第四幕 第十章(中編)
【午前10時10分】
悠一は、彷徨していた。
自分は、これからどうすべきなのだろう――と。
分かり切っている。新城に、会いに行くのだ。会って話を聞いて、全ての真実を明らかにするのだ。そんなことは分かり切っている。
だけど、悠一には決心がついていない。
怖いのだ。
時を増すごとに、理解が増していく。今まで何てことなく聞き流していた様々なコトが、重要な意味を持って悠一の身の上にのしかかってくる。その全ては嫌らしいほどに整合性を持っていて、説得力があって――その一つ一つが、悠一を苛むのである。
ある程度までは、推測が可能だ。だけど、それ以上は――やはり、新城に話を聞かなければ分からない。分かる筈がない。だけど、完全受け身で聞き役に徹するというのも、違うと思う。
自分で気が付かなければ、自分で至らなければ、意味がない。
悠一は悠一で精一杯の考察をするべきだ。
そのために、今、悠一は並木と別れ、一人になって考えを整理している。足りない頭を巡らせ、記憶の底をまさぐり、重箱の隅をつつき、違和感を炙り出して、必死になって自分なりの仮説を組み立てているのだ。前々から考えていた甲斐あって、すでにある程度の結論は叩き出している。あと数十分で、並木と落ち合う約束になっている。そこで二人揃って新城に会いに行く段取りになっている。つまり、もうあまり時間がないのだ。幸い、考察整理はある程度終わっている。
問題は――精神面だ。
悠一は、ずっと真実を知りたがっていた。何故滝なゆたは殺され続けなければならなかったのか、『グループ』が動いている『理由』とは何なのか、それに――ああ、いや。
とにかく、悠一は純粋に本当のことを知りたかっただけなのだ。
それは多分、悠一が傍観者だったからなのだろう。滝なゆたの死も、『グループ』の暗躍も、そこに交錯する事情も思惑も、所詮、悠一にしてみれば巻き込まれただけの他人事にすぎない――と、思っていたのだ、今までは。
しかし、どうやらそうではないらしい。
悠一は、傍観者などではなく――当事者らしいのだ。
考察を続けるにあたり、悠一は、ようやくそのことに至ってしまったのだ。
ならば、新城の語る真実とは何なのか。
何を、悠一にもたらそうとしているのか。
そう考えると、自分には『覚悟』が足りないような気がする。真実がどうような形をしていて、自分はそれをどう受け止めるべきなのか――よく、分からない。迷っている。惑っている。
自分の心構えを決められないままに、悠一は街を当て所もなく歩き回り、足の向くまま彷徨して――この場に至る。
見たことのある建物だ。
見たことのある、どころではない。今でもはっきりと覚えている。たった二周前のことだ。その周は、織田や司に振り回されながら、様々なリピーターとの邂逅を続けていた、そんな周だった。夜明け前には『武器屋』と、早朝には鷲津と、それぞれ挨拶を済ませていた。次に訪れたのが――ここだ。
大宮駅前の、大型書店。
悠一は幾分懐かしい気持ちになりながら、自動ドアをくぐる。
目的の人物は、やはり人文書のコーナーにいて、何やら分厚いハードカバーを立ち読みしていた。
「おや、今回はおひとりですか?」
言葉の主――『教授』こと大磯孝志――は、悠一の存在を確認すると柔和な顔立ちをさらに崩し、ほぼ破顔したようになる。
「お久しぶりです」
「お久しぶりはないでしょう。織田君と一緒に来たのは、たった二周前の話です。リピーター時間で言えば、まだ五十時間も経っていない」
確かにそうだ。いや、分かってはいる。さっき自分でも同じことを思ったのだ。だけど――それでも――やはり、『教授』の顔を見ると懐かしいと感じてしまう。それはきっと、
「なるほど。この二周は、君にとってひどく密度の濃いモノだったのですねぇ」
「……分かりますか」
「ええ。先周の埼浜線で起きた殺人事件――あれ、織田君の仕業でしょう? 三人の若い男女が、現場から、それも警官隊を蹴散らしながら逃走した、と報道されていますが」
なるほど。竹崎宗也のあの一件は、世間では殺人事件として認識されていたらしい。それはそうだろう。竹崎は並木を負傷させただけで、実際には一人も殺めていない。むしろ、殺めたのは『グループ』の方だ。だけど、
「……惜しいですね。竹崎を殺したのは、織田さんではなく、麦原の方です」
「なるほど、そうでしたか」
興味があるのかないのか、その事実を聞いても『教授』はまるで揺るがない。
「――『教授』は、どこまで知っているんです?」
少し、唐突だったかもしれない。だけど聞かずにはいられなかった。『グループ』の知り得る真実と、悠一の考察した推測と、そこにどれだけの差異があるのか。この人の口から、それを聞いてみたかった。卑怯、なのかもしれない。それで構わない。自分は、きっと、この人の助言を求めて、ここに来たのだから。
「ある程度のことは、知っているつもりです。私自身は、書店・図書館と、家内のいる病院とを往復するだけなんですが、風の噂と言うか――まあ、織田君が暇つぶしに話してくださるものですから、興味のあるなし如何を問わず、大雑把な現状は把握できているつもりです」
織田という男、思った以上に口が軽いらしい。それとも、それだけこの『教授』に心を開いている、と判断するべきか……。少なくとも、以前織田が語ったような確執は、実際には存在しないらしい。あれは、その後の白石純事件を印象づけるための伏線だったのだろうか。軽薄を装いながら、どこまでも喰えない男である。
「君は――まだ、至ってないようですね」
「え……?」
他の事を考えていた悠一の胸に、『教授』の声が鋭く入り込む。どこまでも柔和で温かな声なのに――その言葉は、今の悠一には、ひどく、響く。
「先程申し上げた通り、君たちを取り巻く現状のことは、ある程度把握しています。今君がどうのような状況に置かれていて、『グループ』の方々がそのためにどれだけ動き回っているのかも、私は知っております。ですが、そのことを今ここでお話しする訳にはいかない。私などの口からお話しするのは、筋違いというものでしょう。君は、新城さんなり筒井さんなり、然るべき方からしっかりとその話を聞くべきです」
「そう……ですよね……」
当然の話だった。
悠一はカンニングを見咎められたような気持ちになって、思わず萎縮してしまう。
「君は、彼らの話を聞くべきです」
敢えて、なのだろう。悠一の様子が変化したことなど、当然気がついている筈なのに、『教授』はその語調を緩めない。別に詰問されている訳ではない。説教されている訳でもない。彼の言葉は、どこまでも柔らかく、きめ細かで温かい。しかし、反論を許さない程の強さをも兼ね備えている。悠一は、ただ、姿勢を正して彼の言葉を聞くしかできない。
「その話は、もしかしたら痛みを伴うものかもしれない。君は、その話を聞いたことを、後悔するかもしれない。
ですが、これだけは約束してください。
決して――心を閉ざさないで、ください」
「……どういう、ことですか?」
まるで意味が分からない。
信じろ、とか、後悔するな、ならまだ分かる。だけど、心を閉ざすな、と言うのでは――あまりにも、ぼんやりとしている。新城の話を聞いて、悠一が何に対して心を閉ざす、と言うのか?
「君を取り巻く、全てに対してです。君の聞く真実が例え苦痛だったとしても、それから逃げ出したくなったとしても――君は、それに対峙しなければいけない。『心を閉ざす』と言うのは、つまり、目を背け、耳を塞ぐということです。それでは、見るべきモノも見えなくなってしまう。それでは、何の意味もありません。君の前に提示される真実は、時に難解な形でその姿を現すかもしれない。君は、それを自らの手で掴み取らなければならない。受け身では、いけないのです。全てを受け入れながら、なおかつ、その奥にある真実さえも見据えなければならない」
「……えっと。あの……」
やはり、意味が分からない。
何か重要なことを言われているのは分かるのだけど、その助言はあまりにも象徴的で、悠一には高尚すぎて、正直、ついていけない。
困惑が顔に表れていたのだろう。『教授』は再び破顔して、幾分語調を弱める。
「……今は、分からなくてもいいです。ただ、『心を閉ざすな』という、この老いぼれの言葉だけは、覚えておいてください。いつか――きっと、君の役に立つ筈ですから」
なし崩し的に、『教授』との会話は打ち切られてしまった。もっと色々なことを聞いて、話したかったのだけれど――どうも、そういう空気ではない。
悠一は礼を言って『教授』と別れたのだった。
すでに、約束の時間はすぎていた。
並木と待ち合わせ場所で落ち合い、新城の待つ雑居ビルへと向かう。並木は並木で、すでに考えはまとめてあるらしい。悠一も、考察は固まっている。
気持ちも――ほぼ、固まった。
やはり、直前に『教授』と会ったのは正解だったようだ。『心を閉ざすな』という助言は、今ひとつよく分からなかったのだけれど――だけど、『教授』の言葉は、悠一に力を与えてくれた。とにかく、新城の話を聞くべきだ。『教授』は大筋のことを知っていて、その上で真実を知ることは苦痛を伴うかも、と表現した。『教授』が言うからには、きっとそうなのだろう。
だけど、悠一は逃げない。
悠一には、全てを知る義務がある。
全てを見て、聞いて、感じて、考えなければならないのだ。
もう、迷わない。
惑わない。
心を、閉ざさない。
前に進むしかないのだ。
悠一は、力強くその一歩を踏み出したのだった。
【午前11時15分】
「やあ、待ち侘びたよ」
闇の向こうに、男が座っている。
埃舞い立つ室内で、堂々と足を組んで、悠一が来るのを待ち構えている。お馴染みの気障な所作が、今はまるで気にならない。
そこに、真実があるのだ。
手の届く距離に。
すぐ、そこに。
躰が緊張するのを止められない。
悠一は自分が緊張しているのを悟られないように、若干余裕ぶって、ゆっくりと新城に近付いていく。
「大丈夫かな? だいぶ、緊張しているようだが」
……まあ、悠一の内心など、この男には簡単に看破されてしまう訳だが。
「なんで、並木さんと分けたんですか?」
一緒に来た並木は、ビルのエレベーターホールで美智代に声をかけられ、そのまま別の場所へと連れていかれてしまった。悠一と並木、二人同時に真実を告げられると思っただけに、少し意外だった。
「彼は、筒井君に任せてある。この話をするには、二人同時だと色々と不都合があるものでね」
そう言われては、反論のしようがない。知る者と知らざる者の格差、とでも言うのだろうか。この状況下に置いては、悠一たちは『グループ』に逆らえないのだ。
「まあ、座りたまえ。コーヒーでも飲んで、落ち着いて話をしようじゃないか」
言われるままに、彼の対面に置かれたスツールに腰をかける。トポトポと水筒から注がれるコーヒー越しに、部屋の様子を眺める。奥の方、資料庫の扉の横に鷲津が立っているのが見える。いつかと同じように、携帯灰皿を手に紫煙を燻らせている。
他には――誰の姿も見えない。
美智代はともかく、他のメンバーはどうしたのだろう? よりによって、いないのが織田・司の戦闘班ときている。嫌な予感しかしない。
「ああ、織田君たちかい? 彼らは彼らで、重要な任務に当たってもらっている。こう見えても、私たちも忙しいのだよ。リピーターには様々な人間がいるからね。全ては同時進行、と言う訳だ」
どこぞの海外ドラマのような文言を吐きながら、新城はただでさえ細い目をうっすらと細める。
「――さて、そろそろ、答え合わせといこうか」
組んだ両手の上に顎を乗せ、新城は悠然と微笑む。
「それは、つまり……俺たちが気付いたことを、話せばいいってことですか?」
「ここに来るまで、随分と時間があった筈だ。竹崎宗也との対面から数えても、短くない時間が流れている。考える暇は充分に与えたつもりだ」
何から何までお見通し――か。
この男、神にでもなろうとしているのだろうか。
新城の微笑みに若干の苛立ちを覚えながら、悠一はゆっくりとブラックコーヒーを口に含む。
苦い。
頭が冴える。
悠一は、再度唇を湿らせ、慎重に言葉を紡ぐ。
「まず気が付いたのは――この世界の、ルールについてです」
「ほう? と言うと?」
「リピーターは、命を失うとリピート期間の記憶を全て失う――そういうルールが、この世界にはある」
「その根拠は?」
「……わざわざ説明するまでもないでしょう。前の周、麦原に殺された竹崎は、この周になって、全ての記憶を失っていた。それが、最大の根拠です」
「なるほど」
「アンタたちは、この『壊れた世界』における現象のことを『リピート』『リプレイ』『リフレイン』などと言っていたが――『リセット』だけは違う、と強調していた。多くのリピーターがいて、世界の動きを記憶している限りそれは『リセット』にはならない――と言うのが、アンタたちの言い分だった。
だけど、それは違ったんだ。『リセット』は、もっと違う形で存在していた。この世界で死を体験することにより、記憶を全て失う――それは、まぎれもなく『リピーターとしての死』だ。アンタたちは、一日を繰り返す『リピート』と、死して記憶をなくす『リセット』を区別して呼んでいた。最初に会った時、『リセット』と呼ぶのを禁止したのは、そういう理由からだ」
「ご名答だね」
悠一の長口上を、新城はニコニコとして聞いている。その余裕が、どこまでも憎らしい。
「白石純のことを――話してもいいですか?」
「うん? その件についても、考察があるのかい?」
「あります。あるからこそ、アンタにその是非を問いたいんです」
「『是非を問いたい』、と来たか。うん、いいだろう。君は、あの件についてどう考えた?」
「アイツは、許されない罪を犯した。ゲーム感覚で、多くの人間を爆死させた。その中には、あの『教授』の奥さんも含まれてた。織田をはじめとして、アンタたちはかなり頭にきた筈だ」
「うん。それで?」
「そこで、アンタらはアイツに罰を与えた。究極まで躰を破壊尽くして――アイツに、『恐怖』という感情を植え込んだ。この壊れた世界において与えることのできる、究極の『罰』だ。
――だけど、冷静に考えて見ると、少し不自然なんですよね。ギリギリ、死なない限界点まで躰を痛めつけて――
何で、殺さなかったんですか?
壊れた世界においては、拘束や、経済罰、社会罰が役に立たないのは分かる。身体罰でさえ、その時を凌げば、全ては元通り。だからこそ、織田にギリギリまで躰を壊すような、非道な真似をさせたんでしょうケド――数ある刑罰のうちで、何故『死刑』だけが検討されなかったんです? 数十人を遊び感覚で死傷させたのなら、普通は死刑になると思うんですけど」
コーヒーの入ったカップを口にくわえながら、ゆっくりと新城を睨め付ける。
「……ふふ。君も、分かって言っているんだから人が悪いよね」
「そうですね。今となっては、その意味が分かる。
殺しちゃ、罰にならないですもんね。
リピーターを殺したら、その全ての記憶が失われる。自分が犯した『罪』も、全て忘れてしまう。それじゃあ――『罰』にならない。『罰』ってのは、あくまで『罪』を償うためにある。忘れてしまったんじゃあ、意味がない。アンタらは、そう考えて――白石を、生かし続けた」
「その通りだ。自分の犯した罪を忘れてしまったんじゃ、罰にはならない。そう考えて――私は、織田君にああいうことをさせた」
「一時間ごとに定時報告をさせたのも、そういう理由からですか?」
「……ふん。君は、やはり聡明な男だな。私も、まさかそこまで知り得るとは――」
「そういうの、いいから」
適当なお世辞で自惚れるほど、悠一はおめでたい人間ではない。美智代との会話で、そういう耐性はついている。
含み笑いをやめない新城にペースを乱されないよう気を付けながら、悠一は注意深く、言葉を紡いでいく。
「孤独と退屈に加え、恐怖と軟禁という、いわば四重苦に耐えながら生きていくのは、想像を絶する苦痛なんでしょう。普通なら、気が触れるか――自ら、死を選んでしまう。だが、それでは意味がない。自殺されたんじゃ、全てが水の泡だ」
「勿論だ。我々は、死逃げなど許さない」
珍しく、強い口調でそう断言する新城。
死逃げしたいんだけどね、僕は。
白石がポツリと呟いた一言が、フラッシュバックのように蘇る。
嗚呼。
アイツは――はっきりと、そう言っていたのだ。
直前、『クソゲー』だの『覚えゲー』だのという話をしていたために悠一は『死にゲー』と聞き間違えてしまったのだが、奴は、確かにそう言っていたのだ。
死逃げしたい、と。
死んで、記憶を失って――全てから逃れたいのだ、と。
「この国での一年の自殺者は三万人を超えると言われている。交通事故死を軽く超える数字だ。ここで一般的な是非を問うつもりはない。だが、何をしても元通りの、この壊れた世界におけるそれは――ただの、逃げでしかない。分かるかい?」
「一応は、ね」
「苦しみ悶え、絶望するのは本人の自由だ。だからと言って、何をしてもいいかと言えば、当然そんな訳はない。自分のしたことには、当然の報いを受けてもらう。
それを、死んで、忘れて、全てなかったことになりました、だなんて――馬鹿にしているだろう。我々は便宜的に『リセット』などと呼んでいるが――やはり、それは『リセット』ではないのだよ。本人の記憶がなくなったからといって、それでやったことがなくなる訳ではない。
罪は、残るのだよ。
白石純のケースもまた、然りだ。我々は、絶対に死逃げさせたくなかった」
「一時間ごとに電話連絡させたのは、自殺抑止のため、ですか」
「そう。幸い、あの家には母親が常駐している。本人からの連絡が確認できなければ、即座に母親に電話を入れるつもりでいた。仮に白石純が自殺を謀ったとしても、その手法が首吊りにせよ服毒にせよリストカットにせよ、母親に知らせれば、すぐに発見してもらえる。一時間以内なら、助かる可能性が高い。少なくとも、牽制にはなる。そう思って、我々は毎時の連絡を義務づけた、という訳だ」
「……ずいぶんな、監視網ですね」
「それだけのことをしでかしたからね」
「だけど、アイツは反省してませんでしたよ。俺を人質にとって、逃げだそうとしていた」
「――そこを突かれると痛いが……。一つ言い訳をさせてもらえば――その当時は、我々も『グループ』を立ち上げてから日が浅かったものだからね。色々と感情的になった部分があるし――今のように、満足のいく対策が取れなかった面は、否めない」
「今は違うって言うんですか」
「どうだろうね?」
片側だけの口角を上げ、ニヤリと笑う新城。挑発的な表情だ。
「だから、今、君がここにいるんだけどね」
「…………」
さらりと核心に触れる発言をする。
……いよいよ、か。
悠一は生唾を苦いコーヒーで流し込み――ついに、本題に入る。
「俺は、ずっと疑問だった。何故アンタらは、ここまでして、俺に付きまとうのか。人が足りない、忙しいと言いながら、アンタらは常に誰か一人を俺の傍に置いていた。俺を引っ張り回して、振り回して、色んな人間に合わせ、色んな話を聞かせ、色んな目に遭わせて――何故、そこまでして俺に執着するのか……ずっと、謎だった」
「ふん。何故だと……思う?」
「簡単です。最初から、俺こそが目的だったから――だから、アンタらは、俺に付きまとい、俺を監視し続けた」
「君自身が目的だった、とは?」
要所要所で絶妙な相槌を打ちながら、話を促す新城。話し上手は聞き上手、とどこかで聞いたことがあるが、新城と話していると、それも納得できる。
「だから――俺も、竹崎と一緒だったんですよ。
俺も、リセットされてたんだ。
十三周よりも、ずっと長い期間――恐らくは、何百周、何千周とこの一日を繰り返したのかもしれない。だけど、そのループ地獄のどこかで、俺は、命を失った。
それで、リセット。
次に目が覚めた時には、俺は五月十二日までの記憶しかない、普通の高校生に戻っていた。同じ一日が繰り返すのに戸惑い、狼狽え、周囲の幸福のために奔走する――そんな、平凡なリピーターに、戻っていたんだ。だけど、違う。今は分かる。俺には、『過去』がある。俺自身も知らない『過去』が――リセットによって失われた――だけど、決してなかったことにはならない――そんな現実が、事実が、真実が、ある。リセット済みの俺には、どうやったって思い出すことができない。もちろん、リピーター以外の多数の人間も同様です。
だけど、アンタらは、違う。
アンタらは、俺の『過去』を知っている。知っていたからこそ――そして、それがアンタらに不都合をもたらすものだからこそ――アンタらは、俺を監視し続けた。危険因子として、不穏分子として、俺に細心の注意を払い続けたんです。
……実際、アンタらの言動を思い出すと、どうも妙なんですよね。冷静に考えて見ると、昔から俺のことを知っていた――そうとしか思えないような言動ばかりなんです」
長口上に、口の中がカラカラになる。さっきコーヒーを飲んだばかりなのに……カップに口をつけるが、すでにそれは空になっていた。
「ふうん? 私たちが、昔から君のことを知っていた? 例えば、どんな点からそういう風に思ったんだい?」
酷薄な笑みを張り付かせたまま、こちらのカップにコーヒーを注ぐ新城。悠一はそれに一口飲んで、再び言葉を紡ぐ。
「簡単なことです。アンタらは、俺のことを知りすぎてる」
「君に接触する前に、鷲津さんが身辺調査をしたと言っただろう。ある程度のプロフィールなら、皆の頭に入っているさ」
「何周か調査しただけじゃ限界があるでしょう。鷲津さんがどれだけ優秀か知りませんけど、短期間の調査で、食べ物の好みや経験、昔の呼び名まで調べられるものなんですか?」
「と、言うと?」
「美智代さん、初対面で、『たこ焼き好きだったよね?』って言ってました。俺が粉系ジャンクフードを好きなの、どうやって知ったんでしょう。
織田さんは……その、俺が女性経験がないことを、さも当たり前かのように言っていました。そんなの、家族や親友でも正確には把握できないことですよ。それをどうやって調べたって言うんです?
極めつけは、俺のニックネームです。織田さん、俺のことを『ゆーゆー』って呼んでますケド――それって、俺が小学生の、それもごく短期間に、一部の友達から呼ばれてたあだ名なんですよ。それを、どうして織田さんが知ってるんですか」
「織田君が自分で考えた、という線は?」
「それはありません。自分で、そう言ってました。自分でニックネームを考えることなんてできない、だから過去の呼び名から拝借して使ってるんだって。美智代さんの『みっちょん』ってのも、彼女が中学の頃に呼ばれてたあだ名だそうじゃないですか。何かの拍子にうっかり喋っちゃったんでしょうけど――少なくとも、俺はそんな話を織田さんにした覚えはない。自分でも忘れてたくらいです。
つまり――アンタらは、過去に俺と接触して、色々と話をしているんですよ。そう考えると、全ての辻褄が合う」
「なるほど」
「それだけじゃありません。アンタらは――具体的に言えば、織田さんは、俺にとっての一周目から、俺のことを監視していた。おかしいですよね? リピーターといえども、一周目は、他の人間と同じオリジナルの動きをする訳で、端から見てリピーターだと看破できる訳がないんだ。同じ一日が何度も繰り返していると気が付き、狼狽えて、何らかのアクションをとって初めて、その人間がリピーターだと分かる――それなのに、織田さんは、一周目から俺をマークしていた。何故か。簡単だ。それ以前から、アンタらは俺のことを知っていたからだ。危険人物とマークしていたからこそ、織田さんは初っ端から俺を監視し続けていた……」
「ちょっと待って。織田君が一周目から君をマークしていた? その根拠は?」
「根拠も何も。俺が歩道橋から転げ落ちた時、腹抱えて笑ってる男がいました。それが、織田さんです。本人も認めています」
「たまたま、そこを通りかかっただけかもしれない」
「違います。織田さんのホームグラウンドは大宮で、それ以外の土地には、仕事以外では行かないと言っていました。住宅街で、特に面白みもない藍土や華見なんて、仕事じゃなきゃ絶対に行かないと、そうはっきり言っています」
「なるほど、ねぇ……」
ニヤニヤと不快な笑顔を絶やさず、新城は自分のカップにコーヒーを注ぐ。
「織田君という男は――まあ、長く幹部をやってるだけあって、荒事以外もそれなりに優秀ではあるんだが……いかんせん、口が軽くていけない。ヒントを与えるつもりで、彼を君の担当者にしたのだけど……これは、予想以上だな」
「そんなことありませんよ」
部下に呆れる新城を咎めるように、悠一は少しばかり声を張る。
「アンタも、それに鷲津さんも、充分に口を滑らせてる」
「うん? 私たちがかい? いつ、どこで?」
いつも余裕綽々の新城が驚いているのが、少し痛快だった。もっとも、驚いたところで糸目は相変わらずなのだけど。
「アンタ、初対面の時、俺に対して『一応、初めましてと言っておこうか』って言ったんですよ。鷲津さんも、『一応、初めましてと言っておこう』と言っていた。何が『一応』なんですか? 新城さんとは午前中の公園でニアミスしているし、鷲津さんは俺をずっと監視していた。だから『一応、初めまして』なのかもって、自分で納得してた、だけど――違うんですよね。アンタらは、ずっと前から、俺のことを知っていた。だけど俺はアンタらのことを知らない。そういうのを踏まえての、『一応、初めまして』だったんでしょう?」
「……痛恨のミスだな……。まさか、君がそんな些細なことまで覚えているだなんて……」
言葉とは裏腹に、新城はどこか嬉しそうだ。悠一が真実に肉薄したのが、嬉しくて仕方がないのだろうか。
しばらくの間が空く。
微かに聞こえる雨音をBGMに、二人対面に並んでコーヒーを飲む。十メートル離れたところに佇む鷲津の紫煙がここまで漂ってくる。が、それもあまり気にならない。悠一は、次の台詞――確認すべき点と、追及すべき点――を探すのに必死だった。
ようやく何か思いついて、口を開こうとしたのだけど、数瞬の差で新城に先を越されてしまう。
「ちなみに、一応聞いておくが、それは全て、君だけで考えついたことかい?」
「……少しは、並木さんの力も借りました。だけど、ほとんどは俺の頭で考えました」
「素晴らしい。我々が必死で働きかけた甲斐もあるというものだ」
『自分の頭で考えろ』
『自分で気付かなければ意味がない』
それは、再三に渡って『グループ』に言い続けられてきたことだった。美智代も、鷲津も、織田も、司も――新城の意志の下で動いていたということか。バラバラに見えて――実際バラバラなのだが――あの連中、一致団結して事に当たっていたらしい。
「こっちも念のために聞いておきますけど――並木さんも、同じなんですよね?」
「同じ? 何がだい?」
「『知っていて聞くんだから人が悪い』のはアンタらの方でしょうが……いい加減、トボけるのやめにしてください。
並木さんも、俺と同じ、リセットされた人間なんでしょう?
あの人にも、過去がある。何かの拍子に命を失って、記憶を失って、あの人の場合、一周目からアンタに拉致されて――ずっと、何も知らないで、何も知らされないで、ただ、アンタらに協力し続けた」
「ふん。自分のことも分からないと言うのに情報探索を担当するなんて、なかなか皮肉な話だよねぇ」
自分で指図しておいて、どの口がそんなことを言うのか。
「あの人も、俺と同じだった。同じなのに、俺は最近まで『グループ』側の人間だと思っていた」
実際、『グループ』の人間に混じって『グループ』のために働いていたんだから、それも仕方ない話ではあるのだが。
「ただ、あの人は性格上、自分の思っていることを表に出しづらいところがある。だから、今まで行動にも移さなかった。だけど、今は違う。あの人もまた、本当のことを知りたがっている。自分が、何をしたのか――その、『過去』を」
「さっきも行った通り、彼は今、筒井君と話をしている。心配せずとも、彼は彼で真実を告げられているさ」
「麦原も一緒じゃないんですか?」
「言っただろう。彼女は彼女で重要な任務にあたっている。その場には同席していない。まあ、だいぶ気にはしていたようだが」
「並木さんの過去には、やっぱり、アイツが絡んでいるんですか?」
「……ううん、そうだねぇ……」
深く息を吐き、コーヒーを口に含む。何だかひどく思案気だ。
「勿論、並木君の過去には、麦原君が絡んでいる。君も察しているとは思うが、彼女は、並木君に対して特別な感情を抱いている。それは全て、二人の過去に起因している。だからこそ、麦原君を彼の監視役に据えたんだからね」
やはり、司は並木の監視役だったらしい。身の回りの世話をする、という大義名分の下、司はずっと、リセットされた並木を後ろから監視していたのだ。
「しかし、彼の過去に関係しているのは、麦原君だけではない。君も、深く関係している」
「……やっぱりそうか……」
悠一と並木は、リセット前の『過去』に、何らかの因縁があったらしい。すぐにでも問い質したいところではあるが――その前に、最後のピースを揃える必要がある。
「俺たちの過去に関係しているのはそれで全員ですか?」
「と、言うと?」
「もう一人、いるんじゃないですか?」
「ふん。それは誰のことかな? 君の口から言ってみるといい」
「じゃあ言います。
滝なゆたも、関係しているんじゃないですか?」
意を決して、その名前を口にする。途端に、彼女の整った顔が、スレンダーなその肢体が、脳裏に浮かび上がる。嗚呼、彼女は、口すら聞いたことのない、あの滝なゆたという女性は――。
「……驚いたね。君は、私が思っていた以上に聡明な男のようだ」
「だから――」
「いや、これはお世辞などではない。本当に、そう思うんだ。まさか、この数時間でそこまで考えが至るとは……」
「数時間じゃありません。何周も前から、ずっと――考えていたんです。
彼女は、何なのか。
何故、『グループ』に毎周殺され続けなければならなかったのか。
それに――」
「それに?」
「何故――俺は、こんなにも彼女に執着しているのか」
「……なるほど」
「変、なんだ。面識もない、言葉を交わしたこともない相手なのに、気になって仕方がない。どんな手を使ってでも助けたいって、そう思う。赤の他人なのに。話したこともないのに――理屈じゃ、説明できないんだ。だけど、説明をつけたい。納得したい。釈然としたい。だから、ずっと考え続けていた。考えて考えて考えて――で、俺が『リセット』された人間だって分かって……閃いた。
彼女もまた、俺の『過去』に何らかの形で因縁があったんじゃないかって。
だから――こんなにも、彼女に執着しちゃうんじゃないかって」
「……不思議だよねぇ。以前の記憶などない筈なのに。これも、オリジナルの形に修復しようとする世界の働きかけなのかな……」
どこか年寄りじみた口調でコーヒーを啜る新城。
さあ――正念場だ。
「以前、美智代さんと話した時、一つの仮説を提示されました。彼女がホームに突き落とされたのは、彼女自身に恨みがあったからではなく、彼女がいることで不都合な未来が到来してしまうから。犯人は、そのことを知っていたから――それで、律儀に毎周、彼女を殺害していた――いわば、滝なゆたは引き金なのだ、と。
その後、色々あって、実行犯は織田さんなのだと知りました。美智代さんの語った『仮説』が『答え』であることも、更にその後に知りました。
滝なゆたは、引き金だった。
彼女が誰かに接触することで、『グループ』にとって不都合な未来が起きる。それを阻止するため、織田さんは彼女を殺し続けた。じゃあ、その『不都合な未来』って、何なんでしょう? と言うか、彼女が引き金ならば、『弾丸』に担当する人間は、誰なんでしょう? その『弾丸』は、どんな現実を撃ち抜いたんでしょう――?」
「……君の考えを、言ったらいい。間違っていたら、訂正するから」
湯気の向こうから、新城の双眸がじぃっとこちらを見つめている。珍しく、目が見開かれている。彼の瞳を見たのはこれが初めてかもしれない。やや茶色がかった瞳を見つめ返し、唇を湿らせ、悠一は言葉を吐く。
「俺、なんじゃないですか?」
刹那、空気が張り詰める。
新城は、真摯な目で悠一を見つめ続けている。直前までのヘラヘラした雰囲気は、もうどこにもない。
「……続けて」
「今日――この、五月十三日のオリジナルは、どんな形をしていたんだろうって、考えたんです。この世界にリピーターが一人もいなかった時に訪れる、本当の今日を。
滝なゆたは、紫苑駅から列車に乗り込み、大学に向かう。俺はその一つ先の華見駅で同じ列車に乗り込む。もしかしたら、そこで何らかの接触が起きるのかもしれない。落とした定期を拾う、転びそうになったところを起こしてあげる、痴漢に遭ったところを助けてあげる――出逢いのイベントなんていくらでも思いつく。どうにかして、滝なゆたと小鳥遊悠一は出逢う。だけど――それが、結果として『不都合な未来』に結びついてしまう。そのことを、アンタらは知っていた。何故ならそれこそが俺の『過去』だったから……」
『不都合な未来』は、悠一の『過去』であり、そしてそれらは、まぎれもない『現在』である――まさに、この壊れた世界だからこそ成り立つ、人を馬鹿にしたロジックだ。
「だからこそ、アンタらは必死になって、俺と彼女が出遭うのを阻止したんです。考えてみれば、俺が彼女に会う機会はいくらでもあったんだ。それを邪魔してたのは、いつもアンタらだった。俺が彼女の大学に行ったときは、美智代さんを宛がって無理矢理大学から引き剥がした。その翌周からは、織田さんや麦原を使って、俺を拘束して、自由に動かさなかった。結果――俺は、今の今まで、彼女と一言の会話も交わしていない。全て、アンタの計算通り。『グループ』にとっての『不都合な未来』は、回避されたって訳です」
「……なるほど。でもそれなら、織田君は何故、毎周律儀に彼女の命を奪い続けたのだろうね? 君と彼女を引き離すだけなら、それこそ君の行動を制限すればいいだけの話だ。わざわざ、通り魔の真似事までして、手を汚す必要もない」
「そこ――なんですよ」
きっと、新城は全て分かって言っているのだろう。疑問に思ったのではなく、悠一の言葉を引き出すために、敢えて質問の形をとっている。……今さら、ではあるのだけれども。
「俺の行動を制限するのと並行して、織田さんは毎周毎周、律儀に滝なゆたを殺し続けていた――それこそが、一番の鍵だったんだ。俺も、それはずっと謎だった。だけど、『リセット』というこの世界のルールを知って――全ては氷解した。
滝なゆたもまた、リピーターだった。
そう考えると、全ての辻褄が合う。リピーターと言えども、一周目はオリジナルの動きをとる。朝起きて、朝食をとって身支度を整え、家を出て駅に着いて――時間、場所、行動、全てが同じ。おまけに、本人は一日が繰り返していることに気が付きもしない。だからこそ、容易に行動が把握できる。簡単に、命を奪うこともできる。毎周殺害すれば、その度に『リセット』が起きる。毎周殺すことで、彼女はずっと一周目であり続ける――下手に泳がせたら、予想外の行動に出る危険性もありますからね。だから――織田さんは、いや、アンタは――毎周、彼女を殺すなんて乱暴な真似に出たんだ」
「乱暴、か……。うん。確かに乱暴だったかもしれないね。だが、それだけ我々も必死だったんだよ。あんな事態は、二度と御免だからね。リピートとリセット――その二つのシステムを最大限に利用して、我々は、君が言うところの『不都合な未来』って奴を回避した、という訳だ」
「この際だから聞いておきますケド――竹崎の件、あれは、予定調和だったんですか?」
「何を藪から棒に」
「この期に及んでトボけないでください。俺が知っている限り、『リセット』を起こした人間は四人います。俺、並木さん、滝なゆた、そして竹崎宗也――だけど、四人に対する態度は驚くほどバラバラだ。
俺に対しては、監視と接触を並行して行って、ヒントを小出しにして、とにかく俺が自分で気が付くよう、丁寧に、徹底して事に当たっていた。
一方、並木さんに対しては、早々に囲って、情報をシャットアウトして、麦原だけに監視させ続けた。
滝なゆたに対しては、毎周リセットの繰り返し。乱暴にも思える手段で、リピート現象そのものを認識させなかった。
そして、竹崎はどうかと言うと――アンタらは、徹底してアイツを泳がせ続けた。度重なるリピートに困惑し、狼狽え、次第に心を病んでいくあの男を、アンタらは接触することもなく、ただ、ネットとリアルとで監視するだけで、一貫して静観し続けた。その結果が――先周のアレだ。よく考えて見れば、何もかもが出来すぎだったんですよ。俺と美智代さんが話をしている時にネットへの書き込みがあったり、ギリギリのタイミングで駅に到着したり、ギリギリのタイミングで織田さんが到着したり。で、俺らの逃亡も、なんだかんだで成功した。あまりにも、うまくいきすぎていると思いませんか?」
「思わないねぇ」
事も無げに、新城はそう吐き捨てる。いつの間にか、いつもの糸目に戻っている。
「『うまくいきすぎている』? あれが、かい? 全然、だよ。計算違いも甚だしい。まさか、並木君があんな行動に出るなんて――私にも、予想がつかなかった」
並木の勇み足のことを言っているのだろうか。美智代や鷲津の帰りを待たず、竹崎に接触して――その結果、斬りつけられてしまったことを。
「君も見ただろう? 彼が重傷を負ったことで、麦原君は大層おかんむりでねぇ。あの後、宥めるのが大変だったんだから」
「……ええと、ちょっと待ってください」
必死で、頭を回転させる。脳に血を巡らせる。
「それは、つまり――あそこで並木さんが怪我をするのは、予想外だった、ってことですか」
「当たり前だよ。怪我があの程度で済んでよかったものの、万一、命を奪われるようなことがあったら――また、一からやり直しだよ。それより何より、麦原君が黙っちゃいない。彼女、並木君絡みだと平静さを失うからねぇ」
「でも、あそこで竹崎を殺すことこそが、アンタらの目的だったんでしょう? あそこで竹崎を殺して、翌周、俺らを竹崎に会いに行かせて――それで、この『リセット』のシステムに気付かせる――俺は、そういう風に考えていたんですけど……」
「殆ど正解、だね。私は、あそこで織田君に、竹崎を殺してもらおうと考えていた。だけど彼は、車両に飛び込んで、並木君が怪我しているのを見て、即座に竹崎にやられたと分かったんだろう。そこが、彼の柔軟性の為せる業でね。彼は、敢えて竹崎を殺さなかった。どっちみち、並木君の様子を見れば、麦原君が黙っていないだろう――そう計算して、彼は、敢えて竹崎にとどめを刺さなかったんだよ」
あの数瞬の間に、そんなことまで考えていただなんて……。やはり、喰えない男だ。
「君はどう思っていたが知らないが、彼とてウチの幹部だからね。粗忽で口の軽い部分もあるが――それでも、優秀であることには変わりがない。有能な馬謖だからこそ、孔明は泣いたのさ」
その例えはよく分からないが――新城が織田を買っていることだけはよく分かった。
「要するに、計算違いはあったが、竹崎の件について、予定調和であったことは認めるんですね?」
「認める――しかないんだろうねえ。勿論、竹崎宗也自身は、何も知らないよ? 彼は、自分の意思で凶行に走ったんだ。この世の中が腐っているのは、愚鈍な人間が溢れているせいだ――そんな風に考えたんだろうね。で、この世界をよりよくするために、愚鈍な人間を一掃しようと考えた。幾つもの得物をバッグに詰め込んで、自分こそがこの世界を判断する人間だと宣言するため、ホイッスルを鳴り響かせて――」
「だけど、アンタらは、そのことを、前もって知っていた」
「二回目だからね」
「好きに泳がせていたら、何周目の何時何分に行動を起こすかを、アンタは全て知っていた。知っていて、敢えて泳がせていた。俺たちに、この世界のルールを知らせるために!」
「そうだ。……結果として、今君はここにいる。違うかい?」
「違いません……ね」
結局、自分はずっと新城の掌の上で踊らされていただけなのだ。自分だけではない。並木も、滝なゆたも、竹崎も――『リセット』された人間は皆、どのような行動をとるか知られている。知られていて、泳がされているのだ。
雨音が、やたらうるさく聞こえる。
あと一時間程で晴れると言うのに――最後の悪あがきのように思えて、ほんの少しだけ気分が悪くなる。
「……言い残したことは、ないかな?」
新城の言葉が上滑りしていく。
「君の『推理』が以上なら、私はすぐにでも真実の吐露に移るのだけど?」
「その前に、俺の話が正しかったのどうかだけ教えてくださいよ」
「何を今さら。感心していると言っただろう。百点満点さ。花丸をあげたいくらいだ」
素直に喜ぶ気にはなれない。
これから新城の語る真実――
悠一の、並木の、滝なゆたの、『過去』。
『グループ』が必死になって回避し続けた、『不都合な未来』。
自分は、一体何をしてしまったのだろう。
何を、しでかしてしまったのだろう。
一つ、気になることがある。
『リセット』とは、つまり『死』だ。この壊れた世界でリピーターが命を失うと、それ即ち『リセット』である――というのは、すでに確認済み。
ならば。
悠一は、何故死ななければならなかったのだろう。
並木は。
一回目の、滝なゆたは。
ここは戦場ではない。『死』なんてのは、日常の対極に位置している概念で――人の死に対面することなんて、殆どないことなのだ。
なのに、悠一は死んでしまった。
並木も、滝なゆたも。
きっと――それこそが、これから新城の話す真実に直結しているのだろう。
それを真正面から受け止めるには、かなりの苦痛を伴うのだろう。正直、怖い。だが、聞かない訳にはいかない。ここで逃げてしまっては、全てが無駄になる。心を閉ざしてはいけない――『教授』の言葉を思い出す。逃げてはいけない。全てを、受け止めなければいけない。悠一は萎えそうになる心を何度も立て直し、ゆっくりと、新城の目を見据え返す。
「じゃあ――聞かせてください」
新城保という男。
嫌味で気障ったらしく、物腰は柔らかいが、時にそれを慇懃に感じる部分もある。
そして、やたらと勿体ぶる癖がある。
今回もそうだった。
「時に小鳥遊君――君、占いは信じる?」
やけに砕けた口調で、まるで関係のない話を始める。
「占い? フン。俺らには占う未来なんてないじゃないですか」
「……キャラに合わず、ニヒルなことを言うねぇ……」
「ニヒルじゃないでしょ。俺らに未来がないのは本当じゃないですか。ってか、本題に入ってくださいよ」
「まあ、そう慌てないで。焦らずとも真実は逃げたりしないよ」
悠然とした態度で胸ポケットから一束のカードを取り出し、シャッフルを始める。この期に及んで、ポーカーでもするつもりか。
「で? 信じる? 信じない?」
「悪いけど、全然信じてないです。朝の番組で俺の蟹座、最下位だったけど、そんなの今ではどうでもいいと思ってるし」
「ほう、君は最下位だったのか。それはご愁傷様。ちなみに私の乙女座は一位だったよ」
「知らねぇし。……まあ、うちの姉ちゃんは昔っからそういうの大好きで、俺も散々付き合わされましたケド。手相だのタロットだの、胡散臭いのばっか」
「ほう。それは――都合がいい」
シャッフルする手を止め、ニヤリと笑う新城。
「ならば、君もタロットのことはある程度知っている訳だね?」
そう言いながら、カードの束を扇状に広げて、こちらに表面を見せる。
見覚えのある絵札が――タロットカードが、並んでいる。
「何ですか。本気で占いを始めるつもりですか」
「まさか。これはちょっとした演出の小道具ってやつさ。話を分かりやすくするためにね」
タロットカードで分かりやすくなる話って、何だ。
「それに、私もタロットの、アルカナの名前と意味くらいは知っているが、占いの作法までは知らない。そもそも、占いなんて信じていないしね」
「なんだ、じゃあまるっきり俺と同じじゃないですか」
「そういうことだ」
カードに目を落とし、取捨選択を繰り返して、カードの数を半分ほどに減らしてしまう。
「今回使うカードはこれだけでいいだろう――さて、前振りが長くなったね」
広げたカードの向こうから、狐面が覗いている。
さあ、いよいよだ。
「本題を、始めよう」
佇まいを直す悠一に対し、新城は淡々とした口調で話を始める。
「話はもう遙か昔に遡るんだが――分かりやすくするために、今現在、君が知っているリピーターをまとめて整理しようと思う。
まずは我々、『グループ』からだ。少数精鋭と口を酸っぱくして言ってきた訳だが、これでも、昔は今の数倍の人数がいたのだよ? だが、まあ、諸事情あって――今は、君の知っている六人だけ。
最初に、リーダーである、私、新城保」
言いながら、『法王』のカードを、悠一から見て正位置でテーブルに置く。意味は――確か、『秩序、慈悲、協調性、規律の遵守』だったか。
「交渉・説得担当の幹部、筒井美智代」
『法王』の左下に、正位置で『魔術師』のカード。意味は『物事の始まり・起源、創造』。
「探索・調査担当の幹部、鷲津吾郎」
『魔術師』の右隣に、正位置で『節制』。意味は『調和、自制、節度、献身』。
「戦闘担当の幹部、織田広樹」
さらにその右隣に、今度は『戦車』のカード。意味は『勝利、征服、援軍』。
四枚のカードが三角形を描く。
なるほど。このカードは、リピーター一人一人の個性を象徴している訳か。なかなか面白い趣向だ。ちなみに、美智代を象徴する『魔術師』のカード、正位置の意味は『物事の始まり・起源、創造』だが、カードそのものの意味は『外交・意志・手腕』だったりする。ぴったりだ。
「次に、ネット調査担当、並木慎次」
鷲津を表す『節制』の下にカードが置かれる――が、何故か裏返しのままだ。
「あれ、裏向きですけど……」
「今はまだ、アルカナは明かせない。彼は話の主要人物だから、その時に表面を向ける」
勿体ぶる癖はここでも健在のようだ。
「そして、戦闘班の麦原司」
予想通り、『戦車』の下にカードが置かれる。
……だが、そのアルカナは悠一の予想を裏切った。
「げ。よりによって『正義』かよ!」
そのカードは裁判の女神を表し、正位置の意味は『公正・公平、善行、両立』だった筈。
「不服かい?」
「いや、アイツが『正義』ってのは……ちょっと……」
「そうかな。彼女は曲がったことが大嫌いだし、常にフェアであろうとしている。ピッタリだと思うけどね」
いや、確かに新城の言う通りなんだけど。どこか、釈然としない。
「――と、ここまでが『グループ』のメンバーだ。並木君は便宜的に『グループ』の一員とさせてもらったが、特に異論はないだろう。
次は、君の知るリピーター達だ。
まず、我々の協力者でもある、『武器屋』こと高橋一朗」
六枚のカード群から少し離れて左下に、正位置で『死神』のカードが置かれる。意味は『終末、破滅、死の予兆』。
「『教授』こと、大磯孝志」
六枚の左に正位置の『隠者』。意味は『経験則、高尚な助言、秘匿、単独行動』。
「『カップル』こと、烏丸英雄と宮脇杏。ここは、二人で一セットとさせてもらう」
六枚の左上に『恋人たち』。意味は『合一、恋愛・性愛、趣味への没頭』。
「ゲーマーの、白石純」
右上に、これまた裏返しのカードが置かれる。アイツも重要人物ということか。
「ご存じ、竹崎宗也」
右に『審判』のカード。ここに来て、初めて逆位置でカードが置かれる。逆位置の意味は……確か、『悔恨、行き詰まり、バッドニュース』。
「そして――君、小鳥遊悠一」
六枚の真下――悠一の真ん前に、一枚のカードが置かれる。
当然のように、カードは裏返しのままだ。
「それに加えて、君がご執心の、滝なゆた」
悠一のカードの右隣に、これまた裏返しのカード。
「……いくら何でも、『ご執心』はないでしょう」
「ん? 違うのかい? さっき、君が自分で言っていたことだが」「や、まあ、確かに、そうなんですケド……」
駄目だ。この男に口では敵わない。じゃあ何だったら敵うのか、と聞かれても困るのだけれど。
「――と、役者は以上だ。では、彼ら彼女らの紡いだ、世にも奇妙なリピート物語を読み解いていこうか」
「えっ……?」
思わず、声が出てしまった。
「うん? どうかしたかい?」
「あ、いや、何でもない……です」
何でもなくは、なかった。
登場人物が足りない。
悠一は、身近な所にもう一人、リピーターがいるのを知っている。
入江は?
入江明弘はどうした?
奴はまぎれもなくリピーターで、新城たちもそのことは充分に承知している筈なのに。
……ああ、いや、当たり前か。
これから話すのは、悠一の『過去』の物語。新城がタロットまで用意して一人ずつ丁寧に紹介したのは、彼ら彼女らがその物語に関係するからで――つまり、入江は無関係だから、省かれただけなのだ。
自己完結する悠一をよそに、新城はさっさと物語を開始する。
最初により分けたカードの中から一枚のカードを抜き出し、悠一の眼前に掲げる。
――『世界』、のカードだ。
「この『壊れた世界』がいつ始まったのか――把握できている人間はいない。ただ気が付いたらそこにあって――少しずつ少しずつリピーターを増やしながら、確実にその勢力を拡大していったんだ」
後半だけ聞いたら、行列の出来るラーメン屋の話でもしているかのように聞こえる。
「『壊れた世界』は、同時に『小さな世界』でもある」
「『小さな世界』?」
イッツ・ア・スモール・ワールド。
「そう、『小さな世界』。だってそうだろう? 君も私たちも、事あるごとに『セカイ、セカイ』と連呼している訳だが――なら、果たしてその『セカイ』とやらは、どれだけの大きさだと思う? 期間は、五月十三日の一日だけ。範囲にしたって――そりゃ、このご時世だもの、PCやケータイがあれば、世界のどこにいたってある程度の情報は手に入る。だが、自分の躰が行ける範囲は、ひどく限られている。移動時間を気にせずに済むのは、せいぜい半径数十キロと言った所だ。この物語は――そんな、『小さな世界』で起きた物語だ。まずは、そのことを留意しておいてほしい」
この男――この期に及んで、まだ本題に入ってなかったのか。
「おや、『まだ本題に入ってなかったのかこの野郎』って顔をしているね」
「当たり前みたいに人の心を読まないでもらえますか」
「考えていることが顔に出やすいんだよ、君は。別に私はテレパスでもサトリの化け物でもないから、焚き火をしたって無駄だよ」
「また、よく分からない例えを……」
「で、勿体ぶるついでにもう一つ」
人差し指をピン、と立てて、新城は胡散臭い笑みを浮かべる。
「この『壊れた小さな世界』では、独特の価値観が横行している。知っての通り、あらゆる破壊行為・殺人行為は、意味を為さない。一日を終えれば全てが元通り、だからね。
だが――これまた知っての通り――それは、許されないことでもある。壊された物は修復される。殺された人間は蘇る。全ての罪は、なかったことにされる――ように見える。
だが、実際にはそうではない。
何故なら、リピーターは沢山いるからだ。リピーターが認識し、覚えている限り、あらゆる罪はなかったことにならない。
そして、リピーター限定で起きる『リセット』というルールが存在する。リピーターは、命を落とすと、次の周では今までの記憶を全て失う。つまりそれは、『リピーターの死』と同義だ。リピーター以外の人間は、いくらでも蘇る。だが、一度失われた記憶は、決して蘇らない。つまり、それは――誤解を恐れずに言うならば――
リピーターとそうでない人間では、死の価値が違うということだ」
「ちょっと――」
いくら何でも、その理論は受け付けられない。
「おっと。誤解を恐れずに言うならば、と保険をかけた筈だよ? 早合点してはいけない。私とて、本気でそう考えている訳ではない。
白石純の事件が良い例だろう。終盤に狙われた大磯咲子さん――『教授』の奥さんは、リピーターではなかった。だが、彼女がゲーム感覚で爆死されたことで、『教授』は傷ついた。と同時に、我々は冷静さを失った。それであんな過激な真似に出てしまった訳だが――まあ、この話は後で触れるとしよう。
何が言いたいのかと言うと――リピーターでない人間を殺すのは、当然のことながら重罪だ。だが、リピーターを殺すという罪は、リピーターでない人間を殺めるそれとは、比較にならない程大きい、ということだ」
「……いや、だから、何が言いたいんだよ」
この男、勿体ぶる上に、話が大仰で象徴的で、分かりにくいのだ。その辺りが、交渉専門の美智代との違いだろうか。
「今は、分からなくてもいい。これはあくまで前振りだ。後で、今話したことを思い出してくれればいい」
「だったら、俺の言う台詞は決まっています」
早く、本題に入れ。
「さて、今までのことを踏まえた上で、いよいよ本題に入りたいと思う。今から数千周も前に、私はこの『グループ』を立ち上げた。その目的は、最初に会った時に語った通り、『明日を手に入れるため』、『この世界の秩序を保つため』、そして『リピーターの孤独と退屈を癒すため』――だ。今幹部と呼ばれている人間は、皆初代のメンバーだ。嘘と演技で自我を保ってきた筒井君、自分以外は誰も信用しない鷲津さん、豪快さと繊細を併せ持つ織田君、皆、くせ者揃いだったが――どういう訳か、あっさりと私の仲間になってくれた」
「まさに『法王』ですね」
慈悲をもって秩序と協調性を愛する――それが『法王』だ。性格的には難があるように思えるが、何だかんだ言って、皆新城を頼りにしている。悠一は、底を見せない不気味さを感じて仕方ないのだけど、やはり、この男にはカリスマ性があるのだろう。自然と、人が寄ってくる。どうにも納得できない話ではあるが。
「その後も、種々雑多、様々な人間が『グループ』の一員となった。麦原君がそうで――並木君が、そうだった」
「並木さんは、『過去』でも『グループ』の一員だったんですか?」
「そう――今の彼は適当にネット検索しているネットオタクにすぎないが、当時の彼は凄かったんだよ。数千周のリピートで取得したハッキング能力で、あらゆる企業、組織のサイトに侵入して――時に情報を搾取し、時に情報を操作して――本当、当時の『グループ』の柱だったんだ」
「そんなに……凄い人、だったんですか」
「数千周、勉強と鍛錬を行えばね。今のメンバーを見てみるといい。筒井君と話していると、いつの間にか向こうのペースに巻き込まれてしまう。鷲津さんは影武者を数人雇っていると思えるほどの監視・探索能力を発揮している。織田君と麦原君は、並の警察官では太刀打ちできないほどの戦闘能力を有している。皆、凄い人、だろう?」
「……確かに」
「だけどね。当時は、今よりもっと人員がいたのだよ。今回は省いてしまったが、『女教皇』も『力』も『悪魔』も『星』も『太陽』も、いたんだ。だが、彼ら、彼女らは――皆、リセットされてしまった……」
眉を寄せ、悲痛な言葉を吐く新城。
リセット、されてしまった?
「でも――リセットされたとは言え、リピーターはリピーターなんでしょう? だったら、接触すればすぐに仲間に――」
「簡単に言わないでくれ」
再び、新城が目を見開く。そこにはいつもの慇懃かつ軽薄な雰囲気はなく――何だか、ひどく萎縮してしまう。
「リセットされたら記憶を失う――言葉にすれば簡単だが、そこから元の信頼関係を勝ち得ることは、容易なことではない。何せ、相手は全てを忘れてしまっているんだ。何十周も、何百周もかけて勝ち得た
信頼を取り戻すことは、そんなに簡単なことじゃあない。
それより何より――今は、君と並木君、滝なゆたの件で、我々は精一杯なんだよ。いくら個々の能力が優れているとは言え、六人では――いくら何でも、限界がある」
「今は、泳がせてる状態、って訳ですか」
「不本意ながら、ね。幸か不幸か、今、彼ら彼女らは一律で二十周前後といったところだ。心を病むにはまだ早い。この件が片付いたら、早くにも接触したいと、考えている。いつになるのかは分からないが――私は、必ず迎えに行くよ」
言いながら、新城は口元に僅かな笑みを浮かべる。それは如何なる感情に起因しているのだろう。淋しさか――それとも、かつての仲間たちに対する親愛の表れか。
「……どうも、話が脱線していけないな。かつてのメンバーについては、ひとまず置いておこう。どうせ、今の君は知らない人間ばかりだ。それよりも、今君が知っている人間について、語っていこうと思う」
「知っている人間……」
カード群の右上――白石純を象徴するカードを、裏面をこちらに向けたまま取り上げる。
「白石純の話を――しようと思う」
「アイツの話なら、さっきしたじゃないですか」
「まだ、私の見解を話してなかっただろう。小鳥遊君――私はね、あの件のことを、反省しているんだ。あの対応は……やはり、間違いだった」
驚いた。
まさか、この男が素直に自分の非を認めるなんて。
「その時の私は……勘違いをしていたのかもしれない。人を裁き、償いをさせる――それこそが、『罰』なのだと――そう思っていた」
「違うんですか?」
「違うさ。人に人は裁けない。それができると言うのなら、それはただの傲慢だ。我々は神ではない。あくまで、壊れた世界における、ごくごくミニマムな司法機関もどきにしかすぎないんだ。何度も話した通り、我々の目的の一つに、『この世界の秩序維持』がある。この世界に混沌をもたらさんとする者を取り締まり、二度とそれが起きないように対処する――この、『二度と同じ事を繰り返さないようにする』というのが、なかなか厄介でね。リピートが根幹であるこの世界では、自己矛盾も甚だしい。
だから、悩む。
だから、間違える。
――力で押さえつけても、駄目なんだ。恐怖を植え付けて、それで行動を縛っても……やがて、破綻する。君も見ただろう? 白石純は、我々の目を背けることばかり考えていた。この期に及んでも、まだ、自分のしでかしたことを分かっていなかった」
――我々の、ミスだよ。
失敗を恥じ入るように、罪を悔いるように、弱々しい言葉を吐く。新城にしては珍しいことだ。
「結局、筒井君の提案が、一番正しかったのだろうね。何度も何度も、丁寧にコミュニケーションを続けて、信頼関係を築き、己の罪を認識させる――それが、一番だったのに。我々は――否、私は、徒に傷つけて、徒に拘束を続けた。そんなものに、何の意味もなかったと言うのに……」
ぺらりと、カードの表を上にして、所定の位置に戻す。
カードの絵柄は――『刑死者』。
『吊された男』の方が通りがいいのだろうけど……やっぱり、この場合は『刑死者』の方がいいのだろう。正位置の意味は、『修行、忍耐、妥協』。
新城はカードに人差し指を置き、正位置を示していたそれを、くくっと、反転させる。つまりは、逆位置だ。意味は『徒労、痩せ我慢、欲望に負ける』――苦痛も忍耐も、反転してしまうと、報われなくなるのだ。
「白石純のケースは、我々の反省点となった。この前の出来事で、さらにその意識は高まった訳だが――これから話すそれは、今より何十周も前の話だ」
「何が、あったんです?」
「当時、『グループ』内には一つのカップルが存在していた。お察しの通り――並木慎次と、麦原司だ」
嗚呼、やっぱり。
二人は、元々れっきとした恋人同士だったのだ。
「情報探索・情報操作を専門としている並木君と、荒事処理を専門としている麦原君――役割分担こそ全く違ったが、老若男女、くせ者揃いの『グループ』において、二人は近しい距離にいた。年齢が近いこともそうだが――何より、二人は似たもの同士だった。一見、クールで何事にも無関心に見えるが、その実、情熱と正義感に溢れ、時にそれで暴走してしまうこともある。臆病で繊細な故に、人付き合いが苦手で、人から誤解を受けやすい。勿論、性格が似ているから惹かれ合う、と言う訳ではないんだけどね。事実、知り合った当初はお互い苦手意識を持っていたように見えた。だが、何百周と行動を共にすることで、何らかのイベントがあったのだろうね。気が付いた時には、二人は『グループ』公認のカップルになっていた、と言う訳だ」
二人は、恋人同士だった。
『孤独』という病が蔓延するこの世界において、ようやく見つけた理解者。寄る辺のない自分を受け入れ、肯定してくれる存在。
司は――どんなに救われただろう。
どれだけ満たされたことだろう。
だが、その恋人は、ある周突然、自分の前から永遠に姿を消してしまう。
勿論、翌周になれば蘇る――躰は。
だが、記憶は戻らない。
かつて愛した――いや、今でも愛しているその人は、自分のことを覚えていない。それどころか、関心さえ払わない。若い男女が狭い密室に丸一日一緒にいると言うのに、手出ししないどころか、見向きもしない。ただ、命令された通りに、パソコンモニターを凝視している。文庫本越しに見る彼の背中は、近くにいる筈なのに――果てしなく、遠い。
こんな非道い話があるだろうか。
失恋より、死別より、よっぽど残酷ではないか。
やはり、あの時、司は泣いていたのだ。並木に見てもらえず、二人の関係が『リセット』されたことを再認識して――彼女は、人知れず泣いたのだ。
想像するだけで、胸が締め付けられるようだった。
「と、ここまでが『グループ』内の話だ。ここからはグループ外へと、話は移る」
トン、と『恋人たち』のカードを人差し指で叩く。
「まあ、話題は同じ――『恋人たち』に関してだがね」
「他にも、カップルがいたってことですか?」
「そりゃあねぇ。烏丸・宮脇のようなカップルは、沢山いたさ。今でも、大勢いる。君が知らないだけだ。もっとも、彼ら彼女らは皆一様に室内に閉じこもる傾向にあるから、知っていろという方が無理な話なんだが」
結局、若い男女が一緒にいてやることは皆一緒、という訳か。社会的制約からも経済的制約からも解き放たれ、おまけに時間も体力も一日ごとに回復するというのだから、それも当たり前なのかもしれないが。
「今回の主役となるのも、そんな『カップル』だった。仮に、それぞれを『彼氏』、『彼女』と呼称することにしようか。その二人は比較的近所に住んでいて、ひょんなことから出逢い、お互いがリピーターだと知り、その後、頻繁にコミュニケーションをとるようになり――いつしか、恋に落ちた。その後は、烏丸・宮脇カップルと同じだ。『彼女』の方は、両親が共働きで、遅くまで帰らない。それをいいことに、『彼氏』は『彼女』の家に通い詰めた。躰を重ね、心を重ね、孤独と退屈と絶望を癒していた、という訳だ」
「…………」
「そして、そのことは我々の知るところとなる。まあ、その二人がどうこう、という訳ではなかったのだがね……『グループ』は、把握しているリピーターを巡って、最近変わったことがなかったを聞いて廻る、というのをルーチンワークとして、当時から行っていた。君も、織田君に引っ張り回されたことがあっただろう。それが、そうだ」
確かに、織田もそんなことを言っていた。『武器屋』や『教授』、烏丸英雄と宮脇杏、それに白石純と出逢ったのも、その行程の中だった。
「そのカップルは――麦原君が担当していた」
「…………」
「最初は何の問題もなかったよ。その二人は我々の存在を大層胡散臭がって、たまに来訪してもろくに会話もなく門前払いを喰らうばかりだったのだが――まあ、そんな対応には我々も慣れていたしね。麦原君も、特に何とも思ってないようだった」
烏丸たちとまるで同じ、という訳か。
「だが――しばらくして、何だか、事態が微妙な様相を呈してくる」
「微妙な様相って……」
「そう。いや――実を言うと、我々も、いまだに事態をよく把握できていないんだが……どういう訳か、そのカップルと並木君・麦原君の四人の間で、実に妙な――疑心暗鬼が起きていた、らしいんだ」
「疑心暗鬼?」
「『彼氏』が、担当者の麦原君にちょっかいを出してるんじゃないかって、並木君が邪推したのが、始まりだ」
「浮気、ってことですか」
「実際、どうだったのかは分からない。邪推は、邪推だ。並木君も、あれで結構嫉妬深いところがあるからね……」
嫉妬、か。
普段は徹底して無関心を装ってはいるが、あくまでそれはポーズにすぎない。興味も情熱も正義感も、人並み――いや、それ以上に――持ち合わせている人間だ。大切に想う人間なら、尚更だろう。善し悪しは別として、並木が嫉妬深かったというのも、頷ける。
「……でも、誤解なんですよね」
「本当はね。なのに、『彼氏』が麦原君を狙っていると、並木君は考えてしまった。ほぼ同じ時期に、『彼女』の方もまた、麦原君が『彼氏』に色目を使っていると考えていた。実際は、自分のパートナー以外には全く興味を示さなかったのにも関わらず――何故か、ありもしない事実が、一人歩きし始めた」
「要するに、痴話喧嘩なんでしょ?」
「そう簡単に言えればよかったんだけどね。麦原君は二人のことを警戒していて、二人は『グループ』のことを胡散臭く思っていた――そのことが、事態をややこしくした。誤解は雪だるま式に肥大していって――いつの間にか、後戻りの出来ない状態にまで発展してしまった」
「ただの痴話喧嘩が、何をどうすれば後戻りの出来ない状態にまで発展するんですか……」
「並木慎次は、『彼氏』が麦原司とできていると誤解し、激しく嫉妬した。いや、憎悪した。そして、自分の恋人を奪った『彼氏』に報復するため、『グループ』の力を使って、全力で潰しにかかった――」
「いやいやいや、そんな極端な話が――」
「話は最後まで聞きなさい。並木君が嫉妬のあまり『グループ』を利用して『彼氏』を消しにかかった――と、『彼女』は被害妄想を抱いていた。このままでは、自分の恋人が『グループ』に消されてしまう……。『彼女』は、相当焦ったに違いない」
「いや、だから、さ――ンなの、四人で話し合えば済む話しでしょう? 話し合って、誤解を解けばよかったんじゃないんですか?」
「そう思うよねぇ? ……だけどね、話し合いで解決するのは、ある程度の信頼があるもの同士に限られてるんだよ? そういう意味では――この四人は、最悪と言えた。まるでお互いを信用してない。相手の考えていることが分からない。相手の言うことが信用出来ない。例え話し合ったとしても……堂々巡りの平行線さ」
「それは分かりますけど……だからって、そんな、極端な結論に行きつくものなんですか!?」
「……ううん、実はそこに複雑な事情があるんだが――その話は後だ。今は、どういう訳かそういう状況になってしまった、くらいの認識でいい」
何だか引っ掛かる言い方だが、新城に話すつもりがないならそれまでだ。大人しく、話の続きを聞くことにする。
「さて、誤解が誤解を呼び、疑惑と焦燥がパニックを引き起こした頃、呆気なくXデーは訪れる。『グループ』が『彼氏』を消そうとしている――そう思い込んだ彼女が、思い切った行動に出たんだ」
「……どう、したんですか」
「有史以前から人類が繰り返し行ってきた蛮行さ。その名を、『やられる前に、やれ』と言う」
「………………………………」
「基本、並木君と麦原君、そして『彼氏』と『彼女』の二人は、常に一緒にいた。二人でワンセットだったんだ。
だけど――何故か、その周だけは、四人バラバラだった。
麦原君は、知らない人物から『並木のことで知らせたいことがある』とメールを受けて、わざわざ大宮まで出向いたらしい。
『彼氏』の方も同様だ。未知の人物からメールを受けて、藍土駅前公園に行っていた。
そして、それはそんな時に起きた。
不安と恐怖、憎悪と防衛本能に押し潰された『彼女』が――並木君を、殺しに行ったんだ」
「…………………………………………」
「出刃包丁を抱えて、彼のマンションに出向いたらしい。必死だったんだろうね。このままでは『彼氏』が『グループ』に殺されてしまう、そう思い込んで――『彼女』は『彼女』なりに、『彼氏』を守ろうとしたんだ」
「……それでどうなったんですか……」
「ううん……一言で言えば、返り討ちに遭った。いくら並木君がインドア派の青瓢箪とは言え、そこそこに経験を積んでいたからね。来る日も来る日も『彼氏』とよろしくやってた女子大生ふぜいに
負ける訳はないさ。並木君は、『彼女』の包丁を奪い取り、相手の胸に深く突き刺した。殆ど、即死だったんだろう。彼の清潔な部屋には、幾らかの血と――『彼女』の骸だけが残った……」
『節制』の下、並木慎次を表すカードが捲られる。
カードの絵柄は、『塔』。
意味は、『緊迫、突然のアクシデント、誤解』。
「…………。……それで……」
「どうなったか? ふうん。その後のことこそが……大変でね。
『彼女』が死んだ直後に、『彼氏』が部屋に現れたんだ。
その時のことは想像に難くないね。唯一にして最愛の人間が死んでいる――『彼氏』の憤りは尋常なものではなかったのだろう。『彼氏』は、その場で並木君を殴り殺してしまう。馬乗りになって、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も並木君の顔面を殴りつけ、顔の骨を折り、頭蓋骨を破壊して――死に至らしめたんだ」
「麦原はどうしたんですか!?」
あの女がいたなら、そんな蛮行は許さなかっただろうに。
「言っただろう。麦原君は、その時大宮にいた。未知の人物からのメールを受けてマンションに戻った時には――全てが終わっていた。部屋にあったのは、胸を刺されて絶命していた『彼女』と、顔面を破壊されて死んでいた並木君のみ、だ」
「『彼氏』は!?」
「どうしたんだろうねぇ……恐らく、逃げ出したんだろう。『彼氏』も、麦原君の戦闘力のことは承知していた筈だ。人間離れした俊敏性と、上着から無数に飛び出る得物の数々――その当時から、暗器使い・麦原司の名は知れ渡っていたからね」
「うまく逃げおおせたって訳ですか……」
「そう。『彼氏』はそこで逃げ切った。我々は『彼氏』の氏素性も知っていたし、当然住所も把握していた。拘束しようと思えば、いつでも出来た。実際、麦原君はすぐにでも血祭りにあげたかったらしいが――我々が阻止した。私の頭には白石純のことがあったからね、できるだけ手荒な真似はしたくなかったんだよ。勿論、同胞の並木君を消されたのは許せなかったが――それよりも、一番大切なのは真相の究明だ。二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、慎重に接触を続け、『彼氏』から本当のことを聞き出そうと努めた。
――と、まあ、ここで事件は一旦の終息を得る」
ふっ、と軽く息を吐き、新城は悠一を睨めつける。
「……さて、この辺りで、ネタばらしといこうか。ネタの内容は、『彼氏』『彼女』の氏素性について、だ」
「…………」
「君も愚鈍ではないのだから、おおよその察しはついているのだろう。できれば聞きたくないのかもしれない。だが、言わせてもらうよ。まず『彼女』――」
悠一の顔を見つめながら、最下段のカードを捲る。
「時雨大学文学部二年――滝なゆた」
捲ったカードの絵柄は――逆位置の『運命の輪』。
逆位置の意味は、『情勢の急激な悪化、アクシデントの到来』。
「そして、『彼氏』――」
その左のカードが捲られる。
カードの絵柄は、『愚者』。
意味は、『夢想、愚行、極端、熱狂』。
「小鳥遊悠一――つまり、君だ」
嗚呼。
嗚呼、やっぱり。
やっぱり――そうだったのだ。
悠一と滝なゆたは恋人同士だった。
二人の許を、司は何度も訪れていた。
そして、その司と並木もまた、恋人同士だった。
四人の間に、因縁はあったのだ。
だが、あらぬ誤解のために、並木はなゆたを殺し、その並木を悠一は殺してしまう。何度も何度も、並木の顔が変形するまで殴りつけたのだと言う。不意に、恐ろしくなって自分の手を見た。勿論、汚れてなどいない。きれいなものだ。
だけど――かつては、この拳を血で汚したのである。
リピートが起きれば、汚れは落ちる。殴殺した人間さえ、蘇る。
だけど、並木の記憶は二度と戻らない。
罪は、消えない。
――自分は、ヒトゴロシなのだ――。
「……麦原が、俺を嫌っている理由が分かりましたよ」
司が悠一に抱いている感情を、織田は『嫌悪』ではなく『憎悪』なのだと説明した。当たり前だ。悠一は、司から並木を奪ったのだから。いくら憎まれたって――仕方がない。
「……ふうん。分かったのかい」
カード群に目を落としたまま、平坦な声を出す新城。
「本当に?」
「え……? 多分、ですけど……」
「ふうん。それはおかしいなあ……。私は、まだ導入部分しか話してないんだけどなあ? それで、何が分かったって言うんだい?」
そんな。
これで、終わりではないと言うのか。
「イントロ――って、だって、もう滝なゆたも並木さんも、リセットされたじゃないですか!?」
「二人はね。でも、君はどうなんだい? 並木君を殺して、逃走して――それきりじゃないか。どのタイミングでリセットされたって言うんだ?」
「それは……」
「まだ終わりじゃないよ。始まってすらいない。何せ、大事なのはこれから話す部分にあるのだからね」
「…………」
「いいかい? よく聞くんだ。誤解と混乱からドミノ式に生じた惨劇――リピートから明けて、我々はようやく一応の落ち着きを見せた。取り敢えず、狂乱から逃れられた訳だ。だが、それでハイおしまい、という訳にはいかない。行く訳がない。何故、滝君が凶行に走ったのか、そもそも、その誤解の出所がどこなのかを明確にして、二度と同じ過ちを繰り返さないようにする必要があった。しかし、当事者である並木君、滝君はすでにリセットされてしまっている。記憶のない人間から証言をとる訳にもいかない。麦原君も当事者と言えば当事者だが、彼女はほとんど何も知らなかった。ならば――残る人物はただ一人。つまり、君だ」
『愚者』のカードを指で押し、新城は悠一を真っ直ぐに見据える。だが、悠一は視線を返せない。慌てて目を逸らし、自分を象徴する『愚者』のカードに視線を固定する。荷物を抱え、崖に向かって陽気に、危なっかしく闊歩する旅人の姿が、そこにある。
この男は――何をしでかしたんだ?
自分のことなのに、まるで分からない。
「我々は、慎重に君との接触を計った。今でこそ筒井君だけだが、当時は交渉役の人間は何人もいたからね。あの手この手で君から情報を引き出そうとしたんだが――結局、うまくいなかった。君は我々に対して完全に心を閉ざしてしまっていた。なゆたが死んだのはお前らのせいだ、なゆたを返せ、この人殺し――と、口汚く何度も我々を罵った。とてもではないが、まともなコミュニケーションがとれる状態ではなかったね。……ま、我々も並木君と言う人材を失っている訳だが……そんな状態の君に言える訳もないしね」
口調は柔和だが、明らかに悠一を詰っている。だが、その悠一は悠一であって悠一ではない。そんな自分は、知らない。自分の手で並木を殺しておいて被害者面をするような……そんな、恥知らずな人間など。
「……すみません」
だけど、気持ちとは裏腹に、口からは謝罪の言葉が漏れていた。
「いやいやいや、今の君が謝ることはないさ。私は『過去』の話をしているのであってね――今の君は、ただ、私の話をしっかりと聞いていればいい」
先程から、新城はやたらに『話を聞く』ことを強制してくる。言われなくとも、聞かない訳はないのだけれど。
「君から情報を引き出すのに悪戦苦闘するのと並行して、並木君、滝君への接触も行っていた。勿論、二人は私たちのことなど覚えていない。いわば白紙の状態だ。だが、プラスマイナスゼロであるだけ、やりやすかったとも言える。最初のうちは少し警戒していたようだったが、この世界のルールやリピーターのことを教えてあげると、比較的簡単に心を開いてくれたよ。自分たちがリセットされた人間であるということは、一応伏せておいた。初っ端からあれもこれもと情報を与えても混乱させるだけだしね。折りを見て、切り出すつもりでいた。当時の君とは違い、円滑にコミュニケーションがとれていた訳だ」
「…………」
返す言葉が見つからない。
「そして、君は君で、滝君と接触を計ろうとしていたようだった。当然だね。恋人を失ったとは言え、フラれた訳じゃない。死別と言えば死別だが――彼女は、蘇った。同じ沿線に、同じリピーターとして、当たり前のように暮らしている。会いに行かない訳がない。慎重に接触して、信頼を得て、好意を得て、心を通わせ――それで、かつての関係を取り戻そうと腐心していた訳だ」
有り得る話だ。悠一なら、きっとそうするだろう。生憎と、今の悠一はなゆたと恋人関係にあったこと自体を忘れていたので、行動に移ることはないのだが――いや、違うか。行動は、起こしているのだ。そもそもの発端は、彼女を救うためだった。悠一は、なゆたに執着して、本当のことが知りたくて――それで、ここまで辿り着いたのだ。
久しぶりに、顔を上げた。
目の前で淡々と真実を話す、新城と目を合わせる。
新城は悠一の目を見つめ返して、続きを話し始める。
「全ては――順調だったよ。我々はリセットされた二人との信頼関係を築きつつあった。それと共に、通常業務――新しいリピーターとの接触や、怪物討伐――も行っていたし……見通しは、明るかった。君は君で、滝君と順調にコミュニケーションをとっていたようだったしね。時間はかかるだろうが――いずれは、以前の関係に戻れそうだった。
相変わらず、君は『グループ』を許さないでいたが……それでも、徐々にではあるが、態度が丸くなっているようにも感じられた。心を開きかけていたのかもしれない。あのままいけば、いつかは我々に事件のヒントを与えてくれる――そうやって、我々は楽観視していたんだ」
「だけど――そうは、ならなかった?」
「その通り。我々が呑気に構えている間に、いつの間にか綻びは生じていたのだろうね。ダムの堤防は、蟻の穴で決壊する。その穴を開けたのは――言うまでもないだろうが――やはり、君だ。
事件から百周くらい経った頃だったかな。その頃には、もう並木君は『グループ』の一員として働いてくれていた。前のように、ハッキングみたいな派手な働きこそなかったものの、持ち前の集中力と粘り強さで、ネットに点在するリピーターを発見するなど、『グループ』に貢献してくれていたんだ。そして、麦原君とも、徐々にではあるが、以前のような信頼関係を結んでいるように見えた。
一方、その頃になると滝君との接触はほとんどなくなっていた。我々に心を許していたとは言え、端から『グループ』で仕事するつもりはなかったらしい。趣味である音楽や映画の鑑賞に、一日のほとんどを費やしていた。まあ、我々が接せずとも、君がマメにアプローチを続けていたし、少なくとも『孤独』や『退屈』に蝕まれることはないだろうと高を括っていた訳だ。
君は君で、その頃には随分と態度を軟化させていた。『グループ』のメンバーと個人的にコミュニケーションをとるほどだ。元々、君は人懐っこい性格だからね。一度心を許せば、メンバー全員と仲良くなるのにそう時間はかからなかった……」
「ずいぶんと、順調そうに聞こえますけどね」
「そうだろう? 当時の我々も、そう思っていた。
だけど――それこそが、落とし穴だったんだ。
我々は、誰も事の真実に気が付いてなかった。楽観主義というぬるま湯に肩まで浸かって、本当のことを知ろうともしなかったんだよ。すでに、綻びでは済まされない――大きな穴が穿たれていたというのに」
「どういうことですか?」
新城の話は表現がいちいち詩的で、いまひとつ要領を得ない時がある。
「嘘――だったんだよ」
「……何が、ですか」
「君と、滝なゆたがうまくいっているという――君の言葉が、さ」
混乱した。
さっきまでの話では、全ては順調だった筈、なのに。
『グループ』と並木、
『グループ』と滝なゆた、
『グループ』と悠一、
そして悠一と滝なゆた――
全ての接触は、全てのコミュニケーションは――
うまくいっている、筈だったのに。
「それが、大間違いだったんだ。どういう訳か、滝君はある頃から君に対して露骨に不信感を抱くようになったのだと言う。君は慌てて取り繕い、自らの誠意を、愛情を示すように努めた。だが、それは逆効果だった。彼女はますます君を警戒し――最終的には、君をストーカー呼ばわりするまでになった、らしい。
決定的だった。
こういうのを、絶望と言うのだろう。心通わせ、躰を重ね合わせた人間が――もう、絶対に手に入らない。君は打ち拉がれた。
だが、そんな現状を覆い隠して、君は我々と交流を続けていた。朗らかに、滝君とののろけ話を交えながら、ね――何故だと思う?」
「何故、って……」
そんなの、今の悠一に分かる筈がない。その悠一は、今の悠一とは別人なのだ。今の悠一に――分かる筈がないのだ。
「油断させるため、だよ」
言いながら、くくっと、『愚者』のカードを人差し指で反転させてしまう。
逆位置の『愚者』。
意味は――『軽率、無謀、先を考えない愚かな行動』――
嗚呼。
悠一の『愚者』が、反転してしまった。
過去の悠一が、今の悠一に復讐しようとでもしているかのようだ。
「君は、滝君に徹底的にフラれて、絶望して――一つの、愚かな思想を抱き始めていた。……否、妄執、とでも言った方がいいかな」
「……もうしゅう……」
喉がカラカラに乾いている。出来るならば、この先は聞きたくない。だが、悠一は動けない。その場に硬直したまま、新城の言葉を耳に入れてしまう。
「自分は、一日ごとに全てがリセットされる壊れた世界に住んでいる。だけど、それはどうやったって、本当のリセットにはならない。何故なら、他にも多くのリピーターがいるからだ。命を失えば、その人物の記憶はリセットされる――が、それはあくまで個人レベルの話だ。
なかったことにはならない。
罪は消えない。
傷は消えない。
リセットには、ならない。
飽くこともなく躰を重ね、その吐息を、体温を、鼓動を共有した女性は、完全に自分に心を閉ざしている。こんな世界は、耐えられない。だけど、逃げ場などない。どこへ逃げたって、全てはリピートが起これば元通り。新しい進展など、望める訳もない。
全てをリセットできれば――罪を、傷を、自分のしてきた全てを――リセットできれば、或いは自分は救われるのかもしれない。だけど、それは無理だ。全てをリセットするためには、全てのリピーターをリセットさせる必要がある――」
嗚呼。
そんな。
まさか。
「そこで君は、はたと気付いた。そうだ。そうなのだ。全てのリピーターをリセット出来たのなら、その時こそ、真のリセットが訪れるのではないか! 全てのリピーターを殺せば、自分は救われるのではないか――」
「そ、そんなの、ムリに決まってる……」
声が震える。喉がカラカラだ。潤そうとカップを口につけるが、とうの昔にコーヒーは飲みきっていた。新城が注いでくれる気配は、ない。悠一は無理矢理唾液を飲み込んで、次の『真実』を待つ。
「無理? ふん。この世界において、無理なことなんてあるものか。さっき言っただろう? 我々が生きているのは、ひどくミニマムな『小さい世界』なんだ。そりゃ、日本国民を全て抹殺するのは不可能だろう。だが、一つの街――埼浜線沿線の人間を皆殺しにするのなら、決して無理な話ではない。その当時の君は、八千周以上の今日を生きてきた強者だった。その知恵と知識と情報――全ての記憶を総動員させれば、達成できる――少なくとも、君はそう考えたんだ」
「でも、だって……第一、リピーターとそうでない人間を、どうやって見分けるって言うんですか!? アンタだって言ってたでしょ!? 『グループ』も、全てのリピーターを把握できている訳ではないって……」
「そんなの関係ないさ。
全員、殺せばいい。
可動範囲の端から端まで、街を歩いている人間を全て殺して廻る――それならば、何の問題もない。リピーターはリセットされるし、リピーターでない人間は、翌周に蘇る。君は、そう考えた」
「それじゃ怪物と変わらないじゃないかっ!?」
「『変わらない』? ふん。何を言っているんだ。
私は、怪物そのものだと言っているんだよ。
それも、竹崎みたいな可愛らしいモノじゃない。私の知る限り、最強で最凶で最狂の怪物。それが、君だった。何せ、その目的をリピーターの総リセット一本に絞っていたのだからね。二度と戻らない『記憶』という財産を、君は根こそぎ刈り取ろうとしていたんだ」
「そんな……」
「君は、誰にもその本意を悟られることなく、行動を開始した。ここからは推測だが――君はまず、滝なゆたを最初に殺害した」
「な、何のためにっ!?」
「己の決意を固めるため――かな。自分を避け続ける彼女を最初に殺めることで、自らの指標を作り上げたんだ。君はいとも簡単に彼女を手にかけ、その首を切断して、大きめのバッグにそれを詰めた。そしてそれを常に持ち歩くことで、己の意志が、軸がブレないようにした――さながら、津山三十人殺しの犯人・都井睦雄が学生服やゲートル、懐中電灯を結わえた鉢巻きに身を包んだように、ね。
或いは、単純に、常に彼女を身近に感じたかったのかもしれない。首だけになった彼女は、決して君を拒絶したりしないしね」
……目眩がした。
これは、何だ。
今新城が語っているのは、本当にあった話なのか?
いや、仮にそれが真実だとして――それは、本当にこの自分がやったことなのか? そんな残酷な、凄惨な、グロテスクなことを、この自分が――?
「最初は、あくまで秘密裏に行動していた。暗殺者よろしく、影から影へ移動して、何でもない顔をして相手に近付いて――何の躊躇もなく、相手を殺めて。『グループ』メンバーに嘘を吐いていたのは、油断させるため、だと言っただろう? その下準備がここで生きてくる訳だ。彼ら彼女らは、君の接近に一切の警戒をしなかったんだろうね。そして、あっさりと殺されてしまう。我々が気が付いた時には――すでに、『グループ』メンバーの大半は、君の手によってリセットされてしまっていたんだよ」
「そんなっ! いくら油断してたからって、『グループ』の人間が、俺なんかにあっさりと殺される筈が――」
「それが君の狡猾なところでね。君が狙ったのは、ほとんど戦闘能力を持たない、交渉班の人間か調査班の人間に限られていた。それも、必ず一対一に持ち込んでの凶行だ。気付いた時には、すでに『グループ』は壊滅状態だった、という訳さ」
「織田さんは!? 麦原は!?」
「だから、気が付いた時には全てが終わった後だった――と言っただろう? 恐ろしいのは、これらの凶行が、全て一周の間に為されたことなんだ。信じられるかい? たった一周――二十四時間という限られた期間で、君はウチの精鋭十数名をリセットさせたんだ。巧みにメンバーを信用させ、誘導し、一対一に持ち込み、その上、殺害自体も無駄なく手早く済ませて――いやはや、これはすでに職人技だよ。プロの殺し屋も真っ青だ。たった一周の間に、『グループ』のメンバーの大半を潰した訳だからね」
「…………」
返す言葉が見つからない。それをしでかしのは他ならぬ自分である筈なのに――どこか他人事だ。自覚できない。自分の『過去』とは思えない。『罪』を『罪』と――認識できない。
「勿論、そのことは我々もすぐに気が付いたよ。メンバー同士、常に連絡を取り合っていたからね。唐突に音信が途切れれば、当然不穏に思う。翌周には、ほとんどのメンバーが記憶をなくしていた訳だしね。そしてそれと同時に、君とも連絡が取れなくなっていた――結びつけて考えるなというのが無理な話だろう?」
「……それで……」
弱々しい声で、先を促す。
――これ以上は聞くな!
もう一人の自分が心のどこかで叫んでいたが、それよりも、真実を知りたいという自分の方が、僅かに勝った。
「それで、どうしたかって? そりゃあ、必死で君を探索したさ。償いがどうの罰がどうのと言う前に、まるで意味が分からなかったからね。まずは、君に真意を問い質したかった。……まあ、実際にはそれは叶わなかった訳だがね」
「え? じゃあ、なんで――」
そんなに事細かな心理描写ができたのだろうか。
「最初に言っただろう。これは、あくまで推測だ。後になって、筒井君が導き出した仮説にすぎない。彼女はそういう方面は滅法得意だからねぇ」
あぁ、そう言えばそうだったか。
「――だが、君は見つからなかった。どこをどう移動しているものか、君の行方は全く知れなかったんだよ。まるで、本当に闇から闇へ移動しているようだった」
それは、おかしい。
「俺は……六時半まで、寝ている筈です。いつも、リピート明けは六時半なんです。寝込みを襲えば、俺の身柄を確保するくらい、簡単だったんじゃないんですか?」
「そこだ。いや、勿論我々もそう考えたよ? 君が六時半になるまで自室のベッドで熟睡していることは、我々も情報として持っていた。だからこそ、織田君や麦原君を走らせた。時間帯が時間帯だけに『足』を確保するのが難しかったんだが……そこはそれ、形振り構わず、無賃乗車でも自転車泥棒でもして急げば、君の自宅には一時過ぎには到着できる」
以前、織田に寝込みを襲われたのは三時過ぎだった。あの時は大宮から徒歩で来たんだったか……。織田は貧乏なのだ。高校生の司も似たようなものなのだろう。だが、法や社会的制約を取っ払っていいのなら、急ぐ算段はいくらでもある。
「しかし、君はいなかった。一時過ぎ、君はすでに自室にいなかったんだよ。そして突拍子もない場所で姿を現す。それは池袋だったり渋谷だったり、大宮だったり緑木だったり――まるでバラバラだ。 そこで、君は大量無差別殺人を行った。
道行く全ての人に刃を向け、手早く効率よく、驚く程の短時間で、屍の山を築いた。そして、警官隊が到着する頃にはきれいに姿を消している。見事、と言いたくなる手際だったね。君は全てのリピーターを総リセットするため、足の届く範囲にある街で無差別殺人を敢行したんだ。街の大小、位置関係はまるでデタラメ。無秩序に、神出鬼没に君は出現し、その場にいる人間全てを殺害して消えていったんだよ」
一瞬、その光景を思い浮かべようとして――それが間違いだった。ナイフ、包丁、バット、鉈、鋸、訳の分からぬまま絶命していく人々、血、血、血――そして、その全ての返り血を浴びて立っている――小鳥遊悠一――つまりは、自分自身。
気持ち悪くて、信じられなくて、思わず大声を出した。
「そ、そんなにうまくいく訳がないッ!」
「うまくいく訳がない? ふうん? どうして、そう思う?」
「だって、そんなことしたら、すぐに警察が駆けつける筈です!」
「君は人の話を聞いていないのかい? 警官隊が到着する頃には、君はすでに逃走していたと言っただろう」
「だから、なんで、そんなにうまく――」
「そこまで、計算していたんだろうね。都会の真ん中でそれだけの事件を起こせば、当然警察が駆けつけてくる。しかし、君はそれをも計算に入れて――だからこそ、手早く犯行を行った。君は、どの土地でどうのように動いたら、どのタイミングで警察が駆けつけてくるか、ある程度把握しているようだった。君の動きには無駄がなかった。殺すだけ殺して、警官が到着する頃には逃走。君はあらかじめ、無数の逃げ道を用意していたようだね。抜け道や抜け穴、各種交通機関を駆使して、煙のように忽然と姿を消す――」
「…………」
「午後一時五十八分二十八秒。この時刻に、藍土駅前の歩道橋から勢いよく飛び降りると、下を走っていたトラックの荷台にタイミング良く飛び移ることができる――君も知っているだろう。この前、身を持って実感した筈だ。実はあれ、そもそもは君のアイデアだったんだよ。我々はそれを、再利用させてもらっただけにすぎない。君は、ああいったアクロバティックとも言える方法で、警官隊を、何度も振り切った。
慌てて警備や監視網を引いたところで、君は全く離れた場所に出現して、同様の犯行を繰り返す。そんなことが、一周の間に三、四回もあったんだ。そうなれば、パニックが起きる。警察も躍起になる。だが、君も知っての通り――夜の十二時を迎えれば、全てはなかったことになる。皆、忘れてしまう。警察も、君に殺された被害者たちも――リピーターであるないに関わらず――忘れてしまう。リピーターでない人間はリピートによって、リピーターである人間はリセットによって、同様に記憶を失ってしまう。そして、君はまた自由を手に入れると言う訳だ」
「や、いや、確かにそうだけどっ!」
悠一は慌てていた。
何か反論しなくては。
新城のに矛盾点を見つけ、それを指摘しなくては。
でないと――悠一は、己の大罪を認めることになってしまう。
「だ、だから、そんな時のためにアンタらがいるんでしょう!? 確かに、リピーターは、殺されればリセットされてしまうのかもしれない。だけど、生き残ったリピーターはどうですか!? 『グループ』の人たちは!?」
「君は本当に人の話を聞いてないようだね。『グループ』は、君がほとんど壊滅させてしまったのだろうが。もっとも、今になって考えて見れば、君は街中で自由に無差別大量殺人を起こすために、『グループ』の壊滅を最初に行ったのだろうがね。本当は、全員を殺したかったのだろう。だが、私や筒井君、鷲津さんの三人は警戒心が強く、心のどこかで君を訝しがっていた。だから、君の誘導にも乗らなかった。戦闘班の二人は言うに及ばず、だ。いくら当時の君が強者だったとは言え、あの二人には、敵わない」
「そうだよ、アンタらは生き残ったんだろう!? 今と同じように、『グループ』は機能していた筈だ。だったら――」
「無理だよ」
新城の返答はにべもない。
「各地に神出鬼没に登場する君に対して、我々はあまりに無力だった。私は司令塔だし、筒井君は交渉役だ。仮説を立てるのは得意だが、仮説はあくまでも仮説だ。まるで無軌道に場所を選ぶ君に対して抗う術は、我々にはなかった。
……一回だけ、君から電話がかかってきたことがあったがね。我々は、そこで初めて君の境遇を知ったんだ。さっき話した経緯は、この電話での会話で知ったことだ。もちろん、携帯からの電話では君の居場所を特定することはできなかった訳だが。
織田君・麦原君にしても、君を捕まえることはできなかった。戦闘班は当時も今もこの二人で、こういう有事の際にこそ真価を発揮するのだが――相手がどこに登場するのか分からないのでは、闘いようがない。警察は各自治体に必ずあるが、我々の躰はそれぞれ一つしないからね。登場してから駆けつけたんじゃあ、とてもではないが間に合わない」
「そのための調査班でしょう!? 鷲津さんは、俺の居場所を探知できなかったんですか!?」
遠くで紫煙を燻らせている鷲津本人が、自分の名を耳にして不意に振り返る。だが、それだけだ。決してこちらの会話に入ってくることはない。
「だから、無理を言うなって。彼は、確かに優秀な探偵だよ? 今までも、これからも、調査班の幹部として働いてくれることは間違いない。だけど、鷲津さんとて万能じゃあない。そりゃ、対象の居場所が分かっていれば、調査も監視も思うがままさ。相手の氏素性はもとより、その過去も、ある程度の思考パターンをも探ることはできる。だけど、このケースでは、それは当て嵌まらない。相手は神出鬼没な殺人鬼だ。その行動から次の出没予定地を『推理』することはできるが――それでは、筒井君の『仮定』と何ら大差はない。鷲津さんも、言うまでもなく躰は一つだからね。監視するにしても、限界があるんだよ」
「じゃあ並木さんは!? あの人はどうなんですか!? リアルに監視するのが無理でも、ネットの力を借りれば、俺の居場所ぐらい、すぐに分かったんじゃないですか!?」
まるで、自分を捕まえてほしかったみたいな言い分だ。そしてそれは、正鵠を射ている。悠一は、『グループ』に『過去』の悠一を捕まえてほしかった。そうすることで、『過去』の自分と現在の悠一が直結しなくて済むのだ。そのためには、悠一はどんなことだってする。
だけど、返す新城の言葉は、悠一をさらなる地獄へと突き落としたのだった。
「並木君――か。まあ、このご時世、『世界』の動きを知るには、ある意味そちらを利用した方が効率がいい場合もある。巨大掲示板でも、SNSでもツイッターでもいい。信憑性は別として、藁にもすがる思いの我々にとっては、ネットは時として、非常に有効なツールになるのだろうね」
「だったら――」
「だけど、その時すでに並木君はいなかったんだよ」
「……え?」
「再び、リセットされていたんだ」
「何で……」
なゆたの思い違いのせいで彼女に命を狙われて、それを返り討ちにしたところを悠一に目撃されて――それで、一旦リセットされて。
だけど、その後は紆余曲折あったものの、結構うまくいっていた筈だったのだ。『グループ』にも馴染み、司との距離も着実に縮めて――それなのに――また、悠一の手によってリセットされてしまったと言うのか!?
「君はまた人の話を――ああ、いや、悪い。これはまだ話していないんだったか。話は前後するが――大量無差別殺人に移る直前、君は『グループ』メンバーのほとんどをリセットさせたと言っただろう? その中に、並木君も入っていたのだよ。巧みな誘導で、麦原君を別の場所に呼び出しておいて――奇しくも、一回目のリセットの時と同じように――君は、並木君を惨殺した。ほんの三十分ほどの凶行だったらしいよ。何か胸騒ぎがして部屋に戻った時には……全身を、ズタズタに切り裂かれて絶命していたらしい。麦原君が席を外した三十分の間に、だよ。
彼女は半狂乱になった。
……否、『半』ではないな。
完全な、狂乱だ。
宥めるのが大変だったよ。髪を振り乱し、目を血走らせて、『殺してやる』『殺してやる』って――必死に、織田君が押し止めたんだ。まぁ、彼女の気持ちも分かるがね。君は、それだけのことをしたのだから」
司は終始一貫、悠一に敵意を抱いていた。
冷たく鋭い視線を投げかけ、何度も侮蔑に近い言葉を悠一に投げかけた。当初、悠一はその態度に幾らかの不自然さを感じ、そんな境遇に置かれることに対して理不尽さを感じていたのだが――蓋を開けてみれば、何のことはない、それは至極真っ当な感情だった訳だ。
悠一は、並木を二度殺していた。
『グループ』メンバーの大半を殺していた。
街行く人々を無数に殺し続けていた。
どれほどの――大罪なのだろう。
他の誰でもない、この自分自身が起こした凶行。
やめればいいのに、悠一はその光景を想像してしまう。罪を、疵を認識するかのように、まざまざと想起してしまう。
吐き気を催すほどの、血と、死体。
得物を手に、目を三白眼にして佇む自分。
殺意――否――妄執、か。
――気持ちが、悪い。
フラッシュバックのように、その光景が脳内で明滅する。当時の記憶はリセットによって完全に消去されている訳だから、それは悠一の完全な想像の筈なのだけど……それでも、気分が悪いことには変わりがない。
頭が、鉛を詰められたように重くなる。
がくり、と項垂れる。
息が苦しい。
息が、熱い。
どくん、どくん、と全身が脈打っている。このまま失神できたなら、どれだけ幸せだったのだろう。
だけど、新城は尚も話を続ける。
小鳥遊悠一の『過去』を――大罪を――明白にしていく。
「『グループ』が半壊滅にあった翌周、ほとんどのメンバーがリセットされていることを知ったのもあって、私はようやく事態を把握した。
小鳥遊が、動き出した。
我々は、欺かれていた。
――と、その時になってようやく気が付いた訳だ。我ながら間抜けな話だがね。
しかし、そこからの行動は素早かった。我々はまず、並木君の保護を最優先に行動した。大学に行こうとする彼を拉致し、取り敢えず安全と思える部屋に、軟禁したのだ。並木君は、二度殺されている。つまり、彼は他のメンバーとは明らかに違う意味を持っていた訳だ。考えて見れば当たり前の話だ。君にとって至高の存在であった滝君を殺したのは――リセットしたのは――他ならぬ並木君なんだからね。これから先も、君が並木君を狙う危険性は、充分にあった。だからこそ、我々は彼を保護しなくてはならなかった。ま、訳の分からないままに攫われて、見知らぬ一室に軟禁された並木君にしてみれば迷惑な話だっただろうが――ああ見えて、彼は意外に順応性が高いところがあるからね。何だかんだ言いながら、我々の指示に従ってくれたよ。その後、彼にはこの世界のこと、『グループ』のことなどを一通り説明して――今に続く。二度のリセットを経験した現在の彼は、現在の君が知っている『並木慎次』と地続きという訳だ。
並木君には、拉致したその日から、早速ネット散策の仕事にあたってもらった。何せ、人手が足りなかったものだからね。まさにその時、君はあらゆる街で無差別大量殺人を巻き起こし、テレビでもネットでもそのことで持ちきりだった訳だが――幸か不幸か、神出鬼没さ故に、ごく一部のリピーター以外に、君の氏素性は知られてなかった。だから、並木君は無差別大量殺人のことは知っても、その犯人までは知らなかったのだろう。白石純や烏丸・宮脇カップルなどの、部屋に引き籠もっていた連中も同様だ。君の『過去』は知らなかった」
『カップル』とは全く会話をしていないので、その真偽は確かではないが――白石純に関して言えば、確かに、悠一のことを知らなかったように思える。二周前の白石家訪問の際――例のSOSメッセージにおいて、奴は悠一のことを『高梨さん』と表記していた。その時は単純なタイプミスかと思ったのだが――考えてみれば当たり前なのだ。
その時、悠一はちゃんと自己紹介をしていない。一応、司が『タカナシユウイチ』と名を出してはいるが、それだけだ。字面の説明まではしていない。『タカナシ』という音だけで『小鳥遊』という字を思い浮かべられる人間は、ほとんどいない。大多数の人間は、『高梨』という字を浮かべる。白石純も、そうだった。
つまり、不自然に何でもかんでも知っていた『グループ』とは正反対に、白石純は、正真正銘あの時が悠一との初対面で――当然、悠一の過去のことも知らなかったのだ。だからこそ、スタンガンで人質に取ろうなどという発想が湧いたのだろう。悠一が稀代の殺人鬼だと知っていたなら――そんな風に考える訳が、ないのだから。
「『グループ』以外で小鳥遊悠一の氏素性と『過去』を知っていたのは――『武器屋』と『教授』くらいかな」
『グループ』に得物をレンタルする、死体愛好者の変態。
書店に入り浸る乱読派、末期癌の妻を持つ温厚な紳士。
この二人が――悠一の『過去』を、知っていた?
嗚呼、でも確かに、『教授』は事の真相をある程度把握しているんだったか――あの紳士は、真相を知っていて尚、柔和な態度で、自分のような殺人狂と接してくれていたということか。
「この二人とは、生き残ったメンバーが普段から懇意にしていたからね。君のしでかしたことを、この二人だけは知っていた。現在の君も、この二人とは面識がある筈だよね? 織田君に連れられて紹介された筈だ。勿論、その場で君の『過去』に言及するような真似はしなかったのだろう。あくまで、初対面を装った。我々がそうするように頼んでおいたからね、箝口令を引いた、とでも言うのか」
結局のところ――皆、知っていたのだ。
悠一が、大量無差別殺人者であったことを。
悠一が――怪物であったことを。
怪物。
怪物。
怪物。
馬鹿。
嫌い。
……嗚呼。
数瞬の間に無数の言の葉が流星群のように脳内に降り注ぎ、そのいくつかが明滅して悠一に一つの事実を伝える。
司のことだ。
彼女は、初対面で『私は貴方が嫌い』『莫迦は嫌い』と、はっきり明言していた。そして、そのしばらく後――リピート地獄によって孤独と退屈、絶望に蝕まれて精神を病む連中――美智代が怪物と呼んでいた連中のことを――司は、『ただの莫迦』だと切り捨てていた。
簡単な三段論法だったのだ。
悠一は怪物だった。
怪物は『莫迦』だ。
『莫迦』は嫌いだ。
だから、悠一は嫌いだ――。
嗚呼。
嗚呼。
そうか。
そうなのだ。
最初から――かなりあからさまに、悠一が怪物であることを明示していたのではないか。
――自分で気が付かなければ意味がない。
その文言を吐いたのは、司か、織田か、美智代か――それとも、新城か。
竹崎の一件に限ったことではなかった。
全ては、予定調和。
全ては――悠一に気付かせるためのお芝居だったのである。
滝なゆたの不審死を餌に自ら探求させ、深入りさせ、真実を追究するするように仕向けて――その道中、様々な人物に会わせ、様々な言葉を聞かせ、様々なイベントに遭わせて、この世界で生きる上での価値観、倫理観を植え付ける。
二度と、同じ過ちを繰り返さぬように。
最強、最凶、最狂の怪物を――更正させるために。
そのために、『グループ』は腐心していたのだ。
己の罪を認めること。
新城が求めているのは、その一点に尽きるのだろう。
だけど。
だけれど。
三桁近くの人間の命を奪ったことを――二桁近くの人間の記憶を奪ったことを――どうして、簡単に認められようか。
嗚呼。
嗚呼。
嗚呼。
座っているのに――目眩がする。
「――ふん。罪悪感に押し潰されているようだね。果たして、私の言葉がどれだけ届いていることか……。それでも、聞いてくれ。君にはその義務がある。
一応、事の顛末を最後まで語ろうか。君は様々な街に出没しては無差別大量殺人を繰り返した。我々が追いかけては逃げる、そして次の場所で行動を続ける――その繰り返しだ。
次第に君は、一周の間に、いかに効率よく多くの人間を手にかけられるか、そのことに拘泥するようになっていった。いわば、一度クリアしたゲームで、いかにハイスコアが狙えるかを考えるかのような――思考パターン自体は、白石純のそれと大差なかったと言える。それだけ、慣れていた、というべきかな。勿論、我々とて無為な鬼ごっこを続けていた訳ではない。君がどういう経路で事を行っているのか、次に現れる街はどこか――その捻出に余念はなかった。
ほとんどは空振りだったがね。リピート直後に君の家を突撃しても、もぬけの殻。他に訪れる場所は、どこか。滝家だ。毎周滝君を殺害して、首を切断していることは分かっていた。だから、同様にリピート直後に滝家に直行したりもしたのだが、こちらも間に合わない。すでに、家には滝家一同の死体――滝なゆた君に至っては首なし死体――しか残されていなかった。出発点も経由点も押さえられないのなら、もうお手あげだ。我々は二十四時間という限られた時間の中で、知力と体力を振り絞り、後は運を天に任せて、君との邂逅を願うしかなかった。
そして、それは程なく叶うことになる。
運命の場は、君もよく知る藍土駅前において、だよ」
……藍土駅……。
織遠学園。マック。入江。美那。噴水。紺色の傘。美智代のポンコツ車。公園。テスト勉強。虹。発熱。歩道橋。様々な事柄が関連の時系列も無視して、無軌道に飛び交う。
……ひどく、ふわふわとしている。
ぼぅっと――する。
「君が狩り場を藍土駅前に決め、いつものように片っ端から街の人々を殺戮している時、ちょうど我々もその場にいたのだよ。
千載一遇の、チャンスだった。
幸運にも、君が手にかけている人間の中に、我々の知るリピーターは一人もいないようだった。だったら、慌てることはない。時期を待って、ゆっくり近付けばいい。我々は、注意深く布陣を敷いた。……君は、殺戮が一段落すると、踵を返して路地裏へと入っていった。警官隊の到着を恐れたのだろう。それを察知していた我々は、すぐに織田君を君の前に登場させた。さすがに、彼の戦闘能力は君のそれを遙かに凌駕していてね。一瞬で勝負がついた。君の戦意が喪失したところで、私が、登場した。あくまで君を説得するつもりだったが……やはり、君は聞く耳を持たないようだった。ならば、君をリセットするしかない――我々は、そう思っていた。君が殺した百何人の中にも、リピーターは二桁以上混じっていたものでね。これ以上の凶行は、力ずくでも止める必要があった。
だけど、君は、まだ諦めてなかったんだよ。君は、携えていたバッグから、滝君の生首を取り出し、我々の前に掲げ、あまつさえそれに話しかけたりした。これには我々も面食らったよ。当時の我々は、君が滝君の首を切断していることは知っていても、まさか、かさばるそれを後生丁寧に持ち歩いているとは思いもしなかったからね。呆気にとられる我々を、君は見逃さなかった。君は、事もあろうか、最愛の人物の生首を、得物として利用したんだ。虚を突かれた織田君の鼻っ柱に滝君の頭をめり込ませて、君は道を開いた。壊れようがなくそうが、リピートが起きればいくらでも首は調達できるからね。それほどの愛着もなかったんだろう。焦ったのは私だよ。武闘派の織田君が一時的に戦闘不能になり――君は、見る間に私との間合いを詰めた。正直、ここまでか、と思ったよ。
だが、私は私で、馬岱を用意していた。つまり、伏兵がいた訳だね。どこに潜んでいたのか、私の影から躍り出て、君の喉元を切り裂く影――吹き上がる血飛沫と、血に染まった裁ちバサミが、未だに目に焼き付いて離れない。
そう――麦原君だ。
彼女は、私の影に巧みに潜み――『復讐』の機会を窺っていたんだよ。頸動脈を切断された君は、ほとんど即死だっただろうね。その場に倒れて動かなくなった。その後も、麦原君は君の顔といい腹といい下腹部といい、矢鱈目鱈に耕していた訳だが――まあ、そのことは竹崎のケースから充分に予想のつくことだろう。
とにかく、君はこうしてリセットされた。
八千数百日の彷徨に終幕を迎えた、という訳だ」
「――――」
頭が、重い。
ぐらり、ぐらりと揺れる。
目の前の男が、何を話しているのか分からない。
自分は――悠一は――怪物で――馬鹿で――『愚者』で――大罪を負っていて――滝なゆたと恋人同士で――たくさんの人を殺して――並木を二度リセットさせて――色々な街で大量無差別殺人を繰り返して――滝なゆたの首を切断して――『グループ』を壊滅直前まで追い込んで――司に惨殺されて――リセットされて――迷って、惑って、それでここにいて――自分で気付かなきゃいけなくて――耳を傾ける人間を間違うべきではなくて――本当のことを知らなくちゃいけなくて――
嗚呼。
嗚呼。
嗚呼。
「――ううう」
「何が『ううう』だ。君は、ちゃんと聞いているのか?」
「うそ、だ……」
「うん?」
「そんなの、うそ、だ……」
自分で、自分が何を言っているか分からない。
頭が重い。
息が苦しい。
喉が渇いた。
楽に――なりたい。
「――何度目になるか分からないが、もう一度言わせてもらう。君は、私の話をちゃんと聞いているのか? 最初に言った筈だ。私の話をちゃんと聞け、と。私の話を聞くことは、君の義務だ。話を聞き、それを認識する――それはつまり、君自身の罪を認めることに繋がるのだからね。
目を背けるな。
しっかりと、現実を見据えろ。
そして――自らの犯した罪を、認めるんだ」
「――――」
ひどく、追い込まれている。
責め苛まれている。
何も見たくなくて――何も認めなくて、悠一は頭を抱えてイヤイヤをするように頭を振る。
「甘えるのも、いい加減にしろ」
冷たく刺すような声。
緩慢な動きで顔を上げると、新城がいつになく厳しい表情でこちらを睨みつけていた。
「私は、滅多なことでは怒らない。大抵のことは笑って許す。それを美徳して、今まで生きてきたくらいだ。なのに、白石純の件では、柄にもなく感情的になってしまった。徒に傷つけ、過剰な罰を与えてしまった。今では充分に反省している。――だから、最初に君が並木君を殺めてしまった時も、寛大な態度を取ったつもりだった。一方的に罵倒の言葉を吐かれても、いつかは分かり合える筈だと、ある種、事態を楽観視していた。筒井君を軸にコミュニケーションを深め、信頼を築いていけばいい――そんな、今から思えば甘っちょろい理想論に、酔ってすらいた。実際、事態は一見すれば順調にいっているように見えたからね」
低く、冷たく、乾いた声色で、淡々と言葉を紡ぐ新城。その言の葉一つ一つが、悠一の脳内で不快に反響する。ひどく、頭が痛い。
「その結果が――これだ。
君はそれまでの言葉を翻し、『グループ』メンバーに刃を向けた。方々で暴れ回り、無数の死傷者を叩き出した。
この時ばかりは、さすがの私も激昂したよ。
君にではない――自分の間抜けさ加減にだッ!」
ダン、と音を立ててテーブルが叩かれる。
さらに、新城は身を乗り出し、悠一に顔を近付けてくる。
「君を信用した結果が、君を甘やかした結果がこれだ!
嗚呼、またしくじった!
失敗だ!
こんなことなら、妙な慈悲を起こすんじゃなかった!
『グループ』に仇なす存在など、発見次第、八つ裂きにしてやればよかったんだッ! そうすれば、後の惨劇など決して起こりはしなかったッ!」
目の前で新城が怒鳴っている。
目を見開き、歯を剥き出しにして、全力で悠一を罵っている。
かつての、気障で嫌味で、だけど穏和で飄々とした新城保の姿は、もうどこにもない。
嗚呼。
『法王』が。
慈悲と秩序を重んじる『法王』が――
反転してしまう。
「全て君のせいだッ!
君が、全てを壊したッ!
君が、すべてを駄目にしたッ!
苦労して集めた人材も、築き上げてきた信頼も、固く守り通してきた秩序も、全てが水の泡だッ! 壊すのは一瞬だが、それを修復するのには、気が遠くなる程の時間がかかるッ! また、明日への扉が遠のいたッ! どうするんだッ! どうしてくれるッ!
どうして、私の、邪魔をするんだ……ッ!」
嗚呼、やめてくれ。やめてくれ。
これ以上、苛めないでくれ。
頭が割れるように痛い。
吐きそうだ。
今すぐ消えてしまいたい。
こんなことなら――『真実』など、知らない方がよかった。




