第6話 師と呼ぶに値する男(後編)
アシュダールの訓練は、剣を振ることから始まらなかった。
「構えろ」
短く、重い命令だった。
アルフレッドは即座に木剣を抜き、正眼に構える。
動作に迷いはなく、速度も正確だ。
だが、そのまま数秒が過ぎても、次の指示は飛んでこない。
「……振らないのか」
「振るな」
即答。
「斬るな。殺すな。まずは立て」
一瞬だけ、アルフレッドの視線がアシュダールを捉えた。
だが抗議はしない。
剣を構えたまま、ただ立つ。
それだけ。
庭に風が流れ、芝の匂いが漂う。
時間だけが、じわじわと積み重なっていく。
五分。
十分。
二十分。
足の裏が熱を帯び、ふくらはぎに張りが溜まる。
腕に力が入りすぎれば、指先が痺れ始める。
それでもアシュダールは、一切口を挟まなかった。
姿勢が崩れかけた瞬間だけ、鋭い声が飛ぶ。
「視線を切るな」
「……剣は見てるが」
「剣じゃねぇ」
アシュダールの声は低い。
「敵だ。敵を見ろ」
アルフレッドは即座に返す。
「敵はいない」
断言だった。
「想定してないだけだ」
アシュダールは、わずかに眉を動かす。
「敵がいなけりゃ、斬らねぇってか」
「当然だ」
アルフレッドは淡々と続ける。
「存在しないものを斬るほど暇じゃない」
虚勢でも反抗でもない。
それは単なる前提条件の確認だった。
アシュダールは一拍置き、低く息を吐く。
「……いい。続けろ」
その日から、訓練は徹底して“基礎以前”を叩き込む内容になった。
剣を構えたまま歩く。
一歩の幅、重心の移動、足裏の感覚。
「剣は振るためのもんじゃねぇ」
アシュダールは言う。
「剣は距離だ。近づけさせない意思そのものだ」
アルフレッドは否定しない。
だが、内心では別の答えを持っていた。
剣は距離を詰めるための道具だ。
殺すための、最短経路を作るためのもの。
だが、今は口にしない。
この老人の言葉には、確かな経験が滲んでいる。
次は素振り。
回数の指定はない。
代わりに、毎回問いが投げられた。
「今の一振り。どこを斬った」
「喉」
即答。
「理由は」
「声を潰す。敵を呼ばれるのは面倒だ」
一切の感情を挟まない答え。
「次」
「手首」
「……なぜだ」
「武器を落とすより、神経を断った方が確実だからだ」
その瞬間、アシュダールの視線がわずかに鋭くなる。
合理的。
殺しを工程として分解している。
慣れているわけではない。
最初から、そこに躊躇という概念が存在していない。
「……続けろ」
別の日。
「想定だ。相手は三人」
アルフレッドは即座に立ち位置を変える。
背後に壁、左右の視界を制限。
「一人目は?」
「囮」
「二人目」
「本命」
「三人目」
「逃げる」
「……なぜ逃がす」
「追う価値がない」
それだけだった。
善悪はない。
感情もない。
効率だけがある。
その日の夜。
アルフレッドが剣の手入れをしていると、意識の奥に報告が流れ込んできた。
________
――報告。
観測対象区域:森林地帯。
人類拠点:盗賊集団。
構成人数:六。
装備水準:低。
指揮系統:未熟。
警戒行動:特になし
人類戦力指数:想定以下。
排除処理を実行。
抵抗行動は一部確認。
戦闘と呼称するレベルに達せず。
処理完了。
補足。
対象個体の一部は、我々の存在を認識出来ず。
非合理的認識。
記録のみ実施。
拠点利用価値:低。
今後の観測地点として不適。
破棄。
以上。マスターへの報告を終了します。
________
「了解だ」
アルフレッドは短く思考で返す。
アシュダールは少し離れた場所から、その様子を見ていた。
問いただすことはしない。
だが、胸の奥に沈殿する違和感がある。
この少年は、戦場で育ったわけではない。
血に塗れて生き延びてきたわけでもない。
それなのに――
剣を学び、技を吸収し、
斬ること・殺すことを一切の抵抗なく選択肢に組み込んでいる。
「……才能、か」
呟きは、賞賛だけではなかった。
アルフレッドは剣を納め、静かに立ち上がる。
強者がいる。
師と呼ぶに値する剣士がいる。
なら、もっと貪欲でいい。
最高の悪役を目指すなら、
この程度で満足する理由などない。
次は――
もっと踏み込む。
◇
半年という時間は、短いようでいて、剣の世界では十分すぎるほど長い。
まして相手が――
剣に全人生を費やしてきた老剣士と、
異様な吸収力を持つ少年であればなおさらだ。
アシュダールは、アルフレッドの訓練記録を一切つけなかった。
必要がなかったからだ。
剣の振り数。
型の習得速度。
理解までの時間。
どれも常識の枠に収まらない。
最初の一ヶ月で、基礎は終わった。
二ヶ月目には、応用が始まり、
三ヶ月目には、アシュダール自身が過去に実戦で使ってきた“癖”すら盗まれ始めた。
「……クソガキ」
思わず零れた言葉に、侮蔑はなかった。
驚愕と、警戒と、そして――
ほんの僅かな、恐怖。
アルフレッドは質問をしない。
その代わり、見て盗む。
見て、理解し、再構築する。
「なぁ」
ある日の訓練後、アシュダールは不意に口を開いた。
「剣を振る時、何を考えておる」
アルフレッドは即答した。
「何も」
「……ほう」
「考える必要がない」
それだけだ。
嘘ではない。
誇張でもない。
剣を振るという行為が、思考の外にある。
呼吸と同じ場所にある。
アシュダールは、そこで初めて“対人経験”という言葉を思い出した。
この少年は、
理論も、殺意も、完成している。
だが――
人を斬った経験がない。
それだけが、唯一の欠落。
(いや……本当に、そうか?)
疑念は、日を追うごとに濃くなっていった。
ある日の訓練。
「想定だ」
アシュダールは木剣を構える。
「相手は、クズだ」
アルフレッドの目が、僅かに細まる。
「盗賊。強姦犯。人殺し。救いようがない」
「……それで?」
「そいつを斬れ」
アルフレッドは、一拍も置かずに踏み込んだ。
躊躇は、なかった。
殺意を込めるでもなく、
感情を乗せるでもなく、
ただ“作業”としての一撃。
アシュダールは、反射的に防いだ。
「……今の、どう思う」
問いに、アルフレッドは即答する。
「遅い」
「感想はそれだけか」
「十分だろ」
本当に、それだけだった。
アシュダールは、胸の奥がざわつくのを感じた。
この少年は、
人を斬ることを「特別な行為」だと認識していない。
殺すべき相手なら、殺す。
それだけ。
そこに、善も悪もない。
あるのは、必要性だけ。
(……これは、才能の話じゃねぇ)
剣士としての異常。
いや、人間としての欠落。
だが――
それを「欠点」と断じるには、あまりにも完成されすぎていた。
◇
そして、半年が過ぎた頃。
アシュダールは、ついに決断する。
「模擬戦だ」
庭の空気が、変わった。
使用人たちが、自然と距離を取る。
剣を交える気配が、はっきりと伝わったからだ。
「条件は?」
アルフレッドが聞く。
「ワシは全力を出さん」
「舐めてるのか」
「違う」
アシュダールは静かに言った。
「お前に合わせる」
レベル差。
身体能力差。
魔力による強化。
そのすべてを、封じる。
「技だけで来い」
アルフレッドは、口角を上げた。
「後悔するなよ」
合図はなかった。
だが、庭の空気が変わった瞬間、
二人は同時に踏み込んでいた。
先に動いたのは、アルフレッドだ。
一歩。
地面を蹴る音が、乾いて響く。
低い姿勢からの踏み込み。
無駄を削ぎ落とした直線。
狙いは喉。
木剣が、一直線に走る。
アシュダールは、身体を捻った。
ほんの半歩、軸をずらすだけ。
剣が、頬の横を掠める。
(速い)
思考が追いつくより先に、次が来る。
アルフレッドは、止まらない。
切り返し。
手首を返し、今度は肩口。
斬る。
アシュダールは、剣で受けない。
柄で流す。
木と木が触れる音が、短く鳴った。
間髪入れず、三撃目。
今度は、腹。
低い。
鋭い。
斬る。
アシュダールは後退しながら、刃を外す。
力ではなく、角度で。
四撃目。
踏み込みを深くし、
今度は斜め上から。
首を、断ち切る軌道。
斬る。
斬る。
斬る。
アルフレッドは、呼吸を乱さない。
感情も乗せない。
ただ、
「そこに敵がいるから斬る」
それだけの動き。
剣は、作業の延長にある。
アシュダールは、捌き続けながら理解する。
(躊躇が、ない)
斬ることへのためらいが、一切存在しない。
それは、殺意が強いという話ではない。
むしろ逆だ。
殺すという行為が、
特別な意味を持っていない。
だからこそ、
この剣は――重い。
次。
アルフレッドは、あえて間合いを詰める。
密着。
至近距離からの横薙ぎ。
斬る。
アシュダールは、剣を立てる。
刃と刃がぶつかり、乾いた音が弾ける。
そこで終わらない。
アルフレッドは、即座に手首を返し、
柄頭で鳩尾を狙う。
実戦なら、呼吸を止める一撃。
(……小賢しい)
アシュダールは、身体を引き、
同時に足払い。
だが、アルフレッドは跳んだ。
僅かに浮いた身体。
空中で、剣を振り下ろす。
斬る。
空中からの一撃。
普通なら、無謀。
だが、軌道は正確だった。
アシュダールは、半身になり、
肩で受け流す。
その瞬間――
勝負を決めにいった。
老剣豪の剣が、滑り込む。
アルフレッドの剣の内側。
死角。
喉元。
木剣が、ぴたりと止まる。
「……そこまでだ」
静かな声。
庭に、沈黙が落ちる。
アルフレッドは、剣を下ろさない。
視線だけを、アシュダールに向ける。
「今ので、終わりか?」
その問いに、勝敗への悔しさはない。
ただ、
次があるかどうかを確認する目。
アシュダールは、胸の奥が冷えるのを感じた。
(……こいつ)
この少年は、
負けたという事実を、
何一つ引きずらない。
斬り合いの結果として、
「そうなった」
それだけ。
そして、決定的な一言が続く。
「斬るなら、斬れ」
迷いのない声音。
生を投げ出しているわけではない。
死を望んでいるわけでもない。
ただ、
斬られる可能性を、
最初から計算に入れている。
それが、
剣士として――
あまりにも異様に感じた。




