究極の石鹸
ルシアンが【深淵の魔窟】に追放されて一ヶ月。地上の王都は、物理的にも精神的にも「限界」を迎えていた。
下水は詰まり、貴族のドレスは黄ばみ、かつて白亜と呼ばれた王宮の壁には、どす黒いカビが不気味な紋様を描いている。
そんな絶望的な不潔の中で、ある「噂」が爆発的に広まった。
きっかけは、命からがら逃げ帰った特使セドリックが、忌々しげに放り出した『ゴミ(試供品)』だった。
「……待て、この石鹸の包み紙を見てみろ。何か書いてあるぞ」
王都の商工ギルド長が、震える手で石鹸を包んでいた真っ白な紙を広げた。そこには、王宮の元執事であれば誰もが知る、あの病的なまでに整った筆致でこう記されていた。
『特定有害廃棄物の中和処理済個体。素手での接触は推奨しません。不潔な者が触れると、あまりの清浄さにショック死する恐れがあります。 ――管理責任者:ルシアン』
「間違いない……。この嫌みったらしい警告文、そして『管理責任者』の署名。……あの毒舌執事、ルシアンだ!」
「ルシアンが生きてる!? しかも、伝説の魔物を『中和処理』して石鹸に変えたというのか……!?」
セドリックが持ち帰った「ラベンダーの香りが漂う魔窟」の証言と、この「警告文」が一致した瞬間、地上の人間たちは確信した。
地獄の底に、汚れを一切許さない『聖域』が誕生したのだと。
「……信じられん。この輝き、本当にあの『ワインの染み』があったドレスなのか?」
数日後、王都最大の商会を営む大商人ガルドは、目の前の布地を見て震えていた。
セドリックが捨てた石鹸の欠片をメイドが拾い、あろうことか王女のドレスに使った結果――染みが消えたどころか、製造時よりも繊維の一本一本が生命力を取り戻し、神々しい光を放っていたのだ。
「旦那、これだけじゃねえ。この石鹸で体を洗った兵士は、長年の持病だった水虫が完治し、挙句の果てには『毛穴から魔力が溢れてくる』と騒いでやがる……!」
ガルドは、手元にある乳白色の石鹸の欠片を見つめた。
それは、ルシアンがダンジョンのスライム(液体廃棄物)を高度に中和・圧縮した『管理区域指定:標準衛生剤・試作一号』
ルシアンにとっては「最低限の除菌用」でしかないそれが、地上では「伝説の聖遺物」を凌駕する価値を持ち始めていた。
一方、その頃。ダンジョンの応接間。
「……ルシアンさん、大変だよ! 地上の商人たちが、ダンジョンの入り口に押し寄せてる! 『石鹸一個に金貨百枚出す』って叫んでる人が山ほどいるよ!」
ニーナが息を切らせて報告に走ってくる。だが、ルシアンは優雅に銀のスプーンを磨きながら、鼻で笑った。
「金貨百枚? ……私の時間を一秒買うにも足りませんね。あんな未完成の試作品に、それほどの価値を見出すとは。……地上の人間は、よほど知性まで不潔に染まっているようです」
「いや、価値ありまくりだから! グラちゃん(黒竜)の鱗までピカピカにしたあの洗浄力だよ!? 今や王宮の予算を石鹸代に回そうかって話まで出てるんだから!」
「……ふむ。ニーナ、貴方は勘違いをしています」
ルシアンは眼鏡を冷たく光らせ、トングをカチリと鳴らした。
「私が石鹸を作ったのは、商売のためではありません。……この管理区域から出る『ゴミ(ニーナやガイたち)』が、外の世界を汚さないようにするための、最低限の義務教育です。……しかし」
ルシアンは、モニターに映る門前で土下座する商人たちの群れを見据えた。
「――『ゴミの処分場』を維持するにも、コストはかかりますからね。……ニーナ、門を開けなさい。ただし、『一滴でも汗をかいている不潔な者』は、即刻スライムの餌にすると伝えなさい」
数日後、地上の経済は未曾有のパニックに陥った。
ルシアンが「ゴミ処理のついで」に出荷し始めた石鹸は、瞬く間に『白い金』と呼ばれ、通貨の代わりに取引されるようになった。
「これ一枚で、城が建つ……!」
「嘘だろ、たかが石鹸に、隣国の領土半分を差し出すっていうのか!?」
王宮では、アルフォンス三世が、ルシアンから届いた「請求書」を手に震えていた。
そこには、石鹸の代金としてではなく、『王宮が放つ悪臭による、私の鼻への精神的苦痛に対する慰謝料』という名目で、国家予算の三割が要求されていた。
「あ、あやつ……! この国の『衛生権』を完全に支配するつもりか……ッ!」
だが、王宮の誰も反論できなかった。
今やルシアンの石鹸なしでは、王宮の悪臭は耐え難いレベルに達しており、侍女たちも「石鹸をくれないならストライキする」と宣言している。
深淵の底から届く、爽やかな石鹸の香りと、容赦ない毒舌。
ルシアンの「掃除」は、物理的な汚れだけでなく、地上の「権力構造」さえも綺麗さっぱり洗い流そうとしていた。




