ただ、少しだけ特別だった人。
あの人の結婚報告は、タイムラインを流し見しているときに、たまたま目に入った。
四月一日だった。
冗談みたいな投稿がいくつも流れていて、
ほとんどがうその投稿で埋まっていたあの日
だから最初、ほんの少しだけ迷った。
これも、そういうやつなのかもしれない、と思った。
でも、違った。
あの人は、そういうことでふざける人じゃない。
ちゃんとしている人だから、
こういう日を選ぶのも、たぶん、わざとなんだと思う。
少しだけ寂しくて、
それと同じくらい、ちゃんと嬉しかった。
友達が結婚した。
たぶん、いちばん近い気持ちはそれだった。
指を止めたまま、しばらく画面を見ていたけれど、
結局、いいねは押さなかった。
押してもよかったのに、と思いながら、
そのままアプリを閉じる。
ふと、思い出す。
あの人と初めて話したのは、まだ私が十一歳の頃だった。
共通のネッ友に呼ばれて入ったマリオカートのオンラインルームに、
その人はいた。
そこからドラクエでも、ほかのゲームでも、
気づけばよく話しかけてくる人になっていた。
優しい大人の人、という認識だったと思う。
よく喋るし、優しいし、
子どもだった私の話も、ちゃんと聞いてくれる人。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ただ、画面の向こうにその人がいると、
少しだけ安心する。
たぶん、そのくらいの存在だった。
高校生になるころ、
あの人と会う約束をした。
どういう流れでそうなったのか、細かいことはもう覚えていない。
ただ、あの人が新幹線で来てくれることになって、
私は少しだけ緊張していた。
画面の向こうにいた人が、現実にいる。
それが不思議で、でも楽しみで、
そのときの私は、それ以上の意味を考えていなかった。
待ち合わせをして、
一緒にご飯を食べた。
ゲームの話とか、最近どうとか、
いつもと変わらない延長みたいな会話をしていた気がする。
思っていたよりもずっと普通で、
思っていたよりもずっと優しかった。
ちゃんと大人で、
でもちゃんと、私が知っているあの人のままだった。
帰り際、レンタルカーの中。
エンジンの音が小さく響いていて、
外はもう暗くなっていた。
他愛もない会話が続いていたはずなのに、
ふと、言葉が途切れる。
「そういえばさ」
あの人が何か言いかけて、
そのまま黙る。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、手を取られた。
「……え?」
反応が遅れて、声が少しだけ裏返る。
あたたかかった。
びっくりしているのに、
振り払うこともできなくて、
ただ握られたまま、動けなかった。
「顔真っ赤だよ」
ふっと笑う声。
その一言で、急に恥ずかしくなって、
顔をそむけた。
見られているのがわかるのに、
どうしても目を合わせられなくて、
ただ視線を落としたまま、時間が過ぎるのを待っていた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
やがて、手が離れる。
何もなかったみたいに、
あの人はまた普通に話し始めて、
私も、何もなかったみたいに返事をした。
そのときの私は、それを危ないことだなんて思っていなかった。
ただ、あたたかいと思ったし、
少しだけ特別なことをされた気がして、
それが嬉しかった。
今なら、少しだけわかる。
あれは、たぶん、
簡単に越えていい距離じゃなかった。
でもあのときの私は、
そんなことを考える余裕もなくて、
十一歳の頃から知っている人だった。
画面越しで積み重なってきた時間があって、
その延長線上に、ただ今があるような気がしていた。
だからきっと、
あの人がどうこうじゃなくて、
私がまだ、何も知らなかっただけなんだと思う。
ドアを開けて外に出る。
夜の空気が少し冷たくて、
さっきまでの温度が、指先にだけ残っていた。
振り返ると
電車に向かう私を微笑みながらみおくってれた。
それがとても、とてもドキドキした出来事。
たぶんあのとき、
私はそれを恋だと思った。
手を握られたことも、
恥ずかしくて顔を見られなかったことも、
帰ってから何度も思い出したことも、
全部ひっくるめて、恋なんだと思った。
でも今になってみると、
本当にそうだったのかは、少しわからない。
恋だったのかもしれないし、
ただ、驚いてしまっただけなのかもしれない。
優しくされて、
特別みたいに触れられて、
その瞬間に心が大きく揺れただけだったのかもしれない。
その一年後、
共通のネッ友も含めて、オフ会でまた会った。
人数が増えた分、距離は少し遠くなって、
あのときみたいな空気にはならなかった。
一緒にゲームをして、
みんなで笑って、
そのまま、普通に時間が過ぎていった。
たまに目が合うと、
少しだけ心臓がうるさくなった。
でも、それだけだった。
特別なことは、何も起こらなかった。
何かが始まることもなければ、
何かがはっきり終わることもなかった。
そのあと、自然と連絡は減っていった。
私も、別のことに夢中になって、
毎日の中で優先するものが少しずつ変わっていった。
あの人の名前を見かけることも、
だんだん少なくなっていった。
それでも、完全に忘れることはなくて、
ふとしたときに思い出すくらいには、
どこかに残り続けていた。
だから、結婚報告を見たとき、
少しだけ寂しかった。
ああ、もうこの人の時間は、
私と関係のないところで進んでいくんだな、と思った。
でも、それと同時に、
ちゃんと嬉しかった。
昔好きだった人が結婚した、というより、
昔から知っている大事な友達が結婚した、
というほうが近かったのかもしれない。
冗談みたいな日だったけど、
あれはきっと、本当だった。
そして、その日をあえて選ぶような人なのだとも思った。
少しだけ照れくさくて、
少しだけ茶化していて、
でも伝えるべきことはちゃんと伝える。
そういうところも、
ああ、この人らしいなと思った。
画面を閉じて、
何事もなかったみたいに一日を続ける。
あのとき、車の中で握られた手のことを、
ふと思い出す。
あのときの私は、どんな顔をしていたんだろう。
きっと、見せられないくらい、
わかりやすい顔をしていたんだと思う。
あれが恋だったのかどうか、
今でもよくわからない。
ただ、あのとき確かに心は揺れて、
その記憶は今でも、少しだけあたたかい。
少しだけ寂しくて、
それ以上に、ちゃんと嬉しかった。
冗談みたいな日だったけど、
あれはきっと、本当だった。




