夕顔の 花のゆめより 目覚めれば 几帳のかげに 香のたちのぼる 3
牛車に乗って、源氏の隣に座る
言葉は交わさない
源氏は扇を開き、目を細めた
「言葉なき同行…それもまた、風雅」
源氏の案内で、五条から離れた静かな廃院へと移動する
廃院は草木が生い茂り、退廃的でうらぶれた雰囲気
「ここは…少しもの哀しい気分になる場所ですね」
侍女たちは不安そうな面持ちで香の道具を整えていた
私は香の匂いを静かに確かめる
その香は夕顔の花に似たものではない
だって私は夕顔ではない
この物語を終わらせに来たんだ
原作では、ここで“物の怪”に襲われて夕顔が死ぬ
物の怪
平安の人々がそう呼んだ、怨念のような存在
強い執着や嫉妬が形を持ち、人を蝕む
それが、六条御息所の生霊として夕顔を襲うのを、私は知っている
白檀に龍脳、そして沈香を加えた、”祓いの香”
これで…準備は整った
夜が深まり、風が止み
重たい空気が漂っている気がする
侍女の一人が震えたような声で言った
「なんだか先ほどから気分がすごく滅入ります…
何かが迫りくるような…そんな気配を感じるのです」
ついに…
私は香を焚く
祓いの香
それは魂を鎮める香り
お線香
「夕顔様…この香りは…?」
香を焚きながら侍女に言う
「この香は心を静める効果があるから落ち着くはず」
多分…
「なんと…
有難きお心遣い」
でも、お線香っぽい匂いを調合したんだから、物の怪には効果があるはず
ううん、あって欲しい
とは思うけど、侍女たちは益々怯えたような様子で、源氏は何かを感じているような雰囲気
重苦しい緊張状態が続く
正直…、私は何も見えない
物の怪どんな感じなのかもわからないし、何かが迫りくるような気配も感じない
唯一は、ただただの恐怖、それだけ
その恐怖が、脳内で警鐘を鳴らす
原作では、ここで夕顔は死ぬ
絶対に死ぬ
だから何とかしなきゃ
なんとかするのよ!
私は懐から、香以外に準備していたものを取り出す
よし…これで…
「っ…ケセラセラ!
ケセラセラっ!」
枝に布を巻いた即席の御幣を、思いっきり上下に振って呪文を唱える
塩を撒いて、「悪霊退散」と書いた布をばら撒き、大学のサークルで滝行体験をした時に教えて貰った印を結び、ポーズを決める!
そんな動作を繰り返す私の様子を、侍女たちはポカンとしたような表情で、源氏は目を細めて見ていた
「それは…まじないですか?」
「祈祷?いや、何か違う…」
まじないでも祈祷でもなんでもいいよ!
源氏が訪ねて来てから、地味にお祓いグッズ作ったんだから…
どれでもいいからどれか効いてくれなきゃ困る!
私は生きる!
生き延びるっ!
また死にたくない!
六条の生霊なんかに負けるもんかーっ!
「ケセラセラー!ケセラセラー!」
鳥が鳴き、風が動き、香の煙が静かに揺れる
源氏が立ち上がると言った
「夜が明けました
この院は、やはり人の住む場所ではない」
あ、朝…
い…生きてる
死ななかった
つまり、回避できたってこと…だよね?
よ、よかった…本当によかった…
疲れてその場にへたり込む
源氏は牛車に乗り、静かに去っていった
侍女たちは安堵したように、私を見つめている
何も見えなかった
何も感じなかった
でも、私は生き延びたんだ
生い茂る木々の隙間から見える、白み始めた空を見上げた




