キリヤマキョウカをマガいたい
仕事終わり、突然の腹痛に襲われた私は、普段は降りない駅で途中下車しトイレの個室へと駆け込んだ。ベルトを外す手元がわたわたと震えながら、なんとか括約筋を締め上げピンチを切り抜けほっと一息ついた所で、初めて私は視界に入ったその妙なものに気が付いた。
『キリヤマキョウカをマガいたいです。ご協力下さい』
ーーなんだこれ?
個室は便座に座って左側にトイレットペーパーが備え付けられている。その落書きは逆側の壁に黒く細い線で書かれていた。
しばしば個室トイレにはこういった落書きが存在する。知らない誰かの名前や携帯電話の番号、女性や男性の性器といった卑猥で下劣な落書きなど、総じて気に留める必要など欠片もない、書き込む神経や品性を疑うものばかりだ。
しかし、これは少し異質だ。今まで目にしてきた落書きとはどこか少し違う。
キリヤマキョウカ。もちろん知らない人物だ。ただその後の文章が妙に背中をざわつかせた。
マガいたい、とはどういう意味だろうか。
まぐわい、交わいといった卑猥な意味合いだろうか。なんにしてもあまり良い意味には感じられない。ご協力下さいというこちらを巻き込むような言葉にも嫌悪を感じた。
嫌なものを見てしまった。腹痛さえなければこんな場所に来ることもなかったのに。
用は済んだ。さっさと帰ろうと便座から腰を上げようとした。
「ご協力いただけますかぁ?」
思わず動きが止まった。間延びした大きな男の声が隣の個室から聞こえた。
「あのぉ、ご協力いただけますかぁ?」
再び声が響く。ご協力下さいと書かれた落書きに視線が向く。
ーー私に喋ってるのか?
ゆっくりと私は便座に腰を下ろし直した。
「あのぉ、見たんなら、ご協力いただけますよねぇ?」
やはり声の主は私に話しかけているようだった。
最悪だ。なんて状況だ。これほどまでに腹痛を呪ったことはない。
協力? するわけないだろ。マガうの意味もよく分からないし、桐山京香が誰で、こいつとの関係性も分からない。そんなものに何をどう協力しろというのか。
ーーん? 今……。
ふと確かな違和感が頭をかすめた。だがそんな事よりもこの場をどうするかの方が先決で思考はすぐさま掻き消された。
どうするべきかとしばらく逡巡する。その間にも男は協力の呼び掛けを繰り返している。
異常だ。いずれにしても隣にいる男がヤバイ奴なのは間違いない。というか、何で誰も反応しないんだ。降りたことのない駅だからよく知らないが、そんなに人気のない駅なのかここは。だとしてもこれだけ男の大声が聞こえていれば駅員の一人でも来るべきだろう。田舎でもあるまいし、まさか無人駅なのだろうか。
やがて隣からこんこんと壁を叩く音も加わった。いよいよマズイ状況になってきた。
ーー逃げよう。
私は覚悟を決めた。ここにいても、いつこの膠着状態から抜けられるか分からない。さっさと逃げてしまった方がいい。
私はゆっくりと腰をあげ、そっと下着と共にスーツのパンツを上げた。派手に音が鳴らないようにベルトのバックル部分を掌で握り込んだ。
「マガいたいんですよぉ。協力してくれますよねぇ?」
慎重な動きでファスナーを上げ、ベルトを締め終える。
後ろの棚に置いた鞄を手に取る。ちらっと横の壁に目を向ける。壁を叩く音と声はなおもまだ続いている。
すっと壁から上に視線を向ける。
もし上からずっと見られていたら。そんな嫌な想像をしながら恐る恐る仕切りの上を見るも、そこから見える景色には天井があるだけだった。
ほっと安心し、扉の鍵に手をかける。
すぅっと深呼吸を一つ。そして次の瞬間、私は鍵を開け勢いよく個室から飛び出した。手なんて洗う暇や余裕など当然なく、猛然と私はホームへと走った。運よく自分の帰る方向の電車が来ておりそのまま電車内へと滑り込む。神も味方してくれたのか、私が乗った瞬間に電車の扉は閉まった。
助かった。
まばらにいる乗客には自分に奇異な目を向ける者もいたが気にも留めない。あの恐ろしい密室空間から脱出した解放感が今は勝っていた。
“協力してくれますよねぇ?”
ただ、粘っこい男の声は家に帰ってからもしばらく頭から離れなかった。
*
それから一か月程が経った。しばらくは何事もなく時間が過ぎ、すっかりあの日の出来事も忘れかけた頃だった。
「桐山一香です。よろしくお願いします」
差し出された名刺に思わず手が止まった。
経理システムのリプレイス商談で訪れた客先で、担当者が新しくなると言われ名刺交換をすることになった。二十代前半ぐらいのおっとりとした見た目の女性だったが、そんな事より既視感のある名前に意識がいってしまい、思わず私は名刺と彼女の顔を見比べた。
「どうかされましたか?」
「あ……いえ。すみません」
焦りながらももらった名刺をケースにしまう。しかしどうにも集中できず、その後の商談は珍しくあまりうまく進められなかった。
『キリヤマキョウカをマガいたいです。ご協力下さい』
仕事が終わってからもあの落書きと男の声がよみがえり、なんともいえない不快感に苛まれた。キリヤマという名字は珍しくないし無関係だと思いたいが、どうにもそう思いきれない気持ち悪さが残った。
『桐山京香をマガいたいです。ご協力下さい』
そこでふと思い出した。あのトイレにいた時、頭の中で何の違和感もなくキリヤマキョウカを桐山京香と変換していた。
妙な感覚だった。どうして私はキリヤマキョウカを桐山京香と知っているんだろうか。
桐山一香とキリヤマキョウカの関連性は?
彼女の母や祖母、もしくは姉や妹といった親族関係?
”協力してくれますよねぇ”
途端寒気がした。私はもう既に、あの男と協力関係を結ばされているのではないか。そんな気がした。
*
「川村さんって意外と話しやすいんですね」
「意外ってどういうことよ」
「いや、業者とお客って立場だとやっぱりぴしっとして、どこか一枚鎧を装備しているというか、油断しちゃ駄目だって感じで隙がないから、あんまり最初人間味感じなかったんですよね」
「ちゃんと人の血は通ってるよ」
「こんなお洒落なバーも知ってるし、結構プライベートは遊んでるんじゃないですか?」
「そんなことはないよ。ただ酒とバーの雰囲気が落ち着くから好きなだけだ」
「どうだか」
グラスを口に運ぶ桐山の顔は既に酒で紅潮していた。
あれから妙に彼女のことが気になり仕事外の雑談も交わすようになっていた。それが功を奏してか、こうやって行きつけのバーで一緒に時間を過ごすまでに至った。
彼女の周りに桐山京香は存在しなかった。もちろんさりげなく聞いただけで、あの落書きのことは口にしていない。そんな話をしても気味悪がられるだけだ。とにかく、彼女の周囲にあの不気味で悪質な落書きの脅威に晒されるような人間はいないようだった。
正直それが分かればもう用はないはずだった。彼女に近づいたのはあくまで落書きの疑問を晴らすためだけだった
しかし、こうして距離が近づけばなんとも魅力的な女性だった。仕事では見せない普段の立ち居振る舞いは、相手を一切不快にさせない上品さと気遣いを兼ね備えており育ちの良さが窺えた。
「桐山さん、時間あるなら、もう一軒どうかな?」
「川村さんが行きたいなら、私はいいですよ」
後、一香でいいですよと彼女は付け加えた。
その後彼女と結ばれたのは自然な成り行きだった。
まさかトイレの落書きがきっかけだなんて言えるわけもなかったが、もうこの頃には私の中で落書きへの考え方は変わっていた。
あれは誰かの呪いなのかもしれない。
だが私にとっては、妻との出会いをもたらしてくれた縁結びの神に似たようなものだった。
*
そう、全て自然な成り行きで運命だった。
ただのクライアントだった桐山京香は川村京香という妻になり、一つ屋根の下で寝食を共にした。
「こら、駄目でしょ京香」
娘の京香は男の子のように元気に走り回り、よく笑いよく泣く子供で、親として大変に思う場面も多いが、それと同じぐらい楽しく嬉しいことも多かった。仕事中も早く娘の顔を見たい一心で、まさかこんな人間になるとはと自分でも驚くばかりだった。
「娘だったら京香ってのはどう?」
川村京介の「京」と桐山一香の「香」を取って京香。
妻からそう言われた時、一瞬あの落書きが脳裏をかすめた。よもやここであの名前にまた遭遇するとは思っていなかった。
一抹の不安はあったが、結局妻が決めてくれた名前で私達は出生届を提出した。
なぜなら娘は桐山京香ではなく、川村京香なのだから。
何の問題もない。この幸せな家庭が壊れない限り、あんなものに娘が穢されるなんてことはないのだ。
そう、壊れない限り。
十六歳の時、京香は殺された。
人間の皮を被ったケダモノ達の手によって娘は蹂躙された。
殴る、蹴るといった暴力は当たり前。
四肢は折り曲げ砕かれ、手足の指は全て爪を剥がれ、ソーセージのように輪切りにされた。
眼球は抉られ、鼻口耳は削がれ、舌はペンチで引き抜かれた。
バーナーで至る所を炙られ、長く綺麗だった黒髪は無惨に焼かれ縮れ、頭の皮ごと強引に何度も引きちぎられた。
膣や尻の穴には限界まで菜箸が突っ込まれ、その本数は合計で157本にものぼった。
想像を絶するなんてものではない。娘の苦痛を正確に想像することなど誰にもできない。娘が味わった地獄のような痛み苦しみは娘にしか分からない。
ただ人間をいたぶり楽しみたかったなどという理由でここまで凄惨な行為を行う悪魔達を目の前にして、どれほどの絶望を味わったかなんて分かるはずもない。
もちろん犯人たちを憎んだ。若く未熟といえど二十代を超えた常識を備えているべき人間を許す理由などどこにもない。
「離婚しましょう」
魔が差した、としか言いようがなかった。
今考えても自分の愚かさが理解できない。京香が生まれてからも趣味のバー巡りは続いていた。昔のように頻繁に通うこともなく、無駄遣いもしないといった範疇で妻も認めてくれていた。バーでは出会いがあるとはいえ、間違いを犯すなど私も妻も露とも思っていなかった。
名前も顔も身体も何もかも思い出したくない。ただ妙な色気と引力を伴って、私はその女に引き摺り込まれた。あれよあれよという間に肉体に溺れ、家族に割くべき時間をどこぞの見知らぬふしだらな女に注いだ。
ごまかしが効かなくなるほど女に入れ込んだ結果、当然のように妻に怪しまれ簡単に浮気はバレた。私を沼に誘い込んだ女は最初からいなかったかのように連絡が途絶えた。
なんとか関係を修復したかった。しかし汚物を見るような娘の視線に、もう自分は父親ではないのだと認めるしかなかった。
そして、娘は桐山京香となった。
桐山京香となった僅か一週間後、彼女に災いが訪れた。
『キリヤマキョウカをマガいたいです。ご協力下さい』
やはり、あれは呪いだったのだ。
マガいという言葉を改めて調べた。
【禍す】【禍つ】といった言葉があり、災いや害といった意味合いがあるようだった。
私は協力してしまったのだ。
自分を強く保ち、家族を守る父親として正しくい続けていれば、こんな事にはならなかったのだ。
抜け殻のように過ごす日々の中で、私は再びあのトイレを訪れた。
杜撰な手入れと劣化も伴って、今激しい腹痛に襲われたとしてもここで用を足すのだけは避けたいと思う程に不衛生で、以前にも増して穢れが蓄積されているように感じられた。
どうしてここに来たのか。
何ができるわけでもない。ただどこかで全ての元凶であり、娘を地獄に落とした呪いの主に一矢報いたいという気持ちがあったのだと思う。
私は個室に入り、壁に視線を向けた。
その瞬間、全てを後悔した。
『ハタナカイチカをマガいたいです。ご協力ください』
畠中一香を禍いたいです。
頭の中で瞬時に正しい漢字に変換される。畑中ではなく畠中が正解だとなぜか既に私は分かっている。
「協力してくれますよねぇ?」
隣の個室から、あの日聞いたものと全く同じ男の声がした。
私は勢いよく個室から飛び出した。頭にあるのは元妻のことだけだった。
ーーお願いだから、もう誰も壊さないでくれ。
見てしまった。もうその時点で駄目なのかもしれない。
それでも、私は願わずにはいられなかった。




