第四幕 第十章(前編)
13
【午前6時50分】
家の扉を開けて、固まった。
端正な顔立ちながら、躰が薄く、自己主張が薄く、存在感までもが薄い、その男。
「……どうも」
並木慎次が、そこに立っていたからだ。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。
いつも通り六時半のベルで目を覚ました悠一は身支度を整えながら、家族と朝の挨拶を交わしながら、朝食を平らげながら――ずっと、考え続けていた。昨夜、眠りに落ちる寸前に何かに気が付けそうな気がしたのだが――あれは、一体何だったのだろうか。今となっては、まるで思い出せない。
ただ、一連の人々との出逢いの中でかけられた言葉、交わした言葉に散らばる違和感、不自然さ――それらを集めて得られる結論――もう少し、もう少しで、何かが――。
頭をゆるゆると動かしながら、靴を履き、傘と鞄を掴み、ドアノブを掴む。
……この後の展開は、おおよそ予想がついている。三回目だ。悠一もそこまで馬鹿ではない。どうせまた、ドアの外では美智代が待ち受けているのだろう――
だが、悠一の予想は簡単に覆る。
そこにいたのは、美智代ではなく、並木だった。
白のカッターシャツにチノパン、安っぽいビニール傘を差している。傘以外、前の周と全く同じ格好だ。もちろん、腕は怪我してない。当然だ。並木が竹崎に斬られるのは一時半の出来事で――そもそも、悠一にとって十三周目にあたるこの世界では、もう、並木が怪我をする未来など存在しない。いずれにせよ、今この時点で、並木慎次が怪我をしている訳がないのである。
……そんなことよりも、
「何、してるんですか? こんな所で……」
「お前が出てくるのを、ずっと待ってたんだけど」
そっけなく答える並木。目を合わせず、悠一の肩あたりに視線を合わせている。気まずいから、ではない。並木は通常で、こうなのだ。
「待ってたって? 俺を? ……何で?」
「いや……新城さんに、行けって言われたから……」
やはり『グループ』の一員として、か。大方そんなところだろうとは思っていたが――だけど、何故並木なのだろう? 今までは一貫して美智代が行ってきた役割だ。美智代じゃなければ、織田。次点で司だ。インドアで、情報収集が専門で、お世辞にもコミュニケーション能力や戦闘能力が高いとは言えない並木が、何故……?
「これ……。小鳥遊の家に着いたら、開けて読めって……」
おずおずと並木が差し出したのは、一枚の茶封筒だった。宛名などはなく、ただ、表に大きく『1』とだけ書かれている。
「何だかよく分かりませんけど……とりあえず、開けましょうか」
この様子からすると、並木の方も、何も聞かされていないのだろう。傘を右肩に挟みながら、悠一は差し出された封筒を開封する。
中に入っていたのは、これまた何の変哲もない、一枚の便箋だった。活字のような几帳面な文字で、何か書いてある。
『おはよう。
昨日はよく眠れたかな?
前の周では、思いがけずバタバタして、申し訳なかったね。
今回こそは、君たちに本当のことを話そうと思う。
だが、その前に一つ。
君たちは、まだ肝心なことを知らないでいる。
それを知ってもらうために、君たちには下記の場所に向かってもらいたい。
埼玉県さいたま市 藍土2―8 グリーンハイツ203号室
この場所に到着したら、2の封筒を開封してくれ。
では、また。
新城保』
これは――指令書、なのだろうか?
完全に部下扱いだ。悠一は『グループ』の人間ではないと言うのに……『真実』という餌で、思い通りに動かそうと言う訳か。
まあ、それはいい。そのこと自体は、今に始まった話ではない。それより、問題なのは――
「何で、複数形なんですかね……」
文中、二人称が『君』ではなく、『君たち』で一貫されている。これには、いくら鈍感な悠一でも、違和感を覚えてしまう。
「おれとお前、ってことじゃないの」
横から覗き込んだ並木が、何でもないことのように発言する。
「え、並木さんも?」
とすると、並木も悠一と同様、『肝心なことを知らないでいる』ことになるが……。
「おれは、本当に何も知らない。だから、知りたい。――電車で、そう話した筈だけど」
そう言えば、そんなことを言っていた気がする。ただ利用されているだけだとか、情報弱者が何だとか。
「つまり、今回、並木さんは俺側の人間、ってことですか? 『グループ』側じゃなくて……」
「……って言うか、おれは、ずいぶん前から、小鳥遊は同じ側の人間だと思ってたんだけどな」
「並木さんと?」
「お前、今回で何周目?」
「えっと、十三周目、ですけど」
「おれは二十二周目。九周しか変わらない。そのくらいの違いで、どんな違いがあるって言うんだよ」
「や、でも、並木さんはずっとネット探索してるじゃないですか。俺に比べれば、途方もなく多くの情報を得てる筈ですけど?」
「お前はネットを過大評価してる。そりゃ、情報量は多いけど――そのほとんどは、カスみたいなもんだし。暇つぶし以上の価値なんて、ないから。ある程度のネットリテラシーがあれば、そこそこの情報を汲み取ることも可能だけど――それでも――世界の真実には、辿り着けない」
「……んな難しいこと言われても分かりませんよ……」
「難しくなんかない。ネット上に全てのヒントがあるなら、おれはとうの昔に、このリピート地獄から脱出してる。そうでしょう? おれの仕事は、あくまでリピーターを発見し、監視することにある。それ以上のことは無理。少なくとも、今のおれの能力では」
おれとお前は、同じなんだよ――。
雨音にかき消されそうになりながら、並木の声が微かに響く。
「同じ……ですか」
「同じだよ。鷲津さんや筒井さん、織田さん、麦原さんや……もちろん新城さんも、何かを知っている。何かを隠している。おれは、それを知りたい」
視線を合わせず、驚く程小さな声で――だけど、どこか芯の通った口調で、並木は宣言する。
「もう――みそっかすはうんざりなんだよ」
嗚呼。
この人は。
『グループ』内でネット探索を担当している、この貧弱な青年は。
リピーターで構成される組織にいながら――ずっと、孤独を感じていたのだ。
どれだけ不満だっただろう。
どれだけ不安だっただろう。
誰だ。この人が『周囲には一切の関心を示さない』なんて言ったのは。きっと、恐らく、ただこの人は人一倍臆病なだけで――ただ、素直に心を開けないだけなのだ。臆病が故に、周囲に壁を作り、溝を作り、そのせいで周りに理解されずとも気にしないようなポーズをとって――そうやって、ここまでやってきたのだ。
何て、不器用な人だろう。
情熱も情愛も人並みにあるのに、それをひた隠しにして……隠して抑えているからこそ、ここ一番の場面で、爆発してしまうのだ。竹崎のケースが良い例だ。あの時も、大人しく待機していればよかったものを、変な使命感を出すから、手痛い目に遭ってしまったのではないか。この人は、多分、『グループ』の中で一番の善人で――一番、熱い人なのだ。
「じゃあ、今回の並木さんは、『グループ』とは切り離された、一個人ってことでいいんですね?」
「ん……だけど、一応、鷲津さんには、小鳥遊が好き勝手しないように監視しろって言われてるんだけど――」
「それじゃ他の人と変わらないじゃないですかっ!?」
「いや、だけど、おれ自身はあまり興味がない。小鳥遊がどこで何しようが、別にどうでもいいと思ってる」
言いながら、身を翻してさっさと歩き始めてしまう。マイペースな人だ。
「ぶっちゃけましたね……」
「むしろ、『グループ』の人たちが、何で小鳥遊にそこまで執着するのかが、おれには分からない」
ビニール傘を差し、前を向いたまま、並木は素っ気なくそう言う。
「それは――俺も、そう思います」
と言うか、それは一番の疑問点だ。
この『壊れた世界』のありようがどうであれ、滝なゆたの殺害理由がどうであれ――それが、悠一に何の関係があるのだろう? 毎周毎周しつこくつきまとい、策を弄して悠一のブレインである入江の存在まで炙り出して……それが、『グループ』にとって何のメリットになるのだろう?
その疑問も、この周を乗り切ることで氷解するのだろうか。かなり詳しく知りたいところではあるが、あまり期待はできない。
「お前はいいよ。優遇されてる。おれなんて、問答無用でいきなり拉致監禁だったからな」
平坦な声で、驚くべき新事実をさらっと告げる並木。
「え!? 拉致監禁――って……」
「一周目、学校に行く途中で、いきなり織田さんに当て身くらわされて、意識失って……気が付いたら、どこか知らない部屋にいた。今思えば、新城さんか筒井さんの自宅だったのかな。そこのパソコンに向かわされて、長い時間かけて事情を説明されて、これからネット探索しろって命令されて――」
「……それに、従ったんですか?」
「んな訳ないじゃん。と言うか、そもそも話自体が信じられないし」
そりゃそうだろう。こんな話、自ら体験しなければ、とても信じられる話ではない。
「だけど、とても逃げられる感じじゃなかったし……。正直、身の危険を感じてもいたから、従うしかなかった。で、おれの一周目はネット探索だけで終わって、日が明けたら、本当にリピートが起こってて……」
「並木さんは、『グループ』の話を信じた、と?」
「まあ、一応、そんな感じ。二周目以降も、おれはその部屋でネットやらされてて……PCならおれの部屋にもあるんだから、わざわざ移動する必要なんかないって言ったんだけど、身の安全を保証するためだとか何とか、よく分かんない理由で、結局その部屋で作業し続けていて……自宅での作業が許可されたのは、十周目に入った辺りからかな」
「その頃から、麦原とはずっと一緒に?」
「どういう訳だか、ね。おれは別にどうでもいいんだけど、作業に集中するために、身の回りの世話をする人間が必要だとか、何だとか……。ああ、でも、おれが自宅での作業を許可された前の周――おれにとっての九周目だけは、おれ一人だったな。その頃はもう、逃げる意思なんてなくなってたし、『グループ』も安心したんだと思うんだけど――」
と、そこまで話したところで、不意に、並木が黙り込んでしまう。
「……どうかしましたか?」
「いや、ちょっと……今、ふっと思い出したことがあって……」
「何ですか?」
「その当時……この辺りで、暴れ回ってた怪物がいた筈なんだ」
「怪物? 竹崎みたいな?」
「そう――何か、えらく派手にやらかしてたみたいで、被害も甚大で、そいつ一人の手で膨大な人間の血が流れたみたいで、ネット上ではちょっとした祭りになってた筈なんだけど――あの事件は、どうなったのかな……」
初めて聞く話だ。時系列的にも、白石の件とは別の筈。つい最近にそんな大きな事件があったのなら、『グループ』の誰かが口にしていてもおかしくない筈なのだが……。
「討伐された、んでしょうかね……」
「どうかな。その後、ネット上で一切話が挙がらないところを見ると、『グループ』が暗躍したと見て間違いないと思うんだけど……」
「ふうん……?」
何だろう。何かが引っ掛かる。
この段になって並木の口から語られる幾つかの新事実。
一周目から『グループ』に拉致監禁されていた並木。
その前後、この界隈で暴れていた怪物。
この二つの件は、悠一の求めている『真実』と関連しているのだろうか。それとも……?
「――あともう一つ――ずっと、気になってることがあるんだけど」
「何ですか?」
「ああ、いや――」
一瞬、天を仰いで――だけど、思い直したように、並木は首を振る。
「……まだ、いいか。どっちみち、じきに分かることだし……」
意味深な言葉を吐きながら、並木は歩くスピードを上げる。おかげで、悠一は声をかけるタイミングを逸してしまったのだった。
「……ここ、ですかね」
「間違えようがないでしょ」
目の前にあるのは、何の変哲もない安アパート。大通りに面していて、通りを挟んだ向かいにはファミレスがある。
と言うか、この場所は……。
「俺、前にもここに来たことがありますよ」
「そう」
「正確には、向かいのファミレスに、ですけどね」
今でもはっきり覚えている。二周前の朝、悠一はそこのファミレスで、『グループ』幹部・鷲津吾郎と対面を果たしたのだ。その時の彼は向かいのアパートを監視している真っ最中で――。
「……ここって、竹崎の部屋ですよね……」
「だろうね。おれも、住所だけは知ってる。実際に来るのは初めてだけど」
新城からの手紙が指し示しているのは、間違いなくこの部屋だった。二周前に鷲津が監視していた――そして前の周、電車内で大暴れした――竹崎宗也の、部屋。
新城は、この部屋に二人を導いたのだ。
「……どうします?」
「どうしますも何も。……指示に、従うしかないんじゃない?」
もっともだった。
悠一は軽く頷き、二通目の封筒を取り出す。開封するのは悠一の方がいいだろうと、道中で新城から受け取った封筒一式を、並木から預かっていたのだ。
表に大きく『2』と書かれた封筒には、『1』と同じく、一枚の便箋が入れられているだけだった。
『お疲れ様。
迷わずに辿り着けたかな?
お察しの通り、君たちの目の前にあるのは、
前の周に大暴れしたホイッスル男・竹崎宗也のアパートだ。
彼は、そこの203号室に住んでいる。
この時間帯は間違いなくそこにいる筈だ。
君たちには、これから彼を訪ねてもらう。
竹崎が出てきたら、無記名の封筒を渡してもらいたい。
指令はそれだけ。簡単な仕事だろう?
心配しなくとも、彼は君たちに一切の危害を与えない。
それは私が保証する。
では、指令を果たしたら、今度は3の封筒を開封してくれ。
それで最後だ。
では、検討を祈る。
新城保』
二人して、顔を見合わせた。
「……どうします?」
「従うしか……ないんじゃない?」
「でも、あの竹崎ですよ?」
「うん」
「怪物ですよ?」
「うん」
「ホイッスルですよ?」
「分かってるってば」
「前の周に――斬りつけられたんですよ?」
「お前じゃなくて、おれが、ね」
狼狽える悠一に対し、並木はあくまで無表情だ。だが、その実、無関心でも無感動でもないことを、悠一はすでに知っている。
白昼堂々、列車内で不意に斬りかかってきた竹崎――あの時は鷲津や織田、司といった面々がいたから助かったものの、今は悠一と並木、二人きりなのだ。怖くない筈がない。
「……何で、そんなに平気そうなんですか」
「ん……だって、ほら、一切の危害は与えないって、新城さんも保証してるし」
「信用するんですか!? 何の根拠もないんですよ!?」
「信じるしか、ないんじゃない?」
「だから、何で……」
「小鳥遊、おれはさ――」
一旦唇を舌で湿らせ、口調を改める並木。いきなり何だ。
「おれは、ずっと、何も信用しないで生きてきた。隙を見せればすぐに騙されるし、心を開けばつけ込まれる。信用すれば騙される。騙される連中は馬鹿だ。おれはそんな風にはならない――そんな風に、世の中を斜に構えて見てた。……いや、違うな。
きっと、おれは臆病なんだ。
だから、簡単に人を信用することができない。すぐに壁を作って、殻に閉じこもる。……それが、正しいんだと思ってた。おれみたいな人間が、人並みに人と関わりを持っちゃいけないんだって……とっくの昔に、諦めてたんだ」
「…………」
意外だった。
いや、並木がそういった個性の持ち主であることは少し前から察していたが、まさか――彼自身がそれを認めて、口にするなんて。
「――今は、どうなんですか?」
「ん? ……まあ、今も、基本的には、変わってない、かな。人間、そう簡単に変われるもんじゃないし……仮に変わったように見えても、根っこの部分は絶対に変わらない。おれは、そう思ってる。
だけど、少しくらいなら、変えることもできるかなって……ちょっと、そう思い始めてる」
「と言うと?」
「だから――信じてみようと、思うんだ」
さっきから何の話かと訝しがっていたのだが、なるほど、そこに繋がるのか。
「『グループ』のことを、ですか?」
「そう」
「いや、人を信じてみるのはいいことだと思いますけど……それが、何で『グループ』なんですか? 並木さん、言ってたじゃないですか。自分は利用されてるだけだって。一周目から拉致されて、訳分かんないままに仕事させられて――なのに、その『グループ』を、信用するんですか?」
「うん……まあ、それはそうなんだけど……小鳥遊の言う通りなんだけど……なんて言うか、ちょっとまあ、心境の変化、って言うか……」
「いつの間に」
「前の周にさ、おれが襲われた時――あの人たち、守ってくれただろ? 割と必死になって、さ。鷲津さんなんて、あの人、もういい年なのに、あんな汗だくになって……」
「そりゃ、並木さんは鷲津さんの部下だから……」
「って言ったって、リアルに会ったのなんて、二回くらいしかなかったし。別に信頼関係なんてなかったし、おれはただ単に、煙草くせぇオッサンくらいにしか思ってなかったってのに……」
さすがにそれは失礼だと思うが。
「織田さんはともかく――麦原さんなんて、おれが怪我したって知った途端に、あんなに逆上して――おれ、どっちかって言うとかなり冷たく接してたってのに、それなのに――あの子は――あんなに……」
やはり、並木は並木で思うところがあるらしい。このまま、二人の仲が進展すればいい、だなんて、他人事のように思う――他人事だけれども。
と言うか、『ともかく』で片付けられる織田が、少し可哀想だ。
「ま、さすがに、包丁でメッタ刺しにした時は、少しひいたけど」
「大丈夫です。俺はドン引きでしたから」
「とにかく――そんな訳で、おれは、あの人たちを信用してみることに決めたんだ」
「そう、ですか……」
自分は、どうすべきなのだろう?
『グループ』は信用するな――と、これは入江の言葉。
入江を信用するなら、『グループ』は信用すべきではない。だが、その入江に、悠一は見限られてしまった。切られて、しまった。だからと言って、入江を信用しない、という訳ではないのだが――正直、揺れ動いている。
自分は、どうすべきなのか。
何を、信用すべきなのか。
誰に聞くでもない。
誰に教えてもらうでもない。
これは、自分の頭で考えること。
それは分かっている。
分かっているのだけど――
多分、自分はまだ、何も分かっていない。
「じゃ、そろそろ行くか」
「何処にですか?」
「……おれたち、今まで何の話をしてたの。竹崎のとこだよ。新城さんの手紙に、そう書いてあったでしょう」
そうだった。危うく忘れるところだった。と言うか忘れていた。竹崎は危険だ。新城が保証してるから大丈夫。新城を信用するのか。根拠もないのに信用出来るのか。彼らは自分を守ってくれた。だから信用してみようと思う――確か、そういう話の流れだった筈だ。
「小鳥遊って、人から『天然』って言われたことない?」
「『バカ』って言われたことはあります」
「……あー」
「いやいやいや、『あー』じゃなくて。そこは否定しましょうよ」
「否定する材料がないし」
もっともだった。
話が一段落ついたと判断したのか、並木はさっさと歩き出してしまう。その歩みに、迷いはない。
「あの……まあ、行くのはいいですけど……。並木さん、怖くないんですか?」
「その話は終わったんじゃないの?」
アパートの外階段を上がりながら、並木はそう返す。
「あの人が安全を保証する、それを信用するってのと、自分の感情は別ですよ。どれだけ安全で安心だろうと、怖いものは怖いし、心配なものは心配じゃないですか」
「ん……まあ、正直、怖い気持ちがないかって言えば、嘘になるよ。ホイッスル吹きながら包丁振り回す人間なんて、どう考えたってまともじゃない。まともじゃない人間は――そりゃ怖いよ」
「だったら――」
「だけど、それ以上に、真実を知りたいって気持ちの方が、強いかな」
淡々と、どちらかと言えばクールな口調で、並木は真摯な台詞を吐く。
「それに加えて――やっぱ、悔しいし」
「悔しい?」
「……やられっぱなしは、性に合わないんだよ」
どうして、この人は涼しい顔をしてこんなに熱いことが言えるのだろう。
負けず嫌いで、好奇心旺盛で、情に厚くてお人好しで――表層とはまるで違う素顔を、臆病さ故の仮面でひた隠しにして。
悠一は、厄介な人格を持つこの男に、いつの間にか好感を抱き始めていた。
「……じゃ、行くよ」
あっという間に、部屋の前に到着する。
二〇三号室。
竹崎宗也の、住む部屋。
一呼吸置いて、並木はインターホンを押す。
――――。
十秒ほど待ったが、反応がない。
「……留守、ですかね」
「手紙には、間違いなくこの部屋にいる筈、って書かれてるけど」
「いや、だからそれ自体が信用出来ないって話ですよ。メールや電話ならともかく、手紙ですよ? どれだけのタイムラグがあると思ってるんですか。竹崎もリピーターである以上、その周その周で自由行動を取る筈でしょう? 何時何分にどこにいるかなんて、特定できる訳が――」
と。
悠一が論理的な反論を行っている目の前で、扉が開く。開いてしまう。
「――はい」
ぬっ、と。
部屋の主が顔を出す。
その顔を見て――やはり、悠一は硬直してしまう。
前の周、ホイッスルを響かせながら、包丁を、鉈を、金属バットを振り回していた怪物――竹崎宗也が、そこに立っている。間違いなく、本人だ。
ただ、寝起きなのか、髪はボサボサで見るからに眠たそうな顔をしている。上下共にスウェットスーツだし、本当に今の今まで寝ていたのかもしれない。
何だか、ひどく――普通だ。
列車内で感じたような不気味さや威圧感は微塵も感じられない。竹崎であることに間違いはないのだけど――何と言うか、まるで別人のように見える。
「……何?」
顔を見つめたまま口を開こうとしない悠一たちに業を煮やしたのか、竹崎の口調が途端にぞんざいなものになる。悠一と並木という、セールスマンにも配達人にも見えない若い二人組を、不躾な視線で逆にジロジロを眺めてくる。
「用件があるなら、早くしてほしいんだけど」
内心のイライラを隠そうともしない。何だか、ひどく――感じが悪い。
「あの、コレ――」
仕方なく、悠一は新城の指示通り、無記名の封筒を竹崎に手渡す。
「何コレ」
「渡せって言われたんです」
「誰に?」
「あの、新城って人なんですけど」
「だから、それ誰?」
「いや、誰って――」
何と説明すればいいのだろう。『グループ』のリーダー、では通じないだろう。新城のことを話すには、まずリピーターの説明から始める必要がある。
考えあぐねる悠一に対し、竹崎はさらに意外な言葉をかける。
「って言うか――アンタら、誰?」
「え、あの、前の周に電車で……」
「先週? ……先週は、電車なんて乗ってないけど」
そんな馬鹿な。
「えっと、あの、竹崎さんですよね」
「そうだけど」
「竹崎宗也さん」
「だからそうだって」
「覚えてないですか? ほら、この人が電車の中でアンタに話しかけて、それで、アンタは――その、急に包丁で斬りかかってきて……」
「はァ!?」
不意に大きな声を出されて、悠一は再び硬直してしまう。驚きに、僅かな怒気を含ませて、竹崎は顔を歪める。
「……あのさ、いきなり来て、意味分かんないことばっか言わないでもらえるかな。俺、これからバイトだし、暇じゃないんだから」
そう言って、早々に話を切り上げようとする。完全に頭のおかしい人扱いだ。どっちが頭おかしいかと言えば、それは確実に竹崎の方なのだけど。
もっとも、今の受け答えを見る限り――感じが悪いのは確かだが――取り敢えず、まともな人間に思える。悠一だって、寝ているところを起こされて、身に覚えのないことばかり言われたら、同じような反応を返すだろう。
身に覚えがなければ、の話だが。
「ちょっと待ってください」
今まで黙って二人の遣り取りを見ていた並木が、不意に口を開く。
「今度は何?」
「一つだけ教えてください」
竹崎の目を真っ直ぐに見据えている。人見知りの並木にしては珍しいことだ。
「何で――ホイッスルなんですか?」
「は!? 何だよホイッスルって。意味わかんねぇ。……本当に忙しいから、用がないなら帰って。学校で流行ってるのか知らないけど、そういう遊びは友達とやってよ。じゃあね」
言いたいだけ言って、鼻先でドアを閉められてしまう。
一応、封筒は渡せたので、使命は果たせた、のだけれど……。
まるで、釈然としない。
「何ですか、今の……」
「取り敢えず――場所を移動しよう。ここで話してたら、今度は怒鳴られるかもしれない」
並木の提案に従い、二人はその場を後にしたのだった。
「あの、さっきのことなんですけど……」
二分後、二人はアパートの駐車場に移動していた。大通りに面しているものの、往来を歩く人影は思いの外少ない。ここなら安心して並木と議論を交わすことができる。
「何なんですか、あの態度!? 昨日あんなことをしでかしておいて、まるで反省してないじゃないですか!?」
勿論、悠一とて謝罪の言葉を期待していた訳ではない。だけど――まさか、あんな素っ気ない態度に出られるなんて。
悠一は、かなり緊張して竹崎との対面に臨んだと言うのに……まるで、頭のおかしい子どもが来たかのような扱い。竹崎だって、至近距離で二人のことを見ているのだから、当然自分たちのことは覚えている筈なのに。それに加え、竹崎を倒した織田・司と親しげに話しているところも見ている筈で――当然、自分たちにも、それ相応の恐れや怒り、悔しさや苛立ちを感じていると思っていた筈なのに――それなのに――。
「……小鳥遊は、さっきの竹崎を見て、どう考えた?」
親指の爪を噛みながら、呻くように尋ねる。何事かを必死で考えているかのような表情。そして、『どう思った?』でも『どう感じた?』でもなく、『どう考えた?』、という設問。これは、悠一も慎重に答えた方がよさそうだ。
「……そうですね……。何か……まるで、先周のことを覚えてない、みたいに思えましたね」
「それだ」
恐る恐る発した悠一の言葉を、並木は即座に肯定する。
「何がですか?」
「だから、それが答えなんだよ……。
竹崎は前の周のことを覚えていない。
それが、答えで、全てで――最後のピースなんだ」
まるで意味が分からない。
「答え? 最後のピース? え? どういうことですか? 俺にも分かるように言ってくださいよ」
「少しは自分の頭で考えろよ」
俯き、爪を噛みながら、並木は思いがけず強い言葉を吐く。
「や、俺は俺でちゃんと考えてますよ! でも分かンないから聞いてるんじゃないですか!?」
「――悪い。ちょっとイラッとしてた」
ようやく、爪を噛むのをやめてくれる。視線は相変わらず下を向いたままだが。
「じゃあ――いくつか、ヒントをあげる。小鳥遊は、そこから考えて」
「アンタまで勿体ぶるのかよ……」
もう、ウンザリなのだけど。
「これは自分で気付かなければ意味がないんだよ。今なら、その言葉の意味がよく分かる。小鳥遊だって、ちゃんと筋道立てて考えれば分かる筈だから」
「そうですかねえ?」
「大丈夫。お前は、自分で思ってるほど頭が悪い訳じゃない」
美智代と同じことを言う。
「それに――これは、元々おれが気になっていたことでもあったんだ。竹崎の部屋に行く前に話したろ? 気になることがあるって。その答えが、これなんだよ。最初は、ただの疑惑で、想像で、仮定だった。だけど、さっきの竹崎の態度を見て、確信した。この世界には、おれたちのまだ知らない未知のルールがあったんだよ」
「未知の、ルール……?」
何だそれは。
この世界のルールに関しては、再三確認してきた筈だけれど。それなのに、まだ、悠一の知らないルールがあると言うのか。……ああ、そう言えば、新城や司もそんなことを言っていた気がするが――それが何なのかは、全く想像がつかない。
「お前、さ。最初に新城さんに会った時、こう言われなかった? 『記憶というのは、存在そのものなんだ』って」
「言われました! 一字一句違わずに、同じ台詞を!」
「やっぱりね。じゃあ、『グループ』の人たちとの会話の中で、『大丈夫、死にはしない』とか『殺しはしない』って言葉が出てきたことはない?」
「……あります! 何度も! ってか、むしろ頻繁に!」
その言葉が出る度に、『死ななきゃいいってもんでもないだろう』と思ったことを思い出す。
「小鳥遊、おれはさ……この世界における『死』ってのは、一般的なそれとは違う意味を持つような気がするんだよね……」
「……と、言うと?」
「おれたちみたいな、五月十三日に留まり続ける人間――いわゆる『リピーター』が『リピーター』であり続ける条件って、何だと思う?」
「そりゃ、リピートしても記憶を持ち続けること、でしょう?」
「そう。おれたちは、リピートし続けている記憶があるからこその、リピーターだ。だけど――もし、その全ての記憶がなくなってしまったとしたら?」
「え?」
「リピーターじゃない人たちと同じように、五月十二日までの記憶しか持たない、そういう人間になってしまったとしたら――」
それは、リピーターとしての死、ということにならないかな。
リピーターとしての、死。
「そして、竹崎は、前の周で麦原さんに殺されている。これは、何を意味していると思う?」
人間としての、死。
似て非なる二つの概念の間には、どれだけの差異があるのだろう。
つまり。
つまり。
それは――
「リセット――ってことですか?」
「と言うと?」
逆に聞き返されてしまう。その台詞は今まで散々悠一が発してきていたものだったので、文句も言えない。
「だから――あの、何て言うか……」
「慌てなくていいよ。落ち着いて考えてみて」
こんな時に限って、目を真っ直ぐに見据えてくる並木。ああもう、何で――何でそんなに、優しい言葉をかけるのだ。並木という男――思ってたより、厄介な人間のようだ。
ザワザワする気持ちを封じて、悠一は必死に頭を回転させる。考えを整理し、言葉を選び、恐る恐る、口を開く。
「えっと、だから……あれですよね。リピーターは、命を失うと、それまでの――つまり、リピート期間の記憶を全て失う――そういうルールが、この世界にはあるってことですか?」
「おれは、そうだと思っている」
刹那、今までの記憶が津波のように頭に襲いかかる。
奴らは、ルールについての、何かを隠している。
記憶というのは、存在そのものなんだよ。
それは『リセット』とは呼ばないんだけど
『リセット』だけは――違う。
この世界では、『命』ですら『取り返しのつくもの』なの。
……ま、死にはしないから安心して。
殺しゃしねーっつの。
ハサミで刺されたくらいじゃ、死にはしないから。
大丈夫。睡眠薬飲んで死んだ人はいないから。
……『グループ』の連中は、常に悠一の――と言うかリピーターの――命が危険に晒されることに、危惧を抱いていた。そのくせ、リピートで蘇るのをいいことに、『命』ですら『取り返しのつくもの』などと宣う、その矛盾――違ったのだ。彼らにとって大事なのは、あくまでリピーターの命であって、記憶であって――それは、『取り返しのつかないもの』だったのだ。
新城や美智代が『リピート』と『リセット』はイコールでない、と強調した理由は、ここにある。何度も同じ日を繰り返すリピーターは、己の命を失うことでそれまでの記憶をリセットされる。
「……でも、それでリピート地獄から解放される、って訳じゃないんですよね?」
「多分ね。この『壊れた世界』は絶対に抜け出せない、という大前提がある。『リセット』は『リセット』だ。ただ、リピート回数がゼロになるにすぎない。今までの記憶を全て失って、また、ここからリピート生活が始まるんだよ。きっとね」
さっき会った竹崎は、司に惨殺されたことで『リセット』された、いわばオリジナルの竹崎宗也だったのだ。何度も何度も何度も何度もこの一日を繰り返し、心を病み、気が触れる前の、素の竹崎。
悠一や並木のことを覚えていないのも当然だ。今の彼にとっては、前の周の出来事など、存在しないことになっているのだから。
十三周目にして得る新事実。
新しい、この世界のルール。
悠一はそれを知れただけでほぼ満足していたのだが――次の並木の言葉で、再び混乱することになる。
「だけどまあ、このこと自体はそんなに大したことでもないんだけどね」
「……えっ! ちょ、何でですかっ! ムチャクチャ重要じゃないですかっ!」
この人はまた、いきなり何を言い出すのだろう。散々勿体ぶらされて、ようやく得た事実だと言うのに。
「いや、重要は重要だよ。だけど、それはあくまで、世界のルールが、在り方が、そうだって話でしょう? 問題なのは、その先の話だよ」
「――その、先?」
「そう。……さっきから、おれは、ずっとそれで悩んでいる。いくらでも『想像』はできるけど――こればっかりは、いくら頭で考えたって、分かりようのないことだ。ちゃんと、しかるべき人間に聞いて、確認する必要がある」
「ちょっと、勝手に進めないでください。全然話が見えないんですけど」
「だからさ、小鳥遊――おかしいと思わないか?」
伏し目がちだった視線が、再び悠一の顔を捉える。
「死んだら記憶がリセットされる――そういうルールがあることは、いい。そういうものなんだと、納得が出来る。だけどさ――何で、『グループ』の人たちは今の今まで、そのことをおれたちに秘密にしてた訳?」
「……それは」
「新城さんが竹崎に会いに行けって言ったのは、明らかに、おれたちにそのルールを見つけさせるためだ。何でだ? 何で、このタイミングで、おれたちにそのことを明かす気になったんだ?」
並木の言葉が頭に染み込むまでに、しばらくの時間がかかった。
現実的な『死』によってもたらされる、記憶リセット。
それと――悠一、並木との、関連性。
…………。
ゆるゆると、頭が回転を始める。
様々な出来事を、人物を、言葉を想起する。
点は線を結び、
線は面を紡ぎ、
面は立体を形成する。
前周、眠りにつく直前、思いつきそうになった何かが、不意に急浮上し、悠一の眼前に現れる。
嗚呼。
嗚呼。
そうか。
こんな、簡単なことだったのか。
闇雲に手を伸ばしても届かない筈だ。
真実は――常に、自らの懐にあったのだから。
「……気付いた?」
どこか遠くを見据えながら、並木が乾いた声で問い掛ける。
「分かった……ような、気がします」
そう。それはあくまで想像で、仮定で、推測だ。どこまで言っても、確証など得られない。少なくとも、この二人だけでは。
「……俺たちは、これからどうすればいいんでしょう……?」
「多分、そのために封筒を渡したんだろうね」
「封筒?」
「忘れた? 三つ目の封筒は、まだ開封してないでしょう?」
そうだった。
完璧に、忘れていた。
新城から、並木経由で渡された三つの封筒。その、最後の一つ。
恐らくは、コレが最後の指標となる筈だった。
遠回りし、いくつもの袋小路にぶち当たりながら、悠一はようやくここまでやって来た。この封筒は、きっと、自分たちを確実にゴールへと導いてくれる。
悠一は恐れと不安と、そしてそれらを遙かに凌駕する期待を込めて、最後の封筒を開封したのだった。
『お疲れ様。
竹崎宗也の様子はどうだったかな?
門前払いされていないことを願うが、
きっと、君たちのことだからうまくやってくれたのだと思う。
さて、いよいよ最終局面だ。
君たちも、いい加減に気付いたことだろう。
この世界のルールに。
そして、君たちが置かれている立場に。
この期に及んで、分からないとは言わせない。
そんなことは私が許さない。
まあ、二人とも聡明な人間だから心配はしていないが……。
前振りはこのくらいにしておこう。
いよいよ、君たちに全てを話そうと思う。
ある程度の真実を得た、と自信が持てるようになったら、
私の所に来てほしい。
場所は、いつもの雑居ビルだ。
そこで答え合わせだ。
そして、私は君たちに全てを話す。
心と頭の準備を十全に行って、事に臨んでほしい。
待っている。
新城保』




