第二幕 第六章(前半)
第六章は長いので前後半に分けます。
5、6、7、8、9
【午前10時15分】
何だか、全てが馬鹿らしくなってしまった。
どれだけ悩んでも、
どれだけ頑張っても、
どれだけ走り回っても、
それで完璧に近い結果を出しても――
全ては、元通り。
リセット、
リピート、
リプレイ、
リフレイン。
――いつ果てるとも知れぬループ地獄。
結局、何をしても無駄なのか。
何をしても、何もしなくても、繰り返してしまうのか。
自分は、もう二度と『五月十三日』という檻から出られないのか。考えれば考えるほど、脱力していく。虚無感が増していく。本気で――全てが――どうでもよくなっていく。
本当なら、ずっとベッドで寝ていたかった。五周目の今日はあまりに無気力で、もはや何をする気にもならない。当たり前だ。何をしても結局はやり直しを強制されるのだ。まるで、『あがり』のない双六だ。しかも、本来『あがり』のある場所に『ふりだしに戻る』が配置されているのだ。そんな欠陥双六を前に、サイコロを降る人間がどれだけいるだろう? 少なくとも、悠一はそこには含まれない。自分はそこまで愚かではないし――強くも、ない。
無気力に惰眠を貪りたかった悠一ではあるが、親の目もあるし、そんなことが許される筈もない。半ば追い出されるようにして家を出る。駅に着き、そのまま来た電車に乗り――学校最寄りの藍土駅に到着する。
とても、学校に行く気にはなれなかった。
学校に行けば、否応なしにいつもの光景が待ち受けている。入江や美那と同じ会話を繰り返し――同じテストを受けて――悠一が何もしなければ、美那は松本に振られてしまうのだろう。
彼女は、泣くのだろう。
だけど、今の悠一にはもう、どうでもよかった。
――そう言えば、今日は普通に電車がやってきた。つまり、紫苑駅での人身事故は起きなかった、ということだ。滝なゆたは助かったのだろうか。携帯で確認することもできるのだけど――勿論、そんなことはしない。彼女が死のうが助かろうが、それすら――
今の悠一には、どうでもいいことなのだ。
そう、全ては無意味なのだ。
何をしても、結局は繰り返されてしまうのだ。だったら、今日頑張ることはない。永遠に繰り返されるのであれば、永遠に頑張ることはない。
やり直すことができる――と言えば、ポジティブになれる。
やり直させられてしまう――と言えば、どうしてもネガティブにしかならない。
今の悠一は、完璧に後者だ。
努力も、試行錯誤も、全ては無駄になる運命にある。
だったら――最初から、何もしない方がマシだ。
今の悠一には――本当に、全てがどうでもよかったのだ。
雨が降っている。
知っている。
分かっている。
この雨が午後一時過ぎにあがることも、キレイな虹がかかることも、悠一は知っている。だから、あと数時間は雨が降り続けることも、当然分かっている。
なのに、何故自分はここにいるのだろう。
雨の公園。
藍土駅前にある、大きくも小さくもない、特にこれといった特色もない『普通』の公園。その奥まった場所に、悠一は一人、傘を差して佇んでいた。意味はない。目的はない。何もする気にならなくて――何もすることがなくて――家にもいられない、学校にも行けないで、仕方なく流れ着いたのが、この公園だっただけの話だ。
自分は、何をしているのだろう。
自分は、何のために存在しているのだろう。
自分は、どこにいこうとしているのだろう。
自分は、どうなってしまうのだろう。
自分は、どうなってしまったのだろう。
取り留めのない疑問が次から次へと湧いては、明確な答えもないままに、霧のように消えていく。自分も、霧のように消えてしまえばいいと思う。
もう、どうすればいいか分からない。
その場に立っているのが辛くて、当てもなく公園をふらついてみる。公園の一番奥、公衆便所の脇の東屋に、人影が見える。こんな大雨の中、それも真っ昼間に人がいるなんて――意外に思って近付いてみる。
不審人物が、そこにいた。
上等そうなスーツを身に纏った、細目の――何となく狐を連想される男だ。色白で、鼻が高く、男前に見えないこともない――が、どことなく、発している雰囲気が異常だ。大雨の公園、その奥の東屋で、細長い脚を組んで、一心不乱に携帯メールを打っている。服装や所作だけを見ればエリート官僚に見えなくもないのだけど……とにかく、怪しい。一瞬、目が合ったのだけど、即座に携帯に視線を戻されてしまう。何者だ。こんなとこで何をやってるんだ。
――関わらない方がいいな。
もしかしたらヤバい人間なのかもしれない。いくら何もすることがないとは言え、進んで危険に飛び込む程、悠一も愚かではない。慌てて踵を返し、公園を後にした。
【午後4時30分】
それからの悠一は、やることもなく、当てもなく、街を漂っていた。途中、ゲーセンで時間を潰した。こんなにも長時間アーケードゲームに興じるなんて、生まれて初めてだ。クイズゲームに千円以上注ぎ込んだり、クレーンゲームで特大のうまい棒を獲得したり――それなりに楽しんだけど、すぐに飽きてしまった。ゲーセンを出た悠一はその隣にあった漫画喫茶(ネットカフェと言った方がいいのだろうか)で時間を潰すことにした。そこで、カルト的人気を誇る大河漫画の一気読みを敢行する。途中、何度も休憩を挟みながら、数時間かけて数十巻もの物語を一気に読み進めていく。
……だけど、かなり読み進めたところで、読むのをやめてしまった。ある敵キャラの能力が、大雑把に言うと『自分の正体がバレそうになると問答無用で時間を戻す』というもので、読んでて何だか気分が悪くなってしまったからだ。
確かに、自分の任意で時間を戻せるのなら――全てをなかったことにできるのなら――そんなに便利な力もないだろう。
だけど、失敗も成功も関係なく、理由も分からずに時間を戻されてしまう、こちらの身にもなってほしい。
――ひどく、テンションが下がった。
読んだ本を棚に戻し、カウンターで会計を済ませる。さっきのゲーセンで浪費した分と合わせて、ひどく浪費してしまった。財布はほとんど空の状態だ。別に、どうでもいいのだけどれど。
家に帰った後は、無断欠席を咎める親の追及をスルーして(どうやら学校から家に電話が入ったらしい)、ただひたすら部屋のベッドで横になっていた。夕食さえとらず、ひたすら部屋に引き籠もる。途中何度か姉の声がしたので、どうやら滝なゆたの通夜は行われなかったらしい。別に、どうでもいいのだけど。
全て、どうでもいいのだけれど。
永遠にも思える時間が過ぎて――今日が、終わる。
【午前6時30分】
ベルが鳴る。
また朝が来る。
五月十三日がやって来る。
無気力になって自暴自棄になった途端に時間が動き出す――というオチを、少し――ほんの少しだけ――期待したのだけど、どうやらそれも無駄に終わったらしい。
何があろうが、何をしようが、徹底的に今日は繰り返されるらしい。
本当に――馬鹿らしい。
その日は公園に寄ることもなく、まっすぐにゲーセンに向かった。飽きるまで遊び続け、飽きたところで漫画喫茶に移り、色々な漫画を読破。夕方に家に帰り、親の追及から逃れ、部屋に引きこもり、ベッドで寝続ける。
そして、今日が終わる。
次の日も。
次の日も。
その次の日も。
空っぽの心を抱えて、空っぽの頭を抱えて、無駄に、無下に、贅沢に、時間を消費していく。
ゲーセンで全ての財産を使い果たす。
満喫で、棚の端から端まで読破する。
一人、カラオケで五時間続けて熱唱。
マックでビッグマックを五個食べる。
ケンタで、チキンを八ピース食べる。
すき家でメガ牛丼を二杯も完食する。
ミスドでフレンチクルーラーばかり一〇個完食する。
時間が戻るのをいいことに、リセットされるのをいいことに、やりたい放題。
そう、全てはリセットされるのだ。
浪費した金銭も、膨らんだ胃袋も、摂取したカロリーも、消耗した体力も、かいた恥も――全ては元通り。何一つ、蓄積されない。何一つとして、繰り越されることはない。
やりたい放題。
全てが、自由。
ただ、記憶だけが、経験だけが、情報だけが、蓄積されていく。
そうして、慣れていく。
そうして、飽きていく。
繰り返し――繰り返し――この『壊れた世界』に対応し、順応し、楽しみを覚えたのも束の間で――あっという間に、為すべきことを失っていく。
自分は、自分を失っていく。
【午後0時30分】
――俺は、何がしたいんだろう……。
気が付くと、悠一は一人、マックで佇んでいた。頼んだのは、一番安いセット商品。ボリュームの高い商品をバカ喰いするのは、もうやめた。気持ち悪くなるだけで、何もいいことなどない。無意味で、無意義で、無駄な行為だ。
だけど――だったら、自分はどうしたらいい?
何をするべきだ?
何を為すべきだ?
誰か、しなきゃいけないことをください。
自由だと感じていたのも束の間――悠一は、再び袋小路に迷い込んでいた。
「……あれ、小鳥遊?」
ボンヤリと虹を眺めていた悠一の背後から、聞き慣れた声が言葉をかける。反射的に振り向いた先には――見慣れた、赤縁眼鏡の親友の姿。
「――入江……」
迂闊だった。
この時間に入江がマックに来ることは、知っていたのに。分かっていた、筈なのに。
「お前、こんなトコで何してんだよッ! 学校も無断欠席して……今日がテスト初日だってことは、知ってたよね!?」
「そりゃ……まぁ……」
「何だよ、ずっと心配してたんだぞっ! テストが厭になって、どこかに失踪しちゃったんじゃないかって……分かってるのか!?」
温厚な入江が、珍しく激昂している。それはそうだろう。悠一は、それだけのことをしたのだ。全てに飽きて、全てに絶望して、街を彷徨って刹那的な遊びに興じて――その結果が、これだ。
――最悪だ、俺……。
自己嫌悪に拍車がかかる。確かに、今日が終われば、全てはリセットされて、なかったことになる。だけど、それで皆に心配かけて、迷惑かけていいという理屈にはならない。そんな当たり前のことも分からなくなっていたなんて……。
「どうした? 何かあった? 小鳥遊、どれだけテストできなくてもさ――こんな風に、急にいなくなっちゃたりすることなんて、今までなかったじゃん。僕でよければ、相談に乗るよ?」
柔らかな声で、温かな言葉で、入江が語りかけてくる。
嗚呼、コイツに全てを話せてしまえば、どれだけ楽になるだろう。
「……それとも、僕にも話せないようなこと? もしかして、ヤバいことに巻き込まれちゃったりしてる? だったら、尚更自分一人で背負い込んでちゃダメだよっ! 親なり学校なり警察なり、しかるべき場所に相談しなきゃ!」
何だか、勝手に妄想して勝手に暴走してくれている。
「ああ、いや、そういうことじゃないって言うか――ある意味、そういうことなんだけど……大人に相談してどうにかなる問題じゃないって言うか……」
「何言ってんだよ!? 全然意味が分からないよっ!」
それはそうだろう。自分でも、今の説明はひどかったと思う。
だけど、本当のことを話す訳にもいかない。
いくら相手が入江でも――信じる信じない、という問題ではない。信じてくれないならそれはそれで仕方ないし、信じてくれたなら儲けモノだ。博識で頭が柔らかく、そして誰より優しい入江ならば、さぞ親身になって相談に乗ってくれるのだろう。
だけど、問題はそんなところにあるのではなくて。
「……やっぱり、駄目かな。僕じゃ、信用できない?」
嗚呼。
違う。
違うのだ。
「どうせ――お前は、忘れてしまうから」
「はァ? 何言ってンの? 親友の一大事を、僕が忘れたりする訳ないじゃん! いくら小鳥遊でも怒るよ!?」
「そうじゃない……そうじゃねェんだよ……」
言えば言うほど、言葉を紡げば紡ぐほど、誤解は膨らんでいく。入江のことは、能力的にも人格的にも信頼している。ほとんど唯一無二と言ってしまってもいいくらいに――精神的に、依存している。
だけど、だけれど。
それでも、入江に話す訳にはいかないのだ。どうせここで入江に相談しても――仮に悠一の話を信用してくれたとしても――さらに、それで何らかの力になってくれる、と断言してくれたとしても――今日が終われば、全てなかったことになってしまうのだ。
リセットされた明日の入江は、『話を聞いてない』状況で存在している。そんな入江を、リセットされていない悠一は見ることになる。
そんなの――きっと、耐えられない。
「……そんなに長い付き合いじゃないけど……僕は小鳥遊のこと、本当の親友だと思ってたし、その親友が何らかのトラブルに巻き込まれているなら、微力ながら力になるつもりでいた。
……だけど、小鳥遊の方は、そうじゃなかったのかな?
話をしてくれるだけでも――楽になれると思うんだけど?」
胸が締め付けられる。入江は、本気で悠一のことを心配してくれている。今まさに、彼は自分に手を差し伸べてくれているのだ。
それを、振り払う気なのか。
入江に話したところで、事態が好転すると考える程、自分も楽天家ではない。そんな希望を抱く段階はとうにすぎている。
――だけど――だけれど――
入江を振り払ったところで、向かう場所などないのだ。展望など、何も見えていない。彷徨って遊んで飽きて、また彷徨って――永遠に続く今に絶望するだけ。ならば、何らかのアクションを起こすべきではないのか?
話をするくらい、なら。
それで、今の入江が満足するのなら。
それで、これからの悠一が救われるのなら。
決して、無駄ではないのかもしれない。
「分かった……話す」
軽く息を吐き、口火を切る。鏡がないから分からないけれど、きっと、今の自分は、これまでで一番真剣な表情をしている。
「ありがとう。嬉しいよ」
「ただし――入江。これは本当の話だ。俺の身にあった出来事を真剣に話す。ネタや冗談なんかじゃない。とても信じられないかもしれねェけど、笑わないで聞いてほしい」
「前振りはいいって。そんな顔してネタ話披露するほど、お前も空気読めない奴じゃないだろうし」
その言葉を聞いただけで、安堵してしまう。数秒前まで本気で悩んでいたというのに、現金なモノだ。
そして、悠一は話した。
何度も繰り返される一日のこと。
朝の六時半から夜十二時まで、何度も何度も繰り返されるループ地獄。何故かそのことを認識してるのは悠一だけで、周囲の人間は何度も何度も同じ言動を繰り返す。また、繰り越されるのは悠一の記憶のみで、持ち物や衣服はもちろん、消耗した体力も、浪費した金も、傷も、罪も、成功も失敗も獲得も損失も――死ですら――全ては、リセットされる。強制的に、プラスマイナスゼロの状態に戻されてしまう。
原因は不明。
理由も不明。
この世界には『元からある形』があるらしく、悠一が違う言動をとらない限り、世界の全てはその『形』に準じた動きをする。そして、例えそれを強引に歪めたところで、徐々に元の『形』へと修復しようとする。だから、一度災厄を逃れたからと言って、決して油断はできない。
そして――このループ現象には、終わりがない。
何をしても、何もしなくても、十二時になれば自動的に朝へとリセットされてしまう。それだけは絶対だ。どうやったって、絶対に逃れられない。
悠一は、すでに九周目に突入している……。
今まで起きたこと、分かったこと、考えたことなどを、ほとんど間を置かずに一気に話していく。その間、入江は話の腰を折ることなく、相槌さえ打たず、ただ黙って、悠一の長い話に耳を傾けていた。
「――と、これが、俺の身に起きている全てなんだけど――入江?」
向かいに座る入江は、テーブルの上で両手を組み、俯いてしまっている。眼鏡と前髪が邪魔して、どんな表情をしているか伺うこともできない。
「俺の話……聞いてた?」
「聞いてたよ」
そこでようやく顔を上げてくれる。その顔に浮かんでいたモノ――一言で表すなら、『困惑』だろうか。
「聞いてたよ、聞いてたさ……だけど……うーん……」
言い淀み、髪をガシガシと掻いている。いつも冷静な入江がこんな風になるなんて、珍しい。まあ、自分がそうさせたのだけど。
「まいったなぁー。前もって、ネタや冗談じゃないって、釘刺されちゃってるし――これじゃあ、信じるしかないよねぇ……」
「いや、本当なんだってば」
「うーん……」
「なんなら、今日のテストの解答、頭から言っていくか? 俺、三周目と四周目のテスト、パーフェクトだったんだ。だけど今回はテストを受けてもいない。そんな俺がテストの解答知ってンなら、それはループ現象の証明ってことになンだろ?」
実を言えば、それよりもっと確実に証明する方法はある。
美那のことだ。
あと数十分で、松本にフラれた美那がこの店にやってくる。そんなこと、誰にも予想できないことだ。そのことを前もって言っておけば、それは容易に、この一日を何度も繰り返してきたことの証明になる。
だけど、今回は、美那とは接触したくない。先程の説明の中でも、美那のことには触れなかった。彼女が来てしまえば、入江が彼女のことを知ってしまえば、話がややこしくなる。慰めるのに忙しくて、悠一の相談どころではなくなってしまうだろう。
それに――傷付いた美那を、そんなことに利用したくなかった。
「いや、いいよそこまでしなくて。僕はお前の話を信じるって言ったんだ。小鳥遊が信じろって言うなら、僕はそれを信じるしかないよね。残念ながら、それを否定する根拠もない訳だし」
ニッコリと笑いながら、入江はそう断言してくれる。
「信じてくれンのか?」
「信じるしか――ないんじゃない?」
今度こそ、本気で安堵した。入江という親友がいてくれて、本当によかった。
「そもそも、小鳥遊にそこまでディティールの細かい話が作れるとも思えないし」
だから、その後に入江が漏らした本音は聞こえないふりをした。
「じゃあ、場所を移そう。ここじゃ、落ち着いて話ができそうにねェし」
「別にいいけど? じゃ、歩きながら話す?」
若干訝しげな入江を連れて、悠一はマックを後にする。
突然場所を変えようと言い出したのは、もちろん、美那との接触を避けるためだ。傷心の美那を放置することに対して、罪悪感がないと言えば嘘になる。だけど、例えここで、誠心誠意、美那を慰めたとしても――結局、それすらなかったことにされてしまうのだ。そういうことを、悠一は今まで何度も繰り返してきたのだ。もう、この期に及んで、人の心配をしている場合ではなかった。悠一は心を鬼にして、美那を放置する未来を選択した。
「――俺、どうしたらいいかな?」
店を出てしばらく、駅とは反対側へ向かう人通りの少ない路地で、悠一は再び口を開いた。目的地は決まっていない。できれば人気のない場所がいいのだが、駅前という立地では、それもなかなか難しい。仕方なく、歩きながらの相談、という形に落ち着いてしまう。
「どうしたらって……うーん、ループモノかぁ……」
「ループモノ? 何だソレ?」
「SF系の物語では頻出の設定だよ。フフ――『古いね。ファウスト以来、手あかのついた題材じゃないか』――ってね」
「……はぁ」
何か、今の段取りで笑う箇所があったのだろうか。入江はどうも、アキバ系ではないのだけど、漫画やアニメが好きで――それらの台詞、場面を当たり前のように引用する癖があって――せいぜい少年漫画くらいしか読まない悠一にしてみれば、ついていけないことも多い。
「ああ、ゴメンゴメン。馬鹿にするつもりはなかったんだよ? 今のは、藤子・F・不二雄の作品『未来の思い出』からの引用でね」
「えっと……藤子・F・不二雄って、『ドラえもん』の?」
「『エスパー魔美』『パーマン』『キテレツ大百科』――短編まで含めても、名作は数限りなくあるけどね。この漫画史に残る漫画家が九十一年に発表したのが、『未来の思い出』というSF漫画だ。ま、さっきの台詞にもある通り、『人生のやり直し』『時間の繰り返し』というのは古くから現代に至るまで、それこそ繰り返し繰り返し用いられてきたモチーフでね。小説、漫画、アニメ、ゲーム、ドラマ、映画、演劇といった、様々なメディアで――その中にはメディアミックスされた作品も多いから、一概には言えないけど――使い古された題材と言ってもいい。特に、ゲーム作品とはシステム的に相性がいいらしくて、今では当たり前のように使われているよね」
よね、と言われても……どうしよう。適切な相槌が何も思い浮かばない。せっかく相談に乗ってもらっているのに適当な台詞で流すのも悪い気がするし。
「えっと……あの……」
「あ、全然関係ない話をしちゃったね。悪い。今は、小鳥遊がそういう状態に追いやられてるんだもんね」
悠一の話を完全に受け入れたのか、それとも――あくまで『フィクションの話』として、一種の思考実験として割り切ってしまったのか、対する入江はやけに饒舌だ。
「入江、さァ……俺、どうしたらいいと思う?」
「そうだなぁ……」
人差し指を囓り、思案気な表情を浮かべる入江。
「――うん、小鳥遊の話を聞いただけだから。詳しい状況は全然分からないんだけど……それでも、気になった点が、およそ二点」
「何だよソレ!?」
指を二本立てて断言する入江に、思わず詰め寄ってしまう。
「……顔が近い。慌てないで。順を追って話していくから。
まず一つ目だけど――小鳥遊はさ、ちょっと、諦めるのが早すぎるんじゃないかな?」
「え? だって、そんなこと言ったって……」
「小鳥遊は、五月十三日という今日をノーミスでクリアすれば――つまり、何一つ失敗せず、誰も傷つけず、完璧にやりこなせば、明日が来ると信じて疑わなかった。そのためにお前は頑張った。結果、自分でも完璧と思える今日を作り上げることができた。
――だけど、それでもまた、繰り返してしまった。
お前は絶望した。心が折れてしまた。それで……諦めてしまった。何をすればいいか分からなくて、ただ漠然と一日をすごす道を選択した。だけど、それもすぐに行き詰まる。虚しくて、淋しくて、そんな時に僕に出逢って――藁にもすがる想いで、本当のことを話す気になった。そうだよね?」
「…………」
悠一は時々、本気でこの男がエスパーなんかじゃないかと疑う時がある。今が、そうだ。さっきのたどたどしい説明でここまで理解されるなんて。頼もしく思うのと同時に、少し恐ろしく思うのも、また事実。
「でも、それじゃ駄目だと思うよ? 諦めるの早すぎ。もっと、色々調べて、考えてみなきゃ」
「ンな言ったって……分かんねェもんは分かんねェし……」
「分からないのなら、無駄でもいいからとにかく動いてみればいい。色んな所に行って、色んな人と話して、さ。時間はいくらでもあるんでしょ? 制限時間がないどころか、無尽蔵に時間を使えるってのは僥倖だよ。必ずどこかにヒントはあって、必ずどこかにそれを知る人間がいる。必ずね。RPGとかでもそうでしょ? いや、もちろんゲームと現実を一緒にするつもりはないけど……小鳥遊は、どれだけ時間がかかっても、その人を見つけて話を聞くべきなんだって!」
言いながら、ボルテージが上がってくる入江。何だか今日は入江の新たな一面ばかり見せられいる気がする。
「それがまず一つ。もう一つ――今言ったことにも少し関連するんだけど――さっきの小鳥遊の話、大きな矛盾が一つあるんだけど、気付いてる?」
「矛盾? ンなの、矛盾と違和感しかねェだろ。何もかもが訳分かんねェことばっかだしよ」
「そうじゃなくて。小鳥遊が構築した論理、仮説自体に、穴があるってこと」
「……何だよ、ソレ」
一度大きく予測を外しているので、自分の立てた仮説が間違っていること事態には大したショックも感じないのだけど……やはり気になった。入江が見当違いのことを言う訳もないし。
「世界には基本となる『形』があって、小鳥遊が違う言動をとらない限り世界は同じ『形』であり続ける――そういう趣旨のことを、さっき説明したよね?」
「それがどうしたんだよ」
「おかしくない? 考えてみてよ。五周目以降、つまり小鳥遊が学校に行かなくなってから、これまで――紫苑駅での人身事故は、一度も起きてないんだよね?」
「――あ。」
――そう言えば、今日は普通に電車がやってきた。つまり、紫苑駅での人身事故は起きなかった、ということだ。滝なゆたは助かったのだろうか。携帯で確認することもできるのだけど――勿論、そんなことはしない。彼女が死のうが助かろうが、それすら――
今の悠一には、どうでもいいことなのだ。
「四周目に小鳥遊が必死になって阻止して、逆に言えば、小鳥遊が動かなければずっと起き続けていた事故が、五周目以降、小鳥遊が何もしてないにも関わらず、ぱったりと起きなくなっている。これ、明らかにおかしいよね? 矛盾してるよね?」
そう言えば、確かにそうだ。
あの時は完璧に心が折れていて、そのまま流してしまったが……本来なら、これは見過ごせない出来事だった筈だ。
「……どういうことだ?」
「いやぁ……僕に聞かれても、そこまでは……」
入江とて神ではない。話を聞いただけで、何もかもを見抜ける訳がないのだ。矛盾を指摘したり有用なアドバイスをするだけで精一杯なのだろう。……もちろん、それだけでも凄いのだけど。
「ただ――これは完璧に僕の勘なんだけど、さ」
「何だよ、勿体ぶらずに教えろって」
再び詰め寄る悠一に、この聡明な親友は、真っ直ぐに視線を返し、
「その、滝なゆたって人が、鍵を握っている気がする」
と、真剣な口調で言う。
「滝なゆた? 彼女が?」
「小鳥遊さ……人身事故の事実を知って、お姉さんから話を聞いて、それで必死になって事故を阻止したり、彼女の自宅やお姉さんに電話したりして生存確認したりはしたけど――実際に彼女に会ったこと、一度もないんでしょ? それどころか、顔も知らない。電話で話をしたことすらない。何か、変だよ。僕はそこに、人為的なモノを感じる」
……何を言ってるんだ、コイツは。
「俺にも分かるように説明してくれよ」
「いや、僕も論理的に説明することはできないんだけど……とにかく引っ掛かるんだよね、彼女の存在が。さっき、どこかに必ずヒントがある、って言ったでしょ? 僕は、彼女こそが何かを知っている気がする。……なんでって聞かれても困るけどさ。僕の勘が、そう告げてるんだよね」
ベテラン刑事みたいな物の言い方をする。
「滝なゆたに、接触してみなよ。何か分かるかもしれない」
それはつまり、何も分からないかもしれない、ということだ。だけど、今は何も指標がない状態で――例えその先が袋小路でも、今の悠一は、入江が示す先に向かって進むしかない訳で。
「……分かった。やってみるよ」
「OK。何か分かったら、また教えてよ」
「え? いや、今日はもう、十時間ちょっとしかないんだぞ? その間にできることなんて、高が知れてンだろ。今日中に、お前に相談できるかどうか――」
「別に今日中である必要はないよ。小鳥遊には時間がある。何度も繰り返す今日の中で、色々と調べて、色々と見つけて、それで何か分かったら、また僕に教えてほしいんだ」
「だからさ、今日が終わったら、またリセットされるっつってんだろ? 俺が相談したことも、お前自身が話したことも、全部なかったことになるんだぞ?」
入江に話す前、危惧していたことが、それだ。
どれだけ入江が優秀で、どれだけ入江が親身になっても――あと十時間と少しで、全てリセットされる。全て、忘れられてしまうのだ。
「その時は、今日と同じような導入で、僕に相談を持ちかければいい。だって、結果はすでに出ているんだから。僕という人間が、小鳥遊の話を信じ、興味を持って真剣に考えて、それなりのアドバイスを与える、っていう結果がさ。まず間違いなく、僕は今日と同じ台詞を吐くと思う。その上で、お前は過去に一度相談したという事実を明かし、僕が言うであろう台詞を先取りし、そして、そこで初めて自分が発見した新事実を披露すればいい。そうやって、どんどん僕の見解を引き出せばいい」
だんだんこんがらがってきた。
過去と未来。
原因と結果。
誘導と結論。
既知と未知。
これから悠一は、それらをうまいこと操作して入江に相談を持ちかけなければならないらしい。
「僕なんか、どんどん利用してくれていいんだからね?」
柔らかな笑顔で、温かな声で語る入江を前にしては、抗う術もないのだけど。今の悠一には、他に縋るモノもないのだけれど。
「……ありがとな、入江」
「何を今さら。親友じゃん」
こういう恥ずかしい台詞をさらりと吐けて、しかもそれを恥ずかしく感じさせないのは凄いと思う。入江の個性が、それを可能にしているのだろうか。何だか、ズルい。
結局、二人は路地を一週して駅前に戻ってきていた。相談も、一段落した。指標もできた。
「とりあえず、俺は今から滝なゆたに接触することを目標に動こうと思う」
「いいんじゃない? ま、そんなにはうまくいかないかもだけど、何かあったら、また頼りにしてよ」
当たり前だ。入江を頼りにしないで、誰を頼りにすると言うのか。
「あと、学校には、必ず来て。テストもちゃんと受けて」
不意に入江の声が真剣味を帯びて、悠一はわずかに緊張してしまう。
「小鳥遊は、何度も同じ日を繰り返してそれどころじゃないのかもしんないけど――だからって、近くにいる人のことを、ないがしろにしたりしないで。
――本気で、心配したんだからな……っ!」
ハッ、となった。
入江の目の真剣さに、彼の声の、その芯の熱さに、胸が締め付けられそうになる。
――俺は、最低だ。
いつも、いつだって、自分のことしか考えてなくて。
自分の幼稚さ、愚鈍さ、脆弱さを自覚しながら、『自覚している』ということで許された気になって、自分に酔ってどこまでも甘えて――自己嫌悪に底などない。自分は、最低だ。
「……入江、一つ、頼み事していいか?」
そう、自分は最低だ。
ならば、上がればいいだけの話で。
少なくとも、自分が納得できるだけの高度にまで這い上がれるよう、努力すればいいだけの話で。
「それこそ、何を今さら、だよ。何? 僕にできることなら、できる限りのことはするよ?」
「だったら、今すぐマックに戻ってほしいんだ。今ここで理由は話せねェ。と言うか、話している時間も惜しい。すぐに、戻ってほしい。ちょっと――急ぐ話なんだ」
「――分かった」
詳しい話など聞こうともせず、入江は慌てて踵を返す。そしてそのままマックに向かって走り出す。角を曲がって見えなくなるまで、悠一はその背中を見送っていた。
時刻は一時四十五分。
マックに到着した入江は、泣きながら俯く美那と出逢うのだろう。そして、慰めるのだろう。いつもの、柔らかな声で。優しい言葉で。松本虎太郎に裏切られて、傷付く美那を――いつかのように。
これでいい、と思った。
美那のことは気になる。だけど――それは、取り敢えず入江に任せておけばいい。分相応というものがある。身の丈を知るべきだ。自分は、小鳥遊悠一は、あれもこれも器用にこなせるような人間ではない。
誰のことも蔑ろにしない。
誰のことも、切らない。
その上で、自分は自分のために行動すべきだ。
そう、決めたのだ。
とりあえず――今は、滝なゆただ。彼女に接触するのだ。
悠一は携帯を取り出し、電源を入れながら、いつか覚えた十一桁の番号を、必死に思い出そうとしていた。




