最終幕
最初の話です。
最終幕
8236
【午後1時45分】
ビルの隙間から見えた空に、虹が架かっていた。
いつの間にか雨はあがっていたようだ。腕時計で現在時刻を確認し、軽く舌打ちをする。予定では、一時すぎには五〇人を越してなければならないのに――だいぶ遅れている。
顔にかかった返り血を拭いながら、必死で考えを巡らせる。あと二分十五秒で警官隊が到着する。周りはすでに屍の山だ。通行人が一人でもいたならば、辺り一帯に立ち籠める濃密な血の臭いに嘔吐していたかもしれない。だが、生憎とその通行人も、一人残らず『処理』済みだ。
とは言え――三十四人か。いくら何でも少なすぎる。今までの最低記録かもしれない。残り時間はあと十時間以上もある。何も焦ることはない、のだけど――問題は、その集中力の低さにある。作業効率が悪い。ケアレスミスが多すぎる。もっと気を引き締めなければ、そのうち取り返しのつかないポカをやらかすであろうことを、経験上知っている。
――急がないと。
目の前で白目を剥いているサラリーマンを側溝に落とし、傍らに置いておいたバッグを肩に担ぐ。割れたビール瓶を投げ捨てて、地面を蹴る。水溜まりの水と、血溜まりの血とを同時に跳ね上げ、路地裏のさらに裏へと回り込む。すでにパンツは泥まみれだ。否、衣服を汚しているのが泥なのかどうかも疑わしい。『処理』した人間の脳漿や内臓の欠片である可能性の方が、幾分高い。
いずれにせよ、ここはもう用済みだ。あと二百メートル先の公園に着替えが用意してある。水飲み場で、全身を汚す血や脂を洗い落とすこともできる。そうすれば、後は次の候補地へ移動するだけ。徒歩移動も悪くないが――確かあと十二分分程で、ゴミ袋を詰んだ軽トラが駅前の歩道橋下を通過する筈だ。多少危険だが、歩道橋からそれに飛び乗れば、移動時間の短縮にもなる。遅れを取り戻すことも出来る。問題は、それに間に合うかどうか、だが……。
――しかし、巡り合わせが悪い時と言うのは、何をやっても裏目に出るように出来ているらしい。公園まであと数メートルの狭い路地裏で、今一番会いたくない人間と鉢合わせしてしまう。
「はぁ~い、そ・こ・ま・で~」
ビルの壁に足をかけて前方を塞ぎ、バールを掴んでヘラヘラと笑っている、金髪メッシュの男――
「――織田……」
「そんな血だらけのカッコで、どこ行くんだよ? 駅前、大騒ぎになってンぜ?」
いつものことながら、この男には緊張感というものがない。バールを引き摺りながら、少しずつ近付いてくる。
「こんなトコで待ち伏せかよ――新城の、差し金か?」
「誰の指示でもいいじゃねェか。もう、この辺りでいんじゃね? おめェもいい加減、気が済んだべ?」
「そんな訳あるか……。言った筈だぞ。この壊れた世界を『浄化』する――と。終わりなど、どこにもない。終わらないのなら、終わらせるまでだ」
「んで、全員を殺せば、終わりになるって?」
相変わらずの緊張感のなさで、ジリジリと距離を詰めてくる。
「ハァ……冷静に考えてみっと、ビックリするくらいシンプルなプランだよな、おめェの改革って。ま、色々あって、おめェが辛いのも分かンだけどよ……」
刹那、織田の瞳が色を成す。
「こっちの被害も、ものすげーしさァ……」
恐らくそれは、世間で言われているところの『殺意』と呼ばれているモノで。
「ハイそうですかって訳には――」
――来る。
「いかねェんだよねッ!」
織田が足を踏み込む瞬間に屈み込み、水平に薙ぎ払われるバールを、ギリギリのところで避ける。ガキッ、とくぐもった音を立てて壁の一部が壊される。低い体勢から素早くバックステップ。今度は数瞬前まで自分のいた場所にバールがめり込む。息つく暇も与えず、今度は突きが繰り出される。体勢を整えながら、何とかして猛追から逃れる――が、バール先端の鉤にシャツの一部を掴まれ、グイ、と力任せに引き寄せられる。待ち受けていたのは織田の左フック。いつの間にかメリケンサックが嵌められている。
「――――ッッッ!!!」
右の頬骨が砕かれ、きりもみ回転をしながら――それでも抱えた旅行バッグだけにはダメージがないように、どうにか死守して――ビルの壁に吹き飛ばされる。呼気と共に、血と、折れた奥歯が口から吹き出る。視界が霞む。
――クソ。
ここまでか。肉弾戦で、それも得物を手にした織田をこんな狭い場所で相手にして、勝ち目がある訳がないのだ。筋力、瞬発力、格闘センス、格闘経験、そして嗜虐性――何一つとして、敵う部分がない。舌打ちしたくなるのを、何とか堪える。
「……どうするよ? まだ続けっか?」
立ち上がれないでいる自分の鼻先にバールを突き付け、織田が不敵に笑っている。
「殺すなら、殺せよ」
「またまた。無抵抗の相手にそんなことするワケねェじゃん。オレは説得に来ただけだぜ?」
「どの口がそんなことを……。バールとメリケンサックで武装していきなり襲いかかるのが、お前流の説得方法なのか?」
「ちげぇって。どうせ大人しく話なんて聞かないだろうから、最初に痛めつけただけだっつの」
身体的な攻撃を加え、恐怖と絶望を与えそれで要求を飲ませようという訳か。まるで、ヤクザのやり方だ。……いや、それ以上か。何しろ、この織田の上にいる人間は、この壊れた『世界』の王になろうと、本気で考えているような男なのだ。
「――勝負は、ついたかな?」
今度こそ本気で舌打ちをした。
こちらが頭に思い描いたその瞬間に発言するなんて、どういう了見だ。何故この男は、毎度毎度、謀ったようなタイミングで登場するのだろう。……謀っている、のか。あまり考えたくはないが、充分に有り得る話だ。
「君がこんなことを始めて、もうどのくらい経つのか――何度見ても、慣れることはないね、死屍累々というモノは」
声がするだけで、姿が見えない。どうせ、路地裏の死角となる部分から話しかけているのだろう。荒事や面倒事は人に任せて、自分は常に安全地帯から指示する――そういう男だ。相変わらずの冷静な物の言い方が、いちいち勘に障る。
「……大将じきじきのお出ましかよ」
今まで、織田や美智代を使って邪魔してくることは何度もあったが、リーダーの新城自らが姿を現したのは、確かこれが初めてだった筈だ。
「兵隊に任せるのはもうやめにしたのか? それとも、今さらになて、ようやくことの重大さに気が付いたってところか?」
「発言には気をつけろよ? オメェ、自分の立場分かってンのか?」
突き出されたバールで、軽く頬を叩かれる。あくまで軽く、なのだけど、砕かれた頬骨を叩かれているため、飛び上がりそうな激痛が走る。このサディストめ。
「もちろん、私も、そこにいる織田君も、君のことは不憫だと思っている。彼女の代わりなどどこにもいないし、今からやり直すのも酷な話だ。君がこんな凶行に走る気持ちも、分からなくもない」
「だったら、放っておいてくれないか?」
「それとこれとは話は別さ。自暴自棄になったからと言って、何をしても許されるという訳ではない。君のしているのは、ただの大量殺人だ。街の人間を片っ端から、一人残さず殴り殺して――こんなことが、許されると思っているのかい?」
「だったら、お互い様だろ」
「違うね。君は誤解をしている。今さら君が話し合いに応ずるとはこちらも思っていないが――かと言って、今までの努力が水の泡になるのを、黙って見ている訳にもいかない。君のしていることは『現在進行形』だ。地道ではあるが、確実な脅威になる。知っているかい? 君はすでに、特A級の危険因子に昇格しているのだよ?」
知る訳がない。そもそも、新城の言う『危険因子』にそんなランク分けがあることも、今知った。
「我々も、これ以上貴重な人材を失う訳にもいかない。これは最期通告だ。こんな馬鹿な真似は――終わりにするんだ」
「嫌だと言ったら?」
「聞くまでもないだろう。君が、終わりになる」
確かに、聞くまでもなかった。目の前でバールを突き付けている織田の目は、血を求めてギラギラと光っている。何か下手な真似をしようものなら、即刻狩ってやる――肉食獣の目が雄弁に語っている。考えるまでもない、選択の余地すらない。新城に従うか、それとも、ここで終わりにするか――究極の二者択一。
だけど、手詰まりと言う訳でも、ない。
「……五分、考えさせる時間をくれ」
「三分だ――と言いたいところだが、まあ、いいだろう。言うまでもないが、おかしな真似をしないように。暴走した織田君は、私にだって止められない」
「止める気もないくせに、よく言うよな」
軽口を叩く二人を余所に、急いで考えをまとめる。自分には、まだ切り札がある。このことは新城たちも、まだ知らない筈だ。……いや、新城のことだから、とうに気が付いているのかもしれない。
肩に提げている、この旅行バッグ。
大きく膨らんでいて、動きづらいことこの上ない。何が入っているかと言えば、得物一式と食料、止血用の包帯や消毒剤などなのだが――ナイフや包丁、鉈や金槌などの得物は現地調達で何とかなるし、薬や食料などは、二十四時間という短期決戦では別になくても構わない。それなのに何故手放さないかと言えば――そんな物よりももっと大切な、この壊れた『世界』で一番大切なモノが入れられているからで。
「……相談してもいいか?」
「うん? 相談する相手が、どこにいると言うんだい?」
「ここにいるじゃないか。このバッグの中に、ずっと――」
ファスナーを開け、タオルにくるまれたそれを取り出す。
「こいつと相談しないで、一人で決める訳にはいかないからさ……」
うっとりとした目をしながら、タオルをほどく。
切れ長の目。
細い眉。
形のいい唇。
高く筋の通った鼻梁。
長く、美しい黒髪。
切断してから十時間も経っているというのに、彼女の顔は生前の美しさを少しも損なっていなくて――一瞬、本気で見とれそうになる。が、今はそんなことをしている場合ではない。
「ちょ、お前、ソレ――」
「……持ち歩いて、いたのか……」
織田と新城、二人揃って絶句している。
今だ。
チャンスは今しかない。そして、この手はもう二度と通じない。こちらの気が触れていると、二人が信じ切っているこの瞬間に勝負をつけるしかない。彼女の首をぞんざいを扱うのは心が痛むが――それでなくなると言う訳でもない。何度だって何度だって、同じものは用意できる。幸か不幸か、ここはそういう『壊れた世界』なのだから。
「あの、お前、さ、その娘は、もう……」
珍しく、織田が言葉を選んで言い淀んでいる。いい兆候だ。狂人のふりをしたまま、彼女の生首を掲げ――それを織田の顔面に叩きつけた。
「フガッ!」
鼻っ柱を折られた織田が間抜けな声を上げる。僅かによろめいたその瞬間に奴を壁に蹴りつけ、慌ててビルの間を駆け抜ける。虚を突いたとは言え、織田はすぐに復活するだろう。そうなれば、どっちみち、こちらには勝算などない。
だったら――新城だけでも、抹殺する。
予想通り、新城は路地裏の出口にいた。いつも通り、高級そうなスーツに身を包んで、こちらを驚愕の目で見ている。
「くっ、最初から、それが狙いで――」
頭脳はともかく、戦闘力は皆無に近い。もしも織田から逃げられないとしても、この一瞬で新城をやれば、それで痛み分けだ。ポケットから小型ナイフを取り出し、勢いのまま新城に向かっていこうとして――
「――え?」
ざんっ、と――物陰から出てきた人間に、邪魔をされる。自分の胸くらいのところで黒髪が揺れている。新城が慌てて後ろに下がり、こちらのナイフが空を切る。その代わりに――飛び出した人物の手に握られている裁ちバサミが、顔の下で一閃したのが見えた。一瞬の間を置いて、喉から大量の血が吹き上がる。頸動脈を切られたらしい。
迂闊だった。
兵隊は織田だけではなかったのだ。荒事は奴一人の担当ではないと、分かっていた筈なのに……。だけど、この場に伏兵が潜んでいるだなんて……。
「……わたしは、莫迦が大嫌い」
裁ちバサミを振り切ったままの姿勢で、その人物が口を開く。
「わたしは、貴方が大嫌い」
嗚呼、この女は。
「私は――貴方を、許さない」
まさか、この女の手によって終わるだなんて……。
「さようなら」
そして、呆気なく意識が途切れる。
8236日の彷徨は、こうして終幕を迎えたのだった。




