朧月 晴るるも曇るも 定めなく 都を揺らす 妖のひかり
夜の帳しずかに降りて、弘徽殿の庭には、白き月影の冴えわたる
几帳の陰に身を潜め、わが息をそっと整えぬ
夕顔の香は妖しき術…
かかる噂、宮中を駆け巡り
人々の口の端にのぼること夥し
初めは戯れ言と聞き流ししが
されど…
『これは、暁様より頂いた香木の欠片
名香『夢浮橋』の一部にございます
右大臣家に代々伝わるものと伺っております』
人の心を揺らし
確かにその色を染める香
それゆえ妖術と囁かれ、政に波風を立てることもあらん
されど夕顔は、政を動かす器にあらず
香が人の心を揺らすは事実なれど
それを、政の道具としたるは、別の誰ぞ
扇を静かに閉じ
わが胸にひそかに思いを巡らす
夕顔の香を妖術と貶められ
損なうは夕顔自身
その香が妖術とされなば
夕顔を庇護する源氏の君までも疑われ
その勢いは削がれよう
左大臣家が揺らぐならば…
得をするは…
その刹那
胸の奥に、ひそやかなる気配がふと動いた
足音、近づく
「…朧月夜」
甘く、どこか危うき声
微笑を含み、几帳をわずかに上げて応じる
「これは…源氏の君」
源氏の君は我が傍らに座し、袖触れ合うほど近く寄り来る
「宮中が、騒がしいな」
低く呟く声は、いつもの余裕を装いながら、どこか落ち着かぬ影を帯びていた
扇をゆるりと上げ、わざとらしく首を傾ける
「さるや…夕顔の香の噂にてございましょうか
あれは、まこと妖しき術にて?」
探るように言い放てば、源氏の君の肩、かすかに揺れたり
眉の動き、その一つさえ、見逃さぬ
「あれは…ただの香ではない」
源氏の君の声、低く沈む
「人の心を惑わし、政を乱す恐れがある」
ほう…
扇を閉じ、静かに息を吸う
「源氏の君ほどの御方が、一人の女の香を恐れなさるとは…」
源氏の君は否定せず、しばし沈黙を置く
――その沈黙こそ、答え
「恐れではない」
ようやく口を開き
「ただ…あの香は異質
放っておけば、宮中が乱れよう」
目を細め、わが胸に確信が灯る
夕顔は弱き者なれど、源氏の君の心を揺らし
ひいては政までも揺るがす存在
そして源氏の君は――
その夕顔を、確かに恐れている
月光、庭に白く落ち
まるで好機を照らすがごとし
袖の内にて、そっと指を組む
弱き者は、利用できる
この弱み、右大臣家のためにこそ
源氏の君の唇、近づき来る
私は静かに目を閉じた
今宵のこと、暁に伝えよう
右大臣家が動けば、源氏の君は逃れられまい
その折は――
灯りをわざと落とし、几帳を少し開けておこう
見つかるための隙
逃れられぬ罠
源氏の君はわが手を取り
「…朧月夜」
その囁きは、闇に溶けてゆきたり




