第四幕 第九章(前編)
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【午前6時30分】
ジ――。
目覚ましのベル音と共に跳ね起きた。
室内には、悠一しかいない。時計は六時三十一分を指していて、カーテンを開ければ、外は雨。すでにお馴染みとなった、リピート直後の光景。前周は織田に叩き起こされたために見ることが出来なかったが、本来は、これが純正なのだ。
ゆっくりと起き上がり、悠一は自身の体調を確かめる。……大丈夫。至って、健康だ。新城に盛られた薬は、リピートによってきれいさっぱり消え去っている。勿論、消えているのは体内の薬だけではない。新城も織田も、匿名の警告状も、全て消えている。まるで、全てが夢だった――と言わんばかりの消失ぶり。
――本当に全てが夢だったら、どれだけ救われるか。
暗澹たる気分で部屋を出る。姉を起こし、階下に降り、家族と朝の挨拶を交わし、朝食に箸をつけながら――悠一は一人、考える。
リピートが起こるたび、世界は律儀に二十四時間巻き戻る。その間に起きたことは、全てなかったことになる。それは悠一自身も例外ではない。肉体的な変化――傷や疲れなどは、全て消える。なかったことになる。
唯一――その、記憶を除いて。
悠一は覚えている。
今日、五月十三日、何が起きるか、誰がどこでどんな言動をとるか、全て、覚えてしまっている。錯覚や勘違いなどではない。実際に、朝食のメニューも、天気予報の内容も、星座占いの結果も、家族間で交わされる会話も――全ては、悠一の記憶通り。自分の記憶だけが、この壊れた世界に生きているという証なのだ。
……いや、それも、少し違う。自分一人だけがこんな目に遭っているのならば、また違う結論に至っていたのかもしれない。だけど、今日の記憶を持ち越しているのは、一人だけではないのだ。壊れた世界の証人は、一人ではないのである。
だから、迷う。
だから、惑う。
一部の人間がこの世界を解き明かそうとする一方で、この世界の特性を利用してエゴに走る人間もいる。嘘を吐く人間がいて、何かを隠す人間がいて、それを追及する人間がいる。
その結果が――これだ。
そこまで考えた所で、悠一の思考は、ようやく前周の夜にまで追いつく。
あの、匿名の手紙――それを読んだ、新城の言葉。
――私は、手紙の主の方が気になる。
――君はすでに察しがついているのかな?
――自分に嘘を吐くのは感心しないな。
一度思い返すと、その言葉ばかりが、何度も何度も、頭の中を駆け巡る。
『グループ』の連中は、一体何を考えている?
そして、あの手紙の主は、本当に――。
身支度を整えながら、悠一は思考の無限回廊に陥る。鬱々とした気分のまま、鞄を持ち、靴を履き、紺の傘を掴んで、玄関の扉を開け――
「おっはよぅ!」
即刻、閉めた。
……完全に、疲れている。
デジャビュ。既視感。頬を両手で軽くはたき、今度はゆっくりと、扉を開ける。
「……まさか、二日越しで天丼かまされるとは思ってなかったわ」
そこには、苦笑する筒井美智代が立っていた。
いつかと同じ、細身の躰にフィットしたツイード生地のスーツを身に纏っている。
「何で……ここにいるんですか……?」
「そこまで同じ台詞ぅ? ま、いいわ。真面目にいきましょう。小鳥遊君、私は、『グループ』の代表として、君に話があるの」
「こっちにはありませんよ」
彼女の言葉を一蹴し、視線を逸らす。傘を差し、美智代の横をすり抜ける。
「ちょっと、つれないなー。そんな態度とっていいワケ? 二周前のこと、忘れたの? 君に約束すっぽかされたの、すっごくショックだったんだけどなー」
「人の罪悪感につけ込む作戦ですか。その手には乗りません」
「何時間も寒い中待ち続けて、凍えちゃったんだけどなっ! 凍死するかと思ったんだけどなっ!」
「今は五月ですよ。……つーか、それを言うなら、俺だってあの人達に薬盛られてますからね。こっちこそ、死ぬかと思ったっての」
「大丈夫。睡眠薬飲んで死んだ人はいないから」
「いるわ! たくさんいるわ! 麦原もアンタも、人体を過大評価しすぎだろ! ……もう、ついてこないでください」
これ以上、美智代の軽口に付き合う義理もない。今や『グループ』への信頼度はゼロに近い。何を言われても、耳を貸すつもりはない。
悠一の態度が頑ななのを感じ取ったのか、美智代はそれ以上ついてこなくなった。悠一は振り向きもせず、大股で駅への道を急ぐ。
しばらくして、背後から車のエンジン音が近付いてきた。
「ねえねえオニーサン、乗ってかない? 学校まで送ってくよぉ?」
美智代だ。
例のポンコツ者をノロノロと運転しながら、窓を開けて悠一に話しかけてくる。無視。
「ね、ね、ね、乗ってくれたら、オネーサンがいいこと教えてあげるんだけどなぁ?」
無視。
「話だけでも聞いてかない? 答え、知りたくない? 君が知りたがってること、今なら教えてあげられるんだけどなぁ?」
その手に乗るか。
「もぅ、無視しないでよぉ。最近、冷たくない? 結局、私のことは、遊びだったの? 私のこと、弄んだの?」
「うるせェェェッッ!」
限界だった。どうやら、自分で思っているより、気が短い性分らしい。
「天下の往来で人聞きの悪いこと言ってンじゃねェよッ! てか、どっちかって言ったら、弄んだのは、アンタらの方なんだかんな!?」
「んん? 私がいつ、君のことを弄んだ?」
「ずっとだよ! アンタ、ずーっと俺に嘘吐いてたんじゃねェか! 何が『君が調べてみたら?』だよ……。犯人はアンタらだったんじゃねェか!」
「……そのことも込みで、話を聞いてもらいたいの。ちゃんと謝るし、君の知りたいことも、ちゃんと話す。私なりの――誠意を、見せたいの」
「だから、その手には乗らねェっての。ンなこと言って、また適当な台詞で煙に巻くつもりだろ? アンタお得意の話術で人を操って、そのくせ肝心なことは何一つ喋らないで、さ」
「『グループ』の信頼も、地に墜ちたものねェ」
「こそこそと人の裏で隠し事ばっかやって、それを追及された途端に睡眠薬飲ませて、それでもまだ信頼するようなら、そいつ完璧に馬鹿だろ」
「汚名返上のチャンス、くれない?」
「無理」
「滝サンを殺してたのだって、ちゃんとした意味があるんだよぉ?」
「聞く気ねェから」
「――滝サンの顔、見たくない?」
「……いや、そりゃ見たいけどさ」
言った瞬間、しまったと思った。何が何でも、突っぱねなきゃならないのに。僅かでも、隙なんか見せちゃいけないのに。
だけど、滝なゆたの顔を見てみたいのも、また事実。この数周、ずっと彼女の生き死にを考えていたにも関わらず、自分はいまだに彼女の顔すらも知らないのだ。知るチャンスは何度もあったにも関わらず、その度に何らかの邪魔が入って見れずじまい。……今考えて見れば、その『邪魔』というのは、百パーセントの確率で『グループ』の誰かだった気がするのだが……。
「ここに、携帯で撮った画像があります。ウチの優秀な探偵・鷲津吾郎がついさっき盗み撮りして、送信してきた一品なんだけど」
言いながら、携帯のフリップを開き、悠一の鼻先にかざしてくる。反射的にそれを手に取ろうとしたが、すんでのところで美智代にかわされてしまう。
「だーめ。見たいなら、車に乗って? 乗ったら、見せてあげる」
「今度は交換条件かよ……」
理屈こねたり、情に訴えたり、怒らせて隙を突いたり、魅力的な交換条件を提示したり――交渉役を自認するだけあって、この女、色んな引き出しを持ち合わせている。悠一のような直情型の人間に、太刀打ちできる訳がない。
「それに、今の時間なら生の彼女を見ることもできる。私、そこまで案内するけど――どうする?」
突っぱねることはできる。突っぱねることはできるのだけど――
「……少しだけ、ですよ」
結局、悠一は美智代の条件を飲んでしまう。心のどこかで、彼女の話を聞きたい、という部分もあったのかもしれない。いずれにせよ、彼女の話を飲んだ時点で、チェックメイトも同然だった。
傘を畳み、悠一はポンコツ車の助手席へと乗り込む。
「OK。じゃ、ちゃっちゃと紫苑駅に向かいましょうか!」
「その前に、俺からも一つ、条件があります! これを飲んでくれないなら、俺はすぐにこの車を降ります!」
「なあに?」
「――時速五〇キロ以下で、走行してください」
十五分後、車は紫苑駅近くのの線路脇に停車していた。
二周前と全く同じ場所だ。
「……取り敢えず、俺の条件を飲んでくれたことに、感謝します」
「変なの。スピード出せば、もっと早くに到着したのに」
「変なのはアンタに免許を交付した教習所だよ……」
「前の周は、ゴメンネ? 私も、できれば荒っぽい真似はしたくなかったんだけど……」
荒っぽい真似、というのは、美智代の運転のことではなく、悠一に睡眠薬を飲ませたことを指しているらしい。
相変わらず、自分に不都合な台詞は聞こえないようだ。
「三つほど、聞きたいことがあるんスけど」
「何? 何でも聞いて? 約束だから、何でも正直に答えるよ?」
「どうやって、俺に薬飲ませたんですか? 二人とも、俺と同じコーヒーを飲んだ筈なのに……」
新城に忠告されるまでもない。悠一だって、その程度の注意は払っていたのだ。だから、二人がコーヒーを飲み込むのを確認してから、悠一も口をつけたのである。それなのに……。
「ああ、それは簡単。薬は、コーヒーじゃなくてシュガースティックの方に入れられてたのよ。新城サンと織田サンは、ブラックだったでしょう? 砂糖を入れて飲むのは、君だけだから。その程度の細工だったら、簡単にできるしね」
拍子抜けした。そんな簡単なことだったのか。
「じゃあ、その睡眠薬は、どこから調達したんですか? また、『武器屋』に貰ったんですか?」
「ううん。あれは新城サンの私物。あの人、かなりの不眠症らしくてね。もっとも、この世界に迷い込んでからは、無理して眠る必要もないって、喜んでるくらいなんだけど」
意外だった。いつも自信満々で、何もかもを見透かしてるようなあの男に、そんな悩みがあっただなんて。
「じゃあ、最後の質問。どうして――俺を、眠らせたりしたんですか? あと二時間ちょっとでリピートが起こるのに、そんな荒っぽい方法とったりして……。ンなことしたら、信用が地に墜ちるって分かり切ってるじゃないスか。ただでさえ、俺はアンタらに不信感を抱いてるってのに……」
「それはねぇ……ま、状況が状況だったからね。君、本当のことを教えてもらうまで、引き下がらないつもりだったでしょう? でも、私たちは私たちで、作戦を練り直す必要があった。場を、仕切り直さなきゃいけなかったの。だから、ちょっと荒っぽい方法をとらせてもらったって訳」
「それで、俺がアンタらを完全に信用しなくなっても、構わない、と?」
「どっちみち、犯人は織田サンだってバレちゃった訳だしねぇ。毒を喰らわば皿までってやつよ。それに――真実を知りたがっている君は、私たちを切り離すことなんて、できない。どれだけ胡散臭かろうが、どれだけ嘘を吐かれようが、君は、私たちの言葉に耳を傾けてしまう。何故なら、私たちは真実を知っているから。違う?」
違わなかった。
どれだけ信用が地に墜ちようが、そんなことは関係なかった。『グループ』の連中は、悠一の知りたがっていることを知っている。そして、悠一だけでは、それを探り当てることはできない。結局、全てはスタート地点から変わってないのだ。時雨大学前で、初めて美智代とまともに接触したあの頃から、状況は何も変わっていない。足下を見られているようで癪だったが、こればかりはどうしようもない。
「で、どうよ。滝サン。感想は?」
――滝なゆた。
駅までの道中、そしてここに到着してから今まで、悠一はずっと携帯の画像に釘付けになっていた。美智代と昨晩の話をしている間も、ずっと。初めて見る滝なゆたの顔を、ずっと、ずっと眺めている。
簡単に言えば、相当な美人だった。
恐らく、家を出たところを盗み撮りしたものなのだろう。携帯のカメラで、それも少し離れた位置から撮っているため、画像は荒いが、それでもその整った顔立ちは充分に確認できる。黒髪のロングヘアーと、大きな瞳と形のいい眉が印象的。体型はスレンダー型で、どこかの雑誌モデルみたい。
これが、滝なゆたか。
「キレイな娘でしょ?」
「……まあまあですね……」
「それ、たこ焼き食べた時と、全く同じ反応だから」
ニヤニヤしながらこちらの反応を窺っている。本当にウザい。
「それで、今彼女はどこにいるんです?」
「自販機の横にあるベンチ、分かる? その横に立って、音楽聴きながらメール打ってる。ほら、水色のホットパンツの娘」
目を凝らすと、確かに画像と同じ顔、服装の女性が立っている。今回も少し距離があるが、携帯の荒い画像よりはマシだ。メールを打つために伏せられた目元はどこか憂いを帯びていて、顔立ちも相まって、エキゾチックな妖しさをも兼ね備えている。ホットパンツから伸びる脚が眩しい。長く伸ばされた黒髪が美しい。
彼女が。
彼女が。
彼女が。
「……凝視してるねぇ……」
「監視してるんです。不審者がいないかどうか」
「その必要がないってことは、君ももう充分に分かってる筈だけど? もう、このホームで人身事故は起きない。織田サンは、もうこの駅に来ない」
「――どうして」
反射的に出た言葉だった。美智代への問いかけというより、独白に近かったかもしれない。
「どうして……彼女が、死ななきゃいけないんだ? どうして、アンタらは彼女を殺したんだ?」
「ね、不思議よねぇ。織田サンが何度手を汚したって、あの娘、この時間には普通に電車待ってるんだもんねぇ。ホント、『壊れた世界』とはよく言ったもの――」
「質問に答えろッ! 俺は、何でアンタらが彼女を殺めたかって、その理由を聞いてンだよッ!」
車内に、悠一の怒号が響く。
視線の先では、たった今来た上り列車に乗客達が吸い込まれていくところだった。滝なゆたの姿もすぐに見えなくなる。七時十五分、定刻通りだ。
自分でも感情的になっていることは分かっていた。感情的になればなるほど、相手の思う壺なのだということも、充分に分かっていた。分かっていたのだけれど、どうしても止められない。もう、誰にも止められない。
「その前に一つ」
瞬時に真面目な顔にシフトチェンジした美智代は、人差し指を突き出し、激昂する悠一を半ば強引に黙らせる。
「私たちの――『グループ』の、この世界で動くうえでの姿勢を知ってほしいの」
「姿勢? ンなもん、どうだって――」
「大事なことだから」
有無を言わせない口ぶり。ここでもまた、悠一は美智代のペースに乗せられてしまう。
流されて、しまう。
「私たちの活動の一つに、『秩序維持』があったの、覚えてる?」
「忘れる訳ねェだろ。織田が暴れンのも、あの探偵オヤジが色々探ってンのも、そのためだ。ゼンブ、暴走した馬鹿を取り締まるため――なんだろ?」
「暴走した馬鹿、か。司ちゃんの表現だね。……小鳥遊クン、あの娘から色々聞いたの?」
「聞いたよ。白石純のしでかしたこととか、色々」
「その話、か」
一瞬、下唇を噛んで、すぐに悠一に向き直る。その一連の仕草もまた、演技なのだろうか。
「あの子は――一時期とは言え、この世界を混沌に陥れた。私たちは、それを許さなかった。何故なら、私たちは秩序維持のために、動いているから。
私は――あの子を救いたかった。
あの子の闇を、晴らしたかった。
だけど、私の嘘は、何の力にもならなかった。
あの時も――今も」
何が始まったのだろう。贖罪タイムの始まりだろうか。だけど自分は牧師ではない。そんなことをこの場で言われても、リアクションに困る。
「……結局、あの場では、織田サンに動いてもらうしかなかった。本当に……私は嫌だったんだけど……だけど、あの場では、そうするしかなかった。そうするしか、なかったの。そうすることでしか、混沌を終わらせることができなかったのよ。あの時は」
「昔話はいいよ。俺は、今の話を聞いてる」
弁解ともとれる美智代の言葉を、悠一は一蹴する。
「……今も同じ」
だけど、美智代は単に昔話をしている訳ではなかったらしい。ちゃんと、話は繋がっていたのだ。
「私たちは、秩序を維持するために、動いている。暴走して、混沌をもたらすような人間を、私たちは許さない。そのためには何だってする。手を汚す真似だって、辞さない」
じぃっと、真摯な眼差しでこちらの目を覗き込んでくる美智代に対し、悠一はしばし、言葉を失う。
「そのためには――人殺しだって、する」
「……ちょっと待てよ」
数瞬の間を置いて、ようやく悠一は口を開くことができた。
「じゃあ、何かよ。あの人は――滝なゆたは――純みたいに、暴走する運命にあるってのか!? アンタらは、それを阻止するために、その未来を潰すために、毎周ご丁寧に、彼女の命を奪ってるってのか!?」
「それは、少し、違う」
一語一語区切りながら、噛んで含めるように、宣告するように、彼女は台詞を吐く。
「あの娘は、引き金なの」
引き金。トリガー。銃を起動させるための部品。
「……分かるように、言ってくれ」
「前に私が披露した仮説、覚えてる? きっかり四十八時間前に、この場所で、私が君に話した仮説」
言われて思い出す。この事件をどう思うか、と聞いた後に美智代が披露した、一つの説。彼女はあくまで仮説だということを強調していたが……?
「そりゃ覚えてるよ。あの、未知のリピーターXだのAだのっていう、アレだろ?」
リピーターである犯人Xは、滝なゆたが未知のリピーターAに出逢うことで、自分にとって未来が不都合な展開になると考え、その未来を回避するために、先手を打って彼女を抹殺した――というのが、美智代の説だった。その時は随分と飛躍した説を展開するもんだと思っていたのだけど……。
「実は、それこそが答えだったの」
「ハァ!?」
「仮説なんかじゃなく、答えを、私は言っていたの。……分かる?」
「全く分からん」
「だから、そのままだって。織田サンは――ううん、私たち『グループ』は、滝なゆたが生きていることで不都合な展開になると知っていた。もっとはっきり言えば、彼女がいるために、この世界に混沌が到来することを知っていた。少なくとも、その危険性があることを、私たちは知っていたの。それで……織田サンは、手を汚した」
美智代の口元を見つめながら、悠一は必死になって頭を整理していた。
滝なゆたが生きていると、不都合な展開になる?
この世界に混沌が到来する?
『グループ』の連中は、そのことを知っている?
「何がなんだか分からない、って顔してるね」
「今の説明で分かる奴がいるなら、ここまで連れてこいや。俺は、全てを、分かりやすく話せって言ってンの。情報を小出しにするのはやめにしてくれ」
「滝なゆたは『引き金』にすぎない――つまり、彼女とは別に、『銃弾』となる存在がいるってこと。その人間は、最低最悪の無差別大量殺人を引き起こす。そのいう未来が、確実に来る。私たちは、それを阻止したい」
「聞きたいことはいっぱいあンだけどさ――」
「ストップ!」
人差し指を突き立てられ、悠一の発言は再び潰されてしまう。
恐らくは、これも美智代の手なのだろう。イラつかせ、怒らせて、判断力を鈍らせる。頭の片隅で理解できているのだけど、それでも頭に血が上るのを自制することができない。自分はそこまで大人ではない。
「その前に――」
「またそれかよッ! いい加減、勿体ぶんなッ! アンタ、俺に全部話してくれるんじゃなかったのかよ!? 俺の知りたいこと、全部。訳の分からない例えを出したり、思わせぶりに情報を小出しにしたり、そういうのもういいから――」
「だから、待ってってば。私だって、君の知りたいこと、全部教えてあげたいと思ってるよ!?」
「だったら――」
「物には順序があるの。手順があって、段取りがあって、段階がある。この場で、全ての真相を語るのは簡単だけど――きっと、今の君では、まだ理解できない。『そんなの嘘だ』って、頭から否定して、信用なんてしてくれない」
――まだ、その時期じゃない。
織田も司も、口を揃えてそんなことを言っていた気がする。
「段階を踏んで、手順を踏んで……そうまでしないと理解できない真相って、何だよ?」
「それは、じきに分かる。それよりも、君は、その前に知っておかなきゃいけないことがある」
「知っておかなきゃ、いけないこと……?」
「手紙の主」
「…………」
グッと、言葉に詰まる。
「新城さんから全部聞いてる。匿名で直接投函された、『グループ』を糾弾する手紙――その、書き手。……ねえ。私は、君が知りたいことを教えるって、そう言ったよね? 君が、一番知りたいこと。差し当たって、君が今一番知りたいのは、その手紙の主なんじゃないの?」
「…………」
「って言うと、少し語弊があるかな。正確に言うね。君は、もう薄々勘付いている。誰が自分に警告をしたか、心当たりがある。だから、今はその確認がしたい。その結果が吉であれ凶であれ、君は真実をはっきりさせたいと考えている。違うかな?」
「…………」
「これは、手順の一つなの。君がその目で真実を見ようとしない限り、次のステップには進めない。勿論、その選択権は君自身にある。真実なんて知りたくないと言うのなら、それはそれでいいと思う。私は、その決定に従うだけ」
どうする?
美智代の声が、頭に響く。今まで美智代たちにしていた追及が、自分に跳ね返ってきた形だ。
どうするのか。
どうしたいのか。
どうするべきなのか。
――迷うまでも、なかった。
心は決まっている。自分は、真実を知りたい。
「……車を、出してください」
「行き先は?」
「学校――織遠学園へ、向かってください」
【午前8時10分】
教室の扉を開けたのは、朝のHR直前。それより一秒でも遅ければ問答無用で遅刻扱い。そんなタイミング。
「遅いぞ、小鳥遊!」
「スイマセン。足取りが重くて」
「そんなのお前のサジ加減だろ! 下らないこと言ってないで、早く席につけ。出席をとる」
担任の声に従って、悠一は自分の席についた。隣から話しかけてくる美那を適当にあしらいながら、悠一はじっと考える。この後、自分がどう行動するか、その真実にどう向き合うべきか――を。
テストは普通に受けた。白紙で提出してもよかったのだが、それで面倒事になっても馬鹿らしい。どっちみちテスト中は他にやることもないので、真面目に答案用紙を埋めていく。
そして、瞬く間に、時はすぎる。
「で、話って何? 言っておくけど、お金は貸せないよ? あと、女の子の紹介もできないから、それ以外の要件でお願いします」
「んなの、言われなくても、最初から入江に頼んだりしねェよ……」
いつかと同じ状況。
いつかと同じ台詞。
いつかと同じように、悠一は入江を呼び出した。放課後、使われていない教室。二人の声だけがやけに響くこの空間で、悠一は再度思考を巡らせる。
「それで、何なのさ? 僕でどうにかなる問題だったら、いくらでも相談に乗るよ?」
「いや……正直、お前に相談してどうにかなる話でもないんだけど、さ……」
「何ソレ。もしかして、ヤバいことに巻き込まれちゃったりしてる? だったら、尚更自分一人で背負い込んでちゃダメだよ。親なり学校なり警察なり、しかるべき場所に相談しなきゃ」
全く同じ状況だからか、入江が吐く台詞は二周前のそれと全く同じ。一字一句違わない。
朝、紫苑駅で美智代と話したことも合わせて、今周は、まるで二周前の出来事をトレースしたかのようだ。表層だけをなぞれば、まるで同じに見える。
だけど、違う。
何もかもが違う。
悠一は、知ってしまっている。自分は、確実に真相に近付いている。あとは、それを確認するだけ――。
「いや、そういうことじゃなくて……。大人に相談して、どうにかなるような問題でも……」
何度も頭の中で反芻したおかげか、四十八時間前に発したのと、全く同じ台詞が簡単に口をつく。
「何言ってんだよ!? 全然意味が分からないよっ! 小鳥遊が相談事があるっていうから来たのに、何なんだよ、ソレ……。僕じゃ、信用できない?」
対する入江の台詞も、全く同じ。
「どうせ、お前は……忘れて……」
「はァ? 何言ってンの? 親友の一大事を、僕が忘れたりする訳ないじゃん! いくら小鳥遊でも――」
「入江」
激昂する入江明弘の台詞を、途中で遮った。
「何?」
「もう――そういうの、いいから」
「え?」
先程までと明らかに声のトーンが違うことに、気が付いたらしい。訝しげな顔を隠そうともせず、首を傾げている。
「……何を、言ってるの? 『そういうの』って……?」
「だから、もう惚けなくていいって言ってンの。俺、もう分かってるから」
「だから、何が――」
「お前、リピーターだろ」
刹那、入江の顔から表情が消えた気もしたが――その一瞬後には、また訝しげな顔に戻っている。
「『リピーター』……って? え? 何? 何の話?」
「だから、もう惚けなくてもいいんだっつの。お前はリピーターだ。それも、俺がリピーターになる、ずっと前からの。
入江、お前はそのことを表には出さず、誰にも気取られずにここまで来た。俺がリピーターになってからも、それは同じだ。何も知らない、何も覚えてないみたいな顔して、俺と接し、九周目と十周目では、快く俺の相談にも応じてくれた。
十周目の相談の時、お前、強い口調で『グループ』を信用するな、って言ってたよな? それと同じことを言う人間が、現れたんだよ。『グループ』を信用するな、『グループ』から離れろって、それこそ強い語調で、俺に警告を与えてきた」
そして悠一は、決定的なことを口にする。
「――あの手紙を書いたの、お前だろ?」
美智代の言う通りだった。
新城の、言う通りだった。
悠一は、あの手紙を読んだ時から、その書き手について、ある程度の察しがついていたのだ。
リピーターで、悠一の事情、『グループ』の事情、滝なゆた人身事故の事情に通じていて、かつ、頭が良く、悠一の身の上を本気で案じていて――その上で、自分の氏素性を明かしたくない人物。
整理してみれば、明白だった。
馬鹿な悠一にだって察しがつく。
自分が滝なゆたの件について疑問を抱いていることを話した人間は、『グループ』のメンバーを除けば入江しかいない。いや、そもそも、人身事故に関する矛盾に気が付いたのは、入江が最初だったではないか。もし仮に入江がリピーターであったなら、悠一が知り得ない事実を掴んでいることにも納得がいく。何周しているかは分からないが、聡明な入江なら、何らかの方法で『グループ』の正体を知っていたとしてもおかしくないからだ。
「あの手紙が匿名だったのは、『入江明弘』がリピーターであることを隠したかったからだ。だから、手紙なんて手法をとったんだよな? 電話だと声でバレる。メールだとアドレスでバレる。もちろん、声を変えることはできるし、アドレスだって簡単に変更できる。だけど、一日しか与えられてない以上、無駄な手間をかけている時間はない。だからお前は正体を隠して、警告状を出した。そこまでして、お前は俺と『グループ』を引き離したかったんだ」
一気に畳み掛ける。細部は違っていたとしても、悠一の語ったことにほぼ間違いはない筈だった。
だが、対する入江はポカンと口を開けたまま。訝しげな顔をすることすら忘れている。
「……えっと……あの、ゴメン。手紙って、何? 僕にも分かるように、順を追って話してくれない? お前の言ってることは、一から十まで、まるで分からない」
「まだ惚けンのか? まあいいよ。じゃあ、そのまま聞いててくれ。お前がリピーターなんじゃないかって疑ったのには、もう一つ、理由がある。これは手紙とは無関係。些細なことだけど、お前がリピーターだっていう、明確な根拠だ」
「だからリピーターって何――」
「俺、前の周、アイツに会ったんだ」
入江の言葉を無視して、悠一は言葉を紡ぐ。前もって用意していた、入江を追及する台詞を、用心深く語っていく。
「その時は、俺、成り行きで緑木郊外の公園にいたんだよ。アイツ、その近所に住んでるらしくってさ。偶然そこで会って、少し話したんだ。アイツ――笑ってた。笑いながら俺の仮病に呆れてた。俺の心配までしてた。安心したよ。少ししか話せなかったんだけど、アイツ、元気そうだった。悩みは明日のテストのことだけだって……そう、言ってた」
前周の夕方、郊外の公衆トイレで麦原の着替えを待っている時のことだ。突然現れた篠原美那は、明るく笑っていた。その時は安心して終わったのだが……しばらくして、違和感を感じたのだ。
「だけど、考えてみたら、これっておかしいんだよな。アイツ、オリジナルの世界では、恋人にフラれちまうんだよ。それで凄い落ち込んで、泣いて――朝イチで俺が干渉しなければ、アイツは、恋人にフラれる運命にあった筈なんだ。それなのに、その時のアイツは違った。もちろん、俺に全てを話す訳じゃねェってことは分かってっけど――にしても、恋人にフラれた直後の人間が、あんなに明るい笑顔を見せられるもンか? あの時のアイツは、フラれる運命を回避したんじゃないか――そう、考えた。
そうすると、おかしなことになる。リピーターが干渉しない限り、世界は動かない。そして、その周の俺は早朝から拘束されていて、学校にすら行けない有様だった。アイツらの事情に干渉する暇はなかったんだよ。それなのに、アイツは、悲惨な運命を回避した。リピーターが干渉しない限り、世界はそのままの形で流れる筈なのに。
つまり、そこにはリピーターの干渉があったってことだ。
誰か、ウチの学校のリピーターが、前もって釘を刺しておいたんだ。アイツに話をするのは、また今度にしてくれ、と。かつて、俺がそうしたように。
さて、誰がそんなことをする?
俺以外に、誰が、アイツの失恋に心を痛める?
……お前しか、いないんだよ。
お前が、やったんだ。
お前が世界に干渉して、アイツの運命をねじ曲げた――違うか?」
一切の淀みなく、そこまでを語る。
後は、入江の反応次第。
「…………」
が、入江の反応は薄い。いや、ほぼ無反応と言ってもいい。訝しげな表情を消し、かと言って別種の表情を顔面に乗せることもせず、ただ、何も映っていない――かのように見える――瞳で、じっと悠一を見つめ返している。
「……ンだよ。何か言えよ」
耐えられなくなったのは、悠一の方だった。初めて見る親友の顔に、戸惑っていたのかもしれない。
「――ハメられたな――」
たっぷり数秒は沈黙してから、口の中で小さく呟き、入江はガシガシと髪を掻く。イラついた時の癖だ。
「オイ、どういう意味だよ、それ。ってか、まずは俺の質問に答えろって」
そう。まずは、悠一の質問に答えてもらうのが、先だ。その反応如何で、事の真実がはっきりする――筈だったのだけど。
「いや、質問も何も、お前のそれって、質問になってないじゃん。お前は、ただ自分の推理を並べ立ててるだけ。『どう思う?』って言われて、僕は何て返せばいいワケ? 答えられないよ。5W1Hで聞いてくれないと。僕を引っ掛けるつもりなら、尚更ね」
「えっ……」
「だってそうでしょ? 黙って聞いてりゃ、さっきからわざとらしく『アイツ』『アイツ』ってさ。お前は、僕に何を言わせたいの? 篠原の名前を言わせたいんでしょう? 篠原がどうのって、僕が口を滑らせるのを待ってるんじゃないの? で、小鳥遊はこう言う。『どうして、お前はそれが美那のことだって分かったんだ? 俺はそれが美那だなんて、一言も言ってないぞ?』ってね。『どうしてお前は、失恋するのが美那だって知ってるんだ? 理由は簡単。それは、お前がリピーターだからだっ!』って――そんな風に、僕を追い詰めるつもりだったんでしょう?」
僅かに口角を上げながら、入江は意地悪くそんなことを言う。悠一は、入江のこの悪戯っぽい表情を見たことがある。カンニングを勧めた時の、あの顔だ。
「悪いけど、バレバレだから。僕がそんな、古典的な手に引っ掛かると思った? ま、小鳥遊にしちゃ頭使った方だと思うけど、僕には通用しないよ?」
お前が俺に勝てる訳ないでしょう?
入江はそう締めくくり、ニッコリと笑う。久々に見た、入江の笑顔。悠一はその前で、ポカンと口を開けることしかできない。
「……ちょ、ちょっと待てよ。話を整理させてくれ。入江、お前は――自分が、リピーターだってことを、認めるンだな?」
「もうこれ以上、トボけられないでしょ……。僕が何を言おうが、小鳥遊は失恋していない篠原を見てしまった訳だし。お前の言う通り、篠原の近くにいて、篠原が失恋する未来を知っていて、かつ篠原が失恋しないようにお節介焼くような物好きなんて、僕かお前くらいのものだからね。小鳥遊が僕を疑うのはもっともだよ。実際、その通りな訳だし。……それに」
溜息と一緒に、入江はフルフルと首を振る。
「今回も、僕はそのお節介を焼いちゃったんだよねえ。お前、今朝始業ギリギリに教室に入ってきたでしょ? 僕はまたてっきり、お前が学校に来ないんだと思って――それで、先周と同じように松本に釘刺しちゃったんだよ。だから、今回も篠原は松本にフラれる未来を回避したことになる。そしてその事実こそが――僕が、リピーターである証拠となってしまう。お前の理屈からいくと、だけどね」
完璧に開き直ったらしい。
リピーター特有の用語を駆使しながら、この世界の在り方を整然と語り始める。その語調に、迷いはない。
「どうして……今まで、隠してたんだ?」
だから、悠一は尋ねた。
今回も含め、入江には今まで計三回、相談を持ちかけている。その度に、この男はリピーターではない人間として、親身になって、的確なアドバイスを与えてくれた。だけど、リピーターとそうでない人間の間に横たわる溝は、思いの外、深い。もっと早く入江がリピーターだと分かっていれば、色々と相談できたのに。
こんな風に、孤独を感じることも、なかったのに。
だけど、不思議と怒りは湧かなかった。ただ、無性に嬉しかった。遠く離れた異国の地で孤軍奮闘している時に旧友と再開したら、こんな気持ちになるのだろうか。自分はもう、独りではない。痛み、苦しみを共有し、永遠に続く無限ループを共に歩んでくれる相棒が、こんなにも近い場所にいたのだ。
だからこそ、確認しておきたかった。何故、入江は今の今まで、自分がリピーターである事実を秘匿していたのか。何故、そこまで頑なに、自分の正体を隠そうとしていたのか。
「どうしても何も……言い出すきっかけがなかっただけだよ。それまで全く同じ言動しかとらなかった小鳥遊の様子が急におかしくなって、まさかと思ってたら、いきなり学校に来なくなって、変だと思って問い質したら、案の定リピーターになってて……。だけど、そこで自分もそうだって言ったら、余計に混乱させると思って、それで……」
「だけど、お前はそれ以前から、自分がリピーターであることを周りに隠してたよな?」
「だから、それも隠してた訳じゃないってば。ただ、どうしたもんかと思って、様子を見てただけ。何となく、下手に行動起こしたら危険な気がしてさ。まあ、リアルで大人しくしてた分、ネット世界であれこれ情報収集してたんだけど」
「ネット? お前、ネット上にリピーターの知り合いがいンのか?」
「そりゃ、延々と彷徨いていれば、知り合いの何人かはできるさ。もちろん、向こうの氏素性なんか分からないし、そいつらの言ってることの信憑性も怪しいもんだけど――それでも、幾つか分かったことがある。この世界の仕組みとルール、過去数千周の間に起きた出来事、そして、関東圏を中心にして活動している『グループ』と呼ばれる連中のこと……」
『グループ』の単語を出した途端に、入江の表情が険しくなる。徹底的に毛嫌いしているらしい。……否、警戒している、と言うべきか。
「奴らは、危険だ。耳障りのいいことを吹聴しながら、実際に行っているのは破壊工作だ。奴らの思想に背く人間は、容赦なく粛正される。ギリギリまで肉体を痛めつけて――それで――心を、壊される。奴らはそんなことばかり繰り返してるんだ。
だから、小鳥遊には関わってほしくないんだよ。勿論、僕だって近寄りたくない。できることならば、このまま存在を知られないでいたい。自分がリピーターだと名乗りでなかったのには、そういう理由もある。我ながら情けない話なんだけど……僕は、保身に走ったんだ。本当なら、小鳥遊にも自分の正体を明かしたかった。だけど、僕は奴らが怖かった。奴らは小鳥遊にべったりだ。その近くにいたんじゃ、いつ僕のことがバレるか分からない。だから……僕は……」
下唇を噛み、顔を俯ける入江。
そんな顔、しないでほしい。
確かに、本当のことを話してくれなかったのは淋しいけれど。だけど、悠一は入江から、どれだけの知恵と勇気をもらったか分からない。コイツがいなければ、自分はとっくにダメになっていただろう。
それに、入江の言い分も分かる。丸一日一緒にいた自分だからこそ、断言できる。
『グループ』は危険だ。
何の迷いもなく、人を殺す。
何の惑いもなく、人を壊す。
全ては、『秩序』のため。
全ては、『世界』のため。
全ては、『明日』のため。
入江がどこまで把握しているかは分からない。だけど、コイツが恐れるのも当然だ。
『武器屋』高橋と手を組み、街中を爆破した白石純の暴走を止めるのに、『グループ』の連中は、『恐怖』という感情を利用した。
奴らは、『恐怖』で人を縛るのだ。
入江の選択は、間違っていない。ネット上でのやりとりとは言え、入江は奴らの噂を知ってしまったのだ。奴らを恐れて、正体を明かせなかったのも頷ける。
「そうか……それで、あんな手紙を書いたのか……」
「――手紙?」
入江が顔を上げる。その顔には、あの訝しげな表情。
何か、嫌な予感がする。
「……俺に、送ったよな?」
「小鳥遊、さ。僕、ずっと気になってたんだけど――その手紙書いたの、僕じゃないよ? お前、篠原の件とその手紙から、僕がリピーターじゃないかって推理したみたいだけど、少なくとも、僕は手紙なんて知らない。それを書いたのは、別の人間だ」
随分と強い口調で、断言する。
「え、でもお前、たった今、『グループ』が危険だって言ったばかりじゃねェか。人身事故の件だって、お前、それが『グループ』の仕業だって、分かってたんだろ?」
「何となくね。細かいことは知らないし、理由とか目的とかは全然分からないけど、それが奴らの仕業だってことは、うん、ある程度察しがついてた。だけど、その手紙を書いたのは、絶対に僕じゃあない。結果を見なよ。小鳥遊は、その手紙が匿名だったために、逆に僕がリピーターだって結論に至っちゃったんでしょう? 僕が、そんな間の抜けたことをすると思う? お前に警告するのが目的なら、もっとスマートな方法をとるよ。僕ならね」
でも。それじゃ。
「じゃあ、誰が――あの手紙を書いたんだ?」
「……それは、きっと、罠だ」
唐突に、訳の分からないことを言い出す。
「は? ワナ――って?」
「だから、『グループ』の罠。恐らく、その手紙を書いたのは『グループ』の誰かだ。奴らは、自分で自分を告発したんだ。一言で言えば、自作自演だね」
説明を聞いても、やはり意味が分からない。
「……ンなことして、何の得になるンだよ。わざわざ、自分らで信頼下げるような真似したって、意味ねェだろ」
「意味はあるよ」
そう言って、入江は不意に立ち上がり、扉に近付き、廊下の様子を窺い始める。廊下に誰もいないと分かると、今度は窓際に寄って、慎重に窓の外を窺う。
「……何、やってるんだ?」
「さっき言ったでしょ。『ハメられた』――って。小鳥遊は、案内役をやらされたんだよ」
「案内役?」
「きっと、奴らは小鳥遊の後ろにブレーン的役割の人間がいるって考えたんだろう。それで、奴らは自分で自分を追及する内容の手紙を出した。それを読んだ小鳥遊が、どういう思考経路を辿るか、そこまで計算してね」
「……どういうことだ?」
我ながら馬鹿みたいだと思うが、分からないものは仕方がない。
「自分のことだよ? よく考えて。お前は、その手紙を読んで、『自分のことをよく知っていて、聡明で、本気で自分の心配をしてくれる人間』という犯人像を描いたんでしょう? それで、僕のところにやって来た。それが奴らの狙いだとも知らずに、ね。
『グループ』の連中は、きっと、僕を狙っている。
今まで、奴らは僕のことを見つけられないでいた。僕は、細心の注意を払って、表だった行動を控えていたからね。それで、『グループ』の連中は、お前に案内をさせたんだ。あたかも、お前が自らの意思で来たかのように、錯覚させて……」
総毛立った。
だとすると――自分は、取り返しのつかないミスをしたことになる。
「じゃ、じゃあ、奴らはこの近くに……」
「いや、そう思って見てみたんけど――どうやら、今はこの近くにいないみたいだね。今すぐに行動を起こすつもりはないらしい。ただ、すでに僕という存在が知られてしまっている危険性は高いけれど」
「ゴメン。入江、俺――」
「謝らないで。小鳥遊は悪くない。悪いのは、狡猾な手を使う奴らの方だ。非難するべきなのは、常に、『グループ』の方なんだよ」
一語一語区切りながら、『グループ』の非を強調する入江。
「くどいようだけど、二つのことを、約束してくれ。
一つ、『グループ』の連中を絶対に信用しない。心を開かない。耳を貸さない。相手にしない。これは、徹底してほしい。
二つ、これからも、僕のことは絶対奴らには明かさないでほしい。勿論、すでに僕という存在が露見している危険性の方が高いんだけれど、それでも、僕という人間がいることを、明言しないでほしい。僕だけでなく、お前自身も危険な目に遭うかもしれないんだ。この二つは――常に、心に留めておいてほしい」
入江の言葉には迷いがない。
真っ直ぐな目で、真っ直ぐな言葉を語る。
入江には、どんな未来が見えているのだろう。
いや、そもそも――
「入江……一つ、質問していいか?」
「何?」
「お前は、何を知っているんだ?」
「何も知らない」
即答だった。
「僕は、ただ単にネット内に散らばるリピーター情報を収集してるだけだよ。信憑性のあやふやなそれらを取捨選択して、自分の目と耳で確認した事実を加味して、その上でいくつもの仮説を立てているだけ。考えてはいるけど、何も、知りはしない。ただ、常に最悪の展開を予想しているだけなんだ」
「その、『最悪の展開』ってのは――結局、何なんだ?」
「……ゴメン。それは、言えない。仮説は仮説で、やっぱり真実ではないからね。行動を立てる指針にはなるだろうけど、今のお前にそれを言っても、余計混乱させるだけだと思う。だから、確信が持てるまでは――言えない」
「ずいぶんと、もったいつけてくれるじゃねェか」
「ゴメン。いつか、必ず話すから。ただ、これだけは信じて」
僕は、本当に何も知らないんだ。
真っ直ぐな視線を向ける入江に、悠一は何も返すことができなかった。
肩すかし、だった。
今度こそ、真実を知れると思っていたのに。そのための心の準備は、もう随分前からできている、のに。
ひどく、モヤモヤした気分だ。
入江は、何かを隠している。それは間違いない。奴は何も知らない、などと言っていたが、そんな訳はない。必ず、何かを知っている筈なのだ。しかし、是が非でも、入江はそのことを話したくないらしい。それは悠一の身を案じてのことか、それとも――。
いずれにせよ、入江はあれでかなり頑固な性格だから、頼み込んでところで、口を割らせるのは無理だろう。
とは言え、何の理由もなく、嘘や隠し事をする人間でないことは、親友の自分が一番よく分かっている。奴には奴なりの理由があるに違いない。
――『グループ』のことは絶対に信用するな。
――僕のことは、絶対に『グループ』に明かすな。
リピーターであることを明かした後も、入江の指示は以前と変わりない。むしろ、その語調が強くなったくらいだ。
入江は『グループ』を毛嫌いしている。
その理由は教えてもらえなかった。『ネット上のあやふやな情報を整理・統合し、そこに自分が見聞きしたものを加味して立ち上げた仮説』によるもの――なのだろうか。よく分からない。
そして、当の入江は言うだけ言って、さっさと席を立ってしまった。結局、肝心なことは聞けずじまいだ。入江がいないのであれば、これ以上学校に残っている意味もない。仕方なく、悠一も帰り支度を始める。色々と展開が急すぎて、今ひとつ頭が追いついていない。早く帰って、一人で考えを整理したい。
校門付近、生徒の姿はない。皆、とっくに帰ってしまったのだろう。今日は五月十三日、定期テストの初日だ。真面目な生徒は翌日のテスト勉強に忙しいだろうし、そうでな生徒は遊ぶのに忙しい。そして、悠一や入江は、そのどちらにも属さない。何故なら、自分たちには今日しかないからだ。何度も何度も繰り返される今日に翻弄され、困惑し、混乱し、人を疑って――一体、自分は何をしているんだろう。この数周の間、様々な人物と出逢い、様々な言葉を交わしたが、悠一自身は何も成長していない。驚くほど、哀しいほど、滑稽なほどに――何も、変わってやしない。だから『グループ』のような連中につけこまれるのだろう。奴らは、数年分、数十年分の今日を経験してきた海千山千の猛者達だ。決して隙など見せてはいけないのに、『情報を手に入れる』なんて大義名分の下、無駄に行動を共にして、簡単に流されて、簡単に騙されて……。
だが、それも終わりだ。
もう、『グループ』に付き合うこともない。あの胡散臭い連中ともお別れだ。今の悠一には、入江がついている。奴もまた、全てを教えてくれる訳ではないようだが、それでも、味方であることには変わりがない。入江が危険と断定するのであれば、『グループ』には二度と近付かない。これからは、入江と力を合わせて――
「お帰り。遅かったねェ」
校門からしばらく歩いたところで、声をかけられた。振り返らない。振り返らずとも、声の主は分かっている。美智代だ。ご丁寧なことに、悠一が学校から帰るところを待ち構えていたらしい。無視する。
「……あれ? またツンツンモード? おっかしいなァ? 朝は、ちゃんと話してくれたのになー?」
無視して歩き続ける。美智代は、朝自宅の前でそうしたように、運転席から顔を出しながら、ノロノロと車でついてきているようだ。振り返らずとも、エンジン音で分かる。近所迷惑な。無視を続ける。
「こちらを見もしない、か――徹底抗戦って感じ? せっかく、学校での戦績を教えてもらおうと思ったのになー? もしかして、誰かに入れ知恵でもされた?」
無視。
「入江明弘クン、だっけ?」
……やはり、気付かれてたか。
美智代が――『グループ』の人間が――入江の名前を出したことに動揺しなかったと言えば、嘘になる。だけど、決してそれを表に出してはいけない。反応したら、それは入江がリピーターだと、そして悠一のブレイン役を務めていると認めることになってしまう。
「一年の時から同じクラスなんだっけ? ずいぶんと頭の切れる子みたいだねェ。成績もトップクラスなんだっけ? 鷲津サン、調査結果は?」
「全国模試でも何度か上位になっている」
久しぶりに聞く声に、悠一は再び動揺する。一度も振り返ってないので気付かなかったが、どういう訳か、鷲津が美智代の車に同乗しているらしい。
「両親共に弁護士。三つ上の兄は有名国立大の法学部に在籍中。本人もまた、子供の頃から非常に優秀で、神童と呼ばれていた時期もあったらしい。性格は温厚、責任感も強く、周囲からの信頼も厚い。小学生の時には児童会長、中学の時には生徒会長を務めていたようだ。また、高校一年の時には家庭教師のバイトをしていたらしい。趣味はパソコンとゲーム。基本的にはインドアだが、本人の性格からか、年齢、性別問わず友人は多い。最近では、同じクラスの小鳥遊や篠原美那らと行動を共にすることが多い」
鷲津の口から淡々と語られる入江のプロフィール。大半は知らないことばかりで、なかなか興味深かったが……やはり、反応してはいけない。鷲津だって、『グループ』幹部の一人だ。今美智代と一緒にいるのだって、入江関連のことに違いない。反応してはならない。無視を続けることが、入江の身の安全にも繋がるのだ。
「また、本当はリピーターなのに、周囲にはそのことを隠し続け、リピーターではない人間であるかのように振る舞っている。現在は、同じくリピーターとなった親友・小鳥遊に助言を与える形で協力している」
無視。反応しては、ならない。
「ちょっとぅ、鷲津サンがここまで言ってるのに、まだ無視を続ける訳ぇ?」
美智代の鼻にかかった声が癇に障るが、無視して、ただ前を向いて歩き続ける。
「……もしかして、『グループ』は徹底的に無視しろ、とでも言われたのぉ? 君、流されやすいし騙されやすいもんねぇ」
無視。
「きっと、手紙のことも聞いたんだろね。君、入江クンが書き主だと思い込んでたもんね。一つ、いいこと教えてあげよっか? あの手紙ね――書いたの、私なんだ。……あれ? 驚かないね。もしかして、あの子に教えてもらったのかな? 頭良いもんね、入江クン」
無視。
「もう気付いてるかもだけど、その入江クンに目をつけたの、ずいぶん前からなんだよね。じゃなきゃ、いくら鷲津サンでも、ここまで詳細に調べられないって。私たち、結構前から彼の存在に目をつけてた。ただ、確信がなかったの。彼、慎重と言うか疑い深いと言うか、なかなか尻尾出さないところがあるから」
入江があれだけリピーターである正体を明かさないように腐心していたと言うのに、どうやら、それは無駄な努力であるようだった。考えてみれば当たり前の話だ。悠一に協力者がいると仮定するなら、真っ先に疑われるのは入江である。『グループ』もそう考え、秘密裏に調査を続けていたのだろう。
「で、あの手紙を使って、君自身に案内してもらったの。覗き見してみれば、案の定、君は入江クンと話していた。生憎と会話の内容までは聞き取れなかったけど――」
やはり、先程の接触は盗み見られていたらしい。最後の方で入江が外を気にしていたが、その時はすでに撤収した後だったのだろう。会話内容を知られなかったのが、唯一の救いといったところか。
「でも、これで確定。君のバックには、入江明弘という秀才がブレイン役としてついていた。君は、事あるごとに彼に相談を持ちかけていた。いきなり約束をすっぽかしたり、急に態度が頑なになったのも、全部、入江明弘の入れ知恵のせい。でしょ? 違う? 自分の頭では判断を下すことができないから、親友に依存して、彼の言葉を信じて、首尾一貫して彼に従ってきたんでしょう?」
美智代の言葉が刺々しくなってきたが、生憎と麦原で耐性ができている。そんな安い挑発には、乗らない。無視。
「……『親友』だって。笑っちゃうよね――」
――利用されてるとも、知らないでね。
瞬間的に、意識が飛んだ。
気が付いたら、運転席に身を乗り入れ、美智代の襟首を掴んでいた。
「……相変わらず、気が短いんだねェ」
悠一に締め上げられながらも、まだそんな憎まれ口を叩く。
「――今のは、何だ?」
「今の、って?」
「『利用されてる』ってのは何だって聞いてンだよッ!」
「そのままの意味、だけど? 君は、入江明弘に利用されている。耳障りのいい言葉で心動かされて、うまい具合に操作されてるの。自分のことなのに、そんなことも分からない?」
「取り消せ」
「取り消さない。本当のことだから」
「根拠は。証拠は。適当言ってるだけだったら――マジ、ぶん殴るぞ」
「怖い顔しないで。根拠だったら、ちゃんと話してあげる。だから――車、乗って?」
そら来た。
「二度も同じ手に乗るかよ」
「君、本当に馬鹿なの? 入江明弘を信じて、私たちを疑う。その結果、間違った方向に突っ走って傷つくのは、君自身なんだよ?」
「一生言ってろ」
襟首から手を離し、美智代を解放して歩き出そうとしたところで、不意に、右手首を掴まれる。
「いいから乗りなさい。これは、本当に大切な話なのっ!」
「離せッ! 俺は、もう二度とアンタらの相手はしないッ!」
「車に乗りなさいって言ってるのよッ! 乗って、私の話を聞きなさい。提案や頼み事で言ってるんじゃないの。これは命令。分かる? 君に選択肢なんてないの。君は、私たちに従うしかないのよ」
高圧的な態度に豹変する美智代。今までこんなことはなかった。よほど焦っているのだろうか。それ程までに――追い詰められているのだろうか。
――追い詰められてる?
誰が、だ?
美智代か?
入江か?
それとも、悠一自身が、か?
いずれにせよ、ここで美智代に従う訳にはいかない。それは、入江への裏切りを意味する。この女は悠一が入江に利用されているだけだと言うが――そんな戯言、誰が信じると言うのだ。悠一を感情的にして操作しようとしているにすぎない。何が、『利用されてるとも知らないで』、だ。悠一を利用しようとしているのは、『グループ』自身ではないか。
「ねえ、分からない? 事情が変わったの。今までみたいに、悠長にしている暇はないのよ」
「うるさい。離せ」
「あのねェ――」
「筒井さん」
不意に、後部座席から声がかかる。
「何よ……並木クン、後にしてくれる?」
並木慎次が、そこにいた。
ペコペコとケータイを操作しながら、無表情で後部座席に鎮座している。運転席シートの陰になって、今まで気が付かなかったのだ。相変わらず、躰も意志も存在感も、総じて『薄く』できているらしい。その隣には、銜え煙草の鷲津吾郎。鷲津は調査・監視要員ということで理解できるが――並木は、何のためにここにいるのだろう。屋外でもケータイを使ってネット散策するくらいなら、最初から大人しく部屋で待機していればいいと思うのだが。
「いや、ちょっと……」
「今、取り込み中なんだけど!?」
「いや、竹崎に動きがあったんで」
おずおずとケータイを差し出しながら、事も無げに言う並木。
「そういうことは早く言いなさいっ!」
美智代は、並木の手から慌ててケータイを奪い取り、カチカチと忙しない手つきで画面をスクロールしていく。
「オイ、何が始まったんだよッ!」
すでに美智代の興味は悠一からケータイへと移っている。直前まで、あれだけ『車に乗れ』と言っておきながら、今度は美智代が無視する側にまわっている。気になって、思わず声をかけてしまう。
「ゴメン、一時休戦ッ! 事情が変わったのッ!」
ケータイから目を離さず、美智代が怒鳴り返す。
「ハァ!? ふざけんなよッ! 入江のこと悪く言っておいて、事情が変わったとか――」
「小鳥遊」
必要最低限のことしか口にしない筈の探偵が、携帯灰皿に吸い殻を捨てながら、久しぶりに口を開く。
「悪い、少し黙っていてもらえるか」
「ちょ、アンタまで何だよ!? 元はと言えば、アンタらが先にちょっかい出してきたんだろうが!? それをいきなり――」
「だから、美智代が言った通りだ。事情が変わった。今は、緊急事態だ」
そういう割に、鷲津は落ち着いているように見える。おもむろに新しい煙草を取り出し、ジッポで火を点けている。
「何だよ、緊急事態って……」
「乗れ」
言いながら助手席を顎でしゃくる。一瞬躊躇したが、どっちみちここで帰れない。毒を喰らわば皿までだ。悠一は勢いよく助手席に身をすべらせる。煙を鼻から吹き出しながら、ぶっきらぼうな口調で話を再開する鷲津。
「俺たちは、ずっとお前を監視していた。新城や美智代、織田、司が接触するのと並行して、俺は俺でお前の監視・調査を続けていた。お前のことは、『グループ』の中でも最優先の案件だった。だが、抱えている案件は一つではない。『グループ』も、四六時中お前の相手をしていられる訳ではない」
「いや、頼んでないから――って、案件? それって、竹崎ナントカって奴のことか? 怪物予備軍の?」
「残念ながら、『予備軍』の三文字は取れたみたいね」
ケータイから顔を上げて、美智代が言う。
「匿名掲示板に新しい書き込み。竹崎が書き込んだモノと見て間違いないと思う。……ついに、動き出したって訳」
サイドブレーキを勢いよく倒し、興奮気味の美智代が言う。
「いわゆる一つの、ネット予告よ――それも、大量無差別殺人のね」
グイ、と力強くアクセルを踏み込む。と同時に、どこかからキュルキュルと物凄い摩擦音が聞こえてくる。この車のタイヤからだ。
「緑木駅、一時二十八分! 急がないと間に合わないっ!」
「オイ、俺は降ろし――」
最後まで台詞を言い切ることができなかった。急激な加速度でシートに押しつけられ、舌を噛んでしまったからだ。
悠一は、地獄を覚悟した。
【午後1時25分】
死ぬかと、思った。
いや、半分死んでた――それも、少し違う。
現在進行形で、死に向かっている――が、正しい表現だ。
悠一は、緑木駅構内を全力で走っていた。と言うか、走らされていた。前を走る美智代が、悠一の右手首を掴んで離さないのだ。あの細い脚のどこにそんな力があるのか、予想外の速度で空を切る彼女。悠一は半ば引き摺られるようにして、彼女の後をついていく。
心臓が早鐘のように鳴り響いている。呼吸が荒い。脇腹が痛い。手を振り解こうにも美智代の握力もまた存外に強く、抗議をしようにも息切れがひどくて言葉にならない。
――どうして、こんなことに……。
話は、たった十分前に遡る。
『278 名前:あなたの隣の名無しさん
投稿日:200#/05/13(水) 13:17:20 ID:gdteejunm
今日、やります。
これから、やります。
1時半、緑木駅の列車内。
愚鈍民一斉浄化、開始。
観覧は自由です。』
それが、竹崎宗也の書き込みだった。いつもの板の、いつものスレッド。ごくごくシンプルながら、どこまでもふざけた文章。だが、この文言こそが、大量無差別殺人の宣言になるのだ。
場所は、ここから車で十五分ほどの場所。
時刻はすぐそこまで迫っていた。
いや――普通に考えれば、まず間に合わない。繰り返し言うが、この書き込みに気が付いたのが一時二十分過ぎ、竹崎は三十分に行動を起こすと宣言していて、件の場所までは、どれだけ急いでも十五分はかかるのである。
だが、そこからの美智代の行動は素早かった。
アクセルをベタ踏みにして、駅前住宅街を飛ばす飛ばす。信号も横断歩行者も、お構いなしだ。ガードレールと接触しようが、路肩に乗り上げようが、全くスピードを落とさない。しかも――その間中、美智代は携帯を操作しながら運転しているのである。相手は新城だろうか。織田だろうか。
いずれにせよ、正気の沙汰ではない。
右に振られ、左に振られる様はさながら絶叫マシーンのよう。否、事故を起こす危険性がゼロに近いだけ、絶叫マシーンの方が、数万倍マシと言える。前を見ろ、スピードを落とせ、携帯を見るなと、何度叫んだか分からない。勿論、美智代は聞く耳など貸してくれない。仮に貸したところで、返ってくる台詞は予想がつく。
――大丈夫。死にはしない。
――何かあっても、リピートが起きれば元通りだから。
同じような台詞を『グループ』の人間に何度言われたか分からない。死ななければいいというものでもないし、元通りになればいいというものでもない。だが、そんな反論は『グループ』に通じない。奴らは目的のためには手段を選ばない。選ばないなら選ばないなりにもっとマシな選択肢を選んでほしいところだが、生憎と奴らの選ぶそれは常に悠一の斜め下を行っている。
悪鬼のごとき形相でハンドルを操る彼女を見て、悠一はここ数周で一番の絶望を感じたのだった。
そして、今。
悠一は、緑木駅構内を疾走していた。とは言え、直前、暴走車で散々酔わされた悠一は、肉体・精神共に疲弊しきっていて、思うような走りをすることができない。体力には自信があるのだが、今は無理だ。だからこそ、美智代に腕を引っ張られて、半ば引き摺られるような形での疾走、となっている訳なのだが……。
ネット予告では、竹崎は一時三十分、緑木駅、それも列車内で行動を開始すると宣言している。美智代が調べたところによると、一時二十八分に上りの列車が来るらしい。惨劇が起きるとするならば、舞台はそこだ。絶対に乗り遅れる訳にはいかない。できれば、竹崎が列車に乗り込む前に取り押さえたい。
改札では、美智代にスイカを渡される。有事の際、乗車券を買う手間を省くために、『グループ』幹部は常に数枚所持しているのだと言う。何とも手回しのいいことだ。
改札で解放されたのも一瞬、その直後には再び腕を掴まれ、悠一・美智代の二人はもつれ込むようにして上りホームに雪崩れ込んだ。
地獄の百メートルダッシュから解放され、悠一は膝に手を付いて体力を回復する。対する美智代は、ほとんど休むことなくホームの端から端まで目を光らせ、探索に余念がない。
「小鳥遊クンも探してよっ! 現役高校生が、ちょっと走ったくらいでへばらないで。情けない」
『直前にひどい運転の車に乗せられたんで』とか、『そもそも何で俺がこの場にいなきゃいけないんですか』とか、言いたいことは山ほどあるのだけど――
「……美智代さんは……元気、ですね……」
出てきたのは、そんなどうでもいい感想だけだった。
「こう見えても、学生時代、短距離やってたからね」
そして、またどうでもいい情報が増えていく。肝心なことは何も分からないと言うのに、皮肉なものだ。
「見つかったか?」
美智代・悠一コンビに遅れること数分、今頃になって鷲津・並木の調査班コンビが姿を現す。五十過ぎでヘビースモーカーの鷲津とインドアの並木では、美智代のスピードについてこれなかったのだろう。……そもそも、この二人もあの暴走車に同乗していたのだ。悠一と同じく、肉体・精神共に疲弊しているに違いない。元気なのは、運転手の美智代だけだ。
「見つかりません。さっきから探しているんですが」
「そうか――もしかすると、一つ前の華見から乗ったのかもしれんな……」
息を弾ませながら、そしてキョロキョロと視線を走らせながら、鷲津が答える。探しているのは、竹崎か、それとも喫煙所か。
「……奴のアパートからはこの緑木が一番近いが、華見も、距離的には大して変わらん。竹崎は華見から列車に乗り込み、一駅の間に無差別殺人の準備を整えようと考えているのかもしれん。得物を用意し、襲う相手を物色し、数分の間に十全な状態に持って行く――緑木駅で行動を起こすとは言ったが、緑木駅から列車に乗り込むとは一言も言っていない――竹崎は、幼稚で自己中心的だが、それと同時に、慎重で臆病な男でもある。そのくらいのことはするだろう」
一瞬の間にそれだけの仮説を立てられるのは、やはり鷲津が本職の探偵だからだろうか。
対して、横にいる並木は棒立ちで呼吸を整えているだけで、発言する素振りすら見せない。きっと、この男の役割は竹崎のネット上での動きを監視することのみにあって――自分の仕事はすでに終わったと思っているのかもしれない。現実の世界では、まるで出る幕がない。所在なげなのも、仕方のない話ではある。
「もう列車が来ます。……乗り込み次第、私は先頭車両に向かいます。鷲津サンは後部車両に向かって下さい。竹崎を見つけたら、即報告。一旦集合して――それから、私が交渉に向かいます」
キビキビした口調で鷲津と段取りを詰めていく美智代。きっと、こっちが素の彼女なのだろう。本当の筒井美智代は、とんでもなく有能で、憎らしいほどに優秀で、どこにも隙がない。
「並木クンと小鳥遊クンは、その場で待機。私たちから報告が入るまで、動かないで」
「……いや、おれも手伝いますけど……」
事実上の戦力外通告を受けてプライドが傷ついたらしい。珍しく、並木がやる気のある発言をする。
「ダメ。君、ネットの監視ばかりで、竹崎の顔知らないでしょう? それじゃ意味ないもの。足手まといになるだけだから、大人しくしてて」
にべもない。並木の発言を一蹴する。普段の彼女ならもうちょっと言い方に気を遣ったのだろうが……そんな余裕もない程、今は非常事態ということか。美智代も鷲津も、闘志に充ち満ちている。
――ちょっと待て。
「って、オイ。マジでこの四人で行くつもりかよ?」
今度は悠一が発言する番だった。大人しくしていようとも思ったが、とても見過ごせない。
「織田は? 麦原は? 新城はどうした? あの人達は来ないのかよ!?」
「もちろん、今こっちに向かってる。向かってるけど――物理的に、無理。絶対に間に合わない」
肝心な時に――。
こういう時のための戦闘班だろうが。こっちには、交渉人気取りの女教師と、ニコチン中毒の探偵と、ネットオタクの大学院生しかいないのだ。物騒なネット予告をしている怪物相手に、どう闘えと言うのだ。
「だから、次の青鹿音で合流してもらう」
高速で携帯メールを打ちながら、早口でそんな頼りないことを言う。一駅持つかどうかが問題なのだが。
「とにかく、それまでは私たちで持ちこたえるしかない。大丈夫。私が、何とか説得する。君たちは後ろで見ていればいい――OK?」
「何も問題はない」
事も無げに即答する鷲津。
――本当かよ。
問題しかないように思えるが……。
訝しげな顔をする悠一の耳に、アナウンスが鳴り響く。
池袋行き、一時二十八分発の列車が、やって来たのだ。
美智代と鷲津は、予定通りに動いた。
乗り込むや否や、乗車客を舐めるように観察しながら、美智代は右手へ、鷲津は左手へ、俊敏な動きで歩みを進めていく。
残されたのは、悠一と並木の二人。シートの中央に二人揃って腰掛け、馬鹿みたいに車窓を眺めている。
中途半端な時間帯だからか、シートは四割ほどしか埋まっていない。スーツ姿のサラリーマンや、ネルシャツの学生、スポーツ新聞を持った中年男性――インフルエンザの影響か、マスクをした人間が異様に目立つ。そんな中、悠一と並木は、特に会話を交わすでもなく、胡乱に、愚鈍に、シートに身を沈めている。
今この状況で、自分にできることは何もない。
そんなことは分かっている。だけど、同じ車内に、あの竹崎宗也がいるのだ。まさに今、無差別大量殺人を起こそうとしている『怪物』が――すぐそこに、いるのだ。
だけど、自分には何もできない。
否、何もしないのが、賢明で、得策で、正解なのだ。
そんなことは分かっている。
理屈では分かっている。
だけど――ならば――
自分は、何のためにリピートを続けているのだろう?
何の意味もない。
何の役にも立たない。
何も変えられない。
誰も救えない。
……どういう訳か、真っ先に、滝なゆたの顔が浮かんだ。朝、ホームで初めて見た、憂いを帯びた彼女の顔。
この世界の秩序を維持するため――そんな、訳の分からない大義名分のために、彼女は殺され続けている。悠一は、彼女を救いたかった。
そもそも、『グループ』と接触したのも、彼女がきっかけだった。その時はまだ顔も知らなかったのだが――どこかのリピーターによって、人身事故に見せかけて殺されていた滝なゆたという存在を、悠一は救いたいと思った。
助けたいと、願った。
今でも、そう思っている。いや、彼女の顔を認識して尚、その想いは強まった。どうにかして、彼女を死の無限ループから救いたい。
だけど。だけれど。
協力を仰いだ『グループ』こそが真犯人だと分かり、成り行きで行動を共にしている今も、その目的は分からないまま。そのうち、入江の正体を知り、竹崎が行動を開始して……今に至る。
一体、自分は何のために存在しているのだろう?
「……何のために……」
不意に、並木が口を開く。
「えっ!?」
一瞬、心を読まれたのかと思った。並木が、口の中で小さく呟いたその言葉。
――何のために。
「え、並木さん、今なんて……」
「ん。ああ……いや別に……ただの独り言」
ほとんど口を動かさず、相変わらずの薄い表情で、並木は悠一を突き放す。
「何スか。気になることがあるなら言ってくださいよ。今は非常事態なんですから」
大して親しい間柄でもないくせに、どこか熱っぽい口調で、そう食い下がってしまう。この並木という男、常に無気力で無関心で、『グループ』の一員であるとは言うものの、他の連中――新城や美智代や、織田や麦原――と違って、聞いたことにはちゃんと答えてくれる。少なくとも、悠一はそう認識していた。
「いや別に……」
並木はまっすぐ前を向いたまま、口を開く。
「何で、あの人たち、あんなに必死になって竹崎を捕まえようとしてるのかなって――そう思っただけ」
思いがけないことを口にする男だ。
「何で、って……そりゃ、竹崎は危険人物だし、ほっとく訳にもいかないでしょ」
「だから、それが分からない。竹崎は、人を殺す。たくさん殺す。それは許されないことだし、おれだってそんなの、許すつもりはない」
「だったら――」
「でもそれは、ここがまともな世界だったら、の話。分かるでしょう? ここは、違う。どれだけ壊したって、どれだけ殺したって、結局は全部元通り。この壊れた世界では――あらゆる罪が、許される」
「違いますよ」
驚いていた。
まさか、仮にも『グループ』の一員である並木が、そんな台詞を口にするだなんて。それは、今まで散々、新城や美智代や麦原が、否定してきたことの筈なのに。
「絶対に違う。確かに、リピートが起これば全ては元通りだけど――そこに、俺たちは含まれてないじゃないですか。俺たちだけの記憶は、元に戻らない。傷も、痛みも、悲しみも憎しみも、持続される。俺たちがいる限り、『リセット』なんて起こらない」
――そういうのは『リセット』とは呼ばないんだよ。
最初に会ったときに新城に言われた台詞だ。壊れたモノが復元されようと、死んだ人間が蘇ろうと、リピーターの記憶は生き続ける。リピーターという存在がいる限り、罪は罪として存在するのだ。
だからこそ、ゲーム感覚で街を爆破し続けた白石純は断罪されたのだ。それも、考え得る限り、もっとも残酷な方法で。
「……正直、よく分からない。あの人たち、この世界の秩序を守るためとか言って、必死になって駆けずり回ってる。だけど、その一方で、何の躊躇いもなく、人を殺している」
「滝なゆたのこと――ですか」
「そう。タカハシ、あの人たちに聞いたんでしょう? あの滝なゆたって女を殺してたの、織田さんだって」
「ええ。あと、俺の名前はタカハシじゃなくて小鳥遊です」
この期に及んで、まだ名前を覚えられていないことに、僅かながら傷つく。確かに人の名前を覚えるのが苦手、みたいなことを言っていたが……。
「おれは、あの人たちが何をしたいのか、分からない。聞いても教えてくれないし」
「でも、アンタだって『グループ』の一員なんだろ?」
「手伝っているだけ。ネットとかPCとかには詳しいから、それで力を求められて――今まで、誰かに必要とされたことなんてなかったから――だから、力を貸しているだけ。あの人たちは、何も教えてくれない。肝心なことを伏せたまま、おれのことを利用しているだけ。
おれは、何も知らない。
『グループ』のことも、この世界もことも、小鳥遊のことも、おれは、何も知らない。一応、考えてはいるよ。おれなりに考えてる。だけど、入ってくる情報が少なすぎて、結局は分からない」
――情報弱者は、おれの方だったんだ。
流れる車窓風景を眺めたまま、頑なに視線を合わせようとしないまま、並木は語る。乾いた声で、平坦な口調で――満たされない境遇を、吐露する。
この男は、自分と一緒だ。
ずっと、並木は『グループ』側の人間なのだと思っていた。いや、実際に『グループ』の人間ではあるのだけど――実質的に、立ち位置は悠一のそれに近い。
この壊れた世界に迷い込んで二〇周、と言っていただろうか? 早い段階で『グループ』に目をつけられ、新城や鷲津の指示の下、黙々とネット探索を続ける日々。だけど、肝心な部分は何も教えられず、ただ、都合良く利用されるだけで。
悠一だったら、耐えられない。
「だけど、一つ、気になることがある」
基本無口だが、一旦興が乗るとしゃべり続けるタチらしい。感情を感じさせない金属質な声色で、並木は続ける。
「おれもお前も、さっきから『死ぬ』の『殺す』のって物騒なこと言ってるけど、それって、どんな意味があるんだろう」
「……どういうことですか?」
悠一には、並木の言っている意味そのものが分からない。
「だからさ、多分、この世界にはまだおれらの知らないルールみたいのが――」
と、そこまで話したところで不意に言葉が途切れてしまう。
不思議に思って、並木の顔に視線を移す。
彼の視線は、車窓ではなく、真ん前に座る人物に注がれている。
そこに座る、一人の男。
ヨレヨレのネルシャツを着込んだ、若い男。
大きなマスクをしているために、人相はよく分からないが、前髪から覗く双眸は、どこか鈍い光を放っている。
異様なのは、首から下げたホイッスルだ。
体育教師や、或いはサッカーの試合での審判が使用するようなホイッスルを、男は首から下げている。ジャージとかならまだしも、ネルシャツにジーンズだ。不似合いなこと、この上ない。
首からホイッスルを下げたその男、手持ちのボストンバッグを漁りながら、時々、キョロキョロと車内を見回している。
あからさまに、不審だった。
あの男が――竹崎だろうか。
電車が緑木を出発してから、すでに数分が経とうとしている。そろそろ、竹崎が行動を起こさないとおかしい頃合いだ。別車両の探索に言った美智代・鷲津からの連絡は、まだない。この車両に竹崎がいるのは、間違いない筈なのに――いくら何でも、遅すぎやしないだろうか? 探索に向かった別車両ではなく、出発地点である、まさにこの車両に、目的の人物がいた――マスクのせいで、見逃してしまった――ということは、考えられないだろうか。
悠一はもちろん、並木も、竹崎宗也の顔は知らない。だから、確信はない。だけど、男の挙動はやはり明らかに怪しくて――
「アイツ……ですかね」
「分からない。……あまりジロジロ見ないで。声も、もうちょっと抑えた方がいい」
伏し目がちに、並木が答える。さっきの話の続きが気にならないでもなかったが、今は、目の前の、この怪しげな男の方が優先だ。
「……美智代さんたちに、連絡した方がいいッスかね」
「いや、多分、間に合わない」
並木の声が、ほんの僅かに――固くなる。
チラリと盗み見た男の手元……ボストンバッグから、何かの柄のようなものが覗いている。その先はタオルで巻かれているが……形状から、はっきりと分かる。包丁だ。奴は、包丁を取り出そうとしている。
「…………」
隣から、身じろぎする気配。
見れば、並木が立ち上がろうとしている。腕を掴み、慌てて止める。
「何しようとしてるんですか……ッ!」
「おれが行く。行って話をつける」
「そんな、危ないですよ……ッ!」
囁き声で、必死に押し止める。ここで並木が行ってどうなるとも思えない。美智代のような交渉スキルもなければ、織田のような戦闘スキルもないのだ。ここは大人しく、美智代たちに連絡するのが正解だと思うのだが……?
「大丈夫。おれが何とかする」
「いやだから、並木さんじゃ――」
「おれは、足手まといじゃない」
強い口調。
制止する悠一の手を振り払って、並木が席を立つ。
唐突な並木の態度に、悠一は固まってしまう。
あの並木が、こんな積極的な態度にとるなんて。美智代に言われた『足手まとい』という台詞が、癇に障ったのか? 『今まで誰にも必要とされてなくて』『必要とされたから手伝ってみれば、ただ利用されているだけで』『何も知らなくて、何も分からなくて』――それで――悔しかった、とでも言うのか?
いやいやいやいや。
貴方は――そんなキャラじゃないでしょう?
悠一は、今の今まで、並木慎次を『薄い』男だと認識していた。感情の起伏がなく、強い欲もなく、自己主張することもない。決して自分から前に出ない、全てに無気力・無関心で、見方によっては冷淡で自己中心的と捉えることもできる――そういう人格だと。
だけど、その全てが、彼の『演技』だったとしたら?
人間関係に敏感であるばかりに、人に対して臆病であるばかりに、逆に、必要以上に人と距離をとってしまう――そういった、彼の人格傾向による、誤解なのだとしたら?
正義感が強く、情に厚く、負けず嫌いで寂しがり屋――表層とは正反対に思える、そういった人格傾向こそが、彼の正体なのだとしたら……?
しっかりとした足取りで男に向かう並木の背中を、悠一はスローモーションで見送っていた。
このままではいけない――本能的に感じながらも、悠一は、その場から動くことができなかったのである。
そして、並木は男に声をかける。
「ちょっと――」
それが最初で、それが最後だった。
男が腕を振り上げたのが見える。
男の手には、大振りの出刃包丁。
並木が、その場に、崩れ落ちた。
押さえた左腕から、血が滴り落ちている。
ピィ――ッ!
不意に口にしたホイッスルから響く音が、空間を劈く。
蹲ったままの並木を足蹴にして、笛を口にした竹崎が立ち上がる。
数瞬の間を置いて、少し離れた座席にいた女子大生風の女が悲鳴をあげた。しばらくは何が起きたか分かってなかった他の乗客たちも、包丁を手にした竹崎を見て、そして彼に斬りつけられた並木を見て、朧気ながらに状況を理解する。
パニックが、始まった。
一瞬にして、悲鳴が、怒号が、車両に飽和する。皆、我先にと逃げ惑い、竹崎を中心にして、瞬く間に人が引けていく。
ピィ――ッ!
「落ち着いてくださいっ! 一人ずつ、順番に隣の車両に避難してっ! あと、どなたか車掌さんに知らせてくださいっ!」
連結部から登場した美智代が、喚きながら駆けてくる。
「ちょ、美智代さん、今までどこにいたん――」
「何やってるのよッ! 何かあったらすぐ報告、私たちが来るまで大人しく待機してろって、そう言わなかった!?」
来て早々、鬼のような形相で怒られる。
「だって、並木さんが――」
「そのために君がいるんじゃないのッ!? あの子、誤解されやすいけど、一度こうと思うと人の話聞かないで暴走するタチなんだから――」
だったら、尚更美智代が傍にいなければいけないんじゃなかったのか。そもそも並木が発憤したのだって、美智代の何気ない一言がきっかけだった訳だし……。言い返したいことは山ほどあったのだが、口を開きかけたところで、再びホイッスルの音が車内に響き渡る。
ピィ――ッ!
「……議論は後にしましょう。今は、ちょっと……状況がヤバすぎ」
美智代のその一言で、悠一の怒りはあえなく空中分解してしまう。
確かに、今は言い争いしている場合ではない。
数メートル先に、包丁を手にした竹崎が、目の奥の鈍い光はそのままに、鋭い双眸を悠一・美智代の二人に投げかけている。薄氷を貼り付けたような緊張感が、場を支配している。
ピィ――ッ!
頭の裏側を引っ掻くかのような笛の音が、しつこく鳴り響いている。
「――どうやら、説得できる状態は、とうに越してるみたいね」
「同感です。……どうするつもりですか?」
「逃げるしかないんじゃない?」
「どこに? 電車の中ですよ」
「あと三分で、青鹿音駅に着く。そしたら、織田サンと司ちゃんが合流してくれる。あの二人がいれば、もう大丈夫」
「俺は、今の心配をしているんです」
目の前にはホイッスルを口に、出刃包丁を手にした、怪物。
対するこちらは、悠一と美智代の二人きり。並木は左腕を負傷し、まだその場に蹲ったまま。今のところ、竹崎の興味はこちらに向いてるからいいが、いつまた並木に襲いかかるか分からない。状況としては、かなり危険だ。
「どうにしかして、持ちこたえるしかないね」
「……闘うっていう選択肢はないんですか?」
「ムリ。冷静になって。包丁一本とはいえ、向こうは武装してる。それに対して、こちらは丸腰。命を粗末にしないで」
竹崎を注視したまま、小声で悠一の案を却下する。
「人のこと簡単に殺す人間の言う台詞じゃないですね」
今は状況が状況だから共闘しているが、悠一は滝なゆたの件を、決して許した訳ではない。許せる訳がない。
「この状況で、そういう面倒くさいこと言い出さないで」
「何が面倒くさいんですか。真面目に答えてください。滝なゆたを繰り返し殺せるアンタらなら、俺を見殺しにするくらい――」
「正気で言ってるの……ッ!」
小声はそのままに、目に見えて美智代の顔色が変わる。
「あのね、君は何も分かってない」
それまで注意深く竹崎を見張っていた美智代だったが、ここにきて初めて、悠一の言葉に気を取られる。
「この世界で『死ぬ』ってことが――」
「よけろ馬鹿ッ!」
ピィ――ッ!
腰に大きな衝撃が走り、真横に立っていた美智代もろとも、一メートルばかり弾き飛ばされてしまう。
その瞬間、悠一は聞いた。
鼓膜を震わすホイッスルの音と共に、顔の真横で何かが空を斬る音を、確かに聞いたのだ。
受け身を取って起き上がると、そこには包丁を振り回そうとする竹崎と、それを必死で阻止する鷲津の姿。
「余計なおしゃべりしてる場合かッ! 状況を考えろッ!」
竹崎の両手首を掴んだ状態で、鷲津の怒号が飛ぶ。
どうやら、美智代と逆方向を探索していた鷲津が今になって駆けつけてくれたらしい。
――と言うか、かなり、危なかった。
今、鷲津に突き飛ばされていなかったら――きっと――悠一の顔は、竹崎の包丁によって真一文字に切り裂かれていただろう。鷲津の言うことは、いつも正しい。確かに、余計なおしゃべりは後だ。議論は、追及は、詮索は――後でいくらでもできる。今は、目の前の怪物をどうにかすることだけを、考えていればいい。
「あと、今のうちに並木を安全な場所まで待避させとけッ! おれもいつまで保つか分からんッ!」
竹崎宗也は、決して体格のいい男ではない。むしろ非力な部類に入るのだろう。だけど、やはり高齢の鷲津には堪えるらしい。今も竹崎と力比べのようにして得物を奪おうとしているが、その腕はブルブルと震えている。限界が、近い。
悠一は美智代と協力して、シート脇に蹲ったままの並木を車両の隅にまで引き摺って避難させる。並木を引き摺った後には、血の跡が生々しく残っている。至近距離から斬りつけられたためか、かなりの出血量だ。咄嗟に左腕で庇い、胸や腹に被害が及ばなかったのが、不幸中の幸いといったところか。
「すみません……」
蒼白な顔で並木が漏らす。
「説教は後。今は、自分の身を守ることだけ考えて。今ここで君たちに死なれたら、何のために今まで頑張ってきたのか分からない」
「オラッ!」
美智代の言葉に、鷲津の気合いが重なる。振り返ると、鷲津が見事な背負い投げで竹崎を床に沈めているところだった。
その衝撃で、包丁が竹崎の手から離れ、悠一たちの前まで滑ってくる。慌てて、それを車両の端まで蹴る。
「鷲津サン、すごい……。さすが、腐っても元刑事ですね……」
「あと十歳若けりゃ、ここまで手こずることもなかったんだがな……」
肩で息をしながら、そう答える鷲津。
「あと、おれは腐ってない。まだ現役だ」
台詞とは裏腹に、顔は笑っている。悠一が初めて聞く、鷲津の軽口だった。きっと、安心したのだろう。
だけど、それが仇になった。
鷲津も美智代も、安心など、油断などすべきではなかったのだ。
ちゃんと、竹崎を再起不能にしなければ、いけなかったのだ。
行動は一瞬だった。
イメージとは裏腹に俊敏な動きで、仰向けに横たわっていた竹崎が身を翻す。
反応する時間もなかった。
気が付いた時には、竹崎は持っていたボストンバッグから新たな得物を取り出していた。
左手に鉈。
右手に金属バット。
二つの得物を両手に持ち、ゆっくりと振り返る。
制止する暇もなかった。悠一が動かなければいけなかったのに。疲弊した鷲津や、負傷した並木は使い物にならない。美智代は口だけで当てにならない。他の乗客は全員別の車両に避難している。この場では、悠一しか竹崎に対抗できる人間はいないのに――迂闊だった。
考えてみれば、妙な話だったのだ。
奴の持っていた、ボストンバッグ――ただ出刃包丁を入れておいたにしては、大きすぎる。包丁意外にも得物が入っている筈と、何故考えなかったのか――今となっては、何もかもが遅すぎるのだけれど。
「…………」
無言のまま、ゆっくりとこちらに歩み寄る竹崎。
ホイッスルを鳴らさないのが――一言も発さないのが――逆に恐怖心を煽る。
ここは、激昂してあれこれ喚き散らす場面だろう?
それなのに、奴は無言で無表情。笛すら鳴らさない。人間、本当にキレた時は何も喋らなくなると言うが、それは本当だったらしい。
絶体絶命だった。
「大丈夫……何とか、間に合った」
携帯を握りしめた美智代が、小声で囁く。
今まで竹崎に夢中で気が付かなかったが、列車はすでに徐行運転に入っている。
青鹿音駅に、到着したのだ。
車窓の外、ホームの風景がゆっくりとスライドしていく。車内アナウンスがないのは、車掌も混乱しているからか。だが、運転手は冷静だった。ほとんどオーバーランすることもなく、列車を停止させる。
列車の停止と共に、様々なことが同時に起きた。
まず、竹崎が停車の揺れにバランスを崩し、両手に得物を持ったまま、その場でたたらを踏んだ。次の瞬間には扉が開き、パニック状態の乗客たちが、両脇の車両から一斉に逃げ出していく。事態が把握できている訳はないのだが、異様な雰囲気を感じてか、ホームで待っていた人間は誰一人として乗車しようとはしない。
そんな中、ただ一人、この車両に駆け込んでくる人間がいた。
「――生きてるかッ!?」
開口一番そう叫んだのは、薄汚れたTシャツとボロボロのジーンズを身に纏った金髪メッシュ――織田広樹。
前の周、ほぼ丸一日行動を共にしていたのに、もうすでにその顔が懐かしい。短期間に色々なことが起こりすぎなのだ。
……ああ、だから『壊れている』のか……。
「よし、ゆーゆーもシンジも無事だな」
二人を一瞥して安心したように顔を綻ばせる織田。
「これが無事なように見えますか? 並木さん、腕斬られてるんですけど」
「でも、死んでねェべ。死んでねェなら、そりゃ『無事』ってんだよ」
ほれ――と、肩から提げていたタオルを、並木に投げて寄越す。
「それで縛って止血しとけ。走ってきたからオレの汗染みてっけど、ま、ねェよりマシだべ」
シシシ、と笑う織田。
そして、扉は閉まり、列車は動き出す。
このまま鉄道警察でも駆け込んでくるのを期待していただけに、意外だった。
「どうやら、運転手との連携がうまくいってないみたいね……」
さっき停車したのは、冷静だからではなく、単に車内の状況に気付いてないだけだったのか。
などと、それこそ冷静に、分析している場合ではない。
「あの……後ろ」
竹崎が、すぐ後ろまで来ている。
左手に鉈を、右手に金属バットを持って。
織田も美智代も、この状況が分かっていないのだろうか。
余裕すら感じさせる二人の態度に、違和感を覚えずにいられない。
ピィ――ッ!
ホイッスルを鳴らした竹崎が、ゆっくりと鉈を振り上げる。
「織田さん、後ろッ!」
「ああ? うるせえな――」
思わず声をあげた悠一を、心底うるさそうに睨めつけ――
「オレを誰だと思ってンだよ」
織田は、行動を開始する。
重心を下げ、床に手をついて左脚を真上に突き出す。踵が竹崎の右手首にヒットし、金属バットを取り落とす。一瞬顔をしかめた竹崎だったが、すぐに鉈を両手で握り直し、再び臨戦態勢に入る――が、目の前にいた筈の織田は、すでに姿を消している。
「後ろだ、バーカ」
一瞬の隙に背後に回っていた織田は、肘鉄を竹崎の首元――盆の窪、人間の急所の一つだ――に叩き込み、よろめいた竹崎の腕を取り、鉈を手刀で叩き落とし、そのまま関節をキめて――何の躊躇もなく――折った。
ビッ――。
鈍い、乾いた音と共に、断末魔の様なホイッスルの音と共に――竹崎が再度その場に崩れ落ちる。織田はその腹を蹴り上げ、仕上げとばかりに、落ちていた鉈を拾い、竹崎の太腿に振り下ろした。
ビィィ――。
絶叫が、響いた。
腕を折られ、脚に鉈を生やした竹崎が、揺れる車内をゴロゴロ転がりながら悶絶している。それでも尚ホイッスルを口から離さないのは、さすがと言うか何と言うか。
ビィィ――ッ!
「うるせェ黙れ」
織田の攻撃には一切の躊躇がなく、また、容赦もない。
近くに転がっていた金属バットを拾い上げ、苦しむ竹崎の頭上真上で、大きく振りかぶる。
「自業自得だ。死んで悔やめ」
織田が何をしようとしてるか、分かったのだろう。竹崎の動きが止まる。笛の音が、止む。瞳孔が開いていくのが、離れた位置からでもはっきりと分かった。
「織田サン、ダメッ!」
美智代が制止の声を上げるが、もう遅い。織田はバットを振り下ろしていた。
ガキン、と歪な音が響く。
「……殺しゃしねェよ」
唇を歪ませ、誰に言うでもなく、呟く。
バットは、頭の脇数センチの所に振り下ろされていた。竹崎は、白目を剥いて気絶している。とは言え、右腕をおかしな方向に曲げ、口にしていたホイッスルから唾液を垂らして、鉈の刺さった太腿から流血しているその姿は、どう見ても死んでいるようにしか見えないのだけれども。まあ、ピクピク痙攣しているから、命はあるのだろう。そう思うことにしておく。
「一丁あがり――っと。思ったより簡単だったな」
ヘラヘラと笑いながら、織田が歩み寄ってくる。
「お前はいつもやりすぎなんだ」
ムスっとした顔で鷲津が吐き捨てる。
「あれだけやっときゃ、もう二度と馬鹿なこと考えないっしょ。中途半端に痛めつけたんじゃ、同じことの繰り返しになるだけだし」
また、恐怖で支配しようとしているのか。白石と同じパターンだ。記憶が引き継がれるのを、感情が継続するのを利用して、織田は怪物を無効化する。
「……麦原さんは、一緒じゃないんですか?」
久しぶりに並木が口を開く。織田から渡されたタオルで腕を止血しているが、かなり血が滲んでいる。病院に行って縫う必要があるだろう。
「ムギ? さあな。みっちょんからメール来た段階では、オレら別行動だったし」
「でも、あの子もこっち向かってた筈だけど? もしかしたら、あの子、別の車両に乗り込んで私たちのこと探してるのかも」
首を傾げながら、美智代が答える。もっとも、今さら麦原が到着したところで、やることなど何も残されていないのだけど。目的の人物は、数メートル先でのびている。
「……あと、私のこと『みっちょん』って呼ぶの、いい加減やめてくれませんか」
やはり嫌らしい。織田のネーミングは、ことごとく評判が悪い。
「『美智代』だから『みっちょん』だろ? 他に何て呼びようがあンだよ?」
「普通に『美智代』でいいじゃないですか。中学の時、それと同じ呼ばれ方されてたから、嫌なんです。どうしても、その時のこと思い出しちゃうし」
「しょうがねーべ。俺、自分の頭でニックネームなんて考えることできねェし。昔の呼び名を拝借するしかねぇっての」
「だったら、ニックネーム自体をやめたらいいじゃないですか。過去のあだ名をほじくりかえして呼称するなんて、嫌がらせ以外の何物でも――」
その時だった。
悠一たち一団の真後ろの連結扉が、突然開いたのである。驚いて見上げれば、そこには無表情で車両内に入ってくる麦原司の姿があった。前の周、並木の部屋で見たのと同じ、樫尾学園のブレザー姿である。
「あ、司ちゃん。遅かったわね」
「ずっと、向こうの車両を探してました」
平坦な声で麦原が答える。その声からはいかなる感情も読み取れない。
「悪ィな。オメェが遅ェから、オレが全部終わらせちまった」
「そうですか」
答える麦原はどこまでも無愛想だ。
「……あれが、竹崎ですか?」
気絶中の竹崎を一瞥して、そう答える。
「そ。手を蹴って首殴って腕折って脚刺して、バットで殴るふりして気絶させた」
「そうですか」
もっと言うべきことがあると思うのだが、それを司に要求するのも酷な気がする。
「――うう」
と、今の今まで泡吹いて気絶していた竹崎が、呻き声と共に意識を取り戻す。自分の名前に反応したのか、それとも、腕と脚の痛みで寝ていられなかったのか。
「……馬鹿なヤツ。大人しく寝てりゃいいモンを……」
後ろで、つまらなそうに織田が吐き捨てている。まだ攻撃を続けるつもりなのだろうか。この男ならやりかねない。
だが、そんな心配は不要だった。
織田が、動くまでもなかった。
司の視線が――並木の腕に、注がれている。
「……慎次さん、その腕、どうしたんですか」
声だけを聞けば、いつもと変わらないように思える。いつもと同じ、平坦で無愛想な声音に思える。だけど、数時間一緒にいた悠一には、分かる。
顔色が、わずかに青ざめている。
「――油断した。まさか、いきなり斬りかかってくるとは思わなくて……」
「――――ッ!」
並木の言葉が終わるやいなや、司は恐るべき俊敏さで踵を返し、手ブラのまま、竹崎の元へと駆けていく。
ここでも、悠一はまた、動くことができなかった。
この後、どんな展開が待ち構えているか、分かりすぎる程に分かっていた筈なのに。
司は、一切の無駄口を叩かなかった。
呻きながら半身を起こす竹崎の前に立つと、ブレザーの内側に右手を突っ込みながら、脚に刺さった鉈を強く踏みつける。絶叫を響かせながら、その足をどけようと両手をやる竹崎。
留守になった喉元目掛け、裁ちバサミを一閃。
藍土駅へと向かう列車内で、赤い噴水が上がる。
ばたり、と派手な音を立てて、起こしたばかりの半身が再び倒れる。絶命しているのは誰の目にも明らかだったが――それでも、司の手は止まらない。竹崎の骸に馬乗りにまたがり、裁ちバサミを両手で掴み、高く掲げて、顔を喉を胸を、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もメッタ刺しにする。
「――もういいだろ。とっくに死んでる」
織田が制止する頃には、竹崎宗也の顔は完璧に原型を失っていた。
上半身を返り血で真っ赤に染め上げながら、それより赤い紅蓮の炎を両目に滾らせた司の姿が――やけに、印象的だった。




