【従業員日誌】メイド・ニーナの「聞いてないよ!」な受難録
「……もう、絶対に死んだと思ったのに。……なんで今、私、ドラゴンの背中のワックス掛けしてるんだろう」
新人メイドのニーナは、白銀色に輝くグラオザーム(通称:グラちゃん)の広大な背中の上で、専用のポリッシャーを動かしながら遠い目をしていた。
一ヶ月前。あの雨の日、ルシアンさんと一緒に王宮を追い出された時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
「ニーナ。荷物はそれだけですか? ……不必要な感情と、その安物の香水の匂いは、王宮のゴミ箱に捨ててきなさい。不潔です」
追放される直前ですら、この人はこれだった。
普通、王宮をクビになって「生きては戻れぬ魔窟」に送られるってなったら、少しは絶望するとか、膝をつくとか、あるいは私に「巻き込んで済まない」とか言うべきじゃない!?
なのに、この潔癖症の執事様は、馬車の中で黙々と自分の爪をバフで磨いていたのだ。
そして、辿り着いた【深淵の魔窟】。
入り口を一歩入った瞬間の、あのドロドロした粘液と、鼻を突く腐敗臭。
「あぁ、終わった。私の人生、ここでスライムに溶かされて終わるんだ……」
私が腰を抜かして泣きじゃくった、その横で。
ルシアンさんは、一生忘れないような、心底「汚物」を見る目で洞窟を睨みつけたのだ。
「――**最悪です。……死ぬより先に、この『視覚的公害』を排除(お掃除)しなければなりませんね**」
そこから先は、もう悪夢……じゃなくて、魔法みたいな、いや、やっぱり悪夢のような光景だった。
ルシアンさんが指を鳴らすたびに、襲いかかってくる魔物たちが「燃えないゴミ」とか「液体廃棄物」とか分類されて、消えていく。
伝説の黒竜が「埃っぽい」っていう理由だけで高圧洗浄されて、挙句の果てに「大型換気扇」として再就職させられた時は、本気で自分の目を疑った。
「ルシアンさん! あれ、黒竜だよ!? 国を滅ぼす災厄だよ!?」
「ニーナ、騒がないでください。飛沫が飛びます。……災厄だろうが何だろうが、換気効率の悪い生き物は、我が家には必要ありません。……それより、その隅の蜘蛛の巣。……貴方の良心と同じくらい、曇っていますよ。今すぐ除去しなさい」
「私の良心、そんなに汚れてるかなぁ!?」
そんなやり取りを数え切れないほど繰り返して、気づけばこの地獄は、王宮の百倍くらい快適な「聖域」になっていた。
……いや、快適なのはいいんだ。
お風呂は最高だし、ご飯はおいしいし、ベッドは一度寝たら魂が戻ってこないくらい気持ちいい。
でも。
「……ねえ、ルシアンさん。……さっきから門の外で、王国最強の騎士団の人たちが全裸で整列して、お肌のツヤを競い合ってるんだけど……あれ、どうにかしなくていいの?」
「放置しなさい。……適切に洗浄された結果、彼らはようやく『無害な風景』の一部になったのです。……それよりニーナ。第3層のゾンビたちの脱臭作業、進捗はどうですか? 一体でも『死臭』を残せば、貴方も一緒に煮沸消毒(お風呂)ですよ」
「ひぃぃ! 今すぐ行きますぅ!」
……そう。この場所で一番怖いのは、魔物でも呪いでもない。
「不潔」という言葉を「死」と同義語だと思っている、この美貌の執事様なのだ。
王様を「洗濯物」としてドラム式洗浄機に放り込んだ時なんて、正直「あ、これでもうこの国とは国交断絶だわ」って諦めたのに。
出てきた王様が「……輝いている。私は、輝いているぞ!」って涙を流して喜んでるのを見て、私は悟った。
この人は、世界を救おうなんて一ミリも思ってない。
ただ、自分の周りが「汚れているのが許せない」っていう、その狂気じみた潔癖さだけで、世界を塗り替えちゃってるんだ。
「……はぁ。……次は『隣国の魔王』が来るんだっけ。……たぶん、あの魔王様も、明日にはピカピカの美肌になって、バスローブ姿で紅茶飲んでるんだろうな……」
ニーナは、磨き上げられたドラゴンの鱗に映る、少しだけ肌が綺麗になった自分の顔を見つめて、小さくため息をついた。
「……ま、いっか。……王宮にいた時より、ご飯おいしいし!」
彼女のツッコミが止まる日は、まだ当分先になりそうだった。




