王宮の特使、概念の汚染に戦慄する
「……信じられん。これが、あの【深淵の魔窟】だというのか?」
王宮特使、セドリックはダンジョンの入り口で絶句していた。
かつては瘴気が吹き荒れていたはずの穴からは、今や高級アロマの香りが漂い、入り口には「土足厳禁」の大理石プレートが一点の曇りなく輝いている。
セドリックは、カビ臭い王宮から持参した国宝級の魔導具『清浄の聖杖』を握り締めた。
「ルシアンめ、魔物と結託し、甘い香りで精神を弄ぶ禁術でも編み出したか。だが、王宮最高峰の私の術式を上書きできると思うなよ」
彼は意を決して中へと踏み込んだ。
ロビーの奥、燕尾服を完璧に着こなしたルシアンが、銀縁眼鏡を冷たく光らせて立っていた。
「おや。……どちらの『粗大ゴミ』かと思えば。セドリック、そのカビの胞子を纏った不潔なローブで、私の絨毯を踏まないでいただけますか?」
「黙れ、反逆者め! 陛下がお呼びだ。王宮は今、前代未聞の不潔パニックに陥っている! 貴様の不敬は不問にしてやる、今すぐ戻って――」
「断る。……あのような、脂ぎった騎士と埃まみれの王族がひしめく『巨大なゴミ箱』に、誰が戻るのですか」
「何を言っている! ここは魔窟だぞ! 王国最強の冒険者パーティ『暁の剣』だって、ここで命を落としたと――」
「――失礼な。誰が死んだって?」
背後のふかふかのソファから、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
それは、行方不明になっていた重戦士ガイだった。……だが、その姿は以前とは似ても似つかない。
鎧は脱ぎ捨てられ、純白のバスローブを羽織り、顔面はルシアン特製の泥パックで真っ白。手には最高級のハーブティー。
「ガ、ガイ殿!? 貴公、何をしているんだ……その、白い顔は……!」
「セドリックか。……見ての通りだ。拙者は今、『真の清潔』に目覚めた。……あんな、錆びた剣を振り回して泥にまみれる生活に、戻れるはずがなかろう」
ガイの後ろでは、同じくバスローブ姿で完全に「骨抜き」になった仲間たちが、極上のクッションに身を沈めてこちらをぼんやりと見ている。
「狂っている。貴公ら、全員魔術で操られているのか!? どけ、私がその呪いを解いてやる! 案ずるなガイ殿、今すぐその薄汚れた術式を焼き払い、貴公らを正気へと引き戻して進ぜよう!」
セドリックが聖杖を天に掲げた。
「【聖域展開:絶対清浄】!!」
瞬間、杖から目が眩むような純白の光が溢れ出した。空間からあらゆる「音」が消失する。足元の塵や空気中の微粒子が、存在そのものを否定されたかのように「削除」され、ロビーを満たしていたアロマの香りが一瞬で霧散した。
「これこそが真の清浄! 貴様の紛い物の家事など、この神聖なる光の前では――」
「……甘いですね。……あまりにも、基準が低すぎる」
ルシアンが、冷ややかな瞳で指を鳴らした。
【固有権能:『終焉の管理』――空間定義:完全滅菌】
ルシアンの影が爆発的に広がり、セドリックの放った白い光を、巨大な掃除機が吸い込むように食い潰した。
次の瞬間、セドリックは全身を「真空」に包まれたかのような衝撃に襲われる。呼吸をするたび、自分の体内の「不純物」までもが削ぎ落とされていく錯覚。
「が……っ!? あ、空気が……重い……!?」
「私の管理区域において、空気とは吸うものではなく、『鑑賞するもの』です。貴方の術式は、目に見えるゴミを払っただけに過ぎない。私は今、分子レベルでの不純物を排除しました」
圧倒的な「概念」の差。セドリックは、自分が戦っている相手が、魔術師ではなく「世界の理を書き換える管理人」であることを理解し、膝をついた。
「……セドリック。拙者を連れ戻そうとするのは無意味だ」
ガイは、パックを剥がして現れた「ピカピカの素肌」を誇らしげに見せ、静かに首を振った。
「拙者は逃げているのではない。初めて、『正しい状態』で剣を置けたのだ。……拙者は、この清潔な静寂を守るために、ルシアン殿の『剣』としてここに残る」
「……力ではない。世界が、違うだけだ……!」
セドリックは、恐怖に震えながら後退した。
(……これは“敗北”ではない。……もはや、戦いの土俵にすら上がらせてもらえないのだ)
「逃げなさい、セドリック。貴方のその薄汚れた報告書を、陛下に届ける仕事が残っているでしょう? ……『ルシアンは、もはや人間が触れて良い領域にはいない』とね」
ルシアンは満足げに頷くと、逃げ出す特使を見送ることもなく、トングでガイたちのカップに僅かな茶渋も残っていないか確認した。
「……さて。害虫の駆除が終わりました。ガイ、ニーナ、諸君。次は第4層の『ゾンビの脱臭作業』です。不潔な過去を、すべて洗い流してあげましょう」
「「はい、ルシアン様!!」」
深淵の底。そこには、世界で最も「尊厳」を重んじる、潔癖な王の城が完成しつつあった。




