第四幕 第十一章
【午後1時25分】
悠一は興奮していた。
穏和で博識、聞き上手で頭の回転が速く、常に悠一の指標となってくれた親友――その実、リピーターとなってからは、裏で多くの人間を操り、この世界を混沌と騒乱に陥れていた黒幕とも言える人物――『月』――入江明弘。
華奢で色白、インドア派で無類のゲームオタク、弁が立ち、頭の回転が早いリピーターの少女――その実、過去に派手な爆破事件を起こし、『グループ』に凄惨な制裁を受けていた女子中学生――『刑死者』――白石純。
二人は繋がっていた。
個々として捉えていたのでは永遠に分からない謎が、鍵が、ここにあったのだ。
「……多分、もっと早くに気が付くべきだったんだよな……」
入江の目を見据えて、ゆっくりと言う。視線の先にいる入江は、血だらけで、傷だらけで、見るに耐えない。だが、目だけは死んでいない。どこか諦観を含んだような冷めた視線で、一人興奮する悠一を冷静に眺めている。奴が今、何を考えているのかは分からない。分からない、が――かつて、奴が何を考えていたのかは、分かる。今の悠一には、分かるのだ。高速で考えを整理しながら、勢いづいて、言葉を紡いでいく。
「お前が一年の時、中学生相手に家庭教師のバイトをしていたことは、前から知っていた。それに、アイツにも家庭教師らしき人間がいたことも、ある程度は察しがついた筈なんだ。アイツの言葉をよく聞けば……その場で、気が付いてよかった筈だったんだよな……」
――先生と同じこと言うねー。
――これまでぼくを訪ねて来た人なんて、先生くらいしかいなかったんだよ?
白石純は、悠一との会話の中で何度か『先生』という言葉を使っている。文脈から察するに、その人物は何度か奴の家を訪れているらしい。その時の悠一は、てっきり中学教師である美智代のことを指しているのかと思っていたのだが――それは、違ったのだ。
――筒井さんが来る限り、それも許されない。
――まあ、筒井さんはその中でもマシな方だったけど。
美智代のことは、はっきり『筒井さん』と呼んで区別している。つまり、美智代とは別の『先生』が存在するということだ。何度も家を訪問しているという点から、学校の教師とは考えづらい。リピーターになる以前の白石は――少なくとも表面的には――普通の女子中学生で、度々教師の訪問を受けるような問題児ではなかった筈だからだ。つまりそれは、自宅を訪問するのが当たり前の――家庭教師、という結論に至る。もちろん、その家庭教師が入江であるという根拠は何もない。入江の生徒が白石純だった、と考える根拠も、ほぼ皆無だ。
全ては、鷲津から教えてもらった情報にすぎない。
悠一はさっき、鷲津からそのことを教えてもらって、遡って前述の根拠を思い出したのである。予断かもしれない。こじつけかもしれない。だけど。だけれど。二人を結びつけて考えると――全てがしっくりといくのだ。少なくとも、遊び目的で、逆恨みで、入江が『グループ』を壊滅させようとした――などという戯れ言よりは、よっぽど納得できる。
「……いや、待てよ」
二人の関係性を力説する悠一に、織田がストップをかける。
「それが――何だってんだ?」
怪訝そうな顔つきである。悠一は織田の鈍感さに苛立ちを覚えながら、さらに言葉を重ねる。
「だからっ! そうすると――入江の動機が、目的が変わってくるじゃないですかっ! 入江のかつての教え子は――理由があったとは言え――『グループ』に酷い目に遭わされていた。入江は、どうにかして、そのことを知ってしまった。……そうだよな?」
「…………」
返事はない。ただ、胡乱とも言える目付きで悠一の口を見つめている。仕方がないので先に進む。
「だから、これは――復讐だったんですよっ! 白石純を傷つけたアンタに対する、精一杯の報復だった訳ですっ!」
「いや、あのな小鳥遊――」
「分かってます。皆まで言わないでください」
頭を掻きながら何か言おうとする織田を、手で制す。ここまで来たらもう止まれない。
「家庭教師と、その教え子――それだけの関係性で、果たしてここまでの復讐計画を練り上げられるのか、そこまでの執着心が沸くか――そう言いたいんですよね。もちろん、ただの教え子だったら、入江もここまでしなかったかもしれない。だけど、彼女は、純は、入江にとって特別な人間だったんですよ。
入江は、純のことが――」
「違うッ!」
突然の大声に悠一は飛び上がってしまう。
空気を裂くように響き渡る否定の声。
見れば、入江は必死の形相でこちらを睨み付けている。こんな表情を見るのは初めてだ。穏和に諭している時とも、頭を巡らせて自説を展開している時とも――挑発的に偽悪を気取っている時とも、新城に軽蔑の眼差しを送っている時とも、そのどれとも違う、鬼気迫る反応。どうやら、悠一は入江の、ある種の琴線に触れてしまったらしい。あるいは、逆鱗に触れたと言うべきか――それとも、地雷を踏んだと言うべきか。
「違う――違う。そんなんじゃ、ない……」
「何だよ。何が違うんだよ?」
だけど悠一は止まらない。入江の様子がおかしいのは分かっているのだけど、それでも自重せずに言葉を紡ぐ。空気を読んで、空気が読めないふりをする。
「お前は、アイツのことが好きだったんだろ? だから、こんな――」
「だから違うってッ! そんなんじゃないんだよッ!」
入江の言葉が、いよいよ激しさを増す。事ここに至り、ようやく奴の本音が見えた気がする。
「恋愛感情とか、そんなんじゃないんだ……」
絞り出すような切実な訴えに、さすがの悠一も罪悪感を覚えてしまう。だから素直に訪ねることにする。
「じゃあ、何なんだよ……。お前の考えてることが、俺には全然分かンねェよ……」
「恋愛感情なんかじゃない。優しさでもない。同情や憐憫とも違う。義憤なんかである訳がない。僕は……ただ……」
「ただ?」
「責任を、感じているんだ」
「『責任』?」
思わぬ発言に、悠一はお得意のオウム返しをしてしまう。
「そう、責任だ。お前も知っての通り、純は取り返しのつかない事件を引き起こした。あの下衆な男と手を組んで、あらゆる街のあらゆる場所で爆破を引き起こした。沢山の死傷者が出た。沢山のリピーターが、リセットされた。それで、『グループ』の逆鱗に触れた」
「ああ……それは、知ってる」
「あれは――全部、僕のせいなんだ」
「……どういうことだ?」
まるで意味が分からない。白石純の事件が、入江の責任? 何でそうなるのだ?
「あの娘、現実が退屈だ、つまらないって――事あるごとに、そう漏らしていた」
――何か……………………すっごい、退屈なんだよね。
「知ってる。俺も同じこと言われた」
「だろ。そこで、僕は……無責任なことを、口走った」
「何を言ったんだよ……?」
「そんなに退屈なら、そんなにつまらないなら――自分で、面白くすればいい、って……」
嗚呼。
なるほど。
これで――全てが繋がった。
――だったら、自分で楽しくすればいいだけの話じゃないのか?
――先生と同じこと言うねー。
「楽しくすればいい――純は、その言葉に従ったんだ。その結果が、あの事件だ。全部、僕のせいなんだ。僕があんなこと言わなければ、アイツはあんなことはしなかったのに……」
「いや、でも、いくら何でもそれだけのことで――」
「勿論、僕の言葉――それだけが全ての原因じゃない。だけど、僕の一言が要因の一つとなったのは、確実だ」
「一つの?」
「そう、一つ」
入江は大きな溜息を吐き、軽くむせる。血の混じった唾を吐く。なんだか、ひどくボロボロだ。ゆるゆると顔を上げ、再び悠一と視線を合わせる。そして、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「あの娘が――純が、何を想って、何を狙って、何を考えてあんな事件を起こしたのか――どうのこうの推察するのなんて、ナンセンスだ。あれは、彼女の内面で様々な要素が複雑に、かつボンヤリと絡み合って起きた――そういう事件なんだよ。しっかりとした意思なんてないから、輪郭も境界も、全てがボンヤリしいている。無数の虚像が歪に絡まって、実像らしきモノを作り上げている。だけど、虚像はいくら集まっても、虚像なんだ。それを把握することなんて、誰にもできはしない」
「……何を言っているのか、サッパリ分からない」
本心だった。
この期に及んでそんな文学的な表現されても、困る。
「ゴメン。僕は口下手だから、上手く説明ができないんだけど――」
恐らくそこは突っ込み所だったんだろうけど、話の腰を折りそうなので黙っておいた。
「ああいった事件に、理由や動機を求めちゃ駄目なんだ。『心の闇』だとか『深層心理』だとか、僕らは平気で使うけど――それは単に、納得したいだけなんだよ。警察も裁判所もマスコミも、それに世間も、分からないままでは不安だ。だから、適当で分かりやすい理由を考えて、それで納得しようとする。安心しようとする」
「その理由ってのは、じゃあ、間違ってるのか?」
「間違ってはいない。だけど、正解でもない。ただの、一部だよ。一部を全部だと思うから、間違いが起きる」
いきなりの長口上に、悠一は面喰らっていた。さっきまで無言、無表情を貫いていたと言うのに、突然どうしたのだろう?
「――小鳥遊は、何て説明された?」
「え、何が?」
「純の、事件のコト。あの娘が何であんなコトしたのか――その動機を――『グループ』に、何て、説明された?」
脱線しているようで、ちゃんと繋がっていたらしい。
悠一は、かつて司から聞いた話を、そのまま入江に話した。
人間一人一人にポイントを付け、被害状況によってハイスコアを目指し、それをネット上で報告する――白石純は、現実世界をゲームにして遊んでいたのだ――と。
悠一の拙い説明を聞いた入江は、また俯いてしまう。前髪で目元が隠れて、表情が分かりづらくなる。
「――下らない。何だよ、ソレ。そんなことのためだけに、あの娘が、あそこまでする訳がないじゃないか……っ!」
表面上は淡々としているが、その実、芯は煮えくりかえっている。悠一には、それが分かる。声だけでも、分かるモノなのだ。今の入江は、身につけていた幾重もの仮面を?がされ、丸裸の状態にある。数瞬前までは理解できなかったコイツのことが、今は、理解できる。
とは言え、まだ、悠一には理解できないことがある。
「だけどさ、実際に、純の書き込みは掲示板で目撃されてるし――まさか、あれが偽物の書き込みだったってのか!?」
「いや、それはきっと、本当に純が書き込んだモノだったんだろう。いくら何でも、この人たちも、そのくらいは綿密に確認した筈だ。どういう理論でそういう結論に至ったかは、知らない。だけど、『グループ』がそういう結論を下したのなら――それはきっと事実なんだろう」
「……光栄だね。君の口から、我々に対する賛辞が聞けるとは、思ってもいなかった」
部屋の隅で壁にもたれ掛かりながら、楽しくもなさそうに新城が呟く。
「勘違いしてほしくないんだけど、僕は、アンタらの能力自体は認めている。だから、アンタらが『事実』だと断定したのなら、それはきっと『事実』なんだと思う」
「だったら――」
「問題は、能力じゃなくて、それに取り組む態度なんだよ……っ!」
悠一の抗議は、入江の絞り出すような声にかき消されてしまう。「純は、確かにその書き込みをした。事件そのものをゲーム感覚で捉えてるかのような、巫山戯た書き込みを、何度もしたのかもしれない。だけど――そんなのは、ボンヤリとした虚像の一つにしかすぎないんだよッ! 決して、それが全てではないッ! そんなものは、あくまで、おまけの後付け、ついでのオプションなんだよッ! それが全てじゃないんだッ! あの娘は幾つもの絶望を抱えていたッ! それは、あの華奢な躰ではとても抱えきれるモノではなくて――幼さ故の視野狭窄、認識不足で、彼女自身も、自分が何で悩んでいるのか、何を厭っているのか、分かっていなかったのかもしれない。そう――」
あの娘は、子供なんだよ……ッ!
入江の声が、荒涼とした廃オフィスに響き渡る。
「あの娘に、純に必要なのは、拷問ではなかったッ! 躰を破壊して、発狂させて恐怖を植え付けるような、そんな制裁ではなかったんだッ! 長い時間をかけてコミュニケーションを続けて、それでゆっくりと彼女を癒していくような……そういうモノが必要だったのに……ッ!」
それは、かつて美智代が提案した案である。だが、『教授』の妻・大磯咲子が狙われたのをきっかけに、その採用は見送りにされてしまった。結局、最も安直で、最も残虐な、織田の案が採用されてしまったのだ……。
「純の事件には、様々な要因が関係していた。僕の一言がその一つなのは、明白だ。だから、僕は責任を感じている。
僕は、彼女を救いたかった。
一連の爆破事件が起きた時、僕はすぐに彼女の仕業だって分かったよ。狙われた場所は、彼女に縁のある場所ばかりだったからね。僕が、どうにかしなきゃいけない、って思った。だけど、どうすればいいか分からなかった。家庭教師のバイトは去年の冬までで、純とは半年近く会っていない。僕がリピーターであることすら、彼女は知らない筈だ。それを、今更どんな顔をして会いに行けばいいのか――僕には分からなかった。
凶報は、そんな時に届いた。
自警団みたいな活動してる連中が純を拘束して――想像を絶する拷問を加えたのだと、僕は、知ってしまった。
許せなかった。
純のこと、何も知らないくせにッ!
知ろうともしないくせにッ!
あの娘のごく一部分だけを抜き出して、それで凶悪だなんて決めつけて――力で押さえつけて。
結果、純は再起不能になってしまった。
再生の可能性を、永遠に絶たれてしまったんだ」
だから、僕は『グループ』を許さない。
「絶対に、許さない……ッ!」
歯噛みしながら、呻くように、入江はそう呟く。
事ここに至って、ようやく全てが分かった。
ようやく、全てが明白になった。
悠一となゆた、入江と純、そして『グループ』の――それぞれの、『過去』と『真実』。
今、全てが一本に繋がった。
なのに……何故、こんなにも空しいのだろう?
確かに、『グループ』の努力の甲斐あって、惨劇の再来は免れた。流されやすい悠一の人格は丁寧に再構築されて、今では随分と落ち着いている。だけど、それだけだ。悠一は、救われた。だが、入江はどうなる? 純は? なゆたは? それに、『グループ』メンバーは、どうだろう? 誰一人として、救われていないのではないか?
『グループ』は、こんな結末が望みだったのだろうか?
悠一が求め続けたのは、こんなにも救われないモノだったのか……。
ずいぶんと長い間、誰も何も喋らなかった。
全てを語り終えた入江は、相変わらず椅子に縛り付けられたまま、項垂れている。その脇に控える織田・司は棒立ちで、何もしようとしない。壁際の新城も、それは同じだ。少し距離を置いて、並木が所在なげにして立っている。背後の鷲津が、また新しい煙草に火を点けたらしい。カチ、というライターの音が、寒々しい空間にやけに大きく響く。
「……一つ、言っていい?」
動きを見せたのは、意外なことに美智代だった。並木の横で事態を静観していた彼女は、一歩一歩踏みしめるようにして入江へと近づいていく。
「…………?」
今まで気配を消していた幹部の発言に、入江は戸惑いを隠せない。ましてや、相手は説得・交渉を得意とする『魔術師』美智代なのだ。警戒するのが当たり前だろう。
「君、あの娘に関して随分な理解を見せているようだけど――だったら、なんであの時、私たちに言ってくれなかったの?」
「『あの時』?」
「例の爆破事件が起きた時、君はすぐに彼女の仕業だって分かったんでしょう? あの娘の内部に巣喰う、ぼんやりとした虚像――だっけ? そのことも、知っていた。だったらその時点で、そのこと、私たちに教えてくれればよかったのに。そうすれば、あの娘も、あんな目に遭わずに済んだんだよ? 私たちも、かなり早い時点で犯人の目星はついてたの。君と同じようにね。だけど、その意図が、目的が分からなかった。だから、反応に迷ってしまった――」
「……この期に及んで、責任転嫁かよ」
口の端を歪め、入江は吐き捨てるようにそう言い、傍まで寄ってきた美智代を見上げる。
「ううん。そんなんじゃない。勘違いしないで。純ちゃんを壊したのは、私たち。そのことに関して、私たちは何の言い訳も、言い逃れもするつもりはない。新城さんも、織田さんも、勿論他のメンバーも、みんな反省している。……あれは、確かにやりすぎだった。もう二度と――同じことを繰り返すつもりは、ない」
「いやいやいや、全く同じことしようとしてたし! 純にしたこと、そっくりそのまま、僕にもするつもりだったじゃん! アンタもそこで見てたでしょ!? ちょっと前のことを、なかったことにすんなよッ!」
入江の言う通りだ。『グループ』は悠一が駆けつける直前まで、拷問まがいの人体破壊を行おうとしていたではないか。あの時、悠一が鍋を蹴り上げていなければ、入江の口内は熱した油で蹂躙されていたことだろう。
とても、反省している人間のやることとは思えない。
「……だって」
対する美智代は冷静な声色で、表情一つ変えようとしない。
「ああでもしなきゃ、君、本心を言わなかったでしょう?」
「……え?」
「君、私たちに対しても小鳥遊君に対しても、完全に心を閉ざしてたものね。柄にもなく悪者ぶっちゃって――それで、一人で全部背負い込もうとして……。変に責任感が強いのって、逆に厄介なんだよね。だから、一度熱くさせて、その厚い仮面を外さなきゃいけなかった訳。問題は、その方法。本音を語らないことに関しては、君、プロフェッショナルだもの。だから、効果的に弱点を突くことにしたの。自分の弱点、何だか分かる?」
嗜虐的な笑みを浮かべ、顔を近づける美智代。
「白石純――それが、君の弱点。色恋が絡むと、人って冷静な判断ができなくなるからねぇ。君はかつて、ありもしない四角関係を匂わすことで、滝さんと並木君から冷静な判断力を奪った。さらに、リセットされた滝さんを操ることで、小鳥遊君を怪物化させることにも成功した。
悪いけど、その方法、再利用させてもらったから。
純ちゃんへの仕打ちと同じことをされると知って、君は、自分の身を案じるより先に、私たちが一切反省していないことに対して、憤りを感じた。それが第一段階」
新城を睨み付けていたあの厳しい目には、そういう意味があったのか。
「そして第二段階は――小鳥遊君の登場」
「え、あ、俺ですか!?」
傍観者だったのが、急に舞台に引き上げられ、悠一は例によって狼狽してしまう。
「小鳥遊君、鷲津さんから家庭教師の件を聞かされて、それで慌てて引き戻してきたんでしょう? 頭の回転が速くて、友情に厚い小鳥遊君のことだもの、絶対に戻ってくると思ってた。
で、案の定、小鳥遊君は入江君に対し、かつて純ちゃんの家庭教師だったことを問い質し始める。二人の関係性を明白にして、入江君の動機が正当な復讐劇――そんなモノがあるのか知らないけど――であることを証明しようとした。入江君の、純ちゃんに対する想いを追求する小鳥遊君と、それを否定する入江君――と、ここまで来れば、さすがの入江君も感情的になるだろう、そう思ったの。結果は見ての通りよ」
「――――」
絶句した。
全て――全て、計算通りだったというのか。
悠一も入江も、『グループ』の掌の上、だったとでも……。
「ラプラスの悪魔か、アンタらは」
ゆるゆると頭を振りながら、入江が嘆息している。その言葉の意味は分からないが、きっと、入江なりに感心――いや、呆れているのだろう。
「ゴメンね。私たちのリーダーって、そういう人なの」
向こうの方、壁にもたれた新城が何を発言するでもなく、無言で肩を竦めている。
「僕に本音を言わせるため――ただそれだけのために、こんな回りくどいことをしたの? 他にもっとマシな方法があったと思うんだけど」
「その言葉、そっくりそのままお返しする。君にだけは、言われたくない」
「……意趣返しのつもり?」
「受け取り方は自由。私たちは、君に本当のことを言ってもらいたかっただけ。純ちゃんの時みたいなのは――本当に、やめたから」
「全部、予定調和のお芝居だったってこと?」
「そう」
「僕、その人に生爪二枚もはがされてるんだけど……」
「痛かっただけだべ? 大したことじゃねえって」
椅子の横で、織田が悪びれもせずに笑っている。恐らく、織田は本当に大したことではないと思っているのだろう。この男の感覚は決定的にズレている。
「……随分と脱線しちゃったね。いい加減、本題に戻りましょう」
ひどく無味乾燥な声色で、美智代が強引に軌道修正する。
「私はね、入江君。一連の爆破事件が純ちゃんの仕業だって気づいた時、何故君がそのことを黙ってたかって――それが疑問なの。責任逃れするつもりはないけれど、君が少しでも私たちに協力してくれたなら、あんな事態は避けられた筈なんだけど」
妙に抑揚のない声で、静かに、美智代は入江を追い込んでいく。
「頭のいい君のことだもの。どうするのが賢明か、当然分かっていた筈よね? それとも――君は、そこまでして自分がリピーターだって、知られたくなかったの? 純ちゃんがどうなるかより、自分の保身を選んだってこと? それなら――」
「違うッ!」
美智代の追及を、怒号で無理矢理はね除ける入江。
「そんな訳がないだろッ!? 僕は――単純に、どうすればいいか分からなかっただけだよ。アンタらの存在は知ってたケド、まさか、本気で自警団みたいなことをしているとまでは思ってなかった。だから、あの爆破事件を解決しようとしているとも、思わなかったんだ」
「じゃあ、私たちのことをどう思ってたの?」
「胡散臭い、得体の知れない集団だと思ってた」
入江の発言にはまるで遠慮がない。
だが、実際そんなものだと思う。悠一とて、最初はそんな風に思っていたのだ。
「――さっきは、私たちの能力を評価しているみたいなことを言っていたけど?」
「アンタらのことを詳しく知ったのは、だから、もっとずっと後の話だよ。最初は、訳の分からない集団だと思ってた。下手に関わらない方がいいと思って、僕は自分がリピーターであることを隠し続けてたんんだ。そんな時に、あの爆破事件が起こって――」
「どうしようかって迷っているうちに、私たちが手を下してしまった、と。君はどうにかしてそのことを知り、私たちへの怒りを募らせた。ネットなどで私たちのことを調べ、それと同時にネットワークを広げ、下準備を広げていった。……並木君と知り合ったのも、この時期?」
「そう」
「なるほどね。情報を収拾し、情報を操作し、表では『リピーターでない、その他大勢の高校生』を演じながら、復讐を果たすべく、虎視眈々と機会を狙っていた訳だ」
「……そう、だけど」
無表情のまま淡々と話を整理しだす美智代に対し、だんだんと入江も怪訝そうな顔付きになっていく。美智代の意図が分からないからだろう。
「小鳥遊君には、どの段階で自分の素性――リピーターだってことを明かしたの?」
「……それは」
虚を突かれたのか、思わず口ごもってしまう。
「明かしたんでしょう? 自分がリピーターだってこと。じゃなきゃ、あんな風に小鳥遊君を操ることなんてできない筈だもの」
「純のことを知って……その、直後、かな」
何だろう。何だか、歯切れが悪い。
「最初から、君は小鳥遊君を利用するつもりでいたの?」
「え?」
「さっきは、『親友だなんて思ってない』だの『最初から手駒だと思ってた』だの言ってたけど――そんなの嘘でしょう? どうして嘘吐くの。君だって、小鳥遊君を親友だと思ってた――違う?」
「…………」
下唇を噛み、俯く入江。
だが、美智代は許さない。
真正面に移動し、膝を抱えてしゃがみ込み、下からのぞき込んで、無理矢理入江と視線を合わせようとする。
「図星でしょ? だから、君は小鳥遊君に味方になってもらいたかった。協力して、共に怨敵設定にした『グループ』を討ち滅ぼしたかった。『利用』とか『手駒』とか、そんなギスギスした関係ではなく、しっかりと信頼関係を結んだうえで、復讐計画を完遂させたかった――そうなんでしょ? 違ったら違うって言って」
美智代の言葉には容赦がない。垂れた前髪の下で、入江の双眸が泳いでいる。
「…………」
反論する言葉を探しているようだが、動揺しているせいか、結果的に無言になってしまう。その数秒間を突いて、美智代はさらにたたみかける。悠一が言葉を挟む暇もない。
「無言は肯定のサインと見なすわよ。入江君、君は親友である小鳥遊君を、自分の味方にしたかった。だから素直に自分の正体を明かした。明かしたうえで、事情を明かした。自分の知り合いが『グループ』にひどい仕打ちを受けた。許せない。復讐したいが、一人じゃどうしようもない。お前の力が必要だ――と、協力要請をした。だけど――」
立ち上がり、スッと、こちらに視線を向ける。
「小鳥遊君は、その要請を断った」
がん、と頭を殴られた気がした。
自分が、入江の頼みを断った?
そんな。
まさか。
「その当時の小鳥遊君は、滝さんに夢中になっていた。周りのことなどどうでもいい――そう思うまでに、ね。その時の小鳥遊君には、滝さんが一番の最優先事項だった。入江君は親友だけど、それでも優先順位は下だった。だから、断った。結果、断られた入江君は――心を閉ざした」
「『切った』のは、俺の方が先、だったのか……?」
呻くような声が出る。急激に喉から水分が失われて、うまく言葉が出てこない。
「そう。だからこそ、この入江君は、君を『仲間』ではなく、『手駒』として利用せざるをえなかったって訳」
「……アンタは、全部お見通しなのか……」
絶望したような声をあげたのは、悠一ではなく入江の方。
「何で、そこまで知ってるんだよ……」
「知ってる訳じゃないよ。ただ、君たちの話を聞いて、想像を働かせただけ。嘘吐いてる人みると、どうしても考えずにはいられないんだよね。私の困った癖。だから、違うところがあれば、違うって言って」
「……だいたい合ってる。ただ、僕は小鳥遊に正体を明かしただけで、純のことや復讐のことまでは話してない。ってか、そこまで話させてももらえなかった」
「……なんで……」
我ながら、なんて悲壮な声を出すのだろう。美智代も入江も、自分のことについて――かつて自分が犯した過ちについて語っているのに。
「だから、この人の言った通りだよ。その時のお前はあの女のことしか見えてなかった。だから、僕のために時間は割けないって――そう言われた。『俺なんていなくても、入江ならうまくやってけるだろ』って……そう、突き放された」
「うぅん、小鳥遊君って、人のことは過大評価するくせ、自分については過小評価するトコがあるからねぇ。端から、入江君とは対等だと思ってなかったのかもしれないね」
ならば、悠一は自ら望んで『手駒』に成り下がった、ということになるのだろうか。
だが、入江はそんな悠一の迷いを一蹴するような言葉を吐く。
「そんなの関係ないよ。能力も環境も、全く同じ人間なんてあり得ない。程度問題はあっても、みんな嫉妬や羨望って感情を持って、だけどそれとうまく折り合いをつけて、人と付き合ってるんだ。それまで、僕と小鳥遊はうまくやってたんだ。うまくいかなくなったのは――あの女のせいだよ」
あの女。
滝なゆた。
彼女の登場が、歪みを生んだのだろうか。
「ちょっと待って。なんか、滝さんが諸悪の根源、みたいな流れになってるけど――それは違うんじゃない? ま、それは入江君に限ったことじゃないけどね。『グループ』の中にも、彼女に意味のない敵意を抱いている人間はいるもの」
美智代の発言を受け、苦笑する織田と、顔を背ける司。
なるほど。戦闘班の二人はそっち側らしい。
織田は悠一との接触を完全に断つべく、全ての周に渡って彼女をリセットさせ続けた。司に至っては、『わたしはあの女が大ッ嫌い』と明言までしている。織田はともかく、並木がリセットされた遠因は滝なゆたにもある訳で、決して『意味のない敵意』とは言えないと思うが……。
「確かに、小鳥遊君は滝さんに夢中になって、入江君を切った。その結果、入江君は心を閉ざし、人を操り、利用する計画に至ってしまった――」
「やっぱりあの女が悪いんじゃないか」
「だから違うってば。滝さんは、ただのきっかけ、ただの引き金にすぎない。入江君を切ったのは小鳥遊君の意思だし、心を閉ざしたのは入江君の意思でしょう? 別の選択肢はあった筈だし、別の選択肢を見ようともしなかったのは、あくまで君たちの意思。それを無視して、ただのきっかけにすぎない滝さんに全ての責任を求めるのは――それこそ責任転嫁って言えない? ただの甘えよ」
美智代の言葉はどこまでも厳しい。
「どうも脱線するわね……なかなか本題が進まないじゃないの」
嘘だ。
恐らく、こうした話の進め方こそ、美智代の真骨頂なのだろう。
相手の顔色を見て心を読み、瞬時に想像を働かせて仮説を立て、的確な言葉を選んで場の主導権を得る――それが、美智代の『魔術師』たる所以なのだろう。
だから、二度に渡る脱線も、彼女の計算のうちに違いないのだ。着実に布石を打ち、逃げ道を塞ぎ、相手を追い詰める――そう。どこに着地点を用意しているかは分からないけど、入江は、確実に追い詰められている。
「親友の小鳥遊君には突き放され、ただ胡散臭いだけだと思っていた『グループ』は、純ちゃんを壊した怨敵へと昇格してしまう。
それで君は、一人で戦うことを決意した。
その卓越した頭脳を酷使して、ただ、どうやったら『グループ』を潰せるか、どう振る舞えば『グループ』にダメージを与えられるか、そのことだけを考え続けていた……」
「いや――」
「ゴメンね返事は聞いてないの。何故なら、これは想像じゃなくて事実だから。この時点での君からの反論は、一切受け付けない」
「…………」
にべもない。
『魔術師』相手では、永遠に主導権を握らせてもらえないらしい。
「君は純ちゃんの行動に、責任を感じていた。君は純ちゃんを救いたかった。だけど、私たちが彼女を壊したことで、それは叶わなくなってしまった。君は激怒した。到底、私たちを許せない。それで、今回の計画が始まった――と。君の話をまとめると、こうなる。
そこで、一つ質問です。
君はリピーターになってから今まで、一度でも彼女を訪ねたことがあるの?」
「――え?」
「例えば、爆破事件が起きて、白石純が犯人だと考えた時、君は彼女に会おうと思わなかったの? 家庭教師だったんだから、当然住所は知ってたんでしょう?」
「そりゃそうだけど……でも、その時は確信もなかったし……」
「なるほど。分かりました。じゃあ次――私たちが彼女を壊した、その後はどう? まあ、その時になると鷲津さんとかの監視がついてたんだけど……工夫すれば会えないこともないわよね? 会うのが無理なら、電話やメールで接触してもいい訳だし」
「それも、ない」
「会おうとも、しなかった?」
「……しなかった」
「それは、何故?」
「だって――そんなの……今さら、どんな顔して会えばいいって言うんだよ……。あの娘がああなったのは、僕の責任なのに……」
「そう? 入江君が来たら、きっと純ちゃん、喜んだと思うんだけど?」
「……そんなことないって。僕には、そんな資格ないし……」
入江の言葉は埃っぽい部屋に拡散し、残響することもなく、儚く消えていく。それに対する、美智代のレスポンスは、ない。無表情で、乾いた声音で、テンポよく進んでいた会話が、そこで途切れる。
どうしたのかと美智代を見れば……彼女は、額に掌を置き、無言で天を仰いでいた。
ハァァァァ――と、深く長い溜息が、地を這うようにして、彼女の口から溢れる。
――だめだ――
聞こえるか聞こえないかくらいの音量で、不可解な言葉が漏れる。
何がダメなんだろう、と悠一が思うのと同時に、美智代は大きく、息を吸い込む。
「――アンタ、いい加減にしなさいよッ!」
突然の怒号に、悠一は思わず、二歩程後ずさってしまう。
入江も、身を仰け反らせて驚いている。
「さっきから大人しく聞いてれば何!? 『責任』だの『資格』だのって――アンタ、馬ッ鹿じゃないのッ!? そんなくッだらないご託並べてる暇あったら、さっさと純ちゃんに会いに行きなさいよッ! あの娘のこと、よく分かってるんでしょう? 大切なんでしょう? 救いたいんでしょう? だったら、するべきことは一つしかないじゃないのよ!? 嫌がらせみたいな復讐計画練ってる場合!? 何してるのよ? アンタ、何をしているの!?」
美智代が――『魔術師』が――切れてしまった。
溢れ出る叱責の言葉は、勢い任せの感情丸出しで、話術もへったくれもない。ついさっき、さすがは『魔術師』だと感心したばかりだと言うのに……。よほど、我慢できなかったのだろうか。無表情で乾いた声音だったのは、怒りを抑えていたからなのかもしれない。織田に壊された後の、純へのアフターケアは美智代が担当していたという話だったし――結局、それも失敗した訳だが――彼女なりに、純に対して想うところがあったのかもしれない。
「第一、何なのよ、『責任』って。あの娘のアレは、全部自分のせいだとでも言いたいの?
思い上がらないでッ!
アンタの言葉があの娘に与えた影響なんて、それこそごく一部でしょう? それなのに、勝手に責任感じて、一人で全部背負い込んで、たっくさんの人巻き込んで――挙げ句、挫折して、一か八かの突撃かけて、自分から罰受けるような真似して……ホント、馬鹿。一部が全部だと思うなって、それ、自分のことじゃないの。アンタみたいに小理屈捏ね回すタイプが、一番イライラするのよッ!」
それは世に言う同族嫌悪という奴ではないだろうか。もちろん、思うだけで口には出さないが。
美智代のマシンガントークは尚も続いていく。
「それに、何だって? あの娘は子供なんだ――とか言ってたよねぇ? 私に言わせりゃ、アンタも充分子供だってのッ! 十七年程度の人生で、偉そうなこと言わないでッ! せっまい世界観で、分かったような気になって――自分と世界が直接繋がってるみたいな馬鹿な錯覚して……。どうして、もっと冷静になれなかったのよ……。純ちゃんのことを本気で考えてるなら、選ぶべき選択は、復讐なんかじゃない筈でしょう……」
ここに来て、急速にトーンダウンする美智代。目を剥き、眉を吊り上げてまくし立てていたと言うのに、いきなりどうしたのだろう。
「何か勘違いしてるみたいだけど、私だって――本気で、彼女のことを心配してたんだよ? 私だって、あの娘を救いたかった。……だけど――」
私じゃあ、駄目なのよ――。
顔を俯け、独白めいた台詞を吐く美智代。躰が震えているように見えるのは、きっと目の錯覚ではない。
「あの娘には、君が必要なの。分かるでしょう? 入江君、さっき彼女の内面について、色々語ってくれたじゃない。それがどれだけ的を射ているのか分からないけど――一つだけ、断言できることがある。
あの娘は、君に心を開いている。
純ちゃんとは何度も話をしたけど、あの娘、ゲームの話題以外だと、君の話ばっかりだもの。『先生が』『先生が』って――まあ、それだけ友達がいないってことでもあるんだろうけど……。もっとも、その時はその『先生』の名前まで聞いてなかったからね。あの娘と君が繋がってるって鷲津さんの調査で明らかになるのは、もっとずっと後の話。その時に君の存在に気が付いていたら、もっと違う展開になってたんだろうけど……ま、今さら何を言っても始まらないね」
悠一が辿り着いた結論など、『グループ』にとっては周知の事実だったらしい。あのタイミングで鷲津を動かしたのは、あくまで悠一を焚き付けるため、ということか。……全く、本気でチェスの駒にでもなった気分だ。
一転して優しげな口調になった美智代。それを受ける入江は、どのような心境だろう? 相変わらず前髪で隠れて表情が窺えない。
「――ね、もう終わりにしよ? 君も、もういいでしょう? そりゃ、私たちのことは許せないだろうけど――でも、今の君に必要なのは、復讐なんかじゃないと思うの。そして、今の純ちゃんには、君が必要。これは絶対そう。断言できる」
いつの間にか、いつものペースを取り戻している。叱責からの懐柔――露骨だが、効果的な手だ。てっきり、堪忍袋の緒がショートして我を忘れたのだと思っていたが、案外、あれも美智代のテクニックの一つだったのだろうか。それにしては本気で怒っているように見えたが……? あるいは、柄にもなく取り乱しているのに気が付いて、慌てて軌道修正したのか。
「アイツは……」
久しぶりに入江が口を開く。
「純は……僕を、受け入れてくれるのかな……」
顔を俯けたまま、口だけを動かしている。それは、質問と言うより自問に近い。
「当たり前でしょ。さっきからそう言ってるじゃない。君は、これから純ちゃんを迎えに行くの。それで、彼女の心を溶かすのよ。頭のいい君なら、できるでしょう? たくさんの人を操って惨劇を演出するよりは、楽だし楽しいし、建設的で希望に溢れていると思うけど?」
「…………」
入江の返事は、ない。
事ここに至っても、奴はまだ、迷い、惑っているらしい。何が大事か、何をすべきかなんて、歴然としている筈なのに――それでも、まだ、入江は動けないでいる。
語るだけ語った美智代は、黙って入江の様子を窺っている。入江が反応を示すまで、自らアクションを起こす気はないらしい。
悠一は――何を言うべきか、分からないでいる。何かを言うべきなのだろうけど、何を言っても場違いな台詞になりそうで、口を開けない。
新城や鷲津、織田、司、それに並木といった他の面子は、静観の態度を崩さない。
また、場を沈黙が支配した。
完全な、膠着状態だ。
数瞬か、数秒か、あるいは数分間か――どれだけの静寂が続いたのだろう。
「……もう、いい加減、けじめをつけようぜ」
最初にしびれを切らしたのは、織田だった。
「ムギ、そいつの手足、自由にしてやれ」
両手の関節を鳴らしながら、意外なことを言い出す。
「……いいんですか」
織田なりの考えがあっての発言なのだろうが、命令された司も、その真意を掴めないでいるようだ。
「いいよな?」
振り返り、微動だにしない上司に許可を求める。
「ご随意に。この場は君に任せたよ」
どうやら、事態の収束は全て部下に一任することにしたらしい。そう言えば、悠一を呼び戻したのは鷲津で、入江を懐柔したのは美智代だった。次は織田の出番、ということか。
直属の上司に命令され、しぶしぶ、といった感じで司は入江の拘束を解く。『正義』ポジションとしては、やはり、未だ入江明弘は敵のままなのだろう。彼女はきっと、入江も、悠一も、それに滝なゆたも、誰一人として許していないのだ。
「よし、自由になったな。躰は動かせるか?」
「折られた鼻が痛い。あと、爪をはがされたせいで、指先が痛む」
「大丈夫そうだな」
「聞けよ」
項垂れていた入江は、織田の調子に毒気を抜かれている。手首足首に拘束痕が残っていて痛々しいが、取り敢えず躰を動かすことはできるようだ。……身体の自由を与えて、一体どうすると言うのか。
「突然、どういう心変わり? さっきまで僕に拷問をしようとしていたくせに。まあ、それが僕の真意を聞き出すためのお芝居だった、てのは分かったけどさ……まさか、これで解放、って訳じゃないよね? そこまで甘くないでしょ?」
担当が美智代から織田に代わったからか、入江の口が幾分軽く
なっている。本来の調子を取り戻した、というべきか。
「もちろん、そんなに甘かねェよ。もう二度と、同じことを繰り返すのはご免だからな。
オレは、ここで全てを終わらす。
だから、これはそのための――けじめだ」
織田の目は真剣だ。だけど、悠一にはその言葉が引っ掛かる。
「……『終わらす』って……これ以上、何をするつもりなんですか? 爆破事件の件で、アンタらは白石純に拷問を与えた、入江はそれでアンタに対して恨みを抱いた――だけど、アンタらはそのことを間違いだと認めた。入江も、復讐なんて的外れだと気付いた。……それで充分じゃないんですか?」
場違いと知りながらも、思わず発言していた。そんな悠一を、織田は馬鹿にしたような目で一瞥する。
「オメェは分かってねェなァ……。確かに、今はいいよ。みっちょんの熱弁のおかげで、コイツも自分の間違いに気付くことができた。自分が行うべきは、『グループ』に対する復讐なんかじゃなく、白石純を救うことなんだって――ようやく、その思えるようになった。だけど、それだけだ。
コイツは――まだ、オレたちを許しちゃいない。
『グループ』は、アイツを徹底的に破壊した。刺して?がして叩いて潰して切って砕いて焦がして吊って――人格を、破壊した。今じゃだいぶ回復してるみてェだけど、だからっつって忘れてる訳じゃねェ。アイツは『グループ』に――いや、オレに受けた仕打ちのことを、いまだに覚えている。そのことで、まだ苦しんでいる。怯えている。それは、事実だ。その全ての責任は、オレらにある。
もちろん、あの事件自体は許されるもんじゃねェよ? 正直、アイツが何であんなことをしでかしたのか、コイツらの話を聞いてもオレにはよく分からねェけど……。
ただ、オレがやったアレは……やっぱり、やりすぎだったんだろうな、とは思う。ちょっと気が違ってるのか感性がズレてるのか、オレにはその辺りがよく分からねェんだけど……まあ、皆の話を聞く限りではそうなんだろうな。そのせいで、こんなことになっちまった。さすがに、反省してるわ」
柄にもない殊勝な態度で己の『罪』を認める織田。どこがマズかったのか理解していない辺り、如何にも織田らしいが――とにかく、この男は自らの行為を悔いているらしい。
「だから――今から、『罰』を行おうと、思う」
どこか晴れ晴れとした顔で、織田はそんなことを言い出す。
「『罪』に対する、『罰』だ。許す、許さないも、これで終わりだ。全てが――終わりだ」
一方的に言い放ち、織田は部下に更なる指示を与える。
「ムギ、持ってる得物を、出せ」
「どれのことですか」
「出せ、っつったら、全部だよ。お前が隠し持ってる得物を、全部ここに出せ」
言われるままに、ブレザーやスカートの内側に手を突っ込んで様々な得物を取り出す司。お馴染みの裁ちバサミ、特殊警棒を始めとして、折りたたみナイフ、出刃包丁、スタンガン、手斧、バール、ボウガンなどが、次から次へと溢れ出てくる。
――これは、突っ込むべきなのだろうか。
「……何があるか分からないし、何かあってからじゃ遅いし……それで、いつもより余計に武装してただけから……」
悠一の訝しげな視線に気付いたのだろう。目を伏せ気味にして、少し恥ずかしそうに、司はそう呟く。
……いや、恥ずかしそうにする意味が分からないし。
そもそも、悠一が突っ込みたいのは、そんなことではない。司がこれだけの得物を所持していた理由なんて、どうでもいい。大方、織田の持っていた拷問器具と一緒で、この事態に備えてあの『武器屋』からレンタルしていたのだろう。問題はそこではない。悠一が突っ込みたいのは――これだけ大量の得物を自然に収納していた、制服の方にある。見たところSサイズにしか見えないが……その内側は異次元にでも繋がっているのだろうか。多分、この流れでバズーカ砲なんかを出されても、きっと悠一は驚かない。こうやって、正常な感覚と言うのは麻痺していくんだろう。恐ろしい話だ。
――などと、馬鹿なことを考えている場合ではない。
今、織田は何と言った?
『罰』を始めると、そう言ったのではなかったか?
これは聞き捨てならない。
「ちょっと! 何を始めるつもりですか!?」
「本当に人の話を聞かない奴だな。だから『罰』だっての。言ったべ? コイツは、まだオレたちを許してない。遺恨を残したままお開き、って訳にはいかねェだろ。絶対に、同じことは繰り返さない――それが、オレらの最優先事項だ。コイツが『グループ』を許さないでいる限り、また似たようなことが起きるかもしれない」
「起きないかもしれないじゃないですかっ!」
「かもしれない、じゃダメなんだっつの。そんな危険性は、完璧に潰しとかねェと……。
だから、これはそのための、『罰』だ。
恨みも遺恨もキレイさっぱり消し去って――それで、ようやくオレらは終わることが、できる」
「意味が、意味が分かりません! 入江がアンタらを恨んでるから、また同じことが起きるかもしれないから、その可能性があるから――そんな理由で、入江を半殺しにするって言うんですかッ! それじゃ、白石純の時と何にも変わンないじゃないですかッ! アンタは、何も変わってないッ! 何も反省してないッ!」
気が付いたら、声を枯らして叫んでいた。
頭で整理するより先に、言葉が出ていた。
様々な理屈をつけているが、結局は同じことではないか。秩序と平穏を優先し、それを阻害する危険因子は力で抑えつける――かつての『グループ』のやり方と、何も変わらない。悠一は、そんなの、絶対に認められない。……いや、『許せない』とか『認められない』とか――そういう理屈すら、もう沢山だ。
単純に、嫌なのだ。
自分が傷つくのも、誰かが傷つくのも、猛烈に嫌だ。
『罪』とか『過去』とか、知ったことか。『騙された』とか『利用された』とか言うのも、もはや関係ない。
入江は、自分が守る。
そのためなら、どんなことでもするつもりだった。
椅子に座ったままの入江の前に躍り出て、鼻息荒く、両手を広げる。入江には指一本触れさせない、という意思表示だ。
一方の織田はと言えば、そんな悠一を馬鹿にしたような目で睨め付け、
「――お前、何か勘違いしてねェか?」
と言っただけだった。
「か、勘違い!? な、何がですかっ!?」
興奮のあまり、わずかにどもってしまう。
「誰もコイツを半殺しにしようなんてしてねェよ。だったら、最初から拘束外させたりしねェ。逆だ」
「……逆?」
「コイツに対する『罰』じゃねェ。オレらに対する、『罰』だ」
「織田さんに――『グループ』に対する、『罰』?」
飲み込みの悪い悠一に呆れ、織田は軽い溜息を吐く。
「オメェは、頭が悪い訳じゃねェんだけどなァ……。人の話を聞かねェのと、すぐに興奮して冷静さをなくすところが、ダメなんだろうなァ……」
「何、人のこと冷静に分析してるんですか。俺のことはいいから、説明してくださいよ」
「じゃあ、取り敢えずそこをどけ。で、黙って聞いてろ。心配しなくても、コイツには一切の危害を与えないって約束する。だから、お前も口出しはするな。ここからは――オレと、コイツの、問題だ」
織田に軽く押しのけられ、結局、悠一は脇に寄って、織田にその場を譲ってしまう。
「僕と……アンタの、問題?」
椅子に座ったままの入江も、織田の言葉の意味を計りかねているようだ。青ざめた顔で正面に立つ織田を見上げている。
「そうだ。いいか? オメェは、白石純を壊したオレらのことを恨んでいた。だが、最初にそのアイデアを提案したのも、実際に手を下したのも、このオレだ。新城さんは許可しただけ、ムギは手伝いをしただけで、他のみんなは何の関係もない。つまり、オメェが恨むべきは、オレ一人って訳だ。……ここまではいいか?」
「ずいぶんざっくりとした論理だけど、言いたいことは分かる」
「なら話は早い。頭のいいお前のことだから、オレが言いたいことも、だいたい分かってンだろ?」
「…………」
織田の顔を見つめたまま、無言で肯定のサインを送る入江。
「自分の口からは言いたくねェか。じゃ、オレ言ってやる。
オメェ、ここで、オレを壊せ。
躰は自由に動かせるだろ? 得物も、ほら、好きなモノを選べばいい。オレが白石純にしたのと同じことを――いや、それ以上のことを、オメェの気が済むまで、すればいい。ただし、殺すのは勘弁してくれ。今ここでリセットしちまうと、後々面倒だからな。躰を痛めつけるだけだ。後、オレ以外のメンバーに手を出すのもナシな。この二つの条件さえ守ってくれるなら、後は好きなようにしてくれて構わない。オレは一切抵抗しないし、誰も邪魔しない。オレの躰をぶっ壊して、恨み晴らして――それで、チャラだ。オメェは『グループ』への遺恨を無くす。『グループ』もこれ以上お前を追及しない」
ここで、全部終わらすんだ。
織田の言葉は平坦で落ち着いていて、気負いや緊張、恐怖といった負の感情を一切感じさせない。やはり、この男はそう言う部分で、何かが欠けているのだろう。逆に言えば、これはこの男にしかできないことだ。自らの身をを犠牲にして、事態を収束させる――小難しい理屈など、何もない。何度も繰り返し言っているように、織田は、全てを終わらせたいだけなのだ。
悠一は、その場で固まってしまって、言葉を発することもできなくなっている。ついさっき、誰が傷つくのを見るのも嫌だと――そう、強く思ったばかりだというのに。その気持ちに嘘はないのに……だけど、動くことができない。
これで、入江の恨みが晴れるのなら。
これで、全てを水に流すことができるのなら。
それなら、きっと、これが最良の方法なのだろう。
邪魔は、できない。
手の平に汗が滲むのを不快に感じながら、悠一はただ押し黙って、入江の動向を見守ることしかできなかった。
「……全く、よく考えるよね……」
数秒して、入江がおもむろに立ち上がる。
「僕としては、願ったり叶ったりだよ。こんな形で復讐が果たせるなら、こんなに楽な話はない」
余裕の口調で話す入江だが、どこか顔色が優れないように見える。気のせいだろうか。
「そりゃ、僕は構わないけど――本当にいいの? 後で仕返しとか、されない?」
「しないって言ってンだろ。そういうのを終わらすためにやるんだ。オメェが今ここでオレを壊して、それで終わり。プラマイゼロで恨みっこなしだ。――だから、早くやれ」
椅子の前に胡座をかいて、床に座り込む織田。入江はそんな織田の姿を見据えながら、得物の物色を始める。
「じゃあ、遠慮なく……」
入江が選んだのは、特殊警棒だった。乾いた金属音を立ててそれを伸ばし、腕を振り上げる。
振り上げるが――そこで、固まってしまう。
「どした? 早くやれよ」
腕組みをして待っていた織田が、片眉を上げて催促する。
「――――ッ」
ビシッ、と、頬を打つ音が響く。
織田の顔右半分が、見る間に赤く腫れ上がっていく。
「……弱いな。もっと、全力でやれ」
「う……。――――ッ」
二発、三発と、躰を打つ音が響く。その度に織田の躰は傾ぎ、顔に、躰に、傷が増えていく。織田とて痛覚がない訳ではないらしく、打たれた瞬間には顔を歪ませている。皮膚は裂け、至るところから血が噴き出している。
――が、目は死んでいない。
キッと入江を睨み付け、責め苦に耐え忍んでいる。
どちらかと言えば、一方的に殴打している入江の方がダメージを受けているようだ。肩で息をし、全身汗まみれ、顔面蒼白で、休んでいる間も躰の震えが止まらないようだ。
「……もう、終わりか?」
十発ほど打ち終えたところで、入江の動きが完全に止まってしまう。そんな入江に、織田は挑発を続ける。
「オメェは、それで気が済むのか? ま、痛ェは痛ェけどよ、それはただ、痛いってだけだ。こんな傷、リピートすれば全部元通りで、オレはすぐに忘れちまうぞ? オメェ、それでもいいのか? あまり言いたかァねェけど、オレがアイツを壊した時は、こんなもんじゃ――」
「うるさいよッ!」
織田の言葉を入江の絶叫がかき消す。
「アンタら――ズルいよ。卑怯だ。僕にこんなことやらせて……。無抵抗の相手を一方的に殴りつけて、それで僕の気が晴れる訳ないじゃんかよ……」
カラン、と音を立てて、入江の手から特殊警棒が滑り落ちる。と同時に、入江自身もその場に崩れ落ちた。
殴る方が痛い――なんて、そんな文言は戯れ言に違いないのだけど、それでも、まるっきり的外れという訳でもない。どれだけ恨んでいても、憎んでいても――人を殴るのは、それ相応のエネルギーを消費するのだ。人を傷つけるのには、一定以上の覚悟が要求される。
「卑怯なのは、どっちだっての」
血の混じった唾を吐き捨て、織田は独りごちる。
「無抵抗の相手を一方的に殴りつけて気が晴れるかって、オメェはそう言うけどよォ――オレに言わせりゃ、オメェのやったことも一緒だぜ……?」
膝をつく入江を見下ろしながら、織田は静かに言葉を紡ぐ。
追い詰めるのではなく、語りかけるように、責め立てるのではなく、言い聞かせるように……随分と柔らかな口調で、織田は続ける。
「他人を騙して利用して操って、それでオレらを潰して――それで、オメェの気は、本当に晴れたのか? そんな姑息な手で復讐して、オメェは満足できたのかよ?」
「…………」
人間らしい感覚を欠いた男が、何とも人間らしく、優しい声音で諭し始める。
入江は、反論できない。
そんな入江の髪をグシャグシャと掻き乱しながら、織田は苦笑をこぼす。
「満足に人も殴れないくせに、復讐なんて考えるんじゃねェよ……」
「う……ううううう……」
不意に優しい言葉をかけられたからだろうか。入江は膝をついたまま、慟哭を漏らし始める。入江の流した大粒の涙が、コンクリ打ちっ放しの床に点、点と溢れていく。
――落ちた。
そう、思った。悠一の知る入江明弘は、博識で聡明で、温厚で冷静で、誰にも何にでも優しくて――その反面、臆病故に慎重で、プライドが高く、逆境に弱く打たれ弱い――そういう男だった。そして、それは多分間違ってない。『グループ』の面々は、そういった入江の内面を見抜いていたのだろう。見抜いていたからこそ、美智代や織田は、この痛々しく傷ついた友人を丸裸にして、心に直接触れるような真似をしたのだ。
結果、入江は――落ちた。
ここまで解体されてしまっては、恐らく、二度と似たような真似はできないだろう。そういう意味では、二人の目論見は成功したと言える。
――もっとも、織田が言っていたような、『遺恨を晴らす』ことができたかは、甚だ疑問なのだけど。
「――入江君」
忘れかけていた方向から、唐突に声がする。
「そろそろ、勘弁してもらえないかな?」
今の今まで全てを部下に任せていた新城が、ようやく動きを見せたのだ。
「君の気持ちは、分かったよ。我々が彼女にしたことは、決して許されるものではない。だが、今の二人の言葉を聞いて、君も分かっただろう? これ以上、この悲喜劇を続けるのは、無意味だ。いい加減、潮時なのだよ。……もう、こんなことは、終わりだ。いいよね?」
「…………」
だが、入江は答えない。
何故だ。
何を今さら、事ここに至って、この期に及んで――惑っているのだ。
さっきからそうだ。
グループ側が語り終えると、途端に黙り込んでしまう。ただ一言、もういい、許すと、そう言えば済む話なのに。それなのに、入江は貝になってしまう。まだ何か、腹に据えかねていることでもあるのだろうか。
「――ふん。どうもはっきりしないな。まだ、我々のことを許せないと思っているのかい?」
「…………」
「ならば、仕方ないな……」
ネクタイの結び目を緩めながら、新城がゆっくりと動き出す。
「アンタ、何をする――」
つもりだ、と言おうとしたところで、誰かに腕を掴まれる。美智代だ。いつの間にか、悠一の真横に移動していたらしい。
「今は、ウチのリーダーに任せましょう」
小声でそう告げる美智代。『グループ』リーダーの新城ならば、入江の許しを乞えると――この事態を収束できると――そう、思っているらしい。
そうしている間にも、新城はツカツカと、入江との距離を縮めていく。スーツを脱ぎ、真横に放り投げる。舞い上がったそれは空気を含んでふわりと膨らみ、そしてそのまま、そこにいた織田の腕の上へと着地する。
尋常ならざる雰囲気を察知したのだろう。入江は慌てて立ち上がり、取り敢えず椅子の後ろへと退避する。
「――入江君――」
そして、新城は――
「申し訳なかった」
膝を床につき、両手を揃えて顔の前に突きだし、額を床に擦らせて――とてもキレイな、土下座の姿勢をとる。
……って、土下座!?
「この通りだ。許してほしい」
気障で嫌味でいつでも余裕綽々で、自尊心の固まりのようなこの男が、まさか土下座するなんて……開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだ。
「…………」
悠一同様、入江も固まっている。知っている人間が目の前で土下座しているところを見るなんて初めてだけれど、正直、反応に困る。された本人は尚更だろう。
「散々カッコつけといて、土下座かよっ!」
律儀に突っ込む織田は、何だかんだ言って善人だと思う。
「言った筈だ――土下座する準備は、できている、と――」
膝の埃を丹念に払いながら、尚もゆっくりと立ち上がる新城。
「……いや、そこでまたカッコつける意味も分かンねェし。ってか、何でオレにスーツ預けた?」
「着たままだと、埃で汚れるだろう」
「そういうのが気になるなら、そもそも土下座なんかすンなよ」
「何を言う。我々は今、彼に許しを請うているんだ。ならば、必要なのは叱責でも説教でもないだろう。誠心誠意、平身低頭して精一杯謝ることだ。彼が許してくれるまで、私は何度だって頭を下げ続ける。何なら、もう一度土下座しようか?」
「いや、それはもういいって」
再び膝をつこうとする新城を制したのは、織田ではなく入江だった。二人の遣り取りが面白かったのか、心持ち口元が緩んでいる。
「もういいよ。何か……馬鹿らしくなってきた」
入江の口調は、どこか晴れ晴れとしている。まるで、悪い憑きモノが落ちたかのようだ。
――ああ、『落ちた』のか。
ついさっき、悠一が抱いた感想の通り、入江明弘は『落ちた』のだ。『グループ』の説得に陥落したのと、悪い憑きモノが落ちたという――二つの意味で。
「じゃあ、我々のことを許してもらえるのかい?」
ここぞとばかりに新城が畳みかける。
「って言うか、さ――本来、許してもらうのはこっち側なんだよね。僕のやったことは許されるモノじゃあないし――色々言ったけど、やっぱり、純のしたことも許されることじゃないんだろうし……」
「いや、その問題は、もういいだろう」
少しだけ強い口調で、新城が言う。
「許すとか許さないとか、突き詰めていったらキリがない。消えない『罪』がある以上、それに対応する『罰』もまた、確実に存在する。だが、『罰のための罰』に、意味などない。我々はこの点を勘違いしていた。どうにかして痛い目を見させないと、また同じことが起こる――そんな、強迫観念にも似た考えを抱いていた。だが、恨みは連鎖し、憎しみは増殖する。その結果が、この狂乱だ。治安の維持を目的とするならば、そんな連鎖はどこかで断ち切らねばならなかったのだ。
大切なのは、二度と同じことを繰り返さない、ということ。
幸か不幸か、我々は壊れた世界に生き続け、同じ時間を共有している。何度だって、やり直すことができるんだ。だから――もう、終わりだ。全てを、水に流すんだ」
「……そう、だね」
肯定の台詞を口にする入江。だが、その目は床を捉えている。
「じゃあ、最後に一つだけ――どうしても一つ、納得できないことがあるんだけど、教えてもらっていい?」
「奇遇だね。我々も、一つだけ分からないことが残っている。もう腹の探り合いは終わりだ。完璧に遺恨を晴らすためにも、お互いに教え合うことにしようじゃないか」
何だろう。この期に及んで、双方、まだ疑問が残っているらしい。短期間の間にあまりにも多くの情報を与えられたせいで、悠一などはまだ完璧に整理しきれていないのだが……この聡明な二人は、完全に整理したうえで、まだ分からないことが残っているらしい。
「じゃあ、僕から聞くけど――どうして、あんなことしたの?」
「あんなこと、とは? 具体的に言ってもらえないかな」
「掲示板にアップして、晒したでしょ? どういう目的があって、あんなことしたのかな、と思って」
「ん?」
「純に恐怖を植え付けるのが目的なら、身体罰を与えるだけでいい訳じゃない。それ自体がやりすぎだった訳だけど――まあ、その話を蒸し返すつもりはないよ。アンタらも反省してるって言ってるし。だけど、その後で、あんな風に晒す意味が分からない。晒すのも、
『罰』の一環なの? それとも、見せしめのため? 自分たちの恐ろしさをアピールして、他のリピーターが怪物化するのを抑制するつもりだったの? いずれにせよ、やりすぎだし、その割には効果が薄いと思うんだけど」
「ちょっと待ってくれ――君はさっきから、何を言っているんだ? 掲示板? 晒す? 我々には全く心当たりがないんだが――」
新城が戸惑っている。他のメンバーも同様で、お互いに顔を見合わせている。何だか、会話が噛み合っていない。
「何言ってんだよ。腹の探り合いは終わりって、今言ったばっかじゃん。今さらトボけるのはナシにしようよ」
「だから、本気で分からないんだ。悪いが、順を追って話してくれないか」
「……嘘じゃなくて?」
「この期に及んで嘘を吐くメリットなどないよ」
新城の口調に真剣さを感じたのだろう。入江はおずおず、と言った感じで話し始める。
「……その日は、いつものようにテストを終えて、いつものようにそのまま家に帰って、いつものようにPCでネットやってたんだけど――」
入江は一般にも広く認知されている大手匿名掲示板の名を挙げる。
「そこは普通にリピーターの住民が多くて、情報交換するのに便利だから――まあ、その殆どはガセなんだけど――普段から入り浸ってたんだ」
そこに、妙な書き込みを発見したのだという。
「レポートのつもりなのか、長文が分割されて書き込まれてて――その板のそのスレには、今までそんな書き込みなかったから、これは確実にリピーターのだって、すぐに気付いて、読み進めていったんだけど……」
「だけど?」
「……すぐに、後悔したよ。それは、ある処刑に関する、詳細なレポートだったんだ。処刑されているのは、その当時、リピート世界を騒がせていた爆弾魔――近郊に住む女子中学生だって、そこには書いてあった。すぐに純のことだって分かったよ。処刑人の言葉と純の悲鳴が……会話形式で綴られていて……」
「……君は、それを信じたのか?」
「まさか。すぐには信じられなかったよ」
だけど。
逆接の言葉を挟み、入江は、息を深く吐く。
「レポの最後には……音声ファイルがアップされていて……」
「そのレポート通りの遣り取りが、収録されていた?」
「そう……。音質がすごく悪くて聞き取りづらい部分も多かったけど、悲鳴の主が純だってことはすぐに分かったよ。処刑人が『グループ』の一員で、一連の爆弾事件の罰としてそんなことをやったってのも、処刑人の言葉から分かった。それが――まぎれもない、現実の出来事ってこともね」
その時に聞いた、純の断末魔の叫びが蘇ったのか、入江は苦々しく吐き捨てる。
「なるほど。君があのことをどうやって知り得たのか、今の今まで謎だったんだ。これで合点がいった。掲示板に、そんな書き込みがあったとはね……」
対する新城は、不自然な程に冷静だ。まるで感情が読み取れない。
「……本当に、アンタらじゃないの?」
「違う。あの現場にいたのは、織田君と麦原君だけだ。その二人とも、パソコンにはあまり詳しくない。掲示板を閲覧したり書き込んだりくらいのことはできるが、音声ファイルをネット上にアップすることなど、できはしない。そうだね」
「残念ながら、な」
「必要ないので」
織田と司がそれぞれ返事する。
「私や並木君ならば、そういったこともできるが――しかし、そんなことをする必要性がない。あの『罰』は、織田君のしたそれで完結しているんだ。その模様を録音してネット上に詳細なレポートを載せる意味など、どこにもない」
「ちょっと待ってくれよ」
早くもついていけなくなって、悠一は慌てて発言する。
「入江は、純のことをその書き込みで知ったんんだよな? だけど、その書き込みを行ったのは『グループ』じゃねェってのかよ!? じゃあ、どこの誰が――」
「その書き込みを行ったのか、ということになる」
悠一の言葉を引き継ぎ、再び新城が場の主導権をとる。
「少しばかり考えを整理してみようか。その人物は何者で、どんな目的で、どうやって録音し、それネット上に晒すなとという真似をしたのか――」
「分かるのか?」
身を乗り出したところを、手で制されてしまう。
「分かるために、考えを整理しようと言っている。まあ、黙って聞きなさい。まずは目的だね。これは簡単に推測できる。例えば大きな事件が起きた時、その事件に劇的な展開があった時、その類の掲示板では、我先にと多くの書き込みがなされる。その目的は、何だと思う?」
新城の目は入江を向いている。答えろということらしい。
「目的って、別にそんなのないでしょ。ただ面白がっているだけで」
「それが正解だ。面白がっている――自分の手に入れた情報を、不特定多数の人間に知ってもらいたい。そんな、ある種のサービス精神もあるのかもしれない。単純にウケ狙いと言ってもいいがね」
「ウケ狙いで流すにしては、グロすぎないか……」
と、これは悠一の発言。
「人体破壊などのグロテスクさに関して、ある程度以上の耐性がある人物なんだろうね。耐性どころではないか。白石君が苦痛の悲鳴を漏らすのを聞いて、それを面白がっていたくらいなんだから」
「ふざけてる……」
握った拳を強く腿に振り下ろす入江。怒りの矛先は、完全に『グループ』からその人物へと移りつつあるようだ。
「そのふざけた人間は、どうやってその場の遣り取りを録音したのか。繰り返すが、その場にいたのは織田君と麦原君、そして白石君の三人だけで、その三人共に、録音する手段も目的も持っていない。だが、現実に録音はされていて、アップされた音声ファイルを入江君が聞いている。ならば、どうにかしてそれは録音されたんだろう」
相変わらず勿体ぶった言い回しだ。だけど、この男がこういう言い方をする時は、ある程度真相を知っている時に限られている。きっと、この男にはすでに真実が見えているのだろう。そのことが分かっているから、口を挟むのを控え、新城の長口上に、黙って耳を傾けておく。
「しかし――何故、音声のみなんだろうね? 不特定多数のネットユーザーと共に面白がるのなら、音声よりも映像の方が適任であることは明白だ。ユーチューブでもニコニコ動画でもいい。アップすれば――即刻削除されるだろうが――ちょっとした騒ぎになっただろうに、何故かその人物は、録音するに留まっている。
しかも、その音声はひどく低い音質だったと言う。同じ理屈で、高音質の方がいいに決まっているのに、そうしていない。それは意図してそうしたのではなく、そのレベルの録音しかできなかった――と考えるのが正しいだろうね。ま、ここまで回りくどい推察を続けずとも、結論は明白なのだけどね。――鷲津さん、その場に居ずして、その場の様子を記録したい時、貴方ならどういう手段をとりますか?」
「盗聴――するだろうな」
新城のふりに対し、銜え煙草の探偵は即答する。
「その通り。さすがは探偵だ」
「俺は盗聴なんてしたことないけどな」
「それは失礼。さて、盗聴するには盗聴器を仕掛ける必要がある。それはいつ、どこに仕掛けられたのか。真っ先に考えられるのは、このオフィスだが――生憎、あの周はリピート直後から私や筒井君が陣取っていたから、物理的に不可能。次に考えられるのは、人物の躰や服に仕掛けるという方法だが、考察するまでもなく、これは現実的ではない。最後に残ったのは、盗聴器が仕掛けられた何かを織田君か麦原君に渡し、その現場に運んでもらうという方法だ。その人物は、その周、織田君の手によって何かしら凄惨な出来事がなされるのだと知っていた。その現場の模様を録音すべく、盗聴器が仕掛けられた何かを織田君に手渡した。その何かが、その現場に置かれるということをも、その人物は知っていた訳だ」
「何かって……何ですか?」
我慢できなくなって、つい聞いてしまう。
「例えば、それだ」
人差し指をピンと立て、部屋の隅を指差す新城。
そこにあったのは、型の崩れた段ボールだった。
無造作に突っ込まれたペンチやガスコンロ、サラダ油などが顔を覗かせている。さっき、入江を処刑しようとした人体破壊グッズの数々だ。
「中身に違いはあるだろうが、白石君の時も、君は使う道具を段ボールに詰めて、この場に臨んだんだよね?」
「いや、ま、そうだけど、あれは――あぁ!?」
言っている途中で、気が付いたらしい。
遅まきながら、悠一も気が付いた。
何か言おうとする二人を再び手の平で制して、新城はまとめに入る。
「もうほとんどが気が付いただろうが、ここまで挙がった、その人物の特徴をまとめてみよう。ある程度パソコンの扱いに長けていて、グロテスクな出来事を面白がる感性の持ち主で、盗聴器を所持していて、それを処刑道具を詰めた段ボールに仕掛けて織田君に手渡せた人物――」
特徴も何も、最後のが決定的だ。
「高橋一朗――我々が『武器屋』と呼んでいる人間が、犯人だ」
黒いフードを深くかぶった、アル中でマゾヒストで死体愛好者の変態モグラ――『死神』。
「あンの野郎……ッ!」
怒気を吐き出しながら、織田が件の段ボールを蹴り上げる。ペンチやガスコンロ、ナイフやメスが乾いた音を立てて散乱する。
「きっと、彼に悪気はないんだろう。いつもそうだ。彼には、何の目的意識もない。ただ、楽しみたいだけだ。だから、我々に得物を提供する一方で、小型爆弾やスタンガンを白石君に低供する。誰の敵でも、誰の味方でもない。ただ、少しでも多くの死傷者が出ればいいと願い、混沌を、狂乱を、心から楽しんでいる」
淡々と語る新城。
その横で、織田は散乱した道具を一つ一つ手に取り、空になった段ボールを丹念に探っている。
「……これかッ!?」
そして、大きさ数センチ程の黒い部品を摘み上げる。段ボールが二重底になっていて、そこに仕掛けられていたらしい。
新城はそれを無言で手に取り、わざわざ口元に持っていて、心持ち声を張り、宣言するように言い放つ。
「これではっきりした。この狂乱を起こすきっかけを作ったのは、小鳥遊悠一でも滝なゆたでも入江明弘でも白石純でも、我々『グループ』でもない。『武器屋』こと高橋一朗だ。真の敵がこんな身内にいたとはね。協力していると思い込んで、今まで甘やかしすぎたようだ。ついさっき『罰のための罰』に意味などないと言ったばかりだが――こればかりは、話が別だ。野放しにしておいたら、また同じことが起きるに違いない。我々は、彼を地獄の果てまで追い詰めて断罪する」
首を洗って待っていることだ――。
盗聴器に囁きかけたその台詞を最後に、新城はそれを床に叩きつけ、革靴で踏み潰してしまう。靴をどけた後には、バラバラに砕けた機械の残骸。何だか、虫の死骸を思わせる。
「ッたく、あの変態野郎――マジで、許さねェ……」
「私は止めないよ。君なりの方法で、彼を潰すといい」
既視感。
いや――視ては、いない。
話に聞いていた純の時と、同じパターンというだけだ。
「矛盾していると思うかい? 反省してないと、思うかな?」
怪訝さが顔に出ていたのだろう。即座に内面を見抜かれてしまう。
「別に、彼が諸悪の根源という訳ではない。白石君も、入江君も、
そして君も、それぞれに理由があって、それぞれの罪を犯した。どの罪も、許されざるモノだ。だが――くどいようだが、最も大切なのは、この壊れた世界において、二度と同じことを繰り返さない――その一点に尽きる。
リセットされて全ての記憶を失った君は、全てを知るに至り、今や危険度はゼロに等しい。今後、君が怪物化する危険性は皆無と言っていいだろう。
入江君の罪は、我々がお膳立てしたこの舞台で解体された。しぶとく燻っていた遺恨は、たった今完全に晴らしたばかりだ。もう、二度と同じことは繰り返さない――そうだね?」
「何か、悔しいけどね」
新城の問いかけを受けた入江が、はっきりとした口調で返す。
もう、俯いてなどいない。
復讐が無意味だと悟り、断末魔を録音してネットに晒した人物が『グループ』ではないと知ったせいだろう。
もう、大丈夫だ。
入江は、もう誰も傷つけない。
嘘も、吐かない。
そう、思った。
「……だけどね、件の彼は違う。彼は何も画策せず、何も行動しない。完璧すぎるほど完璧に、傍観者だ。少なくとも、本人はそう思っている。だが、傍観者は傍観者であると同時に観察者でもある。観察者は観察という行為を行ったその瞬間に、観察対象に干渉してしまっている。彼は傍観者を気取りながらも、その過程でいくつもの些細な干渉を行ってきた。その干渉は、確実に事態を悪化させてきた。先程も言った通り、彼に悪気はない。悪意がないから余計に――質が悪い。明確な行動を起こさずとも、混沌を望み、狂乱を望むのなら、それは明確な『悪』なのだよ。ならば、怪物と大差ない。そうなれば、話は単純だ。怪物なら、狩るだけだ」
『武器屋』が今後どんな目に遭うか、それは分からない。織田が憤り、新城がGOサインを出したのなら、きっとただでは済まないのだろう。
だけど、それが新たな悲喜劇に繋がることは、多分、ない。
同じことは繰り返さない。
新城が何度もそう宣言しているのだ。これが新たな事件の引き金になることなど、ある訳ない。あってたまるか。
「純は? アイツも、許されないんだよね?」
何故かスルーされた白石純を話題に戻す入江。
ボンヤリした絶望故に街を爆破した純。
『グループ』の顰蹙を買って人体と精神を破壊された純。
その模様を『武器屋』に晒され、入江に目撃されたことで、全ての遠因となった純。
美智代が幾度にも渡ってコミュニケーションをとったにも関わらず、ちっとも救われなかった純。
「そこで、君の出番だ」
静かに、新城は宣告を下す。
「筒井君も言っていただろう。同じ過ちを繰り返さぬようにするには、彼女を救うしかない。一人ではない、光はあるのだと、彼女に思わせるのが、唯一の解決法だ。残念ながら、我々では力不足だったようだが――君なら、できると信じている」
「本当に、僕が――?」
入江は、まだ半信半疑だ。自分なんかが純を救えるのかと、卑屈になっているのかもしれない。きっと、奴も悠一と同じで、自己評価が低いのだろう。絶望と孤独からあらゆる街を爆破した純と、耐えきれない程の怨嗟から、様々な人間を操って狂乱を演出した入江――その二人が、補完するように、お互いに救いあうことができたなら――それは、最高なのに。
そんなに、救われる結末は、ないのに。
「任せたよ」
ポン、と優しく肩に手を置く。
「…………」
そして入江は――無言で、頷いた。
いつの間にか、雨はやんでいた。




