葵葉の かさなり咲けど 君は見ず 寄り添う影に 風のみぞ吹く 1
加茂祭の斎院御禊のその日、加茂の川辺は、まだ朝の靄に包まれていた
一条大路は早朝から人と牛車で埋め尽くされている
これが源氏物語でもあった加茂祭か
現代でも続いているお祭りみたいだけど、夕顔になる前は見た事なかったんだ
道の両脇には絢爛な網代車が並び、御簾が風に揺れている
斎院の御禊を前に、白布をまとった人々が静かに列を整え、祭の始まりを待っている
川面には淡い光が揺れ、風は冷たくも澄んでいた
空は薄曇りで、祭の始まりを待つ静けさと緊張が、街路に満ちている
私は源氏に招かれ、香を焚いて場を静める役を担っていた
御禊の場の端に、牛車が静かに停められる
几帳の前に香炉を据え、火を入れると、淡い煙が立ちのぼり、御簾の隙間から外へと流れ出す
川風に揺られ、香は水辺へと漂い、祭の場全体へと広がり
斎院の御簾の内にも、周囲の牛車にも静かに届いていった
「心が澄むようだ…」
御簾の奥から、誰かの小さな声が漏れる
私はただ静かに香炉を見守り、煙が空へと昇るのを見つめた
ふと、道の端に停められた一台の網代車に目が留まる
簾の奥に見える気品ある姿は…六条の御息所
彼女は早くからこの場所に陣取り、斎院の行列を待っていたのだろう
私はそっと近づき、簾を上げて声を掛けた
「御息所様、今朝の風は少し冷たいですね」
彼女も簾を少し上げ、私の顔を見て微笑んだ
「夕顔…
あなたは、いつも風の流れを読むのね」
「香を焚く者の習いです」
その時だった
道の向こうから、絢爛な牛車の一行が近づいてくるのが見える
左大臣家の威光を背にした、葵上の牛車…
飾りも人の数も華やかで、道の空気が一変した
御息所の網代車の位置は、まさに葵上の一行が狙っている場所
このままでは、あの有名な「車争い」が再び起こってしまうかもしれない
そうすれば、葵上は御息所と対立し、御息所の物の怪によって葵上は命を落とす…
けど、そんなの見過ごせないし、御息所だって…本当は望んでいないはずなんだ
私は御息所にそっと言う
「あちらの柳の近くの方が、日も差して温かそうですよ
御息所様にお勧めでございます」
「柳の近く…そうかしら…」
「はい
斎院の行列もよく見えますし、人も少なく静かにご覧になれます
心安らげる場所かと」
「心安らげる…」
御息所は一瞬、簾の向こうから葵上の牛車を見やったが、私の言葉にふっと目を細め、微笑んだ
「ならばそうしましょう
夕顔は私の心を癒す香を焚けますから」
御息所は侍女に合図を送り、網代車を動かすよう指示すると、静かに柳の場所へと向かって行く
簾の奥で、彼女が静かに目を閉じるのが見えた
危ない危ない…
冷や汗をかきながら、私もその場を去ろうとすると、葵上の牛車が私の方へと近寄ってきた
簾が少し上がり、鋭い眼差しが私を射抜く
「そなた…夕顔の君と申すものか?」
唐突に発せられたその言葉に動揺するけれど、私は一礼して静かに答えた
「宮廷にて、時折香を焚いております者にございます」
その言葉に、彼女の瞳が揺れた
「やはり…
ここ最近、宮廷に漂う不思議な香り
心が静まるような…そなたの焚いたものだったのだな」
私は微笑み、言葉を返すことなく頷いた
すると彼女は少し顔を伏せて言った
「あの香をもう一度、私の前で焚いてくれぬか?
心が落ち着くような、あの香を…」
その願いは、まるで夜露のように静かで切実だった
「私のような者が畏れ多い事では御座いますが
御頼みとあれば…」
葵上は小さく頷いた
あの香がどの香かわからないけど、心が鎮まる、落ち着くと言っているから…
白檀に龍脳、そして沈香を加えて香を焚く
淡い煙が立ちのぼり、やがて御簾の内へと流れていった
葵上は目を閉じ、深く息を吸ったよう
その肩の緊張が、少しずつほどけていくのが見える
「うむ…この香だ…」
彼女の声は先ほどの鋭さを失い、柔らかさを帯びていた
私はただ静かに頷き、香の煙を見守る




