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葵の葉 藤の花さへ 怖れずに 紫の花と 空へゆき翔ぶ

ある日の二条院

源氏の君は栞を手にし、眦を拭いながら涙を流して座しておられた


また女からの和歌に違いない、と胸の奥で思う

振られたのか、期待外れに落胆したのか、何を思って泣いているのかは分からぬ

けれど、その顔は悲しみに沈んでいるように見えた


「どうされたのですか」


君は顔を上げ、私を見ると「なんでもない」と首を小さく振り、目を伏せた

私は几帳の間から声を落とす


「君が悲しんでいては、私も悲しくなります」


眉を寄せ、身体を少し前のめりにして君の顔を覗くように見ると、君は目を細めて私を見て、穏やかに微笑まれた


「紫は優しい子だ」


「そんなことは…」


部屋の外より雲雀の鳴き声が聞こえる


雲雀は空高く舞い上がる

人の目には届かぬほどの高みを、自由に翔けてゆく


私はその姿に、わが身を重ねた



月日が流れ、その日、裳着の支度が整えられ、君は几帳の内へと歩み寄られた


「紫、わが妻として裳を着けてほしい」


柔らかくも強い声にて告げられる

私は袖を胸に寄せ、静かにうなずいた


「はい、わが君の仰せのままに…」


そう答えながらも、心の奥は冷ややかに揺れていた

裳を広げる手元を見つめつつ、涙が浮かび、声が震えた


「されど、まだ心の準備ができておりませぬ…」


君は私を見て、しばし黙した後、裳を手から離された


「そうか…無理に急くことはない」


私は深く頭を下げる


「恐れ入ります

わが君のお心遣いに感謝いたします」


君が去った後、ふと、幼き頃に遊びし人形に目を見やる

その姿を一瞥し、香を焚きながら、静かに煙を見つめ、部屋の外へと視線を移す


『誰かの理想の為に生きる必要はありません』


裳着を受け入れれば、私は完全に君の人形となる

わが身はもう、君の人形ではない

ただ操られるばかりの存在ではなく、心を持ち、思いを抱く者なのだ



その夜、几帳の内は燈火も淡く、静けさに包まれていた

源氏の君は私の傍らに座し、深く息を吐いて言われた


「もう我慢できぬ

紫よ、今日こそ、わが妻として迎えたい」


その手は私の肩を力強く掴み、声は熱を帯び、私の胸を震わせた

心は冷え、涙が自然に頬を伝う

私は袖で顔を覆い、震える声にて告げた


「まだ心の準備ができておりませぬ…

もし今、無理にされたなら…

きっと私は、死んでしまいます…」


その言葉に、君は、はっとしたように私を見つめる

しばし沈黙の後、眉を寄せ、裾を握りしめて低く呟かれた


「そのような事になっては、わが身も耐えられぬ」


君は震えるように手を引き、私の肩から離れた

燈火の影が揺れ、部屋に静けさが戻る


私は深く頭を下げ、涙を袖に拭った


香炉に火を入れ、細き煙を見つめる

その揺らぎは、私の心を映す鏡



その日も、君が二条院へ戻られると聞き、私は几帳の外まで歩み出てお迎えした


「わが君…」


と声を震わせ、涙を浮かべて喜びを示す


袖に顔を寄せ、泣きながら「お戻りくださり、どれほど嬉しいことでしょう」と告げると、君は私を抱き寄せ、深く息を吐かれた


文をしたためる折には、いつも同じ言葉を記す


「君がいなくて寂しくて、死にそうです」


その一行を繰り返す事が、君の心を揺らすことを知っているから


されど夜になると、私は静かに言葉を重ねる


「今宵は頭が痛みます」


「月事にて、穢れを恐れます」


「夢違えがあり、心乱れております」


そうして寝所を別にし、几帳の内に身を隠す


君は私の言葉を信じ、眉を寄せて「可哀想に…」と囁かれる

その声には憐れみと溺愛が満ちている

されど、決定的な一線は超えさせぬ


『夕顔様は…ご自身の香を焚いているのですね』


私は涙に沈む女ではない

いつの日か鳥のように羽ばたく時までは、この秘めた自由の願いを、香の煙に託して静かに待とう

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