に集中しているようだ。耳の裏がドクドクいっている。本当に――何て、羞恥プレイだ。

 感情が表に出ない(たち)でよかった。

 好きな人にクサい台詞言われてみっともなく狼狽するだなんて……全く、自分のキャラじゃない。

「――――」

 何と答えるべきか分からず、司は言葉に詰まってしまう。続く並木の台詞もない。どうしたのかと、恐る恐る顔を窺うと……件の主は、両手で顔を覆っている最中だった。

「――ゴメン」

 顔を覆う長い指の隙間から、並木の弱々しい声が漏れる。

「今の……忘れて」

 微妙に、震えている。僅かに見える彼の顔は、司と同じように真っ赤になってしまっている。

「おれ、何言ってんだろう。何か今、恐ろしくクサい台詞が聞こえたかもしれないけど、それ、幻聴だから。気のせいだから。全力で忘れて。お願いだから」

 何を今さら。

 リセットでもされない限り、忘れようもない衝撃だったのだが。

「くっそ、おれ、何であんなこと言ったんだろ……。こんなの、おれのキャラじゃないのに……」

 全力で恥ずかしがる並木を見て、思わず顔が綻んでしまう。

 やっぱり――自分たちは、似たもの同士だ。

 人とのコミュニケーションが下手くそで、素直じゃなくて、恐ろしく不器用で――それで、いつも人に誤解されてばっかりで。

「――はい。幻聴ですよね。私は何も聞いていません。何も覚えていません」

 可哀想になってきたので、ここは素直に並木の懇願を受け入れておく。

「……ゴメン。何か、変な感じになっちゃたね……。だけどさ、うん、あの――何て言うか……」

 ゆるゆると顔を覆う両手を外しながら、並木は慎重に言葉を選ぶ。

「君と――麦原さんと、ちゃんとやっていきたいって気持ちは、本当だから。だから、その……」

 これからも、よろしくお願いします。

 結局、そんな的外れな挨拶に収束してしまう。

 だけど、それで充分だった。

 何度でも、やり直すことができる。

 それが、この壊れた世界の、唯一にして最大の長所。

 二人の物語は、ここから始まるのだ。

 並木の目が、真っ直ぐに司を捉える。

 司も、その視線を正面から受け止める。

 ――駄目だ。

 不意にこみ上げてくるモノを感じて、司は慌てて立ち上がる。

「私、ちょっとコンビニに行ってきます」

「えっ……?」

 唐突な司の態度に驚く並木。だけど、もう駄目なのだ。司は半ば逃げるようにして、彼の部屋を後にする。

 取り敢えず、エレベーターまでは、大丈夫だった。

 だけど、エレベーターに乗り込んで、扉が閉まり、完全に一人になったところで――限界を迎えた。


「うううううううううううううう」


 いつかのように、嗚咽が漏れた。

 自分は人の前では泣けない。

 嬉しくて感激してどうしようもなくて――後から後から、涙が溢れる。クールで無表情ないつもの仮面など、簡単にはがれ落ちてしまう。

「ううううううううううううう」

 慎次さん――。

 慎次さん慎次さん慎次さん。

 かつて愛した人の顔が、今現在愛している人の顔が、何度も何度も、頭の中を駆け巡る。司は停止した箱の中で数分間泣きじゃくっていたが、どうにか呼吸を整え、泣くのをやめる。司は、並木は、二人は、これから始まるのだ。

 もう、涙はいらない。

 ひどく幸福な気持ちで、司はエレベータを降りる。


 マンションの前を、ボロボロの国産車が猛スピードで、駆け抜けていった。



『魔術師』×『審判』

【午前3時15分】

 深夜の住宅街を、美智代の運転する車が疾走していく。

 美智代は、ひどく不機嫌だった。

 前の周、ようやく全ての出来事が解決し、収束した。それはいい。悠一や並木は全てを知り、実質的な黒幕であった入江明弘の身柄も確保し、紆余曲折の後、何とか『落とす』ことができた。これでもう、同じことは二度と起こらない。いわゆる大団円、という奴だ。それはいい。いい終幕だったと、それは美智代も、そう思う。

 ただ一点――どうしても、許せないことがある。

 終盤、入江を説得する段になって、美智代は柄にもなく感情を爆発させてしまった。頭でっかちなだけでまるで未成熟な入江の言動に、本気で怒ってしまった。純のことが不憫で残念で、それで――本音を晒してしまった。

 普段の美智代からは考えられないことだ。

 全く、不本意だ。

 あんなつもりじゃなかったのに。狡猾に計算高く腹黒く、相手の心に入り込み、感情を操作して、畳みかけ、丸め込む。それこそが美智代のやり方で――それこそが、美智代という人格そのものなのに。

 あんなの、まるで自分のキャラじゃない。

 何より許せないのは、どうやら、その一連の流れが新城の仕向けたモノらしい――という点。

 おかしいと思ったのだ。いつもなら真っ先に前に出たがる新城が、あの時は黙って静観していた。美智代や織田に任せた――などと口では言っていたが、どこまで信じられるものやら。結局、最後はおいしい所を持っていった訳だし。

 ずっと引っ掛かっていたのだが、皆の前で聞くのは気が引けたので、周を跨いだところで、電話をかけて確認してみた。そしたら

案の上だ。「時には感情を吐き出すのもいいものだろう?」と来た。

 大きなお世話だ。

「千の言葉を重ねて相手を籠絡させるのもいいけど、それが通用しない相手もいるのだよ。特に、彼は君と似たタイプの人間だからね。理で諭すより、感情をぶつけた方が有効な時もあるのさ」

 一切悪びれず、新城はそんな理屈をつけてくる。

 全く――厭な人だ。

 そんなことは、分かっている。

 計算して言葉を選んで、不安、恐怖、後悔、怒り、畏れ、愛、欲望、自尊心、自己愛――それら雑多な感情を、操作する。美智代には他愛もないことだ。だけど、それが通用しない時もある。

 結局、全ては嘘だからだ。

 一万の嘘は一片の真実に敵わない――時もある。

 伝えないから、伝わらない。

 自分の本当を、本当の自分を奥底に封じ込めて、腐らせて。それで病んで摂食障害になっているのだから、お笑い種だ。

 分かっているのに。

 このままではいられないことくらい。

 すでに、限界を迎えつつあることくらい、自分が一番分かっていることなのに。

 新城は、そんな自分の本質を見抜いたのだろう。

 それで、あんな――。

 全く、腹立たしい。

 思わず、アクセルを踏み込んでしまう。車体が震え、加速度のために躰がシートに押し付けられる。閑静な住宅街が高速で流れていく。

 そう言えば、さっき通り過ぎたのは、並木のマンションではなかっただろうか。司たちは、うまくやっているだろうか? 二人揃って不器用な、とてつもなく厄介なカップル。まあ、下手な横槍を入れない限り、心配はないと思うのだけど……。


 目的地が近づいてきた。

 郊外のファミリーレストラン、その前に鎮座する平凡なアパート。

 その一室に、竹崎宗也は住んでいる。

 先々周の、列車内での狂乱は記憶にも新しい。

 並木を傷つけ、織田に痛めつけられ、さらに司にとどめを刺されて――『グループ』が認知する限り、二回目のリセットを迎えた。

 一方、先周はと言えば、悠一と並木に事の真相を気付かせるのに一役買ってもらった。『リセット』という概念を理解してもらうのに、竹崎の存在はうってつけだった訳だ。と言うか、そもそも泳がせていたのはそのためだったのだが――いい加減、彼にもフォローが必要だろう。

 このまま放っておけば、またいずれ怪物(モンスター)化してしまう。そうなると、やはり厄介だ。一番最初は、『グループ』が認知していなかったこともあって、対応がかなり遅れてしまった。少なからず死傷者を出した後で、織田の手によりリセット。それが、百周ほど前の話になるだろうか。

 今回は、鷲津や並木といった調査班がぴったりマークしていたおかげで、完璧に行動を把握することができた。迅速に現場に駆けつけ、織田・司の戦闘班の活躍により怪物(モンスター)を無効化。結果、被害を最小限に抑えることができた訳だが――今後は、そうもいかない。彼一人にそこまで人員を割いている余裕などないからだ。早い段階での接触が必要となる。

 竹崎は、典型的な内向タイプの人間だ。現実世界でもネット世界でも、極力人との関わりを避けようとする傾向にある。それに加え、認識能力、察知能力も、少し欠如している。ネット世界に入り浸っていたのなら、そこに自分以外のリピーターを発見してもよさそうなものなのに、彼は見つけられなかった。竹崎はこの長いリピート世界の中で二度怪物(モンスター)化し、二度リセットされている訳だが、その二度とも、他のリピーター誰一人と関わることなく、最後まで自分のみがリピーターなのだと信じていた。

 つまりは、閉じた人間なのである。

 放置する限り、彼は何度でも怪物(モンスター)化し、何度でも列車内での狂乱を巻き起こすのだろう。何度でも。何度でも。

 しかし、他のリピーターと関わっていないという点で、まだ扱いやすいとも言える。悠一や入江、純や『武器屋』などは、お互いに密接に関係していた。時に影響を与え、時に利用し、利用され、それが悪循環を成していた。一人だけに注目していたのでは本質を見逃してしまう。だから、混乱する。『グループ』も悠一も入江も、そのせいでひどい回り道を強いられてしまった。

 だが、竹崎に関しては、取り敢えずそういう心配はない。彼が一人で完結している以上、他のリピーターに影響を与えることもない。利用し、利用されることもない――実際は、『グループ』が彼の存在そのものを利用した訳だが。

 かと言って、このまま放置していればいいと言う訳でもない。そんな訳はない。心配が少ないとは言え、それはあくまで比較して、というだけの話だ。彼も危険人物であることには変わりがない。否、それでは語弊がある。正確に言うなら、将来危険人物に発展することに変わりはない――か。放っておいたら怪物(モンスター)になることは目に

見えているのに、何もせずにいていい訳がない。それは、『グループ』の行動理念に反する。

 そこで、美智代の出番だ。早い段階で接触をはかり、この世界のことをある程度知ってもらって、不安を拭い去る。光を与えて、絶望を奪う。

 先々周にリセットされた竹崎は、先周が一周目になる訳で、つまり、二周目である今周になって初めて、同じ一日を繰り返していることに気が付く筈である。リピートされて四時間弱――そろそろ、混乱がピークに達している頃だろう。いいタイミングだ。

 美智代はアパート脇の駐車場に乱暴な駐車をして、傘も差さず、さっさと目的の部屋を目指す。バッグから茶封筒を取り出す、瞬時に頭の中で台詞を構築し――インターホンを、押した。


      ※


 あ、竹崎宗也さんですね。夜分遅くに申し訳ありません。私、こういう者です。

 え? ただの封筒じゃないかって?

 そうですね。ただの封筒ですね。どう見ても名刺には見えませんね――あっ、閉めないでください! 足挟んであるんで、勢いよく閉められたら怪我しちゃうじゃないですかっ! 残念ながら、安全靴じゃないんですよねえ。え? 知らない? ごもっとも。

 じゃ、知るために私の話を聞いてもらえませんか? 

 大事な話なんです。

 セールスでも、宗教の勧誘でもありません。どっちも、こんな夜中に来る人間はいないでしょう? こんな夜中に来ないといけないくらい、重要かつ緊急の用件なんです。聞いてもらいたいんです。

 取り敢えず、玄関先で立ち話もなんですから、中に入れてもらってもいいですか? お前が言うな? いちいちごもっとも。

 ……はい、お邪魔します。あ、ここでいいです。近所の人に聞かれたくなかっただけなので。お構いなく。別に、お茶とかコーヒーとか、雨で濡れた髪を拭くためのタオルとかいりませんので。あ、最初から出すつもりなんてない? だと思いました。

 申し遅れました。私、筒井美智代と申します。これ、本物の名刺です。あ、そうです。市内の中学校で数学を教えています。ですが、今回は私の職業はあまり関係がない。関係があるのは、私たちの置かれた境遇についてです。


 ――貴方を、迎えに参りました。


 あっ、どっかに行こうとしないで下さい!

 まだ導入部じゃないですかー。え? 忙しい? 奇遇ですねえ。私も忙しいんですよ。これからバイト? 働き者ですねえ。素晴らしい。あれでしょう? 牛丼屋さんでしょう? 私もよく行くんですよね。で、行くと必ず特盛りを頼むんです。こう見えて、けっこう食べるんですよお? 肉食系女子って言うんですか? 意味が違う? 早く本題に入れ? ですよね。では、お言葉に甘えて――

 と行きたいところですが……貴方、とっくに分かってるんじゃないですか? 何が? じゃないですよ。トボけないで下さい。じゃあ、お聞きします。

 ――今日は、何月何日ですか?

 ほら、反応した。そう、今日は五月十三日。

 いえ――今日も、と言った方がいいですかね?

 貴方にとっては、二回目――二周目の――五月十三日。

 いいえ、それは夢でも気のせいでもありません。貴方は、二周目の今日を体験しているんです。何で知ってるのかって? いい質問ですねー。

 それは、私たちも貴方と同じだからですよ。

 私たちも、同じ一日を何度も繰り返している。一度や二度、十周や二十周じゃない。それはもう、何百、何千とね。私たちは、この五月十三日を繰り返してるんです。詳しい話はまた後でしますけど――要するに、貴方は、私たちの仲間入りを果たした、という訳です。

 ん? 『私たち』って、複数形なのが気になる? いいですね。いい質問その二。そう。この、同じ一日を繰り返している仲間は、私と貴方だけじゃない。他にも沢山いるんです。

 昨日――って、この言い方は正しくないですね。正確に言うと、前の周――私と同じように。貴方の元を訪れた人たちがいたでしょう? そう、ヤンキー風の男の子と、ちょっと暗い感じのイケメンの、二人組。あの二人が、そうなの。封筒、渡されたよね? その中、見てみた? 何が入ってた? 何も書かれてない紙が、入っていただけ?

 正解。

 つまり、当時の貴方は白紙だったってこと。

 ……いや、本当に。あの紙は、そういう意味だったの。ま、言ってみれば前振りってやつ?

 さて、そこで――最初に渡した、その封筒が意味を持ってくる。その中身は、白紙ではない。何故なら、君はもう白紙ではないから。この中には、私が所属している『グループ』の連絡先が入ってる。そこには、私や、あの男の子たち、他にも沢山の――君の仲間が、待っている。

 そう、仲間。

 最初に言ったでしょう? 私は、君を迎えに来たって……。

 どう? 気になってきた? ん? どっちかって言うと、いつの間にかナチュラルにタメ口になっている私の方が気になる? ……よく気付いたねえ。君って、変なトコ鋭いよねえ。ん、誰でも気が付くって? いいね。ツッコミも的確。面白い。ますます、君のことが知りたくなってきちゃったな……。

 でも、今回はここまで、かな。私はここで、一旦引き上げます。もし興味があったら、ぜひ連絡して。私たちは君のことを歓迎します。もし接触してくれたら、この現象のこと、もっと詳しく教えてあげる。それは君の自由。

 だから――『審判』を下すのは、私たちの話を聞いてからでも遅くないと思うけど?


 

 アパートを出て、美智代は一息つく。取り敢えず、竹崎の興味を引くことには成功した。遅かれ早かれ、彼は必ず連絡をとってくるだろう。

 勿論、まだ油断はできない。興味を引き、信頼を勝ち得たところで、怪物(モンスター)化の危険性がなくなった訳ではないからだ。

 確かに、今は問題ない。竹崎宗也とまともに会話するのは今回が初めてだったが、予想に反して常識的な対応のできる男で助かった。ネット上の書き込みを見る限りでは、もっと幼稚で傲慢な人間のように見えたのだが――まあ、その時点での彼は相当に追い詰められていた筈だし、そもそもネット上の書き込みだけで人の印象を決めつけるなんてナンセンスだ。話してみないと、分からない。結果、竹崎は話せば分かる男だと判明した。あれなら、大丈夫だ。竹崎は、救われる。二度と怪物(モンスター)化など、させない。いつかは自身の犯した罪を知る時も来るのだろうが……きっと、大丈夫。あれほどのことをしでかした悠一ですら、受け止めてくれたのだ。要は、丁寧にコミュニケーションを続けて、二度と同じ過ちを繰り返さないようにするだけのこと。

 過ち――それは、竹崎に関してもそうだし、美智代に関しても、そうだ。

 もう、失敗はしない。

 純の時で、懲りた。

 美智代に彼女は救えなかった。

 嘘だらけの言葉では、伝わらない。

 聡明な純は、大人のインチキに敏感だ。美智代も、早々にその虚構を看破され、心を閉ざされてしまった。それが、悔しいし、情けない。

 だけど。だけれど。

 いきなりスタンスを変えられるか――と言われれば、それは無理な注文と言える。今まで続けてきたことを、そう簡単に覆せない。いつかは終わり、そして始まるのだろうけど――美智代に関しては、それは先の話になりそうだ。


 車に乗り込み、幾分乱暴にキーを回す。別段、気が立っている訳ではない。車に対して乱暴なのが、美智代の常態なのだ。むしろ、今はだいぶ落ち着いていると言える。

 凪の心で――また、純のことを思い出す。

 かつて、救えなかった少女。

 どこまでも、救われない少女。


 ――あの娘は、今どうしているだろうか……。



『刑死者』×『月』

【午前6時20分】

 警告音が、鳴り響いている。

 耳をつんざく不快な電子音。

 擦り切れ、停止していた脳味噌が、にわかに働きを取り戻す。

 呆けたように天井を見上げていた純は、緩慢な動きでエンターキーを叩き、警告音を消す。PC画面に、警告のウィンドウが表示されている。

 持ち時間が30分を切りました

 だそうだ。

 続いてエンターキーを叩くと、見慣れたチェス盤が表示される。

 ……ああ、今は対戦チェスの最中だったっけ……。

 ゆるゆると、思い出す。このネット対戦では、持ち時間が一時間と定められているのだ。その半分が過ぎると、警告音が鳴る仕様。持ち時間を過ぎても――その時もまた警告音が鳴る――まだ行動を見せないと、自動的に負けにされてしまう。そんなルール。

 ネット上で知り合った、どこの誰とも知らない相手と、純はずっと対戦を続けている。戦局は、九八勝六七五敗。完全なる負け越しだ。テレビゲームやネットゲームばかりが得意だと思われるのも癪なので、トランプやUNO、花札、麻雀、オセロや将棋の類も相当に鍛えている筈なのだけど……相手が悪すぎる。まるで、格が違う。辛うじて勝ち得た九八勝も、何だかサービスされているようで、釈然としない。一体、何者なのだろう。顔や本名は勿論のこと、年齢も、職業も、性別すら判然としない。聞いても、教えてくれない。分かっているのは、HNと、リピーターであるということだけ。

 とは言え、別段それでも構わないと思っている。相手が何者だろうと、関係ない。今の純には、ネットでチェス対戦してくれるこの人物が、とてつもなく貴重な存在なのだ。現実(リアル)、ネット関わらず外界との接触を禁止している『グループ』の連中ですら、これだけは黙認している。

 部屋の中はゲームで溢れているが、そのどれもが擦り切れる程にプレイ済み。今さら電源を入れる気にもならない。だから仕方なくこの対戦チェスに興じている。画面にチラリと視線を遣るが、すぐに逸らしてしまう。見なくとも、分かっている。動かせる駒などない。今さら、どこをどう動かしてところで、数手先にチェックメイトされてしまうのは目に見えている。いわゆる『詰み』というやつ。

 今の自分と、同じだ。

 純は、そらした視線の先に、昏い目をした少女の姿を見る。

 生気を欠いた瞳。

 あらゆる種類の光を一切合切失った、絶望の肢体。

 それが窓ガラスに映った自身の姿だと気づき、純は力なくカーテンを引く。

 チェックメイト。

 詰み。

 何もできない。

 どこへも行けない。

 何も変われない。

 決して、救われない。

 まともな世界なら、それでもまだ選択肢はある。

 首吊り。

 飛び降り。

 リストカット。

 オーバードー。

 いくらでも――自分の好きな方法で、人生をリセットできる。

 だけど、今は。

『グループ』の監視がある。何か行動を起こせば、まず間違いなく

邪魔される。今も続く一時間に一度の定期報告――所定の番号に電話をかけ、『白石です』と名乗るだけの、ひどく事務的なモノなのだが――それを怠れば、たちまち母親の元へと連絡が行く。娘を溺愛しているあの母親は、すぐに純の行動に気が付くだろう。結果、決死のリセットすら――未遂に終わる。

 終わりなんて、どこにもない。

 ハッピーエンドも、アンハッピーエンドさえ、自分には用意されていない。永遠に続く悪夢。この乾いた檻の中で、ただ精神が擦り切れるのを、待つだけ。

 何もせずにいたのなら、いつしか、完全な思考停止ができるのだろうか。

 何も、求めてはいけなかったのに。

 何も、期待してはいけなかったのに。

 起こした行動はことごとく裏目に出て――この有様。

『グループ』の監視が始まってから、何周が経ったのだろう? 前は、壁にその数を書いていたのだけれど、馬鹿らしくなってそれもやめてしまった。

 数周前、純は千載一遇のチャンスを逃した。あのタカナシって男を利用して、『グループ』に一矢報いる予定だったのに。バレて、失敗して、無茶苦茶に殴られた。あの麦原って女の話だと、しっかりと織田に報告する予定なのだとか――目の前が暗くなる。また、信じられないくらいに、ひどいことをされるのだろうか。

 定期報告では、何も言われていない。だけど、信用はできない。そもそも、その担当である筒井という女自体が胡散臭いのだ。いつもテンション高く適当なことばかり言って、いつのまにかそのペースに巻き込まれていて――巧みに、こちらを言いくるめようとする。インチキな大人の代表例みたいな女。あの女が何も言わないからと言って、決して信用はできない。何も、信用してはいけないのだ。

 ――こんなことなら。

 ぼんやりと、考える。

 最初から、何もしなければ――何も望まなければ――何も考えなければ、よかったのだ。生まれるべきでもないのに生まれてきて、生きるべきでもないのに生き続けて、傷ができて、息ができなくなって――もがいて、喘いで、悶えて、足掻いて――ますます、傷を増やしていって。

 逃げたい。

 死にたい。

 救われたい。

 そのどれもが決して叶えられることはなく、純はまた、ぼんやりとした疼痛に、目眩を覚える。

 いやだ。

 嫌だ。

 厭だ。

 もう、うんざりだ。

 痛みの中での膠着状態に、純は自身の思考停止を願う。

 何も考えなければ。

 何も望まなければ。

 少なくとも今よりは――救われるのに。


 ピコン。


 唐突な警告音に、純は身を固くする。またPCだ。だけど、先程のそれとは微妙に違う。今回は持ち時間が迫っているのを知らせるモノではない。今回のは、対戦相手からのメッセージ着信を伝える警告音だった筈だ。

 見れば、チェス盤の隅に、確かにそれ用のアイコンが増えている。今まで、一切の無駄口を叩かず、こちらが質問しても何一つ答えてくれなかったというのに――それが、ここに来て向こうからメッセージを送ってくるなんて。

 早速、そのアイコンをクリックして、メッセージを開く。


『諦めた気に、なっていないか?』


 メッセージは、そんな一文から始まっていた。

 チェスのことを言っているのなら、こちらはもう完全に詰んでいるし、このタイミングでそんな挑発をしてくるなんて理不尽にも思えるのだが――読み進めるうちに、そうでないことに気が付く。 

 相手は、チェスのことを言っているのではない。

この世界のことを言っている。


 終わりがないのならば、何度でもやり直せばいい。


 この世界はチェス盤などより、ずっと広い。


 諦めずに探し求めれば、光は、救いは必ず見つかる。

 

 象徴的かつ回りくどくて分かりづらいが、要約すればそういうことを言っているのだと思う。

 ……本当に、何者なんだろう。

 純は相手のことなど何も知らないのだけど、向こうはそうではないらしい。どこの誰だか知らないが、確実に、純の置かれている状況を知っている。

 全てを見透かしているかのように。

 全てを、見抜いているかのように。

 こんな――こんな、無機質な活字群で、励ましたつもりなのだろうか。

 何も、知らないくせに。

 何も分かってないくせに。

 言葉だけでは、認識だけでは世界は動かない。純がどういう精神状態でいようが、この絶望状況は変わらない。純は、救われない。

『……などと、いくら言葉を重ねても、今の君には響かないだろう。

 強固に心を閉ざしてしまった君に、凡百の言葉は無意味だ。』

 徹底的に見透かされているらしい。

 ならば、何だと言うのだ。

 純は、抗いようのない虚脱感を覚えながら、それでもメッセージウィンドウを閉じることもできず、画面をスクロールして続きを読み進める。


『そこで、サプライズゲストを用意した』


 数行のスペースの後に、そんな言葉が記されている。


『君がこのメッセージを読み終わる頃には、到着している頃だろう』


 ……何を言っている?

 サプライズゲスト?

 何の話だ?

 純は混乱した。

 メッセージは、そこで終わっている。言っている内容は分かったが、それを送ってきた意図が理解できない。最後の下りなど、特に意味不明だ。まるで思考が追いつかない。数瞬前まで完全な思考停止を願っていたせいだ。

 どれだけ、パソコンの前で呆けていたのだろう。

 コンコン、と窓を叩く音に、純は飛び上がって驚いた。

 音は、すぐ横の、先程カーテンを引いた窓から聞こえてくる。

『サプライズゲストを用意した』

 メッセージの一文が蘇る。

 純は素早く呼吸を整え――ゆっくりと、カーテンを開いた。


「――先生……?」


 そこには、入江明弘が立っていた。

 去年、純がお世話になった家庭教師だ。温厚で頭がよく、少しオタクで、何でも知っていて――純とは気が合った。勉強の合間、一緒にゲームをしたり、愚痴や相談を聞いてもらったり……それまでで初めて心を許したのが、彼だったのかもしれない。いや、実際にそうだ。親とも学校の連中とも、誰とも口を利きたくなくて、誰とも関わりたくなくて――そんな中で、純は入江を、心の拠り所としていたのだ。家庭教師としての契約期間が終わってからも、頻繁に連絡を取り合っていた。進級してからは、さすがに回数も減ったが、それでも交流があった。完全に疎遠になったのは、純がこの、馬鹿げたリピート地獄に迷い込んでから……。

 もう、二度と会えないと思っていた。

 いや、会おうと思えば、いつでも会えた。だけど、会って話して

相談したところで、その記憶は、リピートされればきれいさっぱりなかったことにされてしまう。何度でも。何度でも。

 だから、純は動けなかった。

 だから、純は自分の殻に閉じ籠もった。

 接触してくる『グループ』と呼ばれる胡散臭い連中を拒絶し、その一方で、輪をかけて胡散臭い筈の『武器屋』の甘言に乗り、全てを壊そうと企てた。実際、多くの物を破壊し、多くの者を殺し、傷つけた。だけどそれは、取り返しのつかないこと――らしかった。結果、『グループ』に捕まって……ひどい目に遭った。

 こんな時に先生がいればと、ずっと思っていた。

 それは、とてもぼんやりとした願いだったけど。

 純は、確かにそう願ったのだ。

 その彼が、今、目の前でビニール傘を差して、立っている。

 窓のすぐ外は、玄関の庇部分と繋がっている。塀や雨どいなどを利用して、ここまで登ってきたのか――否、今問題にすべきなのはそんなことではなくて……。

「な、何で……」

 震える手で、窓を開ける。傘を畳み、靴を脱ぎ、機敏な動きでかつての家庭教師が窓から侵入してくる。

「久しぶり」

 そして、いつもの曇りのない笑顔で、純に笑いかけるのだ。


「ゲームやりに来た。一緒に遊ぼうよ」


 何でもないことのように、どこまでも自然に、入江はそんなことを言う。……この状況は、どこまでも不自然なのだけれど。

「えっと、あの、何で――」

「ああゴメン。吃驚してるよね。色々聞きたいことがあるだろうし、色々と話したいこともあるだろうけど……ま、それは後回しにしよっか? 長くなるからね」

 柔らかい声で、温かな笑顔で、入江は純の言葉を牽制する。混乱と困惑でグシャグシャに掻き乱される純の頭に、心に、スッと――何か、温かな何かが、差し込まれる。

「だけど、これだけは約束するよ」


 もう、二度と一人にはしないから。


 それは、光だった。

 太陽のように強くはないけれど――淡く、仄明るくて、気を抜くと見逃してしまいそうになる程の光量だけれど――今の純には、

それで充分だった。

「う……ううう」

 気が付いたとき、純はその場で泣きじゃくっていた。

 何故この状況で泣き出したのか、自分でも分からない。嬉しかったのか、安心して緊張の糸が切れたのか……。何を求めているのか、何を感じているのか、自分のことなのに――純には、いつだって自分のことが一番分からない。

 ただ、突如として登場した『光』に甘えるように、純は、いつまでも、いつまでも泣き続ける。

 入江は何も言わず、ただ優しく、ただ温かく、背中をさすってくれていた……。


 遠くの方で、パソコンが警告音が鳴り響かせている。

『時間切れです。

 貴方の負けです。

【ハイエロファント】さんの勝ちです』



『節制』×『法王』

【午前7時0分】


『時間切れです。

 貴方の勝ちです。

【まなみ】さんの負けです』


 ノートパソコンに表示されたウィンドウを眺めながら、新城が一息吐く。

「……相変わらず、お前のやることは演出過剰だな」

 その後ろ姿を眺めながら、鷲津は新しい煙草に火を点ける。

 場所は、お馴染みの廃オフィス。ライフラインを絶たれたこの部屋で、新城は私物のノートパソコンに向かっている。照明がないために、部屋の明るさはパソコン画面から漏れ出る光と、窓から僅かに入ってくる街灯の光に依存している。

「演出は大切ですよ。クサい台詞も、陳腐な筋書きも、演出一つでどうにでもなる。むしろ、今回は私がどうこうではなく、演出の勝利と言えるのではないですか?」

 口調は丁寧だが――どうにも、慇懃だ。

 この男は、いつもこうなのだ。

『グループ』内で唯一年長である鷲津に対しては、常に丁寧語で接しているが……その実、どこか小馬鹿にしている。勿論、現在の鷲津は紛うことなく新城の部下である訳で、その態度自体に文句はない。

 文句があるとすれば――それは、幹部である筈の自分にも、本心を明かさない点にある。

 この、ネットによるチェス対戦にしても、そうだ。

 新城は、ずっと白石純の相手をしていた。

 HN(ハンドルネーム)【ハイエロファント】として――鷲津はずっとこの名前の意味が分からなかったのだが、先周、ようやく分かった。

 新城は、『法王(ハイエロファント)』。

 奴は、今回の騒動に関わるリピーターを、タロットのアルカナとして分類していたのだ。

 ちなみに、純のHN【まなみ】と言うのは、恐らく、キーボード配列から取ったものなのだろう。古典的な変換術だ。


「演出――ねえ。お前は、このために――このタイミングでメッセージを送るために、今まで我慢してあのガキの相手をしていたってのか?」

「それは違いますよ。全然違う」

 言葉の内容とは裏腹に、ひどく冷静な口調で、新城は言葉を返す。

「私は、ただ、彼女の退屈を癒したかっただけです。彼女の犯した罪は、確かに許されるべきものではなかった。だから、織田君を使って究極の身体罰を与えた。鷲津さんに監視させて、軟禁状態を作った。筒井君に立ち回ってもらって、自身の手によるリセット――自殺――という、最後の逃げ場まで奪った。だけど、やはりそれはやりすぎだった。こう見えても、私は後ろめたさを抱えていたのですよ。だから――少しでも暇を潰せればと思って、氏素性を隠して、謎のチェスプレイヤーとして、彼女に接触したんです。それだけです」

 鞄から水筒を取り出し、湯気を立てながら、コポコポとコーヒーを注ぎ始める新城。『カフェインは気持ちを落ち着ける』というのが持論らしいが――何てことはない、ただのカフェイン中毒だ。ニコチン中毒の鷲津の言うことではないかもしれないが。

「罪悪感――だったんですかねぇ。許されざることをした彼女に恐怖を植え付け、さらにその恐怖を利用して、長く長い軟禁生活を強いる――だけど、そんな所業こそが、本当は許されざることだったんです。入江君の言うことも、もっともだ。警察でも検察でもない我々が、一個人に出過ぎた罰を与えるなんて、本当はしちゃいけないことなんです。

 でも、その時はそれが正しいと思っていた。思ってしまった。だけど――やはり、罪悪感はあった。勿論、指示したのは私だし、決定したのも私。織田君たちの手前、そんなことを言い出す訳にもいかない。白石純を罰せよ、といきり立つ一方で、彼女のために何か

してやりたいとも、思った――」

 我ながら、難儀な男ですよ。

 乾いた笑いを漏らしながら、コーヒーに口をつける。

 その背中を見つめながら、鷲津は思案する。

 新城の語る言葉は、どこまでも人間らしく、真摯で、殊勝ですらある。だけど――鷲津は、どうしてもそれを信用することができない。猜疑心の固まりである探偵は、この、一回りも年下の上司を信用することができないでいる。


「……今回の一件は、全てお前のシナリオ通りなんじゃないかって――俺は、そう思っていた」


 鷲津の言葉を聞いて、ようやく新城はこちらに躰を向ける。

「何を馬鹿な。『グループ』メンバーの大半を失っているんですよ? 私が、そんな画策をする訳がないでしょう」

「言い直そう。小鳥遊がリセットされてから今までの、全てがお前の筋書き通りだったんじゃないか――という問いなら、どうだ?」

「それはそうですよ。鷲津さんともあろう方が、何を仰ってるんです?」

 コーヒーを口に含みながら、新城はただでさえ細い目を更に細める。

「私が絵を描き、鷲津さん、筒井君、織田君や麦原君が動く。小鳥遊君を誘導し、入江明弘という存在を炙り出し、二度と同じことを起こさないように立ち回る――そうやって、ようやく大団円にまで漕ぎ着けたんじゃないですか」

「……そうだな。俺らは、終わらすためにここまでやってきた。だが、新城――お前の目的は、果たしてそれだけと言えるのか?」

「と、言うと?」

「俺たちは、入江と小鳥遊のせいで多くの仲間を失った。大幅な戦力ダウンだ。明日を得ようと本気で考えている俺たちにしてみれば、手痛いダメージだった」

「その通りです」

「そこでお前は、今回の騒動に乗じて、事態を収拾させるのと並行して、少しでも戦力を補完しようと考えたんじゃないのか?」 

「……続けて下さい」

「リセットされた仲間に接触し、ゼロから信頼関係をやり直すのには膨大な時間がかかる。ならば、作戦を実行するのと同時に、それに関わった人物を新たな戦力として抱え込んでしまった方が、効率的とも言える」

「ふん、回りくどいですね。つまり、何が言いたいんですか」

 回りくどいだとか、この男にだけは言われたくない。吸い尽くしたマルボロを苛立ちまぎれに踏み潰し、鷲津は新たな一本を銜える。

「じゃあストレートに言おう。お前は、小鳥遊、入江の二人を、新たな戦力として迎え入れようとしているんじゃないのか?」

「…………」

 否定も肯定もせず、目を閉じてコーヒーを味わう新城。気にせず、鷲津は続ける。

「小鳥遊は、早合点は多いし、感受性が強すぎるせいで、簡単に騙される。正義感が強いのはいいが、情に脆くてすぐに流される。短所と長所が表裏一体の奴だ。だが身体能力は高いし、頭の回転も悪くない。正しく導いてやれば、化ける可能性がある。なかなか面白い人材だ。

 入江の能力については言わずもがなだよな。精神面の未熟さが目立つが、それでもあの能力は、正直、脅威だ。二度と敵に回したくない。だが、その分、味方になれば強力だ。美智代や並木と同等の働きが期待できるから、作業の効率化が狙えるし、メンバー一人一人の負担も減る」

「その二人が本当に仲間になれば、の話ですがね。しかし、それはどうでしょうねえ。小鳥遊君はともかく、あの入江君が、そう簡単に我々になびくとも思えませんが――」

 何を、白々しい。

 鷲津は紫煙と同時に、大きな溜息を吐く。

「……だから、許したんだろう。あれこれと理屈をつけてはいるが、結局、お前は入江と小鳥遊を許した。のみならず、二人に救いを与えている。

 入江には、白石純がいる。

 小鳥遊には、滝なゆたがいる。

 ゲームマニアの女子中学生と平凡な女子大生――二人の女の存在は、二人の高校生にとって、希望で、光で、救いだ。お前はその存在を二人に示唆した。そうすることで、迷い、惑っていた二人を救ったんだ。そして、救いを与えることで――無意識に貸しを作ることで――お前は、二人を取り込もうとしている」

 一方的に語り続ける鷲津を、新城はその、開いているかどうか分からない目で見つめている。

「……仮にそうだとして、それが、何だって言うんです? 私のしていることは悪ですか? 何か問題があるって言うんですか?」

 コーヒーの上げる湯気の向こうで、新城が不敵に微笑んでいる。

「その逆もまた然り、ってことだ。戦力になりそうな人材を取り込む一方で、お前は利用価値のなくなった人間を簡単に切り捨てている」

「聞き捨てなりませんねえ。いつ、私がそんなことをしました?」

『武器屋』だよ――と、鷲津は苦々しげに吐き捨てる。

「奴は正確にはウチのメンバーではないが、それでも、一応は協力関係にあった。だが、お前は奴を切った。先周、全員の見ている前で宣戦布告したこと、忘れたとは言わせないぞ」

 盗聴器を発見した時のことである。

 新城は、その盗聴器に向かい、はっきりと『地獄の果てまで追い詰めて断罪する』と宣言している。

「そんな大袈裟なモノでもなかったんですけどねえ。……で、それが、何か?」

「あのパフォーマンスのせいで、その場にいた全員が、今回の騒動の元凶が『武器屋』にあると思い込んでしまった」

「思い込んだって――面白いことを言いますね。実際、その通りじゃないですか」

「違う。奴が行ったのは、身体罰の現場を盗聴したことと、その音源をネット上にアップしたこと――この二つだけだ。確かにそれは入江が『グループ』に恨みを抱くきっかけにはなっただろうが、きっかけはどこまで行ってもきっかけにすぎない。入江の暗躍も、小鳥遊の暴走も、各々の罪はあくまで本人たちに帰属するべきだ。決して、余所に転嫁できるモノじゃあない。

 それなのに、お前は、全ての罪をあの男におっかぶせた。

 結果、今周の朝イチで、織田は奴をリセットしてしまった――」

「ふん。鷲津さんは、そこにどんな意味があると?」

 どこまでも、新城は余裕の姿勢を崩さない。

「スケープゴートだよ。『武器屋』は、踏み絵にされたんだ。あの男一人を『悪』とし、攻撃対象とすることで、入江・小鳥遊の罪を分解する――お前は、あの男をそういう『装置』に仕立て上げたんじゃないか?」

 新城は答えない。黙って、水筒のコーヒーを注いでいる。

「そもそも、今まであの男を野放しにしていたこと自体が不自然だったんだ。奴は、危険人物だ。あの男が何かをする危険性は、ほぼ皆無だが――その反面、奴は惨劇との親和性が高い。リピーターによる大がかりな事件・事故の陰には、殆ど奴が潜んでいる。その度に、奴は『ボクは武器を貸しただけだよォ』なんて(うそぶ)いてたが――奴がいなければ、起きなかった事件も数多くある」

「ほら、やっぱり元凶じゃないですか。織田君がリセットしたのは正しかったんじゃないですか?」

「混ぜっ返すな。それはまた別の問題だ。繰り返すが、今回の件は全て、入江と小鳥遊に罪がある。『武器屋』の罪も無視はできないが、それは微々たるモノだ。全ての罪をおっかぶる程のモノじゃない。……話を戻すぞ。

『武器屋』は、紛う事なく危険因子だった。だが、お前はそれを無視し続けてきた。何故か。今回のためだ。今回のようなことがあった時に備えて、全ての罪を被ってリセットされるための要因として、お前は『武器屋』を生かし続けたんだ。都合よく、盗聴の事実が発覚して、全員の怒りは『武器屋』に向いた。お前にとっては、入江・小鳥遊の罪を浄化し、かつ、ハイリスクロウリターンで利用価値の低かった『武器屋』と縁を切る絶好の機会となった訳だ」

「待って下さい。鷲津さんは、全てが私のシナリオ通りだった、とでも言うつもりなんですか? 残念ながら、それは違いますよ。あの人があの現場を盗聴して、それをネット上に上げてたなんてこと、私は本当に知らなかったんですよ?」

「理由は何でもよかったんだよ。口の上手いお前のことだ。適当な理由をでっちあげて、奴に敵意が集中するように仕向けたんだろう? 白石純に爆弾を渡したのも、小鳥遊に武器を供給したのも、奴だ。でっちあげる罪には事欠かない」

「随分な言われようですねえ。……でも、そうだとしたら、どうなんですか? 『武器屋』を呪い、入江君と小鳥遊君を救った。

 ――それは、悪ですか?

 貴方は、私のやり方に、何か不服があるんですか?」

 じぃっとこちらの目を見据えながら、温度を感じさせない声で、そんなことを言う。

「……別に。それがお前のやり方だと言うのなら、それに従うだけの話だ。お前が他人を道具、歯車程度としか思ってなかったとしても、それはそうだというだけの話だ」

「なら、いいじゃないですか」

「よくは、ない。俺は――奴のように、利用価値が薄いからと言って、そんな理由で――切り捨てられるのは、ご免だ」

「――ハッ」

 カラカラと笑う新城。それは、哄笑なのか嘲笑なのか――考えてみれば、この男が声を上げて笑うのを見たのは、これが初めてのような気がする。

「何を心配しているかと思えば――そんな、私が鷲津さんを切り捨てるようなこと、ある訳がないじゃないですか。杞憂にも程がありますよ。『グループ』にとって、貴方は掛け替えのない存在なんですよ? 今回の騒動にしたって、貴方の調査能力なしにしては、大団円はあり得なかった。安心して下さい。私が貴方を切り捨てることは、絶対にあり得ない――」

 破顔しながら、新城は鷲津を持ち上げ続ける。

 だが、続く台詞を聞いて、背筋が凍り付く。


「勿論、敵に回ったなら、その時は容赦しませんがね――」


 この男では、平素でも笑っているかどうか分からない顔をしている。だけど、これは断言できる。この台詞を吐いた時の新城は、笑ってはいなかった。それはつまり、本気だと言うことだ。

 追及するつもりが、逆に牽制されるとは――とんだお笑い種だ。

「……それこそ、杞憂だ。どのような状況になろうとも、俺がお前の敵になることは――有り得ない」

「そうでしょうね。私は、貴方に絶対の信頼を置いていますから」

 瞬間、お互いの視線がぶつかり、交わって……すぐに離れる。

 完全に、見透かされている。

 鷲津が自分の上司を信用できずにいることも――それでいて、決して裏切れずにいることも……全て。

「悪かったな……最後の最後に、つまらない話をしてしまった。忘れてくれ」

「忘れます。だから、鷲津さんも、もうちょっとリラックスして下さいよ。いつまでもそんな風に立っていないで、掛けて下さい。コーヒー、いかがです? 今周くらいは、ゆっくりできるんでしょう?」

「ああ……」

 言われて、新城の前のスツールに腰掛ける。だが、コーヒーは遠慮しておく。ヘビースモーカーなので誤解されやすいが、鷲津は味や臭いのキツい飲み物は苦手なのだ。

 自身の鞄からペットボトルの水を取り出し、喉を潤し、また、一息吐く。

「……ようやく、終わったな……」

「終わった? ふん。まだ、始まってもいないじゃないですか」

 どこかの映画から引用したような台詞。その映画が何だったかは思い出せないが。

「終わったというのなら、小鳥遊君がリセットされた時に、全ては一旦の終息を迎えていたんです。今まで我々がしてきたことは、いわば残務処理ですよ。……もっとも、記憶のない小鳥遊君にしてみれば、我々にとっての残務処理こそが、世界の全てに見えたでしょうがね」


 これから、全てが始まるのです。


 しっかりとした口調で、新城は断言する。

「これから、どうするつもりだ? リセットされたメンバーを迎えるために、動き出すのか?」

「勿論そのつもりですが――しかし、どうしましょうかね……。今回は、さすがに私も疲れました。少しくらい、休みたいという気持ちもありますねえ」

 ぐびぐびとコーヒーを飲み干しながら、気の抜けた感じでそんなことを言う新城。鷲津は思わず小さな溜息を吐く。

「休みたいなら休め。俺は午後からでも、動かせてもらうけどな」

 煙を天井近くに吹きかける。

「ハハ。相変わらずのワーカーホリックですねえ。そんなに働きたいのなら、私は止めませんが」

「時間が勿体ないからな――それに」

 ミネラルウォーターで唇を湿らせ、発言を続ける。

「並木たちのことも、心配だ」

「あの二人のことは大丈夫だと思いますがねえ」

 椅子に浅く腰掛け、胸ポケットから取り出した携帯を見ながら、若干横柄とも思える態度で、新城はそう答える。

「大丈夫じゃないから、今回みたいなことになったんだ。司のことに限らず、並木は全体的に危なっかしい。目が離せん」

 鼻から煙を吹き出す鷲津。

「並木君の直属の上司は鷲津さんです。貴方がそう言うなら、私は口を出しません」

「そうしてくれ」

 ペットボトルを傾け、水を流し込む。と同時に、根本まで吸った煙草を踏み潰し、次の煙草に火を点ける。

「……さっきから気になってたんですが、水と煙草を交互に口にして、いがらっぽくないですか?」

 そう言えば、五百ミリのペットボトルをほとんど飲み干してしまっている。新城と話をしながら、煙草を吸いながら、である。我ながら器用な真似をすると思う。

「喉が渇いたんだよ。……柄にもなく、喋りすぎた」

 鷲津は基本、寡黙な(たち)で、喋るのは不得手だ。

 そもそも、『言葉』というものに、それほど価値を感じていない。あらゆる証言は当てにならないし、自白は証拠にならない。むしろ、下手に言葉を重ねるから、見えるものも見えなくなるのだ、と思っている。

 だから、理屈も詭弁も、嫌いだ。

 新城や美智代は、巧みに言葉を重ね、人心掌握する技術に長けている。鷲津もその実力は認めているが――どうしても、そのやり方だけは好きになれない。……否、好き嫌い以前に、自分には到底無理な芸当で、したくともできない。だから何割かはやっかみも含まれているのだろうが――そのことを口に出して認めることは、未来永劫、ないだろう。何でも、口に出せばいいというものではないのだ。

 そんな鷲津が、事もあろうか、新城を追及するなどという暴挙に出てしまった。まるで、柄ではない。第一、口で新城に敵う筈がないではないか。それなのに口を開いてしまったのは――己の猜疑心がそうさせたのか、それとも、事態が収束したことによる熱に当てられたのか……。


「柄ではない――ですか」

 鷲津の言葉尻を捉える新城。その目線は、携帯画面に落としたままだ。

「ふん……ま、いいんじゃないですか。時には、そういうことも必要です」

「知った風な口を利くな」

 この、一回り以上も下の上司は、常に上から目線だ。上司なのだから当然と言えば当然なのだが、言葉遣いが慇懃なだけに、時々無性に気に障る。

「知っているんですよ」

 しかし、鷲津の言葉など、新城には柳に風で効果がない。初秋くらいの涼しい顔で、滑らかに口を動かす。

「私はリーダーですからね。ここにこうして座っているだけで、実に様々な情報が集まってくるんです。今周が始まってまだ七時間足らずですが――すでに、各方面で動きがあったようです。皆、各々で各々の始まり方をしているようですね……」

 さっきから携帯画面と睨めっこしていたのは、どうやらメンバーからのメール受信を確認していたから、らしい。右手親指で画面をスクロールさせながら、新城は表情と同じように、涼やかな声を出す。

「皆、新しい道を歩み始めているんです。

 並木君と麦原君は、拙い足取りながら、第一歩を踏み出したようです。

 入江君もまた、大切な少女を救うため、その場で足踏みすることをやめた。

 織田君はステージを進めるべく、自らの意思で、今までなあなあの関係にあった『武器屋』高橋一朗を切り捨てた――異論は認めませんよ?」

 携帯から顔を上げ、意味ありげな視線を寄越してくる。

「何も言ってないだろ。しつこいなお前も。忘れろと言った筈だ」

「結構。――筒井君は筒井君で、自身のスタンスを変えるつもりこそないものの、早速新しい仕事に取り掛かっている。

 全ては、これから始まるんです。

 そのためには――柄にないことも、いいじゃないですか。例え

それで失敗したって――」

「何度でも、やり直せる、か?」

 言われっぱなしは癪だったので、台詞を先取りしてやった。最近の、新城の口癖だ。

「その通りです」

 しかし当の新城は、そんな些末な事は気にならないのか――ただ、柔らかく、優しく微笑む。常態が笑顔のような男だが、この類の表情は極めて珍しい。

「だから私は、本当に、何の心配もしていないのですよ――」

 ひどく、救われた気分です。

 ――などと、そんな台詞を吐く。

 それはどう考えても本心を言っているようにしか聞こえなくて、鷲津は何だか馬鹿らしくなって、ほんの少し残っていた毒気を、根こそぎ抜かれてしまう。

 全く――この男には、敵わない。

 狡猾、冷酷に策を巡らせていたかと思えば、時に善人にしか思えないような顔を見せたりする。まるで、掴み所がない。掴み所がないが故に、鷲津のような猜疑心の強い人間は傍にいるだけで疲れてしまう。

 しかし、それは裏を返せば、退屈しない、ということでもあり――だからこそ鷲津はこうして新城の部下でいるのだけれど……。

 どうでも、いいか。

 取り留めのない思考を、自ら中断する。

 そんなことは、多分、どうでもいいことなのだ。

 新城が考え、鷲津が調べ、美智代が接触し、有事の際には織田が暴れ回る。司と並木は、自身の得意分野を生かしながら、それぞれの上司のサポートにあたる。

 それで、明日を目指す。

 この、馬鹿げたリピート地獄を、終わらせる。

 するべきことは、これ以上ない程にシンプルなのだ。

 余計なことは、全てが終わった後で考えればいい。

 とは言え、それができないのが、鷲津の個性なのだろうが……。

 窓辺に移動し、雨脚で煙る雑多な街に向け、煙を吐き出す。吸い殻を踏み消し、新しい煙草に火を点ける。


「――今回の主役も、新しい一歩を踏み出し始めたようですよ」


 背後で、新城が呼びかける。

「そうか」

 シンプルな返答をして、マルボロの紫煙を胸一杯に吸い込み――下らない雑念と共に、勢いよく吐き出した。

 雨は続いている。

 だが、この雨も後数時間で上がる。


 止まない雨など、ないのだ。


 我ながらあまりに陳腐な言い回しに、

 鷲津はひどく久しぶりに――

 笑ったのだった。





『運命の輪』×『愚者』

【午後1時10分】 

 滝なゆたは、混乱していた。

 まるで何が起きているか分からない。

 今日は――五月十三日。

 それは間違いない。

 新聞でもテレビでもケータイでもPCでも、何度も何度も確認した。日付に間違いはない。今日は、五月十三日だ。

 だけど。だけれど。

 なゆたは、すでにその一日を経験してしまっている。

 それも、二回、である。

 つまり、今日は三回目の五月十三日になる訳で――自分は同じ一日を何度も繰り返している訳で――って、ああ、もう。

 自分でも何を考えているんだか分からなくなっってきた。

 学食の机に頭をゴン、とぶつけて、意味もなくキャンパス内を行き来する男女を眺める。

 これは、一体何なんだろう。

 同じ一日を、何度も繰り返す――悪い冗談を通り越して、悪夢だ。突如としてその類の能力に目覚めてしまったのか――それとも、時空の狭間的な、超自然的なドコカに迷い込んでしまったのか――まるで、意味が分からない。

 それとも、全ては気のせい、なのだろうか。

 錯覚、既視感、空想、妄想――その類だっったなら、どんなによかったかと、思う。

 だけど、違うのだ。

 自分は、凡庸な人間だ。

 今まで流されて生きてきた。

 普通の家庭で育って、普通に成長し、普通に勉強し、普通に恋をして、普通に進学して普通の大学に通って――

 その結果が、これだと言うのか。

 超越的な能力に目覚めるにせよ、妙な世界に迷い込むにせよ、ややこしい発狂の仕方をするにせよ――まるで、自分と結びつかない。

 まるで、意味が分からない。

 だけど、これは紛れもない事実なのだ。

 起きたら雨が降っていて、家族たちとの会話も朝食のメニューもテレビの占いランキングの結果も、全て同じで――ちなみに、なゆたの蟹座は最下位だった――何もかもが、同じ一日。

 同じ一日を、繰り返している。


 なゆたは――絶望した。

 

 本気で、どうしていいいのか分からない。

 昨日――つまり、なゆたにとって二周目の今日――そのことに、気が付いた。気が付いたところで、どうしていいのか分からない。夢だ、気のせいだと自分に言い聞かせて――一日が終わった。

 その全てが、記憶にある五月十三日と同じだった。

 寝たらまた一日がリセットされる気がして、なゆたは寝ずに朝を待った。しかし、朝を待つどころではなく、日付が変わる、まさにその瞬間に――一日は、戻されてしまった。気が付いたら、ベッドの上だったのである。外は雨。五月十三日。何度も繰り返すリピート地獄。

 まるで、意味が分からない。

 流されるように、適当に今まで生きてきた。適当ながら、いいこともあって、その分悪いこともあった。幸運と不運は一生で同じ量だけあって、幸運の後には不運が、不運の後には幸運が来るよう、バランスよく巡回するようプログラムされているのだと言う。

 ならば、その人生が、今日一日で止まってしまったのなら――

その時は、どうなるのだろう。幸運、不運の輪廻転生は、そこでストップされてしまうのか。今日不運な人間は、永遠に不運のままなのか――。

 重く沈む頭を抱えながら身支度を整え、際限なく溢れ出る溜息と同調しながら家を出た。この状況が異常と分かっていながらも、なゆたは行動を変えることができない。惰性で生きてきたツケが、今になって回ってきたのだろうか。同じように駅に向かい、同じように電車に乗る。そうして、大学に向かう。また、同じ一日が待っているのだろう。辛くはないけど、取り分け楽しい訳でもない、この一日が。

 なゆたは、絶望していた。

 だけど。

 だけれど。

 

 あの少年は――そんな時に、現れたのだ。


 いや、少年と言っても、高校生だ。なゆたと二つ三つしか歳は違わないのだろう。髪をツンツンに立てた、ちょっとチャラい印象の――まあ、イマドキの、普通の高校生だ。

 彼は、俯き、列車に揺られるなゆたに、突然声をかけてきた。

 勿論、知らない子だ。制服から察するに、沿線にある織遠高校の生徒なのだろう。毎朝、同じ車両に乗り合わせていたのだろうか。しかし、この時間、この列車を利用する織遠生は沢山いる。面識は、ないに等しい。そんな子から突然声をかけられて、なゆたはひどく狼狽した。見知らぬ高校生に声をかけられたことに対して、ではない。

 昨日も、一昨日も、そんなことはなかったからだ。

 ここに来て初めて、今までにないことが起きた。狼狽えるなと言う方が、無理な話だろう。

 彼は、自分も同じなのだと語った。

 リピーター――と言うらしい。

 彼の話ではそういう人間は多くいるらしく、この街に限定しても百人近くの人間が確認されているのだとか。

 原因は、不明。

 意味も、対策法も――未だ、謎のまま、らしい。

 なゆたは落胆した。

 だが、同時に希望を感じても、いた。

 ずっと、独りなのだと思っていた。

 独りで悩み、独りで考え、独りで生きていくのだと、そう思っていた。

 だけどそれは杞憂だったらしい。

 リピーターは一人ではない。

 リピーターは独りではないのだ。

 目の前の高校生は、小鳥遊悠一と名乗った。

 これから、この世界のこと――そのルールや、そこに生きている人たちの事を、詳しく教えてくれるらしい。


 待ち合わせの場所と時間を決め、二人は別れた。

 

 それから数時間――なゆたは、キャンパス内の学食で、彼が来るのを待っている。

 未だに、意味は分からない。

 だけど。

 だけれど。


 何だか――ひどく安心している自分がいることにも、気が付く。


 我ながら、単純なモノだと思う。

 何が起きているのかは分からない。

 これから、どうなるのかも分からない。

 だけど、随分と気持ちは軽くなっていた。


 自分は、独りでは、ない。


 いつの間にか、雨は上がっていた。

 

      ※

 

 この大学を訪れるのは、これで二回目になるのだろうか。

前は、確か入江の指示で滝なゆたに接触しようとして、だけど正門近くで美智代に捕まり、結局会えなくて――何だか、ひどく昔のことのような気がするが、冷静に考えてみると、あれからまだ十周も経っていないのだ。それだけ、濃密な時間を過ごしたということなのだろう。

 多くのリピーターと邂逅し、虚実入り乱れた情報を与えられて、入江と『リピーター』の両陣営に翻弄されて、風見鶏よろしく、くるくるとその場で無様にスピンして、それでも少しずつ真実に肉薄していって――自身の罪を知り、入江の罪を知り、だけど結局許されて、救われて――悠一は今、ここにいる。

 今度は悠一の番だ。

 次は、自分が救うのだ。

『不都合な未来』を阻止するため、何度も何度もリセットされ続けた彼女――滝なゆたを。

 彼女に対するリセットは、先々周からストップしている。つまり、今周は彼女にとっての三周目に相当する筈なのだ。多くの人間がそうであるように、当惑し、混乱し、場合によっては絶望しているかもしれない。

 今回の騒動において、要所要所で鍵を握っていた彼女ではあるが、彼女本人は至って平凡な性質である――と、これは『グループ』の面々による証言。エキセントリックな面でもあればこの状況を楽しむことも可能なのだろうけど、凡人にはそれも難しい。悠一がそうだったように、不安と孤独、退屈と絶望に蝕まれ、いつしか、自重で押し潰されてしまう。

 だから、そうなる前に、救いの手を差し伸べねばならないのだ。

 自分では力不足ではないか――と言ってはみたのだけど、その意見は『グループ』全員に却下された。

 司に並木が必要であるように、

 純に入江が必要であるように、


 なゆたには、悠一が必要なのだそうだ。


 流されている、と思わないでもない。いや、確実に流されている。その自覚はある。

 だけれども。

 流されたその先に光があるのなら――流されるのも、決して悪くはないのではないか。

 

 そう、思うことにした。


 大団円後、初のリピートで――目が覚めたのは、やはり六時半だった。

 外は雨で、母から小言を言われ、占いランキングは最下位で、姉はやはり寝過ごして――何もかもが、いつも通り。

 身支度を整え家を出て、華見駅から定刻通りに来た電車に乗る。

 彼女は、そこにいた。

 切れ長の目。

 細い眉。

 形のいい唇。

 高く筋の通った鼻梁。

 長く、美しい黒髪。

 ――見間違える訳がない。

 三周目の今日を迎えたばかりの滝なゆたは――俯いていた。困惑と混乱、不安と疑問で、すでに押し潰されそうになっているのかもしれない。

 しばしの逡巡の後、悠一は意を決して彼女に声をかけた。もっと緊張するかと思っていたが、案外すんなりと言葉が出た。前もって美智代に指南され、何度も頭の中でシミュレーションを繰り返した結果だろうか。最初こそ警戒心を剥き出しにした怪訝な顔付きでいた彼女だったが、話が進むうちに興味を覚えたらしく――それ以上に、悠一の語る事実が衝撃的だったらしく――目を白黒させて、何度もコクコクと頷いていた。やはり、不安で仕方がなかったのだろう。追い詰められた人間は、藁でも何でも縋ってしまうモノなのだ。そう、自分は藁なのだ。藁のように弱く、砂のお城のように脆い。 それでも、そんな人間でも――彼女を救うことは出来る。

 光を当てることは、出来るのだ。

 その後、待ち合わせ場所と時間を決め、二人は別れた。

 別れたその足で、学校に向かう。

 別に意味はない。ただ、自分の日常ってヤツが、とてつもなく懐かしくなっただけだ。

 学校に着いてすぐ、松本の元に向かい、美那への別れ話を延期してくれるように頼む。美那も松本もリピーターではないのだから、この行為にそれほどの意味はない。松本を牽制し、美那の悲しみを先延ばしにしたところで、起きればまた同じことの繰り返しだからだ。だけど、悠一はこのルーチンを(ないがし)ろにすることが、どうしてもできない。理由は簡単。美那の悲しむ顔を、見たくないからだ。リピーター以外の人間など、どうでもいいと思っている『グループ』とは、この辺りが決定的に違う。どちらかが良い悪いではなく、ただ、違う。別に自分の主張を押し通すつもりはないし、かと言って自身が折れるつもりも毛頭ない。それで、いいのだと思う。

 教室に入江の姿はなかった。

 美那辺りは心配していたが、悠一は事の事実を知っていた。起きてすぐ、奴からのメールがあったからだ。入江は今、白石純の家にいて、対戦ゲームで盛り上がっているらしい。向こうは向こうで、順調に行っているらしい。今度遊びに行ってみようかな――などと、頭の隅で思う。

 その後の定期テストは、惨敗だった。

 あれほど頭に叩き込んだ単語や公式は、一連の騒動できれいさっぱり消し飛んでしまったらしい。短時間で詰め込んだモノは、短時間で忘れてしまう。そんなものだ。

 テスト後は美那と軽く馬鹿話をして、さっさと下校する。

 平凡で凡庸で、だけど掛け替えのない悠一の日常は、ここまで。この先は――新しい今日が待っている。


 そして今、悠一は時雨大学に来ている。


 正門近くの案内図で学食の場所を確認し、そこに向かう。待ち合わせ場所が、そこだからだ。

 彼女は、そこにいるだろうか。

 かつて、二人は恋人同士だったのだと言う。

 その記憶は、悠一にはない。

 勿論、彼女にもない。

 だけど――紆余曲折の後に、悠一はこうして、彼女の元に辿り着いた。

 この世界にはオリジナルの形があって、リピーターが干渉しない限り、世界はできるだけ元の形に戻ろうとする、らしい。

 悠一となゆたが結ばれるのが元の形、なのだとしたら。

 今のこの状態は、比較的オリジナルに近いと言えるのだろうか。

 陳腐すぎて、小学生でも使いたがらない言葉だけど――それでも、悠一は『運命』という単語を思い出してしまう。


 学食が見えてきた。

 

 窓際の席に、彼女の姿が見える。


 不意に、目が合った。


 ぺこりと会釈する彼女。

 悠一は会釈を返し――少しだけ歩く速度を上げる。


 何度、失敗したっていい。

 何度だって、やり直せる。


 過ちは過去のことだ。

 もう、繰り返さない。


 見上げた空には、虹が架かっていた。





【…replay?】

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[良い点] 続きが気になって一気読みしました。 こういう話凄く好きです! また書いて欲しいなぁ
[一言] 面白かったです!ありがとう‼
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