葵葉の かさなり咲けど 君は見ず 寄り添う影に 風のみぞ吹く 3
八月も終わり頃
「まあ、なんと愛らしゅうございます」
「赤子を抱くと、心まで和らぎますね」
左大臣家で、侍女や女房たちの柔らかな声が響く中
私は葵上の腕に抱かれた幼子、夕霧をそっと見つめていた
栞作戦が上手くいったかはわからないけど、葵上も健在で、元気そうでよかった
この世界に転生する前、私はただの会社員で…
結婚もしていなかったし、子供を抱いたこともない
“可愛い”という感情も、”人の親”というものの実感も、正直よく分からない
それでも、夕霧を抱く葵上の、柔らかな微笑みを見ていると
その幸せが、静かにこちらへも伝わってくるようで…
私はただ、その光景を見守れることが嬉しかった
それから暫く経ったある秋の中頃、右近が小走りに近寄り、恭しく頭を下げた
「夕顔様、御息所様より文が届いております」
御息所からの手紙…
月に一度ほど香を焚きに伺ってはいるけれど、わざわざ手紙なんて寄越すとは、いったい何の用だろう
封を解き、右近に読んでもらう
「『明日、話があるゆえ、我が邸へ参れ』とのことにございます」
翌日
右近と共に牛車に揺られ、御息所邸を訪れた
侍女に案内され、ひと月ぶりの対面
「急に呼び立ててしまって、ごめんなさいね」
「いえ
御息所様、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか?」
「ええ、お陰さまで
ところで、夕顔には話しておかねばならぬことがあります」
「…なんでございましょう」
「娘が斎宮に選ばれ、近いうちに私も娘と共に、伊勢へ下ろうと考えております」
ああ…そうだった
原作で、御息所はこの頃に六条を離れるのだ
もう、そんな時期なのか
『っ…ケセラセラ!
ケセラセラっ!』
最初は、物の怪を避け、生き延びることに必死だった
『夕闇に咲く、夕顔の花です
病める時があれば、香袋の香りと花を思い出して頂きたく刺繍しました』
『私はあなたの恋敵などではなく、あなたの心を香で慰め、独りの夜に寄り添う花、夕顔でございます』
御息所と心を通わせようと、あれこれ策を巡らせたりもした
あの頃は色々必死だったけど、なんだか今は…寂しい…
「伊勢は都から遠うございますゆえ、夕顔も通うのは難しいでしょう
ですので…今日で最後の香を焚いていただきたいと思いまして」
最後…
それは…そうかもしれない
『昔、私は帝の寵愛を受けていました』
『でも、若い女たちが現れるたびに
私は”過去”になっていったのです』
『源氏様に惹かれたのも、今の私を見てくれたから
でも、彼もまた…若さに惹かれていく』
『私は、誰かに“今の私”を見てほしかっただけなのです』
けど…
私は迷わず口を開いた
「御息所様、伊勢は確かに五条から遠うございます
けれど、もしご迷惑でなければ…香をお贈りいたします
香袋も、必ず
どうか、御息所様のお香も、私に焚かせてくださいませ
遠く離れても、これが最後ではございません
私と御息所様は、香で通じております
いつまでも」
「夕顔…」
御息所は袖をそっと目元に寄せ、しばし言葉を失った
「夕顔…ありがとう
そなたはやはり、私の心を穏やかにする香を焚くだけでなく…
心そのものを癒してくれるのですね」
「畏れ多きお言葉にございます
ですが、御息所様のお傍には、いつでも私の香がございます」
御息所の邸に、静かに香が満ちていく
二人で立ちのぼる煙を眺めながら、時がゆるやかに流れていった




