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第四幕 第十章(後編)

「――なんてね」


 幾ばくかの間を開けて、一転して落ち着いた声を出す新城。

「こんな風に激情に駆られたこともあったがね。そんなのは一時的なものだ。すぐに私は、本来の落ち着きを取り戻した」

 恐る恐る顔を上げると、彼は再び椅子に腰掛け、いつも通りの糸目でこちらを見ていた。

 数瞬前までの激昂が嘘のようだ。

「ああ、大きな声を出して悪かったね。今のは、当時の気持ちを再現して見せただけだ。今はそんなこと思ってないから、安心してくれ」

 安心してくれ、と言われても――そう思っていた時期がある、というのは事実な訳で。それ以前に、悠一の犯した罪は揺るぎなくそこにある訳で。決して、安心などできる心境ではない。

「いつまでも、過ぎたことに対して感情的になっていても、建設的じゃないしね。これからどうすべきかを考えるべきだ。君を見つけ、その行動を止め、リセットさせたところで――一件落着とはいかない。課題は山積している。それを片付けるのが最優先だ」

「課題って……」

 一息ついて、気を落ち着かせる。新城は、すっかり前の状態に戻っている。数瞬前まで、あんなに激昂していた――振りをしていたのに、今ではそれが幻だったかのようだ。

 悠一は気を切り替え、考え考え、台詞を吐く。

「リセットされた俺に……本当のことを気付かせる、ってことですか?」

「勿論、それもあるね。君という人間が二度と怪物(モンスター)化しないよう、思考を誘導し、この世界の価値観と倫理観を教え込み、事の真実に自ら気付かせ、己の罪を認めさせる――この十三周の間、君は我々にそういったことをされてきた訳だ。しかし、それはあくまで君目線の話にすぎない。我々は我々で、もう一つ――とても重要な仕事を、同時進行で続けていたんだよ」

「それは――」

「小鳥遊君、さっきの話を聞いて、おかしいと思わなかったか?」

 人の言葉を遮って、新城は不思議な質問を繰り出してくる。

「おかしいって――いや、そりゃ、おかしいって言えば一から十までおかしなことだらけですけど」

「ふうん……そうだね、じゃあ、まずは事の発端を思い出してほしい。そもそもは、滝君や並木君が妙な勘繰りをして、ありもしない三角関係、四角関係を想定したところから、話が始まったんだ。だが、これはどう考えてもおかしい。麦原君はああいう性格だから、君に色目を使う訳がない。『グループ』の存在をうるさく感じていた君にしても同様だろう。天地がひっくり返っても、君が麦原君に惹かれることはなかった筈だ。なのに――滝君と並木君は、ほぼ同時期に同じ誤解をし始めている。……変だよねえ?」

「変、ですね……」

「私は――裏で、誤解を煽っていた人物がいた、と考えた」

「裏で……煽っていた……って」

「当時の並木君は、ネット上で多くのリピーターと交流を持っていた。その当時は『グループ』への報告義務もなかったから……そのメール仲間の一人に、よからぬことを吹き込まれた可能性がある」

「でも、並木さんは情報操作を担当していたんでしょう!? そんな、メール仲間の嘘なんて、すぐに見破れる筈なんじゃ……」

「普段の彼ならば、ね。だけど、事は恋人の事ときている。

 色恋が絡むと――人は、冷静さを失う。

 そして、『自分は情報に強い』『自分は騙されない』と思っている人間ほど、ある種の人間には、簡単に騙されてしまうものさ」

「ある種の人間?」

「口に長けて、人心掌握の何たるかを完璧に把握した――本物の詐欺師、ってことだよ」


 ――本物の、詐欺師。

 

「まあ、ウチの筒井君もその類なんだが――彼女は、あくまで『交渉』の範囲に留まっている。相手を自分のペースに巻き込むための方便だ。騙すための嘘とは種類が違う。

 だが、その人物は、並木君と滝君の両方に接触をはかり、結果――二人ともを、騙してしまった。並木君には、君が麦原君を狙っていると吹き込み、滝君の方には麦原君が君を誘惑していると信じ込ませた。その結果――全てが、瓦解した」

「……………………」

「話はそれだけじゃない。Xデー――つまり、滝君が並木君を殺害しようとして、結果ドミノ式に二人とも殺されてしまった日のことだが――この時のことも、妙なんだよ。その時、麦原君は大宮に、君は藍土駅に、それぞれ未知の人物からのメールで呼び出されている。四人は、バラバラになった訳だ。その時、並木君と麦原君が一緒にいたなら、或いは、君と滝君が一緒にいたなら……あんな悲劇は起こらなかっただろう。つまり、その人物は悲劇が起きることをある程度計算して、君と麦原君をメールで誘導したことになる」

「それは、誤解を煽った人間と同一人物なんですか?」

「いい質問だ。勿論、別人かもしれない。だけど、同一人物である可能性も、同じだけある。断定はできない。否定するにせよ肯定するにせよ、情報が少なすぎるんだ。それはつまり、その人物がその程度の情報しか残さなかった、ということでもあるがね」

 意味も分からず、躰が震えた。

 芯の方から、不快な何かが、ザワザワと波打って広がっていく。

 これは、危険信号だ。

 これ以上聞いてはいけないと、躰が報せている。

 だけど――やはり――悠一は、新城の話に耳を傾けずにはいられない。

「……それで?」

「おかしなことはまだある。時系列を下って――君が怪物(モンスター)化する、その時のことだ。君はリセットされて記憶を失った滝君と、実にうまくやっていた。このままいけば、以前の関係に戻れるのではないかと、我々も安心していたくらいだ。

 だけど、彼女はある時、突如として君を拒絶し始める。君に不信感を抱き、君との接触を極力避けるようになってしまった。これは何故だろう? 

 この世界には、できるだけオリジナルの形に戻ろうとする復元能力とでも言うべき力が働いている。リピーターがどんな動きをしたところで、その動きが微かなものならば、世界は瞬く間に元の形に立ち戻ってしまう。それは、リセットされた人間の個性や、人間同士の関係性についても同じことが言える。何度リセットされようが、恋人になるのがオリジナルの形ならば、本人たちが何もしなくてもそうなる筈なんだ。ましてや、片方がリセットされずに以前の関係を熱心に望んでいるのなら尚更さ。君は誠心誠意やっていた、らしい。一度は深く愛し合った間柄だ。いくらリセットされてしまったとは言え、慌てず手順を踏んで信頼を築けば、容易に以前の関係に戻れる筈、だったんだが……」

「滝なゆたに、おかしなことを吹き込んだ人間がいた、ってことですか?」

「さすがに理解が早いね。その通りだよ。それと同じ事を、我々も考えた。そして、その後の君の行動だ。滝君にフラれて絶望した君は、事もあろうか、『その苦しさは、この世界にリピーターなんて存在がいるせいだ』などという極論を叩き出した。そこから『リピーター皆殺し作戦』などという馬鹿げた行動を始める訳だが――これも、やはりおかしい。本人に言うのもどうかと思うが……小鳥遊悠一という人間は、比較的常識的な思考を持った人間なんだ。少し打ちのめされたくらいで、そんな過激な思想を思いついたりするような人間では、決してない。そのことは、君自身が一番よく分かっている筈だ。むしろ、並木君の方がよっぽど危なっかしいくらいだよ」

「そう、ですね……」

 そうなのだ。

 悠一は、そんなことをする人間ではない。それは自分が一番よく分かっている。だから、新城から話を聞いても、どこか他人事のようにしか感じられなかった。『過去』の悠一と今の悠一が、地続きでないように感じられてしまったのだ。

「――だが、君は常識的であると同時に、騙されやすく、流されやすい人間でもある。すぐに相手の話に耳を傾けてしまう。すぐに、相手と同調してしまう。そのことも、君自身が一番よく分かっているとは思うのだけどね」

 ……確かに。

 騙されやすい。

 流されやすい。

 この十三周の中で、幾度となく自覚してきたフレーズである。

「だから――君は、何者かに思考を誘導された可能性がある。言葉巧みに丸め込まれ、この世界のリピーターを一掃することこそが正義だと――そういう風に、考えてしまった」

 ……再び、頭が重くなった。

 よくない兆候だ。

「極めつけは、大量無差別殺人を行っていた時の、君の動きだ。君という人間は、実に巧妙に、実に緻密に行動を行っていた。勿論、その当時の君自身の能力も相当に高かったのだけれど――その時のそれは、あまりにも鮮やかすぎた。まるで、背後にブレインがいるかのようにね」

「そ、そんなの、ただの想像じゃないですかっ! 今の俺には無理でも、その時の俺にはそれができたのかも――」

「勿論さ。私もそう言っている。だけどね。それだと、リピート直後に君が自宅からいなくなっていたことの説明がつかない。本来なら、君は六時半になるまで熟睡していた筈なんだ。だからこそ、リピートの起きた直後に君の自宅に駆け込めば、君を容易に捕縛できる筈だった。だが、実際はそうではなかった。

 君は家にいなかったんだよ。

 つまり、君を起こした人間がいたということだ。リピート直後に、モーニングコールよろしく電話で起こせば、君は〇時一分に起床することができる。そこから行動を開始したのでは、我々が君を捕らえられないのも当然。簡単な話さ。では――その電話をかけた人物は、誰なんだろう? その人物は、君の背後に控えて絶えず君に作戦を指示していたと思われる。つまり、君の協力者だった訳だ」

「…………」

 頭が重い。

 躰が脈打つ。

 吐き気がする。

「『過去』には、絶えず不穏な影が見え隠れしていた。

 その人物は君と並木君に事実無根の噂を流し、誤解を煽った。

 滝君にいらないことを吹き込み、君を拒絶するように導いた。

 君を言葉巧みに丸め込み、小鳥遊悠一を怪物(モンスター)へと変貌させた。 その一方で、怪物(モンスター)化した君を背後からバックアップし、世界を混沌(カオス)に陥れるのに一役買った。

 では、その人物の目的とは、一体何だったんだろう?」

「…………」

 すでに、悠一は満足な相槌が打てなくなっている。淡々と語られる新城の言葉が、重くのし掛かる。

「世界を混沌(カオス)に陥れる――世界のリピーターを一斉リセットさせる――結果だけを見れば、小鳥遊君がしようとしていたことこそが、その人物の目的であるようにも思える。

 だが、これは違うんだ。

 冒頭で、私たちの言う『世界』とは、たかだか半径数十キロ圏内に収まる、ひどく『小さな世界』だと説明した。だから、そこ住むリピーターを皆殺しにすることも、決して不可能ではない。不可能ではないが、とてつもなく時間がかかる。効率も悪い。しかも、どれだけ神出鬼没に行動したとしても、殺すのが難しいリピーターは多く存在する。

 それは、大きく三つに分けられる。

 一つは、家に引き籠もって一切表に出て来ない連中。『武器屋』や白石純、それに烏丸・宮脇カップルなどは、これに当て嵌まる。

 一つは、小鳥遊君が個人的に親しみを感じている人々。『教授』こと大磯孝志はこれに当たるかな。以前の君も、『教授』には親しみを覚えていたからね。

 そしてもう一つが、力が強くて、とても太刀打ちできない人々。言うまでもなく、これは我々――特に織田・麦原の戦闘班のことを指している。

 どれだけ時間をかけても、これらの人々をリセットさせるのは難しい。少なくとも、小鳥遊悠一という少年を利用してリセットさせるのは、ね。勿論、緻密に作戦を練り、奸計を巡らせれば、それすら不可能ではない。ただ、やはり効率が悪い。そこまでできるのなら、他にも沢山の怪物(モンスター)(こしら)えて野に放す方がよっぽど手っ取り早い。何も、無理して小鳥遊君に全ての業を負わすことはなかったんだ。並木君を騙せたくらいなんだから、適当なリピーターを自分の手駒にするぐらい、その人物にとっては造作もないことだった筈だしね。

 本気でリピーター一掃を目指すのならば、その人物のやったことはあまりにも効率が悪すぎる。どこかちぐはぐだ。目的と手段が、全く噛み合っていない。ならば、そもそも目的が違ったのではないか――私は、そう考えた。

 攻撃対象が『世界』のリピーター全て、などと話を大きくするからややこしくなる。そうじゃなくて、範囲をもっと狭めてみたらどうだろう。その人物が攻撃したかったのは、もっと限定された範囲の人々だったとしたら……?

 そこで、もう一度、その人物がしてきたことを検証してみようと思う。その人物は、最初に滝君と並木君を騙した。誤解を増幅させて、影で惨劇を演出した。その次は滝君の警戒心を煽り、君との関係を修復不可能なモノにした。君に過激な思考を吹き込み、さらに裏で助力までして、強力な怪物(モンスター)に仕立て上げた。全てのリピーターをリセットさせるべく、手始めに『グループ』のメンバーを壊滅寸前にまで追いやった――と、短くまとめると、こうなる。

 その人物が働きかけたのは、君と滝君、そしてメールを通じて知り合った並木君、その三人だけだ。他の人物、例えば『グループ』メンバーなどには、接触はおろか存在すら悟られていない。その一方で、君などは完璧にその人物の手駒になってしまっている。かなり頻繁な交流がなければ、そうはならない。この差が、肝要なんだ。

 そして、実際に被害を被ったのは誰かと言うと――これは、君、滝君、並木君、麦原君の四人と、『グループ』そのもの、という結論になる。その後に様々な街で無差別殺人が行われているが、こちらはあくまで不特定を狙ったものだ。いわば、真の目的を隠すためのカモフラージュとも言える。つまり、その人物の目的は、最初から君と滝君、そして『グループ』を攻撃することのみにあったと言う訳だ。

 いや、もっとはっきりと言うべきかな。


『グループ』こそが、真の攻撃対象だった。


 その人物は、『グループ』に何らかの恨みを持つ人間なんだよ。


 しかしながら、その人物は徹底して表に出て来なかった。ある程度の動きがあれば、当然『グループ』の誰かがその存在に気が付いていた筈だからね。きっと、『グループ』のこともネット世界で知ったのだろう。並木君のように、ネット上で地道に根を広げ、少しずつ情報を獲得していったに違いない」

 黙りこくる悠一を気にも留めず、新城は長い長い話を語りきる。軽く、淡々と、だけど確実に、本当の敵の姿を炙り出していく。

「察しが良いくせに現実を見ようとしない君にも、もう分かっただろう。

 この一連の出来事には、黒幕がいたんだ。

 君も並木君も滝君も、皆、利用されていただけだ。

 その人物は、ある理由から『グループ』に猛烈な恨みを抱いていた。ネットを駆使して『グループ』のことを調べあげ、メールを通じて並木君と接触を計り、ある程度の信用を得る。それと同時進行に、君と頻繁に交流をとり、君を経由して滝君とも進行を深めていく。

 そして、緻密かつ狡猾な情報操作が始まる。

 口先一つで多くの人間を騙し、欺き、思考を誘導し、行動を操作して――結果的に、『グループ』は壊滅寸前となった。だが、それではまだ足りない。まだ、私を含めて五人のメンバーが生き残っている。それでは、意味がない。その人物は、きっと、リーダーである私の首を欲していたんだろう。だからこそ、暴れる君を影ながら協力していたんだ。大量無差別殺人の延長で、いつしか『グループ』の残党を狩ってくれるだろうと、期待してね。それこそ効率の悪い話ではあるが――きっと、その人物はそれだけ君に期待していたのだろうね。君なら、『グループ』の生き残りたちをも根絶やしにしてくれると、そう信じていたんだ」

 そんな。

 そんな。

 そんな。

 騙されて、

 欺かれて、

 操られて、

 利用されて、

 そんなことが本当に――

「さて、ここから浮かび上がる犯人像は、どんな人物だと思う?」

「……………………」

 ――駄目だ!

 これ以上聞いては駄目だ!

 発作的に、悠一は自らの耳を両手で押さえようと――したのだが、すんでのところで、身を乗り出した新城に阻止されてしまう。新城の腕が、悠一の手首を握っている。

「聞け。聞くんだ。現実から目をそらすな。……いいかい? その人物は、リピーターで、頭が良く、口がうまく、ネットの扱いにある程度長けていて、『グループ』に猛烈な恨みを抱いていて、尚かつ――君から絶大の信頼を得ている人物、だ」

 視界が霞む。

 霞んだ目の向こう、新城が空いた手で、一枚のカードを提示している。


「それが、最後の登場人物だよ」


 カードの絵柄は、『月』。


「『月』の意味は、何だ? 君は知っているんだよね? 声に出して、言ってみるといい」

「……ううう」

「目をそらすなと言っているだろう! これが最後だ! さあ、『月』の意味は何なんだっ!?」

「『月』は――『不安定』、『幻惑』、『現実逃避』……」

「それと?」


「――『親友の裏切り』――」


 嗚呼。

 嗚呼。

 嗚呼。

 そんな。

 嘘だ。

 これは嘘だ。

 そんな訳が――ない。

 

 フラッシュバック。

 脳裏を滑っていく親友の姿。

 赤縁の眼鏡をかけた、聡明で温厚、常に悠一を助けてくれた――親友の姿。

 

 入江明弘。


 彼こそが――『月』だと、言うのか。


「う、そ、だ……」

「嘘じゃない。君だって分かっているんだろう? 入江明弘だよ。そう、君のブレインだ。常に君の側にいながら、つい最近まで自身がリピーターであることを隠していた彼こそが、我々の真なる敵だったんだ」

「…………」

「いいかい? よく聞け。確かに、我々は君に執着していた。それは、君を二度と怪物(モンスター)にしないため――そのために思考と行動を制限した――勿論、それもある。

 だけど、真の目的は別にあった。二度と同じ惨劇を繰り返さないためには、まず、真の敵、つまり黒幕を見つけ出す必要があった。その人物は、間違いなく君の近くにいる――正直言えば、先程語った条件を満たす人間は一人しかいなくて、随分前の段階で目星はついていた訳だが……できれば、君の手によって、黒幕の正体を炙り出したかったんだ」

「な、んで……」

「何でか、だって? 決まっている。唐突に入江明弘が黒幕でした、なんて言ったって、君は認めないに決まっている。我々のでっちあげだと決めつけただろう。最悪の場合、それで我々の言葉に一切耳を貸さなくなる危険性も考えられる。黒幕である入江を捕まえたところで、君に納得してもらえないのでは、意味がなかったんだよ。

 我々が接触すれば、君がブレインである人物を頼ることは分かっていた――まあ、今回の場合、それすらも偶然だったようだが――いや、それすら、世界の修復機能の結果、なのかな――」

 仕組みなどどうでもいい。どちらにせよ、『グループ』は最初に入江に相談した、その場まで監視していたらしい。

 そう言えば、その後の入江への相談は、全て学校の教室で行われた。あれは『グループ』の監視を気にしてのことだったのだろうか……。事実、入江がリピーターだと追及した時には、やたらと監視を気にしている素振りを見せていたし……。

 ――そう。

 そうなのだ。

 入江は、最初から一貫して、自分の素性を『グループ』に知られないようにと、そればかりを気にしていた。……いや、それも違うか。入江が気にしていたのは、主に二点。

 自分の存在を『グループ』に気取られるな。

 決して『グループ』を信用するな。

 その、二点だ。

 まさに――新城の言う条件、そのままではないか。

「案の定、君は入江明弘に相談しに行った。まあ、我々とて盗聴技術までは持ち合わせていないから、その会話内容までは知ることができなかった訳だが……でも、それで充分だった。彼が君に何を吹き込んだかなど、容易に想像がついたからね。どうせ、『グループ』は信用するな、とでも言われたのだろう? 違うかな?」

「…………」

 何を、言うべきなのだろう。

 否定すべきなのか。

 肯定すべきなのか。

 それとも、無言こそが正解なのか。

 何を言っても言わなくても、新城には全てお見通しのような気がする。だから、黙っていた。

 だが、それは肯定のサインと受け取られてしまったらしい。

「……ふん。図星か。彼はあらゆる手を駆使して、『グループ』への不信感や警戒心を煽ったのだろうね。実際、君が反抗的な態度を示したのは、決まって入江明弘に相談した後ばかりだ。我々がどれだけ腐心して信頼関係を築こうとしても、入江明弘の手によって全てリセットされてしまう。本人は一切表に出て来ないだけに、余計始末に悪い。全く――厄介な相手だったよ」

「…………」

 やはり、悠一は何も言い返すことが出来ない。反論すべき点は山ほどあるのだけれど、悠一は、そのための語彙も話術も持ち合わせていない。結局、新城に言わせるがままになってしまう。

「彼は、徹底して裏方に徹していた。だから、まず、その存在を表に引きずり出すことが、我々の課題だった。しかし、慎重で猜疑心の強い彼を表に出すのは、容易ではなかった。織田君を使って手荒な真似に出る案も出たが――そんなことをすれば、君が烈火の如く怒るのは目に見えていた。そうなれば、信頼関係は崩壊する。君という存在を尊重するのなら、入江明弘という存在も尊重しなければならない――我々は、ジレンマに陥った。

 だが、考えを変えれば、これはチャンスだったんだよ。彼は、相変わらず君を利用して我々に牙を剥こうとしている。ならば我々も、君を利用すればいいのではないか――君を利用して入江明弘という存在を炙り出せばいいのではないか――そう考えた訳だ。

 天啓とも言えるアイデアだった。

 つまりは、チェスみたいなものだよ。

 私と入江明弘がプレイヤーとなって、君という駒を取り合う――そういう、ゲームだ。そして、このゲームではルールを先に理解した私の方に、分があった。私は手持ちの駒を最大限に利用して、君を引き込んだよ。一方の彼は、防戦一方だったようだね。君が何故そこまで『グループ』に引き込まれていくのか、大層疑問だったのだろう。だから、新たな手も打てず、せいぜい『グループ』を信用するなと繰り返すことしか出来なかった。

 そして、私はチェックメイトとなる手を打った。

 あの、『グループ』を告発する、自作自演の手紙だ。

 表層だけを見れば、『グループ』を攻撃する手段に見えたかもしれない。だけど、実際はその逆だ。あの手紙は、君に、入江明弘がリピーターであるということを気付かせるためのモノだったんだよ。そして、計画通り、君は入江明弘を告発しに行った。その時、君はどう感じた?

 親友が同じリピーターだと知って、嬉しかったかい?

 それとも、親友なのに隠し事をされて、淋しく感じたのかな? 

 恐らくは、前者の方がやや勝ったのだろう。君は、情に厚く、孤独に耐えられない人種だからね。

 とは言え、親友に対する不信感も、少なからず芽生えた筈だ。親友は、何かを隠してるんじゃないか――そう考えずには、いられなかった。違うかい?」

「…………」

 いちいち返答を求めないでほしい。この状況で、悠一に何か答えられる訳がないのだから。

「だが、本当に大切なのは、君に対しての働きかけではない。我々は、入江明弘にプレッシャーを与えるために、あの手紙を寄越したのだよ。入江明弘がリピーターであることを君が知ってしまった――そのことこそが、彼にとっての最大の計算違いだった。恐らく、彼はもっと後になってから、自身がリピーターであることを明かす予定だったんだろう。だけど、その計画は崩れてしまった。焦っただろうね、彼は。今まで最大限に利用してきた手駒が、宿敵である『グループ』に奪われてしまった――入江明弘は、今までにも増して、『グループ』を信用するなという旨を必死になって伝えたのだろう。

 だが――君の態度はつれなかった。

 流されやすい君は、入江明弘に絶対の信頼を寄せながら、我々のことを切り離せないでいた。そのことを察知した入江明弘は――いとも簡単に、君を、切った。

 もう利用できないと判断して、君を見限ったんだ。

 勿論、これは全て私の推測だが――的外れでもないのではないかな? どうだい?」

「…………」

 言うべき台詞が思い浮かばない。

 全て、新城の言う通りだったからだ。 

 先周の晩のことだ。悠一は、入江に電話をかけた。これから自分がどうするべきか――反吐が出るほど他力本願な、甘ったるい相談の電話だった。だが、電話口の入江の態度は、いつもと違っていた。いつもは、あくまで温厚に、我慢強く、悠一の話を聞いてくれていた。だけどその時は違った。悠一が性懲りもなく『グループ』と行動を共にしていると知り――呆れ半分、憤り半分で、吐き捨てたのだ。

 ――小鳥遊は――馬鹿なの?

 悠一は必死で弁解した……ような気がする。

 だけど、無駄だった。入江は白石純の件を引き合いに出し、『グループ』が如何に非道で残虐な連中かを、悠一に分からせようとした――のだが、悠一は、すでにその話を知っていた。

 ――知ってた、の?

 あの時、奴の声は震えていた。だけど、悠一はその理由が分からなかった。その時は、『グループ』の隠し持つ真実に躍起になっていたからだ。電話越しの親友が動揺している『理由』よりも、『グループ』が動いている『理由』に興味があった、とも言える。

 ――もういい。

 入江の声を思い出す。

 あの瞬間――入江は、悠一を切ったのだろうか。

 

 ――小鳥遊に期待した、僕が馬鹿だった――。


 嗚呼。

 嗚呼。

 入江は――悠一に、何を期待していたというのだろう?

 何を、させようとしていたのだろう?

 また――以前のように、悠一に人殺しをさせようとしていたのだろうか?

 また以前のように、『グループ』を壊滅させようとしていたのだろうか?

 あらゆる街で大量無差別殺人を行うように――そんな期待を、自分はかけられていたのだろうか?

 もし、『グループ』と出逢わなければ。

 悠一は――今頃、何をしていたのだろうか。

 やはり、入江の口車に乗せられて、殺人鬼になっていたのだろうか。『グループ』を完璧に潰すその時まで、入江の持ち駒――『愚者』として、来る周も来る周も、果てのない殺戮に明け暮れていたのだろうか。

 ――耳を傾けるべき人間を、間違えないで。

 ぼんやりと、誰かの言葉が蘇る。この台詞を言ったのは、司だっただろうか。あの女は、あの時点でヒントを出していたのだ。悠一は、入江に絶対の信頼を寄せていた。入江の言うことなら大抵は信じただろうし、入江の指し示した道なら迷わず進んだだろう。

 例え、その先が崖だとしても――。

 最悪、だった。

「……土気色、というのはこういう顔色を指すのだろうねえ。私の言うことではないかもしれないが――大丈夫かい? 世界が終わった様な顔をしているが」

 世界が終わった――確かに、そうなのだろう。

 新城の話を信じるならば、悠一は今までずっと、入江に利用されていたことになる。入江の私憤のために、全身血塗れにして無様なダンスを踊っていたことに、なってしまう。

 全てが、最悪だ。

 もう、何を信じればいいか分からない。


 ――いや。

 新城の話を信じるなら、確かにそうだ。

 ならば、新城の話を信じなかったなら?

 今までの話には、一切の証拠がない。勿論、この壊れた世界に証拠を求めるのが無理な話であることぐらい、重々承知なのだが――それはつまり、言った者勝ち、ということでもある。新城の話口調は極めて論理的であるように聞こえるが、それとて、見方を変えれば屁理屈の詭弁だ。この男が、作り話で悠一を(たぶら)かそうとしている可能性も、充分に考えられるのだ……。

「うん? 顔を上げたね。何か有効な反論でも思いついたのかな?」

 この男がエスパーだと告白しても、きっと悠一は驚かないだろう。まあ、それは美智代についても同じ事が言えるのだけど。

「俺は、どうやってアンタの話を信じればいいんですか?」

「どうやって、とは?」

「だから、アンタの話には、一つも証拠がないじゃないですか。確かに、説得力はあったよ。俺も一瞬信じかけた。だけど、それだけだ。アンタの話が真実だっていう証拠は、どこにもない」

「……何を言うかと思えば……」

 新城は軽く溜息を吐いたようだった。馬鹿にされたようで、気に食わない。

「だってそうでしょう!? いきなり、お前は殺人鬼だった、操っていたのはお前の親友だった、って言われて、ハイそうですか、って訳にはいかないんですよ!?」

「君の気持ちも分かるが――だったら、せめてもっとまともな反論をしてもらいたいものだね。ここの部分が理屈に合わない、この部分が論理的に破綻している――そう論破してくれるのなら、私も潔く負けを認めよう」

 悠一にそんなことができないと分かっていて、わざと言っている。

「だが、アンタの話には証拠がないから信じられない、と言うんじゃあね……」

 当たり前だ。新城がどれだけ言葉を重ねようと、悠一には絶対に認められない。そんな――あの入江が、全ての黒幕だったなんて。

 第一、

「理由――目的は!? そう、動機は何なんですか!?」

「言っただろう。『グループ』への恨み、つまりは報復だ」

「だから、あの入江がアンタらに対してどんな恨みを持つのかって、そのことを聞いてるんですよっ! 様々な人間を騙して、操って、俺を怪物(モンスター)に仕立て上げて、血生臭い惨劇を演出して――そこまでして果たしたい恨みってのは、一体何なんですかっ!?」

「単純に『グループ』を壊滅させるのが目的なら、他に幾らでも方法があっただろうね。例え手駒が君一人でも、彼ほどの頭脳ならもっとマシな手段を考えつけた筈だ。……きっと、この世界に混沌(カオス)を起こす――それ自体が、『グループ』に対する報復になると、彼は知っていたんだ。我々は秩序を何よりも重んじると事あるごとに公言していたからね。あらゆる街で巻き起こされた大量無差別殺人――あれは、感情論ではなく、方法論として選択されたモノだったんだよ」

「質問の答えになってない。俺はそんなことを聞いてるんじゃない。

 アンタらは、何をしたんだ?

 何で、入江はアンタに恨みを抱いている?

 そのことが説明できないようなら――俺は、アンタの話を一切信じない」

 断言してやった。

 これが、今の悠一にできる精一杯の反論だった。強引だろうが強情だろうが、構うものか。

「困ったな」

 全然困ってないような素振りで、新城はわざとらしく大きく溜息を吐く。

「この期に及んで、君は、私の長い長い話をリセットするつもりなのか。私の語ったことは、全て事実だと言うのに……」

「だから、その事実の続きを話してくれ、と言っているんですよ。簡単なことじゃないですか」

「簡単ではないよ。それとこれとは全く別だ。今まで私の語ってきたのは、客観的事実というやつだ。事情を知っていて、かつリセットされずに記憶を保ち続けている人間なら、誰でも語ることができる。しかし、君が求めているのは、違う。理由や目的、動機なんてのは、結局は本人の心の内にあるものだ。それを客観的事実として語ることはできないよ。勿論、類推することは簡単だが、それはどこまで行っても類推の域を出ない」

「それでもいいですよ。教えてください」

「よくない。私の推測を語ったところで、君がそれを認める訳がないじゃないか。『違う。入江はそんな人間ではない』と返されて終わりさ。そこから先は不毛な水掛け論だ。何の意味もない」

「じゃあ、どうするんですか。ここまで来て袋小路はないでしょう」

 本当は分かっていた。悠一が、新城の話を認めればいいだけの話だ。断定する証拠もない代わりに、否定する要素もありはしない。ただ、悠一が認めたくない――それだけの話なのだ。

「なに、簡単な話さ。警察、司法、あらゆる調査機関がやっている原始的な方法が一つある。会社でも学校でも家庭でも、何か問題が起これば、いの一番に行っていることさ。

 本人に、話を聞けばいい」

「本人にって――」

 入江に、事の真相を質すと言うのか?

「そ、そんなの、無理に決まってるじゃないですか!?」

「ふうん? 何が、無理なんだい?」

「そんな質問に意味はないって言ってるんです! 違っていたなら当然否定するだろうし、仮に本当でも――やっぱり、否定するに決まっている!」

「どうだろうねえ?」

「当たり前じゃないですか! 俺は今でもアイツが黒幕だなんて信じてないですけど、アンタらに不信感を抱いているのは、確かです。そんな人間を相手に、腹を割る訳がない!」

「――本当に、そうかな?」

 何だ。

 この男、何故ここまでに――余裕なのだ?

 何故ここまでに、自信満々なのだ。

 悠然としているのはいつものことだが、今は、新城のその態度が異様に気になる。

 この男――この期に及んで、どんな切り札を隠し持っていると言うのだ? 

 何度目になるだろう。悠一は、躰の芯から波紋が巻き起こるのを感じていた。

「君がそこまで言うなら、実際に問い質してみればいい。君のために意味のない御託を並べるのも、もう沢山だ」

 脚を組み直し、新城はあくまでも悠然と、そう言い放つ。

 数瞬の逡巡があって――悠一は、ポケットから携帯を取り出す。

「分かりました。そこまで言うのなら、聞いてみましょうよ」

 毒を喰らわば皿までだ。ここまで来たら、入江をも巻き込まざるを得ない。悠一は携帯を操作し、電話帳から入江の番号を呼び出した――のだが、

「ああ、それには及ばないよ。わざわざ、君が電話で呼び出すまでもない」

「え……?」

 ならば、新城が入江を呼び出すとでも言うのだろうか。『グループ』に強い不信感を抱いている入江がそれに応じるとは思えないのだが……。

 しかし、続く新城の言葉は、悠一の更に上を行っていた。

「呼び出す必要などない。

 彼は、すでにここにいるのだからね」

「え――」

 返答する暇さえ、与えてもらえなかった。

 不意に新城が立ち上がる。

 それが合図であったかのように、数メートル向こうの鷲津が銜え煙草で動き出す。

 すぐ横の扉――かつて資料庫として使われていた部屋――を開き、その中を見せる。


 入江は、そこにいた。


 パイプ椅子に座らされ、両手両足を紐で縛られ、アイマスクをされ、タオルで猿ぐつわをされて――拘束されていた。


「――――」

 すぐには、頭が追いつかない。

 何だこれは。

 何が起こっている。

「必要ないとは思うが、一応紹介しておこう。彼こそが、今回の出来事を全て裏で操っていた『月』こと、入江明弘君だ」

 新城の言葉がどこか遠くから聞こえてくる。

 何だこれは。

 何故入江がここにいる?そもそも、何故拘束されている?よく見れば入江の両脇には織田と司が控えている。大事な仕事があって同席できないと言っていたがその仕事と言うのがこれなのか?入江を拉致してきたとでも言うのか?さっき手荒な真似はしたくないと言っていたのにあれは嘘だったのか?いやそもそもあれは本当に入江なのか?アイマスクのせいで人相がよく分からないが鼻や口や髪型や織遠学園の制服を着ている所から判断しても間違いないように思える。やはりあれは入江なのだろう。その入江がここにいるということはやはり奴こそが黒幕なのか。そんな。これは『グループ』の仕掛けた罠ではないのか?入江も悠一も話術と暴力でとてつもない濡れ衣を着せられているだけなのでは?それもこれも入江に話を聞けば分かる話なんだろうか。いや、入江が本当のことを言うとは思えない。新城の声はよく通るからさっきの話の一部始終は聞こえていたのだろう。考える時間は充分にあった筈だ。入江は何と答えるのだろう。認めるのか否定するのか。どちらに転んだにせよ最悪の事態なのは間違いない。自分は真実が知りたくてここに来た。だけどそれがこんな形で知らされるなんて。何かを言わなくては何かを聞かなくては嗚呼駄目だよく分からない頭が追いつかない疑問ばかりが次々噴出してオーバーヒートを起こしそうだ何で何で何で何で何で何で何で何で。

 何で。

 数瞬の間に膨大な量の疑問符が脳内を満たし、そのどれ一つとして実体を結ぶことなく、悠一は一時的に失語症に陥ってしまう。平たく言えば――パニックになってしまったのだ。

 その状況を打破したのは、当然のように新城だった。扉を開いた鷲津も、入江の横に控える織田・司も、一切発言しようとしない。当の入江はと言えば、発言したくてもできないのだろう。猿ぐつわを噛まされているのだから。

「どうした小鳥遊君。酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせて。彼に聞きたいことがあったんじゃないのかな? 折角今まで待機してもらったんだから、何でも遠慮なく聞いたらいい」

 新城とて、悠一の心境を察してない訳ではないだろう。分かっていて、敢えてそんなことを言っているのだ。そう考えると、新城の糸目がひどく嗜虐的なモノに見えてくる。

「な、んな……」

 悠一はと言えば、まだパニックから立ち直ることもできず、意味を成さない単語を馬鹿みたいに垂れ流している。この状況に対する説明がされない以上、悠一はいつまで経ってもこのままだ。

「……ふん。ちょっと、演出に走りすぎたかな? 私とて、(いたずら)に君を混乱させるつもりはなかったんだが」

 だが、新城はどこまでも飄々として、一向に要領を得ない。悠一が自力で持ち直さない限り、話を進めるつもりはないらしい。浅い呼吸を繰り返し、苦い唾を無理矢理飲み込み、ひどく苦労して言葉を吐き出す。

「何、で……手荒な真似はしないって、さっき……俺を揺さぶって入江のこと炙り出すって……言ってた、のに……」

 ようやく意味のある台詞を紡ぐことが出来た時には、悠一は全身汗だくになっていた。汗が噴き出るのに、ひどく寒い。躰の震えが止まらない。

 もう――死んでしまいそうだ。

「勿論そうさ。私も、他の皆も、誰も手荒な真似などしていない。これは正当防衛なのだからね」

「せいとう、ぼうえい……?」

 理解不能。

「君は何か勘違いしているようだね。先程述べた私の話に嘘はないのだよ? 我々は、君を操っている『月』の存在を炙り出したかった。そのために、ひどく遠回りな方法を使って、君への接触を続けていたんだ。そして、その試みはほぼ成功した。我々のアプローチに心動かされていた君は、すでに我々を切ることができなくなっていた。

 そのことを察知した彼、入江明弘は、何の躊躇いもなく、君を切った。もう、小鳥遊悠一は自分の手駒でなくなってしまった――そう認識した彼は、一つの決意をしたのだよ。君を操って『グループ』に報復するという手は、もう使えない。だが、依然として『グループ』への怒りは収まらない。

 ならば――自分が、動けばいい。

 事ここに至って、彼はようやく、自分の手を汚す覚悟ができたという訳だ。彼の目的は、他でもない、私にあった。『グループ』リーダーである私をリセットすること――それを目標に、彼は重い腰を上げた。『安楽椅子殺人者(アームチェア・マーダー)』が、真の『殺人者(マーダー)』予備軍になった瞬間だ」

 入江が、自分の手で新城を殺害しようとした、と言うのか?

 まるで想像がつかない。

「とは言え、正面突破で向かっても、敵う筈がない。頭脳と話術には長けていても、戦闘能力は皆無に近いようだ。そこで、一計を案じた。要するに、奇襲だ。どうやら、君からこのビルのことは聞いていたらしいね。私がこの場へ来るだろうと予想した彼は、ビル横の路地裏で、待ち伏せを敢行した。私が無防備に登場したところを、横から襲いかかろうという算段だったのだろうね。

 だが、彼は失念していた。『グループ』には、優秀な探偵がいるということを、忘れていたんだ」

 自分の話をされているというのに、鷲津はまるで興味がないかのように、新しい煙草に火を点けている。

「彼の挙動は、今周の朝からずっと監視されていた。つまり、バレバレだった訳だ。奇襲でもなんでもない。鷲津さんから連絡を受けた織田君、麦原君がその場で取り押さえて――それで、終わりだ」

 ツカツカと入江に歩み寄り、目を覆っていたアイマスクを、口を塞いでいたタオルを、新城は無造作に剥ぎ取る。

 アイマスクの下から覗く双眸を見て、悠一は慄然した。


 何て――(くら)い目をしているのだろう。


 目に光がない。


 そこからは何の感情も読み取れない――

 ――いや、違う。

 注意深く見なければ分からないが――目の奥底で、静かに炎が揺らめいているのが見て取れる。

 青く揺らめく、憤怒の炎。

 これほどまでに絶体絶命の状況に追い遣られながらも、入江はまだ、報復を諦めてはいない。新城を、『グループ』を、許してはいないのだ。

 新城は入江にさらに近付き、ポケットから赤縁の眼鏡を取り出し、それを入江にかけさせ、そして、耳元で囁く。

「君一人で、本気で我々に勝てると思ったのかい?」

 びちゃ、と、不可解な音が室内に響く。

 入江が、新城に唾を吐きかけたのだ。

 数瞬を待たず、入江の頬が織田にはたかれる。

「オメェよぉ、自分の立場、分かってンのか? あんまふざけたことばっかしてると、マジで痛い思いすンぞ。あぁ?」

 織田がすごむ。

 だが入江には通じない。

 ただ、小馬鹿にしたように、口角の端を吊り上げるだけ。

 挑発的な態度だ。

 これは――自分の知っている入江明弘ではない。

 悠一が知っている入江は、いつでも温厚で、知的で、落ち着いていて――少なくとも、こんな風に悪態をつく人間ではなかった筈だ。

 先程までとは別種の混乱に襲われる悠一を置き去りにして、尚も話は進んでいく。

「……さあ、説明は済ませたよ。小鳥遊君、彼に聞きたいことがあるのだろう? 目と口の自由は与えた。好きなだけ質問をぶつけたらいいだろう」

 入江に吐きかけられた唾を白いハンカチで拭いながら、何事もなかったかのように、進行役に徹する新城。否応なしに、悠一の番になってしまう。

 そりゃ、聞きたいことは山ほどある。

 何故、悠一を利用したりしたのか。

『グループ』に対する恨みとは何なのか?

 そもそも、新城の語ったことは、全て事実なのか。

「入江――」

 疑問と困惑、怒りと悲しみが同時に噴出し、錯綜し――


「――何で?」


 結局は、そんな短い言葉に、全てが集約されてしまう。

「……お前は、ホントに馬鹿だな。少しは自分で考えたらどうなの?」

 入江はほとんど初めて悠一に視線を寄越し、嘲るように、見下すように、顔を歪める。入江が、こんな顔をするなんて。それも、悠一相手に。

「話は全部聞かせてもらったよ? まさか、馬鹿なお前がほぼ自力で核心に至るとは思ってもいなかった。正直、見直した。だけど、やっぱ小鳥遊は小鳥遊だね。どんなに頑張っても、馬鹿は馬鹿。馬鹿はリセットされても治らない、とでも言うのかな? いつまで経っても他力本願で、肝心な時に自分の頭を使おうとしない。だから、お前は駄目なんだよ」

 両手両足を拘束されたまま、入江は最上段から悠一を否定する。

 瞬間、頭に血が上った。

「俺だって、考えたよッ! 新城さんにお前が黒幕だって言われて、色んなこと教えられて――それで、必死に考えたッ! 何でこんなことすンのか、それも、俺を利用してまで――お前が何をしたかったのか、何を求めていたのか――考えたけど、どうしても分からなくて、だからやっぱりお前が黒幕なんて嘘じゃないかって、そう考えた。だけど、お前はここにいるし――それより何より、お前の態度を見たら、嗚呼本当だったんだって、認めざるを得なくて――」

「悪いんだけどさ、考えをまとめてから喋ってもらえる? 見切り発車で喋り始めて、訳分かんなくなってるじゃん。お前の、そういう気持ちが先走ってる感じ――すっげえ、イライラする。今まで言ったことなかったかもだけど、僕、馬鹿って嫌いなんだよね。馬鹿と話すと馬鹿になる。マジ、時間の無駄。時間泥棒は磔刑にされるべきだって思わない?」

「――――ッ」

 頭が、クラクラする。

 何でここまで。

 ここまで、罵倒されなければいけない?

 罵倒したいのは、こっちだと言うのに。裏切られてショックを受けて、悔しくて悲しくて、その全てを抑えて入江と対峙していると言うのに、この言われよう。自分で自分が不憫になってくる。

「俺は、お前を親友だと思ってたのに……」

「小鳥遊、さあ……お願いだから、『親友』だの『友達』だの、そういうさっぶいこと、言わないでもらえるかなあ? 聞いてるこっちが恥ずかしいって。そっちはどうだか知らないけど、僕は、一度だってお前を『親友』だとか思ったことはないんだからさ」

「――――」


 刹那。


 悠一の心が――折れた。


「でも、だって……何で……」

「ずっとお前らの相手をしていたか? それを聞きたいの? んなの、理由なんてないよ。学校の連中なんて、どいつもこいつも馬鹿ばっかで大差ないし――だったら誰と付き合っても同じでしょう? 孤高を気取るほど厨二病でもないし? 一人だと何かと不都合があるしさ。いわゆる一つの処世術ってやつだよ。別に、誰でもよかったんだよ。温厚な紳士を演じてれば僕の株も上がるし、行動もしやすくなるでしょう? ま、僕にしてみれば、何もかもがどうでもいいことだったんだけどね。織遠なんて二流私立、滑り止めで受けただけだったし、元々、リアル世界になんて、大した執着もなかったし。どうでもいいから、どうでもいい相手と付き合ってただけ。分かった?」

「…………」

 返す言葉が見つからない。

 入江が何を言っているのか、分からない。

 また、呼吸が浅くなる。

 地面が床打っているような感覚に襲われる。

 頭が痛い。

 吐きそうだ。

「じゃあ、美那が二股かけられてるって知った時、なんで、あんな風に慰めたりなんか……」

「は? ああ、そんなこともあったね。お前も理解力の低い奴だな。だから、どうでもいいから、そうしたんだっつの。知らないよ。リア充どもの痴話喧嘩なんて。だけど、ああして優しい言葉かけとけば、僕の好感度が上がるでしょう? 信頼を上げといて損はないからね。信頼度が高ければ、それだけ僕の言葉は力を持つ。どっかの誰かさんみたいに、人の言うことを疑いもせず、ホイホイ引っ掛かるような馬鹿も出てくる。面倒くさいけど、やらない訳にはいかなかったんだよ。

 お前がリセットされるまではうまくいったんだけどなぁ……お前、あとちょっとのところでリセットされちゃうんだもんなぁ。こっちの身にもなってよ。また一からやり直しだ。同じようにやればうまくいくかと思いきや――また、『グループ』が邪魔する。人の手駒を横取りするような真似してさ。マジありえないよ。どっかの馬鹿は、いくら人が忠告しても流されて騙されて、どんどん向こうに惹かれていくし。これじゃ駄目だと思ったよ。だから僕自らが行動を開始したってのに――その結果が、これだよ。最悪。笑わせるよねー」

 ヘラヘラ笑いながら、新城の話を裏打ちする入江。

 まるで、ブラウン管越しに見ているかのようだ。

 地上デジタルにほぼ移行した今となっては、ブラウン管のテレビなんて希少な存在になってしまったのだけど――その、かつての荒い画像を見ているような錯覚を覚えてしまう。

 これは、何だ?

 この男は、本当に入江明弘なのか?

 これは、現実なのか?

 もう、何も分からない。

 分からない。

 分からない。

 何も――信じられない。

 悠一は、完璧に言葉を失った。


「お取り込み中のところ、申し訳ないのだけれど――」

 誰だ。

 誰が喋っている。

「そろそろ、本題に入ってもらってもいいかな」

 新城だった。

 心が折れた悠一と、何故か余裕の入江の間にゆっくりと割って入ってくるのが、視界に入る。

 ゆっくりと顔を上げると、ちょうど、新城が入江の顔を覗き込んでいるいるところだった。

「小鳥遊君はしばらく使い物にならなそうだから、僭越ながら私が代理を務めさせてもらうよ。残念ながら、我々は君たちの友情云々に興味などないのでね。私が知りたいのは、何故君がこんなことをしでかしたのか――その一点だけだ」

 そうだ。

 そもそもは、それを聞くために入江を登場させたのである。入江の悪態に半ば忘れかけていたが――悠一だって、それを知りたい。重い頭を持ち上げ、悠一は再び椅子に繋がれた入江を注視する。

「は? そこから? なに、僕はそこから説明しなきゃならないの? 面倒くさいから、アンタらからそこの馬鹿に説明してやってよ」

「いや、そうしたいのは山々なんだけどね、我々にも分からないのだよ。君の真意が知りたいのは、我々も一緒なんだ」

「……マジで? え、本当に? これ、どんな冗談? ここ、笑うトコ?」

 ここぞとばかりに挑発的な態度をとりまくる。……だけど、不思議とその悪態にも慣れてきた。悠一の興味は、その先――入江の真意に向いている。

「残念ながら、マジなんだ。だから、教えてくれないか」

「いやぁ、大変聡明で優秀でいらっしゃるアナタ方のことだから、当然、そのくらいのことはとっくの昔に見当ついていらっしゃるのかと思ってたん――」

 入江は最後まで言わせてもらえなかった。

 脇に控えた織田が、無駄のない動きで掌底を突き出し、入江の鼻をへし折ったからである。

 くぐもった音がして、鼻が九十度横を向く。

 時間差を置いて異常な量の鼻血が噴出する。入江は手足を拘束されているため、瞬く間に顔の下半分が、胸が、腹が、血で彩られていく。

「てめぇ、くだらねぇことばっかペラペラ喋ってンじゃねーぞ? 新城と違って、オレは気が短ェんだよ。さっさと話せやッ!」

「やめたまえ、織田君。君の出番はまだ早い。この時点から壊してしまったんじゃ、聞ける話も聞けなくなってしまう」

 目前の暴力を目にしても、新城は眉一つ動かさず、淡々と織田を諫めている。

「だけどよ……」

「いいから。早く止血して、あと水でも飲ませてあげなさい。このままじゃ血を飲んで、話しづらいだろう。私は話し合いをしているんだ。横から無粋な暴力を挟まないでくれ。あと、麦原君は早くその裁ちバサミを仕舞いなさい。気になって集中ができない」

 言われて始めて気が付いた。

 今まで無言、無表情でいた司が、音もなく得物を取り出していることに、今、気付いた。

 鈍色に光る裁ちバサミ。

 司は、そのハサミで入江をどうするつもりだったのだろう?

 問答無用で喉をかっ切るつもりだったのか。通常の彼女ならば寸止めで威嚇する程度なのだが――なにせ、相手は全ての黒幕と目されている、入江なのだ。悠一を使って並木を二度リセットさせた、いわば怨敵である。織田が手を出していなければ、そして新城が諫めていなければ、この女は何の躊躇もなく、入江を殺めていたかもしれない。

 その後の数分間は、入江の鼻にティッシュを詰めて止血し、ペットボトルの水を飲ませることに費やされた。なんだかんだ言いながら、織田は新城の指示には忠実なのだ。横で見ていただけの司とは大違いだ。

 とにかく、仕切り直し。

 入江に負けないヘラヘラ笑いを顔に貼り付かせて、新城が口を開く。

「申し訳ないねぇ。粗暴な連中ばかりで――」

「……ホントだよ。マジ痛ェ……。いきなり、鼻の骨折るかな……。これなら、まだヤの字の方がマシなんじゃないの?」

「いやいや、悪かったよ。この通りだ」

 慇懃に頭を下げてみせる新城。そこまでしなくても。

「見ての通り、ウチの部下は頭に血が上ると口より先に手が出る連中なんだ。そうなると、もう私でも止められない。分かるね? 露骨な嫌味や当て擦り、挑発、憎まれ口は――君の躰の破壊と直結している。口の利き方には、気をつけることだ」

 さらりと恐ろしいことを言っている。

「君は、私の尋ねたことだけに正直に答えればいいんだよ」

「……分かった」

「じゃあ、もう一度聞こう。君は、何故、あんな真似をしたんだ?」

「何でって……そんなの、邪魔だったからに決まってるじゃん」

 邪魔――だった?

 何だそれは。

 まるで意味が分からない。

「……ふん。邪魔だった――つまり、我々の存在が目障りだった、という意味かな?」

「そのまんま言い換えただけじゃん。アンタ、知的ぶってる割にアホな返しするよね」

「――織田君」

 新城の呼びかけに、傍らで控えていた織田がゆらりと動く。

「あぁ、嘘だって! 冗談! 冗談だから! 人の言うことにいちいち目くじら立てないでくれる!? 怖いから!」

「口の利き方に気を付けろと、忠告した筈だが?」

「分かったって。アンタらが恐ろしいことは、よく分かったよ。素直に話すから、取り敢えず拷問はやめてよ。ね?」

「ならば、話を戻そう。我々が邪魔だった、というのはどういうことかな? 邪魔だった――と言うことはつまり、君には何らかの目的があったということかい?」

「目的ってか……僕はさ、このリピート世界で、遊びたかったんだよね」

「あそびたかった……?」

 と、これは悠一の台詞。

 相変わらず、悠一には入江の言っていることが何一つ理解できない。今、目の前でヘラヘラ笑いながら話しているこの少年は、本当に悠一の知る入江明弘なのだろうか。いや、同一人物なのだろうけど、彼の話す内容も全て真実なのだろうけど――どうも、違和感を覚えてしまう。

「遊び――か。ふん、なるほど。君は、この世界を遊戯場として利用しようとしていた訳だ」

「遊戯場て。人聞きが悪いなあ。……ま、そうなんだけどさ。だってそうでしょ? 滑り止めで入った高校はバカばっかりで退屈だし、ネットにも飽きた。とにかく退屈でしょうがない。……そんな時、不意にこの世界に迷い込んだ。何度も何度も同じ一日を繰り返す、巫山戯(ふざけ)た世界――フィクション作品ではお馴染みの設定だけど、いざ自分がそうなると、やっぱ違うんだよね。

 どう振る舞えばより楽しめるか――そればかり、考えちゃう。

 何をしても、何を壊しても、二十四時間で全てが元通り――こんな世界で、大人しくしてろって方が、無理な話でしょう? せっかくの人生なんだもん。楽しまなきゃ。退屈で仕方がないのなら、自分で楽しくすればいい。そうでしょう?

 実際、楽しかったよ。人を操るのなんて簡単だ。人は、簡単に信じる。『信頼』を勝ち取るのなんて、簡単なんだよ。相手を肯定して、自尊心をくすぐって、時々辛辣なこと言って誠意をアピールして、後は適当な情報を流して――それだけで、面白いほど釣られてくれる。マジちょろいよ。後はもう、ショータイムの始まりだよね。まともな人間が墜ちていくのを観察することほど、面白いことはないっての」

「なるほど。それが、君にとっての『遊び』だった訳だ」

「そ。別にいいじゃん。どうせ、一日経てば全てが戻る訳だしさ。大量無差別殺人とか無差別テロとか、マスゴミどもは適当なこと言うけどさ――そんなの、この世界では通用しないじゃん? 全てが自由なんだよ、ここでは」

「……聡明な君のことだから、次に私が何を言うのかも、予想しているのだろうね」

「次にアンタは、『自由をはき違えるな』と言う――違う?」

「ふん。まあ、だいたいそんなところだ。だが、君は大きな思い違いをしている。リピートが起きても、全てが元に戻る訳ではない。我々のようなリピーターが多く存在している以上、全てが元通り、という訳にはいかないのだよ。リアル世界にリセットボタンなど存在しないんだ」

 それは、新城が以前から再三言っていたことだ。

 リピートとリセットは、イコールではない。

「言うと思ったよ。あれでしょ? ゲームばっかやってて、現実とゲームの区別がつかなくなってるっていう、ありがちな妄言でしょう? 馬鹿にしてるよね。いくらゲーオタでも、リアルとゲームの区別くらいつくっての」

「そうかな。私の目には、とてもそのようには見えないのだけど」

「そう見えなかろうと思えなかろうと、そうなんだって。

 ってか、そんなのどうでもよくない? 僕の考えがどうだとか、動機がどうだとか、そんなの下らないよ。

 不可解な事件が起こる。加害者の氏素性を晒して、過去を調べあげて、訳知り顔で『動機』を語ることに何の意味があるの? 心の闇を照らしても、虚しいだけでしょう? ナンセンスだよ。

 結局、納得したいだけなんだよね。それなりに合理的な理由を拵えて、加害者に何らかのレッテルを貼って、それで安心したいだけなんだよ。別に、それで満足できるのなら、それはそれで構わないけどさぁ……これだけは、断言できるよ」

 手足を拘束されて、あまつさえ鼻まで折られているというのに、入江は驚くほど饒舌だ。語るだけ語った後で、入江は不意に間を置く。じぃっと新城を睨みつけた後で――彼は、告げる。


「アンタには、僕の気持ちなんて分からないよ」


 直前までのヘラヘラ顔など微塵も見せないで、射竦めるような視線を新城に向ける入江。

 その目の奥には――やはり、あの青い炎が揺らめいている。

「……そうかい。まあ、分からないなら分からないなりに、勝手に推測して勝手に決めつけるだけの話だ。残念ながら、我々は今までそうやってきた。話し合いで埒があかないのなら、否応にもそうせざるを得ない。君の言う通り、我々も納得したいし、安心したいのでね。ここにいる小鳥遊君などは特にそうだ。そもそも、彼を納得させるために君という男に登場して頂いたのだからね」

「好きにしたらいいんじゃない?」

 入江の言葉はどこまでも軽い。先程から、こちらに目線すら合わせてくれない。己の存在が軽んじられているようで、ひどく惨めな気持ちになる。

「では、好きにさせてもらおう。違うなら違うと訂正してくれ。

 君、入江明弘は、ただ単純に――遊びたかった。楽しみたかった。ただ、それだけだった。しかし、現実はあまりにも退屈だ。周囲の人間は揃って愚鈍揃いで、どうしようもない。……ならば、自分で愉快にすればいい。どのような状況が自分にとって最も愉快か、君はじっくりと考えた。そして、至ってしまった。混沌を、狂乱を友にすればいい――と、そんな結論に、君は至ってしまった。だが、なかなか思い通りにはいかない。君が無能だったからではない。我々が、その邪魔をしたからだ。我々は、この世界の秩序を保つために行動している。君は混沌(カオス)を良しとするが、我々はそれを許さない。これではいつまで経っても(いたち)ごっこだ。そこで君は、『グループ』の壊滅を思いついた。幸い、君の友人である小鳥遊悠一は頻繁にウチのメンバーと接触している。小鳥遊君を経由して、滝君とも面識がある。ネット上で、並木君とも接触済みだ。そこで君は一計を案じた。信頼関係を築き上げたうえで偽の情報を流し――潰し合いするように仕向けたんだ。君の目論見はほぼ成功した。四人を別々に操作することで、その内二人をリセットさせたのだ。そして後に残ったのは、恨みと憎しみだけ。恐ろしいのは、それがまだ下準備だったということだ。君は小鳥遊君に希望を与え、希望を奪い、言葉巧みに言いくるめて、一人の殺人鬼として仕立て上げた。『グループ』壊滅がメインの目的だったのは言うまでもないが、それ以上に、君は混沌(カオス)狂乱(パニツク)を演出したかったのだろう。我々はただ翻弄されるばかりで、常に後手に回ってばかりだった。君の計画は、全てが順調だった。小鳥遊君がリセットされるまでは――だけどね。

 彼がリセットされたのは想定外だったのかな。それでも、君は懲りずに小鳥遊君を手駒にしようとしていたようだが――さすがに、それは我々が許さない。我々は小鳥遊君を君の手駒とされぬよう、積極的にアプローチを行った。我々は常に君の数手先を行っていた筈だ。攻守交代と言う訳だね。君は焦った筈だ。『グループ』を信用するな、奴らは危険だ、残虐な行為を躊躇なく行う非道な連中なのだと、何度も繰り返し、口を酸っぱくして忠告したのだろう。だが、ご存じの通り、小鳥遊悠一は、流されやすく騙されやすい性質を持っている。良く言えばお人好しなんだね。だからこそ、君も容易に自分の手駒に出来た訳だが――君に出来るのならば、我々にだってできる。それに、君は個人だが、我々は『グループ』だ。

『魔術師』が口を、『節制』が目と耳を、『戦車』と『正義』が両腕を、そして『法王』が頭脳を担当した――少数精鋭の、最高の『グループ』なのだよ」


 そんな我々に、君が勝てる訳がないだろう?

 

 再び入江に顔を近付け、僅かに口角を上げて新城は悠然と言い放つ。対する入江は、唾を吐きかけるでもなく、ヘラヘラ顔で憎まれ口を叩くでもなく――例の、静かに滾る炎を宿らせた瞳を、その憤怒の双眸を、口を真一文字に結んで、新城に投げかけている。

「様々な人物と出逢い、様々な言葉を聞き、様々なイベントを経て、小鳥遊君は確実に『グループ』に心を許しかけていた。だが、それと同時に――君のことも、また、確実に信用していたのだよ。彼は、どちらの言葉を信じるかで、迷い、揺れ動いていた。君の言葉を信用するなら、『グループ』のことは切らねばならない。『グループ』に傾くのなら、君を疑わねばならない。本当のことは知りたい。だが『親友』の言葉は疑いたくない。知っているかい? 彼は、そうした二律背反(ダブルバインド)に、ずっと悩んでいたのだよ?」

「…………」

 無言を貫く入江。

 悠一も、言葉を失っている。

 まさか、そこまで見透かされていただなんて。

 結局、全ては新城の掌の上だった、ということだろうか。

「分かっているのか? 彼は、ずっと君を信じていたのだ。『親友』である君を疑う――小鳥遊君のような人間は、それ自体を罪だと感じてしまうものなんだよ。今の今まで、彼はそのことに罪悪感を抱き続けていた。いや、今の、この瞬間だって――。

 そんな彼を、君は、切ったんだ。

 小鳥遊悠一はもう使えない、利用できないと判断して――何の躊躇いもなく、君は彼を裏切った。全ては、『グループ』を潰すため、か? ならば、その『グループ』を潰す目的は何だったんだい? 君自身の、遊びのため、快楽のためだろう? どこまでも、幼稚で自己中人的な動機だ。そんなもののために、君は多くの人間を傷つけた。この世界に、混沌をもたらした。確かに、この世界は小さなものなんだろう。五月十三日の二十四時間、現実の行動範囲は半径数十キロに留まっている。そんな小さな範囲の秩序を守ろうとしている我々も、その小さな範囲で右往左往している小鳥遊君も、ひどく小さな存在と言える。

 だが――一番小さいのは、そんな世界で小器用に暗躍したつもりになって、得意になっている君自身なのだよ? 

 頭でっかちの子供が調子に乗っていい気になって――いい加減にした方がいい。君に残された自由は、己の罪を悔いることだけだ。それ以外のことは、私が許さない」

 糸目の狐顔のまま、新城は淡々と入江を追及する。

 怒っている。

 この男は、ひどく怒っている。

 嗚呼、そうか。

 新城は――『法王』は――とっくに、反転(リバース)していたのだ。

 先程の激昂はあくまで演技だったのだけど、今回は、そうではない。人は本気で怒ると表情をなくすものなのだ。

 そう、まさに今の新城のように。

 最初から、彼は悠一などどうでもいいと思っていたのだ。真に追及すべきは、その後ろにいた。

『月』――入江明弘こそが、真の狙いだったのだ。

 だが、当の入江は、どれだけ新城に追及されようと、眉一つ動かさない。

 諦めた訳ではない。

 馬鹿にしている訳でもない。

 ただ、その目の奥に『敵意』という名の炎を滾らせ、一心に新城を睨み続けている。

「――違うのなら訂正してくれ、と言った筈だが?」

 無言の入江に対し、新城は尚も、涼しい顔で強い言葉を吐く。

「……別に。何も訂正することなんてないし。アンタがそう言うからには、そうなんじゃない?」

 突き放すような、ふて腐れたような、その文言。言葉だけを聞けばそのまま解釈してしまいそうになるが、入江の表情がそれを否定する。奴は、相変わらず新城を睨み続けていたのだ。

「ふん。なるほど。君は、自らの『罪』を認めるのだね?」

「だから、そうだって言ってるし」

「ならば――我々が『罰』を与えることにも異論はないね?」

「……好きにすれば?」

 そこで始めて、入江は新城から視線を逸らす。


「ちょっと待って」


 遙か後方から声をかけられて、悠一は僅かに飛び上がる。今の今まで、まるで気にかけていなかっただけに、その驚きは倍増だ。

「おれから、一つ質問があるんだけど」

 振り返ると、そこには、並木と美智代が並んで立っていた。

「おや、もう戻っていたのか。声くらいかけてくれたっていいのに」

「お取り込み中のようなので、自重させて頂きました」

 並木の横、例の秘書然とした声で美智代が答える。

「ふうん。ちなみに、どのタイミングで戻ってきたのかな?」

「新城さんが鬼のような形相で小鳥遊クンに喰ってかかっているところ辺り、でしょうか」

「なるほど。確かに『取り込み中』だねえ。と言うことは、この入江君との遣り取りは、全て聞いていた訳だ」

「ええ」

 無表情で答える美智代。一切の嘘、演技、虚飾を放棄した、素の表情だ。

「並木君は、筒井君から全て聞いたんだね」

「……ええ」

 と、これに答えたのは並木である。若干、青ざめているような気がする。それはそうだろう。

 並木もまた、ヒトゴロシだったのだ。

 彼が滝なゆたを殺害したことにより、全ての惨劇が始まったとも言える。そんな『過去』を突き付けられて、平気でいられるなら――それは人間ではない。

 大量殺人鬼だったらしい悠一にしてみれば、それすら些細なことに思えてしまうのだが――それは多分、比較対象が悪すぎる。


「ん? それで、何かな? 何か質問があるみたいなこと言っていたが」

「…………」

 話を戻す新城。入江は無言のままだ。かつて頻繁にメールを遣り取りし、種々雑多な情報で人心掌握したその相手が目の前に立っているというのに、挨拶の一つもない。もっとも、それは並木の方も同様なのだけれど。


「――なんで、小鳥遊なの?」


「と、言うと?」

 言葉が足りない並木の質問に、新城がフォローを入れる。

「だから――なんで、手駒にしたのが、小鳥遊だったの? お前ら、親友同士だったんでしょう? おれは友達いないから、そういうのよく分からないんだけど――そんな、遊びを邪魔されたから、その報復のために『グループ』を潰すって、そんな目的のために、簡単に親友を利用できるものなの? 小鳥遊に、何か恨みでもあったの?」

 低く、乾いた声音で質問を重ねる並木。

 ぐぅぅ――と、胸が締め付けられていく気がする。

 それは。

 その問いは。

 ずっと気になっていたけど――恐ろしくて、今まで聞けなかった。

 入江が何と答えるか、ぼんやりと予想できるだけに――今まで、敢えて聞かないでいたのに。

 それを、並木はあっさりと口にしてしまった。

 嗚呼。

 やめてくれ。

 やめてくれ。

 それは多分、禁断の扉なのだ。パンドラの箱なのだ。決して――触れてはいけないモノなのだ。

 だけど、入江はいとも簡単に、口を開いて。

「……は? 別に、理由なんてないし。てか、僕は小鳥遊のことなんて、親友とも何とも思ってないし。コイツ、馬鹿でしょ? 簡単に利用できそうだったから、利用しただけ。何か問題ある?」

「――――ッ」

 刹那、呼吸が止まる。

 やはり。

 やっぱり。

 そうなのだ。

 入江にとって自分は、どこまで行ってもただの手駒でしかなかったのだ。『親友の裏切り』などではなかったのだ。最初から、奴の目には利用価値のある人間、としか映っていなかったのだ。

 きっと、入江にとって、全ての人間はそうなのだろう。利用できるかできないか、損か得か、邪魔か、そうでないか――ひどく単純な算盤(そろばん)勘定によって、人間関係を構築しているのだ。奴は、そういう男なのだ。それを、勝手に勘違いして、情を移して信頼して――

 嗚呼。

 嗚呼。

 やはり、自分は――『愚者』なのだ。


「……問題は、あるでしょ。小鳥遊は、お前のことを親友と思ってたんじゃないの? さっき新城さんも言ってたけど、コイツ、お前と『グループ』の間で板挟みにあって、すげぇ悩んでたみたいなんだけど――お前、その話聞いても、何も感じない訳?」

 鬱々となる悠一など気にもしないで、並木は尚も追及の手をやめない。

 やめて、ほしい。

 涙目になって並木に懇願しようとするのだけれど、喉が渇きすぎて言葉が出ない。躰が震えて、思うように行動できない。結局、悠一は眼球しか動かすことができず、並木の追及を許してしまう。

 当の並木は、言葉と共にツカツカと入江に歩み寄る。悠一の横を通り過ぎ、気が付いた時には入江に手が届きそうな距離にまで近付いている。入江の監視役である戦闘班は、微動だにしない。織田は事の成り行きを静観するかのように腕を組んでいるし――司はと言えば、気まずいのか、近付いてきた並木から顔を背けてしまっている。

「ねえ、おかしいでしょう? お前――人間として間違ってるよ。そう思わない?」

「は。思う訳ないじゃん。んなの、騙される方がバカなんだっての。そうでしょう? 『情報探索、情報操作が任務であるにも関わらず、メール相手の情報にホイホイ踊らされてしまった』並木慎次さん?」

「……今、おれの話なんてしてないでしょ。そうじゃなくて、なんでお前はそう簡単に、人を利用できるのかっていう――」

「なんで? そりゃ、簡単に利用されてくれる馬鹿がいるからじゃない? よかったよ、こんなこともあろうかと、今日まで友達ごっこ続けてて。今までの苦労が報われたって言うか――」

 ボクン、と――鈍い音と共に、入江の言葉が遮られる。赤縁の眼鏡が、乾いた音を立てて床を転がっていく。

 並木が、入江を殴りつけたのだ。

「……いったいなァ……」

 しばらくの間を置いて、殴られた入江が口を開く。

「喋ってる途中で殴んないでもらえるかなぁ? ……口の中、切ったんですケド」

 憎まれ口を叩きながら、入江は床に血を吐く。鼻の詰め物が取れてしまったのか、再び鼻血が垂れ流しになる。……何だか、血まみれだ。

「なら、歯を食いしばれ。親が見ても判断できないくらいに顔を変形させてやる」

 駄目だ。

 完璧に、キレてしまっている。

 この男、入江を殴殺するつもりだ。

 かつて、悠一が並木に対してそうしたように――。

「お前みたいな人間、生きてちゃいけないよ。

 ……いや、お前は、人間ですらない。

 怪物(モンスター)だ。

 生きている限り、リピートする限り、お前は同じことを繰り返す。その度に、多くの人間に傷をつける。小鳥遊や、あの滝なゆたって女や――それに、おれや麦原さんを――傷つける。お前みたいな人間が、生きてちゃあ……いけないんだ」

 低く冷たく乾いていた声音が一転、高く熱く湿ったそれに変わっている。臆病さ故、壁を作り殻を纏い仮面で覆っていた並木慎次の素を、ほとんど晒してしまっている。

「そういうご託とか、いいから。やるんなら早くやったら? どっちみち、僕は抵抗なんてできないんだからさ。無抵抗の人間をいい気になってフルボッコにしたらいいよ」

「――――ッ!」

 露骨に顔色を変える並木。大きく拳を振り上げる――が、その拳が振り下ろされることはなかった。振り上げた腕を、新城が掴んだからだ。

「やめたまえ」

「……離してください。おれは、コイツを――」

「落ち着きなさい。君は何だってそう暴走するんだ。話をこれ以上ややこしくしないでくれ。そんなだから、君は『塔』だと言われるんだ」

「……『トウ』?」

 怪訝な顔つきで、並木は新城を見上げる。どうやら、リピーターをタロットのアルカナに見立てるというプロセスを、美智代は並木に行わなかったらしい。それなのにいきなり『塔』呼ばわりされても、意味が分からないだろう。……まあ、それを抜きにしても、蔑称として『塔』呼ばわりされることなど、普通ないことなのだろうけれども。

『アクシデント』を象徴する『塔』と、

『無鉄砲』を象徴する『愚者』。

 ――やはり、二人は似た者同士らしい。

 嬉しくはないが。


「でも、だったら、新城さんは、コイツをこのまま放っておくつもりなんですか!? コイツは、『グループ』の敵で、小鳥遊の敵で――『世界』の、敵になる人間ですよ!?」

「だから、そう先走るなよ。誰も彼を無罪放免にするなんて言ってないだろうが。罰は、ちゃんと与えるよ。だけど、それは君の仕事ではない。君が手を汚すことはない。そういった汚れ仕事は――全て、織田君が引き受けることになっている」

「なっているらしい、な」

 新城に名指しされた織田が、ぬっと前に出る。無表情で丸腰、態度もフラットなのに――威圧感を覚えるのは、何故だろう。

「こういうことは、全て織田君がやってくれる。そのために、彼はいるんだ」

 二度と同じ事を繰り返さぬために、躰を破壊して恐怖を植え付ける。

 不都合な未来を回避するために、毎周毎周、一人の女性を殺害し続ける。

 この二つの仕事をしてのけたのが、織田と言う男だ。

 奴は何の感情も交えず、人を壊し、人を殺めることができる。

 職務として。

 任務として。

 兵隊のように、暗殺者のように――そういうことが、できる男なのだ。

「白石純と――同じ目に遭わせる、ってことですか?」

 若干色を取り戻した並木が、今度は幾分訝しげに新城に尋ねる。

「そういうことだね。放っておいたら、彼は必ず同じことを繰り返す。我々が存在し続ける限り、手を変え品を変え、また似たような混沌(カオス)をもたらすに違いない。我々は、それを許さない。

 かと言って、今ここで彼を殺めてリセットさせても、うまくいかない。リセットされて失うのは、あくまでリピート期間の記憶だけだ。それ以前――五月十二日までの記憶は保持される。勿論、人格もそのままだ。時間稼ぎくらいにはなるだろうけど、根本的な解決にはならない。彼は必ず、同じことを繰り返すだろう。

 ならば、我々はどうすべきか。

 簡単だ。二度と同じことを繰り返さぬよう――二度と馬鹿な考えを起こさないように――その脳に、刻み込めばいい。『恐怖』という名の檻に、閉じ込めてしまえばいいんだ」

 かつて、白石純にしたように。

 あの、非人道的な行為を、また繰り返そうと言うのか。

 先程、白石純に行ったそれは、間違いだったと言っていたのに。

 力で押さえつけても、いつかは破綻する――そんな選択をしてしまったのは自分のミスだと、沈痛な表情で反省していた筈だったのに……。

 記憶と感情が錯綜し、悠一は放つべき言葉を失ってしまう。そして、悠一が何かを言うより前に、口を開いた人物がいた。他でもない、入江自身だ。

「……無抵抗の相手をボコボコにして、その時の恐怖で行動縛って――それが、アンタらのやり方って訳? まるでスターリンだね」

「あんな独裁者と一緒にされては困るよ。これは苦渋の決断なんだ。今ここで君を諭したところで、君はそんなものに耳を傾けやしないだろう? ならば――力尽くで、言うことを聞かせるしかない」

「……そういうのは、やめたんじゃなかったの?」

 軽蔑するように目を眇めて、入江は乾いた口調で台詞を吐く。

「うん?」

「アンタらの話、全部聞こえてた。恐怖で縛ったって、力尽くで押さえ込んでも駄目なんだって――アンタ、そう反省したって言ってたけど」

「ああ、あれは――嘘だ」

「…………」

 全く悪びれもせず、新城はとんでもないことを言い出す。

「あの時は、小鳥遊君をこちらに引き込まなければならなかったからね。思わず、心にもないことを口走ってしまった。本心は、今でも変わらないさ。やはり、同じことを繰り返さないためには、恐怖で、力で押さえつけるのが一番だね」

「…………」

 入江は、もう何も言わない。

 ただ、相変わらずの強い視線を新城に浴びせるだけ。もっとも、その双眸に先程までの攻撃性は感じられない。今あるのは、恐怖政治を肯定する新城に対する、圧倒的な軽蔑――だろうか。

 正直、入江が何を考えているか、まるで分からなくなっている。

 享楽的で打算的な発言を繰り返す一方で、非道な新城を非難するような表情を見せる――かつて親友だと思っていた人間の中身が、今では何も見えない。

 何も、分からない。

 嗚呼。

 コイツは――本当に、悠一の知っている入江明弘なのだろうか?

「さあ、お喋りはこれくらいでいいだろう。織田君、準備を始めてくれ」

「うーい」

 緊張感のない台詞を発しながら、織田は部屋の隅に置いてあった段ボールを物色し始める。箱から取り出されるのは、ナイフ、包丁、ペンチ、ニッパー、メス、鍋とガスコンロ、サラダ油、刺繍針に五寸釘――次から次へと出てくる。物騒な四次元ポケットだ。きっと、これらの道具で、入江を壊すのだろう。入江を捕獲したところで、『武器屋』からレンタルしたのだろうか。

「ムギ、ハサミ貸してくれ」

「……あまり、汚してもらいたくないんですけど」

「心配すんな。どれだけ汚れたって、リピートが起これば元通り、だろ?」

 軽い口調で恐ろしいことを言っている。感覚が麻痺してるのか――或いは、元々そういう風にできているのか。

 目の前で展開される光景を、悠一はどこか遠い世界の出来事のように眺めていた。

「――で、小鳥遊君は、どうするんだね?」

「……え? あ、え、俺ですか?」

 だから、急に話を振られて、必要以上に狼狽してしまう。

「どうする、って……?」

「だから、これから小鳥遊君はどうするかと、聞いている。しっかりしてくれよ。このまま帰るか、親友の顛末を見届けるか――それとも――こんなことを止めるように、我々を説得でもするかい?」

 ――説得。

 このまま悠一が何もしなければ、入江は間違いなく織田の手によって壊されてしまうだろう。

 そんな未来は、嫌だ。

 嫌に決まっている。

 だけど――何故か、新城に言われるまで、悠一はその選択肢を失念していた。いつもの自分ならば、相手に促されるまでもなく止めに入っていただろうに……。

 自分の心に、違和感を感じる。

 よくない兆候だ。

 悠一はそれを認めたくなくて――見切り発車的に、口を開いた。

「説得したら、止めてくれるんですか?」

 何て意味のない質問なのだろう。相手の回答など分かり切っている。案の定、新城の答えは悠一の予想通りのモノだった。

「どうだろうねえ。それは君の努力次第じゃないかな?」

「…………」

 それはそうだろう。返す言葉もない。

「どうした? 何も言わないようなら、織田君はすぐにでも作業に入ってしまうが? 一旦それが始まってしまったら――君は、二度と親友に会えなくなってしまうかもしれないよ? それでもいいのかい?」

 胸の奥底が、ドクン――と、音を立てた。

 耳の奥が熱い。

 心臓が血液を流し出す音が、はっきりと聞こえる。

「……じゃない」

 悠一の台詞は、胸を圧迫する血流音でかき消されてしまう。

「うん?」


「親友……なんかじゃないから……」 

 

 気が付いた時には、遅かった。

 すでに悠一は決定的な台詞を言ってしまっていた。

「それは入江君の意見だろう? 君も、そうなのか? 入江明弘は親友などではない。だからどうなっても構わない、と――君は、そう思っているのか」

 嗚呼。

 入江。

 入江。

 入江。

 いつ如何なる時も温厚で理知的で、特にリピート期間に入ってからは悠一の心の支えになっていた――紛れもない、『親友』。

 だけど、そんなものは幻想だった。

 奴は、自分のことをただの手駒としか思っていなかった。

 今、目の前で手足を拘束されている男は――悠一の知っている入江明弘ではない。『退屈』という病に心身を蝕まれ、そんな状況を究極的に肯定して、その卓越した頭脳と話術を駆使して世界を混沌(カオス)に陥れた――ただの、怪物(モンスター)にすぎない。

 怪物(モンスター)ならば――討伐されるべきだ。

 悠一は、そう思う。

「…………」

 様々な感情と思考が瞬時に交差し――だけど、悠一はどれ一つとして掴み取ることもできず、言語化するのにも失敗して――己の想いを、考えを、新城に伝えることができなくなってしまう。

「なるほど。それが、君の答え、か」

 だけど、新城はそんな悠一の葛藤を読み取ったらしかった。無表情で、場の進行を続けていってしまう。

「結構。ならば――消えるといい。君とは、ここでお別れだ」

「……え?」

「聞こえなかったのか? 我々も忙しいのでね。とても君ばかりに構ってはいられないのだよ。入江明弘がどうでもいいと言うのなら、さっさとこの場から姿を消してくれ」

「でも……」

 そんな急に言われたって。

 第一――それならば、悠一自身の処遇はどうなると言うのだ? 『グループ』を半壊滅状態に陥れ、多くの街で不特定多数の人々を死傷させた自分が――このまま、解放されていいものなのだろうか?

「ああ、君に対する『罰』のことかい? それなら、心配することはない。君はただ利用されてただけなのだからね。君に対する『罰』は用意していないよ。

 君は、これにて解放だ。

 これからは、我々が君に干渉することもない。好きにするがいい」


 君は、自由だ。


 突然の解放宣言。

 この十周余り、『グループ』に行動を束縛され、この世界のルールを少しずつ着実に理解してきた悠一は――真実を知った途端、お役御免となってしまった。

 いきなり突き放されて――悠一は、ただ言葉を失う。

「ああ、勿論、自由とは言っても――おかしな真似はとらないようにね? 干渉することはないが、君は依然として我々の監視下に置かれている。おかしな行動をとったら、その時は――容赦なく、討伐させてもらうからね?」


 数十秒後、悠一は部屋の外に出されていた。

 茫然自失、とはこのことを言うのだろう。

 自由になった――とは、とても思えなかった。

 ただ、見限られただけだ。

 或いは、利用価値がなくなったので捨てられたのか――いずれにしても、同じことだが。

 入江は、混沌と狂乱を友とし、悠一を利用した。

『グループ』は、一連の首謀者である入江を炙り出し、捕獲するために、やはり悠一を利用した。

 双方にとって、自分という人間は終始一貫してただの手駒に過ぎなかったのである。

 結果、『グループ』は入江の捕獲に成功し、織田による人体破壊を経て、奴を無効化する。『刑死者』白石純と同じように、入江もまた、恐怖を脳に刻み込まれ、精神的な軟禁状態へと追い遣られるのだろう。そうして、この世界の秩序は保たれるのだろう。

 悠一には、関係のない話だ。

 利用し尽くされ、お役御免となった自分は、もはや手駒ですらない。ただの絞りカスだ。秩序も混沌も、興味などない。どうにでもなれ、と思う。


 廊下を渡り、非常階段を降りて、雑居ビルの入り口に到達する。ずいぶんと、足取りが重い。自然と顔が俯く。心が、硬化していく。

自分のつま先を見つめながら、躰の震えを感じる。目の前には、外の風景が広がっている。

 まだ、雨が降っている。

 随分と長い時間が経った気がするけど、まだ昼過ぎだったらしい。

 やまない雨などない、という言葉がある。

 馬鹿馬鹿しい。

 雨は――降り続いているじゃないか。

 確かに、あと数十分もすれば、雨は止むのだろう。だけどそれとて、リピートすれば元通りだ。また雨は降り始める。何度やっても、同じなのだ。何度でも何度でも。悲劇は、喜劇は、際限なく続いていく。精神が擦り切れ、何を感じなくなっても――世界は、終わらない。

 永遠に――無期限に――繰り返される。

 ならば、自分はどうするべきか。

 終わりのない今日という迷宮で、何をしていればいいのか。寝て暮らしても遊んで暮らしても、終わりなどない。何をやっても、必ず飽きは訪れる。

 孤独――そして退屈という病に、蝕まれる。

 かと言って、怪物(モンスター)になる訳にもいかない。『グループ』の目がある。下手な真似をすれば容赦なく討伐する、と――先程、釘を刺されたばかりなのだ。もっとも、そうでなくとも馬鹿な真似をするつもりなどさらさらないのだけど。

 第一、そんな気力もない。

 こんなことなら、真実など知らなければよかった。

 入江と『グループ』――対極に位置する二つの存在こそが、自分を導く道標だったのに。この世界がどんなに壊れていようが、入江がいれば、『グループ』の面々がいれば、生きていけると――そう、思っていたのに。

 全て、失ってしまった。

 入江明弘は、もう二度と自分の目の前に現れることはないだろう。『グループ』のメンバーも同様だ。かと言って、他の人間に会う気にもならない。『武器屋』に『教授』、烏丸・宮脇カップルに白石純――そして滝なゆた――会おうと思えば、誰にも会うことができる。だけどそれと同時に、誰とも会うことはできない。今の自分には、何をする気力も湧かない。

 何もしたくない。

 誰とも会いたくない。

 誰とも、会話したくない。

 

 ――帰ろう。


 帰るんだ。

 自分の家に、帰るんだ。

 そして、寝るんだ。

 寝て、寝て、寝て――そうやって、日々を過ごせばいい。

 動くのを、止めるんだ。

 考えるのを、止めるんだ。

 何もしないのが、一番なんだ。

 粗忽で軽率、流されて騙されてばかりの『愚者』には――

 それが、お似合いだ。

 ビルから足を踏み出す。

 濡れても構わない。

 もう、どうでもいい。

 悠一は自分のつま先だけを見つめながら、暗い明日を見据えながら、ただ、重い足を進めていく……。










「待て」

 呼び止める声がする。

 振り返るのも反応するのも億劫で、自然、無視する形となってしまう。

「待てって。小鳥遊」

 肩を掴まれた。凄い力で引き寄せられる。無気力の極みに達していた悠一は、力なくその場で一八〇度回転し、バランスを崩してたたらを踏んでしまう。

「お前、それでいいのか!?」

 緩慢な動作で、顔を上げる。

 そこには、鷲津が息を切らせて立っていた。

「わ、しづ、さん……」

「オイ、しっかりしろ!」

「…………」

 柄にもなく、焦っている。

 そんなに急いで追いかけてきて、今さら何の用があると言うのだろう。自分など、とっくに用なしの筈なのに。

 正直、放っておいてほしかった。

「お前の様子がおかしかったから、追ってきたんだよ。お前、変なこと考えてないよな!?」

 変なこと?


 ああ――自殺するとでも、思っていたのだろうか。


 そっち方面には考えが及ばなかったが――なるほど、悪くない選択肢だ。自ら死を選んで、自らリセットして、全てを忘れて――考えれば考えるほど、それは魅力的なアイデアに思えてくる。

 家に帰ったら、首でも吊ってみようか。

 それで楽になれるのなら、迷いなどない。

 だが、そのためには、今肩を掴んでいる鷲津の手を振り解かなくてはいけない。煙草臭い、節くれ立ったこの手が、果てしなく邪魔だ。

「……離して、くださいよ……。邪魔しないでください……」

 力なく、鷲津の手を振り払う。

「俺は……早く、楽になりたいんですよ……」

 刹那、頭が揺れる。

 気が付いたら、地面の水溜まりに頬を付けていた。突如として、世界が九〇度回転してしまったかのような錯覚。

 ……違う。移動したのは、自分の方だ。

 自分は、倒れているのだ。

 どうやら、悠一は鷲津に殴られたらしかった。

 まるで痛みを感じなかったのは、完璧に心を閉ざしていたせいだろうか。いや、それ以前に――何故鷲津が自分を殴ったのかとか――職人気質で調査以外のことに興味を示さなかった鷲津が、何故こんな派手な行動に出たのかとか、不思議に思う点は山ほどあるのだけど――今の悠一には、まるで考える気力が湧かなかった。

「……しっかりしろ」

 数十センチ頭上で、鷲津が新しいマルボロに火を点けている。雨はまだ降り続いているというのに、左手で器用に雨脚を避けている。

「何……する、んですか……」

「それはこっちの台詞だ。もう一回言うぞ? お前、それでいいのか!?」

 ゆるゆると躰を起こし、顔についた泥を手で拭う。何だか、何をするのも億劫だ。全てが面倒で仕方ない。

「だから……何が、ですか……?」

「間もなく、お前の親友は処刑される。新城も織田も、やると言ったらやる人間だ。織田は、お前が想像している以上の方法であの小僧の躰を破壊するだろう。だが、人間は自分で思ってる程、痛みに耐えられるようにできていない。あの坊主は必ず発狂する。『死』以上の苦痛を与え、脳をすり潰し、精神を殺す――織田がやろうとしているのは、そういうことだ。しかも、奴はそのことを何とも思っちゃいない。新城に命令されたから、任務だから、それだけの理由でそれだけのことができる男なんだよ、アイツは。それを止められるのは――お前しかいない」

 この探偵は、この期に及んで何を言っているのだろう。

 悠一に、入江を救えと言っているのか?

「……だって……アイツは、別に俺のことなんて、ただの手駒としか思ってない――」

「お前はどうなんだ!? 小鳥遊、お前は、あの小僧のことを本当の親友だと思ってたんじゃないのか!?」

「だから、俺がどう思おうが、アイツは俺のことなんて――」


「この馬鹿、心を閉ざすなッ!」

 

 胸倉を掴まれた。


 ――決して――心を閉ざさないで、ください。


 鷲津の言葉が、『教授』のそれとオーバーラップする。

 心の芯に熱した針を突き刺されたような気持ちになって、悠一はハッと顔を上げる。

 心を閉ざすな――『教授』からの助言。

『隠者』のアドバイスが、ここにきて生きてくるなんて。悠一は何だか信じられない気持ちで、思わず目の前の『節制』の顔を凝視してしまう。

「だけど――だって――アイツは、入江は、ただ遊び目的のためにこの世界をメチャクチャにしたくって、だけどそのためには『グループ』が邪魔で、だから俺を利用しただけなんじゃ――」

「馬鹿。額面通りに受け取ってどうするんだ。あの坊主は、嘘を吐いてるんだよ」

 また嘘、か。

 リピート期間に入ってから、右も左も猫も杓子も嘘ばかりだ。現実を、真実を直視するのは、これほどに難しいことだっただろうか……?

「それは、どういう……?」

 悠一の問いかけと前後して、盛大に煙を吐く鷲津。溜息を吐いたのかもしれない。

「……本当はこんなつもりじゃなかったんだが――まあ、いいだろう。大サービスだ。お前に、とっておきの情報を流してやる」

 サア――と、鷲津の背後で水流が垂直に落ちていく。ビルの雨どいが壊れているらしい。

「情報――て、まだ、入江に関して俺の知らないことがあるって言うんですか!?」

「俺は探偵だ。張り込んで尾行して、聞き込みを繰り返して、それで事実を調べあげるのが仕事だ。調査対象については、ほとんど知り尽くしていると言ってもいい。ただ、『情報』はあくまで『情報』だ。武器や道具と同様、それをどう使うかは、手にした人間に委ねられる。新城は気障で腹黒な男だが、頭は切れる。信用出来る人間だから、下についている。奴は情報を使うのが上手い。だからこそ、俺はこうやって――」

「そういうの、いいですから! 早く、その情報ってヤツを教えてくださいよっ! 早くしないと、入江が処刑されちゃうんでしょ!?」

 必死だった。

 入江明弘は、悪い人間ではない――。

 かつての悠一はそう頑なに信じて、結局、その想いは奴の言葉によって完膚無きまでに粉々にされて、それで絶望して、それで鬱状態になって――

 だけど、奴の言葉が全て嘘だったとしたら?

 悠一を突き放すために、敢えて挑発的、偽悪的な態度をとっていたのだとしたら?

 だとしたら――事情が変わってくる。

 ウジウジ悩んでいる場合じゃない。心を閉ざして、塞いでいる場合じゃない。

 今度こそ。

 今度こそ――本当の、本物の、真実を手にしなくては。

「お、いい反応だな。顔に生気が戻ってきた。いい流れだ」

「アンタまで勿体ぶンなよ! いいから、教えるなら早く教えてくれッ!」

「そうだったな。悪い。嬉しかったもんでな」

 素直に自分の非を認め、本題に入ろうとする鷲津。この辺りが、新城とは違うところだ。

 銜えていた煙草を左手に移し、鷲津は少し顔を近付ける。

「いいか。あの坊主はな――」

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