第三幕 第八章(前編)
11週目は本当に長いので、三つに分けます。
11
【午前3時7分】
息苦しさで、目が覚めた。
目を開けても辺りは真っ暗で何も見えない。開いた窓から、ザァザァと地面を叩く雨脚の音だけが響いている。首を捻り、ヘッドボードの上の目覚まし時計を確認する。悠一の使っている時計は、三本の針に蛍光塗料が塗ってあるタイプで、暗闇でも時刻の確認が可能なのだ。
三時八分。
つまり、今は五月十三日の午前三時過ぎと言うことか。起床予定の時刻まで、あと三時間以上ある。いつもは六時半まで、一度も目覚めることなく熟睡していたというのに――これはどういうことだろう。頭が重く、躰がだるい。思考もうまく働かない。熟睡していたところを、無理矢理叩き起こされた感覚に似ている。……全く、何でこんな時間に目が覚めたしまったんだか。二度寝をしようと、毛布を躰にかける悠一。
「ぐっもーにんっ!」
……幻聴かと思った。自分の部屋で、自分以外の人間の声がする訳がない。念のために……と思って、部屋を見渡してみる。案の定、真っ暗な部屋には人の気配などない。悠一は安心して瞼を閉じる。
「オーイ、無視すんなって」
……また、誰かの声がした。本格的に疲れているのだろうか。目を開け、再び部屋を見回す。学習机、誰もいない。窓、誰もいない。ドア、誰もいない。真後ろのヘッドボード――まで視線を巡らせたところで、悠一の動きが止まった。
そこに、若い男がしゃがみこんでいた。
枕元、ヘッドボードの目覚まし時計を置くくらいのスペースしかない場所に、金髪の男がしゃがみこんで、じっとこちらを覗き込んでいる。悠一は息を呑んで――
「――――ッ!」
「でけェ声出すな、馬鹿ッ! 通報されたらどうすンだよッ!」
ヘッドボードからひらりと身を翻し、音も立てずに床に着地。悠一の脇にすかさず飛び付き、慌てた様子で口を塞ぐ。
「シーッ! 声出すなってのッ!」
右手人差し指を口の前に立て、悠一の絶叫を押しとどめている。
――アンタの声の方が、充分にデカいよ。
よっぽどそう言いたかったのだけど、幸か不幸か、男に口を押さえられているため、何一つ言葉にすることができない。……と言うか、そろそろ手を離してもらえないだろうか。鼻まで一緒に押さえられているため、大変に息苦しい。
「いいか? 一回、深呼吸しろ?」
口と鼻を右手で押さえながら、無茶なことを仰る。
「落ち着け? 絶対に、大きな声を出すな? 出したら、お前の鼻をへし折るからな?」
何度も念を押しながら――さりげなく恐ろしい脅し文句を挟み込みながら――男はやっと手を離す。
「……ったく、手間かけさせンなよなー。おめェよー」
「あの……誰、ですか?」
何とか、それだけを口にする。
真夜中に人の部屋に上がり込むなど、尋常ではない。普通に考えるなら、強盗だ。だけど男の態度を見る限りでは、どうもそうではないらしい。となると――残る可能性は一つしかない。
「オレ? オレは織田だよ。織田広樹。『グループ』の幹部」
厭な予感は、ことごとく当たる運命にある。
「何で、ここにいるんですか?」
「オメェに会いに来たに決まってんじゃん」
「どうやって、入ってきたんですか?」
「窓のカギを壊して入った」
「俺を、どうするつもりですか」
「そりゃ後で話す。……つーか、さっきからオメェの質問に答えてばっかだな。オレにも質問させろっての」
軽さしか感じさせない口調で、強引に主導権を握ろうとしている。続く言葉は――予想できる。できるだけ、聞きたくない。聞きたくないのだけど、織田と名乗るこの男は、その顔をベッド脇にまで近づけて、耳元で囁いた。
「――どうして、約束を破った?」
やっと目が慣れ始めた暗闇の中で、織田の目が怪しく光る。
――やっぱりそうか。
低いトーンで発せられる彼の言葉に震え上がると同時に、悠一は、ある種の確信を得ていた。それはつまり、入江が言っていたこと、そのままで――やはり、『グループ』の連中は、悠一を利用しようとしていたのだ、ということ。
何らかの企みがあって、利用するために悠一に接触して、言葉巧みに丸め込んで――それで少し約束を反故にしただけで逆上して、こんな、寝込みを襲うような真似をして……。
「言っておくけどサ、先に約束を破ったのはオメェなんだかんな? 変な勘違いすんなよ? 悪ィのは、オメェの方なんだかんな?」
どこか子供っぽい言い草で織田は吐き捨てる。
「んで、オメェは何でみっちょんとの約束、すっぽかしたんだよ? 言い訳があるなら聞いてやるから、言ってみろや」
「みっちょん?」
「美智代だからみっちょんだろーが。文句あんのかよ!?」
文句などない。ただ、ひどいネーミングセンスだと思っただけだ。
「んで? いい加減理由聞かせろっつの。オレ、こう見えて気が短ェんだからさ」
「……いや、あの、ちょっと……忘れてて……」
「はい、だうとっ!」
馬鹿みたいな掛け声と共に、織田が恐るべき速度で手を動かす。刹那、鼻の奥に走る鋭痛。
「――――っっっ!」
……信じられない。
鉛筆。
HB。
黒。
削ったばかりのソレを――鼻の穴に、突き刺しやがった。
恐らく、悠一が寝ている間に机から拝借してきたのだろうけど――こうなることを予見して、得物を隠し持っていたのだろうけど――躊躇なくそれをできる人間性って、どうなのだろう。もしかしたら、自分は今、とてつもなく危ない奴を相手にしているのかもしれない。
「オメェ、鼻の穴、三つのしたいの?」
したい訳がない。そんな奴はいない。……いや、世の中にはいるのかもしれないけど、少なくとも、自分はそんな性癖の人間ではない。
「あ……あの……」
「嘘つくな。わざとすっぽかしたんだろーが。駅前広場で一時間も待ちぼうけ喰らった、みっちょんの身にもなれよ」
「ご、ごめんなさい……」
「ったく、謝るくらいなら、最初からすンなっての……」
「すみません……」
「謝れば済むと思ってる? 謝罪すればチャラになるって? ふざけんなよ。オレはさ、何かことあるたびに謝罪を要求する風潮が大ッ嫌いなんだよ! 言葉だけの謝罪に何の意味があるってんだ?」
「じゃあ……どうすれば……」
「態度で示してくれ。みっちょんに、そして『グループ』に申し訳なく思うなら、それを態度で――誠意で示してみろ」
一番困る類の要求だ。具体的に何をすればいいか分からない。
「何も難しいことは言わねーよ。ただ、オメェはこれから、オレと一緒に行動してくれればいい。ってか、オレの監視下に置かれろ。もう、二度と逃げられないように、オレと行動を共にするんだ」
怪しげな風向きになってきた。
「織田さんと、一緒にって……何を……」
「『グループ』としての仕事だよ。こう見えても忙しいんだよ、オレらは。オメェには、オレの手伝いをしてもらう。悪い提案じゃないべ? オレは手が空いて少しは楽できるし、監視の手間も省ける。オメェは『グループ』のメンバーや、それ以外のリピーター達と知り合うことができて、この壊れた世界の見聞を広げることができる。な? 悪くないだろ?」
この辺りの理屈は新城からの受け売りなんだろう。いかにもあの男が言いそうな台詞だ。
「誰もが得する、得々プランってやつだ」
訂正。どうやら美智代の受け売りだったらしい。言うだけ言って、織田はようやく、鼻から鉛筆を引き抜いてくれる。
「理解できたら早速出発だ。玄関からだと色々面倒だから、このまま窓から出んぞ。靴と傘は持ってきてある。そうと決まったら、オメェもさっさと着替えろ。さすがにパジャマのまま出かける訳にはいかねーからな」
「あの、滝なゆたの件は……――ッ!」
最後まで言わせてもらえなかった。素早く突き出された両手の掌で、鼻と口を塞がれたからだ。
「反論も質問も受け付けつけねぇ。オレは新城さんたちみたく甘くねーから。いつまでもオメェの好きにさせるつもりとか、ねーから。……なゆたんの件は、他の誰かがちゃんと調べてくれてるから、心配すんな。オメェは、ただオレを信用してついてくればいいんだよ」
……いや、信用するも何も、初対面だし。
寝込み襲われてるし。
鼻の穴に鉛筆突っ込まれたし。
現在進行形で、呼吸の自由を奪われてるし。
……第一、『なゆたん』ってなんだ。馴れ馴れしすぎるだろう。
どこから突っ込めばいいか分からないとは、こういう状態を指すのだろう。
――と言うか――
「――――ッ!」
「いいか。今後、オレの言うことに一切逆らうな。オレの辞書に『躊躇』って文字はねえ。鼻を折る、腕を折る、目玉を抉るぐらいのことは、平気でやらせてもらう。どうせリピートすりゃあ復活すんだから、文句はねェよな? ただ、まだ二十時間以上残ってるってのに致命的な疵を負うのも可哀想だと思って、容赦してやってるだけのことだ。勘違いするな。オメェは今、オレの監視下に置かれてるんだからな」
「――――ッッ!」
「心配すんな。難しいことなんてやらせねーよ。オメェはただ、黙ってオレの後についてきてりゃいいんだ。簡単なことだろ?」
「――――ッッッ!」
息が。
息が。
息が。
織田の手が邪魔で、酸素が入ってこない。血の気がひいていく。鼓動が跳ね上がる。苦しさのあまり、織田の腕を何度もタップする。だけど、織田の長話は止まらない。渾身の力を振り絞って手を振り解こうとするも、力が強すぎて敵わない。
――だんだん、意識が遠のいていく――
「――――――――グッ! がはっ! ぶはっ! はぁっ!」
と、唐突に手が離され、ようやく呼吸の自由を得る。肺が膨らみ、九死に一生を得る。酸素がこれほど美味しいものだったなんて……。 ぜぃぜぃと肩で息する悠一を見て、織田は笑い転げている。
「ヒャヒャヒャヒャヒャっ! オメェ、面白えなぁ! あー、腹痛ぇ……」
「……こっちは、胸が痛いですよ……。死ぬかと思いました……」
「殺しゃしねーっつの。死なない程度、ギリギリのラインを見極めるのが、オレの特技でさ」
履歴書には書けない特技だ。
「……一つ、質問を許してもらっても、いいですか?」
「いいよん。何よ?」
「俺が寝てる時、今みたいに、息止めて遊んでませんでした?」
「よく分かったなー。どのくらいで起きっかな、って思ってさ。人って、案外無呼吸でも平気なのな! オレ的には、泡吐いて失神するくらいがベストだったんだけどなー」
よく分かった。
この男、狂ってる。
人の苦痛を自身の快楽に変換できるタイプの人間だ。
つまりは、サディスト。
『S』ではなく、『サド』でもなく、『サディスト』だ。
――一気に、目の前が暗くなった。
「ンな顔するなっての。オメェが大人しくしてりゃ、オレだって危害与えたりしねーからさ」
それが嘘だということだけは、もの凄くよく分かる。
「うし、そろそろ行くぜ。さっさと着替えろ、ゆーゆー」
「……その、『ゆーゆー』と言うのは、もしかして俺のことですか?」
「他に誰がいンだよ? 『小鳥遊悠一』だから『ゆーゆー』だろーが」
ニックネームランキング、暫定ワースト一位が更新されました。
「そんな風に呼ばれたの、初めてですよ……」
『タカハシ』とか『コトリアソビ』ってのはあったけど、こんなひどいのは初めてだ。
結局、織田に促されるまま、悠一は身支度を始めたのだった。
【午前3時42分】
着替えた後は、家族に気付かれないように窓から脱出し、色んな所を乗り移って、どうにかして地面に着地した。こんな間男みたいな真似、初めてだ。できれば一生経験したくなかったのだけど。
織田の先導で、街灯が仄暗く照らす住宅街を、紺色の傘を差しながら歩いていく。この時間帯には、もう雨が降ってたのか。初めて知った。そう言えば、天気予報でそんなことを言っていたっけか。別にどうでもいい。今、雨が降っている。それが事実で、現実で、全てだ。
いつかの時と同じように、目的地は教えてもらえない。聞いても無駄だろうから、少し角度を変えた質問をぶつけてみる。
「織田さん、この辺りの土地勘あるんですか?」
「そりゃ、ずっとオメェの監視してっからな。じゃなきゃ、華見とか藍土とかなんか行かねーよ。住宅街ばっかでつまんねーし」
「お住まいはどちらなんですか?」
「大宮駅前」
「……けっこう、街中に住んでるんですね……」
予想だにしなかった答えに、少し面食らう。どうせ織田も悠一と同じで郊外に住んでるものと思っていたのに。
「街中ってか、ネカフェだけどな」
ネカフェ難民か。
改めて、目の前にいる織田広樹という男を、それとなく観察してみる。歳は二十代後半だろう。髪は金髪で、前髪にメッシュを入れている。身につけているのは、履き古して色の落ちたジーンズと、何日も洗濯してないようなTシャツ、そしてボロボロのスニーカー――それだけ。リアルに貧乏人っぽい感じで、少しだけひく。ワーキングプアって奴だろうか。
着ている服はひどくみすぼらしいのだけど――何故か、目には力が溢れている。生命力というか、バイタリティーというか、己の不遇さを撥ね付けるだけの強さが、その目力に宿っている気がする。……悪く言えば、ゴキブリみたいな男だった。良く言ってもゴキブリなのだけれど。
「ゆーゆー、金持ってね? この先の大通りでタクシー拾うから、少しばかり貸してくれよ」
出発して数分で金の無心か。本当に大丈夫か、この人。
「……織田さんは、持ってないんですか?」
「1253円が、オレの全財産なんだよ。いいから貸せっての」
悠一の了承を得ないまま、尻ポケットから勝手に財布を取り出し、中身を開く織田。何てひどい。
「おー、オメェ、高校生の割に金持ちだなー」
「……小遣いもらったばっかだったんで」
「甘やかされて育った人間は、やっぱ違うな!」
千円札を何枚か抜き出しながら、厭なことを言っている。人から金を強奪しておいて、何て言い草だ。
「心配すンなって。朝になったら、新城が口座に金振り込んでくれるからサ。それまでの間だ。な?」
シシシ、と笑いながら、悠一の肩をぱん、と叩く。痛い。叩かれた肩をさすりながら、悠一はトボトボと織田の後をついていく。金のことは諦めた方がいいだろうな、などと考えながら。
タクシーを数十分走らせて、二人はオフィス街の一角に到着する。この時間では、当然のことながら人気は皆無で、さながらゴーストタウンのよう。こんな場所に、何の用があると言うのか……?
「あの――」
「黙ってついてこいっての。すぐそこだから」
言うが早いか、さっさとビルの間の裏路地へと入っていく織田。湿っぽい空間を抜け、右に曲がり、左に曲がり、また右に曲がって――いつしか、二人はビルに囲まれた狭い空間へと辿り着いていた。街灯もなく、辺りは真っ暗。ただ十メートルほど先に、仄かな光がぼぅ、と浮かび上がっている。よくよく目をこらせば、それは小さな小屋だった。それも、昭和の時代に建てられたような、小汚いバラック小屋。
「誰が……住んでるんですか」
「リピーターだよ。『グループ』の一員じゃねェんだけど、今はオレたちに協力してる。『高橋一朗』と名乗ってンだけど……本名かどうかは分からねェ。オレたちは『武器屋』って読んでる。ってか、そっちの方が通りがいい。オメェも、『武器屋』って覚えときゃいいよ」
「武器を、売ってるんですか?」
「行けば分かる」
「でも、こんな時間に行って――寝てるんじゃないですか」
「だったら来ねェっつの。あの男は、明け方に寝て、夕方過ぎに起きるんだ。今来なきゃ、次は五時すぎまで会えねェ。ま、別に蹴飛ばして起こしゃいい話なんだけどな」
「……何か、吸血鬼みたいな人ですね……」
「そりゃカッコよすぎだべ。モグラだよ、モグラ。変態モグラだ」
何て酷い。『モグラ』ってだけでも大概なのに、更に『変態』なんて枕詞をつけるなんて。
「大丈夫だ。これから行くって、メールは送ってある。ここで話しててもしょうがないから――行くぞ、ゆーゆー」
足を踏み出す織田のあとを、慌てて追いかけていく。
「『武器屋』、来たぞーっ!」
「空いてるよォ」
「知ってるっつの」
中から聞こえてきた間延びした声を一蹴して、織田は小屋の扉を開ける。更衣室に使われてるみたいな磨りガラスの引き戸で、やたら立て付けが悪い。何とか半分程開いて、無理矢理に躰をすべりこませる。
汚い部屋だった。
六畳ほどの畳敷きの部屋なのだけど……雑誌や衣類、何かの空き箱や段ボールが散乱していて、その間を敷き詰めるように、ビールの空き缶や日本酒・ウィスキーの空き瓶などが転がっている。
そして、その部屋の奥に――モグラがいた。
最新式のパソコンを覗き込んでいるのが、件の男だろう。小柄で猫背、薄汚れた黒いパーカーに身を纏い、色の抜けた茶色い髪をフードで隠している。そして、真夜中だというのに、何故かサングラスをかけている。年齢不詳。右手に握られたマウスは絶えずクリックを繰り返していて、左手には透明な液体の入ったグラスが握られている。部屋全体にうっすら漂う臭いから察するに、日本酒の類だろう。
何だか――滅茶苦茶、胡散臭い。
新城や織田も大概胡散臭いと思ったが、それとはレベルが違う。胡散臭さを数値で表して、織田が30、新城が45とするなら、この男は80くらい。悠一の中での胡散臭さランキング暫定一位だ。
「よく来たねェ、織田チャン。最近ご無沙汰だったからァ、少し淋しかったんだよォ?」
ヘラヘラと笑いながら、気持ち悪い笑顔を織田に向ける。すでにできあがっているらしく、声の抑揚がおかしい。
「気持ち悪ィこと言うんじゃねーよ。こっちだって、できりゃオメェの顔なんざ見たくねェんだからよ」
「へッ。織田チャンはツンデレだなァ」
パコンッ!
これは、織田が近くに落ちていたビールの空き缶を『武器屋』の頭に思い切り投げつけた擬音だ。空き缶は『武器屋』の頭で勢いよく跳ね上がり、そのまま部屋の反対側まで飛んでいく。
「アハハハハ。織田チャン、相変わらずだなァ」
酔うと痛覚が麻痺するという話は本当なのだろうか。織田が目一杯の力を込めて投げつけたというのに、『武器屋』はまるで堪えない。
「いいよォいいよォ。もっとやってくれよォ」
パコンッ!
パコンッ!
パコンッ!
連続してヒットする空き缶と、その度に嬌声をあげる『武器屋』の姿。……嗚呼、なるほど。『変態モグラ』か。何となく、分かった気がした。分かりたくなかったけれども。
「……そろそろ、話に入ってもいいか?」
この濃いキャラの前では、織田が常識人に見えてくるから不思議だ。
「話って、いつもの件だろォ? いいヨォ、いくらでも、好きなだけ持って行きなよォ。織田チャンが来るって聞いて、そっちの机にめぼしいモノ置いておいたからさァ」
『武器屋』がいるパソコンの場所とは反対側に、低いちゃぶ台が置かれている。その上に置かれているのは――何だろう? 金属製の棒とか、箱とか、あとは折り畳みナイフとか、モデルガンとか、薬瓶とか――『武器屋』という通り名を鑑みれば、ある程度の想像はできるのだけれど。
「あの――織田さん。そろそろ、俺にも説明してもらっても……」
「あ? ああ、悪ぃ悪ぃ。いるの忘れてた」
いくら何でも酷すぎるのでは。
「おぅ、誰かと思ったら――」
「『武器屋』!」
……吃驚した。急に大きな声を出さないでほしい。
「分かってるよォ。そっちは新顔さんだろォ。初めまして。高橋一朗――ああ、いや、『グループ』のみんなには、『武器屋』で通した方が分かりやすいかなァ?」
「こいつはさ、ネット通販で武器を売って生計を立ててンだよ。どういうルートで入手してンだか――特殊警棒から、メリケンサック、サバイバルナイフ、ボウガン、改造銃、改造スタンガン、果ては青酸カリや小型爆弾に至るまで、殺傷能力のあるモノなら何でもアリだ。それ以外にも、盗聴器や盗撮カメラも扱ってる――んだっけか?」
「扱ってるよぉ? 需要があるからねえ」
間延びした声で答える『武器屋』。
「だってさ。んで……まぁ、幸か不幸か、そんな男がリピーターの仲間入りを果たしちまって――で、まあ、オレらはこうして、毎回武器の供給をお願いしてるって訳だ」
「……違法じゃないんですか?」
「関係ねェだろ。この壊れた世界じゃよ。しょっぴかれようがどうなろうが、リピートすりゃ元通り。何でもアリなんだよ」
何でもアリ――確かにそうだ。だからこそ、怪物みたいなのが登場するんだろうし。
「オニーチャンは、名前何て言うのォ?」
「あ、小鳥遊です。小鳥遊悠一です」
「へェ、同じ苗字だねェ」
「『タカハシ』じゃなくて『タカナシ』! タ・カ・ナ・シ、です。間違わないでください」
全く……十人いたら、三人は同じ間違いをしてくれる。それだけならまだしも、それがそのままあだ名として定着してしまったりするから、ウンザリする。『小鳥ゆう』とか『小鳥ゆーゆー』とか。
……ん? 『ゆーゆー』? ……今思い出した。そう言えば、小学五年の一時期だけ、『ゆーゆー』ってあだ名で呼ばれてたんだっけか。昔のことすぎて、今の今まで忘れていた。別にどうでもいいことなのだけれど。
「ふううん……小鳥遊くん、ネ。覚えておくよォ」
興味があるのかないのか――恐らくは後者だろう――『武器屋』は間延びした声で話を締め、さっさとパソコン画面に向き直ってしまう。
「さっきから、何見てるんですか。ネットで武器を売ってるとか」
「ループ状態になってからは、商売なんてやってねェよォ。配送したとこで、今日中に金が入る訳じゃないしぃ? 意味ねェもん。今はもっぱら、酒とコレだけが楽しみでネ」
ヘラヘラ笑いを顔全体に貼り付けながら、パソコン画面を顎でしゃくる『武器屋』。……どうせ、エロ画像か何かだろう。
「小鳥遊くん、見てみる? もしかしたら、新しい世界が開けるかもしれないよォ?」
……そりゃまあ、見せてくれるというなら、遠慮なく見せてもらうけれども。悠一だって健全な高校生男子だ。そういうものに興味がないと言えば嘘になる。織田の方を窺うと、彼は苦々しそうな顔で――
「見たきゃ見ろよ。……ただし、自己責任でな」
お許しをもらえたので、あくまで平静を装いながら――その実、心臓はバクバク言ってたのだけど――『武器屋』の小さい背中越しに、画面を覗き見る。
瞬間、後悔した。
そこには、女性の死体画像が映し出されていた。
海外の事故現場か何かだろうか。
金髪の美女なのだけど――四肢が、切断されている。
冗談みたいな量の血が画面全体を埋めていて――すぐに顔をそらしたのに、目に焼き付いて離れない。こんな、こんなグロテスクなモンを、よくも平気で……。
「この男は、死体愛好者なんだよ。死んだ女にしか欲情しない、真性の変態。グロいほど、凄惨なほどいいらしい。で、いつもネットに転がってるその類の画像、動画ばっか集めて、コレクションにしてるんだと。もちろん、その周に集めた画像は、リピートしたら消えてなくなる運命なんだけどな」
……織田の声が、ひどく遠い所から聞こえてくる。お願いだから、そういう情報は先に開示しておいてほしい。知っていれば絶対に見なかったのに。
悠一はひどく憔悴して、パソコンの前から離れた。今は、できるだけこの男の側に近寄りたくない。
「ハハハ。さすがに素人サンには刺激が強かったかなァ? これでも、まだ大分ヌルい方なんだけどナー?」
「黙れ変態」
心底忌々しそうに織田が吐き捨てる。寝室での一件を考えると、織田も『武器屋』と似たような嗜好だと思うのだけど――きっと、微妙に違うのだろう。変態のことは、至ってノーマルな悠一には理解できない。する気もない。
「言っておくけど、ボクはあくまで観察専門だからネ? 実際に死体とどうこうしようとか、ましてや自分の手を汚して死体を生産しようとか、そういうのはないの。人畜無害でしょォ? ……ま、そのお手伝いはしてたんだけどネ」
……なるほど。だから、『武器屋』か。色々と分かった。
「織田チャン、また何か面白いモン手には入ったら、ボクのPCに送ってよォ。ちょっと前までは毎周のように送ってくれてたのに、最近はそれもなくて、淋しいんだよォ」
「…………」
何やってるんだ、この人。
悠一はわざと訝しげな目で、織田を見つめる。
「……武器を借りる、代金がわりだよ。オレだって、できりゃそんなことしたくねえ。だけどコイツ、金なんていらない、とにかくグロ画像が欲しいっつうから……」
問題はそこではない。欲しいと言われて簡単に提供できる、織田の状況こそが問題なのだ。
「『グループ』の仕事やってると、そういう場面に遭遇することがよくあンだよ。本来、オレは荒事専門だからな……。ま、じきに分かるって」
最後の部分を濁し、織田は無理矢理に話を締める。悠一にしてみれば、そんなこと、別に知りたくもないのだけど――いつか、知ることになるのだろう。分からなければ、ならない時が来るのだろう。何だか、気が重くなる。
結局、織田は特殊警棒だけを受け取ることにしたらしい。
「……今回、スタンガンは、ねェのか?」
段ボール箱を覗き込みながら、何気なく尋ねる織田。
「スタンガン? ああ、あれ、どっかいっちまったんだよねェ。ほら、部屋汚いし?」
「ふぅん? ……ま、何でもいいけど」
気のない返事をしながら、得物を腰に差す。相変わらず死体画像に釘付けの変態モグラの巣を後にし、傘を差して、二人は疲れた足取りで大通りに向かうのだった。
「……その武器、何かに使うんですか?」
「ああ? ……どうだろうな。今回はいらねェと思うんだけど、一応な。手ブラで帰るのも、何かもったいねェし」
悠一に紹介するのがメインの目的だった、という訳か。
……これからも、今みたいな男とばかり面会することになるのだろうか。一応、リピーターで『グループ』の協力者ではあるものの、『グループ』の一員ではない、という部分が救いだろうか。あんな変態が所属してるんじゃ、とてもではないが『グループ』では働けない。……端から『グループ』など信用していないのだけれど。今はただ、織田に脅されて行動を共にしているだけにすぎない。
「あ、そうだ。一つ――お願いがあるんですけど」
【午前6時33分】
「沙樹ッ! 悠一ッ! いつまで寝てるのーッ! いい加減起きないと、遅刻するよッ!」
数十分経って。
悠一は、無事に一時帰宅を果たしていた。
あくまで『一時』、ではあるのだけれど。
六時前に窓から自室に帰還していた悠一は、目覚ましが鳴る随分前に身支度を整えていた。そして、いつもと同じ母親の呼びかけに応える形で部屋を出る。姉を起こし、階段を降り、両親といつもの会話を交わし、いつもと同じ番組を見ながら、いつもと同じ朝食をとり――いつもとおなじように、部屋を出る。
「……オレには、何の意味もないようにしか見えねェんだけどな」
玄関の前では、当たり前のように織田が待ち構えていた。そういう約束なのだ。周囲の人間には心配かけたくないから、一旦、家に帰らせてほしい。朝、起きてから家出る所までを家族に見せたら、すぐに戻るから――拝み倒して、ようやく許可をもらえたのだ。絶対に逃げないこと、という、それ以上でもそれ以下でもない条件のもと、ではあるが。
「決めたんです。自分がどんな状況になろうとも、家族や友達、周囲の大事な人間に心配をかけない、蔑ろにしないって――絶対にしないって、そう決めたんです」
「オメェなりのこだわり、ってヤツか? オレには、いまひとつ理解できねぇけどなァ」
「それでも構いません。許可してくれただけで充分です」
「ふうん……ゆーゆー、嘘吐くの、得意か?」
つまらなそうな顔で、唐突にそんなことを聞いてくる。
「え? ……いや……あんまり、得意ではないですけど……」
「じゃ、超特急で理由考えろ。仮病か何かでいいべ」
言いいながら、取り出した携帯のボタンを高速でプッシュしていく織田。
「え、何を……」
「無断欠席って訳にはいかねェんだろ? おら、オメェの学校にかけといてやったから、熱が出て行けなくなりました、とか適当な理由話せや」
押しつけられた携帯を慌てて受け取り、しどろもどろになりながらも、慌てて欠席する旨を告げる。対応した教師は訝しげだったが、何とか納得してくれたらしい。
安堵の溜息を吐き、携帯を織田に返す。
「あの、何で俺の学校の番号なんか知ってるんスか?」
「こんなことになるんじゃねェかと思ってよ。前もって調べておいたんだよ」
「だから何で――」
「ナメんなよ。オレだって『グループ』の幹部だ。前の周に、お前がみっちょんに話したことくらい、聞いてる」
前の周――紫苑駅での張り込みを終えた悠一は、美智代に学校に行くと告げて、それで彼女に驚かれたんだっけか。
「今回もどうせ学校に行く、とか言い出すんじゃねェかと思って、先手を打っておいたんだよ。オレだって、オメェの信念まで曲げるつもりはねーし」
「……ありがとうございます」
「オイオイ、オメェ、そこは礼を言うとこじゃねェだろーがよ」
シシシ、と笑う織田。口の端から八重歯が覗いている。さっきは気付かなかったが、この男、笑うと少年のような顔になる。その笑顔が、妙に無垢なモノに感じられて――悠一は慌てて、気を引き締める。
信用してはいけない。
心を開いてはいけない。
全く――よく分からない男だ。
凶暴だったり、真面目だったり、怪しげだったり――優しかったり。新城や美智代とは違うベクトルで、油断のならない人間である。
「うし、休憩終わりだ。次、行くぞ」
【午前7時48分】
ファミレスには、先客がいた。
緑木駅からタクシーで三十分ほど走らせた、郊外の繁華街。次の目的地は比較的人の多い場所で、悠一にはそれが少し意外だった。
「……こんなトコに、リピーターがいるんですか?」
ファミレスの駐車場、タクシーから降りた悠一は水溜まりばかりのアスファルトに閉口しながら、そう尋ねる。
「今度はれっきとした『グループ』のメンバー――それも、幹部だ。しかも、変人揃いの『グループ』の中でも屈指の常識人だから、オメェも安心していいぞ。少し頑固だけどな」
朗報だった。
さっきみたいな変態はもう懲り懲りだ。
それにしても――幹部、か。
「確か、三人いるんですよね? で、各々の得意分野を活かす形で、担当部署のチームリーダーみたいになってるって――新城さんの話だと、そんな感じでしたけど」
「だいたいあってる。オレは荒事専門で、みっちょんは交渉・説得役。んで、これから会う鷲津さんって人は、調査・探索のスペシャリストって訳よ」
「そんなスペシャリストがいるんですか……」
「そりゃ鷲津サンに失礼だべ。何てたって――本職の、探偵だからな」
納得。
と言うか、この『グループ』、本当に人員不足なんだろうか。都合良く――とまでは言わないが、かなり豊富に、優秀な人材が揃っていると思うのだけれど。
「行くぞ」
織田に促されて、悠一は大きくも小さくもない、有名チェーンのファミレスに、足を踏み入れたのだった。
店内はそこそこに混み合っていた。服装を見る限り、仕事前のサラリーマンや暇な若者がほとんど、といったところだろうか。ある者は黙々と食事に専念し、ある者はノートを開きながら、ある者は仲間と益体のないお喋りに興じながら、おのおのの時間を潰している。
悠一はまず店のトイレに入り、制服から私服へと着替えを済ませた。平日の朝っぱらから、制服でウロウロするのは怪しまれるからだ。織田の指示で、着替えは鞄に詰めて持ってきてある。荷物になるから、という理由で、鞄と制服は洗面所のゴミ箱に突っ込んでおく。どうせ、全てはリピートが起これば元通り――だ。身軽なものである。
目的の人物は、喫煙席の窓際を陣取っていた。煙草をふかしながら、じぃっと窓の外を凝視している。
「うぃっす」
「おう」
必要最低限にも達さない程の短い挨拶を交わす二人。件の男は軽くこちらを見ただけで、すぐに視線を窓の外へと戻してしまう。
織田と悠一はドリンクバーだけを注文して、男の向かい側の席に、二人揃って腰を下ろした。
「どんな感じっスか?」
「動きはなし。しばらくは引きこもりを決め込むつもりらしい。こちらの予想通りだな」
悠一の存在など無視して、さっさと二人だけで本題に入ってしまう。さっきと同じパターンだ。置いてけぼりは厭なので、早い段階で己の存在をアピールしておく。
「あの、織田さん――」
「分かってる。あ、鷲津さん、コイツが――」
「小鳥遊悠一。織遠高校普通科に通う二年生で、十七歳。華見駅から徒歩圏内に、家族と同居している。家族構成は、銀行員の父、専業主婦の母、時雨大学に通う姉の、四人家族。学業面ではお世辞にも優秀とは言えないが、社交的・外向的な性格で、交友関係は広い。進級してからは、主に入江明弘、篠原美那とつるんで遊ぶことが多く、それ以外にも友人は数多くいるが、今現在、交際している彼女はいない――間違ってるところがあれば、言ってくれ」
織田の紹介を遮る形で、スラスラと悠一のプロフィールを暗誦していく。一通り言い終わったところで、吸っていた煙草を灰皿に押しつける。すでに、灰皿は吸い殻の山になっていた。
「いや、全部合ってますけど……調べた、んですか……?」
「それが俺の仕事だからな。ああ、名乗るのが遅れたな。鷲津吾郎だ。一応、初めましてと言っておこう。よろしく」
その時になって始めて、鷲津はこちらを振り向き、悠一と目を合わせる。
歳は五十前後だろうか。骨張った顔立ちをしていて、やたら眼光が鋭い。探偵と言うより、刑事と言った方がしっくりくる。或いは、かつては警察官だったのかもしれない。白髪の混じった短髪で、服装はノーネクタイの背広姿。それも、一見してそうと分かる、安物のくたびれた服で――高級スーツを着こなす新城とは対照的だ。
目を合わせたのも一瞬で、彼はすぐさま新しいマルボロを取り出し、火を点けながら視線を窓の外へ移してしまう。どうやら、かなりのヘビースモーカーらしい。それにしても――外に、何かあるのだろうか? 話の流れから察するに、張り込みの途中らしいのだけど。
「で、今日は何の用だ? 新参の坊ちゃんを紹介しに来ただけか?」
「まあ、だいたいそんな所ッスね。後は、鷲津さんの調査状況がどうかと思って……」
この男も、年長者の鷲津相手には丁寧語を使うらしかった。或いは、年長者だからではなく、鷲津の個性がそうさせるのか。同じ年長者でも、新城相手では、やはりぞんざいな話し方をしているのかもしれないし。
「だから、それは最初に話した通りだ。動きはない。新城にも、そう伝えてある」
煙を吐き出しながら、つまらなそうに、それだけ言う。この鷲津という男、あまり無駄話は好まないタチらしい。仕方がないので、織田に状況説明を要求する。
「ああ……鷲津サン、コイツに話してもらっていいですかね」
「道路を挟んだ向かいに、二階建てのアパートがあるだろう」
いきなり本題に入ったらしかった。やはり、無駄口は一切口にしたくないらしい。
「あ……はい」
雨で少し見にくいが、確かに、そういうアパートがある。一フロアに四部屋あって、合計八部屋。建物の大きさと合わせて考えると、六畳一間のワンルームといったところだろうか。
「二階の左端、ここの真っ正面に位置する部屋に、竹崎宗也という男が住んでいる。二十八歳のフリーターで、かつては牛丼屋でバイトをしていた」
「『かつては』?」
「そう。三周前、勤務途中に店長を殴って、それ以来部屋に引き籠もっている」
『三日前』ではなく、『三周前』――つまり、それも今日と同じ、五月十三日ということで――
「リピーター、なんですね?」
「当然そうだ。リピート回数は不明だが、新城は、奴をA級危険因子として見ている」
「怪物候補って、ことですか?」
「美智代風に言えば、そうなるな。……小鳥遊は、『Face book』って知ってるか?」
「何となく、ですけど。ネット上で、日記公開したり、仲間同士で集まったりするヤツですよね?」
そっち方面には疎い悠一でも、それくらいは知っている。テレビや雑誌で聞きかじった知識、ではあるのだけど。
「……まあ、今はそんな認識でいいだろう」
煙草を灰皿に押しつけ、また新しいのに火を点け、煙を吐き出し――鷲津は言葉を続ける。
「竹崎もそこの会員だった。奴は五月十三日付の日記で、興味深い記述をしている。『何が起きてるか分からない』『今日一日だけが無限に続いていく』『悪い夢を、見ているみたいだ』と、最初は困惑していた様子だった。次に奴は事象の解明に乗りだそうとして――当然のことながら、それも、徒労に終わる」
悠一の時と同じパターンだ。やはり、誰しも一度は通る道なのだろうか。
「次は、完全に自分の世界に閉じ籠もるようになってきて――常軌を逸した内容になっていくのは、この頃からだ。『俺は神になりつつあるのかもしれない』『真の自由を手に入れた』『何をしてもいい。それはつまり、何かをやれってことだ』『愚鈍民を一掃できたら、どれだけ爽快だろう』――本当はもっと違う表現なんだが、要約すると、だいたいこんな感じだ。そして、その記述があった次の周に、奴はバイト先の店長を殴った。どんぶりで殴打し、鍋の中身を全部ぶちまけ、そのまま逃走。そして、リピート――以来、奴はあの部屋から一歩も外を出ていない」
「でも、今後、何かをしでかすかもしれない?」
「そうだ。そのための、監視だ」
「何も――しないかもしれないじゃないですか」
「それはない。奴は、必ず動く。現実世界では引き籠もりでも、ネット世界ではけっこうな暴れん坊らしい。2ちゃんねるに代表される、各種の大手匿名掲示板で、奴の動きが確認されている」
「匿名掲示板なら、個人の特定はできないんじゃないですか?」
「完全な特定は、確かに不可能だな。だが、周を跨ぐごとに書き込みの内容、場所が変わってることからも、書き手がリピーターであることは間違いない。そして、文体や内容から、そのほとんどが同一人物であると類推できる。その書き手が、竹崎であることもな」
この話を、どう受け止めるべきだろう。きっと、鷲津は事実しか話していない。自身の調査した客観的事実を、調査報告のように、どこまでも客観的に語っているだけ。事実だけあって、一応の筋は通っている。
だけど――どこか、釈然としない。
何故、彼らはそこまで把握できるのだろう。
話を聞く限り、件の竹崎という男は、リピーターになってまだ日が浅いような印象を受ける。恐らくは、まだリピート回数二桁台といったところだろう。なのに、『グループ』は早々に彼に目を付け、現実世界での動きから、ネット世界での行いに至るまで、かなり詳細に把握できてしまっている。
現実世界に限って言えば、それも可能だろう。ただ単純に、今鷲津がしているように、監視し、尾行すればいいだけなのだから。
しかし、ネット上ではそうもいかない。新城や鷲津の話を聞く限りでは、ネット世界を監視しているメンバーが別にいるようだが――それにしても、『広大なネット上で新参リピーターを探すのは、サハラ砂漠で砂金を探すようなもの』と、新城自身も言っていたではないか。それなのに、『グループ』は竹崎に対し、ミクシィだか2ちゃんねるだか知らないが、ネット上での動きを、かなり早い段階で察知している。
何だか――あまりにも、都合が良すぎないだろうか?
「オメェの疑問も分かるけどよォ……」
悠一の質問に答えたのは、今まで大人しく黙っていた織田だった。いつの間に用意したのか、グラスに注がれたコーラで唇を湿らせている。
「結局、運がよかった――としか、言いようがないんじゃね? たまたま新参リピーターが書いたらしき日記を見つけて、うまいことそれが竹崎だって特定できて、運よく素性も住所も分かって、偶然にも掲示板での書き込みも把握できて――都合がいいって言われても、結果がそうなんだから、仕方ねえべ。過程がどうであろうが、結果として、『グループ』は竹崎という危険人物を把握できている。それで充分なんだっつの」
全ては――結果論か。
それはそういうものとして、受け入れるべきなのかもしれない。
――いや、果たして、本当にそれでいいのか?
『グループ』の人間の言うことを、そんな風に真に受けてしまっても、いいのか? 何を企んでいるのか分からない以上、何も、信用すべきではない。
そう――そうなのだ。
この竹崎の話にしたって、どこまで本当か分からない。否、最初から最後まで、徹頭徹尾、嘘で塗り固められているってことも考えられる。そうすることで『グループ』にどんなメリットがあるか分からないが、そう考えれば、さっきの疑問も全て氷解する。全てがフィクションなのだから、ご都合主義は当たり前だ。結果論なんて、ただの苦しい言い訳にすぎない。
鷲津も織田も嘘を吐いている。
竹崎なんて人間は存在しない。
……だけど……だったら……何故、彼らはそんな嘘を吐く必要があるのだろう。自分で立てた仮説ではあるものの、今ひとつピンと来ない。考えすぎで、頭が痛くなってくる。やはり、自分には論理的思考は向いてないのかもしれない。何だか、惨めな気持ちになってくる。
「竹崎の話は、これで以上だ。余計な解説も、主観的な推測も付け加えるつもりはない。俺は調査した結果を伝えるだけだ」
根本まで吸った煙草を灰皿に押しつけ、鷲津はそう締める。これ以上、喋ることなどなさそうだった。自然、お開きの空気になる。
「じゃあ、オレらはこの辺で……」
「――と思ったんだが、一つだけ――」
二人が腰を浮かしかけたところを、新しい煙草を指に挟んだ鷲津が呼び止める。
「ま、オッサンの小言だと思って、軽く流してくれて構わないんだが……小鳥遊、一つだけ、言わせてくれ」
ジッポで煙草に火を点けながら、慎重な言葉選びで、鷲津はそう切り出す。
「小鳥遊――お前、」
自分の頭で、考えろよ。
混乱した。
どういう、意味だろう。『自分の頭で考えろ』? 当たり前じゃないか。いつだって――今だって――そして多分これからも――悠一は自分の頭で、考えてきた。確かに、頭は悪い。どれだけ考えても、結論を出せずに、思考が空中分解することも、少なからずある。だけど、それでも、悠一は自分の脳味噌を使っているのだ。言うに事欠いて、意味深長に、『自分の頭で考えろ』だなんて――何と言う言い草だろう。意味が、まるで分からない。
問い返そうにも、当の鷲津は窓の外に視線を固定したきり、煙草をふかし続けている。どんな質問も受け付けるつもりはない、という意思表示のつもりだろうか。言いっぱなしの投げっぱなしか。大した了見だ。
異様な理不尽さに腹を立てながらも、仕方なく、悠一は席を立ったのだった。
「――織田さん、さっきあの人が言った意味、分かります? 『自分の頭で考えろ』って」
「……オメェよォ……それって、『バカって言った方がバカなんだからね、このバカっ!』って言うのと、変わンねェぞ……」
次の目的地に向かうタクシーにて、悠一はさっきの言葉の真意を織田に尋ねてみたのだが、結果はバカにされるだけだった。確かに織田の言う通りだ。自分で言って赤面しそうになる。
「鷲津サンの忠告、肝に銘じておけよ。あの人、仕事のこと以外――ってか調査に関すること以外、ほとんど口開かないような人なんだからよ。今は分かンねェかもしれねーけど、いつかきっと、分かる時が来るから」
織田は鷲津のシンパなのだろうか。誰にも懐かない一匹狼だと思っていただけに、少し意外だった。
「織田さんは、あの人のことを慕ってるんですね……」
「つーか……まあ、何となく、馬が合うんだよな。あの人とは。絶対に嘘は吐かないし、勿体ぶった言い回しで理屈こねたりしないし、人を見透かしたりしないし――キザったらしく、カッコつけたりしないし」
「うわあ、だれのことだろう。ぜんぜんそうぞうできないや」
棒読みで言ってやった。ここまで分かりやすい当てこすりもないだろう。あの人、案外人望ないな。
「いや、でもオメェ、勘違いすンなよ。確かに新城は虫の好かない男だけどよ――」
「名前出しちゃいましたね」
「でも、オレはあの男に、感謝してンだよ、これでも。家族からも社会からも必要とされなかったオレみたいな男に、あの人は居場所を与えてくれた――なんて言い方すっと、陳腐だし、ホント、バカみてェだけど……だけど、マジで、オレはあの人に、感謝してンだ」
神妙な口調で、織田はそう語る。
何を――このタイミングで言い出すのだ。
そんな風に、わざとらしく忠誠度をアピールしたところで、何のメリットがあるというのだ。
全く……よく、分からない男だ。
今、はっきりと認識した。
やはり、悠一はこの男のことが苦手だ。
どこまでが素でどこからが計算なのかが、はっきりしない。もしかすると、全てが全て、織田広樹の素なのかもしれないけど……そう考えるのは、やめておこう。頭がこんがらがってくる。
タクシーの車窓にぶつかる雨粒を見つめながら、悠一は誰にも聞こえないように、小さく溜息を吐いたのだった。
【午前9時10分】
書店には、やはり先客がいた。
場所は大宮駅前――つまりは、織田のホームグラウンド。この織田広樹という非正規雇用の派遣社員は、大宮のネットカフェを住居にしているらしく……つまりは、巷で言うところのネカフェ難民というヤツで。
「ホームでも何でもねェよ……どこに行ったって、オレはアウェイだ」
自嘲するように、織田はそう呟く。居場所がない。必要とされない。唯一必要としてくれたのが、新城だった――そんな意味のことを、ついさっき聞かされたんだっけか。気持ちは分かるが――できれば、分かりたくない。そんな境遇、真っ平ゴメンだ。
「今度は、誰に会わされるんですか? また『グループ』の人ですか?」
「いや、今度は『グループ』の人間じゃねェ。かと言って、『武器屋』みたいな協力者とも違う。普通のリピーターだ」
リピーターである時点で普通ではない、というツッコミは野暮なのだろうか。野暮なのだろう。美智代の話では、百人近くのリピーターが確認されているという。『グループ』の連中にとっての『普通』は、多分、物凄くハードルが高い。
「大磯孝志って名前なんだけど、オレらは『教授』って呼んでる」
「教授なんですか!?」
「……まあ、本人に聞いてみろよ。今度は、変態でも頑固でもない、至って人のいいオッサンだ。今までで一番話しやすいんじゃねェかな」
この男のイントロダクションは信用出来ない。今回も、ある程度覚悟しておく必要があるだろう。悠一は傘をたたみ、駅前の大型書店へと足を踏み入れたのだった。
目的の人物は、文芸書のコーナーで立ち読みをしていた。
「『教授』」
「……ああ、君たちですか。いつもご苦労様ですね……」
そこにいたのは、穏やかな笑みを浮かべた、温厚そうな紳士だった。腹は出ているし、額もかなり後退している。顔に散りばめられた皺の数から察するに、さっき別れたばかりの鷲津より年長なのは間違いないのだが――発している雰囲気が、ずいぶんと柔らかい。『温厚』という言葉を擬人化したような人物――それが、悠一の抱いた第一印象だった。
「『教授』、これが、この前話した――」
「ああ……小鳥遊君、でしたっけ? 話は聞いておりますよ。何でも、『グループ』の方たちと一緒に行動しているのだとか。いいですねえ。若い方は、元気で」
目を細め、『教授』はしみじみとそう語る。
「オラ、自分で挨拶しろよ」
「あ、小鳥遊悠一です。よろしくお願いします」
「いえいえ……何も、お願いされるようなことは。私は自分の好き勝手にやってるだけですから。あ、私は大磯孝志と言います。こちらこそ、よろしく」
「あの……『教授』って、どこの大学の……?」
まず聞きたいのは、そこだった。専門知識があるのなら、明日への到達における、大きな足がかりになる。……もちろん、現時点で『グループ』に参加してないのだから、そこには何らかの事情があるのだろうけれども。
「ああ、いえいえ、違うんですよ。私は『教授』でも何でもありません。数年前に家電メーカーを定年退職した、無学で無教養な、ただのジジイでしてね。ただ、私が書店や図書館で本の虫をやっているのを見て、この方たちが勝手にそう呼んでいるだけでして……」
気落ちしなかったと言えば、嘘になる。だけど――仮にも『本の虫』ならば、無学で無教養というのは、少し謙遜がすぎる気がした。
「こんな状況になって、他にやることがないものですから……。午前中は、だいたい本を読んで時間を潰しています。会社にいた時はビジネス書くらいしか読まなかったんですが、なかなかどうして、興味を持って読み始めると面白くてね。古典文学から若い人向けの物語、ノンフィクションから実用書に至るまで、今ではすっかり乱読派を自認しておりますよ」
ハッハ、と、穏やかに、柔らかく、『教授』は笑う。
今の話で、気にかかった点が、一つ。
「あの――午前中は、って言いましたけど……じゃあ、午後は……」
「入院してる家内の見舞いに行っています。病室に入り浸りで、ほとんど一日が終わってしまいますねえ」
「どこか……悪いんですか?」
我ながら、馬鹿みたいな質問だったと思う。どこか悪いから入院しているのだ。
「ええ」
だけど、
「胃癌でしてね」
この温厚な紳士は、
「末期なんですよ」
なんでもないことのように、
「あと、三ヶ月の命だそうです」
にこやかに、そう呟いて。
「…………」
今度こそ、本気で後悔した。自分の軽率な発言を、呪った。
「ああ、そんな顔をしないでください。私は何とも思っておりませんので。何か思う段階は――とうに、過ぎましたので」
あくまで、柔らかく、温かい口調で、彼はそう語る。
彼は――この、『教授』と呼ばれる紳士は、一体どれだけのリピートを繰り返してきたのだろう。数時間を読書に費やし、残りの大部分を余命幾ばくもない妻の見舞いにあてて――そんな一日を、何度も何度も何度も何度も繰り返して――それなのに、こんな風に、穏やかな笑顔を浮かべられるだなんて。
「不思議なモノですよねえ……。見舞いに行ったからと言って、大した話をする訳ではないんですよ? 口を開いても、同じ話をするばかりですしね。だけど――やめられないんですよねえ。面白いですよね。彼女、余命三ヶ月を宣告されているんですよ? だけど、私の主観では、すでに数年も生き続けている。心の中ではなく、私の目の前で、実在する存在として、確かに生きている。そう考えると――どうしても、足が病院に向かってしまうんですよねえ」
ならば。
だったら。
二度と明日など来ない方が、この人にとっては幸福なのではないだろうか。リピーターは、今日が続く限り不老不死。だけど考えてみれば、それはリピーター本人に限った話ではなく、その周囲にいる人間も、そうなのだ。ずっと、生き続けている。仮に死んだとしても、すぐに蘇る。『最愛』と呼べる相手がいる人間にとっては、この壊れた世界こそが、理想郷となるのではないだろうか。
「……だから……『教授』は『グループ』に参加なさらないんですね……」
「え? ああ、いえいえ、勘違いしてはいけませんよ。そんな、私のエゴで皆様のお手伝いを遠慮している訳ではありません。ただ単純に、力になれない、足を引っ張るだけと分かっているから、お誘いを退けているだけの話でして。それに――私だって、明日は来てほしいですしね」
「え!? だって、そしたら奥さんが――」
「癌と言うのは――痛いですから」
嗚呼。
「せめて、もう少し早い段階なら、多少はマシだったんでしょうが……。今の状況では、ねえ? 治療の見込みもなく、抗癌剤の副作用で、延命措置で苦しむ家内を見るのは……やはり、楽しいものではありませんから。ならば、いっそのこと、楽になってほしい――そう思ったことも、少なからず、あります」
最低だった。
最悪だった。
そのくらい、少し考えれば分かりそうなものなのに。ほんの少し想像力を働かせれば、見えてきそうなものなのに。
高校生だからとか。
馬鹿だからとか。
そんなの、何の言い訳にもならない。
そんなの、何の免罪符にもならない。
ただ、軽薄で無思慮で無神経な自分が、そこにいるだけだ。
「ああ、そんな顔をしないでください。私のために、そんな顔をしないでください。そのお気持ちだけで――充分ですから」
「だけど……だけど……」
「それにね――仮に、家内が元気だったとしても、それで、私が家内との永遠を望んだとしても――やはり、明日を得ようとする貴方がたを、私は応援したでしょうし」
「なんで……ですか……」
「だって――それは、私のエゴですから」
エゴイズム。
利己主義。
「私の都合に、世界のそれを付き合わせてはいけません。例えそれが家内のためでも……私が望んだのであれば、やはり、それは私のエゴです。そんなことのために、世界の形を変えるのは――許されませんよ」
悠一には、理解ができない。
それは、エゴになるのだろうか?
愛する人がいて、愛する人を想って、愛する人のために、世界の形を変えようとすることは――許されない、ことなのだろうか。
分からない。
分からない。
分からない。
「……少し、お喋りがすぎたかもしれませんね。小鳥遊君を、混乱させてしまった。申し訳ありません。そんなつもりはなかったのですが……」
「……やめてください。俺に――俺なんかに――そんな優しい言葉を、かけないでください……」
「そんなことを言ってはいけませんよ。自分を卑下するものではない。そんな風に、言ってはいけない」
『教授』の言葉が、心に触れる。
「今日は、楽しかったです。久しぶりに、貴方のような若い方とお喋りすることができた。毎回、本と家内だけを相手にしていたのでは、どうしたって老けてしまいますからね。時々『グループ』の方が顔を見せに来て下さるので、ずいぶんと救われてますが――」
「俺の方こそ……何か、すいませんでした」
「謝罪の言葉などいりませんよ。貴方は、何も悪いことをしていないのですから」
誰がこの人を『教授』などと呼び始めたのだろう。悠一なら、この人のことを『牧師』と呼称するのに。
「じゃあ――ありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそ、ですよ」
穏やかな笑顔に力を得て、悠一は顔を上げる。そろそろ、退去する頃合いだ。時間があれば、もっとこの人と話をしていたかったのだけど……。
「――私の言葉を、いつかどこかで思い出してください」
どこまでも穏やかな『教授』の言葉を背に受け、悠一はその場を後にしたのだった。
いつの間にか、織田が消えていた。
気を利かせたつもりだろうか。広い店内をうろつくこと、数分――奴の姿は、成人雑誌のコーナーにあった。真剣な顔でエロ漫画に見入っている。この野郎。この野郎。この野郎。
「……色々と、ぶち壊しですよ……」
「あ? ……ああ、終わったのか。どうだった、『教授』。いい人だったべ?」
「ええ。物凄くいい人でした。ちょっと感銘を受けたくらいです」
「そりゃよかった」
「何も言わずに姿を消さないでくださいよ」
「あん? ……ああ、悪いな。昔、あの人と色々あってさ、顔合わせづらいんだよな。向こうは何とも思ってねーみたいだけど」
「え? あの人と?」
あの温厚な老紳士の間に、何があったと言うのか。
「何を――」
「じゃ、次行くか」
だけど、質問をする暇も与えず、織田はさっさと歩き始めてしまう。本当に、この男は何なんだろう。そろそろ、悠一のキャパシティがパンクしそうだ。織田の背中を見ながら、悠一はふるふると首を振ったのだった。
【午前10時49分】
雨が、降っている。
知っている。
降り続いている。
知っている。
そしてこの雨が、午後一時頃にはやむことも――
知っている。
今日起こることは、だいたい知っている。分かっている。
小鳥遊悠一。リピーター。五月十三日を何度も何度も繰り返すタイムトリッパー。今日に留まり続ける限り、全ては既知の範囲内。
それなのに――どうして、今現在、自分が置かれている状況が分からないのだろう。
十一周目に入ってから今まで、様々な人物に会い、様々な事実を知り、様々な言葉に触れた。
そのほとんど全てが――未知のモノだった。
リピーターなのに。今日起こることは、全て既知でなければいけないのに。
何故だろう。
簡単だ。織田も『武器屋』も鷲津も『教授』も、皆、悠一と同じリピーターだったからだ。
リピーターのリピーターによるリピーターのための、壊れた世界。
自分は、どこに行こうとしているのだろう……。
雨脚が、少し強くなってきた。
悠一は二歩後ろに下がり、コンビニの外壁にもたれる。織田は今、店内で買い物の最中だ。一緒に何か買うか、と聞かれたが、食欲もないし特に欲しいものもなかったので――それより何より、少しでも一人になりたかったので、外で待つ方を選んだ。庇の下に隠れて、往来を行き来する車をボンヤリと眺める。
自分の頭で考えろ、か……。
気を抜くと、すぐに鷲津の言葉を思い出してしまう。未だに意味が分からない。彼は、悠一に何を言いたかったのだろう。或いは、その言葉でどういう方向に誘導したかったのだろう……。
考えろ、と言われても――まず、何について考えればいいかが、分からない。謎が多すぎる。違和感が多すぎる。この数周で情報は飛躍的に増えたが――それはもう、悠一の頭がパンクしそうな程に増えたのだけど――使うべき情報がどれなのか、取捨選択するだけの頭脳が、悠一には欠落している。
滝なゆたの事故死について。
『グループ』の本性について。
新城が何を考えているのか。
織田が何を考えているのか。
情報が多すぎて――情報が少なすぎて――分からない。
こんな時に、入江がいてくれたら。
迷うと、すぐに彼の顔を思い浮かべてしまう。
……ああ。
自分の頭で考えろ、か――案外、鷲津はそのことを言っていたのかもしれない。入江が悠一のブレインになっていることなど、『グループ』の人間が知る訳もないのだが、その想像は、なかなか愉快だった。いつまでも入江にばかり頼っていないで、自分の頭で、自分の思考で結論を出す――鷲津の真意はどうであれ、悠一は、そう解釈することにした。そうだ。そうなのだ。いつまでも、入江に頼ってばかりではいけない。信頼と甘えは違う。ちゃんと、自分の頭で考える癖をつけなければ。どうせ――この周は、入江に相談する時間などとれないのだろうし……。
「だーれだっ?」
突如として、視界が闇に遮られる。……これは、あれだろうか。アベックが――敢えて、ここは『アベック』と表現させてもらう――待ち合わせとかの際に、片方が背後からこっそり近付き、目隠ししてじゃれつくという、前世紀でよく見られた、あの光景なのだろうか。だとしたら、間違いが二つ。すでに二十一世紀になって十年近く経っているのが、一つ目。そしてもう一つは、目隠しをしている人物とされている人物が、『アベック』なんていう間柄から、もっとも遠い位置にいるということ。
「……どういうつもりですか。離して下さい」
「もう、ゆーゆーが答えてくれるまで離さないよお?」
気持ち悪い。
急になんだ、そのテンションは。
仕方がないから、乗ってやることにする。
「えっと……新城保さん?」
「……オメェは、ホント、的確に、言われたら一番厭なことを言ってくるよな」
新城の名を出した途端に、テンションが目に見えて急降下する織田。何て分かりやすい。
「すみません。わざとです――ぐぅっ!」
言葉の途中で喉仏を手刀で突かれる。ちょっとした軽口に対し、なんて過激な。
「オレをナメるなって、最初に言った筈だぞ? オレは、オメェと馴れ合うつもりなんてさらさらねェんだからな!」
そっちからやってきたくせに……とは、口が裂けても言えない。暴力はもうたくさんだ。
「――何を、買ってきたんですか?」
「あ? いや、ヨーグルトとか、飲み物とかだよ。次に向かう先への陣中見舞いってとこかな。あと……ほれ」
自分の財布から千円札を数枚抜き出し、悠一に突き出す。
「最初に借りた金だ。振り込まれてたから、ATMでおろしてきた」
「返して、くれるんですか……」
「当たり前だろ。オレは、約束は守る男だからな」
ということはつまり、『オレはオメェに危害を与えるつもりはない』という文言は、『約束』に該当しないということか。現に、今喉元にクリティカルな攻撃を受けたばかりだし。
「それと――ほれ」
コンビニの袋から、小さな瓶を取り出し、それを悠一に差し出す。何かと思えば、それはドリンク剤だった。それも、一本三百円くらいで売られている、少し高めのヤツ。
「疲れたべ。これ飲んでリフレッシュしろよ」
「ドリンクっすか……何か、オヤジ臭いっすね……」
「誰がオヤジだ! 誰が! テメー、同じ干支だからって、馬鹿にすんなよ!?」
織田は悠一と同じ酉年らしい。と言うことは、今年で二十九か。……にしては、随分と若く見える。子供っぽい、というべきか。
「え、いや! 誰も織田さんがオヤジだなんて、一言も言ってないっすよ!? 誤解です!」
「九十年代生まれが調子乗りやがって――平成生まれなんざ、全員死ねばいいんだよ!」
いや、それだと日本滅亡するから……。
何だか分からないが、妙な地雷を持つ男だ。と言うか、織田も、俗に言うところの『アラサー(Around30)』なのだから、歳相応の落ち着きを持つべきではないだろうか。もちろん、そんなこと、口が裂けても舌が裂けても喉が裂けても言えないのだけれど。
「次は、どんな人が待ってるんですか?」
タクシー内にて、探りを入れておく悠一。まず間違いなく次に会うのもリピーターなのだろうけど――問題は、どのような個性を持つ人物かということで。
『武器屋』は、アル中でマゾで死体愛好者の、変態だった。
鷲津は仕事熱心な常識人だったが偏屈な頑固親父だった。
『教授』は温厚な人格者だったが、辛い境遇を抱えていた。
織田は、いつも肝心なことを言ってくれない。ならば、こちらから聞くだけだ。知っているのと知らないのとでは、心構えが変わってくる。新城が言うところの、『既知のアドバンテージ』というやつだろうか。
「次に会うのは二人組で、両方とも『グループ』のメンバーだ。一人は大学院生で、もう一人は女子高生。ま、オメェと同じ世代って訳だな」
ここに来て、ぐっと若返る。しかも今度は男女の二人組か。
「大学院生――コイツは並木慎次っつーんだけど、そいつは、まあ、なんつーか……とにかく周りに無関心な奴で、ずーっとパソコンばっかやってる。もう一人の女子高生――こっちは麦原司ってんだけど、こっちはこっちで、日がな一日、本ばっか読んでる。ま、究極のインドアカップルだな」
「恋人同士なんですか?」
「え? ああ、いや……カップルってのは、ほら、言葉のアヤってやつだ。要するに、あれだって。コンビだ、コンビ」
露骨に怪しかったが、今は追求しないでおく。
「でも、その二人って『グループ』のメンバーなんですよね? どんな仕事してるんですか?」
「行けば分かる」
またそれか。
「……あと、オメェ……気を付けろよ。言葉選んで話さないと……痛い目見るかもしンねーからな」
恐らくそれは、織田が初めて悠一に与える忠告で。いつも肝心なことをぼかす、この男にしては珍しい。
インドアのくせに、武闘派なのだろうか。今までの経験上、油断して近付くことは決してないのだが……せいぜい、肝に銘じておくとしよう。




