地獄の底は、想像を絶する「ゴミ屋敷」でした
王宮から馬車で数日。
ルシアンと、なぜか道連れにされた新人メイドのニーナは、巨大な崖の割れ目の前に立たされていた。
「ひ、ひぃ……。ここが【深淵の魔窟】……。入り口からして、ドブのような臭いがします……」
ニーナは鼻を抑え、ガタガタと震える。
対するルシアンは、崖の下から吹き上がる、魔力の残滓と腐敗が混じった風を真っ向から受け――その瞬間、眼鏡がパキリと音を立てそうなほど険しい表情になった。
「……信じられません。この風に含まれる塵埃の量、そしてこの不快な粘り気。陛下は私を殺すつもりではなく、『史上最悪の不潔死』を遂げさせようという腹積もりですか」
「いや、追放ってそういうことですから! 死ぬってことですから!」
ニーナの絶叫を無視し、ルシアンは崖の縁に立つ。
背後に控える兵士たちが、怯えながらも槍を突き出した。
「さ、さっさと降りろ不敬者! 二度と戻ってくるな!」
「触れないでくださいと言ったはずです。……行きますよ、ニーナ。ここよりは、多少マシな『換気』ができる場所を探さねばなりません」
ルシアンは優雅に、まるで舞踏会の階段を下りるかのような足取りで、自ら奈落の底へと身を投げ出した。
「待ってえぇぇぇ!」
ニーナの悲鳴が木霊し、二人の姿は闇へと消えた。
数分後。
二人が着地したのは、湿り気を帯びた岩場だった。
上空からの光は届かず、壁面に張り付いた発光苔が、不気味な緑色の光を放っている。
「うぅ……痛い……。生きてる……? 奇跡的に生きてるけど……」
ニーナが這い上がろうとした、その時。
彼女の目の前に、ボタボタと「何か」が垂れてきた。
「……え?」
見上げると、そこには天井から吊り下がる、巨大な『腐肉食の巨蜘蛛』
その口からは、獲物を溶かすための、ドロリとした緑色の粘液が滴り落ちていた。
「ギ、ギシャァァァ……ッ!!」
「い、嫌ぁぁぁぁ! 食べられる! 汚い! 怖い!!」
ニーナが腰を抜かした、その瞬間。
背後から、凍りつくような低い声が響いた。
「――そこ。……動かないでください」
ルシアンだった。
彼は着地の衝撃など無かったかのように立ち上がり、燕尾服の汚れを払っていた。
だが、その目は、今までに見たこともないほど「激怒」に燃えていた。
「ル、ルシアンさん……! 逃げて! 怪物ですよ!」
「逃げる? いえ、その必要はありません。……ニーナ、見ていなさい。私の靴に、あろうことかその不潔な粘液が、一滴……跳ねました」
ルシアンが一歩、踏み出す。
巨大な蜘蛛が、獲物を仕留めようと鋭い足を振り下ろす。
通常なら、人間の身体など容易く両断されるはずの一撃。
だが。
【固有権能:『終焉の管理』――承認】
「私の視界から、消えなさい。この『産業廃棄物』が」
ルシアンが白手袋の手を軽く振った。
次の瞬間、空気が止まり、物理法則が書き換わる。
蜘蛛の鋭い足は、ルシアンに触れる直前で、まるで古びた藁のように粉砕された。
それだけではない。蜘蛛の全身が、見えない強力な「圧縮機」にかけられたかのように収縮し、一瞬で『一辺10センチの立方体』へと固められた。
「……え?」
ニーナが呆然とする中、ルシアンはその「立方体」を、持っていた清掃用トングでつまみ上げ、岩の影に放り投げた。
「可燃ゴミの日に出しなさい。……全く、挨拶代わりにしては度が過ぎる無礼ですね」
《――全ステータスを『清掃権限』に変換。管理区域内において、貴方は『絶対的な掃除屋』です》
脳内に響く無機質な声を無視し、ルシアンは周囲を見渡した。
そこには、騒ぎを聞きつけて集まってきた、数百、数千の魔物たちの眼光。
腐敗したゾンビ、粘液を撒き散らすスライム、埃を撒き散らすコウモリ。
「……はぁ。なるほど」
ルシアンは眼鏡を指で直し、深く、重い溜息を吐いた。
だが、その溜息には、絶望の欠片もなかった。
「ニーナ。バケツと洗剤の用意を。……ここを『住める場所』にするには、徹底的な『分別』が必要なようです」
「いや、ルシアンさん……。ここ、魔王が住むっていう伝説のダンジョンなんですけど……」
ニーナの困惑を無視し、ルシアンは一歩踏み出した。
闇の奥から、無数の魔物たちが這い寄ってくる。
腐敗した肉を撒き散らす「ゾンビ」
ドロドロの粘液で床を汚す「スライム」
天井から埃と糞を撒き散らす、巨大な「コウモリ」の群れ。
「――仕分け(チェック)を開始します」
ルシアンが白手袋の手を、オーケストラの指揮者のように振った。
【固有権能:『終焉の管理』――承認】
まず、前方を塞いでいたゾンビの群れに指を向ける。
「そこ。死体が歩き回るなど、衛生観念の欠如も甚だしい。……貴方方は『不法投棄物』として、元の土へ還りなさい」
パチン、と指を鳴らす。
瞬間、ゾンビたちは悲鳴を上げる間もなく、まるでシュレッダーにかけられた紙屑のように分解され、一瞬で「無臭の肥料」へと変わった。
「ひ、ひぃぃ……!? ゾンビが一瞬で土に!?」
「次は貴方です、その不快な音。……天井のコウモリ、羽ばたくたびに埃が舞う。……『可燃ゴミ』として、その脂ぎった体脂肪ごと燃え尽きなさい」
ルシアンの視線が天井を射抜く。
バチッという火花と共に、数百匹のコウモリが「灰」へと変わり、専用の集塵ボックス(魔力で形成された箱)の中へ吸い込まれていった。
「そして、一番の問題は貴方ですね。……そこの粘着質なスライム」
足元に迫っていたスライムが、獲物を溶かそうと触手を伸ばす。
ルシアンはそれを、汚物を見るような目で見下ろした。
「床にヌメリを残すなど、家事代行業者であれば即刻クビですよ。……貴方は『液体廃棄物』として、適切に処理(中和)いたします」
ルシアンが右手を軽くひねると、スライムの身体は激しく泡立ち、一瞬で「ただの透明な水」へと浄化された。あとに残ったのは、キュッキュッと音が出るほど磨き上げられた岩の床だけだ。
「……さて。……多少は、呼吸ができる程度に片付きましたね」
背後で、ニーナは口をあんぐりと開けて固まっていた。
伝説の魔物たちが、ルシアンの手にかかると「害獣」ですらなく、単なる「処理されるべきゴミ」にしか見えない。
「ニーナ、何を呆然としているのですか。……ほら、そこに溜まった『不法投棄(肥料)』をまとめなさい。後でこのダンジョンに、まともな『観葉植物』でも植えねばなりませんから」
「……この人、本気だ。本気でここを『家』にしようとしてる……!」
ニーナの予感は的中していた。
ルシアンはすでに、奥から漂ってくる「さらに強大な不潔(黒竜)」の気配を察知し、その眉間のシワを深くしていたからだ。
「……奥の方に、ひときわ大きな『粗大ゴミ』の気配がしますね。……早急に処分せねば、今夜のティータイムが遅れてしまいます」
燕尾服の袖を整え、ルシアンは暗闇の奥――ゴミ屋敷の主が住む「深淵」へと、優雅に進み始めた。




