香に託す 声なき祈り 空に舞い 蹄の音に 風は応えぬ 2
その瞬間――
蹄の音が夜を裂いた
邸の外から、駆ける足音
几帳の前に身を乗り出した中将が、怪訝そうに振り返る
「何だ…?」
次の刹那、戸が開かれ、几帳の前に進み出る男
「夕顔の君!」
「暁…様…」
衣の裾が舞い、灯火に照らされるその姿は、まるで夜を裂く一陣の風
「これは…
今宵は、夕顔の君と静かに盃を交わしておりまして…
何ゆえ、急ぎの御訪問にて?」
中将は穏やかな微笑みを暁に向けていた
暁は一歩、静かに進み出る
「右近より文を受け取り、参上仕った次第
夕顔の君が、鬱金の香を焚かれたと聞き及び…
これは、ただならぬ御心の訴えと見受ける」
中将は一瞬、言葉を失ったようだった
そして、笑みを浮かべて言った
「いやはや、香のことまで…
夕顔の君は、まことに風雅にて」
暁は中将の言葉を無視するように、静かに続けた
「今宵は、夕顔の君の御身を案じ、しばし御休息を願いたく
中将殿も、どうか御身をお労りくだされ」
中将は驚いたような表情を見せた後、苦笑をする
「ほう…
若き君の御前にて、昔の契りも霞むようだ」
立ち上がり、衣の裾を整えながら、皮肉めいた言葉を残す
「夕顔の君も、風のように移ろうものよな
…では、今宵はこれにて」
小さくなってゆく中将の背中を見つめて、やっと緊張の糸が解けると、ガクッと身体から力が抜けて項垂れた
「夕顔の君…!」
几帳の前に一歩踏み出した暁だったが、それ以上は近付いては来なかった
視線を逸らし、目を伏せる
怖かった…
「夕顔の君」
暁の声が柔らかく響く
燈火に照らされたその姿は、先ほどまでの鋭さを失い、ただ穏やかな光を宿していた
「ご心労、いかばかりであったか…
香の合図、確かに受け取りました」
香の合図…
戸口の影で、こちらを見守るようにして見ている右近から、暁に視線を移し、几帳の隙間から見つめ、震える声で応じる
「…おいでくださり、まことに…救われました」
暁は静かに頷き、几帳の前に膝をついた
「君を守るためならば、いかなる夜道も駆けて参る」
几帳の隙間から見える、その真剣な眼差しと言葉に目を伏せるも、再び相手を見る
「あの…」
「はい」
「何故、あなたはここまで私を…」
言葉が喉で絡まり、続けられない
物語改編で生まれたはずの人物が、なぜここまで私を…
「いえ、なんでも…」
視線を逸らした私に、暁は几帳の前で言葉を継いだ
「理由など、要りませぬ
ただ、そなたを守りたいと思う心があるのみ」
暁は微笑んで私を見ているよう
その言葉に、私は再び目を伏せた
言葉にできない思いが、喉の奥で絡まる
なんの…守りたいなのだろう…
けれど、今は暁の存在が安らげる
几帳を挟んで聞こえる、穏やかで静かな声
「夕顔の君
私はそなたの、明けに光る星
ご安心なされ」
明けに光る…星…
それは…
気付くと時は流れ、夜の深さが薄らいでいた
東の空に淡い光が差し始める
鳥の声が遠くで響き、夜は終わりを告げる
「夕顔の君」
暁の声が柔らかく届く
「夜は明けました
どうか、今日の空を安らかな心でご覧ください」
几帳の奥で目を開け、空を見る
暁の名の通り、彼は夜を裂き、光をもたらす人なのかもしれない




