表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/24

幕間 筒井美智代の嘔吐

【午後9時40分】

 分かっている筈だった。

 慣れている筈だった。

 嫌われるのも、

 避けられるのも、

 拒絶されるのも、

 ――今まで、そんなことは何度もあった。 

 だから、小鳥遊悠一に逃げられたところで、そんなの、別に気に病むようなことでは、ない筈だった。

 それなのに。


 美智代は藍土駅前の公園、その一番奥に位置する東屋にて、柄にもなく溜息を吐いていた。脇に置いたビニール袋から、先程購入した弁当を取り出す。スタミナカルビ弁当。……何て、似合わない。ガリガリのくせに、スタミナも何もあったものか。

 ――痩せてればいいってもんじゃないよ。

 そう言って去っていったのは、何番目の男だっただろうか。大して昔のことでもないのに、全く思い出せない。冷たいからではない。一般人にとっての五月十二日は一日前の出来事だが、今日を6976周してる美智代にしてみれば、五月十二日というのは十九年以上も前の出来事に相当するのだ。今や、彼女の海馬は五月十三日のことで占領されていた。昔のことなんて、どうでもいい。

 弁当のビニールを剥がし、割り箸を割って弁当を掻き込む。……あまり、美味しいとは言えなかった。肉が固い。安っぽい脂は粘っこく、喉に引っ掛かる。冷えた飯も肉と同様に固く、タレと混じり合わない。せめて温めてもらうべきだったか……などと、今になって後悔する。だけど、マズいならマズいで構わない。関係ない。だったら無心で掻き込むだけだ。口を弁当容器につけるという、やや下品な食べ方で、数分とかけずに弁当を空にし、ペットボトルのウーロン茶で全てを流し込む。続いて、フランクフルトを取り出し、ガツガツと貪る。味は可もなく不可もなく。ウーロン茶で舌を洗い流し、数個のおにぎりに取りかかる。おかか、紅鮭、ツナマヨ、昆布、明太子――途中でウーロン茶が切れてしまったために、新しくスポーツドリンクのペットボトルを取り出し、音を立ててそれを流し込む。


 ……うまくいかない。

 何もかもが、うまくいかない。

 いや、今までの人生で、何かうまくいった試しがあっただろうか。

 ある訳がない。

 こんな、厭な人間に。

 口を開けば嘘しか吐けないようなこんな人間に、どんないいことがあると言うのだろう。ある訳がない。

 当然の報いだ。

 いつだって、不満だった。

 いつだって、不安だった。

 言葉を重ねて親の愛情を獲得した。

 言葉を重ねて同級生の信用を得た。

 言葉を重ねて意中の男を射止めた。

 言葉を重ねて生徒の人気を集めた。


 言葉は、武器だった。


 自分をよく見せた。

 責任を回避した。

 情報を操作した。

 誰かを貶めた。

 取り込んで利用した。

 全てに対して優位に立った。

 

 自己愛を、守った。


 全部――嘘だった。

 家族に嘘を吐いた。 

 友達に嘘を吐いた。

 恋人に嘘を吐いた。

 生徒に嘘を吐いた。

 自分に嘘を吐いた。

 厭な――人間だった。

 厭な子供で、厭な女で、厭な先生だった。

 言葉は美智代の武器だったけど――驚くほど、無力だった。

 真実を語らないから、いつだって行き詰まる。

 伝えないから――伝わらない。

 全部全部全部全部、自業自得。

 精神のバランスを崩したのだって、全ては、自己責任。

 誰のせいでもない。全ては、自分のせい。

 分かっている筈だった。

 慣れている筈だった。

 どうやら、悠一に無視されたのが、相当に堪えているらしい。

 全く――どうしたことだろう。

 こんなの、全然自分らしくない。

 割り切っていると思っていた筈だったのに。

 全ては処世術、この世を生きるためのテクニックだと、そう自覚していた筈だったのに。それがまさか、ターゲットに逃げられたくらいで落ち込むなんて……まるで、自分らしくない。

 もっと、しっかりしないといけないのに。

 ここが、正念場なのに――。


 コンビニの袋からサンドイッチを取り出し、齧り付く。メロンパン、蒸しパン、クリームパンを取り出し、ムシャムシャと食していく。咀嚼、嚥下、咀嚼、嚥下……途中、何度かスポーツドリンクで全てを流し込む。

 ……さすがに、苦しくなってきた。

 東屋のベンチに座る自分の姿が、水銀灯に照らされている。

 ガリガリに痩せた脚、腰、腕、胸。腹だけが、肋の下からせり出している。何て、醜いんだろう。まるで妖怪の『餓鬼』みたい。よろよろと立ち上がり、すぐ近くにある公衆便所に駆け込む。

 個室の和室便所――トイレットペーパーを大量に巻き取り、便器に敷き詰める。跳ね返りを防ぐためだ。正面の壁に左手をつき、右手人差し指を喉の奥に引っかけて刺激し――全てを、嘔吐する。

 ガボガボと、今まで食べたものが音を立てて食道を逆流していく。パンもサンドイッチもおにぎりもフランクフルトもスタミナカルビ弁当も、全てが和式便所に戻されていく。指を差し込むたびに、背中がビクン、ビクン、と震える。胃の内容物を全て吐き出すと同時に、過剰に分泌された胃液が糸を引いて便器に落ちていく。ゼエゼエと、息切れがする。

 涙が、頬を伝う。

 レバーを下げ、大量の嘔吐物を流す。トイレットペーパーで便器の周りを拭い、また水で流す。手洗い場で手を洗い、口をゆすぐ。顔を洗い――目の前の鏡を見る。ひどい顔だった。メイクはボロボロ、顔は蒼白、目は充血していて、見るに堪えない。


 だけど、これが、本当の自分なのだ。


 本格的におかしくなったのは、確か思春期を迎えた辺りだから――すでに、十年以上経つのだろうか。リピート期間も含めれば、三十年を超える計算になる。

 美智代は、まともに栄養摂取のできない躰になっていた。

 食べても、すぐに戻してしまう。胃に何か貯まってるという状態が、もう駄目なのだ。気持ち悪くて耐えられない。

 かと思うと、定期的にバカ喰いをしてしまったりする。コンビニやスーパーで手当たり次第に食べ物を買ってきて、ムシャムシャと食べ散らかし――それで、全て戻してしまう。だから、決して太らない。当たり前だ。ほとんど栄養摂取できてないのだから。

 立派な病気だった。

 周囲に明かしたことなどない。だから、治療もカウンセリングも受けていない。放っておけばよくなるだろうと楽観視して――結局、今に至る。ガリガリに痩せた自分の躰を見て「拒食症なんじゃないのー?」と悪意たっぷりに言われたことは何度かあるが、その度に適当な言葉を重ねて凌いできた。誰にも相談などしない。相談など、無駄だ。苦痛でしかない。なら、しない方がいい。虚偽の言葉を重ねて、嘘を吐いて相手を操る方が、自分にとっては格段に楽なのだ。楽な方へ、楽な方へ、怠惰に卑怯に臆病に今まで生きてきて――

 リピートは、そんな時に起こった。

 最初、どうすればいいか分からなかった。しばらく経てば収まると思っていたのに、どうやらこの現象に終わりなどないらしく――十回、百回、今日を繰り返しても、出口など見えなかった。

 絶望した。

 自分には、永遠を埋める術など持たない。嘘を吐いて人と接し、嘘を利用して人を操ることに生き甲斐を見ていたような――厭な人間なのだ。同じ言動しか取らない人々相手に、どうやって時間を潰していけばいいと言うのか。或いは、完璧に自分のテリトリーに閉じ籠もり、自分の世界だけで生きていけばよかったのだろうか。だけど、自分にはそんなの、耐えられない。来る日も来る日も、食べて吐いて食べて吐いての日々なんて、地獄と変わりない。

 そんな時に現れたのが、彼だった。

 彼も、美智代と同じリピーターだった。「一緒に、この世界を打ち破ろう」と、彼は言ってくれた。

 光に見えた。

 救世主に見えた。

 それ以来、美智代は彼に従い、彼のために、彼の創設した『グループ』のために、永遠の今日を生きている。『グループ』幹部、交渉・説得役のリーダーとして、生きることを決めたのだ……。


「君も、難儀な性分だねえ」


 トイレを出たところで件の人物に声をかけられ、僅かに狼狽してしまう。東屋に一人座り、ブラックの缶コーヒーを口にしている。いつものこととは言え――神出鬼没な人だ。

 ボロボロの自分を見られたくなくて。思わず顔を逸らす。ベンチに座る新城の後ろ三メートルくらいの場所で、慌てて呼吸を整える。

「……いつから、いらっしゃったんですか?」

「君がトイレに駆け込むくらい、かな」

「なんで……」

「そりゃ、あんな報告を受ければ心配もするさ。君は、普段強がってはいるが、繊細な人間だ。小鳥遊悠一に逃げられて落ち込んで、また険しい顔をしてヤケ食いでもしてるんじゃないかと思って来てみれば――案の定という訳だ。上司としては、フォローの一つでもしておきたくなるだろう?」

 飄々と、いとも軽い調子でそう語る新城。落ち込んでいる美智代を気遣って、敢えて軽い口調にしているのだろう。

 だけど、極限まで沈んだ美智代の心は、なかなか浮上しない。新城の姿を見ても、頑なに底辺を這いずり回っている。

「……私のは、病気です。『ヤケ食い』なんてレベルを完璧に逸脱しています。……最低ですよね。勝手に失敗して勝手に落ち込んで、それで新城さんにまで心配かけて――ホント、最低です」

 ……何を言っているのだろう。

 何を、甘えているのだろう。

 この後、新城が何を言うか、何を言ってくれるか、分かっていて言葉を選んでいる。計算して、敢えて自嘲気味な自分を演じている。そうして、目の前の男に依存しているのだ。いい年をして小娘根性の抜けない自分に、心底反吐が出る。


「――まともではいられないさ」


 新城の言葉が夜の帳に霧散していく。

 慰めるでも励ますでもなく、嘲るでも見下すでもなく、叱るでも怒るでも、そして呆れるでも突き放すでもない――どこまでもフラット、どこまでもニュートラルな、その口調。

「何も気にすることはない。何も、気に病むことはない。元々はどうだった知らないが、この世界においては、君は必要な存在なんだ。

 少なくとも、私にとっては必要な女性だ。

 堂々と、振る舞っていればいいんだよ」

 ……なんで。

 何でこの人は。

 この状況で、このタイミングで、そんな自然に、そんな台詞を口にするんだろう。何だか、卑怯だ。

 新城の言葉でほんの少し救われるが――だけど、話はそれでは済まされない。筒井美智代としては、それでもいい。だけど、自分は『グループ』幹部だ。小鳥遊悠一の交渉役として、責任ある立場の人間なのだ。それなのに――こんな、失態を。

「……で、でも、私は彼に――小鳥遊悠一に逃げられて……」

「それも想定の範囲内さ。こうなったらこうなったで、次の手は考えてある」

「想定の範囲内って――彼が、私から逃げることを、ですか?」

「君からではない。『グループ』から、だ。それに、彼とて我々から本気で逃げられると考えている訳ではないだろう。リピートすれば居場所は戻されてしまう。逃走は物理的に不可能だ。我々に警戒されるくらいなら、信用した振りをして行動を共にした方が賢明で――その程度のことは、彼だって分かっている筈なんだよ」

「じゃあ、何で――何で、彼は約束の場所に現れなかったんですか? 携帯の電源まで切って……」

「きっと……出方を窺っているんじゃないかな? 君との約束をすっぽかして、それで我々がどういう行動に出るのか――その出方如何で、『グループ』の本性を見抜こうとしているのかもしれない」

「そんな……」

 前周までは――否、今朝までは、訝しげな顔をしながらも、それでも『グループ』に心を開きかけていたというのに――それなのに――。

「きっと、心変わりがあったんだろうね。より正確に言うなら、心変わりを促すような、何かがあったんだろう」

 ――あ。

 そうか……。

 やっと、気付いた。

 今日の美智代は、どこまでも美智代らしくない。普段の自分なら、この程度のこと、簡単に見抜けた筈だったのに。


「そう――つまりは、そういうことだ」


 新城が、美智代が、そして『グループ』のメンバーが、ここまでやって来た理由が、そこにある。数少ない人員を割いて、他の仕事を縮小、あるいは停止させて、小鳥遊悠一にかかり切りになった結果が、ようやく実を結んだと言う訳だ。

「正直言えば、もっと後になってからだと思っていたんだ。もっとゆっくりと時間をかけて、その上で、信頼関係をより強固なモノにしていこうと、私は考えていた。それなのに、我々と接触してからたった二十四時間足らずでこんなことになるなんて――とんだ急展開だね。全く、先が読めないよ。

 捲った札は――常に違うと言う訳だ。

 だからこそ、面白いのだろうけどね……」

 俯き、一人でブツブツと呟いている。どう考えても、今の言葉は美智代に向けられたものではない。どうしたのかと見てみれば、新城はベンチに向かって何やら手を動かしている。

 そっと近付き、後ろから覗き込む。

 ベンチの上には、数枚のタロットカードが広げられていた。

「……さっきから、何しているんです?」

「花札でもしているように見えるかい?」

「いや、そういうのいいですから。新城さん占いに興味あるんですか――って、そうでもないようですね」

 ベンチに広がるカード群は、向きも配列もぐちゃぐちゃで、これではまるで意味を成さない。占う気があるのかどうかも疑わしい。

「カードの配列がまるでデタラメじゃないですか。それじゃ何も分かりませんよ。二枚でも三枚でも六角形でもいいですけど、ちゃんと、過去と未来、原因と対策が分かるよう、対応する形で置いていかないと。ワンオラクルって言って、一枚捲る方法でもいいんですけど――いずれにせよ、そんな出し方じゃあ、どんな結論も導けません」

「……こちらが言葉を挟む暇さえ与えないねえ」

 カードを捲る手を止め、わざとらしい微苦笑を漏らす新城。

「君がタロット占いに詳しいとは知らなかったよ……」

「あら、タロットだけではありませんよ? 姓名判断から星座占いに至るまで、その類のモノにはある程度精通しているという、自負があります」

「ほう。君と占いとは――また、ミスマッチな組み合わせだねえ」

「占いに興味のない女性などいませんから」

 嘘では、ない。

 いや、百パーセント真実かと言われれば、それは確かに首を傾げざるを得ないのだが……それでも、占いというツールは、確実に使えるのだ。『占い』という、一種神秘的なシステムを借りて、美智代は相手の心に入り込む。相手の心身を、掌握する。これが、案外馬鹿にできない。占いというものは、ホットリーディングとコールドリーディングを併用して相手の情報を開示し、心を開いて更なる情報を引き出すという点に、肝がある訳で――説得・交渉にはもってこいという訳だ。

 美智代自身は、占いの類など一切信用していないのだけれど。


「いや、私は別に、タロット占いをしていた訳でないのだよ? 正直、私はアルカナの種類と意味を知っているにすぎないレベルでね、占いの作法など、殆ど知らないに等しい」

「じゃあ、何をしていたんですか」

 ベンチに広げられたカードは『愚者』、『魔術師』、『法王』、『節制』の四枚――だが、前述の通り、向きも配列もバラバラなので、このままでは何の意味も見いだせない。

「カードを使って――この先どうするべきか、その方向性を、占っていただけさ」

「……何を仰ってるのか、さっぱり分かりません」

「だろうね。まあ、来るべき時が来たら、君にもその意味を教えよう。今は、知らなくていい」

 そう言われてしまっては、これ以上聞く訳にもいかない。例え聞いたところで、はぐらかされるのがオチだ。今は、この話題は流しておくのが賢明だろう。

「それで、今後の展望は決まったんですか? さっき、次の手は考えてあると仰ってましたけど……?」

 新城の台詞を受ける形で、半ば無理矢理に話を元に戻す。

「ううん、そうだねえ……。もっと手順を踏んでからと思って、まだ誰にも話してなかったんだが――そうも言ってられないようだねえ」

 点を仰ぎ、細い目を更に細める新城。

「向こうが責めの一手を指してくるのなら、それに応えるまでだ。いつまでも守りに徹していたのでは、いつか打ち負かされてしまう。新たな一手を――打つことにしよう」

 カードの束から、パサリと――任意の一枚が場に放り出される。

 アルカナは、『戦車』。

 新城の口調はどこまでもフラットだが、その言葉からは、僅かばかりの決意が滲み出ていて。

「具体的には、どういう?」

織田(おだ)君に――出番を、与えようと思う」

 織田広樹(ひろき)

 あの男を――あの、壊れた人間を。

「敢えて、ですか?」

「敢えて、だね。クセが強いのは確かだが、強大な駒であることは確かだ。織田広樹という駒に突撃されて――果たして、どんな反応に出るか。面白い試みだと思わないかい?」

 この期に及んで面白さを追求されても。

「正直言うと――少し、不安です。あの人に任せて、本当に大丈夫ですか?」

「君は、織田君を信用してないのか?」

「いえ、あの人は完璧に荒事(あらごと)専門だし……交渉役として、機能するかどうか……」

「誰も、彼に交渉などさせるつもりはないよ。ただの案内役だ。次周の一日を使って、小鳥遊悠一をせいぜい振り回してもらう。織田君は狂犬だが――それと同時に、忠犬でもある。私の指示はきっちりと守る。ああ見えて、どんな仕事を与えても、そつなくこなせるだけの能力はあるんだよ。……やれば、できる男なんだ」

 そんな定型句を、ここで出されても。

 そりゃ、美智代にしたって、織田広樹の能力を軽んじている訳ではない。頭は悪いが、初代メンバーだけあって、仕事はそこそこできる。頭は悪いが、それでも人並み以上のコミュニケーション能力は持っているし、調査能力などはかなり高い。頭は悪いが――それでも、『幹部』という看板は伊達ではないのだと思う。

 ただ、事態は正念場なのだ。小鳥遊悠一は、今の『グループ』にとって最優先事項であって――その彼は『グループ』に対して猜疑心を抱いている状態で――そんな大事な任務が、果たしてあの男に務まるのか……?

「筒井君の危惧ももっともだと思うよ。そしてそれは、恐らく的を射ている。織田君は、きっと、何かをやらかす」

「では何故――」

「勘違いしてはいけない。こちらは、端から最善手など指すつもりはないのだよ? チェックメイトなど狙っていない。狙っているのは――ステイルメイトだ」

 キングがチェックされている訳でもないのに、次に差す手がなくなってしまう――事実上の引き分け。チェスに疎い美智代も、そのくらいのことは知っている。新城が言いたいことは、今ひとつ分からないが。

「今は分からなくてもいいさ。戦略は私が立てる。君たちは、ただ私を信用してくれればいい。とにかく今は、速やかに実行に移ることが先決だ」

 結局は、新城に委ねるしかないのだろう。

 彼が立ち上げた、そして人員を集めた、この『グループ』の幹部として――美智代は、出来る限りのことはするつもりでいる。

 腕時計を見た。

「……リピートまで、あと二時間弱です」

「すぐに織田君に連絡を。あと――鷲津さんにも連絡をとっておく必要があるね。竹崎(たけざき)宗也(そうや)の動向は、どうなってる?」

「予定では、あと二周、ということになっていますが」

「……先延ばしの必要がなくなった、という訳か。まあいいとしよう。すぐに織田君を呼び出してくれ。自分が必要とされていると知れば、きっと尻尾を振って出てくることだろう。詳しい流れは、彼が来てから話す」

 新城の言葉の途中で、すでに美智代は携帯を打ち出していた。忙しくなってきた。下らないことで悩んでいる暇などないようだ。

 携帯に向かう美智代の横で、新城は別のカードを手に取り、星空に透かすようにして、眼前に掲げている。

 そのカードが何なのかは、美智代の角度からは分からない。

 新城が何を考えているのかも――美智代には、分からない。

 ――本当に、退屈しないな……。

 切迫した状況だと言うのに、不謹慎にも美智代はそんなことを想ってしまうのだった。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ